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狗奴国(くなくに)

中華帝国の魏書に在るのみで日本の史書に記載が無い卑弥呼邪馬台国の事を、知らない日本人は、ほぼ居ない。

だが、日本の史書とされる古事記日本書紀に在るスサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)はかなり知名度が低い。

魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているのは、卑弥呼邪馬台国スサノウの狗奴国・葛城氏伊都国の三っの国だけで、つまりこの三っの国が当時の日本列島に於いて広域・有力な王国である可能性が強い。

日本列島に渡来した呉族系海洋民族が九州北部で奴国(なこく)を造る。

その奴国(なこく)が、渡来系ながら部族が違う卑弥呼(比売大神・天照大神)が指導する農耕山岳民族・加羅族(からぞく)邪馬台国(やまたいこく)に一時期は圧迫された。

やがて奴国(なこく)は九州南部で勢力を盛り返して、海洋民族国家・狗奴国(くなくに)が成立する。

その狗奴国(くなくに)が勢力を増して九州南部・中国・四国・紀伊半島南部に到る広大な地域を支配し、卑弥呼(比売大神・天照大神)の邪馬台国(やまたいこく)を圧迫する。

この天照大神(あまてらすおおみかみ)須佐王(須佐之男)誓約(うけい)に到る「天の岩戸の宴」への経緯が、二大勢力に分かれて戦った倭国大乱である。

倭国大乱の件は、「卑弥呼系の邪馬台国」と「スサノウ系の狗奴国(くなくに)」が決戦の末に狗奴国が生き残って列島西日本を統一・神武朝を打ち立てた経緯である。

この海洋民族の王がスサノオ(須佐之男/須佐王)で、やがて両民族和合の為の誓約(うけい)に到って両者が統一を為し、日本列島の西半分が神武朝・大和朝廷の基礎と成った。

つまり天の岩戸伝説は、構築された誓約(うけい)神話なのである。

勿論その誓約(うけい)神話の中の物語に登場する天照大神(比売大神・卑弥呼)やスサノオ(須佐之男/須佐王)は両部族の神格を持った象徴である。

この一時は卑弥呼(比売大神・天照大神)が指導する農耕山岳民族・加羅族(からぞく)の邪馬台国(やまたいこく)と西日本を二分した呉族系海洋民族の狗奴国(くなくに)の名残は、織田信長の正しい出自・忌部氏(いんべうじ)物部氏、そして賀茂葛城氏などの古代豪族として残った。

神社も呉族系海洋民族の主神・事代主神明神社(みょうじんしや)綿津海神社(わたつうみじんじゃ=渡つ海)が目立っている。

「明神(みょうじん)」とは、神は仮の姿ではなく「明らかな姿をもって現れている」と言う意味であり、日本神道の神の称号の一つで天皇を指す場合には特に「あきつみかみ=明神」と読む。

そして京都の上賀茂神社の境内を流れる「ならの小川」は、境内を出ると明神川と名を変える事から、つまり上賀茂神社も上賀茂明神なのである。

例えば、織田信長・織田氏の出自とされる越前国織田庄・剣神社(つるぎじんじゃ)は別名を織田明神社とされる明神様である。

また、織田信長が今川義元(いまがわよしもと)桶狭間の合戦で破った時「戦勝祈願」をした尾張一ノ宮・熱田神宮も別名は熱田明神社である。

実は葛城ミステリー三島大社(三島明神)も、江戸の守り神の一社・神田明神も、同じ事代主神(賀茂の神)を主神とするもので、海彦伝説呉族系神が現れたものである。

この呉族系海洋民族国家・狗奴国(くなくに)と言う国名を良く見てもらえば一目瞭然で、大和朝廷が進めた修験道と狗奴国(くなくに)は大きく関わりがある。

そして伊豆七島から伊豆半島に起こった同じ呉族系海洋民族国家・伊都国(いとこく)が合流し、その指導者・賀茂葛城一族が大和朝廷の重席を担いながら、修験道の指導者となる。

修験道のイメージシンボルは天狗=(てんのいぬ)であり、統治者に都合が良い伝承を振りまいた修験者の目的だった天狗修験道の別名を「犬神様(いぬがみさま)」と言う。

我輩が指摘する「記紀(古事記日本書紀)神話」など、為政者の権威の為になる情報操作は、ちょうど現代の「インターネットに拠る権威の崩壊」と真逆の位置に在ると理解して欲しい。

