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斯波義統(しばよしむね)

斯波義統(しばよしむね)は、尾張守護・斯波氏(武衛家)・斯波義達の嫡男として誕生し、下克上(げこくじょう)の時代でなければ、織田信長は義統(よしむね)の陪臣に過ぎない立場だった。

弾正忠家・織田信秀(信長の父)が頭角を現す頃の尾張国は、室町幕府の統制が聞かない戦国期に突入して戦乱の最中だった。

当時の尾張守護・斯波氏(武衛家)は隣国・駿河守護の今川氏・今川氏親(いまがわうじちか)の攻勢を受けて、守護国のひとつであった遠江(とおとうみ)国を奪われるなど劣勢に立たされていた。

この為、尾張守護・斯波義達は遠江奪還に強い意欲を見せ、国主として盛んに遠江に出兵を繰り返していた。

この出兵には斯波氏の重臣である織田氏が挙って反対し、終(つ)いには守護代の織田達定が反義達を掲げて挙兵し、守護対守護代の合戦に至るほどであった。

結局この合戦では守護・斯波義達が守護代・織田達定を討伐して守護代勢力を壊滅させると、尚も遠江(とおとうみ)出兵を続行させた。

しかし千五百十五年(永正十二年)に守護・義達は今川氏親(いまがわうじちか)に大敗し自身も捕虜になる屈辱を受けてしまう。

すると義達は、僅(わず)か三歳の嫡男・義統(よしむね)に守護職を譲り、数年後には失意の内に病没してしまった。

守護・義達の病没に依り、義達に拠って一時弱体化していた織田氏は勢力を回復して行く事になった。

元々尾張では、応仁の乱以降、守護代である織田一族が上四郡を支配する「伊勢守家(岩倉織田氏)」と下四郡を支配する「大和守家(清洲織田氏)」の二系に分裂していた。

まず伊勢守家が早くに弱体化し、次に大和守家が義達によって討伐された為め、尾張国内は織田一族が入り乱れる群雄割拠状態となった。

幼い守護・義統(よしむね)にはこの状況をどうする事もできず、かつて父・義達に討伐された守護代家(大和守家)の織田達勝・織田信友に擁される傀儡(かいらい)的存在になるのみであった。

群雄割拠状態となった尾張国内では、特に津島経済を掌握する織田信秀の織田弾正忠家(大和家の家臣)の台頭が目覚しい隆盛を見せていた。

達勝・信友としては、上四郡の守護代である伊勢守家の織田信安や台頭著しい弾正忠家の織田信秀の前に自身達が織田家の宗家であることを示す意味で義統(よしむね)を擁したと思われる。

守護・義統(よしむね)は常に信友に操られるだけであったらしく、やがて傀儡としての自身の扱いに不満を見せはじめ、両者の対立が深まって行った。

千五百五十四年(天文二十三年)、尾張守護・斯波義統(しばよしむね)は守護代家(大和守家)の織田達勝と家督を継いだ織田信友に傀儡的存在に置かれた状況下に在った。

守護代大和守家・織田信友が弾正忠家の織田信長を謀殺する計画を企てた時、義統(よしむね)は信長にその計画を密告して自身の助けを求めた。

しかし、その信長への密告が信友に知られる事と成る。

信友は激怒し、義統嫡男・義銀(よしかね)が主な家臣を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、小守護代・坂井大膳と共に守護所に攻め入り、義統(よしむね)を自害に追い込んだ。

この事件は、嫡男・義銀(よしかね)が義統(よしむね)の仇討ちの救いを、織田信長に求めた事により信長の手により果たされる。

信長にとって織田信友は名目上の主君であり、戦国大名として台頭していた信長にとっては主従関係と言う縛りゆえに眼の上の瘤であった。

しかし都合が良い事に、信友が守護・義統を討った事で、信長は主家を討った謀反人として信友を葬る事ができた。

尾張下四郡を支配する織田大和守家を討った信長は、上四郡守護代家・伊勢守家をも討ち、やがて傀儡守護・斯波義銀(よしかね)をも追放した。

これで尾張は、守護・守護代勢力の大半が消え去り、信長の手によって統一されて行く事となる。

織田弾正忠家で起きた織田信長とその弟・織田信行(信勝)との家督争い、稲生の戦い(いのうのたたかい)の二年前の事である。

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by mmcjiyodan | 2012-11-24 18:29 | Comments(0)  

