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歴史のミステリーシリーズ

日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。

それは歴史に「虚(きょ/感性)」と「実(じつ/理性)」が存在するからである。

数千年前の群れの長(おさ)から続いている事だが、統治者にしても宗教家にしても、本来の人間の能力には超常現象的に他人をひれ伏させるほどの大した差が在る訳ではない。

そこで、恐がらせたり尊敬させたりにはそれなりの作為や演出、つまり誇大な表現や奇跡創作に依る大衆に認めさせる為のカリスマ(超人)性の、「でっちあげ」の臭いは否めない。

しかし敢えて言えば、側坐核(そくざかく/脳部位)を満足させ心の安定を求める為に、そのカリスマ(超人)性に依頼心を抱く大衆も数が多いのである。

古文書の存在のついては、「不都合な過去を消す為」と言う政治的効用も在り、「必ずしも事実とは受け取れないもの」と心得るべきである。

つまり伝えられた歴史の不確かさは、人間の思惑の危うさに他ならない。

歴史には、ミステリー(謎)とトリック(陰謀)に満ちている。

そして警察や検察の犯罪捜査でも、「決め打ち捜査(予め結果を決めて捜査する手法)は冤罪を産む」と言う。

歴史のミステリー(謎)考察でも同じ事で、実は表面に現れ難いトリック(陰謀)が、歴史の裏側に意図的に仕組まれているかも知れない。

つまり日本史に於いて、定説を基準とした「決め打ち」から歴史の考察を始めても既成概念に囚われて結論を誤まるかも知れない。

面倒くさがって真実と向き会いたくない者は、その陰謀を安易に許して気が着かない事に成る。

【歴史のミステリーシリーズ、クリック・リスト】

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創られた歴史のミステリー】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-12-30 00:26 | Comments(0)  

舎人親王(とねりしんのう)

日本書紀」の編纂を総裁した事で知られる舎人親王(とねりしんのう)は、舎人皇子(とねりのみこ)とも記される天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の皇子で、飛鳥時代から奈良時代にかけての皇族である。

舎人親王(とねりしんのう)は、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の父でもあり、諡号は崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)を号す。

舎人親王(とねりしんのう)は長寿で、天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の諸皇子の中で最後まで生き残り、奈良時代初期に長屋王とともに皇親勢力として権勢を振るう。

舎人親王(とねりしんのう)・子孫の清原氏は、高市皇子系列の高階氏(たかしなうじ)と共に天武系後裔氏族として長く血脈が続いた。

七百十八年(養老二年)、舎人親王(とねりしんのう)四十二歳の時、一品に昇叙され、翌年には元正天皇より異母弟・新田部親王と共に皇太子・首皇子(おびとのみこ/聖武天皇)の補佐を命じられた。

七百二十年(養老四年)、舎人親王(とねりしんのう)四十四歳の時には舎人親王(とねりしんのう)自らが編集を総裁した「日本書紀」を奏上している。

この年(七百二十年)舎人親王(とねりしんのう)に転機が訪れる。

当時の朝廷の実力者であった右大臣・藤原不比等の薨去に伴い知太政官事に就任し、右大臣(のち左大臣)の長屋王とともに皇親政権を樹立する。

七百二十四年(神亀元年)の第四十五代/聖武天皇即位に際し、舎人親王(とねりしんのう)は封五百戸を加えられている。

この頃から舎人親王(とねりしんのう)は、次第に藤原氏寄りに傾斜し、七百二十九年(天平元年)に起こった長屋王の変では新田部親王らと共に長屋王を糾問し、自害せしめている。

さらに同年、舎人親王(とねりしんのう)は藤原不比等の娘・光明子の立后を宣言するなど、藤原四兄弟政権の成立に協力した。

舎人親王(とねりしんのう)は、天然痘が蔓延する七百三十五年(天平七年)平城京で六十年の生涯を閉じる。

没後二十四年の七百五十九年(天平宝字三年)、息子の大炊王(おおいのおおきみ/淳仁天皇)が即位するに及び、舎人親王(とねりしんのう)は天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号された。

