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義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)

後醍醐天皇の第七皇子、義良親王(のりながしんのう/後の南朝・後村上天皇)の母は、阿野公廉(あのきみかど/藤原)の子女・阿野廉子(あのかどこ)である。

千三百三十三年(元弘三年/正慶二年)、後醍醐天皇の主導に拠る元弘の乱(げんこうのらん)が成功して鎌倉幕府が滅亡し、父・後醍醐天皇が建武の新政を始める。

五歳と幼い皇子・義良(のりなが)は、北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かう。

千三百三十四年(建武元年)、皇子・義良(のりなが)は多賀城に於いて親王となるも、翌千三百三十五年(建武二年)足利尊氏が新政から離反した為、北畠親子と伴に尊氏討伐へ京に引き返す。

千三百三十六年(建武三年)、九歳の義良親王(のりながしんのう)は行在所比叡山に於いて元服を行い、同時に三品陸奥太守(さんぴんむつたいしゅ)に叙任され、尊氏が京で宮方に敗れて九州落ちすると再び奥州へ赴いた。

千三百三十七年(延元二年/建武四年)多賀城が襲撃されて危険となり、霊山に難を避けたが、その後夏に成って再度上洛を始める。

義良親王(のりながしんのう)は同年冬に鎌倉を攻略し、翌千三百三十八年(延元三年/暦応元年)さらに西上して美濃国青野原の戦いで足利方を破って、伊勢・伊賀方面に転進した後、父・後醍醐天皇が居る大和の吉野行宮に入った。

父・後醍醐天皇が全国の南朝勢力を結集する為に各地に自らの皇子を派遣する中、義良親王(のりながしんのう)も宗良親王(むねながしんのう)と伴に北畠親房・顕信に奉ぜられて伊勢国大湊から船団を率いて三度目の奥州平定を目指す。

しかし義良親王(のりながしんのう)一行は途中暴風に遭って船団は離散し、義良親王(のりながしんのう)の船は伊勢に漂着する。

翌千三百三十九年(延元四年/暦応に年)、義良親王(のりながしんのう)は吉野へ戻り、間もなく皇太子と成る。

同年父・後醍醐天皇の譲位を受けて践祚(せんそ)し、南朝の第二代天皇・後村上天皇(ごむらかみてんのう)を名乗り、大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。

この後、村上天皇(ごむらかみてんのう)は、遥か五百七十年ほど後の千九百十一年(明治四十四年)、明治政府から南朝が正統とされた為、歴代天皇として認定されるようになった。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

詳しくは、関連小論・【真言密教立川流の解説】に参照下さい。
詳しくは、関連小説・【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-28 14:31 | Comments(0)  

官人接待(かんじんせったい)と神前娼婦(しんぜんしょうふ)

御託宣(ごたくせん)の神事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて、「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では呪詛行為の術で恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

まぁ、このハィ現象(脱魂)が、マラソンのランナーズハィや山登りのクライマーズハィ、そしてデスコダンスや盆踊りのダンシングハィ、もっと言えばアフリカ部族の原始的な踊りなどに共通する。


何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていた。

この巫女が「神懸かり」になる為の社殿神前性交が基と成り、やがて飛鳥期頃に神社と官人(高級貴族役人)の間で社殿神前に於ける官人接待の習慣が起こり、歌舞・音曲・性交がセットに成った「神前娼婦」と言う形態が出来上がる。

