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倭国大乱(わこくたいらん)と誓約神話(うけいしんわ)

日本列島に多くの部族が渡来して都市国家もどきの小国を乱立させて倭の国々が成立する以前の列島は、縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の大地だった。

そこに文明で勝る部族が渡来して勝手に小国を開いて、縄文人(蝦夷族/えみしぞく)を支配しながら同化を試み、弥生時代へと下がる過程で倭国大乱(わこくたいらん)と誓約神話(うけいしんわ)が関わっている。

日本列島に渡来した呉族系海洋民族が、九州北部で倭の国々の一つ奴国(なこく)を造る。

その奴国(なこく)が、渡来系ながら部族が違う卑弥呼(比売大神・天照大神)が指導する農耕山岳民族・加羅族(からぞく)邪馬台国(やまたいこく)に一時期は圧迫された。

やがて奴国(なこく)は九州南部で勢力を盛り返して、海洋民族国家・狗奴国(くなくに)が成立する。

その狗奴国(くなくに)が勢力を増して九州南部・中国・四国・紀伊半島南部に到る広大な地域を支配し、卑弥呼(比売大神・天照大神)の邪馬台国(やまたいこく)を圧迫する。

この天照大神(あまてらすおおみかみ)須佐王(須佐之男)誓約(うけい)に到る「天の岩戸の宴」への経緯が、二大勢力に分かれて戦った倭国大乱である。

倭国大乱の件は、「卑弥呼系の邪馬台国」と「スサノウ系の狗奴国(くなくに)」が決戦の末に狗奴国が生き残って列島西日本を統一・神武朝を打ち立てた経緯である。

この海洋民族の王がスサノオ(須佐之男/須佐王)で、やがて両民族和合の為の誓約(うけい)に到って両者が統一を為し、日本列島の西半分が神武朝・大和朝廷の基礎と成った。

つまり天の岩戸伝説は、構築された誓約神話(うけいしんわ)なのである。

勿論その誓約神話(うけいしんわ)の中の物語に登場する天照大神(比売大神・卑弥呼)やスサノオ(須佐之男/須佐王)は両部族の神格を持った象徴である。

尚、三兄妹・三貴神(ウズノミコ)である天照大神、月読命、スサノウ(須佐王)は、「記紀(古事記日本書紀)神話」に於ける「)」の伝承的存在である事を心して分けて扱うべきである。

特別記事【日本人の祖先は何処から来たのか?(四)邪馬台国と狗奴国】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)は日本史から抹殺された】に飛ぶ。
崇神大王(すじんおおきみ/天皇)と欠史八代(けっしはちだい)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-10-27 09:39 | Comments(0)  

ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説〔二〕

ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説〔一〕に戻る。

日本の歴史学者には、「天孫降臨伝説」または「皇皇国史観」に於ける「」のアンカリング効果が浸透していて、それと合わない意見には「論外意識」が強過ぎ、聞く耳持たずで切り捨てて来た部分が多く在る。

だが、「天孫降臨伝説」または「皇国史観」には合致しない、聞く耳持たずで切り捨てて来たその歴史的事実は、ふんだんに存在する。

歴史学者の間では、日本列島各地に散らばる古代ヘブライ(ユダヤ)伝説を「まさかエルサレムから東の端の列島まで来る筈が無い」と、既成概念の意表を突く為に整合性を見出せないまま、否定要素だけを熱心に探していた。

しかしながら、遥かアフリカの台地から世界に分布して行った人類の足跡を想えば、ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族の一部が、年月を経て日本列島に辿り着いていても不思議は無い。

そしてそうした考え方の対極に、各地に散らばる古代ヘブライ(ユダヤ)伝説に於いて、日本人とユダヤ人が同じ祖先を持つと言う少し単純な発想で「日ユ同祖論」を展開する方も居られるが、それには少し無理がある。

「日ユ同祖論」は、「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」や「広域倭の国論」の問題と同じくらい、物事を単純解釈したがる悪癖ではないだろうか?

