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孝明天皇崩御の謎〔一〕

幕末の政治混乱の中、尊攘派志士達の権力を巡る争奪戦に孝明天皇は巻き込まれて行く。
孝明天皇個人の権威は低下して、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出して行く。

千八百六十六年(慶応二年)孝明天皇は突然発病し、時代に翻弄されながら在位二十一年にして崩御する。

ご壮健であらせられた孝明天皇が数えの三十六歳の若さにしてあえなく崩御してしまった事から、直後にその死因に対する不審説が漏れ広がっている。

この「孝明天皇の謎の死」が、もし謀殺で在ったなら、お側近くに仕える公家の中にその犯人が居なければ、説明が着かない。

もしそれであれば、孝明帝暗殺の陰謀はそこで完結するのでは無く、ある目的の大陰謀の序章に過ぎない恐れがあった。

となると、そのお側近くに仕える公家には孝明天皇謀殺に止まらない一連の大陰謀があり、確信犯的な目的を持って居た可能性を感じる。

この時点で、江戸幕府守旧派と尊皇攘夷の革新派が、国家体制をめぐって大きく対立していた事に成る。

守旧派のトップは、北朝系「孝明天皇」と徳川第十四代将軍「家茂(いえもち)」で、二人の思想は、「公武合体・鎖国攘夷」である。

二人は和宮(孝明天皇の妹、家茂の妻)を通じて義兄弟で、旧体制の維持を謀っていた。その二人が、相次いで亡くなった。

その死が不自然で、今日でも根強く「暗殺説」が囁かれている。

こんな矛盾する事は無いのだが、この孝明天皇の突然死が謀殺であれば、御側(おそば)近くに仕える公家にしか為し得ない。

そして孝明天皇の腹心とも言える侍従は、後に明治維新を主導した野心の固まりの様な人物・岩倉具視(いわくらともみ)卿だった。

つまり、混迷する幕府政治の情況を打開すべく動いた尊皇攘夷派公家の仕業としたら、一連の動機は尊皇では無く野心満々の立身出世である。

確かに情況は切迫し、この時に明治維新の大業がなされなければ、日本の運命は欧米いずれかの植民地に変わっていたかも知れない。

しかし、孝明天皇は突然病死した。

その跡を継いだ睦仁親王(明治天皇)が、途中で「誰かと入れ替わった」と言う噂が存在する。

あくまでも噂であるが、その後の皇統史的扱いから疑いは濃い。

西暦千八百六十七年一月十六日、和暦慶応二年十二月十一日、風邪気味で在った孝明帝は宮中で執り行なわれた神事に医師達が止めるのを押して参加し、翌十二日に発熱する。

孝明帝の持病である痔を長年に渡って治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順(いらこみつおさ)の日記にその経緯が書かれていた。

孝明帝が発熱した十二日、執匙(しっぴ/天皇への処方・調薬を担当する主治医格)で在った高階経由(たかしなつねよし)が診察して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。

十四日以降、伊良子光順(いらこみつおさ)など他の典薬寮医師も次々と召集され、昼夜詰めきりでの診察が行われた。

西暦千八百六十七年一月二十一日(和暦慶応二年十二月十六日)、高階らが改めて診察した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患(りかん)している可能性が浮上する。

執匙(しっぴ/主治医)の高階経由は痘瘡の治療経験が乏しかった為、経験豊富な小児科医二名を召集して診察に参加させた。

その結果、いよいよ痘瘡(とうそう/天然痘)の疑いは強まり、十七日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹った事を正式に発表した。

これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢十五人により、二十四時間交代制での治療が始まった。

孝明天皇の公式の伝記である「孝明天皇紀」に拠れば、医師達は天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。

この「御容態書」に於ける発症以降の孝明天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセス通りに進行している事を示す「御順症」とされていた。

しかし、典薬寮の外科医・伊良子光順の日記に於ける十二月二十五日の条には、孝明天皇の痰が酷く、他の医師二人が体をさすり、光順が膏薬を貼り、他の医師達も御所に昼夜詰めきりで在った。