地方の小さな神社は、氏神社(うじがみしゃ)と言う地方支配者(氏族(うじぞく))起原の神社が多い。

いずれにしても神社の氏神(うじがみ・氏上)は文字通りの旧領主や旧赴任者が司執(つかさど)っていて、神社の社領を維持拡大しなければ成らない。

勿論神前娼婦(巫女)は簡単な情報収集の使命も負って居て、現代風に言えばハニートラップ(性を武器にする女スパイ)である。

何故なら、神社側は旧支配者が土着した郷士の末裔であり、官人は現支配者として赴任して来た相手で、御機嫌取りと腹の内を探る必要が在った。

つまり「氏神(うじがみ・氏上)神社」は土着した有力氏族の象徴的な施設で、中央から赴任して来た「官人」との暗闘の場でも在った。

ハニートラップ(性を武器にする女スパイ)は、安全保障の手段である。

日本は平和ボケしているからハニートラップ(性を武器にする女スパイ)など夢物語だが、現在でも世界中で採用されている最も有効な手段である。

いずれにしても、権力者を喜ばせる事は金に成ったり権力と結び付いたりの効果的な手段である。

そこで、新たにその土地に赴任して来る官人(高級貴族役人)を取り込む為の接待は欠かせず、一族の存亡に関わるからその接待は疎(おろそ)かには出来ない。

勿論新たに中央のヤマト政権から赴任して来た官人も、地元の有力者(氏上)と揉(も)めては赴任先での任が果たせなくなるから、そこは思惑が一致して上手く接待に乗る。

飛鳥期から平安期に到る時代的に考察すれば、この時代の巫女は神に仕える憧れの花形の職業で、勿論神前性交も神とのコンタクトと言う神聖な儀式で、性交に違和感は無いのである。

官人(高級貴族役人)接待に於いても、何しろ巫女は神と交わり浄化された身であるから、官人としてもその歌舞・音曲・性交接待を大いに喜んで居たに違いない。

それが遊女の原型と成り、平安末期には白拍子と呼ばれる遊女と繋がって行く。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

神前祭祀(しんぜんさいし)と大麻(おおぬさ)】に続く。

詳しくは、小論【遊女(女郎)の歴史】を参照下さい。
詳しくは、小論【誓約(うけい)】をご参照ください。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-25 11:01 | Comments(0)  

旗本(はたもと)

本来、旗本(はたもと)の呼称は中世(戦国時代)に戦場で主君の軍旗を守る武士団を意味していた。

しかし江戸時代に成ると、徳川幕府の身分制度の呼称に変わって行く。

日本の武門制度では、幕府が成立すると全国各地の領主はその幕府に家臣として帰属しなければならない。

従って徳川幕府の家臣の内、原則では所領が一万石を越える領地を持つ者を大名と呼び、一万石に満たない小領主を旗本(直参)と呼ぶ。

小領主が幕府に旗本領を認められて旗本格になると、世間的には「殿様」と呼ばれる身分となった。

つまり旗本(はたもと)の呼称は、江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団に於ける武士の身分の一つで、儀式などで将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称である。

中でも「高家旗本(こうけはたもと)」や「交代寄合格(大名待遇格)」などがあり、その格式を持たない者が残りの「寄合格旗本」だった。

全国に散らばる一万石に満たない小領主は、旗本(直参)と呼んで江戸城下に屋敷を構えさせて住まわせ幕府に出仕させる。

旗本が領有する領地及びその支配機構(旗本領)は知行所と呼ばれ、その運営は国許の家臣が行う事に成る。

それで一生に数度しか知行所に行った事が無い者や、一生自分の領有する知行所に行く事無く生涯を江戸で過ごす旗本領主も存在した。

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第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-22 06:10 | Comments(0)  

三百諸侯(さんびゃくしょこう)・江戸時代の大名家

徳川幕府の家臣の内、原則では所領が一万石を越える領地を持つ者を大名と呼び、一万石に満たない小領主を旗本と呼ぶ。

大名の語源であるが、平安時代に起こった名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)にある。

守護大名(しゅごだいみょう)戦国期に、半国、一国、数ヵ国を領有する大名の由来は「大名田堵(だいみょうたと)から転じた」で、たまに見かける「大いに名が轟くから大名と言う説」は怪しい解説である。


一般に三百諸侯と言うが、徳川幕府二百六十年余りを延べで数えると五百数十家存在し、江戸期を通じて概ね二百七十家くらいが平均で在った。

その間、江戸時代を通じて処罰された大名の総数は二百四十八家で、取り潰された大名の親藩・譜代と外様の割合はほぼ半々だった。

大名家には、規模や格式に拠り国主、城主、無城(陣屋)の別が在り、親藩、譜代、外様の区別がある。

この幕藩体制に於ける領地及び行政機構に於いて徳川将軍宗家自身は大名・藩とは考えられていない。

それに「藩」ついて注釈を入れると、実は「藩」と言う呼称も幕末に一般化したもので、それまでは余り「藩」は文書や会話でも日常的に使われて居らず「何々様御家中、何々様御領分」と言った様な概念だった。