詳しくは、小論【聖徳太子は実在したか?その疑惑を追う】を参照下さい。

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第一巻の二話】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-12-28 15:16 | Comments(0)  

元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(二)笠置(かさぎ)山

元弘の乱と鎌倉幕府滅亡・(一)計画露顕】に戻る。

後醍醐帝が二度目に挙兵した笠置(かさぎ)山は、六百六十一年に笠置山の巨岩石に実忠和尚、良弁僧正が仏像を彫刻され、それを中心に笠置山全体が修験行者の修験場として栄える事となった。

つまり元々勘解由小路党の強固な霊場基盤であった。

平安末期の末法思想の流行とともに大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受け、笠置詣でが行われる様になる。

千百九十一年(建久二年)、藤原貞慶(解脱上人)が興福寺から笠置寺へ移り、笠置山は信仰の山として全盛期を極めた。

しかし二百六十年後、後醍醐天皇の挙兵により全山炎上、灰燼に帰したのである。

幕府方は、後醍醐方討伐の為に大仏貞直(おさらぎさだなお/北条貞直)、金沢貞冬(かなざわさだふゆ/北条貞冬)、足利高氏(あしかがたかうじ/後の尊氏)、新田義貞(にったよしさだ)らの大軍を差し向ける。

まず後醍醐帝の笠置山が陥落、次いで護良親王(もりながしんのう)の吉野山・金峯山寺も陥落して護良親王はいずこかへ潜伏し、最後は楠木軍が守る下赤坂城のみが残った。

その下赤坂城で幕府軍は苦戦を強いられる。

楠木軍は城壁に取り付いた幕府軍に対して、大木を落とし熱湯を浴びせ予め設けて置いた二重塀を落としたりと言った奇策を駆使し持ち堪えていた。

しかし敵方に包囲されての長期戦は不利と見た楠木正成(くすのきまさしげ)は、自ら下赤坂城に火をかけ自害したように見せかけて姿をくらませる。

やがて笠置山を逃亡した後醍醐天皇が側近の千種忠顕とともに幕府に捕らえられ隠岐国に流された為、討幕勢力は弱体化する。

元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(三)隠岐流配】に続く。
元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡・(一)計画露顕】に戻る。

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第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2011-12-21 18:44 | Comments(0)  

持明院統(じみょういんとう/鎌倉後期~南北朝並立時代の分裂皇統)

持明院統(北朝)は、鎌倉後期南北朝並立時代の日本の皇室の系統で、同じ皇統である大覚寺統(だいかくじとう)と対立していた。

持明院統(北朝)は、第八十八代・後嵯峨天皇の子である第八十九代・後深草天皇の子孫である。

持明院統と言う名称は、鎮守府将軍・藤原基頼(ふじわらのもとより/藤原道長の曾孫)が邸内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけ、その一家を持明院家と称した事に端を発する。

基頼の孫・持明院基家の娘・陳子(のぶこ)は守貞親王の妃になり、承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王(もりさだしんのう/高倉天皇の第二皇子)の子・茂仁親王(後堀河天皇)が天皇となった。

後堀河天皇の即位に依り、守貞親王(もりさだしんのう/安徳天皇の異母弟)には太上天皇の尊号が贈られた為、守貞親王(もりさだしんのう)は、後高倉院と称した。

そして、後堀河天皇は譲位後、持明院邸内を仙洞御所として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣(なら)って持明院邸内に住んだ。

これらにより、後深草天皇から後小松天皇に至る系統の事を持明院統と称された。

鎌倉幕府の推挙により、第九十六代天皇に三十一歳と若くてやり手の皇子で野心も在った大覚寺統(だいかくじとう)・後醍醐天皇が即位すると、天皇親政を目指して鎌倉幕府の倒幕を目論む。

対抗する持明院統(南朝)や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せる。

所が、千三百三十三年に鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政が成ると後醍醐天皇復位によって持明院統・木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。

建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(南朝・後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、新体制施行二年半にして足利尊氏が挙兵、建武の新政体制は崩壊する。

吉野に逃れた大覚寺統の南朝天皇(後醍醐天皇系)と、足利尊氏(あしかがたかうじ)に擁立された持明院統の北朝天皇(光厳天皇系)の対立時代=南北朝時代となる。

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の際、持明院統(北朝)は京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平の一統)が、その後大覚寺統(南朝)が巻き返して半年で崩壊する。