織田信長の家臣・武将軍団

織田信長(おだのぶなが)の幼少期を過ごしたのは尾張国海西郡の塩畑(しおばた)の地に築かれた勝幡城(しょばたじょう)である。

帝王学を学ぶ為に、父・織田信秀(おだのぶひで)から勝幡城(しょばたじょう)を譲られたからである。

勝幡城(しょばたじょう)時代に父・織田信秀(おだのぶひで)が厳選して信長に付けてよこした付け家老などの養育係がいた。

宿老武将・林秀貞(はやしひでさだ)、宿老武将・信長傅役(お守り役)・平手政秀(ひらてまさひで)、宿老武将・佐久間信盛(さくまのぶもり)、臨済宗妙心寺派の僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん/教育係り)の布陣だった。

★クリックリスト・・武将名をクリック願います。
林秀貞(はやしひでさだ)
平手政秀(ひらてまさひで)
佐久間信盛(さくまのぶもり)
沢彦宗恩(たくげんそうおん)

織田信長(おだのぶなが)の武将軍団は、父・織田信秀(おだのぶひで)譲りの家臣団と言うよりも、自らが抜擢して馬廻り役(親衛隊)、そしてその中から更に厳選したエリート階級信長小姓衆・黒母衣衆(くろほろしゅう)と赤母衣衆(あかほろしゅう)を設けて組織化した。

信長の下に多くの人材が集ったのか、それとも信長が彼らを見い出し育てたのか、少なくとも多くの武将に世に出る機会を与え続けた事は確かである。

★クリックリスト・・武将名をクリック願います。
柴田勝家(しばたかついえ)
滝川一益(たきがわかずます)
丹羽長秀(にわながひで)
豊臣秀吉(とよとみのひでよし)
明智光秀(あけちみつひで)
前田利家(まえだとしいえ)
蒲生氏郷(がもううじさと)
堀秀政(ほりひでまさ)
池田恒興(いけだつねおき)
原田(塙)直政(はらだ/ばんなおまさ)
前田玄以(まえだげんい)
簗田政綱(やなだまさつな)・簗田広正(やなだひろまさ)
河尻秀隆(かわじりひでたか)
荒木村重(あらきむらしげ)
池田勝正(いけだかつまさ)
細川藤孝(ほそかわふじたか)
筒井順慶(つついじゅんけい)
今井宗久 (いまいそうきゅう)
金森長近(かなもりながちか)
稲葉良通(いなばよしみち)
村井貞勝(むらいさだかつ)
森長可(もりながよし)
佐々成政(さっさなりまさ)
牧野康成(まきのやすなり)

★クリックリスト・・武将名をクリック願います。
信長の子息武将
信長嫡男・【織田信忠(おだのぶただ)
信長次男・【織田信雄(おだのぶお/ のぶかつ)
信長三男・【織田信孝(おだのぶたか)

信長甥・・【津田信澄(つだのぶすみ)

◆上記は特に目立った人物を挙げましたが、日本史検索データに入って頂ければかなりの数のエピソードと人物のリストがあります。

また、秀吉家臣で信長には陪臣に当たる蜂須賀小六(正勝)/(はちすかころくまさかつ)黒田官兵衛孝高/如水(くろだかんべいよしたか/じょすい)などは、ここでは省(はぶ)いてありますので、日本史検索データにお入り下さい。

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織田信長(おだのぶなが)については第三巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第三巻をお読み下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-11-22 14:38 | Comments(0)  

金森長近(かなもりながちか)

