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竹取物語(かぐや姫伝説)

仮名によって書かれた最初期の物語の一つでもある「竹取物語」は、「竹取翁の物語」とも「かぐや姫の物語」とも呼ばれた日本最古の物語で、成立年、作者ともに不詳である。

あくまでも私説であるが、我輩は竹取物語について、三貴神(ウズノミコ)の一神で、太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)に対する妹の月神・月読姫(つくよみひめ)との関わりを念頭に解釈したい。

竹取物語を簡単に言ってしまうと、竹は神の依代(よりしろ)であると同時に呪力を持つと考えられていた為、仏教説話を題材に小説化した芥川龍之介の「蜘蛛の糸と同じ位置ではないか」と考えられる。

月神・月読姫(つくよみひめ)の祖は、大陸より来たりて朝鮮半島の任那(みまな)を経て壱岐島に渡り、「日向に国を興す」とされて、最初の月読神社は壱岐島に存在する。

つまり月読姫(つくよみひめ)は、中華大陸・朝鮮半島を経由して日本列島に伝わった当時の太陰暦(月の周期を基準とした暦)の神である。

月の姫を主人公にした物語(竹取物語)の元は、口承(こうしょう)説話として伝えられたもので、原説話が存在し類話として「日本とアバ・チベット族に伝播した」とされている。

アバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘(中文・パヌチウ・クーニャン)」と言う物語が在り、竹の中から生まれた少女が領主の息子達から求婚を受けるも難題をつけて退け、「かねてより想いを寄せていた男性と結ばれる」と言う話である。

中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが日本の民間伝承「竹取物語」と非常に酷似している。

竹取物語の凡その形は平安時代に構成されたものであるが、渡来した「月の姫説話」の存在が神話の主人公・月読姫(つくよみひめ)を指すもので、つまり渡来指導者が自らを神格化するに利用した伝承を題材に、「平安期の文筆家が物語化したのではないか」と推測している。

ただ、「竹取物語」を記したその平安期の文筆家については「今の所まったく不明だ」とされている。

「竹取物語」に「天の羽衣」が登場し、かぐや姫が「羽衣を着てしまうと、人の心が消えてしまう」と語り、人間を何がしか別種の存在へと変化させるのが「天の羽衣」の力である事を示唆する場面がある。

そして皇室にも、一代一度限りの大祭である天皇の即位後に行う践祚(せんそ)の儀式・大嘗祭(だいじょうさい)で、沐浴時に「天の羽衣」を着る儀礼習慣がある。

つまり天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である天孫・ニニギの命(みこと)が、葦原中国(アシハラナカツクニ・天界に対する地上の国)の平定を受けて天界(てんかい)と葦原中国(地上の国)を結ぶ力を、儀礼的位置付けとして天皇が持つ事を示している。

これらの朝廷神事は、平安期に古事記日本書記の記述を基として構成された様式であり、竹取物語(かぐや姫伝説)も天孫降臨伝説の一翼を担って列島内に伝播された物語かも知れない。

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by mmcjiyodan | 2011-07-26 13:22 | Comments(0)  

安倍川と富士山の由来 〔二〕

安倍川と富士山の由来 〔一〕に戻る。

ここから先は完全に仮説だが、可能性があるので記述して置く。

大和朝廷に於ける貴族・土御門安倍氏が、恭順した蛮族(あくまでも朝廷側の言い分・エミシ族)の指導者であり、珠流河国造の少し前、シャーマン的指導力を持つエミシ族の長「火(アピェ・ape)」が、駿河国安倍郡辺りに「勢力を有していたのではないか」と考えないと、安倍を冠する地名が、静岡県の中部に存在した理由は思い当たらないのである。

安倍川が極古い時代の「蝦夷(えみし)族と渡来氏族の勢力境界線であった」とすれば、富士山の名の由来も理解出来る。

前述したが、アイヌ語で「フジ(huji)」は 「噴出する所」と言う意味である。

良く、富士山の事を「不死の山」と充てて信仰の対象にしているが、富士の語源がアイヌ語の「フジ(huji)」であれば、活火山として「噴出する所」・・即ち富士の山ではないだろうか?