後に室町幕府・三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が「南北朝合一」を受諾する。

後亀山天皇(南朝)が三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)を持明院統(北朝)の後小松天皇に引き渡して「南北朝合一」とし、南北朝の分裂は終わり皇統は持明院統に統一される事となった。

しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というものであった。

そして以後の皇位が持明院統だけで継承された為、大覚寺統の子孫は不満を抱き、再び南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立て篭るなどの抵抗を十五世紀半ばまで、「後南朝」として続けた。

一方、持明院統(北朝)の系統は次の称光天皇(しょうこうてんのう/第百一代天皇)の代に断絶し、同じ持明院統に属する伏見宮から皇位継承者が迎えられ、現在の皇室へと続く事になった。

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by mmcjiyodan | 2011-12-21 18:26 | Comments(0)  

大覚寺統(だいかくじとう/鎌倉後期~南北朝並立時代の分裂皇統)

皇統・大覚寺統は、鎌倉後期南北朝並立時代に皇位に即いた皇室の系統で、同じ皇統である持明院統と対立していた。

皇統・大覚寺統(南朝)は、第八十八代・後嵯峨天皇の子である第九十代・亀山天皇の子孫である。

亀山・後宇多両天皇が京都の外れの嵯峨に在った大覚寺の再興に尽力し、出家後はここに住んで院政を行った事からこの大覚寺統の名称が付けられた。

院政を敷いた後嵯峨上皇が、自分の皇子のうち後深草天皇の子孫ではなく弟の亀山天皇の子孫が皇位を継承するよう遺言して崩御した為に、後深草と亀山の間で対立が起る。

この対立を、鎌倉幕府は両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう裁定する。

後二条天皇の死後、父である後宇多上皇は「(後二条天皇の息子である)邦良親王が成人するまで」という条件で、後二条天皇の弟である尊治親王(後醍醐帝)に皇位を継がせようとする。

だが、尊治親王が後醍醐天皇として即位すると、後醍醐天皇はこの妥協案に従わず皇位を自身の皇子に継承させようと目論んだ。

これに後宇多法皇や皇太子邦良親王が反発すると後醍醐天皇は院政を停止して対抗し、更に鎌倉幕府打倒を画策、元弘の乱(げんこうのらん)を起こした為、大覚寺統そのものが分裂の危機を迎える。

鎌倉幕府の推挙により、第九十六代天皇に三十一歳と若くてやり手の皇子で野心も在った大覚寺統(だいかくじとう)・後醍醐天皇が即位すると、天皇親政を目指して鎌倉幕府の倒幕を目論む。

対抗する持明院統(北朝)や鎌倉幕府は邦良親王を支援し、親王が急死するとその息子の康仁親王を持明院統の光厳天皇の皇太子に据えて後醍醐天皇系への皇位継承を拒絶する姿勢を見せる。

所が、千三百三十三年に鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政が成ると後醍醐天皇復位によって持明院統・木寺宮家(後二条天皇系)の皇位継承は否認される事となった。

建武の新政により、一時は皇統が大覚寺統(南朝・後醍醐天皇系)に統一されたかに見えたが、新体制施行二年半にして足利尊氏(あしかがたかうじ)が挙兵、建武の新政体制は崩壊する。

吉野に逃れた大覚寺統の南朝天皇(後醍醐天皇系)と、足利尊氏に擁立された持明院統の北朝天皇(光厳天皇系)の対立時代=南北朝時代となる。

観応の擾乱(かんのうのじょうらん)の際、持明院統(北朝)は京都を奪回して一時的に元号を統一した(正平の一統)が、その後大覚寺統(南朝)が巻き返して半年で崩壊する。

後に室町幕府・三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の斡旋により、正式な譲位の儀式を行うとともに今後の皇位継承については両統迭立とするという条件で、大覚寺統の後亀山天皇が「南北朝合一」を受諾する。

