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上洛(じょうらく)の意味

桓武天皇がそれまでの首都・平城京から七百八十四年(延暦三年)に長岡京に遷都する。

続いて七百九十四年(延暦十三年)に長岡京から平安京へ遷都した事に始まる千年の都(首都)を主に平安後期から京都と呼ぶ。

上洛(じょうらく)とは、当時の首都である京都に入る事を意味する語である。

京の都が中華帝国・唐の古都・「洛陽」になぞらえた雅称として「洛陽」「京洛(けいらく)」などと呼ばれた。

京都に入る事を「上洛」と言うのは、京都が造営される際に中華帝国魏王朝の都・洛陽(らくよう/中文=ルウヤン)をモデルにした所から都に入る=「上洛(じょうらく)」と表現された。

この事から、狭義では、室町時代末期(戦国時代)に、京都に居る室町幕府の将軍を保護する事を意味し、結果として全国支配に必要な権威をもたらすとされた。

過って嵯峨天皇(第五十二代天皇/桓武天皇第二皇子/平城天皇実母弟)が、平安京の西側(右京)を唐の首都である「長安」、東側(左京)を唐の副都である「洛陽」と名付けた。

しかし当時、「長安」である右京は居住に適さない湿地が多かった事などから平安時代の後半には既に廃れ、市街地は「洛陽」である左京だけとなった。

この為、京都を「洛陽」と呼ぶようになった。

その為に、京都へ上る事は「上洛」とも称され、広義においては現在の「上京」と同様の意味で用いられていた。

特に戦国期に入ると、「上洛」は天皇一族の住まい(御所)と将軍の住まい(御所)を庇護する有力大名の都入りを意味するようになる。

つまり三好三人衆以来の、軍事力を誇示して実権を握る権力」の方程式が「上洛」だった。

「上洛」の対義語に、下洛(げらく)がある。

下洛(げらく)とは、京都を離れる事で「都落ち」とも言う。

また下洛(げらく)には、上洛と言う煌(きらびやか)びやかなイメージとは逆に、落ちぶれた有様を喩(たと)える事もある。

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by mmcjiyodan | 2012-07-30 22:10 | Comments(0)  

佐賀の乱(さがのらん)

明治維新政府の要職(参議)を務めた江藤新平(えとうしんぺい)大隈重信(おおくましげのぶ)副島種臣(そえじまたねおみ)山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)らを輩出した佐賀藩(さがはん)は、明治維新を推進した藩閥政治・薩長土肥と呼ばれる藩の一つ「肥前」である。

その佐賀藩から明治維新政府の参議と成っていた江藤新平(えとうしんぺい)が、武士と言う既得権を失った士族達に「佐賀の乱(さがのらん)」の首謀者に祭り挙げられてしまう。

切欠と成ったのは、千八百七十三年(明治六年)二年近く費やした岩倉使節団(いわくらしせつだん/岩倉遣欧使節団)の帰国だった。

留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が進められていて、使節団帰国後に欧米諸国家との国際関係を配慮した慎重論の使節団組と留守政府組とで参議の意見が割れる。

岩倉具視らの慎重論に敗れた留守政府組は納まらず、、西郷隆盛を始め板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣など参議五人が下野するなど「明治六年の政変」となった。

江藤新平は、朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変(明治六年の政変)で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に十月に下野する。

千八百七十四年(明治七年)一月十日に、江藤新平(えとうしんぺい)は愛国公党を結成し十二日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

千八百七十四年(明治七年)二月十六日夜、憂国党が武装蜂起し、不平士族による初の大規模反乱である「佐賀の乱」が勃発する。

佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊(元 土佐藩・陪臣/宿毛邑主・安東氏家臣)の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

乱を率いた江藤新平(征韓党)と島義勇(しまよしたけ/憂国党)は、そもそも不平士族をなだめる為に佐賀へ向かったのだが、政府の強硬な対応もあり決起する事となった。

しかしこの乱の勢力は、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党は元々国家観や文明観の異なる党派だった。