例え古代ヘブライ(ユダヤ)の「失われた十支族の渡来説」が有力説でも、縄文人が多数居た所に渡来した筈で、誓約(うけい)の混血が進んだ上での同化にヘブライ(ユダヤ)文化が伝承されたのであれば納得である。

図式としては、そのヘブライ(ユダヤ)文化が、日本列島の原信仰として陰陽修験道の中に採り入れられて修験者に拠って全国に広まって行く。

平安期・大和朝廷に於いて、陰陽修験道を統括管理した陰陽寮首座・安倍清明の五芒星(ごぼうせい)であり、ユダヤ-キリスト教が用いた「ペンタクル、ペンタグラム」と同じマークである。

古代ヘブライ(ユダヤ)系・諏訪モリヤ伝説】に続く。

ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説〔一〕】に戻る。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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秋田美人と粛慎(ミセハシ)の謎】に飛ぶ。
御門(みかど)】に飛ぶ。
鳥居(とりい)】に飛ぶ。
「厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子」】に飛ぶ。
聖徳太子は実在したか?】に飛ぶ。

詳しくは、小論【秋田美人とナニャドヤラ】を参照。

日本の伝説リスト】に転載文章です。

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by mmcjiyodan | 2011-10-22 21:22 | Comments(0)  

古代ヘブライ(ユダヤ)系・諏訪モリヤ伝説

古代ヘブライ(ユダヤ)に関わる伝説は厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子の誕生逸話に止まらず各地に在るが、代表的なものに諏訪・守屋氏(もりやうじ)の伝承がある。

守屋氏(もりやうじ)は、清和源氏藤原氏物部氏などでも称されるが、主として信濃国諏訪郡守屋山発祥の諏訪神家である。

「もりや姓」に関しては、守谷、守矢、守家などと通じ信濃、武蔵、摂津、阿波などに在し、守矢は、信濃国諏訪郡発祥にて洩矢神の子孫と伝え、現在長野県諏訪地域に多い。

他に森谷、森矢、杜屋と互用し現在、山形県にも多く、森屋は、大和国式下郡森屋荘発祥、十市姓森屋党他にほか武蔵などに存す。

この守屋姓(漢字別表記の場合も多い)に関して、その言われは縄文人渡来部族の合流の課程とリンクしていて非情に興味深い。

そしてこの守屋氏(もりやうじ)が、古代ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族渡来説と関わって伝承されている。

諏訪神家・守屋氏・・・諏訪大社と言うと御祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)と思われるが、謎の神様も祀られて居る。

ミシャグチ神と云う建御名方命より古い土着神であり、ミシャグチの正体や言れが良く解らない。

ミシャグチはユダヤ(イスラム~ヘブライ)と関係がある・・・などとも言われ、ミシャグチをヘブライ語にすると、「イサクの犠牲」と訳せると言う。

旧約聖書「創世記」では、アブラハムが自分の子イサクを「モリヤの山」で神に捧げたとあり、神はアブラハムの深い信仰心を理解したとされている。

諏訪地方はミシャグチ神を奉じる洩矢(モリヤ)族が暮らして居、その地に、建御名方命(タケミナカタノミコト)率いる渡来族が遣って来た。

天竜川の河口で渡来族と洩矢(モリヤ)族とで争いが起こり、洩矢(モリヤ)族は建御名方命(タケミナカタノミコト)の渡来族に征服され、建御名方命は諏訪湖を渡って対岸に上陸し、そこが諏訪神社の上社となる。

出雲・葦原中国(あしはらのなかつくに・天界に対する地上の国)から来て当地を征服した渡来族・建御名方命(タケミナカタノミコト)は諏訪大明神となり諏訪大社の開祖となった。

しかし諏訪の地を治むるに、「ミシャグチ神」を信奉する被征服族の諏訪大社神長官・守矢家の力は侮れなかった。

渡来族・建御名方命(タケミナカタノミコト)は、洩矢(モリヤ)族の古来土着神「ミシャグチ神」を祀らせ、此の地を統治し、御神体は本宮の後ろの守屋(洩矢~モリヤ)山とされる。

