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大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程

樺太から来た原人に始まり、稲作縄文人渡来系と縄文人が混血した弥生人と幾つもの段階を経て、日本列島で出会った多くの部族が、大和民族(ヤマト民族/日本人)として成立する過程は、命を繋ぎながら混血の道を辿った事である。

そして時の二大勢力、渡来系・加羅族(からぞく/農耕山岳民族)の象徴・天照大神(あまてらすおおみかみ)と渡来系・呉族(ごぞく/海洋民族)の象徴・須佐之男命(スサノウノミコト)に拠る民族和合の宴・天岩戸伝説が生まれる。

つまり多くの部族が大和合して大和国(ヤマトの国)を創るには、天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(スサノウノミコト)との誓約神話に象徴される平和の為の神事(呪詛)が必要だった。

天照大神(あまてらすおおみかみ)が、隠れ籠もってしまった天岩戸を「天手力男(あめのたじからお)の命」がこじ開ける時に、天照大神が「何事か?」と、覗き見の隙間を開けさせたのが、この「神楽(かぐら)の始まり」と聞く。
その、岩戸に隙間を開けさせる歴史的きっかけになった神楽の原型は、「天宇受売命(あめのうずめのみこと)の胸も女陰も露わなストリップダンス」、と言われている。

天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が岩戸(天石屋戸/あまのいわと)に籠った時に、岩戸の前で踊った女神で、「宇受(うずめ)」は「かんざし」の意で、髪飾りをして神祭り(神楽舞)をする女神、更には「神憑った(かみがかった)女性の神格化を示す」とされている。

列島の民(日本人)は、「先住民(原住縄文人原住縄文人(蝦夷/えみし))と渡来系部族の混血だ」と言われていて、天宇受売(アメノウズメ)の夫神・猿田毘古神(サルダヒコガミ)は先住民(縄文人)、后神・天宇受売命(アメノウズメノミコト)は渡来系弥生人だった。

原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は、遥か太古からの人類繁殖の形態・群れ婚意識が残っていて、それが後世の村落共生社会の性規範として寝宿制度があり、その後中国雲南省付近から遣って来て稲作を伝えた加羅族(からぞく/農耕山岳民族)の習慣・妻問婚(つまどいこん)夜這い(呼ばう)も定着した。

日本列島に於ける単一日本民族の成立過程で起こった経緯が、渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)呉族(ごぞく/海洋民族)原住縄文人(蝦夷/えみし))、三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。

三つ巴の多民族とは、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の象徴が邪馬台国卑弥呼(ひみこ)であり、呉族(ごぞく/海洋民族)系の象徴が、神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)の祖・スサノウ(須佐王)狗奴国(くなくに)、同じく呉族(ごぞく/海洋民族)系の伊都国の王・葛城氏(賀茂氏)、そして加羅族(からぞく)・呉族(ごぞく)が渡来する以前からの先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の三民族に大別される。

いずれにしても、大和民族(ヤマト民族/日本人)の一部が「約二千年前に摩訶不思議に消滅したヘブライ部族の子孫である 」と言う説も含めて、一大混血民族が大和民族(ヤマト民族/日本人)である。
そして三民族の一系、先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の王族が、火の王・アピエの末裔「安倍・阿倍一族である」と言う強力な説がある。

三つ巴の多民族を信仰で一つにまとめ様と考え、役小角(えんのおずぬ)を登用して修験道師を育成し陰陽修験道を全国に広げる試みをしたのが大海人皇子(おおあまのみこ・天武天皇)である。

その陰陽修験道師を更に活用したのが桓武天皇(かんむてんのう)で、この陰陽修験道師の活動が、人身御供伝説を生んだのである。
つまり大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程の基本的な裏付けは、「他部族・異民族の性交に拠る混血」と言う現実的な事実である。

それでも「大和合の大和国(ヤマトの国)」を認めないのは、古事記日本書紀天孫降臨伝説から皇国史観(こうこくしかん)に到る国家観と民族観に反する事実だからである。

険しくは、小論【大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程】を参照下さい。

関連小論
日本人の祖先は何処から来たのか?
ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族

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by mmcjiyodan | 2012-10-29 03:39 | Comments(0)  

越前・加賀一向一揆(えちぜん・かがいっこういっき)

越前と加賀の一向一揆は、ほぼ百年近く続いた。

越前(福井県)一向一揆(えちぜんいっこういっき)には「富田長繁対石山本願寺と結託して一向一揆となった土一揆の戦い」と「織田信長対一向一揆の戦いとに区別される。

また加賀(石川県)一向一揆(かがいっこういっき)とは、千四百八十八年(長享二年)頃から千五百八十年(天正八年)にかけて、加賀の本願寺門徒らが中心となった一向一揆の事である。

蓮如(れんにょ)は千四百七十四年(文明六年)から翌千四百七十五年(文明七年)までの間、吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在した。

蓮如(れんにょ)は親鸞以来の血脈相承を根拠として、北陸の浄土系諸門を次々と統合して行った。

千四百七十三年(文明五年)には富樫家党首・富樫政親(とがしまさちか/藤原利仁流)の要請を受けて加賀守護家の内紛に介入し、翌年には富樫幸千代(政親の弟)を倒した。

蓮如(れんにょ)はこの功によって守護・富樫氏の保護を受ける事を期待していた。

しかし逆に、政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて千四百七十五年(文明七年)に門徒の弾圧を開始、蓮如(れんにょ)は吉崎御坊を退去し、加賀の門徒は政親に追われて越中に逃れた。

所が、今度は越中砺波郡の石黒光義(越中国福光城主)が富樫政親と結んで門徒弾圧に出る。

千四百八十一年(文明十三年)に越中でも一揆(越中一向一揆)が発生し、福光城主・石黒光義が討ち取られる。

また、政親は加賀の一国支配の認知を目指して九代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)による六角高頼遠征(鈎の陣)に従軍したが、それに伴う戦費の拡大により、国人層が反発して越中から帰還した門徒とともに決起する。