両党は主義主張で共闘すべき理由を共有しては居ず「到底一枚岩とは言えない烏合の衆」と言う側面を有する危うい関係で司令部も別、両党は協力して行動する事は少なかった。

また、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力した。

更に武雄領主・鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷隆盛など各地の不平士族が続々と後に続く筈」と言う期待は、佐賀藩内ですら実現しなかった。

やがて大久保利通が指揮直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着するも、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。

政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。

朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、佐賀軍の士気は高く三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。

また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。

しかし政府軍の装備が遥かに新しい上に、司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。

この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に、装備に劣る佐賀軍は敗走する。

新平(しんぺい)は征韓党を解散して脱出し、三月一日鹿児島・鰻温泉・福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。

続いて三月二十五日高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった為、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。

しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。

手配写真が出回っていた為に速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は新平(しんぺい)自身が千八百七十二年(明治五年)に確立したものだった。

皮肉にも、手配制度の制定者・新平(しんぺい)本人が被適用者第一号となったのである。

新平(しんぺい)は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、「除族の上梟首の刑」を申し渡されて嘉瀬川から四キロメートル離れた千人塚で梟首処刑された。

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by mmcjiyodan | 2012-07-23 15:23 | Comments(0)  

岩倉使節団(いわくらしせつだん/岩倉遣欧使節団)

明治維新に成功し、旧幕府側の残存勢力を駆逐すろ戊辰戦争に勝利した新政府は、日本からアメリカ合衆国、そしてヨーロッパ諸国に到る使節派遣を、岩倉具視を正使として敢行する。

千八百七十一年十二月二十三日(明治四年十一月十二日)から千八百七十三年(明治六年九月十三日)まで、政府首脳陣(大納言・参議)や留学生を含む総勢百七名で構成された二年間近くに及ぶ大使節団である。

元々、大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定で在ったが、政治的思惑などから大規模な岩倉使節団(いわくらしせつだん)となった。

横浜港を船で出発して太平洋を渡り、サンフランシスコに上陸、アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約八ヶ月もの長期滞在となってしまう。

その後、使節団は大西洋を渡り八ヵ月ほど費やして意欲的にヨーロッパ各国を訪問、ヨーロッパでの訪問先は十二ヵ国に及んだ。

帰途は地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各国に入港しつつ短期歴訪しながら日本に向かった。

大納言・岩倉具視、そして木戸孝允(桂小五郎)大久保利通伊藤博文山口尚芳ら参議クラスの政府のトップが長期間政府を離れ外遊すると言うのは異例である。

だが、新リーダー達が「直に西洋文明や思想に触れた」と言う経験が彼らに与えた影響は新国家の指針に反映されたと評価される。

使節団に帯同した留学生も、帰国後に政治、経済、教育、文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。

しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとした事による留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸孝允と大久保利通の不仲などの政治的な問題を引き起こしてもいる。

帰国については当初予定から大幅に遅れ、出発から一年十ヶ月後の千八百七十三年(明治六年九月十三日(明治六年九月十三日)、出発時と同じ横浜港に帰着した。

留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が進められていて、使節団帰国後に欧米諸国家との国際関係を配慮した慎重論の使節団組と留守政府組とで参議の意見が割れる。

岩倉具視らの慎重論に敗れた留守政府組は納まらず、西郷隆盛を始め板垣退助江藤新平後藤象二郎副島種臣など参議五人が下野するなど「明治六年の政変」となった。

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by mmcjiyodan | 2012-07-23 14:57 | Comments(0)  

山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)

佐賀藩から新政府の要職に登った山口尚芳(やまぐちますか)は、佐賀藩の本家では無く武雄領と呼ばれる佐賀藩内の自治領に生まれた。

佐賀藩武雄領は旧領主・龍造寺氏系が佐賀藩内で佐賀藩鍋島本家の親類として存続、武雄鍋島家(肥前武雄領・公称ニ万一千六百石・物成/実高八千六百四十石)と呼ばれる。

尚芳(ますか)は幼少の頃から佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に将来性を見込まれていた為、その推挙に拠り佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう/直正)に紹介される。

その佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう/直正)の命により、尚芳(ますか)は他の藩士子弟らと伴に長崎に遊学し、オランダ語や蘭学を学んだ。