この諏訪・モリヤ伝説が、旧約聖書「創世記」に出て来る「イサク」「モリヤ山」が共通しているのだ。

そして「御頭祭」として、明治まで動物献上・人身御供が行われていた。

ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説】に戻る。

参考・関連小論【古代ヘブライ(ユダヤ)伝説・秋田美人とナニャドヤラ】はお薦めです。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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鳥居(とりい)】に飛ぶ。
御門(みかど)】に飛ぶ。
「厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子」】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-10-22 00:55 | Comments(0)  

鳥居(とりい)

わが国独特の建造物として、日本神道(神社)・鳥居(とりい)がある。

つまり、御門(みかど)として独特の権威を持つ鎮守氏上の屋敷の門が、神格・神域化して殊更権威ある物としての特別な門「鳥居(とりい)」の様式が、時間を掛けて完成されて行った。

まぁ、判り易く言えば、氏神(うじがみ・氏上)の屋敷兼砦の門が、権威を得て「鳥居に成った」と言う事である。
現在では、鳥居(とりい)内の境内は神の御神域とされている。

しかしこの「トリイ(鳥居)」についての異説が他にある。

鳥居は、その存在について日本人にも意味を説明し難いものだが、古代ヘブライの建物(玄関)とそっくりの構造をしているのだ。

そして「トリイ(鳥居)」は、ヘブライ語アラム方言で「門」と云う意味になると言う指摘がある。

エルサレム神殿の門には、天皇家の紋章と同じ「十六弁の菊花紋」が刻まれてい居て、此の紋章はイスラエル民族の紋章で現在のユダヤ教シナゴーグ(教会堂)には、必ず「菊の紋章」がある。

さらに、語学的酷似点としては、ヘブライ語の「ミコト・ミカド」の意味は「神々・天皇・貴人」の事を指す所から、ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説との類似を指摘している。

また、別にご紹介するキリストの生誕を擬した「厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子」の誕生逸話の酷似も或いはユダヤ文化の伝承を採った結果かも知れない。

詳しくは、小論・【秋田美人とナニャドヤラ】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-10-21 16:40 | Comments(0)  

水揚げ・〔二〕芸妓の水揚げ

水揚げ・〔一〕村落の水揚げ親に戻る。

それはその戦後の占領下に於いて、当時のGHQ司令官から公娼制度廃止の要求がされた事に伴い昭和三十三年に施行された売春防止法(法律第118号)まで続いていたのである。

事例として芸妓を例にとると、御茶屋遊びの芸妓の養成を兼ねた舞妓(年少芸妓/芸妓見習い)は現在は中学卒業後だが、戦前は九歳から十二歳の少女までだった。

京・大阪で言う舞妓は、江戸など関東地域で言う「半玉(はんぎょく)」もしくは「おしゃく」に相当する。

同様に、京・大阪での呼び方は芸妓、江戸での呼び方は芸者なので区別する必要がある。

舞妓見習いは、半年からに年ほどの「仕込み」期間を経た後、一ヵ月間「見習い」としてだらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。その後に置屋の女将と茶屋組合よりの許しを得て舞妓となり、座敷や舞台に上がりながら九歳から十二歳の間は芸妓を目指して修行する。

少女である舞妓の衣装は振袖・下げ帯(だらり帯び)だが、現在では襟替(えりか)えの時期が二十歳前後の場合が多いが、第二次世界大戦直後までは十三歳から十四歳で芸妓と成った。

そして「正統派の芸妓・芸者は売春を行う事はない」と言われている。

だが、江戸時代以来、芸妓もその他の遊女と同様に前借金を抱えた年季奉公であり、第二次世界大戦終戦前の花街は人身売買や売春の温床となっていた。

芸妓の世界では、誰でも構わず身を売る事は「不見転(みずてん)」として建前戒められていた。

だが、第二次世界大戦後の売春防止法(法律第118号)まで、こうした不見転(みずてん)はほぼ何処の土地でも見られ、置屋も積極的にこれを勧める事が多く、俗に枕芸者と呼ばれた。