回復に向かっていた筈の帝の予期せぬ容態の急変に、拝診資格を持つ十五名の医師団は右往左往するばかりで為す術(すべ)も無い。

その伊良子光順の日記に「十二月二十五日亥の刻(午後十一時)過ぎに崩御(ほうぎょ/亡くなる)された」と記されている。

中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などと言う娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されている。

しかし崩御(ほうぎょ/亡くなる)の事実は秘され、実際には命日と成った二十五日にも、「益々ご機嫌が良く成られました」と言う内容の「御容態書」が提出されている。

天皇の崩御が公にされたのは二十九日に成ってからの事だった。

孝明天皇崩御の謎〔二〕】に続く。

睦仁親王(明治天皇)即位の疑惑】に続く。
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by mmcjiyodan | 2012-08-21 17:56 | Comments(0)  

孝明天皇崩御の謎〔二〕

孝明天皇崩御の謎〔一〕】に戻る。

孝明天皇は悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていたが、それ以外では特段の病は無く至って壮健であらせられた。

「中山忠能(なかやまただやす)日記」にも「近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。

公家の中山忠能(なかやまただやす)は、娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、次帝・睦仁親王(明治天皇)を産んだ事から、忠能は明治天皇の外祖父に当たる。

しかし中山忠能(なかやまただやす)は、公武合体派の公家として尊皇攘夷派との国論の二分する対立の中に在って失脚していた。

それが突然復権し、侍従・岩倉具視卿らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。

そんな折に孝明天皇が数えで三十六歳の若さにしてあえなく崩御なされてしまった事から、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。

その後明治維新を経て、世の中に皇国史観が醸成されて行くと、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明帝の死因を論ずる事は長く封印された。

しかし千九百九年(明治四十二年)にハルビン(哈爾浜)駅で伊藤博文を暗殺した朝鮮族の安重根(あんじゅうこん)が伊藤の罪として孝明帝毒殺を挙げるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。

また、千九百四十年(昭和十五年)七月、日本医史学会関西支部大会の席上に於いて、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が論説を発表する。

佐伯理一郎は、孝明帝が痘瘡に罹患した機会を捉え、侍従・岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子(ほりかわもとこ)を操り、「天皇に毒を盛った」と言う旨の内容だった。

そして日本が太平洋戦争(第二次世界大戦)で敗北し、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、俄然変死説が論壇を賑(にぎ)わす様になる。

まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」及び「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した禰津正志(ねずまさし)だった。

禰津(ねず)は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく「孝明帝が順調に回復の道を辿(たど)っていた」とし、「孝明帝は回復する筈だった」と指摘している。

処が、症状が一転急変して苦悶の果てに崩御された事を鑑み、禰津(ねず)は孝明帝の最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定した。

また戦前の佐伯説と同様に犯人について、岩倉卿が首謀者、妹・堀河紀子の実行説を唱えているが、決定的な証拠はない。

千九百七十五年(昭和五十年)から千九百七十七年(昭和五十二年)にかけ、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝に拠って典薬寮の外科医・伊良子光順の拝診日記が「滋賀県医師会報」に連載された。

この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、孝明帝の死因を特定できるような内容が記されている訳でも無い。

また、典薬寮の外科医・伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べている様なものでも無かった。

だがこれを発表した光孝は、断定こそ避けているものの、禰津(ねず)と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。

これらの他にも、学界に於いて毒殺説を唱える研究者は少なからず居り、千九百八十年代の半ばまでは孝明帝の死因について、毒殺が多数説とも言うべき勢力を保っている。

いずれにしても、もし側近に拠る孝明帝の暗殺が事実なら、次帝・睦仁親王(明治天皇)が「別人と入れ替わった」としても、「さして驚く事では無いではないか?」と思えて来るのだ。

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by mmcjiyodan | 2012-08-21 17:54 | Comments(0)  

石原莞爾(いしはらかんじ)と板垣征四郎(いたがきせいしろう)