後亀山天皇(南朝)が三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)を持明院統(北朝)の後小松天皇に引き渡して「南北朝合一」とし、南北朝の分裂は終わり皇統は持明院統に統一される事となった。

しかし南朝方の入京にあたって神器帰還の儀式は行われたものの正式な譲位の儀式は行われず、後亀山天皇への処遇は「天皇として即位はしていないが特例として上皇待遇」というもので在った。

そして以後の皇位が持明院統だけで継承された為、大覚寺統の子孫は不満を抱き、再び南朝の遺臣が宮中の神器を奪取して立てこもるなどの抵抗を十五世紀半ばまで「後南朝」として続けた。

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by mmcjiyodan | 2011-12-21 18:25 | Comments(0)  

高橋是清(たかはしこれきよ)

日本の伝説的な近代金融政策の神様が、高橋是清(たかはしこれきよ)である。

明治維新頃の日本の政治家・高橋是清(たかはしこれきよ)は、千八百五十四年、幕府御用絵師・川村庄右衛門と奉公娘・きんの子として、江戸芝中門前町に生まれた。

きんの父は芝白金で代々魚屋を営んでいる三治郎と言う人で、家は豊かであったが、三治郎が妻と離別していた為、きんは中門前町のおばの所へ預けられ行儀見習いの為に川村家へ奉公に出された。

つまり四十七歳にも成る川村庄右衛門が、十六歳の奉公娘・きんに手を出し身重にさせてしまった。

庄右衛門の妻は、身重に成ったきんに同情し、こっそり中門前町・きんのおばの家へ帰して静養させ、時々見舞って世話をした 。

きんの男児は和喜次と名付けられ、庄右衛門は和喜次を息子として認知した。

しかし川村家は既に六人の子持ちの為に、和喜次は里子に出される事になり、生後三~四日にして仙台藩の足軽武士・高橋覚治是忠の家に預けられる事と成った。

その後和喜次=是清(これきよ)は、二歳まで里子に出された川村家で義理の祖母の喜代子(きよこ)に大変かわいがられて育つも、某菓子屋に養子に出される寸前で喜代子(きよこ)に実子として届けられ、正式に高橋覚治是忠の養子に成る。

是清(これきよ)の名も、養父・高橋是忠の一字を貰って名乗ったものである。

その後、藩足軽武士・是清(これきよ)は仙台藩の藩命により、十一歳で横浜の米国人医師・ヘボンの私塾(現・明治学院)にて学ぶ。

ヘボンの私塾で二年間英語を学んだ是清(これきよ)は、千八百六十七年(慶応三年)に藩命により、幕臣・勝海舟の息子・小鹿(ころく)と伴に米国へ留学した。

しかし留学の最初の段階で、横浜に滞在していた米国人の貿易商・ユージン・ヴァン・リードによって学費や渡航費を着服される。

更にホームステイ先と決めていた貿易商・ユージン・ヴァン・リードの両親に騙されて年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に三年間の奴隷労働をすると言う内容で売られる。

ブラウン家では、牧童としてや葡萄園の作業で奴隷同然の生活を強いられ、その先は幾つかの家を転々と渡り、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねる。

契約上その境遇から抜けられない事を悟った是清(これきよ)は、一年後にサンフランシスコ名誉領事嘱託・ブルークスに泣きついて交渉させ自由を得て帰国の途に着く。

千八百六十八年(明治元年)、高橋是清(たかはしこれきよ)は帰国する。

帰国五年後の千八百七十三年(明治六年)、是清(これきよ)はサンフランシスコで知遇を得た初代文部大臣・森有礼(もりありのり)に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。

合わせて英語の教師も熟(こ)なし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、その内廃校寸前に在った共立学校(現・開成高校)の初代校長をも一時務めた。

共立学校の教え子には、俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之(あきやまさねゆき)がいる。

その間、文部省、農商務省(現・経済産業省及び農林水産省)の官僚としても活躍する。千八百八十四年(明治十七年)、是清(これきよ)三十歳の時には農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。