また現実には、芸妓も遊女同様に前借金を抱えた年季奉公で在った事から、自分の妻また妾にする為の旦那衆に拠る水揚げや身請け(落籍)は在った。

つまり建前とは別の本音の部分では芸妓の水揚げや身請け(落籍)は実在し、その時に旦那衆から支払われた金は、前借金を差し引いて余れば置き屋と芸妓親元の分け前になる。

現代では、戦後の児童福祉法と労働基準法の改正に伴い現在は中学卒業後でないと舞妓に成れない。

そして現代では、十九~二十歳に成らないと芸妓には成れない。

だが、第二次世界大戦後の昭和三十三年当時の習俗的認識では、襟替(えりか)えして芸妓と成れる十三歳から十四歳の女性は、既に性の対象だった事に成る。

水揚げ・〔一〕村落の水揚げ親】に戻る。

詳しくは、小論【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-10-18 20:36 | Comments(0)  

古代豪族・中原氏流と支流・樋口氏

古代豪族・中原氏流は、安寧大王(あんねいおうきみ/第三代天皇)の第三皇子である磯城津彦命(しきつひこのみこと)が源流と言われているが確証はない。

しかし古代の豪族として中原氏流は、大和朝廷に「一定の勢力を築いて居た」と考えられる。

はじめ磯城津彦命(しきつひこのみこと)の子孫は、十市氏(といちうじ)の十市県主(といちあがたぬし)から十市首(といちのおびと)・十市宿禰(といちすくね)と名を替え九百七十一年(天禄二年)に十市有象・以忠が中原宿禰(なかはらすくね)姓に改め、九百七十四年(天延二年)に中原朝臣(なかはらのあそみ)姓を賜った事に始まった。

また、大和の国衆・十市氏が中原氏を称して居て、中原氏は十市県主(といちあがたぬし)に由来するとも言える。

古代豪族・中原氏は明法道、明経道を司る家系で、大外記・少外記を世襲職とする朝廷の局務家として長く続いた。

また中原氏は、東市正(ひがしのいちのかみ)を世襲し京都の行政に深く携わっわって公家・押小路家を名乗った。
中原氏嫡流の押小路家は地下家筆頭の公家として存続し、明治時代には華族に列せられ、男爵となった。

平安末期、信濃国木曾地方に本拠を置く豪族で、「木曾中三」を名乗りとする中原兼遠(なかはらのかねとお)が木曾義仲(源義仲)の平家討伐の旗揚げに参加している。

千百五十五年(久寿二年)の大蔵合戦(源氏・秩父氏の同族間による争い)で源義賢が甥の源義平に討たれた際、その遺児・駒王丸(義仲)を斎藤実盛の手から預かり、ひそかに匿って養育する。

兼遠(かねとお)の妻が木曾義仲(きそよしなか/源義仲)の乳母だった関係で平家から義仲を匿い育てた縁で娘の巴御前(ともえごぜん)を義仲の妾に付けて居る。

駒王丸(義仲)は兼遠一族の庇護のもとで成長し、木曾義仲と名乗って皇子・以仁王(もちひとおう)の平家打倒令旨(りょうじ)に呼応する。治承・寿永の内乱に於いて平家を都から追い遣り、その後源頼朝の差し向けた源範頼(みなもとのりより)源義経(みなもとのよしつね)等と戦う。

中世には中原親能(なかはらのちかよし)のように鎌倉幕府と関係を持つ者も現れた。

また、中原親能(なかはらのちかよし)の弟が鎌倉幕府・源頼朝の側近と成った中原広元(大江広元/おおえのひろもと)である。

親能(ちかよし)の養子となった中原師員(なかはらもろかず)の子孫は摂津氏を称し、鎌倉・室町の両幕府の実務面で活躍した。

樋口氏は平安時代末期に、中原兼遠の次男・中原兼光が信濃国筑摩郡樋口谷(または伊那郡樋口村)を領した事から、樋口兼光と名乗った事が発祥である。

兼光は弟・今井兼平らとともに木曾義仲の重臣として、後世に義仲四天王の一人に数えられるほどに活躍した。

時代が下り、戦国時代には中原兼遠(なかはらのかねとお)の子孫は越後国に移り、惣右衛門兼豊の代には上田長尾家の長尾政景、ついで長尾上杉家の上杉謙信のに仕えていた。

兼豊の長男・与六兼続は婿養子として越後の名族・直江家を継ぎ、上杉家の家老となり主君・上杉景勝の片腕として主を支え続け、戦国安土桃山に活躍した上杉家・執政・直江兼続(なおえかねつぐ)を出している。