石原莞爾(いしはらかんじ)と板垣征四郎(いたがきせいしろう)は伴に「上士格の家格を持つ家柄だった」が、維新時に旧幕府方に付いた奥州(東北)列藩の出自である。

薩長土肥の藩閥政治から置いて行かれた両名には、何処かで殊勲を上げる家名再興の気持ちが強かったのかも知れない。

石原莞爾(いしはらかんじ)の父・石原啓介は元山形県庄内藩士で、莞爾の祖父は酒田奉行の要職を勤む結構な家柄だった。

その石原啓介の長男として鶴岡に生まれた莞爾(かんじ)は、仙台の幼年学校から士官学校(二十一期)を経て、明治四十二年、少尉に任官して山形の第三十二連隊に就任する。莞爾(かんじ)は会津若松連隊の新設にともなって転勤、才能を認められた上司に勧められて入学した陸軍大学校を優等で卒業している。

板垣征四郎(いたがきせいしろう)は旧盛岡藩士族で、父・板垣政徳は気仙郡郡長、女学校校長を務める地元の名士だった。

征四郎(いたがきせいしろう)は、盛岡中学、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(十八期)で学び、陸軍大学校(二十八期)を卒業している。

その二人が、満州の地・関東軍に赴任してある目的で意見が一致した。
その一致した目的が、満蒙領有計画だったのである。

石原莞爾(いしはらかんじ)中佐と板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐は、関東軍に拠る満蒙領有計画を立案する。

千九百三十一年(昭和六年)板垣征四郎大佐は、石原莞爾(いしはらかんじ)らと満州事変を実行、二十三万の張学良軍を相手に僅(わず)か一万数千の関東軍で、日本本土の三倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。

ただしこの関東軍・佐官級参謀陣の一連の行動は、参謀本部・陸軍省と言った当時の陸軍中央(省部)の国防政策から逸脱していた。

明確な軍規違反であり、大元帥・昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動するのは死刑にされるほどの重罪で在ったが、処罰される何処か首謀者達は出世した。

くどいようだが、卑怯な事はせず君命には逆らわない筈の「武士道の国の皇軍・関東軍」は、一皮剥(む)いた本音ば手段を選ばぬ謀略の軍隊だった。

中央の意向を無視して、石原莞爾(いしはらかんじ)中佐と板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐が動かした関東軍が、傀儡国家・満州国の建国に到る行為は、太平洋戦争に続く滅びの道だった。