また、尚芳(ますか)は同藩の大隈重信副島種臣らと共に、当時ちょうど来日していたグイド・フルベッキに長崎英語伝習所で英語を学んでいる。

蘭学や英語を学んだ尚芳(ますか)は、佐賀藩帰藩後に翻訳方兼練兵掛として勤務する。

当時としては新鋭の洋学を学んだ尚芳(ますか)は、幕末の政治状況の中で薩摩藩長州藩の武士と交流し、薩長連合の成立にも尽力した。

また岩倉卿(具視)ら公家にも接近し、この時、岩倉具視との知故を得た事が、尚芳(ますか)の将来を決定着ける事になる。

大政奉還に拠る王政復古後、尚芳(ますか)は佐賀藩が仕立てた東征軍に従軍し、江戸開城に伴い薩摩藩の小松帯刀らと伴に江戸へ赴いた。

その後の山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)だが、戊辰戦争(ぼしんせんそう)を制して旧幕府勢力を瓦解させた官軍が確立した明治新政府に於いてその地位を上げて行く。

千八百六十八年(明治元年)三月に外国事務局御用掛、四月に外国官、五月に大阪府判事試補、六月に越後府判事続いて東京府判事兼外国掛、十一月には外国官判事になると伴に箱館府在勤を命ぜられ、従五位下に叙せられる。

千八百六十九年(明治二年)一月、尚芳(ますか)は長崎に出向きフルベッキに対し東京に新たに大学を作る為招聘する旨伝え、フルベッキはこれを受諾する。

四月に外国官判事兼東京府判事となり通商司総括を命じられ、五月、会計官判事を命ぜられ、六月には会計官判事をもって大阪府在勤を命ぜられる。

七月、尚芳(ますか)は大蔵大輔と民部大輔を兼務した同郷の大隈重信を補佐して、大蔵大丞兼民部大丞となる。

千八百七十年(明治三年)五月、北海道開拓御用掛を命ぜられ、千八百七十一年(明治四年)八月には外務少輔に転じた。

同年(明治三年)十月、従四位に叙された上で、米欧の視察および条約改正の下準備として岩倉具視を全権大使とした岩倉使節団(いわくらしせつだん/岩倉遣欧使節団)が派遣される。

尚芳(ますか)は岩倉遣欧使節団の団員となり、大久保利通木戸孝允伊藤博文と並ぶ副使に任命されて、千八百七十三年(明治六年)九月まで、各国を歴訪した。留守居政府が進めていた征韓論に対し、帰国後に起きた論争に於いては大久保・木戸らとともに遣韓使節反対の立場を取る。

この為尚芳(ますか)は、千八百七十四年(明治七年)ニ月に征韓論を唱えた江藤新平らが起こした佐賀の乱(さがのらん)に於いては、政府軍の側に立って鎮圧に尽力した。

まず、故郷・武雄の元領主・鍋島茂昌(しげはる)やその家臣で在った士族を説諭し、反乱への呼応を抑止した。

また、自らは、二月十二日、長崎に入り、海軍警備兵を率いて大村、武雄を経て三月一日に佐賀に入城、乱の鎮圧に当たった。

なお、佐賀の乱の際、武雄鍋島の茂昌は反乱軍の脅迫に屈し六十四人の兵士をやむなく乱に派遣していた為問題となった。

だが、尚芳(ますか)は、旧主筋にあたる鍋島茂昌が新政府軍に提出する予定の謝罪文を添削するなど武雄鍋島の罪を免ずる為に努力している。

尚芳(ますか)は、新政府に於いて元老院議官、元老院幹事、会社並組合条例審査総裁、会計検査院の初代院長などを歴任する。

しかしながら、大隈重信が新政府から追放された千八百八十一年の「明治十四年の政変」の影響で、尚芳(ますか)は同年十月に会計検査院長の職を辞し、参事院(内閣法制局の前身)の議官となり外務部長兼軍事部長に任ぜられる。

千八百八十二年(明治十五年)以降に参事院が廃された結果、尚芳(ますか)は元老院議官に復帰する。
尚芳(ますか)は高等法院陪席裁判官、貴族院議員を歴任、千八百九十四年(明治二十七年)病床に在って正三位に叙され、翌月六月十二日死去した。