徳川幕府に於ける親藩は、二十二家を数える。

親藩の内訳は、尾張紀伊水戸御三家を筆頭に、御三家の親戚連枝大名が七藩、二代将軍・秀忠の兄・結城秀康に始まる越前松平系の八藩、それに三代将軍・家光の弟・会津松平家、越智松平家、久松松平家の内二家である。

ただし、八代将軍・吉宗が創出した御三卿、一橋、田安、清水家は十万石となっているが、領地は天領の中から散在して与えられ封地が定まっている訳では無い。

更にこの御三卿は、家臣も「幕臣の出向」のみで固有の譜代家臣が存在せず、御三卿は条件不十分で大名家とは言い難い。

譜代とは関ヶ原以前から徳川家の家臣だった大名で、逆の見方をすると豊臣政権時に、豊臣家から見て「徳川家の陪臣だった者」と言う事もできる。

従って豊臣家の直大名だった者が原則徳川幕府に於いて外様となるが、外様で在った者が譜代格を得る場合もあった。

大名家の扱いについて例外はいくつかあり、蝦夷松前(えぞまつまえ/北海道)の松前家は石高は無高だが一万石格で大名家扱い、下野国・喜連川の喜連川家(足利尊氏の次男・足利基氏の後裔)は五千石だが万石扱いで同じく大名家として扱った。

また、大々名の家臣(陪臣)には、当然石高一万石を超える者も居るが、陪臣は原則として大名ではない。

ただし、御三家の付け家老五家・尾張家の成瀬家(犬山三万五千石)・竹腰家(今尾三万石)、紀州家の安藤家(田辺三万八千石)・水野家(新宮三万五千石)、水戸家の中山家(松岡二万五千石)については、直参(譜代大名)と扱われて居り参勤交代もしていた。尚、この御三家の付け家老五家に関しては、維新時に新政府によって独立の藩とされたので、史学上では大名家としてカウントする場合もある。

その他、周防岩国の吉川家歴史的経緯が在り徳川家から認可されている事、参勤交代を行っている事など、実質的には大名家である。

しかし毛利宗家が、そのを吉川家を大名と認めず毛利家の家臣=陪臣として居り、複雑な地位だった。

また、一万石に満たない小領主を旗本と呼ぶが、その中でも「高家旗本(こうけはたもと)」や「交代寄合格(大名待遇格)」などがあり、その格式を持たない者が「寄合格旗本」だった。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

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第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-21 14:09 | Comments(0)  

奥女中(おくじょちゅう)

江戸時代将軍家大名旗本など諸家の奥向きに仕えた武家方の女性奉公人を奥女中(おくじょちゅう)とも御殿女中とも言う。

江戸城大奥の制度を確立したのは春日局(かすがのつぼね/お福/斉藤福)と伝えられている。

将軍家の大奥には、将軍付の女中と御台所(みだいどころ)付の女中が在り、またその役職に応じて御目見(おめみえ)以上と御目見以下の身分に区別された。

大奥の御目見以上の役職には公家(くげ)の出身が多い上臈(じょうろう)を始め、御年寄、中年寄、御客会釈(あしらい)、中、御坊主、御小姓(おこしょう)、御錠口(おじょうぐち)、表使、御次、御右筆(おゆうひつ)、御切手書、呉服之間(ごふくのま)が在る。

これらの大奥女中には、皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)同様に中から自由に将軍が「妾(側室)」を選ぶしきたりに応ずる事が出仕の条件に在る。