只、この満州国の建国は、要は理性をスッ飛ばした感性で国民を高揚させ、民族意識を満足させるものだった事は確かである。

その点では、当時の国民が都合の良い情報だけを流されて理性が働かず、感性だけの甘い夢に踊らされて居た事になる。

板垣征四郎は後に陸軍大臣(第一次近衛内閣及び平沼内閣)を務めなど中央で出世、大将に、石原莞爾(いしはらかんじ)は中将まで昇っている。

そして征四郎は、盟友の石原莞爾(いしはらかんじ)の才能を認めて、東条英機(とうじょうひでき)と対立する莞爾(かんじ)を擁護して居た。

為に征四郎は、時の権力者・東条英機(とうじょうひでき)に中央から外されてシンガポール方面軍に飛ばされた。

最終階級は陸軍大将・第七方面軍(シンガポール方面軍)司令官、敗戦時にシンガポールで英国軍に身柄を拘束され連合国によりA級戦犯に指定される。

東京裁判を法的根拠から見れば「適法で無い事は明らか」で、それを言ったらA級戦犯は無罪である。

しかし戦争遂行者は、自国民と相手国民の命を多数消耗した事実に対して真摯に責任を負うべきである。

即ち、戦争遂行者が「法的根拠で無罪」だからと言って、戦争遂行に力を持たなかった純粋な英霊達と同じ靖国社合祀は、戦争遂行者の責任をウヤムヤにする行為である。

征四郎は極東国際軍事裁判で死刑判決、千九百四十八年(昭和二十三年)十二月二十三日、シンガポールで絞首刑に処せられた。

一方、石原莞爾(いしはらかんじ)は左遷されて終戦当時予備役だった為に戦犯指定を免れている。

板垣征四郎と石原莞爾(いしはらかんじ)が運命を分けたのは、莞爾(かんじ)と東条英機(とうじょうひでき)との対立からである。

石原莞爾(いしはらかんじ)の様な天才児の発想は常識外れだから、暫(しば)しその発信は変人扱いに成る。

まさしく莞爾(かんじ)は典型的な天才児で、演説巧者だけの口先男の東条英機(とうじょうひでき)の無能振りを見破っていていた。

当時、飛ぶ鳥落とす勢いの東条英機を、正面切って批判したのは莞爾(かんじ)だけで、東條英機にして見れば、莞爾(かんじ)の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。

東條英機は、莞爾(かんじ)の口を塞ぐ為に現役を退かせ予備役へ編入する。

結果、莞爾(かんじ)は、東條英機との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判に於いては戦犯の指名から外された。

関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-08-17 00:45 | Comments(0)  

関東軍(かんとうぐん)〔一〕

日本は日露戦争後に、中華民国からのロシア帝国の租借地を日本の租借地として獲得した。

その租借地・関東州(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部を前身として大日本帝国陸軍の総軍の一つ関東軍(かんとうぐん)は誕生する。

当初の編制は独立守備隊六個大隊を隷属し、また日本内地から二年交代で派遣される駐剳(ちゅうさつ)一個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍で在った。

千九百十九年(大正八年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍として独立した。

関東軍(かんとうぐん)が帝国陸軍の総軍の一つに昇格したのは千九百四十二年(昭和十七年)十月一日で、それ以前は軍の一つだった。

司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京(現・吉林省長春)に移転する。

「関東軍」の名称は万里の長城の東端とされた「山海関の東」を意味し、元々の警備地の関東州に由来する。

千九百二十八年には、北伐による余波が満州に及ぶ事を恐れた関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。

しかし、張作霖の跡を継いだ息子・張学良は、国民政府への帰属を表明し工作は裏目となった。

張作霖爆殺事件や満州事変を関東軍が独断で実行した事は、千九百二十年代からの国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級参謀陣が自らの判断で武力転換させた事を意味する。

そして、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく左右する契機となった。

これら関東軍・佐官級参謀陣の一連の行動は参謀本部・陸軍省と言った当時の陸軍中央(省部)の国防政策からも逸脱していた。

明確な軍規違反であり、大元帥・昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動するのは死刑にされるほどの重罪で在ったが、処罰される何処か首謀者は出世した。

千九百三十一年、石原莞爾作戦課長と板垣征四郎高級参謀らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌千九百三十二年、満州国を建国する。

犬養毅首相は、当初満州国承認を渋るが海軍青年士官らによる五・一五事件の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。

その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任すると伴に、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たる。

一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。

関東軍司令部は、千九百三十四年に満州国の首都・新京市(日本の敗戦後、旧名の長春に戻る)に移った。

一方で、千九百十七年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、千九百三十年代中盤頃までに第一次及び第二次五ヵ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。

当初日本側は、ソ連軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍の極東軍管区の増強を続けていた。

千九百三十八年の張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第十九師団が初めてソ連軍と交戦し、その実力は侮りがたい事を知る。

更に千九百三十九年のノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するが大きな損害を被り日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった。

なお戦後の或る時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は「日本陸軍の一方的敗北で在った」と考えられていた。

しかしソ連崩壊により明らかになった文書に拠ると、両戦闘に於けるソ連側の損害が実は日本側を上回っていた事実が分かった。

これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、戦時の勝敗は損害の高だけではなく戦闘当事者の勝敗実感も影響されるものである。

その当事者の勝敗実感で、明らかに関東軍は大敗と感じていたのだ。

これらの武力衝突によりソ連軍の脅威が認識された事や第二次世界大戦の欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、千九百三十六年には、関東軍の編制は四個師団及び独立守備隊五個大隊となっていた。

そして、翌千九百三十七年の日中戦争(支那事変)勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、千九百四十一年には十四個師団にまで増強された。