アイヌ語の単純な火は「火(アピapi)」であるが、アイヌ語の「火の神」の火は「火(アピapi)」を使わず「火(フチfuti)」である。

火の神 (カムイフチkamuifuti)の火(フチfuti)が「火山=火の神」の言語生成図式ならば、「噴出する所(フチfuti)=火の神の火(フチfuti)」が成り立つのである。

渡来氏族の「あれを何んと呼ぶ?」と言う問い掛けへの蝦夷(えみし)族の答えが、「フジ(huji・噴出する所)」であった可能性は極めて高くなり、アピェ(ape・火の意)のカムイ(kamuy・神)が、フジ(huji・噴出する所)・・・「活火山富士山」と解する事ができるのである。 

そして、恭順合流した先住蝦夷(エミシ)の族長一派が「火(アピェ・ape)」を名乗るからこそ、後の俘囚長、東北の「安倍氏」が存在するのではないのだろうか?

この辺りの経緯については、政治的配慮からか、七百十二年編纂の古事記や七百二十年編纂の日本書紀にはまったく記述はない。

このフジ=噴出する所を真剣に受け止める気が無い者は、ヌシロ(能代)やアギタ(秋田)などの本州アイヌ語地名に関しても同様で、疑問視してしまう。

例えば伊豆半島・土肥(どい/とい)の旧発音表記は「どひ」で、土匪(どひ)や奴婢(どひ/ぬひ)にも通じる。

勿論ではあるが、何しろ先住民を「土蜘蛛」と呼んだ征服氏族(渡来民族)の事で、土匪(どひ)や奴婢(どひ)は支配階級を得た征服氏族(渡来民族)が野蛮と決め付けて、先住縄文人(蝦夷族/アイヌ族)に対して勝手に文字を当て嵌めたものである。

実は、伊豆半島各地の地名には縄文人(蝦夷族)の言葉に符合するものが多であり、伊豆半島に「縄文人(蝦夷族/アイヌ族)が住んでいた」と言う推測が成り立つ。

アイヌ語で「トピ=素晴らしい土地」と言う言葉があり、土肥の先住民が縄文人(蝦夷族/アイヌ族)であれば、肥沃な土地を「トピ」と称し「トピ」と言う言葉が転じて「土肥(とひ)」に成った」と言う説に符合する。

つまり縄文人(蝦夷族/アイヌ族)の存在を否定して掛かる者は、天武大王(てんむおおきみ/第四十代)から桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)に掛けて征服氏族の列島渡来と先住縄文人(蝦夷族/アイヌ族)の迫害の歴史を日本史から消し去る意図を持って編纂された古事記日本書紀の捏造歴史観しか持ち合わせて居ない事になる。

安倍川と富士山の由来 〔一〕】に戻る。
富士山は何故日本一高い】に続く。

詳しくは【日本語のルーツと安倍氏】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2011-07-23 15:47 | Comments(0)  

征夷大将軍と幕府

征夷大将軍は朝廷の令外官の一つで、桓武天皇(第五十代)がまだ祭らわなかった奥州の東北蝦夷(とうほくエミシ)の平定を目論んで任命した征夷大将軍の前身である征夷将軍・巨勢麻呂(こせのまろ)や征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)などの役職が存在した。

所が、征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)の軍は、ヒタカミ(日高見国)蝦夷の役アテルイ(阿弖流為)の軍に大敗してしまう。

征東大将軍・紀古佐美(きのこさみ)の敗戦後、天皇の考えを「逐一聞かなくても良い」と言う軍人全ての世俗的な最高司令官としての力が備わった職権を有する征夷大将軍が制定され、初代征夷大将軍・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、二代征夷大将軍に坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を任じた事に始まっている。

九百四十年(天慶三年)に藤原忠文(ふじわらのただぶみ)が平将門を追討する為に右衛門督・征東大将軍任じられ、千百八十四年(元暦元年)に源義仲(木曽義仲)が、征東(大)将軍に任じられているが、いずれも蝦夷征討を目的としたものではない。

また、千八十三年(永保三年)の後三年の役(ごさんねんのえき)の折に、源義家(八幡太郎義家)が奥州鎮守府将軍として東北の兵乱を平定しながら朝廷から評価されず止む負えず部下に自費で恩賞を配った事から、「武家の棟梁には源氏」と言う風潮が出来て後の征夷大将軍には源氏の血流が必要となって行き、鎌倉・室町・江戸と一応源氏の血流と言う事に成って居る。