千四百八十八年(長享二年)に蓮如(れんにょ)は、「長享の一揆」を起こし政親の代わりに富樫家を二分する勢力の富樫泰高(とがしやすたか)を守護に擁立して、政親を高尾城に滅ぼす。

九代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)は一向一揆の討伐を検討したが、細川政元の反対と義尚の死により一向一揆討伐と六角高頼遠征は中止となった。

以後、加賀に一向宗々主代理の一門衆(松岡寺住持蓮綱・光教寺住持蓮誓・本泉寺住持蓮悟)が在住し、次第に国人層から本願寺による加賀支配に移行して行った。

所が一門衆が、千五百六年(永正三年)に一向一揆を抑圧する周辺諸国への進撃を行って失敗(九頭竜川の戦い・般若野の戦い)した頃から、一門衆による統治に動揺を来たし始める。

続いて本願寺中央が一門衆を抑圧しようとした事から、千五百三十一年(享禄四年)には大小一揆と呼ばれる内紛に発展して多くの一門衆やこれに従った国人衆が粛清された。

千五百四十六年(天文十五年)に尾山御坊(金沢御堂)が建設され、それを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させた。

尾山御坊(金沢御堂)は、千五百五十五年(弘治元年)、千五百六十四年(永禄七年)の二回・朝倉氏と、千五百七十年代前半は上杉謙信と、その後は織田信長と対立した。

しかし、石山本願寺の降伏、尾山御坊の陥落により一揆は解体された。

尾山御坊を攻略したのは佐久間盛政とも前田利家だったとも言われ両説ある。

千五百七十三年(元亀三年)になって漸く、織田信長は朝倉氏(朝倉義景/あさくらよしかげ)と浅井氏(浅井長政/あざいながまさ)を相次いで滅ぼし越前国と近江国浅井領を手に入れる。

所が、越前一向一揆が起こりせっかく得た越前を一向宗に奪われてしまう。

これにより本願寺勢力は、長島・越前・石山の三ヵ所で信長に敵対していたが、信長はまず伊勢長島の一揆に大軍を動員して包囲降伏を赦さず殲滅している。

越前一向一揆に対しては、織田信長が千五百七十五年(天正三年)に武田勝頼を長篠の戦いで破り余裕が出来た処で越前に派兵を決定する。

織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前一向一揆を制圧しその勢いで加賀一向一揆にまで兵を進め、加賀の南部に攻略拠点を築いている。

尚、千五百七十六年(天正四年)の加賀一向一揆では、信長の主要な官僚武将・簗田広正(やなだひろまさ)が討伐に失敗し尾張に召還されている。

越中国井波(いなみ/富山県南砺市)、浄土真宗大谷派の別院・井波(いなみ)瑞泉寺(ずいせんじ)は、一向一揆の北陸に置ける本拠地だった。

越中・井波城の築城年代は定かではないが、現在の瑞泉寺の東にある井波八幡宮のある丘陵に千四百五十九年~千四百八十七年(文明年間)に瑞泉寺によって築かれた一向衆の城塞である。

柴田勝家の宿将・佐々成政は越中一向宗の二大勢力と成っていた瑞泉寺を攻め、これを攻略し、その後井波城には成政の家臣・前野小兵衛が城主と成る。

しかし千五百八十五年(天正十三年)、羽柴秀吉と柴田勝家が織田家の後継争いで衝突この前野城主の井波城を、羽柴方に付いた前田利家に拠って攻略されている。

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by mmcjiyodan | 2012-10-25 03:48 | Comments(0)  

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)

千五百七十年(元亀元年)本願寺門跡の顕如(れんにょ)上人は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として本願寺門徒に檄を飛ばし、三好氏攻略の為に摂津福島に陣を敷いていた織田軍を突如攻撃した。

その石山挙兵とほぼ同時に伊勢国長島願証寺で一向一揆が発生(長島一向一揆)し、信長の弟・信興(のぶおき)が守る尾張の小木江城を滅ぼすなどして公然と信長に敵対するようになる。

千五百七十年頃から千五百七十四年にかけての石山合戦に伴い、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起した一向一揆である。

長島と言う地名は元々「七島」であり、長島一向宗は、木曽川、揖斐川、長良川の河口付近の輪中地帯を自治領とする仏教勢力である。

この長島一向宗勢力は、地元の国人領主層を取り込み、戦国大名勢力を排除して地域を完全に支配していた。

「門徒衆約十万人、石高約十万石(十八万石説あり)を擁した」と言われるこの巨大な勢力の為に、織田氏や斎藤氏を始め、各国領主達はまったく立ち入る事はできなかった。

織田信長は石山挙兵と長島一向一揆を抱え、それでも派兵して優勢に戦うが、三好朝倉武田上杉などの反信長勢力の動向も抱えて攻め切れず、三年間ほどにらみ合い休戦状態が続いている。

千五百七十三年(元亀三年)になって漸く、織田信長は朝倉氏(朝倉義景/あさくらよしかげ)と浅井氏(浅井長政/あざいながまさ)を相次いで滅ぼし越前国と近江国浅井領を手に入れるが、越前一向一揆が起こりせっかく得た越前を一向宗に奪われてしまう。

これにより本願寺勢力は、長島・越前・石山の三ヵ所で信長に敵対していたが、信長はまず伊勢長島の一揆に大軍を動員して包囲降伏を赦さず殲滅している。

長島一向一揆は織田信長との間で、大きく分けて、千五百七十年(元亀元年)、千五百七十三年(天正元年)、千五百七十四年(天正二年)の三度に渡る激しい合戦を起こしている。

