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庄屋(しょうや)・名主(なぬし)

庄屋の名称の存在であるが、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)を検索すると、江戸期の村役人である地方三役(村方三役とも言う)のひとつ、或いは町役人のひとつと解説がある。

地方三役(じかたさんやく)のひとつで、村落の代表者で、西日本では庄屋の呼称が多く、東日本では名主と呼ばれる事が多いとされ、また、東北地方・北陸地方・九州地方では肝煎(きもいり)と呼ぶ。

確かに江戸期の村役人もしくは町役人の「制度としての名称」と言う点ではそれで間違いではないが、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)には江戸期以前からの歴史的背景があり、「江戸期以前に名称が無かった」と切って棄てるのは、少々乱暴である。

何故なら土地の範囲を示す【庄制度】は平安期から存在し、**庄は何処にでも在ったから、勿論庄屋敷がその土地の管理を請け負う支配階級が氏族で、それを語源として時代が下がった江戸期の庄屋の名称と役が在る。


江戸期以前の庄(荘園)経営に於いて「庄屋」は、庄(荘園)領主が地方行政を行う為の役所を兼ねていた。

例えば日向(ひゆうが)国【高千穂庄】には高千穂(大明神)神社が在り、神々の存在を感じる喜八伝説のアララギの里・高千穂十社の森を抜け、五箇瀬川峡谷(高千穂峡)の高千穂神社に辿り着く。

高千穂(大明神)神社の由来には、【平安時代末期には高千穂庄十八郷八十八社の総社として、上古高千穂皇神(日向三代の神々)を祀る】とある。

また、平安期から鎌倉期に移る時点の【庄】の存在であるが、源頼朝の異腹弟にして源義経の同腹の兄・阿野全成(あのぜんじょう/今若丸)は、父・源義朝(みなもとよしとも)が「平治(へいじ)の乱」に敗れ、平清盛に助命されて僧侶に成っていた。

その阿野全成(あのぜんじょう)が僧籍のまま源頼朝の挙兵に呼応して手柄を立て、武蔵国長尾寺(川崎市多摩区の妙楽寺)を与えられ、北条政子の妹・保子(阿波局)と結婚、駿河(静岡県)の国・【阿野の庄(今の沼津市原・浮島)】を拝領、大泉寺を建て、阿野姓を名乗っている。

つまりこの【阿野の庄】は一例で、古文書に【庄】の存在は当たり前に記載がある。

次に江戸期の「庄屋」以前の【庄(荘園)】を説明する素材として織田信長(おだのぶなが)の織田家を使う。

織田信長の出自に関わる織田神社は、奈良・飛鳥期から鎮座する剣神社(越前國敦賀郡 劔神社)と言い、剣神社が鎮座する【越前・織田の庄】は千八百年の歴史を有している。

織田家は忌部(いんべ)氏を祖とする剣神社の神官であり、【織田の庄】の庄官(荘官)である。

庄官と荘官は同じ意味で、庄(荘園)で、領主の命を受けて年貢の徴収・上納、治安維持などの任務にあたった者を庄官(荘官)と呼び、荘司と言う呼称もある。

中央の領主から派遣される場合と織田氏のように地方の有力者が任命される場合とがあり、時代が下るに従って後者の形をとるようになった。

庄官(荘官)は、荘園領主から任命され、荘園内 の年貢の取り立て治安維持などを司どった職で、織田家は剣神社の神官から土地の有力庄官が、室町期に守護職・斯波(しば)氏に被官する。

実は守護職・斯波(しば)氏は室町幕府の要職に在って中央に居た為、所領の運営は守護代に任せていた。

しかし応仁の乱以後は下克上が盛んになり、織田家は斯波(しば)氏の守護代を経てその分家が尾張に渡って戦国大名に成長した。

歴史には連続性が在る。

所が、その時代を得意とする奇妙な歴史家が現れてスパッとその時代だけを切り出して、「庄屋と言う身分は江戸時代だ」と見っとも無い事を平気で言う。

これでは盲目の者が象の尻尾だけ触って「象は細長い生き物である」と言うようなもので、残念ながらそう言う方は、歴史の連続性を無視した浅い知識で物を言って大きな恥をかく。

歴史的に支配階層だった氏族の末裔が帰農して百姓に成ったのであり、そうした階層が最下級支配職である庄屋や名主、村役などを任じた。

中世荘園・名田以来の在地有力氏族の者が多く、鎌倉期~戦国期の大名(名田経営者の規模が大)の家臣だった家が有力者として江戸初期以後庄屋を務めた事例も少なくない。

庄園にしても荘園にしても行政区域だから、庄屋敷にしても荘屋敷にしても陣屋造りの執務所を併せ持つ長の住居である。

つまり江戸期に成って急に庄屋が誕生した訳ではなく、また土地(名田)の名をかざす氏族も在り、そちらを語源として名主である。

そして肝心なのは、人身御供伝説の伝承は後の時代に下がるほど理解し易いように当代の状況に合わせて少しずつ変化して居る事も考慮すべきである。

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by mmcjiyodan | 2011-08-18 03:55 | Comments(0)  