そこに上手い話が舞い込み、千八百八十九年、官僚としてのキャリアを中断して赴いたペルーで銀鉱事業を行うが、すでにその鉱山が廃坑の為失敗の憂き目に遭う。

三年後の千八百九十二年(明治二十五年)に是清(これきよ)は再び帰国した後に、川田小一郎に声をかけられ、日本銀行に入行する。

千九百四年~五年の日露戦争当時、五十歳・日銀副総裁と成っていた是清(これきよ)は戦費調達の為に戦時外債の公募で同盟国の英国に向かう。

だが、投資家には兵力差による日本敗北予想、日本政府の支払い能力、同盟国英国が建前として局外中立の立場で公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念等、多くの困難があった。

是清(これきよ)はこの懸念払拭に努め、交渉の結果、ジェイコブ・シフやロンドン留学時代の人脈が外債を引き受け、公債募集は成功し戦費調達の成果を挙げた。

日露戦争終結直後の千九百五年(明治三十八年)、是清(これきよ)は貴族院議員に勅選され、六年後千九百十一年(明治四十四年年)に日銀総裁となる。

千九百十三年(大正二年)、是清(これきよ)は第一次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党する。

是清(これきよ)は政友会の原敬(はらたかし)が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第二十代内閣総理大臣に就任、同時に立憲政友会の第四代総裁となった。

しかしこの総理大臣就任は、是清(これきよ)自身が思わぬ総裁就任だった為、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直す事はできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解している。

政友会はその後も迷走し、清浦奎吾(きようらけいご)の超然内閣が出現した際には支持・不支持を巡って大分裂、脱党した床次竹二郎らは政友本党を結成し清浦の支持に回った。

これに対し是清(これきよ)率いる政友会は、憲政会及び革新倶楽部と護憲三派を結成し、第二次護憲運動を起こした。

これにより護憲三派は、清浦内閣打倒に成功する。

清浦内閣打倒に成功し、新たに総理大臣となった憲政会総裁の加藤高明(かとうたかあき)は、是清(これきよ)を農商務相に任じる。

その後、加藤内閣は政友会との連立を解いて憲政会単独となった為、是清(これきよ)は政友会総裁を田中義一(たなかぎいち)に譲り政界を引退する。

所が、千九百二十七年(昭和二年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第一次若槻内閣に代わって田中組閣した田中義一(たなかぎいち)に請われ自身三度目の蔵相に就任する。

是清(これきよ)は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の二百円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌の沈静化に成功する。

金融恐慌から四年後、千九百三十一年(昭和六年)、政友会総裁・犬養毅(いぬかいつよし)が組閣した際も、是清(これきよ)は犬養に請われ四度目の蔵相に就任する。

蔵相に就任した是清(これきよ)は、「リフレーション政策」と呼ばれる金輸出再禁止・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。

又、千九百三十二年(昭和七年)五月十五日に起きた大日本帝国海軍の青年将校を中心とする反乱事件五・一五事件で犬養首相が暗殺された際には、是清(これきよ)が総理大臣を臨時兼任している。

続いて親友である斎藤実(さいとうみのる)が組閣した際も、是清(これきよ)は五度目の蔵相を留任している。

また千九百三十四年(昭和九年)に、共立学校での教え子にあたる海軍大将・岡田啓介(おかだけいすけ)首班の内閣に、是清(これきよ)は六度目の大蔵大臣に就任する。

岡田内閣では、伴に滞米経験がある高橋是清(大蔵大臣)と斎藤実(内大臣)は、個人的に親しい友人でもあった。

当時、「リフレーション政策」はほぼ初期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見された。

この為、予見されたインフレーションを抑えるべく軍事予算の縮小を図った所、岡田内閣は軍部の恨みを買う。

千九百三十六年(昭和十一年)二・二六事件に於いて是清(これきよ)は赤坂の自宅二階で中橋基明中尉以下の青年将校らに襲撃され暗殺された。

是清(これきよ)の友人・予備役海軍大将・斎藤実内大臣もまた、この二・二六事件で坂井直中尉以下の襲撃部隊に暗殺された。

しかしこの帝都を揺るがす暗殺事件は、時の帝・昭和天皇の勘気を蒙り鎮圧される。

高橋是清(たかはしこれきよ)は、総理大臣経験者ながら総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価の方が高い稀有な存在だった。