つまり現代のインターネット社会が、権威の為の情報操作を困難にして独裁が難しく成るだけに、当時の修験者に拠る「天孫降臨伝説」を紛れ込ませた「記紀神話」の流布は効果的だったに違いない。

特別別記事【日本人の祖先は何処から来たのか?(四)邪馬台国と狗奴国】に飛ぶ。

関連小論・【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-09-30 17:40 | Comments(1)  

真田信之(さなだのぶゆき/信幸)

真田氏は、信州山地の谷あいに在る真田郷の在地の小豪族として歴史に登場する。

時代が下がった戦国期になると、真田氏は甲斐国守護・武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。

しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸は織田信長に恭順した。

その後、本能寺の変明智光秀に反逆された織田信長が横死すると、真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え真田家の勢力維持に奔走する。

名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に抵抗、徳川軍兵七千の攻撃を受けるも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。

真田家の得意技は篭城戦で、その戦法は元弘の乱(げんこうのらん)当時の名将・楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城篭城戦と良く似ている。

つまり最小の軍勢で大軍を破るのに適して居るのが篭城戦であるが、攻め手が大軍で先を急いでいるほどその戦法は効果的である。

真田昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。

信州で生き延びた真田昌幸は、やがて豊臣秀吉が天下を取るとその臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解の後、徳川氏の与力大名とされた事から、嫡男・真田信幸と家康養女・小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。

これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である真田昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である真田信幸(沼田城)のニ家が夫々に主を頂く体制となる。

この二家体制が、後に真田氏を二分させて戦う事態となる。

徳川家康は本多忠勝の娘・小松姫を養女に迎えた後、真田家長男・真田信幸(信之・沼田三万石)に嫁がせている。

豊臣秀吉死後の千六百年(慶長五年)、石田三成が徳川討伐を掲げて挙兵する。

父・昌幸と弟・信繁は三成ら西軍石田方に付いたのに対し、信幸は家康ら東軍に参加する事を決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。

徳川秀忠軍本隊三万五千の中仙道軍は、またも上田城に在った父・昌幸の善戦に合って関ヶ原の戦いには遅参し、本戦には参加する事ができなかった。

徳川方に付いた真田家長男・真田信幸(信之・沼田三万石)は、関ヶ原戦後、父・昌幸の旧領三万五千石に加え三万石を加増されて九万五千石となり上田藩主となったが、引き続き沼田城を本拠とした。

真田信幸(信之)は西軍に付いた父との決別を家康に表す為に、昌幸らの助命を嘆願し名を信幸から信之に改めている。

義父の本多忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀州九度山へ流罪となる。

その後、父・昌幸が九度山で亡くなったおりに、信之は父の葬儀を執り行えるよう幕府に許可を願い出たが、許されなかった。

千六百十四年(慶長十九年)、豊臣対徳川の決戦・大坂の役が勃発するも真田信之は病気の為に出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣している。

大坂の役から八年後の千六百二十二年(元和八年)、信之は信濃国松代藩に加増移封され、十三万石(沼田三万石は継承)の所領を得るも、真田氏の本拠地上田を失う。

千六百五十六年(明暦元年)、長男・信吉や信吉の嫡孫で長男・熊之助が既に死去していた為、信之は自らの次男・信政に家督を譲って隠居する。

しかし千六百五十八年(万治元年)二月にその信政も死去した為、真田家では後継者争いが起こる。

長男・信吉の次男で沼田城主・信利が、信之次男の血統・幸道(信政の六男)の家督相続に異議を唱えて幕府に訴える事態となり、幕府や縁戚の大名を巻き込んだ騒動となる。

最終的には幸道が幕閣の許しを得て第三代藩主となるも二歳の幼少の為に、九十三歳の高齢にも関わらず信之が復帰して藩政を執った。

この騒動により信利の領地は沼田藩三万石として独立し、松代藩は十万石となって真田騒動は落ち着くが、その数ヵ月後信之も死去して居る。

真田昌幸(まさゆき)と真田信繁(のぶしげ/真田幸村・さなだゆきむら)】に戻る。

真田氏の出自【望月氏(もちずきうじ/古代豪族・滋野氏流)】に飛ぶ。

関連小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-09-28 11:58 | Comments(1)  

後漢書・倭伝(東夷伝)