比較的若年層が多く、黒母衣衆よりも格が低いとされる赤母衣衆だが、金森長近(かなもりながちか)は、主君・織田信長より十歳も年長だった。

長近(ながちか)の金森氏は、応仁の乱にて西軍として活躍した美濃守護・土岐成頼の次男・大畑定頼を祖とする美濃源氏土岐氏の支流を称する。

その大畑定頼の次男・大畑定近(おおはたさだちか)が一族を連れて美濃を離れ、寺内町として著名な近江国野洲郡金森に居住し、「金森采女(かなもりうねめ)」を称した事に始まる。

金森長近(かなもりながちか)は、その美濃源氏土岐氏流金森氏の始祖・金森定近(かなもりさだちか)の次男として千五百二十四年(大永四年)美濃国の多治見に生まれる。

尚、「笑い話・醒睡笑(せいすいしょう)」を編し、落語の祖と呼ばれた安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)も定近の子で、長近の弟と伝えられている。

父・定近は土岐氏の後継者争いで土岐頼武を支持したが、頼武は土岐頼芸に敗れて失脚し、定近(さだちか)も程なくして美濃国を離れ近江国野洲郡金森へと移住した。

長近(ながちか)は、十七歳に成る千五百四十一年(天文十年)まで近江で過ごした。

十八歳になると近江国を離れて尾張国の織田信秀に仕官し、跡を継いだ織田信長にもそのまま仕えている。

美濃攻略に従って功があり、長近(ながちか)は信長に赤母衣衆として抜擢される。

長篠の戦いでの鳶巣砦攻略、対越前一向一揆戦などで戦功を重ね、千五百七十五年(天正三年)長近(ながちか)五十一歳の時、越前国大野郡に所領三万石を与えられた。

その後長近(ながちか)は、柴田勝家の属将として主に北陸方面の戦略に関わるも、千五百八十二年(天正十年)、本能寺の変で主君・信長が家臣の明智光秀に討たれる。

この本能寺の変の際、嫡男・金森長則は主君・信長嫡男織田信忠と共に討死した為、長屋景重より可重を養子にとった。

柴田勝家と羽柴秀吉が対立すると、長近(ながちか)は柴田側に与したが、千五百八十三年(天正十一年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れて自刃すると、剃髪して降伏し、秀吉の家臣となった。

秀吉の家臣となった長近(ながちか)は、小牧・長久手の戦い、富山の役、飛騨国の姉小路頼綱討伐などで功績を挙げ、千五百八十五年(天正十三年)、飛騨国に一万三千石を与えられた。

「太閤軍記」に拠ると、千五百九十四年(文禄三年)頃には七十歳に成った長近(ながちか)は秀吉の「御伽衆を務めた」とされている。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、長近(ながちか)は養子・可重とともに東軍に与し、美濃国郡上八幡城攻めなどの功を挙げる。

戦後、その功に依り家康に賞されて二万石を加増され、長近(ながちか)は飛騨一国・三万八千石で初代高山藩主となる。

余談だが、長近(ながちか)は茶の湯の才にも秀出(ひいで)ており、千利休の嫡男である千道安を「秀吉から匿った」と言うエピソードも残されている。

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by mmcjiyodan | 2012-11-22 14:34 | Comments(0)  

林秀貞(はやしひでさだ)