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by mmcjiyodan | 2011-12-17 14:06 | Comments(0)  

信仰の奇跡と脳科学

人間を含む生物の機能は便利に発達していて、脳に拠る状況感知により必要な時にはその状態に対応したホルモン物質を生成して送り出し、自らをコントロールする力を持って居る。

これが「信仰の奇跡」に結び付く。

そこら辺りを熟知して利口に応用するか、無知のまま何もしないかで長い人生々活に結構な差が付くかも知れない。

その脳の能力として、ホルモン物質「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生が数えられる。

ベータ・エンドロフィンは、脳と深く関わる脳内麻薬(快感ホルモン)であるが、アルコールや、麻薬を含む薬剤と違い、体内で生成される無害の分泌ホルモンである。

最も身体に「安全な脳内麻薬(快感ホルモン)」と言うだけでなく、体調や精神を整える効果がある良質な脳内麻薬で、老化と伴に訪れる体の痛みをそれと知らずに緩和する鎮痛作用の働きもある。

鍼灸のツボ治療も、刺激によって脳の受け持ち部分を、ピックアップ・ワンポイントでベータ・エンドロフィンを分泌させる為の行為である。

ベータ・エンドロフィンには麻薬作用に拠る痛みの緩和に止まらず、その発生に誘発されてセロトニンが送り出され、細胞の活性効果による自然治癒効果や、精神を安定させる効果もある。

セロトニンは、「脳内快感物質ベータ・エンドロフィン」の発生に誘発されて送り出される伝達阻害物質である。

脳内麻薬・ベータエンドロィンや痛みの伝達を阻害するセロトニンが脳で感じる神経性の痛みを抑止している間に、自分の免疫細胞が活躍して半年から一年で自然治癒するケースが存在する。

現に椎間板ヘルニヤの自然治癒症例が、医学界では常識に成って来ている。

この痛み抑止・セロトニンや脳内麻薬・ベータエンドロフェンが脳内に噴出して痛みを抑止する切欠に成る物の一つが「信仰の奇跡」で、「信じる者は救われる」の主因である。

つまりこの場合の信仰効果は、宗派・教義が問題では無く、本人の信心具合でセロトニンやベータエンドロフェンが脳内に活躍する環境を作るのであるから、「信じる信仰は何でも良い」のである。

そして信仰は右脳域の感性に宿るから、脳内麻薬・ベータエンドロフェンの脳内に噴出に応じて「幻影を見せる事」も在る。

原始音楽と原始舞踊(ダンス)は、その精神に於いて紛れも無く「神とのコンタクト」である。

そしてこう言う事象に遭遇すると、その信者の信仰は拠り一層深まって行く。

勿論精神の安定を求める方も多いから、その方が信じる信仰を一概に非難や否定は出来ない。

只、「信仰の奇跡」は、脳科学の発達に拠って解明されつつある。

人間(ひと)は側坐核(そくざかく/脳部位)に影響されて、勝っ手な相手に「自らの願望を為してくれる」と言う期待を抱(いだ)く事で、「心の安定を得よう」とする心理を持っている。

それが心理学的には「英雄待望論」だったり、信仰上の「カリスマ(超人/教祖)の存在」だったりする。

数千年前の群れの長(おさ)から続いている事だが、統治者にしても宗教家にしても、本来の人間の能力には超常現象的に他人をひれ伏させるほどの大した差が在る訳ではない。

そこで、恐がらせたり尊敬させたりにはそれなりの作為や演出、つまり誇大な表現や奇跡創作に依る大衆に認めさせる為のカリスマ(超人)性の、「でっちあげ」の臭いは否めない。

しかし敢えて言えば、側坐核(そくざかく/脳部位)を満足させ心の安定を求める為に、そのカリスマ(超人)性に依頼心を抱く大衆も数が多いのである。

信仰・占術・予言の本質は、強弱の質こそ在るものの人間が持つ「側坐核(そくざかく/脳部位)」に影響された一種の依存症である。

この信仰・占術・予言に対する依存症は、横着極まりない事に、自分で努力する事を放棄し結果的に幸福を金で買う図式が構成される。

その延長線上に在るのが、「ジュピター・コンプレックス(SMプレィに於ける被支配の願望)」である。

詳しくは【美しくなれる興奮の解説】を参照下さい。

詳しくは【日本の性文化】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2011-12-09 17:26 | Comments(0)  

紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)

紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、徳川家康の十男・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)を家祖とし、常陸国々主家(常陸藩)として設立、駿府藩を経て紀伊国へ移封された。

紀伊国へ移封された後は、紀伊徳川家とも称された徳川御三家のひとつとして、紀州藩歴代の藩主だった。

紀州徳川家は、当初常陸国々主家(常陸藩)に封じられて経緯に因み、頼宣(よりのぶ)の子孫は代々常陸介(ひたちのスケ)に叙任された為、「徳川常陸介家」とも称された。

徳川家の歴代将軍の中でも、「暴れん坊将軍」と言うテレビドラマまで出来て、水戸黄門と双璧の人気を誇るのが、徳川八代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)である。

徳川吉宗は、「享保の改革(今で言う政治の構造改革)」を行なった人物で、幕府の構造改革に唯一成功した将軍だった。

紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗を輩出し、その後徳川宗家は吉宗の血統で占められる様になる。

吉宗が徳川将軍宗家の後嗣に入り、新たに田安徳川家と一橋徳川家を設立、後に吉宗長男・九代将軍・徳川家重が自ら次男に清水徳川家を加へて御三卿を創始した事に拠って紀州家の血筋は大いに繁栄した.。

この為、吉宗以降の将軍家・御三卿から更に大名家に養子に出た者の数も非常に多い。

八代将軍・徳川吉宗は徳川御三家の紀州藩二代藩主・徳川光貞の四男として、側室・於由利の方との間に生まれる。

江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の生母・於由利の方は紀州藩二代藩主・徳川光貞を湯殿で世話をしてお手が付き、「源六(吉宗幼名)を懐妊した」とされる。

徳川吉宗の「享保の改革」は唯一成功しているが、一見内部改革に見える「享保の改革」の改革は、実質的にリーダーとその一派が外部から幕府中枢に乗り込んで来て既得権益を駆逐して初めて成し遂げた革命だった。

徳川吉宗は「わらしべ長者」のごとく、紀州支藩・葛野藩(丹生松平藩)藩主から御三家・紀州藩徳川家、徳川本家・徳川将軍家と出世を重ねる徳川吉宗に、「強運だけが有った」とは到底考えがたい。

徳川吉宗(とくがわよしむね)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2011-12-03 16:40 | Comments(0)  

徳川御三卿(とくがわごさんきょう)

徳川御三卿(とくがわごさんきょう)は、八代将軍徳川吉宗が次男・宗武、四男・宗尹(むねただ)を取り立てて別家させた事に始まり、更に吉宗の長男である九代将軍・徳川家重が、自身の次男・重好を別家させる事で御三卿(ごさんきょう)の三家体制が確立した。

この御三卿(ごさんきょう)の分立意図は、徳川将軍家(宗家)に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担う事である。

そして元を正せば、従来から将軍家(徳川宗家)の後嗣を出す役割を担って来た徳川御三家と将軍家との血縁関係がしだいに疎遠に成りつつ在った上に、御三家・紀州藩出身の八代将軍・徳川吉宗と御三家・尾張藩第七代藩主・徳川宗春との対立にも悩まされたからである。

徳川幕府に在って、この御三卿(ごさんきょう)の家格は徳川御三家に次ぎ、当主は公卿の位である従三位に昇り、省の長官(卿)に任ぜられる通例で在った所から「御三卿(ごさんきょう)」と称した。

御三卿(ごさんきょう)は江戸時代中期に分立した徳川氏の一族であるから姓は徳川であり、田安・一橋・清水の名称は、それぞれの屋敷地が所在する江戸城内の最も近い城門の名称に由来する。

田安徳川家(田安家)は八代将軍・徳川吉宗の次男・徳川宗武を始祖とし、一橋徳川家(一橋家)も八代将軍・徳川吉宗の四男・徳川宗尹を始祖とし、清水徳川家(清水家)は、九代将軍・徳川家重の次男・徳川重好を始祖とする。