中国の史書に倭国が現れたのは、紀元百七年(永初元年)後漢・安帝時代の「後漢書・倭伝(東夷伝)」の下記の記術が初出である。

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」

訳すと、後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝賜ふに印綬を以てす。
尚、この「光武帝賜ふ印綬」が、志賀島(しかのしま)出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)ではないかとされている。

「會稽海外有東��人 分爲二十餘國」

訳すと、会稽(ホイチー/かいけい/中国・浙江省中部辺り)の海外に東��(とうてい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する。
会稽(かいけい/今の蘇州・上海辺り)郡の海の彼方に、二十余国に分かれて、「東��(とうてい)の人が居て、朝献していた」と言う記事である。

この「東��(とうてい)の人」が、中国・蘇州から東方を指していると解釈すれば、台湾島を指す事になり、北東を指すのであれば朝鮮半島から日本列島を指す事になる。
この文面から、前漢時代に蘇州・会稽(かいけい)の海の先に「東��(とうてい)の人の国」が二十余国在った事に成る。

この一文を持って、強引に「この東��(とうてい)の人が中国から日本を指していると解釈すれば」とする学者も居るが、「日本を指している」と言う解釈に足りる文面ではない。
つまりこの東��(とうてい)の二十余国が、朝鮮半島から日本列島に在った倭の国々の事ではないだろうか?

志賀島(しかのしま)の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は真贋両説在り、意見が分かれる所である。
だが、此処で採られた「後漢書・倭伝(東夷伝)」の内容で、広域倭の国論が論証される記載が存在する。

前出の中国の史書「後漢書・倭伝(東夷伝)」に書かれた

後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。

と、「後漢書・倭伝(東夷伝)」に在る。
つまり、「倭の奴国(漢委奴国/かんのわのなのこく)は倭国の極南界なり」は、倭の国々はもっと北界に多く存在する事になり、朝鮮半島がその範囲に含まれる事を意味しているのだ。

広域倭の国】に戻る。

詳しくは、小論「広域倭の国論」を参照して下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-09-26 12:59 | Comments(0)  

志賀島(しかのしま)の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)

志賀島(しかのしま)の出土とされる金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)について記述して置く。

田沼意次(たぬまおきつぐ)が権勢を振るっていた千七百八十四年(天明四年)、徳川十代将軍・家治の治世に「志賀島(しかのしま)の金印」が発見される。

その金印、一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存し、水田の耕作中に偶然発見したとされる。

三月十六日(天明四年)、筑前国・那珂郡(なかのこおり・なかぐん)役所に志賀島(しかのしま)の甚兵衛と言う百姓が、田んぼの中から「金印を発見した」と届け出た。

志賀島(しかのしま)は、砂州により本土と陸続きになった陸繋島(りくけいとう)で全国的にも非常に珍しい福岡県福岡市東区に所属する島である。

この島は博多湾の北部に位置し陸繋砂州・海の中道と陸続きで、古代日本(九州)の大陸・半島への海上交易の出発点として、歴史的に重要な位置を占めていた。

「先月二十三日(天明四年二月)に、叶の崎と言う所の自分の所有地の水はけが悪かったので、修理していた所、石の間から金の印判の様なものが出て来た」と言うのだ。

鑑定を依頼された福岡藩校「甘棠館(かんとうかん)」の館長で儒学者の亀井南冥(かめい なんめい)は、中国の史書「後漢書・倭伝(東夷伝)」に書かれた次の記事に注目する。

後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。

倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。

と、「後漢書・倭伝(東夷伝)」に在る。

「漢委奴国王」と彫られてある金印の文面の、その委奴国を「倭の奴国(わのくに)」と読むか、「伊都国(いとこく)」と読むか論争が起こった。

委は倭の略字で、奴は「の」と読むとして、「倭の国」だという説、また音韻論から「伊都国」とする説がある。

つまり「漢委奴国王」を「かんのわのなのこくおう」と読むのか「かんのなのいとこくおう」と読むのかが問題だった。

光武は後漢を建国した光武帝を指し、亀井南冥(かめいなんめい)は持ち込まれた金印を見てただちにこの後漢書の記事に思い当たった訳で、彼の博識と慧眼には感服する。

この南冥(なんめい)のおかげで、この金印が大変貴重なものである事が日本中に広まり、福岡藩は発見者の甚兵衛に白銀五枚の褒美を与えた。

しかし当時の聖福寺の住職・仙厓和尚は、書幅に「志賀島農民、秀治・喜平、叶崎より掘り出す」と書いて居る。

また、志賀海神社宮司・阿曇家に伝わる古文書にも、「農民・秀治が掘り出した」との一文があり、百姓秀治と喜平が掘り出し地主の甚兵衛を通じて役所に届けたとの説もある。

この金印騒ぎ実は謎も多く、志賀島の甚兵衛の存在は過去帳や田畑名寄帳など古文書の何処にも記載がない。

そして紀元五十七年に中華帝国・後漢の倭伝(東夷伝)を、千七百二十七年後の江戸中期の儒学者・南冥(なんめい)がタイミング良く知っていて素早く引用し、金印の素性を見事解明した。