織田信長幼少期の付け家老と言えばもう一人、林秀貞(はやしひでさだ)がいる。

信長の重臣・林秀貞(はやしひでさだ)の尾張林氏は、尾張国春日井郡沖村(愛知県北名古屋市沖村)を本貫とする越智姓伊予河野氏流の土豪である。

林秀貞(はやしひでさだ)の名・秀貞(ひでさだ)については、長年「通勝(みちかつ)」と伝えられて来た。

しかし正しくは秀貞(ひでさだ)で、「松永久秀の家臣・林通勝(若狭守)と混同され後世に伝わった」とする説がある。

ただし、初めは通勝で後に主君・織田信秀の秀の字を与えられ秀貞と改名した可能性も考えられる。

その根拠として子の林勝吉(のちの林一吉)、孫の林勝久と、「勝」を通字としている事である。

秀貞(ひでさだ)は信長の織田信秀に仕えて重臣となり、幼少の信長に那古野城(現在の名古屋市)が与えられた際に一番家老として付けられた。

二番家老は、傅役(お守り役)の平手政秀(ひらてまさひで)であり、まさしく信長の後見役である。

千五百四十六年(天文十五年)に行われた古渡城での信長の元服では、秀貞(ひでさだ)は介添え役を務めた。

そうした付け家老の立場に在りながら、若年の信長の奇行・「おお虚(うつ)け」には、秀貞(ひでさだ)も頭を痛めていた。

その為、千五百五十二年(天文二十一年)の信秀死去を切欠に秀貞(ひでさだ)は弟・織田信行の擁立を画策するようになる。

そうした中、千五百五十五年(弘治元年)に信長が織田信友を殺害して清洲城を占拠すると、秀貞(ひでさだ)は那古野城の留守居役に任ぜらる。

その後も織田氏の諸分家を糾合するなどして戦国大名として頭角を表し始めた信長だが、秀貞(ひでさだ)の不安と不満は解消されなかった。

翌千五百五十六年(弘治二年)に成ると、秀貞(ひでさだ)はいよいよ柴田勝家や弟・林通具(はやしみちとも)らと共に織田信行を擁立して挙兵する。

しかし秀貞(ひでさだ)らは「稲生の戦い(いのうのたたかい)」で敗北し、処刑される所を信長に許されて勝家とともに宿老の立場に据え置かれる。

秀貞(ひでさだ)は、これまで通り織田家の家宰として、清洲同盟の立会人等の外交や行政面を中心に活動した。

信長が秀貞(ひでさだ)を重用した所を見ると、武将としての活躍機会は少ないが、行政官として堅実な手腕は持っていたようである。

千五百七十五年(天正三年)十一月、家督が織田信忠に譲られると伴に秀貞(ひでさだ)は信長の命を受け信忠付きと成った。

秀貞(ひでさだ)は行政官として堅実な手腕を認められて居たが、当時の織田家は軍事力で支配を拡大している最中で、戦手柄が評価の一だった。

為に秀貞(ひでさだ)は、与えられた所領の面では柴田勝家・佐久間信盛明智光秀羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)などに追い抜かれて行く。

信長幼少期の付け家老だった秀貞(ひでさだ)は、織田家の隆盛の中で地味な立場に在り少し置き去りにされた感が在った。

それでも、千五百七十六年(天正四年)の安土城の落成の際には信長から招待されて家臣として真っ先に城内の観覧を行うなど、古参宿老・重臣筆頭としての地位を保っていた。

しかし四年後の千五百八十年(天正八年)八月、秀貞(ひでさだ)は突然信長から二十年以上も過去の信行擁立の謀反の罪を問われて追放された。

ちょうど信長自らが朝廷を動かして本願寺と和睦し、十年続いた一向宗との戦に終止符を打ったばかりの時に起こった事だった。

この追放劇に関しては余りにも難癖じみており、その真相については不明な点が多い。

ただ、もう一人の古参宿老・佐久間信盛(さくまのぶもり)の失脚と同時(千五百八十年八月/天正八年)だった事から、「余り役にたたない高給取り二人をリストラした」と言うのが真相ではないか?

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by mmcjiyodan | 2012-11-19 14:21 | Comments(0)  

佐久間信盛(さくまのぶもり)〔一〕

織田信長傅役(お守り役)で重臣・平手政秀(ひらてまさひで)と双璧を為した信長の付け家老に、佐久間信盛(さくまのぶもり)がいる。

信盛(のぶもり)は、尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)に生まれ、若い頃から信長の父・織田信秀に仕えた。

信盛(のぶもり)の佐久間家は、元々尾張に勢力を持つ土豪であり、信長に身ひとつで使え始めた羽柴秀吉明智光秀滝川一益らとは格が違っていた。

信盛(のぶもり)は独自の判断で守護代の分家に過ぎなかった信長の父・織田信秀につき従い、言わば盟主と同盟者に近い主従関係に在って、信秀にも一目置かれていた。

信盛(のぶもり)は主君・織田信秀から幼少の信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与して織田家相続を成し遂げさせている。