その後、征夷大将軍は征夷(蝦夷征伐/エミシ征伐)と言う目的から離れて天皇が任命する軍の最高司令官の役職名と成り、天皇によって任命される事から天皇の持つ神聖さも持ち合わせる事ができると解され、鎌倉中期から江戸幕末まで、約六百七十五年間に渡って軍人である侍が行政全てを行っていた事から、国王に近い権力を持つ事ができた。

千百八十五年(千百九十二年/建久三年説あり)に源頼朝が征夷大将軍の位を得て源・鎌倉幕府を開いて後、但し三代将軍・以降は北条得宗家による専制政治の約百五十年間の鎌倉期がある。

その鎌倉幕府を倒した後醍醐帝建武政権から離反した足利尊氏が千三百三十六年(建武三年)に成立させた室町幕府十五代・約二百四十年間が室町期となる。

足利・室町幕府が衰退して統治能力が無く成り、戦国期から安土桃山期を経て
徳川家康が千六百三年(慶長八年)に征夷大将軍に任官し創設した武家政権の徳川・江戸幕府十五代・約二百六十年間と、征夷大将軍を長とする武家政権が続いた。

征夷大将軍による武家政権の終焉は、千八百六十七年(慶応三年)、江戸幕府最後の将軍と成る徳川慶喜(とくがわよしのぶ)による大政奉還で江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職も廃止された。

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by mmcjiyodan | 2011-07-22 17:39 | Comments(0)  

岩崎弥太郎(いわさきやたろう)〔一〕

三菱財閥の創業者で初代総帥の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、土佐屋善兵衛とも称する明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。

その岩崎弥太郎(いわさきやたろう)は、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎弥次郎(やじろう)と美和の長男として生まれた。

地下浪人とは郷士の株を売ってしまって浪人をしている者の事で、ちょうど坂本龍馬(さかもとりょうま)の実家・「才谷屋」が土佐の豪商に繁栄して郷士の株を買って下士に名を連ねたのとは反対に没落した訳で、下士の身分にも成らない中途半端な立場である。

岩崎家は、弥太郎の曽祖父・弥次右衛門の代に「郷士の株を売った」と言われている。

弥太郎(やたろう)は幼い頃から文才を発揮し、十四歳頃には当時の藩主・山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められたと伝えられている。

弥太郎(やたろう)二十一歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、千八百五十五年(安政二年)、父親が酒席での喧嘩により獄に繋がれた事を知り、急遽土佐に帰国する。

父の冤罪を訴えた事により弥太郎(やたろう)も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだ事が、後に商業に手を染める機縁とされる。

出獄後、弥太郎(やたろう)は村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋(よしだとうよう)が開いていた少林塾に入塾し、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らの知遇を得る。

その後、運良く師である吉田東洋が参政となって土佐藩山内家の政治を指揮するようになると、弥太郎(やたろう)はこれに仕える。

この頃、弥太郎(やたろう)は二十七歳で長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女・喜勢を娶(めと)って居る。

土佐藩参政・吉田東洋(よしだとうよう)に仕え土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎(やたろう)は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。

しかし、必要な届出に不備があった事を咎められ「弥太郎(やたろう)は帰国した」とされるが、一説には尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから「任務を放棄し、無断帰国した」とも言われて居る。

この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されており、弥太郎(やたろう)は九死に一生を得ている。

弥太郎(やたろう)は藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩した事から半年後に帰国させられ、帰国後長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。

千八百六十七年(慶応三年)、吉田東洋・少林塾で同門だった後藤象二郎(ごとうしょうじろう)に、弥太郎(やたろう)は藩の商務組織(藩営)・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され藩の貿易に従事する。

同年、坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。

記録上確認出来る弥太郎(やたろう)と龍馬の最初の接点はこの時で、弥太郎(やたろう)と龍馬は不仲で在ったとも伝えられるが、弥太郎(やたろう)は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。

翌千八百六十八年(明治元年)に長崎の土佐商会(藩営)が閉鎖されると、弥太郎(やたろう)は開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。

千八百六十九年(明治二年)、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎(やたろう)は海運業に従事し、この頃に土佐屋善兵衛を称している。

岩崎弥太郎(いわさきやたろう)〔二〕へ続く

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by mmcjiyodan | 2011-07-11 17:06 | Comments(0)  

岩崎弥太郎(いわさきやたろう)〔二〕

岩崎弥太郎(いわさきやたろう)〔一〕へ戻る

その後の岩崎弥太郎(いわさきやたろう)であるが、四年後の千八百七十三年(明治六年)、廃藩置県後に後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船二隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、この三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。