千五百七十四年(天正二年)の第三次長島侵攻では織田家の主要な将の殆どが参陣し、七万~八万と言う織田家でも過去に例を見ない大軍が長島攻略に注ぎ込まれる。

織田方は武将七人を失うも拠点となる城を包囲攻めし、火を掛けて焼き討ちし、一向宗門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊、長島城は滝川一益に与えられた。

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by mmcjiyodan | 2012-10-24 00:46 | Comments(0)  

村井貞勝(むらいさだかつ)

織田信長の官僚家臣として信長支配体制を支えた村井貞勝(むらいさだかつ)の出身は近江国と言われているが、出自の詳細は伝わっては居ない。

貞勝(さだかつ)は行政手腕に長けていた為め、織田信長から厚い信任を受けて、早期より奉行として重用される。

千五百四十年(天文十八)、貞勝(さだかつ)は信長の奉行として連署して以来、織田政権下を通じて庶政に当たる。

千五百五十六年(弘治二年)に織田信勝(信行)が兄の信長に叛旗を翻した時には既に信長に仕えていたので、貞勝(さだかつ)は信長の臣としては古くから居た人物である。

この織田信勝(信行)事件では、島田秀満(秀順)と共に信長生母・土田御前(どたごぜん)の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和平交渉を行った。

千五百六十七年(永禄十年)、森可成(もりながよし)によって稲葉良通(いなばよしみち)ら西美濃三人衆の降誘の際、貞勝(さだかつ)は人質受け取りの実務を担当する。

千五百六十八年(永禄十一年)九月、信長が足利義昭を奉じて共に上洛した際も貞勝(さだかつ)は同行し、明院良政・佐久間信盛・木下秀吉丹羽長秀らの諸将と共に京に残留し、諸政務に当たっている。

また、貞勝(さだかつ)は足利義昭の庇護、上洛後の二条城の造営、その他社寺との折衝など織田家の政務を担う。

信長の上洛時に貞勝(さだかつ)は、朝山日乗(あさやまにちじょう/ちようざんにちじょう説あり)と共に京都御所の修築も担当、また明智光秀とともに京都の施政に当たっている。

千五百七十三年(天正元年)七月、信長の怒りを買った足利義昭(あしかがよしあき)が逃亡して芸州・毛利家に身を寄せる。

将軍・足利義昭を追放した信長が、京都を完全支配下に置いて室町幕府が滅亡した。
この時貞勝(さだかつ)は、信長より京都所司代(天下所司代)に任ぜられるなど信長の最も信頼する吏僚の一員であった。

所謂(いわゆる)朝廷事情通の明智光秀に対して、朝廷との実務交渉は織田家京都所司代・貞勝(さだかつ)が信長の代行者として任じて居た。

貞勝(さだかつ)は信長の行政官僚側近らと共に、京都の治安維持や朝廷・貴族・各寺社との交渉、御所の修復、使者の接待、信長の京都馬揃えの準備など、凡そ信長支配体制下に於ける京都に関する行政の全てを任されている。

千五百七十九年(天正三年)四月、信長は困窮した公家を救う為、公家の旧領を返還させる徳政令を発する。

この徳政令に貞勝(さだかつ)は、丹羽長秀(にわながひで)と伴に土地や文書の調査や係争を担当した。

同千五百七十九年(天正三年)七月、信長に官位昇進の勅諚が出されるが、信長はこれを固辞、代わりに家臣団への叙任を願い出て勅許された。

千五百八十年(天正八年)二月、信長は京都での居住場所を本能寺に移す事に決め、貞勝(さだかつ)に普請を命じた。

翌千五百八十一年(天正九年)、貞勝(さだかつ)は出家して村井春長軒と号し、家督を子の村井貞成に譲っている。

千五百八十二年(天正十年)五月、貞勝(さだかつ)は朝廷から「信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任じたい」と言う意向を伝えられた。

所謂、三職推任(三官推任)であるが、信長はせせら笑って相手にせず朝廷も困り果てたが、三職推任(三官推任)には「貞勝(さだかつ)の方から言い出した」と言う説がある。

同、千五百八十二年(天正十年)六月、本能寺の変では貞勝(さだかつ)は本能寺向かいの自邸にいたが、信長の嫡男・織田信忠の宿所の妙覚寺に駆け込んだ。

信忠に二条新御所への移動を提言し、同じく駆けつけた他の織田家臣らとともに、二条新御所に立て籠もって明智軍に抗戦したが、信忠と共に貞勝(さだかつ)貞成親子も討死した。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-10-23 01:39 | Comments(0)  

森氏(もりうじ)・森長可(もりながよし)〔一〕

戦国時代から安土桃山時代の初期にか掛けて織田信長に仕え、一時は二十万石の太守に成った森長可(もりながよし)を称する若くして生涯を終えた猛将が居た。

森長可(もりながよし)の森氏(もりうじ)は、清和源氏の一家系・河内源氏の棟梁である八幡太郎源義家の七男(六男説あり)・源義隆(みなもとのよしたか)を祖とする。

義家の七男・義隆(よしたか)が相模国愛甲郡・毛利庄(もりのしょう)の領主となって森冠者(もりのかんじゃ)と名乗り、その三男、源頼隆は後に若槻を号するが出家の後は森蔵人入道(もりくらんどにゅうどう)西阿(にしあ)と称した。

源義隆(みなもとのよしたか)は、相模国毛利庄を領し、千百五十九年(平治元年)の平治の乱で、長男・源義朝(みなもとよしとも)に従って参戦するも平氏に敗れる。

平清盛に敗れて兄・源義朝と伴に東国へ落ち延びる際、比叡山の竜華越で落ち武者狩りに遭遇、兄・源義朝の盾と成って落命する。

義隆流森氏が、本格的に森氏(もりうじ)を名字としたのは、宝治合戦後に頼隆の次男であるとされる森頼定が森姓を称した事によるとされる。

遠祖・源陸奥七郎義隆の長男・義広(頼定の伯父)にはじまる源姓・毛利氏(もりうじ)とは、名字の表記に多少の差異はあるものの、「名字の地」即ち名字発祥の地を同じくするされる。