信長旗本衆・黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)

織田信長は、父・織田信秀(おだのぶひで)から受け継いだ譜代の重臣を心服させる一方で、池田勝三郎(恒興)を軸に年齢の近い若者を身分を問わずに採用して組織化し、普段は遊びながらの奇行とも思える奇想天外な戦術実験と訓練をして、若手ばかりの旗本親衛隊を育て持っていた。

池田勝三郎(恒興)の母・養徳院が信長の乳母となった事から、二歳年下の勝三郎(恒興)は幼少の頃から信長の小姓として仕え、信長の乳兄弟・遊び友達として虚(うつ)け無頼な遊びに付き合っていた。

その信長の初期親衛隊の厳選された主力が、馬廻衆・黒母衣衆(くろほろしゅう)と小姓衆・赤母衣衆(あかほろしゅう)である。

織田信長に近侍する家臣組織にはこの本陣要員の馬廻衆と日頃信長に近従して身の回りの世話から政務の取次ぎなどを勤める小姓衆の二つが在る。

本陣要員の馬廻衆からさらに厳選された十名ほどが、黒母衣衆(くろほろしゅう)として抜擢される。

小姓衆の内から選抜された赤母衣衆(あかほろしゅう)も同じく十名ほどで構成され、この黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)が、信長の側近中の側近と言う事になる。

信長初期親衛隊の本格デビューは桶狭間の合戦だった。

今川義元は二万五千の大軍を率いていたが、全軍が義元の周りを囲って居る訳ではない。

信長は、最初から重装備の譜代家臣よりも、戦国時代に始まった軽装備・新形式の甲冑「当世具足」の機動力重視の黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)とその手勢・二百余りだけで今川義元の首を狙った。

その信長に付き従う旗本親衛隊(馬廻組)の顔ぶれは、滝川一益前田利家、服部小平太、毛利新助ら、信長が織田家の当主に成った十九歳の時から共に遊び学んで育てた面々である。

義元は信長の馬廻の一人、服部小平太に斬り掛かられるものの、逆に返り討ちに斬って服部を負傷させた。

しかし、服部との格闘の間に迫って来た新手の毛利新助と乱戦になり、義元はついに毛利新助によって討ち取られてしまう。

ただし厳密には、毛利新助は小姓衆では在ったが軽輩で、今川義元を討ち取った功により、後に黒母衣衆のひとりとなっている。

上洛命令を拒む朝倉義景に対して信長が朝倉征伐を起こして浅井長政の裏切りに合い、寸手(すんで)の所で挟まれる危機に在った「金ヶ崎の退き口」でも黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)は活躍している。

黒母衣衆(くろほろしゅう)の一員・佐々成政(さっさなりまさ)は撤退戦となった金ヶ崎の退き口で殿(しんがり/主君撤退の時間を稼ぐ防衛戦)を勤めた木下秀吉(羽柴秀吉)の殿(しんがり)軍に馬廻衆を率いて参加し、秀吉を救援し活躍した。

その越前朝倉氏・朝倉義景と北近江浅井氏・浅井長政の連合軍と織田信長、徳川家康連合軍が戦った長篠の戦いでは、佐々成政は同じ黒母衣衆(くろほろしゅう)の野々村正成や赤母衣衆(あかほろしゅう)の前田利家・福富秀勝・塙直政らと共に鉄砲隊を率いて戦っている。

こうした黒母衣衆(くろほろしゅう)・赤母衣衆(あかほろしゅう)の中から、後の大名が多く排出され、その一番が前田利家だった。

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by mmcjiyodan | 2011-08-12 11:40 | Comments(0)  

日本最古の大地震の記録

六百八十四年(天武十三年十一月二十九日)地殻変動が起こり、「白鳳地震(はくほうじしん/東海 東南海 南海連動?)」が発生する。

西日本太平洋沿岸に推定マグニチュード八~八・四の大地震が起こり、山崩れや家屋・社寺の倒壊多数が記録されている。

白鳳地震(はくほうじしん)は天武地震(てんむじしん)とも呼ばれ、白鳳時代(飛鳥時代後期の天武帝の御世)に起きた、南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。「日本書紀」に記述がある為、有史以来確かな記録の残る東海・東南海・南海連動型地震と推定される地震としては「最古のも」のとされている。

平安時代の八百六十九年に奥州太平洋岸にて発生した貞観地震(じょうがんじしん)は、当時の歴史書「日本三代実録」に、「海は猛(たけ)り吼(ほ)え、津波が怒濤(どとう)のように多賀城下に押し寄せ、千人がおぼれ死んだ」と記述がある。

当時の海岸から約五キロ内陸の多賀城跡(宮城県多賀城市)周辺では道路が寸断された跡が見つかり、仙台市などでは津波で運ばれた堆積物もあった。

実はこの貞観大地震(じょうがんだいじしん)、「貞観(じょうがん)の富士山大噴火」から五年後に奥州三陸地方でが発生していて、火山噴火と大地震は何らかの繋がりが在りそうである。