この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作った事はつとに有名で、三菱商会では海援隊や士族出身の社員に対しても、出自に関係なく徹底して商人としての教育を施した。

結果的に坂本龍馬(さかもとりょうま)の「世界との交易」の夢はこの岩崎弥太郎(いわさきやたろう)に引き継がれ、その交易力の国家的必要性から、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)がかなり強引な政治力を行使した。

最初に弥太郎(やたろう)が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時の事である。

新政府が通貨統一の為、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げる事を事前にキャッチした弥太郎は十万両の資金を都合してその藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。

この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎(ごとうしょうじろう)であり、この行為は今で言うインサイダー取引であり、弥太郎は最初から政商として暗躍した。

弥太郎(やたろう)の三菱商会は、千八百七十四年(明治七年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得、千八百七十七年(明治十年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。

政府の仕事を受注する事で大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」と言う表現を良く使ったが、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。

農商務卿・西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎(やたろう)は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払っても良いが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。

千八百七十八年(明治十一年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、千八百八十一年(明治十四年)には政変で大隈重信が失脚し、弥太郎(やたろう)が強力な後援者を失うと、大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強める。

千八百八十二年(明治十五年)には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。

三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは二年間も続き、運賃が競争開始以前の「十分の一にまで引き下げられる」と言う凄まじさだった。

また、パシフィック・メイル社やP&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(三菱銀行に発展した事業)を考案し弥太郎(やたろう)は勝利した。

千八百八十五年(明治十八年)、こうしたライバルとの競争の最中、弥太郎(やたろう)は五十一歳で病死した。

弥太郎(やたろう)の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となり、この経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。

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by mmcjiyodan | 2011-07-11 17:05 | Comments(0)  

桃太郎の鬼退治伝説

鬼退治で有名な桃太郎の話ができたのは室町時代以前で、一説によると鎌倉時代まで遡(さかのぼ)ると言われているが、平安期までは遡(さかのぼ)らない。

つまり何かを題材に、後から物語りは創造されたものである。

主人公のモデルとしては、古事記にも登場する神話上の人物・吉備津彦命(きびつひこのみこと)が居る。

但しその桃太郎伝説の大基になるのは中華大陸に於ける桃園伝説に端を発し、日本の出来事と想われる物語がミックスしたものである。

すると、桃太郎は劉備玄徳と言う事に成る。

所が、他国でも同じ事だがこうした伝説は自国独自の物と想いたいから日本人は桃太郎=劉備玄徳は想いたくもない事である。

三国志に於ける桃園は、劉備・関羽・張飛の三人が、宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする「宣言を行った」と言う逸話がある。

それと天才軍師・諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の場合は、劉備玄徳が「三顧の礼」を持って「陣営に迎えた」とされていて、この事から派生して猿・雉(きじ)・犬は、諸葛亮・関羽・張飛はある。

正直、これを読まれている貴方は、或いは旦那様は、桃太郎の役が似合いなのか、猿・雉(きじ)・犬の内の一人なのか、自身の評価は難しいかも知れない。

ただ、桃太郎に成りたいのであれば、挑戦意慾が必要最小限の資質である、

日本全国に桃太郎の話の舞台となっている所はある。

そうした中で、吉備地域(岡山県総社市を中心とする地域)と尾張・美濃地域(愛知県犬山市を中心として岐阜県可児市を含む)は特に有名である。

岡山県の「桃太郎・温羅(うら)伝説」などは、百済の王子と称する温羅(うら)と言う鬼が住んでおり、鬼ノ城を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていたものを、四道将軍(よつのみちのいくさのきみ)の一人・吉備津彦命(きびつひこのみこと)が「温羅(うら)を討った」とされる言わば大和朝廷の西日本統一過程を伝えている。

詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

桃太郎伝説の誤解と真実】に戻る。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

因幡(いなば)の白兎(うさぎ)伝説と大国主の命(おおくにぬしのみこと)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-07-10 17:26 | Comments(0)  