信盛(のぶもり)は信長の弟・信時を守山城に置く際に城主だった織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせるなどの功績を挙げている。

信長の弟・織田信行の謀反の際も、信盛(のぶもり)は「稲生の戦い(いのうのたたかい)」で信長方の武将として戦い、信長の勝利に与した。

その功により信盛(のぶもり)は、以後、信長家臣団の筆頭格として扱われ、殿軍(しんがりぐん)の指揮を得意とした事に由来する「退き佐久間」と言われ武勇を謳われた。

ただ信盛(のぶもり)自身はこの「稲生の戦い」で、弟・信行謀反に対する信長の戦略の巧みさに驚嘆させられている。

信盛(のぶもり)は信長に従って各地を転戦し織田家の主だった合戦には全て参戦、千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備、戦後に鳴海城を与えられた。

また、吏僚としての活動も見られ、千五百六十七年(永禄十年)には徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで供奉、家康の領地と接する西三河を任される。

千五百六十八年(永禄十一年)の上洛後には、信盛(のぶもり)も畿内の行政担当者の一人に選ばれ、大和国の松永久秀を交渉で味方に付けている。

同年の近江国の六角義賢・義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を落とすなどの戦功をあげ、長島一向一揆越前一向一揆戦でも活躍した。

浅井長政が信長に敵対した後は、佐久間信盛(さくまのぶもり)は近江永原城に配置され柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)、姉川の戦い、志賀の陣にも出陣している。

信盛(のぶもり)は比叡山焼き討ちで武功を上げ、千五百七十一年(元亀二年)十一月には知行地として近江栗太郡を与えられている。

同年に松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当、久秀と順慶を和睦させている。

佐久間信盛(さくまのぶもり)〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2012-11-16 19:29 | Comments(0)  

佐久間信盛(さくまのぶもり)〔二〕

佐久間信盛(さくまのぶもり)〔一〕】に戻る。

千五百七十二年(元亀三年)の三方ヶ原の戦いでは、滝川一益・平手汎秀(ひらてひろひで)・水野信元と共に三千の兵を率い、徳川家康軍八千の援軍に赴く。
しかし信盛(のぶもり)は、二万七千の武田信玄軍を目の当たりにし、ほとんど戦わずして退却している。

この戦で、同じ援軍の将であった平手汎秀(ひらてひろひで)は徳川軍と共に戦い戦死している。

翌千五百七十三年(天正元年)八月の一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。

その際に信盛(のぶもり)は、信長の怒りに油を注ぐ弁明をして、三方ヶ原の退却同様にやる気の無さを露呈している。

千五百七十三年(天正元年)十一月には足利義昭を匿った河内若江城主・三好義継を信長の命令で討伐した。

信盛(のぶもり)は、千五百七十五年(天正三年)の高屋城の戦い・長篠の戦いにも出陣している。

石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政(ばんなおまさ)の戦死を受け、千五百七十六年(天正四年)に信盛(のぶもり)は石山合戦の一環であった天王寺の戦いで後任として対本願寺戦の指揮官に就任する。

三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊と言った畿内七ヶ国の与力を付けられた信盛(のぶもり)配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であった。

所が、最大規模軍団を擁しながら信盛(のぶもり)は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着させる。

その後信盛(のぶもり)は千五百七十七年(天正五年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。

千五百八十年(天正八年)、信長の天下布武は伸ばせば手の届きそうな所に来ていた。

此処まで来るのに、信長は誰の手助けも誰の支援も受けていない。
まったくの独力でのし上がって来た。

それ故、血統の出自にあぐらをかき、何かと言い訳ばかりする重臣共が我慢できなかった。

人生運不運は付き物で、信長は家臣団引き締めの見せしめに、二人の子飼いの重臣を選んだ。

林秀貞(はやしひでさだ・旧来は通勝・みちかつとされていた)と佐久間信盛(さくまのぶもり)である。

千五百八十年(天正八年)信長自らが朝廷を動かし本願寺と和睦して、十年続いた一向宗との戦に終止符を打った。

この時点まで信盛(のぶもり)は、信長の父・織田信秀の代からの古参であると同時に近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括していた大番頭だった。