南冥(なんめい)が福岡藩・黒田家の儒学医に登用され、甘棠館の祭酒(学長)に就任した時期とこの金印が発見された時期が幸運にも一致したと言う出来過ぎた話である。

発見の経緯に不自然な点があり、発見時の記録にあいまいな点が多く、また江戸時代の技術なら十分贋作が作れる事などの条件も挙げ得るとの指摘もある。

そこでこの金印発見騒ぎ、或いは福岡藩校・甘棠館(かんとうかん)の館長・儒学者の亀井南冥(かめいなんめい)の自作自演の売名行為の可能性も浮かんで来る。

ただし糸島市(福岡県/旧前原市)の細石神社には「漢委奴國王の金印が宝物として伝わっていたが、江戸時代に外部に流出した」との伝承がある。

この細石神社の金印流出時期・江戸時代と志賀島(しかのしま)の金印発見時期・江戸時代は見事に符合している。

ならばこの細石神社金印流出が何者かの意図に拠って起こされ、「志賀島に埋められた、または志賀島で発見した」と劇的に登場したのではないだろうか?

いずれにしてもこの金印の存在は未だ真贋両説が論争の最中で、まだまだ真贋確定には時間が掛かりそうである。

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by mmcjiyodan | 2011-09-22 10:12 | Comments(0)  

ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説〔一〕

秋田美人と粛慎(ミセハシ)の謎に関わり、有史以前に日本列島に到達していた粛慎(ミセハシ)と呼ぶ部族、実は欧州系の白人種(ロシア人)だったのかも知れない。

その事を前提にすると、先入観では消化し切れない埋没した歴史がまだ存在するのかも知れない。

実は粛慎(ミセハシ)とされた渡来部族は白人種ではあるが「ヘブライ(ユダヤ)人の血流が濃い人種で在ったのではないか」と推測される痕跡が、奥州(東北地区)各地に存在する。

その指摘をされたのが岩手県出身の神学者・川守田英二博士で、長期に渡ってサンフランシスコで邦人キリスト教会の牧師をしながら「古代ヘブライ(ユダヤ)語を研究した」と伝えられている。

川守田英二氏が着目したのは青森県下北から南部地方に伝わる民謡「ナニャドヤラ」で、「ナニャドヤラは古代ヘブライ(ユダヤ)語である」と言うのだ。

青森県の新郷村と言う所には、伝・「キリストの墓」がある。

新郷村は古くは「戸来村」と言われていて、ヘブライに漢字を当てると‘戸無来’となり、無は無いから取ると戸来村となる。

新郷村に入ると「ようこそキリスト村へ」と言うアーケードが迎え、案内に沿って山を登ると十字架が二つ立っている。

その十字架はキリストと、キリストの双子の弟の墓だと伝えられている。

案内板には「ゴルゴダで処刑されたのはキリストの双子の弟イスキリの方で、兄は生きてこの地まで逃げ、この地で生涯を全うしたそうだ。

まぁ信仰絡みの伝説には、信者の希望を未来に伝える傾向もある事からキリスト本人が渡来して来たのか、信者が「キリストは我等と伴にあり」と信じての創作なのかは定かではない。

この新郷村の民は、「キリストの墓」の周りに円を描いて「ナニャドヤラ」の盆踊りを歌い踊る。

つまり新郷村にはイスラエルの風習と思われるものが残っており、その代表的なものが「ナニャドラヤ盆踊り」と言われている。

地元の年寄りでも意味は分からないかったが、川守田英二氏は「ナニャドヤラ」の歌詞を古代ヘブライ語の進軍歌と訳した。

ナーニャード・ヤラヨウ(御前に聖名をほめ讃えん)、ナーナャード・ナアサアレ・ダハアデ・サーエ(御前に毛人を討伐して)、ナーニャード・ヤラヨ(御前に聖名をほめ讃えん)と言う意味であると発表したのだ。