皇女和宮と公武合体

江戸・徳川幕府は尊王攘夷運動の沈静化と朝幕関係を修復を図って十四代将軍・家茂孝明天皇の兄妹の宮を迎えて公武合体(公家と武士の協調体制)を進めようと画策する。

朝廷側も、孝明天皇の攘夷論を幕府と一体化する思惑も在り、大老・井伊直弼桜田門外で暗殺されたのを期に公武合体に応じる姿勢を見せる。

花嫁候補には孝明天皇の娘・富貴宮が検討されたが、その時点で将軍・家茂は十三歳、富貴宮は僅か生後六ヶ月と現実的では無かった。

そこで僅か半月(二週間)ほど姉さん女房になる孝明天皇の異母妹・和宮内親王(かずのみやないしんのう/仁孝天皇の第八皇女)が適当とされ、降嫁の話が進んでいる。

ただしこの和宮内親王(かずのみやないしんのう)、既に孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約をしていた。

しかし候補の一人富貴宮は薨去してしまい、幕府は他に候補が居ないまま益々和宮内親王(かずのみやないしんのう)の降嫁を奏請する。

思案に窮した孝明天皇は、侍従・岩倉具視に意見を求め、岩倉は「幕府に通商条約の引き戻し(破約攘夷)を確約させ、幕府がこれを承知したら、御国の為と和宮を説得し、納得させた上で降嫁を勅許するべき」と回答する。

孝明天皇は「攘夷を実行し鎖国の体制に戻すならば、和宮の降嫁を認める旨」の勅書を出し、幕府が「十ヵ年以内の鎖国体制への復帰」を奉答した事で天皇は和宮の降嫁を決断した。

和宮はこれを拒むが、孝明天皇の説得を受けて明春の下向を承諾している。

皇女・和宮降嫁以後、守旧派のトップは北朝系「孝明天皇」と徳川第十四代将軍・家茂(いえもち)で、二人の思想は、「公武合体、鎖国攘夷」である。

二人は和宮(孝明天皇の妹、家茂の妻)を通じて義兄弟で、旧体制の維持を謀っていた。

その二人が、相次いで亡くなった。
その死が不自然で、今日でも根強く「暗殺説」が囁かれている。

江戸城大奥で和宮を待っていたのは、武家のしきたりと前将軍・家定(十三代)の正室・天璋院篤姫だった。

薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らす事を選んだ。

皇女・和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いも在ってか当初不仲だったが、後には和解したと言われ、十五代将軍・慶喜(よしのぶ)の大奥改革に対しては、家茂の死後落飾して「静寛院宮(せいかんいんのみや)」と名乗っていた和宮は篤姫と共に徹底的に反対している。

和宮降嫁に関しては「和宮替え玉説」があり、永年患っている足の関節炎に関しては増上寺の発掘調査で「両膝は健全」と合致せず、逆に茶の湯・お琴をたしなむ和宮の手は両手有る筈で、発掘した和宮に「左手首が無い」などの整合性に欠ける事実が浮上して小説に取り上げられる素材となった。

もし、皇女・和宮降嫁に岩倉卿が絡んでいた事で和宮が替え玉であれば、後の明治帝入れ替わり説の朝廷側首謀者の一人と目される岩倉卿が、「どうせ帝も替え玉になる」と腹を括(くく)って送り出したのかも知れない。

田布施町(たぶせちょう)】へ続く。
明治天皇(めいじてんのう)・睦仁(むつひと)】へ続く。

詳しくは、小説【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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隠された明治維新については第五巻の明治維新の項目の主要テーマです。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れませんので、詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第五巻をお読み下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-07-10 00:58 | Comments(0)  

島津義久(しまずよしひさ)〔一〕

島津義久(しまづよしひさ)は、実父・第十五代当主・島津貴久(しまづたかひさ)から薩摩の守護大名から戦国大名・島津氏の家督を継いだ戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩・島津氏の第十六代当主である。

千五百五十四年(天文二十三年)、義久(よしひさ)は島津氏と蒲生(がもう)氏、祁答院(けどういん)氏、入来院(いりきいん)氏、菱刈(ひしかり)氏などの薩摩・大隅の国衆の間で起きた岩剣城攻めで初陣を果たす。

以後、国衆との戦いに従事しており、千五百五十七年(弘治三年)には蒲生氏が降伏し、その九年後の千五百六十六年(永禄九年)、薩摩統一の途上に義久は父の隠居により家督を相続し、島津家第十六代当主となっている。