その信盛(のぶもり)の地位が、三方ヶ原の退却、朝倉義景軍の怠慢追撃、対本願寺戦の膠着と信長の怒りが溜まり、信長の意向で終(つい)に一変する。

盟主と同盟者に近い主従関係に在った信長と信盛(のぶもり)の関係は、信長の隆盛と共に決定的に変質し、既に絶対君主と臣下の関係になっていた。

千五百八十年(天正八年)八月、古参宿老・信盛(のぶもり)は信長から十九ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ失脚、嫡男・信栄と共に高野山へと上った。

しかし信長は、高野山在住すら許さず、信盛(のぶもり)はさらに南に移動、佐久間家の郎党も次々に信盛父子を見捨てて去って行く。

高野山から熊野に落ちる時、従った者は一名きりだった。

信長は短気に伝えられているが実はかなり辛抱強く、重臣・佐久間信盛(さくまのぶもり)にも汚名挽回のチャンスはかなり何度も与えていた。

その信長の堪忍袋の緒が終(つい)に切れたのだが、そうなるまで気が付かなかった信盛(のぶもり)にとっては「突然の事」だったのかも知れない。

信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である近畿地区で大軍団を統率する事になったのは明智光秀である。

この信盛(のぶもり)失脚事件は、本能寺の変に「心理面、軍事面など、様々な影響を与えた」とする説も出ている。

佐久間信盛(さくまのぶもり)〔一〕】に戻る。

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織田信長の家臣・武将軍団】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2012-11-16 19:27 | Comments(0)  

河尻秀隆(かわじりひでたか)

織田信長軍団の甲州征伐に於いて、信長嫡男・信忠を補佐して活躍した武将に、河尻秀隆(かわじりひでたか)がいた。

河尻秀隆(かわじりひでたか)は、羽柴秀吉明智光秀の様に異能の手勢軍団を束ねる魅力は無かったが、織田信長が誰よりも信頼した絶対的腹心である。

河尻氏には醍醐源氏の一派である肥後国河尻氏があるが、美濃国出身の土豪の一族である秀隆(ひでたか)の河尻氏との関係は不明で、美濃河尻氏の出自は遡れない。

秀隆(ひでたか)及び河尻氏に関係する文書は少なく、「信長公記」や「甲陽軍鑑」の一部にある秀隆(ひでたか)の記述からその動向を知るのみである。

また、織田大和守家(清洲織田氏)の家臣に河尻姓の人物(河尻与一)が見られるが、秀隆との関係は不明である。

秀隆(ひでたか)は当初、信長の織田家が家老を務めていた主筋にあたる織田大和守(清洲織田氏)・織田信武に仕えた。

その後の千五百四十八年(天文十七年)、信長の父・織田信秀に仕えて第二次小豆坂の戦いに参加している。

信秀没後の秀隆(ひでたか)は、そのまま家督相続した織田信長にも仕え、黒母衣衆の筆頭を務める。

土田御前(どたごぜん)が弟・織田信勝(信行)の後押しをした為に起こった信長と弟・信勝(信行)との織田家家督相続の混乱では、秀隆(ひでたか)は信長方に付き勝利に貢献している。