加えて日本陸軍は同年勃発した独ソ戦に合わせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力七十四万人以上に達した。

「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと謳われたて居たのは、この時期である。

なお、同千九百四十一年四月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。

関東軍(かんとうぐん)〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2012-08-14 18:25 | Comments(0)  

関東軍(かんとうぐん)〔二〕

関東軍(かんとうぐん)〔一〕】に戻る。

千九百四十二年十月一日には、関東軍の部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格する。

関東軍は支那派遣軍や南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。

しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した千九百四十三年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用される。

また日ソ中立条約によりソ連軍との戦闘の可能性が少なかった為、関東軍も進んで戦力を提供する。

その埋め合わせに千九百四十五年になると、在留邦人を対象に所謂(いわゆる)「根こそぎ動員(二十五万人)」を行う。

数の上では関東軍は七十八万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期より遥かに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には到っていなかった。

千九百四十五年八月九日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦する。

満州に侵攻して来たソ連軍に対し関東軍は国境で陣地防御を行い、戦況の悪化に従って防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させる守勢後退を行った。

この作戦に拠って関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と非難される事と成る。

一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた九個師団を基幹とする第三方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていた。

しかし関東軍は、反撃に移るまでに八月十五日の玉音放送を迎えた。

正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは十六日夕方で在った。「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜十時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。

ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、八月末まで戦闘行動を継続した部隊も在った。

停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出す事となる。

総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部は十一年間の長期に渡って抑留されて居る。

近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に獄死した為、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠煇が継ぐ事となる。

また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第四練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立し中国人民解放軍空軍の基礎を築いている。

関東軍(かんとうぐん)〔一〕】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2012-08-14 18:23 | Comments(0)  

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、千九百三十九年(昭和十四年)五月から同年九月にかけて起こった満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件である。

この国境紛争事件には、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。

当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。

そしてノモンハン事件を「戦争」と表現するほどの大規模な武力衝突とするなら、日本政府は国民にひた隠しにしていたが、実は明治維新以降の戦闘として日本軍が始めて大敗を喫した一戦だった。

ノモンハンの呼称だが、清朝が千七百三十四年に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボーの一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。

このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方に在る。

清朝が定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの千九百十三年の独立宣言以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されて来た。

しかし千九百三十二年に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から十~二十キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。

千九百三十九年(昭和十四年)にこの係争地で起きた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。

ノモンハン事件には五月の第一次ノモンハン事件と七月から八月の第二次ノモンハン事件に分かれ、第二次でさらに局面の変転がある。

第一次ノモンハン事件は両軍合わせて三千五百人程度規模の戦闘で、日本軍が敗北した。第二次ノモンハン事件では、日本とソ連の両国それぞれが紛争にしては規模が大きい数万の軍隊を投入した。

七月一日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退される。

この後、日本軍は十二日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、良い結果を得られず断念する。

七月二十三日に到って、日本軍が再興した総攻撃は三日間で挫折した。

その後戦線は膠着したが、八月二十日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、三十一日に日本軍をソ連が主張する国境線内から後退させた。

一方、ハンダガヤ付近では、日本軍が八月末から攻撃に出て、九月八日と九月九日にモンゴル軍の騎兵部隊に夜襲をかけて敗走させた。

九月十六日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地の内ノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。

停戦交渉はソ連軍の八月攻勢の最中に行われ、九月十六日に停戦協定が結ばれた。

いずれにしても対ソ連軍との戦闘は救い様が無い大敗で、植田謙吉・関東軍司令官は責任を問われ辞職した。

また、この事件の実質的な責任者である関東軍の作戦参謀の多くは、転勤を命ぜられたが、その後中央部の要職に就き、対英米戦の主張者となった。

戦後の或る時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は「日本陸軍の一方的敗北で在った」と考えられていた。