なお本家の家督は三男・与八秀兼が継ぎ、その子孫は江戸時代を通して米沢藩士として存続した。
江戸時代についての樋口氏は米沢藩の平侍約七十戸中にあり、藩内席次は第四十二位位、石高は二百五十石だった。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

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【中原流大江氏・大江広元(おおえのひろもと)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2011-10-16 18:15 | Comments(0)  

阿部正弘(あべまさひろ)と三河阿部氏

幕末の動乱期に在って安政の改革を断行した江戸幕府老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)は、阿部家宗家十一代にして江戸時代末期の備後福山藩第七代藩主である。

井伊直弼(いいなおすけ)攘夷運動の的になって暗殺されたが、幕閣に在って最初に開国を主導したのは直弼(なおすけ)の前任・老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)だった。


大奥と僧侶が、十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)時代に乱交を極めていた事件が、家斉(いえなり)没後に寺社奉行となった正弘(まさひろ)の時代に露見する。

正弘(まさひろ)は将軍・家斉(いえなり)の非を表面化させる事を恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。

この裁断により、正弘(まさひろ)は第十二代代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)より目をかけられるようになったと言われる。

千八百四十三年(天保十四年)九月十一日、正弘(まさひろ)は二十五歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。

千八百四十四年(天保十五年)五月に江戸城本丸焼失事件が起こり、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦(みずのただくに)が老中首座に復帰する。

しかし正弘(まさひろ)は一度罷免された水野忠邦(みずのただくに)が復帰するのに反対し、家慶(いえよし)に対して将軍の権威と沽券を傷つけるものだと諫言したという。

老中首座に水野忠邦(みずのただくに)が復帰すると、正弘(まさひろ)は天保改革時代に不正などを行っていた江戸南町奉行・鳥居耀蔵(とりいようぞう)や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し後任の南町奉行には元北町奉行・遠山景元を就任させる。

さらに正弘(まさひろ)は、千八百四十五年(弘化二年)九月には老中首座であった水野忠邦をも天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、後任の老中首座となる。


正弘(まさひろ)は江川英龍(えがわひでたつ)勝海舟(かつかいしゅう)、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆(たかしましゅうはん)らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。

正弘(まさひろ)が創設した講武所は、後に日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となる。

また、正弘(まさひろ)は西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など幕政改革(安政の改革)に取り組んだ。

千八百五十七年(安政四年)六月十七日、正弘(まさひろ)は老中在任のまま三十九歳にて江戸で急死した。


備後福山藩(十一万石)藩主・阿部正弘(あべまさひろ)の先祖は徳川家康の江戸幕府成立に貢献した阿部家宗家である。

阿部正勝(あべまさかつ)が徳川家康に仕えて今川氏武田氏らとの戦で活躍し、小田原の役後、家康の関東に入部に際して鳩ヶ谷で五千石を賜る。

後を継いだ正勝(まさかつ)継嗣・阿部正次が関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、相模国内に五千石を加増され、父の遺領と併せて鳩ヶ谷藩一万石の大名となる。

その後正次(まさつぐ)は、大番頭、伏見城番などを歴任し、大坂の役でも戦功を挙げて正次は三万石にまで加増され総国大多喜藩へ移された。

大坂の役後、正次(まさつぐ)は急速に加増を重ね、千六百二十六年(寛永三年)には八万六千石余となり、大坂城代に任じられる。

正次(まさつぐ)が大坂に転出した後、岩槻の治世は嫡男の阿部政澄が三万石で担当するも早世した為、正次の次男で三浦氏を継いでいた阿部重次が復姓し、五万九千石で岩城藩に入る。