つまり将軍家の定法上は、選り採り見採りの奥女中独占のハーレム状態で、将軍次第で「妾(側室)」に代わる権利義務を有する存在でも在った。

側妾などの「お手つき女中」の縁者はしめたもので幕府要職に取り立てられた者も多く、つまりは太平の世に在って、武家としての出世の糸口が身内の「お手つき」で在り、大名・旗本の諸家でも出世の糸口として同様だった。

また大奥では、奥向き女中の勢力が表向きの政治に影響を及ぼす大きな力を持つ事も在った。

大奥女中は主に公家や旗本の女の内から召し出されたが、町家の女でも旗本を仮親とし出仕する事が在った。

奉公の際は、奥向きの事は一切他言しないなどの誓紙を差し出し、その身は一生奉公を建前としたが、実際には下級の女中は願い出ると暇が出された。

奥女中の内御目見以下の軽い役職には御三之間、御広座敷、御火之番、御使番、御仲居、御末、御犬子供(おいぬこども)などが在った。

大名・旗本の諸家でも、奥女中(おくじょちゅう)の身分はほぼこれに準じたもので、「お手つき」の可能性は合意の上の奥出仕であるから「お手つき」を望みこそすれ主君に拠る奥女中(おくじょちゅう)の手篭めなどの時代劇ストーリーは存在しない。

将軍家・大名家・武家に於ける女奉公人には、「御女中(おじょちゅう)」、「仲居(なかい)」、そして「端女(お端・はしため)」や「下女(げじょ)」と言う階級があり、これは字のごとく下働きだが、「御女中(おじょちゅう)」の仕事は貴人(主人)の身の回りに限られている。

つまり「女中(じょちゅう)」は、女性奉公人としては少し上の階級で、貴人(主人)の身近で気持ち良い生活を提供する務めが主であり、「御伽(おとぎ)」と称するお手が付いても不思議では無い立場である。


尚、時代劇の武家女中シーンで腰元(こしもと)と言う呼称が聞かれるが、間違いである。

一般には江戸時代に武家方の奥向きに仕える女中と同義に解釈しているが、武家方の女奉公人の内には腰元の呼称は無い。

腰元(こしもと)は上流の商家の人々の側に仕えて雑用をたす侍女(小間使/こまづかい)を指す呼称で、身の回りに置いて使う事から腰元使(こしもとづかい)とも言う。

また、遊女屋の主人の居間や帳場で雑用に使われる女性も腰元(こしもと)と言った。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-20 07:34 | Comments(0)  

時代区分一覧表(皇統と鵺の影人版)

時代区分一覧表(皇統と鵺の影人版) クリックリスト
樺太(からふと)から来た原人・旧 石器時代】に飛ぶ。
稲作縄文人(いなさくじょうもんじん)】に飛ぶ。
倭国(わこく)と弥生人(やよいじん)】に飛ぶ。
邪馬台国(やまたいこく)と狗奴国(くなくに)】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。
飛鳥京(あすかきょう)・飛鳥時代(あすかじだい)】に飛ぶ。
藤原京(ふじわらきょう)=新益京(あらましのみやこ)・飛鳥時代(あすかじだい)】に飛ぶ。
平城京(へいじょうきょう)・奈良時代(ならじだい)】に飛ぶ。
長岡京(ながおかきょう)・奈良時代(ならじだい)】に飛ぶ。
平安京(へいあんきょう)】に飛ぶ。
平安時代(へいあんじだい)】に飛ぶ。
鎌倉幕府の成立大略・鎌倉時代】に飛ぶ。
建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立時代】に飛ぶ。
室町幕府の成立大略・室町時代】に飛ぶ。
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。
安土桃山時代(あづちももやまじだい)】に飛ぶ。
江戸幕府・成立大略・江戸時代】に飛ぶ。
明治維新(隠された明治維新)】に飛ぶ。

「何処から来たのか?」の詳しくは小論【日本人の祖先は何処から来たのか?】に飛ぶ。

第一巻】から【第六巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-16 17:31 | Comments(0)  

安土桃山時代(あづちももやまじだい)

織田信長豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代を、織田信長の居城で在った安土城、豊臣秀吉の居城で在った伏見城(桃山)から、安土桃山時代(あづちももやまじだい)と呼ばれる。