しかしソ連崩壊により明らかになった文書に拠ると、両戦闘に於けるソ連側の損害が実は日本側を上回っていた事実が分かった。

これにより特にノモンハン事件に関しては現在再評価が進んでいるが、戦時の勝敗は損害の高だけではなく戦闘当事者の勝敗実感も影響されるものである。

その当事者の勝敗実感で、明らかに関東軍は大敗と感じていた。

歴史的な事例を見れば、百人の包囲軍に千人が降伏する事もあるのだから、現地も本国も「敗戦」と考えた戦闘を、後で調べたら「相手の損害の方が大きいので勝だった」など、もはや笑止噴飯ものの飽きれた論理である。

いずれにしても軍部も政府も敗戦と認識して居ながら、都合の悪い事は国民に隠す隠蔽体質(いんぺいたいしつ)は、変わらないのが為政者体質である。

関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-08-14 03:56 | Comments(0)  

日華事変(にっかじへん)=支那事変(しなじへん)

日本にとっての「第二次世界大戦」の端緒となったのが、日華事変(にっかじへん)=支那事変(しなじへん)と呼ばれる戦闘行為だった。

日華事変(にっかじへん)=支那事変(しなじへん)とは、千九百三十七年(昭和十二年)七月から始まった日本と中華民国の間で行われた長期間かつ大規模な戦闘である。

ただし当初は、両国とも宣戦布告を行わなかった為に「事変」と称していた。

「支那事変」と言う呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、現在は「日中戦争」と呼ばれている。

支那事変は、千九百三十七年(昭和十二年)七月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大した。

八月の第二次上海事変勃発以後は中支(中支那、現中国の華中地方)へも飛び火、次第に中国大陸全土へと飛散し、日本と中華民国の戦争の様相を呈して行った。

この情勢にソ連は空軍志願隊を送り、中華民国側を援護する動きに出た。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月までは日中双方とも宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争と言う体裁を望まなかった。

戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となる為である。

国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても「戦争と認めては不利」とされたのである。

特に中国にとっては、千九百三十五年に制定されたアメリカの国内法である中立法の適用を避けたかった事も大きい。

中立法は外国間が戦争状態にある時、もしくは内乱が重大化した場合に、交戦国や内乱国へ、アメリカが武器及び軍需物資を輸出する事を禁止するものであった。

当時、アメリカでは日本に対し中立法の適用を検討したが、中国に多量の武器を輸出していた事も在って発動は見送られた。

事変の長期化と共にアメリカやイギリスは援蒋ルートを通じて重慶国民政府(蒋介石政権)を公然と支援を始める。

日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘(おうちょうめい)を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月八日の日米開戦と伴に蒋介石政権は九日には日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。

同十二日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」と決定した。

当初の武力衝突を日中双方が「事変」としていた為、日本では初め北支事変(ほくしじへん)、後には支那事変(しなじへん)の呼称を用いた。

新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。

日支事変(にっしじへん)とも呼ばれる。

戦後の学校教育では当初「日華事変」に統一されていたが、昭和五十年代以降は徐々に「日中戦争」と言う呼称が広まった。

これは「事実上の戦争である」との歴史学界による学説に拠り「事変」から「戦争」に表現を変更した。

更に主として日本教職員組合など教育現場やマスコミが、「支那」と言う言葉が「中国を侮蔑するニュアンスを含む」と指摘する。

加えて、占領軍(GHQ)や中華民国・中華人民共和国(建国前)両政府の政治的圧力を受け、「支那」と言う言葉の使用を避けた為、「日中戦争」と呼称する事に成った。

なお本来「支那」と言う呼称に「差別的意味は無い」とする研究もあり、我輩も個人としてはそれを採りたい。

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by mmcjiyodan | 2012-08-13 03:40 | Comments(0)  

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)

満州国建国後日本は、千九百三十三年三月二十七日に国際連盟を脱退し、中満の国境を越えて中国領内に支那駐屯軍を置いていた。

また、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起きる前年(千九百三十六年/昭和十一年)、青年将校が反乱を企てた二・二六事件が起こっている。

その青年将校達の改革クーデターの試みが失敗すると、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなり、返って軍部の力が強まってしまい、経済問題までもが「武力解決が主流」になってしまった。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、千九百三十七年(昭和十二年)七月七日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍(司令官・宋哲元/そうてつげん)との衝突事件である。