正次(まさつぐ)が大阪城代赴任中に死去、次男・阿部家宗家二代・阿部重次(あべしげつぐ)が父・正次(まさつぐ)の後を継いで正式に家督を相続の上、一万石の加増も受けて合計九万九千石の所領を継ぐ。

その後阿部家宗家は、丹後国宮津藩九万九千石へ移封、下野国宇都宮藩十万石へ移封と転じて備後国福山藩十万石へ移封される。

備後福山藩は、阿部家宗家五代・阿部正邦(あべまさくに)が下野宇都宮藩から移封されて備後阿部家が成立した。

三河阿部氏は、江戸幕府を成立させた徳川家康を輩出した三河松平氏(徳川氏)の安祥譜代七家中の一家に挙げられるほどの古参家臣の家柄である。

この三河阿部氏、所謂安倍一族ではなく始祖は孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)第一皇子・阿部大彦命(あべおおびこのみこと)とされる。

ただしこの孝元大王(こうげんおおきみ/第八代天皇)は欠史八代の一人で、在しない天皇と捉える見方が一般的である。

しかしながら、三河阿部氏のごとく「阿部氏の系譜」の存在から近年は実在説を唱える学者も数が増えている。

徳川譜代・三河阿部氏には阿部正勝の系統は、正勝の子・正次が江戸幕府で大坂城代を務めた事をきっかけに、分家でも大名に取り立てられて広がって行く。

正次以降でも、幕閣を担った人材を多数輩出していて、中でも三代将軍・徳川家光の頃に老中を務めた下野壬生藩・武蔵忍藩々主・阿部忠秋(あべただあき)が知られている。


詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-10-11 18:46 | Comments(0)  

富士山・貞観大噴火(じょうがんだいふんか)

平安時代初期の八百六十四年(貞観六年)から八百六十六年(貞観八年)にかけて発生した富士山の大規模な噴火活動を貞観大噴火(じょうがんだいふんか)と言う。

この噴火は、山頂から北西に約十キロメートル離れた斜面で発生した大規模な割れ目噴火で、長尾山他二~三のスコリア丘(単成火山)を形成し、膨大な量の溶岩を噴出させた。

噴出物の総量は約七億立方メートルにも及び、溶岩流は北西山麓を広く覆い尽くした末に、北麓にあった広大な湖・RWの海(せのうみ)の大半を埋没させた。

江戸時代中期の千七百七年(宝永四年)に起きた宝永大噴火(ほうえいだいふんか)と伴に、富士山の噴火災害の特異例として数え上げられ、文献記録に残る富士山噴火の内で最大規模とも言われている。

なお、、九世紀半ばまで日本の富士山北麓に在った湖でこの噴火で埋没した「RWの海(せのうみ)」の残片が現在の富士五湖の内の二つ、西湖と精進湖である。

また、富士山の北西に位置する青木ヶ原樹海は、この噴火の溶岩流の上に千二百年の時を経て再生した森林地帯である。

実はこの「貞観(じょうがん)の富士山大噴火」から五年後に、奥州三陸地方で貞観大地震(じょうがんだいじしん)が発生している。

この事から、日本列島の地殻活動期として火山噴火と大地震は何らかの繋がりが在りそうである。

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)は、大和朝廷(日本の首都)平城京から長岡京を経た末に平安京に落ち着いてちょうど七十年目にあたる年である。

朝廷では清和天皇の外祖父・藤原良房(ふじわらのよしふさ)が皇族以外で初の摂政に就任し、後の藤原北家繁栄の礎を築きつつあった。

良房は二年後の八百六十六年(貞観八年)、応天門の変に於いて大納言・伴善男(とも のよしお/大伴氏)を流罪に追い込み、その権勢を一層磐石とする。

貞観大地震(じょうがんだいじしん)】に続く。

関連小論・【南海トラフ巨大地震・「東海地震と三連動の記録史」

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by mmcjiyodan | 2011-10-09 18:27 | Comments(0)  

北畠氏(きたばたけうじ)