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by mmcjiyodan | 2012-07-22 17:11 | Comments(0)  

副島種臣(そえじまたねおみ)

副島種臣(そえじまたねおみ)は、維新時に肥前・佐賀藩が排出した官僚、政治家である。

種臣(たねおみ)は千八百二十六年(文政十一年)、三十石取りの佐賀藩下士・枝吉南濠(えだよしなんごう)の二男に生まれる。

父・枝吉南濠(えだよしなんごう)は藩校である弘道館の教授を努める国学者で、兄は同じく国学者で、後に「佐賀の吉田松陰」と称えられる枝吉神陽(えだよししんよう)である。

千八百五十九年(安政六年)には父の南濠が死去し、兄・神陽(しんよう)が家督を継いだ為、同年に種臣(たねおみ)は同藩士の副島利忠(そえじまとしただ)の養子となる。種臣(たねおみ)は父・南濠(なんごう)や兄兄・神陽(しんよう)の影響により、早くから尊王攘夷思想に目覚め弘道館で学び、この間に江藤新平や大木喬任と交わる。

千八百五十年(嘉永三年)、種臣(たねおみ)は兄・神陽(しんよう)が中心に結成した楠公義祭同盟に加わる。

種臣(たねおみ)は千八百五十ニ年(嘉永五年)京都に遊学、漢学・国学などを学ぶが、義祭同盟員として都に於ける情勢を収拾する目的も在った。

この間に種臣(たねおみ)は、後の明治三年に東京に召され、大学中博士となる矢野玄道(やのはるみち/国学者・神道学者)らと交わる。

さらに、兄・神陽(しんよう)の命を受け大原重徳に将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出する。

この意見書を期に、青蓮院宮・朝彦親王(久邇宮朝彦親王/くにのみや あさひこしんのう・中川宮)から藩兵上洛を求められるが、藩主・鍋島直正に退けられた上、藩校での国学教諭を命じられた。

千八百六十四年(元治元年)、種臣(たねおみ)は長崎に設けた藩営の洋学校・致遠館の英学生監督となって英語等を学ぶ。

千八百六十七年(慶応三年)、種臣(たねおみ)は盟友・大隈重信と脱藩するが、捕らえられて謹慎処分を受ける。

その後、薩長勢力が幕府軍を圧倒、十五代将軍・徳川慶喜大政奉還を為すと土佐藩は、種臣(たねおみ)を始め江藤新平(えとうしんぺい)、大隈重信(おおくましげのぶ)、山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)らを指揮官に登用して東征軍に参加する。

東征軍参加の功により、土佐藩軍勢の指揮官達は明治維新後、新政府の要職に席を得ている。

副島種臣(そえじまたねおみ)は、千八百六十四年(慶応四年)新政府の参与・制度取調局判事となり、土佐藩士だった徴士参与・福岡孝悌(ふくおかたかちか)と「政体書」の起草に携わる。

種臣(たねおみ)は千八百六十九年(明治二年)に参議、千八百七十一年(明治四年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件に於いて活躍する。

千八百七十三年(明治六年)二月、維新後初の海外出兵となった千八百七十一年(明治四年)に起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使兼外務大臣として清の首都北京へ派遣される。

種臣(たねおみ)は清朝相手に日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈及び交渉にあたった。

この交渉の間、清朝高官との詩文交換で種臣(たねおみ)はその博学ぶりを評価をされている。

しかし対清朝の同年(明治六年)十月、種臣(たねおみ)は征韓論争に敗れて下野し、千八百七十四年(明治七年)には板垣退助らと共に愛国公党に参加する。

同年(明治七年)には民撰議院設立建白書を提出したものの、種臣(たねおみ)は自由民権運動には参加しなかった。

西郷隆盛らが起こした西南戦争中は、中国大陸中南部を旅行滞在している。

その後種臣(たねおみ)は官僚に復帰、宮中顧問官や枢密顧問官、政治家として枢密院副議長、翌年の千八百九十二年(明治二十五年)には第一次松方内閣に於いて内務大臣を務めている。