中国では一般的に七七事変と呼ばれるこの事件は、支那事変(日中戦争)の直接の導火線となった。

事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づくもので、以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたが俗称である。

千九百三十七年(昭和十二年)七月七日、日本軍支那駐屯軍所属の豊台に駐屯していた第三大隊(第七、八、九中隊、第三機関銃中隊)及び歩兵砲隊は、北平の西南端から十余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。

この演習については日本軍は七月四日夜、中国側に通知済みであった。

第三大隊第八中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後十時四十分頃 永定河堤防の中国兵が第八中隊に対して実弾を発射する。

しかもその実弾発射の前後には永定河堤防の中国兵は宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。

実は、盧溝橋事件より二ヵ月あまり前の千九百三十七年(昭和十二年)四月、第二十九軍は対日抗戦の具体案を作成し、五月から六月にかけて、盧溝橋、長辛店方面に於いて兵力を増強する。

それと伴に軍事施設を強化し、七月六日、七日には既に対日抗戦の態勢に入っていた。

当時日本軍北支那駐屯軍は、中国北部に於ける日本の権益と北平・天津地方の在留邦人の生命財産を保護する任務を負っていた。

日本軍は天津に主力を、更に北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲の為連日演習を続けていた。

その為清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告すると伴に、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し七月八日午前一時頃到着した。

七月八日午前十時頃に急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。

牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、及び夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた。

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉及び冀察外交委員会専員・林耕雨等も中佐と同行した。

これに先立って豊台部隊長は直 ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求した。

だが、その交渉中の八日午前四時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近 の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃して来た。

この為、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍 に対し武装解除を要求した。

この戦闘に於いて日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者二十数名、負傷者は六十名以上で在った。

午前九時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は八日午後零時二十分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後八時には戒厳令を施行する。

憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は八日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。

九日午前二時になると中国側は遂に午前五時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前六時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しない。

そればかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対し度々銃撃を行った為、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行った。

中国側はやむを得ず九日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させる。

その督促の結果、中国側は午後零時十分、同地の部隊を一小隊を残して永定河右岸に撒退を完了し、残った一小隊は保安隊到著後交代させる事になった。

一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。

この日午後四時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉の為天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは十日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があった。

同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から 南進した中国兵が九日午前二時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃する。

この為牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後九時頃龍王廟を占領する。

この戦闘に於いて日本側は戦死六名、重軽傷十名を出した。

十一日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約二kmの五里店付近に集結した。

この時点で、当時砲を有する七~八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にいた。

長辛店及び蘆溝橋の兵力を増加し、永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥った。

日本軍参謀長は交渉決裂の為、十一日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。

同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のある事を察知すると急遽態度を翻して午後八時に北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議を受け入れる。

中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各 種団体取締を行うなどを、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

この事件後に、日中間で幾つかの和平交渉が行われている。

千九百三十七年(昭和十二年)七月、盧溝橋事件が勃発した後、二十九軍司令官・宋哲元(そうてつげん)は日本軍側との人脈を生かして、一旦は停戦に持ち込んだ。

七月十八日に宋哲元は「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度の事については軍司令官(香月中将)の指導を仰ぐ事にしたいと思ひますから何事によらず指示に与りたい」と言う丁寧な挨拶で香月中将に謝罪を行う。

翌十九日に宋哲元(そうてつげん)は、日本軍との停戦協定を樹立している。

しかし結局、宋哲元(そうてつげん)の第二十九軍は部下の反日感情により何度も発砲を繰り返した為に日本軍の主要な攻撃目標の一つとされた。

日華事変(にっかじへん)=支那事変(日中戦争)の本格的な軍事衝突は、この「盧溝橋事件」が発端だったのである。

関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-08-13 03:36 | Comments(0)  

満州国建国(まんしゅうこくけんこく)

満州国(まんしゅうこく)は、千九百三十二年から千九百四十五年の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家である。