長可(ながよし)は、その源義隆(みなもとのよしたか)を祖とする源姓・森氏を名乗って戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将・大名である。

父・森可成(もりよしなり)の次男として生まれ、兄・森可隆、弟・森成利(蘭丸)らが居たが千五百七十年(元亀元年)に父・可成、兄の可隆が相次いで戦死する。

為に長可(ながよし)は、僅か十三歳で森家の家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し「森勝蔵長可」を名乗った。

千五百七十三年(元亀四年)三月、伊勢国の第二次長島一向一揆攻めに信長の継嗣・織田信忠の部隊に参加して十六歳で初陣を果たす。

この一揆攻めで、長可(ながよし)が総大将と仰いだ織田信忠は、長可(ながよし)より一歳年長の十七歳である。

父親の信長としては、信忠に同じ世代の長可(ながよし)をご学友みたいにつける配慮だったのかも知れない。

長可(ながよし)は稲葉良通(一鉄)、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正(かがみもとまさ)などが功を挙げ信長よりその働きを称された。

その後長可(ながよし)は、槇島城の戦い、第三次長島一向一揆攻めなどで世に武勇を見せる。

千五百七十五年(天正三年)以後、長可(ながよし)は織田信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。

千五百八十二年(天正十年)の甲州征伐(武田勝頼(たけだかつより)攻め)に於いては、長可(ながよし)は団忠正(だんただまさ)と共に先鋒部隊の将として抜擢される。

信濃国の武田領へと侵攻した団と長可(ながよし)は奮闘し、松尾城・小笠原信嶺、飯田城・保科正直、高遠城・仁科盛信、などを降伏または潰走させるなど戦果を挙げる。

長可(ながよし)はそのまま団と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たる。

これらの戦功から、千五百八十二年(天正十年)に長可(ながよし)は武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)二十万石と海津城を与えられた。

また長可(ながよし)の旧領である金山領(美濃国金山)は弟の森成利(蘭丸)に与えられている。

信濃入領後の長可(ながよし)は、上杉氏と結んで反抗する旧武田家臣や信濃国衆を追放し、統治支配を確立する。

長可(ながよし)は、上杉景勝と対峙する柴田勝家の援軍として越後に侵攻し、二本木に陣を張って上杉氏本城・春日山城に迫る。

この出陣により、上杉景勝は春日山城防衛の為に魚津城救援を諦め、景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し、上杉軍は越中国に於ける重要な拠点を失う。

越後に侵攻し、柴田勝家の魚津城攻略に与力した森長可(もりながよし)は、信長に武功を称される筈だった。

所が、突然の異変で長可(ながよし)の運命は少しづつ暗転して行く。

越後に侵攻して間もない六月初旬、主君・織田信長が「本能寺の変」で明智光秀に討たれてしまったのだ。

この異変で、敵地深く進攻していた長可(ながよし)は一転して窮地に立たされ、四日後には二本木の陣を払って越後国から撤退する。

軍議を開いて信長の仇を討つ事を決定するも、力ずくで配下にしたばかりの信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっていた。

そうなると長可(ながよし)は、勝手に信濃の領主として乗り込んで来た男である。

信濃国衆たちは出浦盛清(いでうらもりきよ)を除いてほぼ全員が裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。

止む無く長可(ながよし)は木曽谷方面へと撤退し、旧領・東美濃で軍勢の体制を整える為に行軍する。

森氏(もりうじ)・森長可(もりながよし)〔二〕】に続く。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-10-19 20:00 | Comments(0)  

森氏(もりうじ)・森長可(もりながよし)〔二〕

森氏(もりうじ)・森長可(もりながよし)〔一〕】に戻る。

長可(ながよし)は無事に旧領・金山領(美濃国金山)への帰還を果たし、各務元正(かがみもとまさ)ら弟・成利(蘭丸)に与力として付けていた部下らと合流した。

しかし東美濃は、「本能寺の変」でお館様・信長が討たれ、弟・美濃国金山城主の森成利(蘭丸)も本能寺でお館様と運命を伴にした為、重石がとれて大混乱に陥っていた。

長可(ながよし)も旧領への帰還を果たしたものの、元家臣の肥田忠政・久々利頼興らが離反して森氏の勢力は衰退して居た。

更に小里光明・妻木頼忠・遠山友忠・斎藤利堯(さいとうとしたか)らも長可(ながよし)の排斥を企むなど、周囲は敵に囲まれた状態であった。

斎藤利堯(さいとうとしたか)は通称を玄蕃と称し、斎藤道三の子で、兄弟に義龍、孫四郎、喜平次、利治、濃姫(帰蝶)が居たとされ、稲葉良通(一鉄)の甥にあたる。

長可(ながよし)は、それらの離反した勢力を遠山氏など二~三を残し僅か一ヵ月半で一掃し、一方で実権を握りつつ在った羽柴秀吉に接近する。

長可(ながよし)は、首尾良く秀吉から東美濃の諸氏との秀吉への取次の役目を申し付けられ「当国に不届き者が居れば成敗するように」と言う旨の書状を受け取っている。

つまり長可(ながよし)は、東美濃に於ける秀吉の代行権を手に入れたのである。

千五百八十三年(天正十一年)には周囲の平定に着手、折から起こった賤ヶ岳の戦いでは、長可(ながよし)は羽柴秀吉方に付いて、柴田勝家と連携した織田信孝の家臣と交戦する。

これらの戦いを経て、長可(ながよし)は旧領復帰から十一ヶ月ほどで美濃に於ける抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで支配地を拡大した。