しかしながら歴史的経緯からすると、安土城は完成からわずか三年余りしか存在しておらず、伏見城(木幡山)に於いても完成から二年後に秀吉が死去するなど、それぞれ在城は短期間な為、これらを時代の呼称に用いる事自体が「適切ではない」と言う説もある。

桃山の呼称については桃山の地名や城が存在したのでは無く、伏見城の跡地に桃の木が植えられた事から江戸時代に名付けられたもので不適切との指摘もあり、近年では織豊時代(しょくほうじだい)とも呼ばれる。

つまり安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、室町時代と戦国時代の間に在って両時代と重複してしまう所から、何年から何年の間と言う時代区分の定義決定に諸説があるのだ。

この時代の始期、信長の安土時代に関しては信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した千五百六十八(年永禄十一年)、義昭が京都から放逐されて室町幕府が倒された千五百七十三年(元亀四年)、安土城の建設が始まった千五百七十六年(天正四年)とするなど多くの説がある。

また、終期の桃山時代に於いても豊臣秀吉が死去した千五百九十八年(慶長三年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した千六百年(慶長五年)、家康が征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた千六百三年(慶長八年)などの説がある。

この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。

★クリックリスト・・武将名をクリック願います。
主な安土桃山時代の大名家・代表的当主一覧
(有名な兄弟や子息が有る場合は、中から飛べます。)
織田信長(おだのぶなが)
豊臣秀吉(とよとみのひでよし)
徳川家康(とくがわいえやす)
徳川秀忠(とくがわひでただ)
明智光秀(あけちみつひで)
前田利家(まえだとしいえ)
前田利長(まえだとしなが)
柴田勝家(しばたかついえ)
滝川一益(たきがわかずます)
丹羽長秀(にわながひで)
蒲生氏郷(がもううじさと)
武田信玄(たけだしんげん)
伊達政宗(だてまさむね)
長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)
大友宗麟(おおともそうりん)
島津義久(しまずよしひさ)
島津義弘(しまづよしひろ)
上杉景勝(うえすぎかげかつ)
毛利輝元(もうりてるもと)
小早川隆景(こばやかわたかかげ)
宇喜多秀家(うきたひでいえ)
堀秀政(ほりひでまさ)
石田三成(いしだみつなり)
福島正則(ふくしままさのり)
加藤清正(かとうきよまさ)
加藤嘉明(かとうよしあき)
池田輝政(いけだてるまさ)
浅野長政(あさのながまさ)
真田昌幸(まさゆき)
小西行長(こにしゆきなが)
京極高次(きょうごくたかつぐ)
藤堂高虎(とうどうたかとら)
蜂須賀小六(正勝)/(はちすかころくまさかつ)
黒田官兵衛孝高/如水(くろだかんべいよしたか/じょすい)
黒田長政(くろだながまさ)
沢彦宗恩(たくげんそうおん)
原田(塙)直政(はらだ/ばんなおまさ)
前田玄以(まえだげんい)
簗田政綱(やなだまさつな)・簗田広正(やなだひろまさ)
荒木村重(あらきむらしげ)
池田勝正(いけだかつまさ)
今井宗久 (いまいそうきゅう)
稲葉良通(いなばよしみち)
河尻秀隆(かわじりひでたか)
村井貞勝(むらいさだかつ)
森長可(もりながよし)
佐々成政(さっさなりまさ)
前田慶次郎(まえだけいじろう/利益・とします)
牧野康成(まきのやすなり)
佐久間盛政(さくまもりまさ)
酒井忠次(さかいただつぐ)
真田昌幸(さなだまさゆき)
島津義久(しまずよしひさ)
島津義弘(しまづよしひろ)
黒田官兵衛孝高/如水(くろだかんべいよしたか/じょすい)
竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)
高山右近(たかやまうこん)
武田元明(たけだもとあき)
山内一豊(やまうちかつとよ)
鈴木重意(しげおき/雑賀孫市)
服部半蔵(はっとりはんぞう)
◆上記は特に目立った人物を挙げましたが、日本史検索データに入って頂ければかなりの数のエピソードと人物のリストがあります。