八百七十八年(元慶二年)には関東南部でマグニチュード七以上の直下型大地震・元慶地震(がんぎょうじしん)が発生、奥州鎮撫の拠点が混乱する。

地震の混乱に乗じて出羽国の夷俘(えみふ/エミシの俘囚)が反乱し、秋田城等を焼く元慶の乱(がんぎょうのらん)が勃発、鎮圧に五~六ヵ月を要している。

この出羽国の夷俘(えみふ/エミシの俘囚)の反乱、立場の違いで朝廷側に言わせると反乱だが、蝦夷の俘囚側にすれば部族抵抗の聖戦である。

つまり七百八十年代以降に桓武天皇の命で坂上田村麻呂が制圧した東北の蝦夷も、この頃はまだ隙あらば抵抗している最中だった。

この年(元慶二年)、朝廷の統治組織として地方官任命交代をスムースにさせる為の令外官・押領使が新設されている。

平安中期の八百八十七年(仁和三年)に起こった仁和大地震では、日本三代実録に「都(京都)の建物は倒壊し圧死する者多数在り、海岸には海潮(津波)が押し寄せ無数の人がおぼれ死んだ。

大阪湾岸も「津波被害が甚大だった」と記録があり、更に「東海から四国にかけて甚大な被害があった」と言う。

近年、東海巨大地震発生の切迫性が伝えられている。

百五十年サイクルで起こる巨大地震の危険地域・東海沖が、既に百五十年を地震発生を見ず経過している。
本来は「来ない越した事が無い」と思う地震ではあるが、今後先に行くほどエネルギーの蓄積が強まり、最大級に成る恐れが大いに有る。

東海巨大地震は、東南海、南海地震と連動して発生する可能性が高く有史以来五回発生しているが、そのうち四回はその直後から二年以内に巨大地震の南海地震も発生する事実で、東海、東南海、南海の巨大地震の発生メカニズムを歴史的に証明した。

尚、日本書紀に、「地震」とのみ記載された四百十六年の飛鳥期、「大和河内地震(遠飛鳥宮付近)」があるが、被害の記録はない。
これを「最古の地震の記録」と言えない事も無いが、記録と言えないほど簡単な記述である。

仁和地震後、臣籍降下していた源定省(みなもとのさだみ)が定省親王(さだみしんのう)に服して第五十六代天皇に即位し・宇多天皇(うだてんのう)となり、 藤原良房(ふじわらのよしふさ)が初の人臣関白に就いている。

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by mmcjiyodan | 2011-08-03 17:21 | Comments(0)  

大倉喜八郎(おおくらきはちろう)

大倉喜八郎(おおくらきはちろう)は、武器商人から財を為した為に「死の商人」とも「死の政商」とも呼ばれた男である。

喜八郎(きはちろう)は中堅財閥である大倉財閥(おおくらざいばつ)の設立者で男爵を受爵し、東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。

千八百三十七年(天保八年)越後国新発田(現・新潟県新発田市)に名主・大倉千之助の三男・喜八として生まれる。

この年はちょうど、徳川家慶(とくがわよしのぶ)征夷大将軍に就任した攘夷運動真っ盛りの年である。

喜八(きはち)は、千八百五十四年(嘉永四年)十七歳の時に江戸に出て鰹節店に奉公奉公する。

三年で鰹節店の仕事を覚えた喜八(きはち)は、実家が名主と言う資金力に恵まれて千八百五十七年(安政四年)に乾物屋・大倉屋を二十一歳で独立する。

その十年後に貿易で一旗挙げようと考え、横浜の外国人居留地を観察して鉄砲に目を着け、乾物店を廃業し、知り合いに口を利いてもらい、八丁堀に財った鉄砲商・小泉屋で五ヶ月間修行し、千八百六十七年(慶応三年)に大倉銃砲店を開業、名も喜八から喜八郎(きはちろう)と改める。

この大倉銃砲店開業の年、千八百六十七年(慶応三年)の年末に将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が朝廷に大政奉還を行うが、戊辰戦争の端緒となる鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)が京都で起こり官軍が江戸へ攻め上って来る。

翌年千八百六十八年(慶応四年)、折からの戊辰戦争に大倉銃砲店は軍需品の供給を行い大繁盛して富を築く。

戊辰戦争後は貿易会社、建設業に転身。化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興すも、明治政府要人と太いパイプを得た喜八郎(きはちろう)は、台湾出兵日清日露と戦争軍需に拠って大儲けした事から死の商人、死の政商と呼ばれた。

軍事関係の需要は三井・三菱を凌いでほとんど「大倉組が独占した」と言う凄まじい軍事財閥だった。

そんな喜八郎(きはちろう)だったが、流石(さすが)に晩年は公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じ、渋沢栄一らと共に鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立した事でも有名である。

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by mmcjiyodan | 2011-08-01 19:37 | Comments(0)