翌千五百八十四年(天正十二年)、長可(ながよし)二十七歳の時、運命を変える「小牧・長久手の戦い」が起こる。

羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となったので、長可(ながよし)は岳父である池田恒興(いけだつねおき)と共に秀吉方に付いた。

この戦に勝てば、長可(ながよし)は秀吉から駿河と遠江の二ヵ国の太守を保障されていた。

しかし織田信雄が拝み倒して味方につけた徳川家康は、経験豊かで老獪な武将だった。

秀吉方として出陣した長可(ながよし)は、小牧山の占拠を狙って軍を動かし羽黒(犬山市)に陣を張る。

その小牧山は既に前日徳川軍の手に陥落ちて居り、忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次榊原康政・大須賀康高ら五千の兵を羽黒へ向けて派兵する。

翌早朝、森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可(ながよし)方へと奇襲をかけ戦端を開く。その奇襲にも長可(ながよし)が立て直し戦形を維持するが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れた為に一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みる。

しかし自軍の兵がこれを敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、徳川軍に次々と討たれる。

もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可(ながよし)は、指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り漸く撤退に成功する。

だが、退路の確保や追撃を振り切る為の退き戦で三百余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。

長可(ながよし)は、膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国への中入り部隊に第二陣の大将として参加する。

この戦に際して長可(ながよし)は徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく、鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で出陣した。

道中で敵勢撹乱の為に、長可(ながよし)は別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回らせる作戦に出る。

岐阜根より南下し、岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢して丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。

この中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である羽柴秀次も徳川軍別働隊によって敗走していた。

その別働隊を、第三陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が二陣・長可(ながよし)隊と三陣・堀秀政隊の間に割り込むように布陣していた。

そして、先発した池田隊と長可(ながよし)隊は先行したまま取り残された形となっていた。

決戦は不可避となり、長可(ながよし)は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政(いいなおまさ)の軍と激突する。

長可(ながよし)は奮戦するも、井伊軍鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。

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by mmcjiyodan | 2012-10-19 19:58 | Comments(0)  

牧野氏(まきのうじ)・牧野康成(まきのやすなり)

三河・牧野氏(まきのうじ)は三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を発祥とする牧野氏一族の事である。

三河の牧野氏はその系譜書・家伝によれば「蘇我田口朝臣蝙蝠(そがのたぐちのあそんかわほり)が祖」と言う四国阿波国の豪族・紀姓(きのせい)・田口氏の後裔という。

この紀姓(きのせい)・紀氏は、武内宿禰(たけのうちのすくね)の子の紀角宿禰(きのつのすくね)を始祖とする。

紀姓(きのせい)・田口氏の田口成良・教良父子は平安時代末期に平清盛に仕えたが、三河・牧野氏始祖と伝えられる人物はその子孫とされる。

この牧野氏一族の中から、越後長岡藩主(七万四千石)を始めとする近世大名・牧野五氏(長岡藩・笠間藩・小諸藩・三根山藩)の徳川譜代の各藩)の流れを輩出した。

牧野氏が石高七万四千石の中堅親藩大名に成れたのは、二代将軍・徳川秀忠の牧野康成(まきのやすなり)への厚遇が在ったからである。

三河・牧野氏は、始め三河に勢力を伸ばしていた駿河の今川氏の傘下にあり、その先祖は松平家(徳川家)の三河国統一の過程に東三河で頑強に抵抗した勢力であった牛久保城の牧野氏だった。

三河国人領主・牧野氏は、三河国内に於ける今川氏の力が後退するまで松平家(徳川家)への抵抗は続けたとされる。

三河・牧野氏は宝飯郡の牛久保城と渥美郡の吉田城(今橋城)を牙城にしていたが、十六世紀初めには駿河国の戦国大名・今川氏に帰属していた。

やがて、牧野氏は西三河で勢力を急拡大した松平清康(家康祖父)により、千五百二十九年(享禄二年)から千五百三十二年(天文元年)の侵攻で吉田城を奪われた。

宝飯郡の牛久保城を拠点としていた牧野氏(吉田城主牧野家の同族)も、その際に一旦清康に服属している。

しかし、千五百三十五年(天文四年)の家臣・阿部正豊に暗殺された「守山崩れ」で松平清康が落命すると牛久保・牧野氏は再び今川氏に帰属し、その傘下で勢力を盛り返す。

千五百六十一年(永禄四年)四月からの、松平清康の孫・徳川家康による、東三河侵攻に対しても牧野氏は今川方として頑強に抵抗する。

しかし牧野一族からも次第に徳川氏に転属する者が現れ始め、徐々にその勢力が低下して行く。

千五百六十二年(永禄五年)二月、「三州錯乱」の収束を目指した牧野氏の宗主・今川氏真は三河に出陣・親征するが、家康との直接対決に敗れた。

次いで同年九月に東三河駐留今川軍は三州東岡合戦・三州八幡の戦いに大敗する。

翌千五百六十三年年三月、牛久保城外の戦いで今川支持者の牧野保成が死去すると、東三河諸勢の今川氏離反は決定的となった。

牧野家は保成の嫡男・成定が跡を継ぐが、結局、今川氏真(いまがわうじざね)の援軍を得られず孤立し、城主・牧野成定も千五百六十六年(永禄九年)五月までには降参し徳川氏に服属した。

以後、牧野氏は、家康の国衆に列して、東三河の旗頭として吉田城に詰めた酒井忠次の配下となり各地に転戦している。

成定嫡男・牧野康成 (まきのやすなり)の代に成っていた牛久保・牧野氏は、千五百九十年(天正十八年)家康の関東入りの際に大胡藩主(上野国大胡/二万石)として譜代大名に列した。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いで牧野康成 (まきのやすなり)は、徳川秀忠軍に属して、西軍・真田昌幸(さなだまさゆき)が守る信濃国上田城攻めに参加した。