以降、将軍家(徳川宗家)に後嗣が無い時は御三家及び御三卿から適当な者を選定する事とされ、十一代将軍・徳川家斉と十五代将軍・徳川慶喜が一橋徳川家(御三家・水戸家を経由)から相続している。

更に大政奉還後の駿河藩主として、田安徳川家から徳川家達が第十六代・徳川宗家を相続している。

御三卿(ごさんきょう)の三家は、幕府からは各家に十万石が給せられて居たが独自の藩は立てず、家老以下の家臣団も主に旗本など幕臣の出向によって構成されていた。

また諸国に分散していた領地の実効支配は幕府に委ねられて居り、実態は独立した別個の「家」ではなく、将軍家(徳川宗家)の家族・身内としての扱いで認識されて居た。

そもそも御三卿の場合は徳川宗家の後嗣候補として存在し、領地は幕府が経営、屋敷地は幕府が支給、家臣団は幕府からの出向と言う形を採って居た為、御三卿の家の構成員はその家の相続自体を目的とはしていない。

為に幕藩体制下では、大名領主が死亡して家督相続者を欠いた場合にはその家(藩)の組織(領地・城地・家臣団)は改易が定めだが、他の家との大きな違いとして家督相続者を欠いても存続する組織だった。

その為に、庶子に限らず嫡子を養子に出す事で例え御三卿(ごさんきょう)の当主に空きが出来ても、将軍家(徳川宗家)の家族・身内として他の大名家に養子に出すなど自在に扱える存在でも在った。

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by mmcjiyodan | 2011-12-03 11:44 | Comments(0)  

尾張徳川家(おわりとくがわけ)

尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川家康の九男・徳川義直(五郎太、義俊、義利)を家祖とする徳川氏の支系・徳川御三家の一家である。

尾張藩主の家系で、単に「尾張家」・「尾州家」とも言い、紀州徳川家水戸徳川家と並ぶ徳川御三家中の筆頭格にして諸大名の中でも最高の家格を有した。

始祖と成った家康の九男・徳川義直は、まだ五郎太を名乗る千六百三年(慶長八年)、三歳の時に家康から甲斐国(二十五万石)を拝領し甲府藩主と成る。

五郎太は甲府藩主に封じられたが、幼少の為に甲斐統治は以前から着任していた甲府城代・平岩親吉によって担われており、五郎太自身は在国せず家康と伴に駿府城に在城していた。

千六百六年(慶長十一年)に五郎太は六歳で元服し、徳川義直を名乗る。

翌千六百七年(慶長十二年)に、尾張国清洲を領していた兄・松平忠吉(家康の四男)が関ヶ原の戦いの折に負傷した傷が元で江戸で死去、家康は義直を尾張に据える決断をする。

義直は、兄・松平忠吉の遺跡を継ぐ形で尾張国清洲(五十二万石)に就封されると家臣団が編制され、尾張徳川家は江戸時代を通じて尾張藩を治めた。

尾張徳川家は、徳川将軍家に後継ぎがない時は他の御三家とともに後嗣を出す資格を有して居た。

しかし、七代将軍・徳川家継没後、徳川継友と将軍後継を争った末、紀州徳川家出身の徳川吉宗が八代将軍に就任してしまう。

その後には御三卿が創設されて以後吉宗の血統が跡継ぎの主流と成った影響も在って、結局、尾張家からは将軍を出せなかった。

また、虚弱精子劣性遺伝の影響からか短命の藩主が多く、千七百九十九年に尾張德川家、その翌々年には高須松平家で、義直の男系子孫は断絶して以降の尾張徳川家は養子相続を繰り返す事になる。

尾張徳川家は、藩祖・徳川義直の遺命である「王命に依って催さるる事」を秘伝の藩訓として代々伝えて来た勤皇家だった。

一度も将軍を輩出できなかった事、十一代から十四代まで養子を押し付けられ続けた事、勤皇家だった事などにより家中に将軍家への不満が貯まり続け、尾張徳川家は戊辰戦争で官軍方に付いている。

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by mmcjiyodan | 2011-12-03 10:17 | Comments(0)