江戸幕府・成立大略】に続く。
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2011-11-12 00:15 | Comments(0)  

日本人の祖先は何処から来たのか?(四)邪馬台国と狗奴国

日本人の祖先は何処から来たのか?(一)樺太から来た原人】に戻る。

この後この物語で詳しくご紹介するのだが、弥生時代後期の二世紀後半に日本列島側の倭国で起こった争乱・倭国大乱(わこくたいらん)の経緯を簡単に言ってしまう。

日本列島の西側で成立した小国家群が弥生時代後期に段々に武力吸収や合併を繰り返して大きくなり、列島の西側の東の外れに在った呉族系の大国・伊都国(いとこく)と西で勢力を伸ばして来た呉族系の狗奴国(くなくに)が合併する。

大勢力と成った呉族系海洋民族の国・スサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)と加羅族系農耕民族の国・卑弥呼(比売命/ヒメノミコ)邪馬台国との二大勢力と成り、争いの後には両者が誓約(うけい)を結んで騒乱は収まった。

中華帝国の
魏書に在るのみで日本の史書に記載が無い卑弥呼邪馬台国の事を知らない日本人は、何故かほぼ居ない。

だが、日本の史書とされる古事記日本書紀に在るスサノウ(須佐王)狗奴国(くなくに)はかなり知名度が低い。

この奇妙な状況が、今の日本史の現状ではないだろうか?

大和朝廷は邪馬台国を武力吸収した狗奴国(くなくに)が支配権を成立させたが、両者和合の為に国名に邪馬台の音を残した大和国を用いる高等な策を採った。

その和平手打ちの経緯が記紀神話(古事記日本書紀)に集約され、天の岩戸伝説となって残った。

勿論、記紀神話に於ける天孫降臨伝説に於いて、スサノウ(須佐王)は呉族、卑弥呼(比売命/ヒメノミコ)は加羅族の象徴だが、呉族・スサノウ(須佐王)の血流は神武朝を起こす支配者になる。

もう一方の加羅族・卑弥呼(比売命/ヒメノミコ)は神格化して天照大神(アマテラスオオミカミ)と成って両民族の立場並び立つ誓約(うけい)が成立した。

古墳時代(こふんじだい)】に続く。
神武王朝四代と葛城御門(かつらぎみかど)】に続く。

詳しくは小論【日本人の祖先は何処から来たのか?】に飛ぶ。

日本人の祖先は何処から来たのか?(一)樺太から来た原人】に戻る。
日本人の祖先は何処から来たのか?(二)稲作縄文人】に戻る。
日本人の祖先は何処から来たのか?(三)倭国と弥生人】に戻る。

詳しくは【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。

この記述は、【日本史時代区分大略・一覧表】に掲載しております。

性文化史関係リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

関連記事
倭国大乱(わこくたいらん)】に飛ぶ。
狗奴国(くなくに)】に飛ぶ。
伊都国(いとこく)】に飛ぶ。
邪馬台国】に飛ぶ。
ABO式血液型の分布状況】に飛ぶ。
単一日本民族の成立過程大略】に飛ぶ。
渡来人(とらいじん)】に飛ぶ。
桓武天皇のヒタカミ(日高見国)蝦夷の役】に飛ぶ。
俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-08 01:38 | Comments(0)  

古代豪族・曽根連(そねのむらじ)と広瀬神社

実は、駿河国から伊豆国を分離する以前(飛鳥時代の初期)に、伊豆の土地に半独立状態の「謎の豪族王(臣王)/国主」の王国が存在した可能性がある。

その都は、伊豆半島の中央を流れる狩野川(古い名前は賀茂川または葛城川か?)が生み出した田方平野の一角、伊豆の国市大仁の「田京」である。

日本史の上では忘れ去られた田京だが、稲作文化を中心に国家体制を構築して来た日本人にとって、田京(たきょう)はある意味、「日本史の原点のひとつだ」と思える地名である。