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by mmcjiyodan | 2012-07-21 15:27 | Comments(0)  

枝吉神陽(えだよししんよう)

枝吉神陽(えだよししんよう)は「佐賀の吉田松陰」とも言える人物である。

神陽(しんよう)の門下からは、明治維新に大きな影響を与えた佐賀藩出身の人材・実弟の副島種臣の他、大隈重信江藤新平、大木喬任、島義勇ら多数輩出している。

つまり肥前・佐賀藩が、明治維新を推進した藩閥政治・薩長土肥と呼ばれる藩の一つとして一郭を占める勢力を築いたには神陽(しんよう)の存在が大きかったのである。

また神陽(しんよう)は、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された江戸時代後期から幕末に活躍した佐賀藩の思想家、教育者、国学者である。

神陽(しんよう)は佐賀藩の藩校・弘道館の教授で在った佐賀藩下士(三十石)・枝吉南濠(えだよしなんごう)の長男として生まれ、幼児期より神童と賞される。

神陽(しんよう)二十歳の時には江戸幕府直轄の学問所・昌平黌(しょうへいこう/昌平坂学問所)に学び、ほどなく実力を認められて舎長に推されている。

学問所・昌平黌(しょうへいこう)に在って、神陽(しんよう)は漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶ事を認めさせた。

また早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩の哲学である「葉隠をも否定した」といわれる。

二十六歳で佐賀も帰郷してからは、弘道館の教諭や什物方などを務める傍ら、父・南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動(尊皇運動)を行った。

千八百五十年に、神陽(しんよう)は「義祭同盟」を結成、天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど活動を活発にする。

神陽(しんよう)は「義祭同盟」をもって、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが、藩主・鍋島直正を動かす事は出来ず失敗している。

「義祭同盟」の結成から十三年後の千八百六十三年、幕府が日米修好通商条約に拠る開港地選定で騒がしい頃、神陽(しんよう)は妻と伴にコレラに罹って四十一歳と言う若さで亡くなった。

神陽(しんよう)が亡くなったのは、徳川慶喜睦仁(むつひと)天皇大政奉還を為した千八百六十七年(慶応三年)の四年前の事だった。

只、「義祭同盟」に名を連ねた大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇、副島種臣らの秀才群れは、枝吉神陽(えだよししんよう)の学者としての実力を証明している。


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by mmcjiyodan | 2012-07-21 15:19 | Comments(0)  

大隈重信(おおくましげのぶ)〔一〕

明治維新政府の要職(参議)を務めた江藤新平(えとうしんぺい)、大隈重信(おおくま重信)、山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)副島種臣(そえじまたねおみ)らを輩出した佐賀藩(さがはん)は、明治維新を推進した藩閥政治・薩長土肥と呼ばれる藩の一つ「肥前」である。

肥前国佐賀郡にあった外様・佐賀藩(さがはん)は、肥前藩(ひぜんはん)とも言い鍋島氏が藩主で在った事から鍋島藩(なべしまはん)と言う俗称もある。

彼ら維新の英雄に名を連ねて居る連中は押し並べて聡明で、しかも「従来の定説」に囚われ無い「先進を模索する」感性を持っていた。

「従来の定説」を否定する事は既存のルールを無視する事であるが、だからこそ明治維新は成立した。

大隈重信(おおくましげのぶ)は佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれ、幼名は八太郎である。

大隈家は、知行三百石を食(は)み石火矢頭人(いしびやとうにん/砲術長) を務める上士の家柄で在った。

重信(しげのぶ)は七歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である「葉隠」に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、千八百五十四年(安政元年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。

千八百五十五年(安政二年)南北騒動をきっかけに重信(しげのぶ)は弘道館を退学、後に復学を許されるも戻らず枝吉神陽(えだよししんよう)から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の義祭同盟にも参加した。

千八百五十六年(安政三年)、重信(しげのぶ)は佐賀藩蘭学寮に転じている。

五年後の千八百六十一年(文久元年)には、重信(しげのぶ)は時の藩主・鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