北畠氏(きたばたけうじ)は村上天皇を始祖とする村上源氏の流れを汲む名門公家の一家で、後に伊勢の戦国大名ともなった氏族である。

村上天皇の子孫である中院雅家(なかのいんけ)が洛北の北畠に移った事から「北畠」を名乗り、代々和漢の学をもって天皇に仕えた。

鎌倉時代末期には、後醍醐天皇の第一皇子・大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)北畠親房(きたばたけちかふさ)の娘(名は立花姫)を娶り妃とした。

つまり、北畠親房(きたばたけちかふさ)は護良親王(もりながしんのう)の義父に当たり、北畠顕家 (きたばたけあきいえ)が義兄弟にあたる。

そうした縁に拠り、北畠親子は後醍醐天皇の「建武の新政」を支える事となる。

北畠親房の長男・北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、父とともに義良親王(のりながしんのう/後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴た。

その奥州鎮定の途中に足利尊氏が建武政権から離反した為、奥州から兵を率いて尊氏を京都から追い、以後、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦った。

後醍醐帝没後に北畠顕家(きたばたけあきいえ)は南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す「神皇正統記」を記した。

南北朝並立期に、親房の三男・北畠顕能(きたばたけあきよし)が伊勢国司となった事が、伊勢の北畠氏の起源と言われている。

その伊勢国司・北畠顕能の末裔が、室町時代に入っても伊勢で独自の勢力を持ち、その支配形態は国司体制を維持する言わば公家大名と言うべきようなものであった。

伊勢北畠氏からは大河内氏、木造氏、坂内氏、田丸氏、星合氏、岩内氏、藤方氏、波瀬氏の諸氏が分かれ出て、それぞれ御所と称された。

木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、木造御所の官位は北畠宗家・多芸御所を上回ることもあり、度々宗家と対立した。

その為、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内氏は筆頭とされ、宗家が絶えたときは、これを継ぐ立場にあった。

奥州・津軽には、義良親王(のりながしんのう)を奉じて奥州鎮定に赴た北畠顕家の子孫説や北畠顕信の子孫説、または顕家(又は顕信)の子孫が入婿となったとされる北畠庶流が浪岡御所として存在した。

戦国時代に入ると、伊勢北畠家当主に北畠晴具(きたばたけはるとも)が現われて勢力を拡大し、戦国大名化し最盛期を迎えた。

その後の千五百六十九年(永禄十二年)、晴具の子・北畠具教(きたばたけとものり)の時に織田信長の侵攻を受けて和議に及ぶ。

和議に拠り信長の次男・織田信雄を「長男・北畠具房(きたばたけともふさ)の養子にして娘・北畠雪(千代御前)の婿に迎える」と言う降伏に近い形で屈服する事となった。

これにより、北畠氏は実質的に織田信長によって乗っ取られる。

この時、木造氏の当主は具教の実弟・木造具政で在ったが、織田家に内通している。

千五百七十六年(天正四年)、三瀬御所に隠居していた具教(とものり)は、信長の命により具豊(ともとよ/信雄)の放った刺客により館を急襲された三瀬の変にて、四男・徳松丸、五男・亀松丸と共に暗殺された。

具教(とものり)長男・北畠具房(きたばたけともふさ)はその身柄を滝川一益に預けられ、安濃郡河内に三年間幽閉された後、千五百八十年(天正八年)一月五日に京都で死去している。

次男・長野具藤(ながのともふじ)、三男・北畠親成(きたばたけちかなり)は田丸御所にて、大河内教通、波瀬具祐、岩内光安、坂内具義と共に殺害される。

坂内御所に於いては坂内具房、霧山御所に於いては城代・北畠政成、及び波瀬具通が殺害されるなど多くの北畠一族は滅亡した。

ただし北畠諸流の一部、木造氏、田丸氏、神戸氏、星合氏等は織田信雄の家臣となるなどして生き永らえ、その後、一部は江戸期に旗本となった。

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by mmcjiyodan | 2011-10-07 13:36 | Comments(0)  

徳川家茂(とくがわいえもち)