この時東軍の総大将・秀忠は二十一歳、牧野康成は二十四歳年上の四十五歳で、本多正信榊原康政と伴に秀忠の与力武将として補佐する立場だった。

徳川方の「刈り田働き(他人の田の稲を暴力的に刈り取る)阻止」をめぐる偶発的戦闘で康成(やすなり)は友軍の危機を救援する事を命じたが、これが上田城攻めにまで発展した。

この戦闘開始には偶発説と篭城軍を誘い出す作戦だったと言う説がある。

しかしこの上田城攻めは秀忠に無許可で、しかも結果は惨敗で在った為に康成(やすなり)はその責を問われた。

康成(やすなり)は、直接刈り田働きを指揮をした部下の贄掃部氏信(にえかもんうじのぶ)を切腹させるよう命じられたが、康成(やすなり)は「自らが責を負う」としてこれを拒否する。

嫡子・牧野忠成もこの秀忠の命令に逆らい、忠成は贄(にえ)等を伴い出奔した為に大いに秀忠の怒りを買い、康成(やすなり)は上野国吾妻に蟄居処分となる。

但しこの間、牧野氏はお取り潰しの状態ではなく、秀忠の怒りは家康の手前を繕(つくろ)う芝居との見方も否定出来ない。

その後の千六百四年(慶長九年)に、後の三代将軍・徳川家光が誕生した事による恩赦で康成(やすなり)の処分が解かれ大胡藩二万石に戻った。

この恩赦の一件から、「秀忠無許可の上田城攻め」は関が原戦遅参と言う大失態の責めが秀忠に及ばない為に、康成(やすなり)が泥をかぶった策ではないかと推察される。

そこからが不思議だが、家康の死去から僅かの間に牧野氏は長岡藩(六万石)を秀忠より拝領、そこからまた加増があるなど何かの恩義を思わせるほど処遇は手厚かった。

また、この大胡藩主・牧野家から長岡藩(加増され都合七万四千石)・笠間藩・小諸藩・三根山藩)の徳川譜代の各藩が成立した。

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by mmcjiyodan | 2012-10-17 05:54 | Comments(0)  

堀秀政(ほりひでまさ)と堀家四代〔一〕

戦国時代に活躍した織田信長豊臣秀吉徳川家康の三大巨頭と親子孫ひ孫の四代が関わって三十万石の大々名にまで家運を挙げた堀一族を紹介する。

堀家興隆の切欠を創った堀秀政(ほりひでまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて織田信長に仕えて大名に出世した人物である。

堀姓については藤原利仁流清和源流宇多源流、大神氏流などの説あるが、美濃堀氏については明確な文献無く不明で、強いて地勢的可能性を挙げれば清和源流が有力である。

秀政(ひでまさ)は千五百五十三年(天文二十二年)、堀秀重(ほりひでしげ)の長男として美濃国で生まれる。

父・堀秀重(ほりひでしげ)は、初め斎藤道三に仕え二千石を領す、次いで織田信長に仕え、近江坂田郡に三千石、他に二千石の合計五千石を与えられた。

秀政(ひでまさ)は、幼い頃は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫の元で従兄弟・奥田直政(後の堀直政)と共に育てられたと言う。

秀政(ひでまさ)は最初、織田信長側近・大津長昌(おおつながまさ)、次いで木下秀吉(豊臣秀吉)に仕え、千五百六十五年(永禄八年)に十三歳の若さで織田信長の小姓・側近として取り立てられた。

少年・秀政(ひでまさ)が小姓に上がった時、信長は十九歳年上の三十二歳と男盛りである。

この当時、若くして小姓に昇り「信長の寵愛を受けた」と言うからには、秀政(ひでまさ)は前田利家森蘭丸と同様に、武門の習いとして稚児小姓として信長の衆道相手を務めた可能性が強い。

伝えられるところに依ると、秀政(ひでまさ)は森蘭丸の前に寵愛された信長お気に入りの稚児小姓だった。

聡明な少年を見い出して寝所に召し、衆道関係を持って身も心も奪った上で集中的に教育を施して優秀な側近に育てるのだ。

勿論、稚児小姓あがりの側近は信頼関係が強く、出世も別格で早い。

秀政(ひでまさ)は才能を発揮し、三年後には十六歳で将軍・足利義昭の仮住まいの本圀寺の普請奉行を担うなど各種の奉行職を務め、信長側近としての地位を確立する。

数年後、少年から青年に成長した秀政(ひでまさ)は次第に奉行職だけでなく戦場でも活躍するようになる。

越前一向一揆討伐、紀伊雑賀討伐戦、有岡城の戦い、第二次天正伊賀の乱などに指揮官として一隊を率いて戦っている。

千五百八十一年(天正九年)、二十八歳の秀政(ひでまさ)は信長の寵愛を受け、近江国坂田郡に二万五千石を与えられ大名に列した。た。

千五百八十二年(天正十年)の甲州征伐(武田勝頼(たけだかつより)攻め)では信長に従って甲信に入るが、既に織田信忠武田氏を滅ぼした後だった為に戦闘には参加しなかった。