重信(しげのぶ)は長州藩への協力および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。

そして千八百六十五年(慶応元年)、佐賀藩が宣教師グイド・フルベッキを校長に招いて佐賀藩校・英学塾「致遠館」を開校する。

長崎の五島町に在った諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学塾「致遠館」にて、重信(しげのぶ)は英語を学びながら副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。

この時、重信(しげのぶ)は新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けると伴に京都や長崎に往来して尊王派として活動した。

千八百六十七年(慶応三年)、重信(しげのぶ)は副島と共に将軍・徳川慶喜大政奉還を勧める事を計画し、脱藩して京都へ赴(おもむ)いた。

しかし事は露見に及び、捕縛の上、佐賀に送還されて一ヵ月の謹慎処分を受けた。

千八百六十八年(明治元年)、明治維新に際して重信(しげのぶ)は薩摩藩小松帯刀の推挙により徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられる。

重信(しげのぶ)は、グイド・フルベッキから学んだ英語を駆使し、キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮する。

千八百六十九年(明治二年)に成ると、重信(しげのぶ)は会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。

翌千八百七十年(明治三年)に参議に補され、三年後の千八百七十三年(明治六年)には大蔵省事務総裁、五ヶ月後には参議兼大蔵卿になった。

新政府で力を持った重信(しげのぶ)の下には、彼の私邸を「築地梁山泊」と称し、伊藤博文や井上馨と言った若手官僚が集まり政治談義にふけった。

重信(しげのぶ)は木戸孝允と結んで近代国家の早期建設を謳い、大久保利通らを牽制した。

殖産興業政策を推進し征韓論には反対し、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。

その後の千八百八十一年(明治十四年)、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立、重信(しげのぶ)自身の財政上の失政もあり、十月十二日、参議を免官となった。

この「明治十四年の政変」で、重信(しげのぶ)は辞表を提出し野に下った。

大隈重信(おおくましげのぶ)〔ニ〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2012-07-20 17:44 | Comments(0)  

大隈重信(おおくましげのぶ)〔ニ〕

大隈重信(おおくましげのぶ)〔一〕】に戻る。

大隈重信(おおくましげのぶ)は千八百八十二年(明治十五年)三月、十年後に予定されていた国会開設に備え、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らを結集して小野梓とともに立憲改進党を結成する。

同じ年の十月、重信(しげのぶ)は小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現早稲田大学)を、東京郊外(当時)の早稲田に開設する。

立憲改進党を結成した重信(しげのぶ)だったが、二年後の千八百八十四年(明治十七年)、立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。

千八百八十五年(明治十八年)十二月、内閣制度移行に際し初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任する。
その二年後の千八百八十七年(明治二十年)、重信(しげのぶ)は伯爵に叙された。

自ら同様英語力を重視する内閣総理大臣・伊藤博文は、重信(しげのぶ)の外交手腕を評価して不平等条約改正の為、政敵である重信(しげのぶ)を外務大臣として選ぶ。

伊藤博文の要請に拠り、千八百八十八年(明治二十一年)ニ月より重信(しげのぶ)は外務大臣に就任した。

同年、黒田清隆が組閣すると重信(しげのぶ)は外務大臣を留任するが、外国人判事を導入すると言う条約案が反対派の抵抗に遭う。

翌千八百八十九年(明治二十ニ年)、重信(しげのぶ)は国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を切断する負傷を負い外務大臣を辞職した。

七年後の千八百九十六年(明治二十九年)「松隈内閣(しょうわいないかく)」と呼ばれる第二次松方内閣で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して千八百九十七年(明治三十年)に辞職した。

千八百九十八年(明治三十一年)六月に重信(しげのぶ)は板垣退助らと憲政党を結成する。

同年六月三十日に重信(しげのぶ)は、「隈板内閣(わいはんないかく)」と俗に言う薩長藩閥以外で初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。

しかし憲政党内の旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。

後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いた事に不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。

結局、組閣から僅か四ヵ月後の十一月八日、内閣は総辞職する羽目となり、重信(しげのぶ)は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いる事となる。