田京の隣には御門(みかど)の地名もある。

御門(みかど)は統一倭の国々の王(臣王/おみおう・大国主)の表記に使われていた。

田京の西正面に見えるのが、伊豆葛城山である。

葛城山は王城の山で有り、奈良飛鳥の西正面にも同じ奈良・葛城山がそびえている。

奈良・葛城山が見下ろす平野には、大和国広瀬郡・広瀬神社(廣瀬大社・奈良県北葛城郡河合町川合)が在り、旧神職家は曽根連(そねのむらじ)姓で、河合町のこの付近は「川合」と言う地名が付いている。

文字通り、ここは大和川の支流である高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川、寺川、初瀬川、布留川、佐保川などの河川が合流して大和川となる所である。

広瀬神社(廣瀬大社)の斎主に大山中・曽根連韓犬(そねのむらじからいぬ)が任じられたのも、この地域は曽根連が根強い力を持っていた事を窺(うかが)わせる。

曽根連(そねのむらじ)は、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)より出た姓(六世孫の子孫)とされる広瀬大社の古い神家であり、曽根氏(そねうじ)や中曽根氏(なかそねうじ)の発祥地名の元とされる古代の豪族である。

曽根氏(そねうじ)は日本各地に分布しているが、特に宮城県、静岡県、香川県に多く分布していて九州には少ない。

宮城県では栗原市に多く、静岡県では藤枝市、島田市、焼津市に集中し、香川県では三豊市に多い。

甲斐国の武家に清和源氏の一族と言う曽根氏があり、甲斐国八代郡曽根(現山梨県甲府市旧東八代郡中道町付近)発祥とし、伊豆の代官を務めた曽根氏もこの一族と言う。

伊予国にも曽根氏があり、始め周防国熊毛郡曽根(現山口県熊毛郡平生町曽根)発祥で大内氏に仕えていたが、後に伊予へと移ったとされる。

紀伊国の曽根氏は紀伊国牟婁郡曽根(現三重県尾鷲市曽根町)を発祥とし、宇多源氏佐々木氏の一族と言う。
中曽根氏(なかそねうじ)についても甲斐国八代郡中曽根発祥と曽根氏とほとんど隣地から出ている。

現在、長野・群馬両県に多く出自としては藤原氏秀郷流とされている。

奈良・広瀬神社の祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)を主祭神とし、相殿に櫛玉命(くしたまのみこと/饒速日命)、穂雷命(ほのいかづちのみこと)を祀るとされるが、本当の祭神は「長髄彦(ながすねひこ)である」とする説もある。

長髄彦(ながすねひこ)は、磐余彦尊(いわれひこのみこと、後の神武天皇)が南九州から東征して来た頃、生駒山麓から奈良盆地にかけて勢力を張っていた豪族である。

長髄彦(ながすねひこ)は、物部氏の祖神とされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を主君として仕えていたとされて、賀茂葛城・物部同族説であれば符合するのだ。

奈良県北葛城郡にある広瀬神社(廣瀬大社)と同じ名前の広瀬神社が、この伊豆国・伊豆葛城山が見下ろす平野の大仁田京の地にもある。

田京の広瀬神社は延喜式内社(えんぎしきないしゃ)である。

「神階帳従一位(しんかいちょうじゅいちい)広瀬の明神」といわれる伊豆の広瀬神社の祭神は、溝姫命(みぞくいひめのみこと)外二神、田方一の大社で、かつては田地八町八反の御朱印(ごしゅいん)を頂く所で在った。

この田方広瀬神社の前身は下田市に在る白浜神社の地に在って、それ以前は三宅島の三宅島・富賀神社の地に在った事代主の神(田の神)である。

そしてこの田京(たきょう/伊豆の国市 田京)の広瀬神社の事代主の神(田の神)が明神様として現在の三島市(伊豆国の国府跡)に移り三島大社に成って居る。

関連記事
地祇系(ちぎけい)神】に飛ぶ。
氏神(うじがみ・氏上)】に飛ぶ。
鳥居(とりい)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-07 02:04 | Comments(0)  