島津氏の家督を継いだ島津義久(しまづよしひさ)は、国衆(国人衆)が割拠する薩摩・大隅・日向の三州を制圧、九州北上をする。

千五百六十九年(永禄十二年)に大口から相良氏と菱刈氏を駆逐すると、翌千五百七十年(元亀元年)には東郷氏、祁答院氏が降伏、ようやく薩摩統一がなった。

千五百七十二年(元亀三年)五月になると、以前から日向真幸院の帰属を巡って関係が悪化していた日向国の伊東義祐(いとうよしすけ)が重臣の伊東祐安(いとうすけすけやす)に三千人の軍勢を与えて島津方への侵攻を開始し、飯野城にいた義久の弟・島津義弘がこれを迎え撃った。

この木崎原の戦いで島津軍は、敵将・伊東祐安を筆頭に兵五百人以上を討ち取る圧勝を挙げ、これと同時に、並行して大隅の統一も展開しており、千五百七十三年(天正元年)に禰寝(ねず)氏を、翌年には肝付(きもつきし)氏と伊地知氏を帰順させて大隅の統一も果たしている。

最後に残った日向に関しては、千五百七十六年(天正四年)伊東氏の高原城を攻略、それを切っ掛けに「惣四十八城」を誇った伊東方の支城主は次々と離反し、伊東氏は衰退の一途を辿る。

こうして伊東義祐は豊後国の大友宗麟(おおともそうりん)を頼って亡命し、三州統一と言う島津氏の悲願が達成された。


伊東義祐(いとうよしすけ)が亡命した事により豊後・大友宗麟が千五百七十八年(天正六年)秋、大軍を率いて日向に侵攻して来る。

侵攻して来た宗麟は務志賀(延岡市無鹿/無鹿は宗麟の名付け)に止まると、田原紹忍が総大将に任命され、田北鎮周・佐伯宗天ら四万三千を率いて、戦いの指揮を取る事になる。

この大友軍侵攻時、島津軍は家老・山田有信を高城に、後方の佐土原に末弟・島津家久を置いていたが、大友軍が日向に侵攻すると家久らも高城に入城し、城兵は三千余人となった。

大友軍は高城を囲み、両軍による一進一退の攻防が続いたが、翌月には義久が二万余人の軍勢を率いて出陣し佐土原に着陣する。

島津軍は大友軍に奇襲をかけて成功し、高城川を挟んで大友軍の対岸の根城坂に着陣した。

大友軍は、当主・宗麟が居ない事もあり、団結力に欠け、大友軍の田北鎮周が無断で島津軍を攻撃し、これに佐伯宗天が続いた。

無秩序に攻めて来る大友軍を相手に義久は「釣り野伏せ」という戦法を使い、川を越えて追撃してきた大友軍に伏兵を次々と出し、大友軍を壊滅させる。

この通称「耳川の戦い」とも「高城川の戦い」とも呼ばれる戦いで、島津方は田北鎮周や佐伯宗天を始め、吉弘鎮信や斎藤鎮実、軍師の角隈石宗など主だった武将を初め二千から三千の首級を挙げた。

また千五百八十一年(天正九年)には肥後国・球磨の相良氏が島津氏に降伏、これを帰順させている。

「耳川の戦い(高城川の戦い)」で大友氏が衰退すると、肥前国の龍造寺隆信が台頭して来る。

龍造寺隆信の圧迫に耐えかねた有馬晴信が八代にいた義弘・家久に援軍を要請して来た為、それに応えた島津軍は千五百八十二年(天正十年)、龍造寺方の千々石城を攻め落とした。

翌年に成ると、有馬氏の親戚である安徳城主・安徳純俊が龍造寺氏に背き、島津軍は八代に待機していた新納忠堯・川上忠堅ら千余人が援軍として安徳城に入り、深江城を攻撃した。

千五百八十四年(天正十二年)、義久は家久を総大将として島原に派遣し、自らは肥後の水俣まで出陣する。

家久は島原湾を渡海し、安徳城に入った。

有馬勢と合わせてその数五千余りで、龍造寺軍二万五千(六万説あるも??)と言う圧倒的兵力に立ち向かう。

家久は沖田畷と呼ばれる湿地帯にて、龍造寺隆信を初め一門・重臣など三千余人を討ち取り、見事に勝利し、ほどなくして龍造寺氏は島津氏の軍門に降る事となる。

龍造寺氏が島津氏の軍門に降り、肥後国の隈部親永・親泰父子、筑前国の秋月種実、筑後国の筑紫広門らが、次々と島津氏に服属や和睦して行った。

この千五百八十四年(天正十二年)、中央では豊臣秀吉徳川家康が対峙した小牧・長久手(長湫)の戦い(こまき・ながくてのたたかい)が起こった年で、豊臣政権が確立し始める頃である。