千九百七年(明治四十年)、重信(しげのぶ)は一旦政界を引退し、自らが設立していた早稲田大学の総長へ就任する。

しかし重信(しげのぶ)は、第一次護憲運動が興ると政界に復帰する。

そして千九百十四年(大正三年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、二度目の内閣(第二次大隈内閣)を立憲同志会、公友倶楽部、及び中正会で組織する。

同年(大正三年)七月、第一次世界大戦が起こり、第二次大隈内閣は中国大陸での権益確保を求めて、八月二十三日に対独宣戦布告をおこなう。

翌千九百十五年(大正四年)一月には、重信(しげのぶ)は外相・加藤高明と共に対華二十一ヶ条要求を提出した。

内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、八月には重信(しげのぶ)自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るも政権は次第に国民の支持を失って行く。

更に政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、千九百十六年(大正五年)十月、終(つ)いに内閣は総辞職、事後重信(しげのぶ)も政界から完全に引退した。

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by mmcjiyodan | 2012-07-20 17:41 | Comments(0)  

江藤新平(えとうしんぺい)〔一〕

明治維新政府の要職(参議)を務めた江藤新平(えとうしんぺい)、大隈重信(おおくましげのぶ)副島種臣(そえじまたねおみ)山口尚芳(やまぐちますか/なおよし)らを輩出した佐賀藩(さがはん)は、明治維新を推進した藩閥政治・薩長土肥と呼ばれる藩の一つ「肥前」である。

肥前国佐賀郡にあった外様・佐賀藩(さがはん)は、肥前藩(ひぜんはん)とも言い鍋島氏が藩主で在った事から鍋島藩(なべしまはん)と言う俗称もある。

彼ら維新の英雄に名を連ねて居る連中は押し並べて聡明で、しかも「従来の定説」に囚われ無い「先進を模索する」感性を持っていた。

「従来の定説」を否定する事は既存のルールを無視する事であるが、だからこそ明治維新は成立した。


江藤新平(えとうしんぺい)は、「維新の十傑」に数えられる人物である。

江藤新平(えとうしんぺい)は、肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)に佐賀藩士・江藤胤光(えとうたねみつ)と妻・浅子の長男として生まれる。

父は「手明鑓(てあきやり)と言う身分の下級武士で在った」とされ、江藤家は鎌倉初期に肥前小城郡晴気保の地頭を務めた鎌倉御家人千葉常胤の末裔を称する。

新平(しんぺい)は、千八百四十八年(嘉永元年)に藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給された。

所が、父・胤光(たねみつ)が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分となった為に生活が困窮し外生課程に進学できずに止まる。

この頃、新平(しんぺい)は窮乏生活を強がって「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたと言う。

新平(しんぺい)は、弘道館教授で儒学・国学者で在った枝吉神陽(えだよししんよう)の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響される。

尚、大隈重信(おおくましげのぶ)も、枝吉神陽(えだよししんよう)の私塾に学んで新平(しんぺい)とは同門である。

千八百五十年(嘉永三年)に枝吉神陽(えだよししんよう)が義祭同盟を結成すると、新平(しんぺい)は大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らと伴に参加した。

江戸幕府後期のこの時期、多くの外国船が日本近海へ出没する。

アメリカのペリー艦隊やロシアのプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を新平(しんぺい)はモロに受ける。

新平(しんぺい)は、千八百五十六年(安政三年)に意見書である「図海策」を執筆、また千八百五十七年(安政四年)には藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務め、結婚もしている。

千八百六十二年(文久ニ年)新平(しんぺい)は脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触する。

その時はニヶ月ほどで帰郷し通常脱藩は死罪であったが、新平(しんぺい)の見識を高く評価した藩主・鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたとされる。

蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では藩主・直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。

十五代将軍・徳川慶喜大政奉還を行って幕府が消滅した千八百五十七年(慶応三年)の十二月に新平(しんぺい)は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。

薩摩藩長州藩は公家の岩倉具視と結び、千八百六十八年(明治元年)に王政復古の大号令を行う。

新政府が誕生すると佐賀藩もこれに参加し、新平(しんぺい)は副島種臣とともに京都に派遣される。

戊辰戦争で新平(しんぺい)は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。

薩摩藩西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定するや、新平(しんぺい)は城内の文書類を接収する。