崇神大王(すじんおおきみ/天皇)と欠史八代(けっしはちだい)

古事記」及び「日本書紀」に於いて、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第二代・綏靖天皇から第九代・開化天皇までの八人の大王(おおきみ/天皇)の事、或いはその時代を指して欠史八代(けっしはちだい/缺史八代、また別体で闕史八代)とされている。

これらの天皇は実在説もあるが、史学界で支配的なのは「実在せず後に創作された架空のもの」とする考えが下記「欠史八代」である。

◆第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)= 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
◆第三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)=磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
◆第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)=大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
◆第五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇=)観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
◆第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)=日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
◆第七代・孝霊大王(こうれいおおきみ/天皇)=大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
◆第八代・孝元大王(こうげんおおきみ/天皇)=大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
◆第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)=稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらミコト)

これらの大王(天皇)を「後に創作された架空のもの」とする根拠は、第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の名称にあり、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の別名である御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つからである。

つまり崇神大王(おおきみ)には、現代日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての天皇と言う評価がある。

「記・紀神話(古事記/日本書紀)」の謎解きの中にはこうしたメッセージも巧みに隠されていて、本来の系図では第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代である事を物語っている。

第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)及び第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは明らかに和風諡号(わふうしごう)と考えられる。

所が、記紀(古事記/日本書紀)のより確実な史料による限り、和風諡号(わふうしごう)の制度が出来たのは六世紀半ば頃で、時代が符合しない。

しかもこの間の大王(おおきみ/天皇)位相続に関し、当然都合で発生すべき兄弟相続が一切無く、総て父子相続と成って居る所など後世に作為的に創造された神話の証拠ではないだろうか?

つまり初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)の東遷当時はまだ西日本列島の統一半ばであり、或いは「崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代に統一王(大国主)で在った」と考えられる。

そして「欠史八代」が伝えるべき史実の核が無いままの「記・紀神話(古事記/日本書紀)」の捏造あれば、欠史八代の天皇群陵墓に矛盾が在り古墳出土品に系譜が刻まれて居ない説明が着く。

それでは「欠史八代」の謎をどう捉えれば良いのだろうか?

そこで登場するのが伊豆・伊都国に誕生し、勢力を拡大して紀伊半島奈良の地に新たに葛城の都を創った賀茂・葛城朝の存在である。
初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(不確実な推定)する説である。

この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力であるが、神武東遷(じんむとうせん)後に九州を含む西日本一帯を支配した「九州の豪族で在った」とされる「第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)に踏襲された」とこの説は結論付けている。

この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており、「邪馬台国(やまたいこく)は畿内に在った」として葛城王朝を「邪馬台国」に、崇神天皇の王朝を「狗奴国(くなくに)」」にそれぞれ比定する説もある。

或いは「邪馬台国は九州に在った」として崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、或るいは「邪馬台国を滅した後の狗奴国である」とする説などがある。

しかし我輩は、神武朝「狗奴国(くなくに)」と葛城朝「伊都国(いとこく)」は同じ呉族系海洋民族の国であり、葛城王朝・邪馬台国(やまたいこく)説はとても肯定できない。

それで、加羅系農耕民族比売命(ひめのみこと/卑弥呼)の「邪馬台国(やまたいこく)」が、「狗奴国(くなくに)」と「伊都国(いとこく)」の連合勢力に圧されて「天の岩戸伝説誓約(うけい)に到った」と考えたのである。

皇統の初期段階の大王(おおきみ/天皇)について、実在を裏付ける資料がほとんど無い事から「伝説上だけの存在で、実在しないではないか?」とされ、「欠史八代」として別に扱われる大王(おおきみ/天皇)が居る。

この欠史八代と初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)が、賀茂・葛城氏の主神・事代主神や賀茂・葛城御門(臣王)家と婚姻関係に在る事で、初期皇統の神武朝と賀茂朝をに見事に混合した疑いがある。

詳しくは関連小論・【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。

詳しくは【欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)】を参照下さい。

詳しくは【葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説】を参照下さい。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-11-05 18:31 | Comments(0)