島津義久(しまずよしひさ)〔二〕に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-07-07 17:31 | Comments(0)  

島津義久(しまずよしひさ)〔二〕

島津義久(しまずよしひさ)〔一〕に戻る。

千五百八十五年(天正十三年)、義久の弟・島津義弘を総大将とした島津軍が肥後国の阿蘇惟光(あそこれみつ)を下した。

これにより九州で残す所は大友氏の所領、筑前・豊後のみとなるも、この危機に大友宗麟豊臣秀吉に助けを求め、義久の元に秀吉からこれ以上九州での戦争を禁じる書状が届けられる。

秀吉の戦禁令の書状に島津家中でも論議を重ねたが、義久はこれを無視して大友氏の所領の筑前国の攻撃を命じ、翌千五百八十六年(天正十四年)筑前の西半を制圧し、残るは高橋紹運の守る岩屋城、立花宗茂の守る立花城、高橋統増の守る宝満山城のみであった。

その年の夏、島津忠長・伊集院忠棟を大将とした二万余人が岩屋城を落すも、この戦いで島津方は上井覚兼が負傷、死者数千の損害を出す大誤算となった。

直後に宝満山城も陥落させたが、立花城は諦め豊後侵攻へ方針を転換する。

島津軍は撤退する際、立花宗茂の追撃を受け高鳥居城、岩屋城、宝満山城を奪還されている。

島津義久は肥後側から義弘を大将にした三万七百余人、日向側から家久を大将にした一万余人に豊後攻略を命じる。

しかし、義弘は志賀親次が守る岡城を初めとした直入郡の諸城の攻略に手間取った為、大友氏の本拠地を攻めるのは家久だけになっていた。

家久は利光宗魚の守る鶴賀城を攻め、大伴氏重臣・利光宗魚(としみつそうぎょ)が戦死するも抵抗は続いた為、義久は大友軍の援軍として仙石秀久を軍監とした。

長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)・信親(のぶちか)、十河存保(そごうまさやす / ながやす)ら総勢六千余人の豊臣連合軍の先発隊が九州に上陸する。

家久はこれを迎え撃つ形で戸次川を挟んでと対陣し、合戦は敵味方四千余りが討死した乱戦で在ったが、家久は「釣り野伏せ」戦法を用い豊臣連合軍を圧倒した。

長宗我部信親、十河存保が討死し、豊臣連合軍が総崩れとなり大勝した。

この戦いの後、鶴賀城は家久に降伏し、大友義統は戦わずに北走して豊前との国境に近い高崎山城まで逃げたため、家久は鏡城や小岳城を落として北上し、府内城を落とし、家久は終(つ)に大友宗麟の守る臼杵城を包囲する。

千五百八十七年(天正十五年)に成って、秀吉の九州征伐が始まる。

豊臣軍の先鋒・豊臣秀長率いる毛利・小早川宇喜多軍など総勢十余人が豊前国に到着し、日向経由で進軍した為、豊臣軍の上陸を知った豊後の義弘・家久らは退陣を余儀なくされ、大友軍に追撃されながら退却した。

豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後の諸大名や国人衆は一部を除いて、次々と豊臣方に下って行く。

秀長軍は山田有信ら千五百余人が籠る高城を囲み、また秀長は高城川を隔てた根白坂に陣を構え、後詰して来る島津軍に備えた。

島津軍は後詰として、義弘・家久など二万余人が根白坂に一斉に攻め寄せたが、島津軍は多くの犠牲を出し、本国へと敗走した。

島津の本領に豊臣軍が迫ると、出水城主・島津忠辰はさして抗戦せずに降伏、以前から秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟も自ら人質となり秀長に降伏、家久も城を開城して降伏した。

義久は鹿児島に戻り、剃髪して名を龍伯と改め、その後、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見して正式に降伏した。

義久は降伏したものの、義弘・歳久・新納忠元・北郷時久らは抗戦を続けていた。

義久は彼らに降伏を命じたが、歳久はこれに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけると言う事件を起こしている。

豊臣秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義久には男児が無かった為、義弘の子である久保(ひさやす)に三女・亀寿を娶わせ後継者と定めていたその久保(ひさやす)に日向諸縣郡を宛がった。