大日本帝国および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)と国境を接していた。

帝政移行後は「大満州帝国(大滿洲帝國)」或いは「満州帝国」などとも呼ばれていた。

柳条湖事件発生から四日後の千九百三十一年九月二十二日、関東軍の満州国領有計画は陸軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。

参謀本部は参謀・石原莞爾(いしわらかんじ)中佐らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原中佐は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねる事を条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。

現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、九月二十四日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、二十六日には煕洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、二十七日にはハルビンで張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足した。

翌千九百三十二年二月に、奉天・吉林・黒龍江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。

二月十六日、奉天に張景恵、臧式毅、煕洽、馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会が組織された。

二月十八日には「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された。

千九百三十二年三月一日、上記四巨頭と熱河省の湯玉麟、内モンゴルのジェリム盟長チメトセムピル、ホロンバイル副都統の凌陞を委員とする東北行政委員会が、元首として清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を満洲国執政とする満洲国の建国を宣言した。

元号を「大同」とし、首都には長春が選ばれて「新京」と命名され、国務院総理(首相)には鄭孝胥が就任した。

その後、千九百三十四年三月一日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行して元号を康徳に改元した。

国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。

元々満州(中国東北部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域で、満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。

千九百十二年の清朝(清帝国)滅亡後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。

千九百三十一年、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。

関東軍の主導の下、同地域は中華民国からの独立を宣言し、千九百三十二年三月、満洲国の建国に至った。

元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就いた。

満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、蒙古民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとした。

また建国理念として、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は建国以降、日本、その中でも関東軍の強い影響下にあり「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。

当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

この事が、千九百三十三年(昭和八年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ(シャム)王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどのその後の第二次世界大戦における枢軸寄り中立国も満州国を承認する。

そして、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の三分の一以上と国交を結んで安定した状態に置かれた。

またアメリカやイギリスなど国交を結んでいなかった国も大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこなっていた。

第二次世界大戦末期の千九百四十五年(昭和二十年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソビエト連邦軍)による満洲侵攻と、日本の太平洋戦争敗戦により、八月十八日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する。

満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中国国民党率いる中華民国に返還された。

その後の国共内戦を経て、現在は中国共産党率いる中華人民共和国の領土となっている。

中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満」「偽満州国」と表記する。

また、同地域についても「満洲」という呼称を避け、「中国東北地区」と呼称している。

日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として「旧満洲」という修飾と共に呼称する。

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by mmcjiyodan | 2012-08-13 03:33 | Comments(0)  

国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)

千九百三十二年一月に関東軍が張学良による仮政府が置かれていた錦州を占領すると、アメリカ合衆国は日本の行動は自衛権の範囲を超えているとして、パリ不戦条約および九か国条約に違反した既成事実は認められないとして日本を非難した。

当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

国際連盟は、千九百三十一年(昭和六年)十二月十日の連盟理事会決議によって、千九百三十二年三月、満州問題調査の為にイギリスのリットン卿(ヴィクター・ブルワー=リットン)を現地に派遣した。

リットン調査団の調査は三ヵ月に及んで同年六月に完了、同年九月には調査の結果をリットン報告書として提出した。

その間、若槻内閣は閣内不一致で千九百三十一年十二月に退陣、替わって立憲政友会の犬養毅が内閣を組織した。

関東軍は満州より張学良政権を排除し、千九百三十二年(昭和七年)三月には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)を執政にすえて「満州国」の建国を宣言した。

千九百三十三年三月二十七日、国際連盟総会に於いてリットン調査書による報告に基づいて満州国に対する決議が行なわれる。

日本が設立した実質上の傀儡国であった満州国を、国際連盟は「満州国は地元住民の自発的な独立ではない」と結論づけた総会決議を行った。

その結果、総会決議は賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(タイ)となり、二月二十四日、国際連盟は満州国を否認した。

この時の全権代表・松岡洋右(後の外相)は、「日本は、国際連盟総会の勧告を断じて受け入れる事は出来ない」と演説し、そのまま退席する。

その後の千九百三十三年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退を宣言し、以後孤立の道を深めて行く事になる。

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by mmcjiyodan | 2012-08-13 03:28 | Comments(0)