本能寺の変の直前には、明智光秀が徳川家康の接待役を外された後、丹羽長秀と共にこれを務めており、この接待を終えた後に備中の秀吉の下へ向かっている。

同じ年の千五百八十二年(天正十年)、本能寺の変が起こって信長が死去した時、秀政は秀吉の軍監として備中国にいた。

そしてその後は秀吉の家臣となって山崎の戦いに参陣し、中川清秀・高山右近らと先陣を務める。

秀吉と光秀が雌雄を決した山崎の戦いは秀吉方の勝利に終わり、秀政(ひでまさ)は光秀の援護にきた従兄弟の明智秀満を坂本城に追い込む。

敗北を悟った秀満は先祖代々の家宝を秀政の家老・直政に譲る旨を告げ、城に火を放ち自害した。

信長没後も、信長の寵愛を受けた秀政(ひでまさ)の優秀さは折り紙付きで、豊臣秀吉も一目置いていた。

戦後処理となった清洲会議により、堀秀政(ほりひでまさ)は丹羽長秀に代わって近江の佐和山城を拝領し、三法師の蔵入領の代官と守役を承る。

千五百八十二年(天正十年)十月二十日付の秀政(ひでまさ)書状には羽柴の名字を使用しており、秀吉の一族以外で初めて羽柴氏(名字)を与えられたと考えられている。

翌千五百八十三年(天正十一年)四月、織田家相続で対立した秀吉は越前北ノ庄の柴田勝家を攻める。

この戦いで、家康が秀吉に宛てた書状に秀政(ひでまさ)の軍功を褒めるほど目覚しい働きあり、戦後、従五位下・左衛門督に叙任され、また近江佐和山九万石を賜る。

但し別の説では、佐和山九万石は清洲会議で賜ったと言う史料もある。
秀政(ひでまさ)はまた、従兄弟の六右衛門が一向宗蓮照寺住職となっていた関係で、本願寺方との交渉をも受け持った。

堀秀政(ほりひでまさ)〔二〕】に続く。

関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-10-15 01:05 | Comments(0)  

堀秀政(ほりひでまさ)と堀家四代〔二〕

堀秀政(ほりひでまさ)〔一〕】に戻る。

千五百八十四年(天正十二年)の小牧・長久手の戦いでは、味方の軍は大敗を喫したが、自軍を三手に分け、余勢を駆った家康方の大須賀康高・榊原康政らを待ち伏せし、挟撃して敗走させた。

しかし秀政(ひでまさ)は、全体の戦況を把握して家康本隊とは戦わず退却する。

千六百八十五年(天正十三年)、豊臣秀吉が関白になると秀政(ひでまさ)は従四位下・侍従兼左衛門督に叙任される。

同年の紀州征伐(千石堀城の戦い、第二次太田城の戦い)四国平定戦による軍功により秀政(ひでまさ)は丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に十八万石を与えられ、与力に加賀小松の将・村上義明、加賀大聖寺の将・溝口秀勝が付けられた。

豊臣秀吉に重用されて十八万石の中堅大名にまで栄進、父である秀重(ひでしげ)もその下で主に代官的な政務補佐を担当し活躍した。

千五百八十六年(天正十四年)には、同僚の長谷川秀一とともに昇殿を許された。

なお、秀政(ひでまさ)が各地を転戦している間、佐和山城には城代として父の堀秀重や弟の多賀秀種が在城して統治にあたった。

千五百八十七年(天正十五年)の九州征伐にも参陣して秀政(ひでまさ)は先鋒部隊を任される。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐にも参陣、左備の大将を命ぜられ、箱根口を攻め上り、山中城を陥落させる。

秀政(ひでまさ)は小田原早川口まで攻め込み、海蔵寺に本陣を布いた。

しかし五月下旬に疫病を患い、秀政(ひでまさ)は三十八歳の若さで小田原征伐の陣中にて急死する。

堀家の家督は秀政・長男の堀秀治(ほりひではる)が継いだ。

秀政(ひでまさ)は神奈川県小田原市の海蔵寺に一旦葬られたが、髷だけは領内に持ち帰られ、福井県北之庄(福井市)の居館近くの長慶寺に墓が建てられた。

秀政(ひでまさ)のなきがらは、後に堀家が転封となった際、新潟県上越市春日山城の林泉寺に改葬されている。
福井県福井市の長慶寺に位牌と墓所のひとつが伝わり、同寺では毎年五月に供養祭が行なわれている。

堀秀治(ほりひではる)は、千五百九十年(天正十八年)、父・秀政とともに小田原征伐に参陣したが、父・秀政(ひでまさ)がその時に陣中にて病死した為、長男として家督を継ぐ事となった。

千五百九十年(天正十八年)冬、堀秀治(ほりひではる)は小田原攻めの功により父同様に豊臣姓を与えられる。

千五百九十二年(文禄元年)の文禄の役(朝鮮征伐)では肥前名護屋城に参陣し、翌千五百九十三年(文禄二年)には伏見城工事に貢献した。

これらの功績から、豊臣秀吉の死の直前の千五百九十八年(慶長三年)四月、越前北ノ庄十八万石から越後国春日山三十万石へ加増移封される。

ただし秀吉の命令で、与力の付属大名も越後に移った為、堀家の家臣団は複雑な構造となり、秀治(ひではる)の知行裁量権も実質十万石余程度しか及ばなかったとされる。

堀秀治(ほりひではる)が越後春日山三十万石に移封されると、祖父に当たる堀秀重(ほりひでしげ)がその後見役となり、秀吉から一万四百石の所領を与えられた。

越後に移封された際、前国主の上杉景勝の家老である直江兼続が領主交代の時は半分を残す事が例とされていたのに年貢米を全て会津に運び出していた為、堀家は財政的に困窮した。