またこの際、伊集院忠棟(いじゅういんただむね)には秀吉から直々に大隅の内から肝付(きもつき)一郡が宛がわれている。

かつて九州の大半を支配していた島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵や高橋元種と言った新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。

豊臣政権との折衝には義弘が主に当たる事になるも、島津家は刀狩令にもなかなか応じず、京都に滞在させる軍兵も十分に集まらなかった。

この頃京都では、島津家には義久と家臣が豊臣政権に従順ではないと言う噂が立ち、石田三成の家臣が義弘に内報している。

また秀吉政権に重用された伊集院忠棟らに対する家中の反感も高まりつつあった。

その矢先に秀吉は文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を実行し、諸大名に対して出兵を命じた。

しかし、島津家は秀吉の決めた軍役は十分に達成する事ができなかった上、重臣の一人・梅北国兼(うめきたくにかね)は名護屋に向かう途中の肥後で反乱を起こす。

これらを島津氏の不服従姿勢と見て取った秀吉は不服従者の代表として歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じた。

また千五百九十三年(文禄二年)、朝鮮で久保(ひさやす)が病死した為、久保の弟・忠恒に亀寿を再嫁させて後継者としている。

島津義久(しまずよしひさ)〔三〕に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-07-07 17:30 | Comments(0)  

島津義久(しまずよしひさ)〔三〕

島津義久(しまずよしひさ)〔一〕に戻る

千五百九十四年(文禄三年)、義久の弟・島津義弘石田三成に検地実施を要請する。

検地の結果、島津氏の石高は倍増したが、義久の直轄地は大隅国や日向国に置かれ、義弘に鹿児島周辺の主要地が宛行われる事となった。

これは秀吉政権が義弘を事実上の島津家当主として扱ったとされ、領地安堵の朱印状も義弘宛に出されている。

当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある富隈城に移ったが、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた為、これを「両殿体制」と言う。

豊臣秀吉の死後、朝鮮の役が終わると、泗川の戦い等の軍功を評価され、島津家は五万石の加増を受けた。

しかし家中の軋轢は強まり、忠恒が伊集院忠棟を斬殺する事件が起こる。

義久は自分は知らなかったと三成に告げているが、「事前に義久の了解を得ていた」と言う説もあり、事件後には家臣達から「忠棟の子・伊集院忠真と連絡をとらない」と言う起請文をとっている。

千六百年(慶長五年)石田三成と徳川家康が戦った関ヶ原の戦いに於いては、京都に居た島津義弘は西軍に加担する事になる。
この間、再三義弘は国元に援軍を要請するが、義久も忠恒も動かなかった。

戦後、西軍への荷担は義弘が行ったもので、義久はあずかり知らぬ事であったとして、講和交渉を開始する。

家康に謝罪する為に忠恒が上洛しようとするが、義久は「上洛は忠孝に欠けた行い」と反対している。

忠恒は義久や義久の家臣の反対を振り切って上洛した。

義久は忠恒の上洛を追認し「病のために上洛できない為、代わりに忠恒が上洛する」と書状を送っている。

結果的に島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下った。

徳川家康による領土安堵後の千六百二年(慶長七年)、「御重物」と当主の座を正式に島津忠恒に譲り渡して隠居したが、以後も江戸幕府と都度都度書状をやりとりするなど絶大な権威を持ち、死ぬまで家中に発言力を保持していた。

この頃の体制を指して「三殿体制」と呼ぶ。

島津義久は、千六百四年(慶長九年)には大隅の国分に国分城(舞鶴城)を築いて移り住んだ。

しかし、娘・亀寿と忠恒の不仲などから忠恒との関係は次第に悪化したと言われる。

忠恒・亀寿夫妻の間には一人も子が無かった事から、義弘は外孫の島津久信を忠恒の次の後継者に据えようとしたが失敗したとされる。

また、義弘・忠恒親子が積極的に推進した琉球出兵にも反対していたとされる。

義久は優秀な三人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州全てを手中に収めるなど、島津氏の最大版図を築いた。

しかし、織田信長の後を継いで中央を制した豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅二ヵ国と日向・諸県郡(もろかたぐん)を安堵される。

豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。

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島津義久(しまずよしひさ)〔二〕に戻る

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by mmcjiyodan | 2011-07-07 17:27 | Comments(0)