さらに京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべき事(東京遷都)を献言する。

旧幕臣らを中心とする彰義隊が抵抗活動をしていた問題では、新平(しんぺい)は大村益次郎らとともに討伐を主張している。

新平(しんぺい)は官軍の軍監として戊辰戦争の一部・上野戦争で戦い、彰義隊勢を上野寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解する。

江藤新平(えとうしんぺい)〔ニ〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2012-07-20 17:27 | Comments(0)  

江藤新平(えとうしんぺい)〔ニ〕

江藤新平(えとうしんぺい)〔一〕】に戻る。

千八百五十九年(明治二年)、江藤新平(えとうしんぺい)は維新の功により賞典禄百石を賜っている。

戊辰戦争が一段落した後、新政府が設置した江戸鎮台に於いて新平(しんぺい)は長官の下の六人の判事の一人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当する。

七月には新平(しんぺい)の東京遷都の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称される。

千八百七十年(明治三年)一月には佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うが後に中央に呼び戻され、同年十一月に太政官中弁となる。

その十二月、新平(しんぺい)は虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する。

千八百七十一年(明治四年)ニ月に、新平(しんぺい)は制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して三十項目の答申書を提出する。

近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組む。

文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると、新平(しんぺい)は千八百七十二年(明治五年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任する。

新平(しんぺい)は学制の基礎固め、四民平等、警察制度整備など近代化政策を推進し、特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。

官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及する。

予算を巡る対立も絡み、新平(しんぺい)は山縣有朋と井上馨の二人を一時的に辞職に追い込んだ。

その一方で欧米的な三権分立の導入を進める新平(しんぺい)に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持つ政府内の保守派からは激しく非難された。

また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、新平(しんぺい)は大蔵省との確執を招いた。

千八百七十三年(明治六年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変(明治六年の政変)で西郷隆盛板垣退助後藤象二郎副島種臣(そえじまたねおみ)と共に十月に下野する。

千八百七十四年(明治七年)一月十日に愛国公党を結成し十二日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは新平(しんぺい)が帰郷する事は大久保利通の術策に嵌るものである事を看破し、慰留の説得を試みる。

しかし新平(しんぺい)は、この慰留には全く耳を貸さず翌十三日に船便で九州へ向かう。

新平(しんぺい)は直ぐには佐賀へ入らず、ニ月二日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見る事となる。

一方、大久保は新平(しんぺい)の離京の知らせを知った一月十三日には佐賀討伐の為の総帥として宮中に参内し、二月五日には佐賀に対する追討令を受けている。

勿論この時点では、佐賀側では蜂起の決起さえ、いやそれ処か新平(しんぺい)は佐賀に入国さえしていなかった事に留意する必要がある。

この事から新平(しんぺい)は、「完全に大久保の掌中に在った」と言えるだろう。

二月十一日、新平(しんぺい)は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い十二日、佐賀征韓党首領として擁立された。

そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する事態になる。

二月十六日夜、憂国党が武装蜂起し、不平士族による初の大規模反乱である「佐賀の乱(さがのらん)」が勃発する。

佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

やがて大久保利通が指揮直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着するも、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。

政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。

朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、佐賀軍の士気は高く三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。

また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。

しかし政府軍の装備が遥かに新しい上に、司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。

この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に、装備に劣る佐賀軍は敗走する。

新平(しんぺい)は征韓党を解散して脱出し、三月一日鹿児島・鰻温泉・福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。

続いて三月二十五日高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった為、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。

しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。

手配写真が出回っていた為に速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は新平(しんぺい)自身が千八百七十二年(明治五年)に確立したものだった。

皮肉にも、手配制度の制定者・新平(しんぺい)本人が被適用者第一号となったのである。

新平(しんぺい)は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、「除族の上梟首の刑」を申し渡されて嘉瀬川から四キロメートル離れた千人塚で梟首処刑された。

江藤新平(えとうしんぺい)の朝臣としての正式な名のりは、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)流千葉常胤の末裔として平胤雄(たいらのたねお)である。

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by mmcjiyodan | 2012-07-20 17:24 | Comments(0)