徳川家茂(とくがわいえもち)は、江戸幕府第十四代征夷大将軍である。

千八百四十六年(弘化三年)閏五月二十四日、紀州藩第十一代藩主・徳川斉順(とくがわいえなり)の次男として江戸の紀州藩邸(現:東京都港区)で生まれる。

なお、兄にあたる幻成院英晃常暉大童子は千八百三十年(文政十二年)に流産で死去している為、次男ながら継嗣である。

幼名は菊千代と言い、千八百四十九年(嘉永二年)に叔父で第十二代藩主である徳川斉彊(とくがわなりかつ)が死去した為、その養子として家督を四歳で継ぎ、家茂(いえもち)は第十三代藩主となった。

祖父は十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)、祖母は妙操院(側室)で実父・徳川斉順(とくがわなりゆき)は家斉(いえなり)の三男である。

実父・徳川斉順(とくがわなりゆき/最終・紀州藩主)は第十二代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)の実弟であり、第十三代代将軍・家定(いえさだ)の従兄弟にあたる。

家茂(いえもち)は徳川斉順(とくがわなりゆき/清水徳川家および紀州徳川家の当主)の次男であるが、父は家茂が生まれる前に薨去している。

父・斉順(なりゆき)が紀州徳川家の当主だった事から、家茂(いえもち)の将軍就任の前は、徳川御三家・紀州藩第十三代藩主で、初名は慶福(よしとみ)を名乗っていた。

第十三代将軍・徳川家定の後継者問題が持ち上がった際、徳川氏中、「最も近い血筋の人物である」として、譜代筆頭の井伊直弼(いいなおすけ)ら南紀派の支持を受ける。

千八百五十八年(安政五年)一橋派との抗争の末に勝利し、直後に第十三代将軍・徳川家定も死去した為に、家茂(いえもち)は十三歳で第十四代将軍となった。

千八百六十二年(文久二年)家茂(いえもち)は、天皇家と将軍家の公武合体を目途とした婚姻で孝明天皇の妹・親子内親王(和宮/静寛院宮)を正室とする。

家茂(いえもち)と正室・和宮との仲は政略結婚ではあるが関係は良好で、徳川家歴代の将軍と正室の中で最も夫婦仲が良かったのは家茂・和宮と言われた。

千八百六十三年(文久三年)に家茂(いえもち)が将軍としては二百二十九年振りとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓った。

千八百六十五年(慶応元年)兵庫開港を決定した老中・阿部正外らが朝廷によって処罰される。

家茂(いえもち)は、自ら将軍職の辞意を朝廷に上申するが、孝明天皇は大いに驚き慌てて辞意を取り下げさせ、「その後の幕府人事への干渉をしないと約束した」と言う。

翌千八百六十六年(慶応二年)家茂は第二次長州征討の途上大坂城で病に倒れ、この知らせを聞いた孝明天皇は、典薬寮の医師である高階経由と福井登の二人を大坂へ派遣し、その治療に当たらせる。

江戸城からは、天璋院(てんしょういん/このえあつひめ)や和宮の侍医として留守を守っていた大膳亮弘玄院、多紀養春院(多紀安琢)、遠田澄庵、高島祐庵、浅田宗伯らが大坂へ急派された。

しかしその甲斐なく、家茂(いえもち)は同年七月二十日に大坂城にて満二十歳で薨去した。

家茂は死に際し、徳川家達(とくがわいえさと/田安家の徳川亀之助)を徳川宗家の後継者・次期将軍として指名して遺言とした。

しかし千八百六十六年(慶応二年・年末)、十四代将軍・家茂の死去後江戸幕府第十五代将軍に就任したのは御三家・水戸徳川家出身の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)だった。

十四代将軍・家茂(いえもち)の若過ぎた薨去から然して間を置かず同じ年(慶応二年)に孝明天皇は突然発病し、時代に翻弄されながら在位二十一年にして崩御する。

ご壮健であらせられた孝明天皇が数えの三十六歳の若さにしてあえなく崩御してしまった事から、孝明天皇と将軍・家茂(いえもち)の相次ぐ死に、直後にその死因に対する不審説が漏れ広がっている。

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by mmcjiyodan | 2011-10-06 10:06 | Comments(0)