川守田英二氏の説に拠ると青森県から岩手県にかけて散在する地名の一戸(いちのへ)から九戸(くのへ)、そして十和田は、失われた渡来ユダヤ十支族に関係あるとしている。

「ナニャドヤラ」の歌詞は全部の歌詞が意味不明のまま伝えられており、神学学者・川守田英二博士はその意味をヘブライ語とすれば解読出来るとしている。

つまり、ナニャドラヤー(お前に聖名を誉め讃えん)、ナニャドナサレノ(お前に毛人を掃討し)、ナニャドラヤー(お前に聖名を誉め讃えん)と訳せるそうだ。

紀元前六百八十六年頃に流浪の民となって世界に散らばったヘブライ(ユダヤ)人が、「古代この地に来た」と言う事は否定できない。

日本列島から遠く離れたヘブライ(ユダヤ)発祥の地(現イスライル)を思えば、この話しはにわかに信じ難いかも知れない。

だが、流浪の民がユーラシア大陸を東方へ伝い彷徨(さまよ)い、渡海して日本列島に渡って来ても不思議は無い。

何故ならその痕跡はこの新郷村に止まらないからで、事実「ナニャドヤラ」の踊りは下北半島でも踊られている。

またねぶた祭りで有名な青森市で、ねぶたを囲んで踊るハネトの掛け声「ラッセラー・ラッセラー・ラッセ・ラッセ・ラッセラー」も又、ヘブライ語なら理解できる。

川守田英二博士の訳では、その掛け声を「動かせ・動かせ・高きへ進め」と訳せると言うのだ。

弘前のねぷたの「ヤーヤードゥ」は「エハボを讃えよ」となり、全国の祭りで山車を引く時「エンヤラヤー」と言う掛け声を発する。

この掛け声もヘブライ語「エァニ・アハレ・ヤー」に訳すと「私はヤハウェを賛美する」となると言う。

また川守田英二氏は、日本各地に伝わる民謡の囃子言葉のほとんどが同じように「古代ヘブライ(ユダヤ)語ではなかろうか」と言う。

その指摘で、佐渡おけさでは「アーリャ・サ」、ソーラン節の「ヤーレン・ソーラン」、よさこい節の「ヨサー・コイ」などの意味不明とされる囃子言葉を挙げている。

正直、川守田英二博士の説は現在ではまだ異説の範疇にあるが、秋田美人に代表される白人種の痕跡や「ナニャドヤラ」の習慣は現に奥州(各地)に存在する謎である。

となると、日本列島側の倭の国々の中には想わぬ部族の古代国も在った訳で、益々人種の坩堝(るつぼ)だった他部族(他民族)小国家時代が存在した事に成る。

そして粛慎(ミセハシ)とされた渡来部族がロシア側に近い朝鮮半島から小船を漕ぎ出すと、対馬海流に乗って漂着するのは青森県辺りだそうで、辻褄が合う話なのだ。

青森県十和田湖外輪山の一つである戸来岳(大駒ヶ岳、三ッ岳)に面し、十和田湖の東側に位置し西を秋田県との境に位置する三戸郡の村が新郷村(しんごうむら)である。

新郷村(しんごうむら)にはユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家(旧家沢口家)があり、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書く風習がある。

このユダヤの紋章(ダビデの星)と伊勢神宮・伊雑宮の御食地の海女が身に着ける魔除けに、セーマンドーマンまたはドーマンセーマンと呼ばれるデザインが酷似している。

この呼び名のはっきりとした謂われは伝わっていないが、陰陽道の占いで使用する星形のマークは安倍晴明の判紋(五芒星)、格子状のマークは九字紋と同じ形状である。

奥州(東北)と切っても切れないのが東北蝦夷(エミシ)安倍氏(安倍御門)である。

その安倍氏族・安倍晴明が使う判紋(五芒星)がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似しているとなると、これはもう偶然とは言い難い。

九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法に拠ってできる図形)をしていて、意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰って来る」と言う意味でもある。

キリスト信仰には「復活」があり、この陰陽道五芒星がユダヤの紋章(ダビデの星)と酷似してなお意味まで一致している。

となると、紀元前の日本古代史の中に渡来ヘブライ(ユダヤ)人の失われた歴史が在り、日本の古代信仰にその影響を残したのではないだろうか?

ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説〔二〕】に続く。

古代ヘブライ(ユダヤ)系・諏訪モリヤ伝説】に飛ぶ。

詳しくは、小論【秋田美人とナニャドヤラ】を参照。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

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by mmcjiyodan | 2011-09-14 16:11 | Comments(0)  

没個性の横並び安心社会

遺伝子学の専門家に言わせると、日本人は他国人と比べ平均的に恐怖や不安に敏感な遺伝子を持つ人種だそうで、そうした遺伝子の醸成が如何なる経緯で為されたのかは歴史を紐解くしか解明の手段は無い。

軽々に結論を出せる話では無いが、当然ながら平和の民・先住縄文人(蝦夷/エミシ族)の地を勝手に乗っ取った渡来征服氏族の所業や、その統治政策としての恐怖神話の流布などが、「遠い記憶として残った」と考えられる所である。

さらに征服部族(氏族)にした所で、本音で言えば居られるものなら大陸で平穏に暮らすのが筋で、大陸で戦に破れて逃れて来た部族や食い詰めて新天地を求めて遣って来た好戦的部族だが、列島に辿り着くまでに大きな恐怖や不安を経験して来た筈である。

この日本列島の地は、多神教の国であると同時に、信心深いと言えばそれまでだが未知のものへの恐怖心が強く、世界でも珍しいくらいに多くの幽霊・霊魂の国でもある。

だがしかし日本の信仰は多神教の国独特の信仰形態で信仰対象が分散し、一神教の国々から見れば好い加減な信仰とも受け取られる。

いずれにしても日本人が、恐怖や不安に敏感な遺伝子を持つ人種であるからこそ、出る杭は打たれる式に没個性を良として横並びで安心しようと言う傾向がある。

しかし我輩は、没個性を良とした横並びには魅力は感じない。

我輩が考えるに、文人・画人・歌人などの文化人で世間に迎合する横並びの人物など見た事は無い。

正直アウトローであるからこその才能ではないのか?

確かに「紙一重」が才能の危うさかも知れない。

常に新しい発想をする人間は「何を思い付き、何を言い出すか判らない」ので、周囲にとっては不気味な存在である。

当然ながら、周囲は「非常識」の落印を押す。

正直、歴史に登場する人物は、ルール無視の大虚(おおうつ)けとされるアウトロー・織田信長に代表される天才である。

実業界でもそんなもので、永い事工場の外に佇(たたず)み、輸入自動織機の音だけを聞いて「国産の自動織機を音だけで作った」と言われるトヨタグループ(自動車・自動織機の創始者・豊田佐吉も、最初周囲は「あの若者、働きもせずあんな所で一日ボーッとして気味が悪い」と見ていた。

ホンダ自動車の本田総一郎は、若い時代、試作の為に昼夜を問わず働き、小さな町工場で真夜中まで構わずガンガンと音を立てる「非常識で近所迷惑な存在だった」と言われている。

しかしそれを非常識と批判した常識者達が、一生涯何も為しえない所に没個性横並び安心社会の世の矛盾がある。

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by mmcjiyodan | 2011-09-04 00:21 | Comments(0)  

三好氏(みよしうじ)

三好氏(みよしうじ)は、源義光(新羅三郎義光)を祖とする清和源氏義光流で、甲斐源氏の支流にあたり鎌倉時代の阿波の守護職・小笠原氏の末裔で、阿波三好郡を本拠にした事から三好氏を称した。

室町時代の三好氏は阿波守護職細川氏の守護代を務め、三好之長の時代に管領細川勝元、細川政元に仕えて勢力を拡大したのが、三好氏畿内進出の契機となる。

そして、三好元長の代に細川晴元に仕えて細川高国を討つという武功を挙げ、三好氏は細川氏を実質的に補佐する重臣にまで成長する。

戦国時代には管領・細川氏の没落に乗じた下克上で、阿波をはじめ畿内一円に大勢力を有する戦国大名となった。

戦国期の三好氏の当主・三好長慶(みよしながよし/ちょうけい)は、京兆細川家当主・細川晴元配下の有力な重臣から晴元と将軍・足利義輝を近江国に追放し、室町幕府への直接的な支配力を確立して事実上の三好政権を誕生させた。

戦国大名・三好長慶(みよしながよし)の後、機内を連合して抑え機内限定の三好政権を樹立したのが、通称・三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と呼ばれた面々で、戦国時代に活躍した武将三人の総称である。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-09-03 23:20 | Comments(0)