秀治(ひではる)は入部すると春日山城の矢倉・堀の普請を行ない、千五百九十八年(慶長三年)八月に秀吉が死去すると家康に接近し、一族の堀直重を人質として江戸に送る。

千六百年(慶長五年)に秀治(ひではる)が福嶋の地に居城移転の計画を立てた頃、関ヶ原の戦いが起こる。

秀治(ひではる)は東軍に与し、それ以前の4月に直江兼続の密命で越後国内で発生した上杉景勝旧臣・神官・僧侶の一揆(越後一揆、上杉遺民一揆)を鎮圧した。

一揆の直接原因は、東軍かく乱を目的とした上杉景勝・直江兼続の命令である。

但し堀家は直江に年貢を持ち出されて財政が困窮していた。

財政強化の為に堀検地を実施して漆などにも年貢をかけ領民の不満が高まり、寺社統制も強めて真言潰しと称される真言宗弾圧を行なった事も一揆の原因とする説もある。

戦後、東軍に与した功により、秀治(ひではる)は徳川家康から所領を安堵される。

六年後の千六百六年(慶長十一年)五月、天下分け目の関ヶ原の戦いを乗り切った秀治(ひではる)は、三十一歳の若さで死去し、跡を嫡男の忠俊(ただとし)が継いだ。

堀忠俊(ほりただとし)は家老・堀直政の尽力により、本多忠政の娘・国姫を大御所・徳川家康の養女として娶り、また将軍・秀忠から諱一字と松平姓を賜わる。

忠俊(ただとし)は急速に徳川氏に接近して家の存続を図るも、その努力は空しかった。家老・直政死後の千六百十年(慶長十五年)、直政・長男で三条五万石の城主・堀家の執政家老・堀直清と直政の次男(または三男)で蔵王堂五万石の城主堀直寄との争乱を発端とする御家騒動が勃発する。

この騒動により、幕府は閏二月に日に忠俊(ただとし)と直清を改易、直寄を一万石減封して四万石に処した。

ここに堀家四代の血と汗で購(あがな)わられた越後福嶋三十万石は夢と消え、改易後の忠俊(ただとし)は磐城平藩主・鳥居忠政へ預けられ、「茶の湯のみを楽しみとした」と、その後が侘(わび)しく伝わっている。

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by mmcjiyodan | 2012-10-15 01:03 | Comments(0)  

稲葉氏(いなばうじ)と稲葉良通(いなばよしみち)

稲葉氏(いなばうじ)の出自であるが、稲葉良通(いなばよしみち)の祖父・稲葉通貞(塩塵)は伊予国の名族・河野氏の一族で、彼の時代に美濃に流れて土豪になったとされている。

また別の説として、稲葉氏(いなばうじ)は安藤氏と同族で伊賀氏の末裔とされる事もある。

稲葉良通 (いなばよしみち / 稲葉一鉄・いなばいってつ)は、千五百十五年(永正十二年)、美濃の国人である稲葉通則の六男として池田郡本郷城に生まれる。

六男と言う事も在り、幼少時に崇福寺で僧侶となって快川和尚の元で学んでいた。

所が、千五百二十五年(大永五年)に父と兄達が牧田の戦いで浅井亮政(あざいすけまさ/浅井長政の祖父)と戦って戦死する。

家督を継ぐ者が居なく成った為、還俗して祖父・通貞(みちさだ/塩塵)と叔父・稲葉忠通の後見のもとに家督と曽根城を継ぎ国人領主・稲葉良通(いなばよしみち)が誕生する。

稲葉良通(いなばよしみち)は美濃国曽根城主で、安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称される。
良通(よしみち)は国人領主として、美濃国主・土岐氏斎藤道三から斎藤氏三代、織田信長豊臣秀吉に仕える。

織田信長に仕え、途中から信長三男・織田信孝の副将として一向一揆長篠の戦い、紀州征伐などなど信長の作戦に参加する。

千五百七十七年(天正五年)の信長の上洛の際、良通(よしみち)は信孝と共に安土城の留守居役を務めている。

千五百七十九年(天正七年)、良通(よしみち)は家督と曽根城を嫡子の稲葉貞通(いなばさだみち)に譲り、美濃清水城に移るも稲葉家のリーダーとして健在だった。

千五百八十二年(天正十年)、明智光秀本能寺の変を起こし信長を死去させる。

清洲会議の後、織田信孝が岐阜城を相続し、美濃国は支配下に置かれる筈だったが、良通(よしみち)は信孝と対立を深める羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従う様になる。

千五百八十四年(天正十二年)、小牧・長久手の戦いにも参加し、岩崎山の砦を守備し武功を挙げた。

尚、通貞(みちさだ/塩塵)の娘「安」は斎藤利三に嫁し、利三の娘「福」も徳川家康の命で稲葉良通(一鉄)の庶長子・稲葉重通(いなばしげみち)の養女となる。

林正成は、家康の命で稲葉福と成った稲葉家の婿に迎えられ、林氏から稲葉正成になるなど稲葉氏は斎藤氏と強力な縁戚関係となる。

つまり稲葉良通(よしみち)は江戸幕府第三代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斉藤福=稲葉福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。


稲葉貞通(いなばさだみち)の代になった稲葉氏は、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の天下取りを確定させた九州征伐、小田原征伐などに参陣する。

また、貞通(さだみち)は千五百九十二年(文禄元年)からの文禄の役(朝鮮征伐)に於いては諸将とともに朝鮮半島に渡海して転戦している。

徳川家康方と石田三成方が戦った千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、当初は西軍(石田三成方)に与して郡上八幡城に籠もった。

その郡上八幡城が、東軍(徳川家康方)の遠藤慶隆、金森可重(かなもりありしげ/金森長近の養子)らに攻撃されて落城し、その後貞通(さだみち)は東軍に就いて、関ヶ原本戦では加藤貞泰隊に従って活躍した。

結果、関ヶ原本戦は東軍(徳川家康方)の勝利に終わる。

戦後貞通(さだみち)は、戦功により美濃国八幡の知行四万石から豊後国海部郡、大野郡、大分郡の三郡内に領地を持つ五万六十石余の臼杵城主として初代臼杵藩主となった。

さらに稲葉正成(林正成)稲葉福(斉藤福)との間に生まれた稲葉正勝は、徳川親藩として八万五千石を所領し、その次の代には十一万石へ加増されるなどして老中や京都所司代などを務めている。

相模小田原、越後高田、下総佐倉の移封から山城淀に落ち着いた淀藩(京都市伏見区)・稲葉家(十万二千石)として明治維新を迎えた。

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by mmcjiyodan | 2012-10-09 01:33 | Comments(0)