千五百五十八年(永禄元年)、家督相続の混乱終結の為に信勝(信行)を清洲城へ呼び寄せ謀殺した時には、秀隆(ひでたか)が信勝(信行)の殺害を実行した。

信長の家督相続が確定した後、黒母衣衆の筆頭として秀隆(ひでたか)は桶狭間の戦いをはじめ、美濃国や伊勢国の攻略などに従軍する。

千五百七十二年(元亀三年)一月、美濃・岩村城の城主であり信長の縁戚である遠山景任(信長の叔母・おつやが景任の正室)が子供が無いまま病死した。

遠山家存続の為に信長は、織田信広、秀隆(ひでたか)らを派遣し、五男の坊丸(織田勝長)を遠山家の養子に据える。

しかし秀隆(ひでたか)達が引き揚げた十ヵ月後に武田信玄の西上作戦に伴い秋山信友の攻撃を受け岩村城の戦いが起こる。

この知らせを受け、信広、秀隆(ひでたか)らは再び援軍として派遣されるも信友の前に敗北を喫し岩村城の救助に失敗する。

岩村城は事実上の城主で在った信長の叔母・景任正室のおつやの方が秋山信友の求婚により開城し、坊丸は人質として甲斐に送られた。

千五百七十四年(天正二年)、秀隆(ひでたか)は前年元服を終えた信長の嫡男・織田信忠の補佐役となり、武田勝頼に対する最前線・鶴ヶ城(美濃国瑞浪市)の守備を任せられる。

千五百七十五年(天正三年)五月長篠の戦いにも秀隆(ひでたか)は信長嫡男・信忠を補佐して参陣し、信忠に代わって信忠軍の指揮を執った。

同年十一月、信忠軍が岩村城を落城させた際には、秀隆(ひでたか)は信長の命令に従い、投降した城兵を処刑し、捕らえた秋山信友とおつやの方を美濃に送っている。

岩村城攻略に成功した秀隆(ひでたか)は翌月、信忠軍団随一の功労者として、岩村城五万石を与えられた。

千五百八十二年(天正十年)二月から始めた甲州征伐に於いても、秀隆(ひでたか)は大いに活躍し信忠軍団はほぼ甲州を制圧する。

その功績により、秀隆(ひでたか)は三月に信長から河内領を除く甲斐国二十二万石と信濃諏訪領を与えられ甲斐府中城(甲府城)城主も務め始めた。

所が、六月に「本能寺の変」が起り秀隆(ひでたか)の甲斐統治は僅かな期間と成る。

京都で、主君・信長が明智光秀に襲撃されて自害する「本能寺の変」が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。

同僚の森長可(もりながよし)・毛利長秀(もうりながひで)が旧武田領の領地を放棄し美濃へ帰還する中、秀隆(ひでたか)は甲斐国に留まる。

この甲斐国人一揆に乗じて、三河・遠近江・駿河を領していた徳川家康が甲斐に野心を抱き、秀隆(ひでたか)を美濃に帰そうと本多信俊を使者として送るが、秀隆(ひでたか)はこれに応じず使者・信俊を殺害した。

しかし、その後発生した大規模一揆に抗し切れず、秀隆(ひでたか)は甲斐国からの脱出を試みるも、岩窪に於いて武田遺臣の三井弥一郎に殺害され、秀隆(ひでたか)の甲斐国経営の夢は消えた。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-11-12 22:30 | Comments(0)  

原田(塙)直政(はらだ/ばんなおまさ)

織田信長の安土政権・京洛運営の要と成る南山城国と大和国の守護を命じられたのは、赤母衣衆(あかほろしゅう)から重臣に出世した塙直政(ばんなおまさ)である。

原田(塙)直政(はらだ/ばんなおまさ)は尾張国春日井郡比良村出身と言われ、織田氏の家臣である。

塙(ばん)氏は尾張国春日井郡大野木城(西区大野木町二丁目)の国人城主とされるが、詳細は不明である。

塙氏(ばんうじ)を称するは清和源氏佐竹氏流桓武平氏大掾氏流、藤原氏中臣氏などであるが、直政(なおまさ)の塙(ばん)氏(うじ)の系流はそのどちらか定かでない。

安土桃山時代の武将・塙直政(ばんなおまさ)は、始め信長の馬廻(親衛隊)、それから信長軍団のエリート青年将校・赤母衣衆(あかほろしゅう)に抜擢されて頭角を現した。

信長が岐阜に移るのに伴って岐阜に移り住み、千五百六十八年(永禄十一年)の信長入京以降は主に畿内の政務を担当し、名香・蘭奢待(らんじゃたい)下賜の際の御奉行(監督役)を務めた。

直政(なおまさ)は、後妻に柴田勝家の娘を娶り、妹・某が織田信長の側室となるなどして、信長から羽柴秀吉明智光秀簗田広正(やなだひろまさ)らと並び称される有力家臣となる。

千五百七十四年(天正二年)五月に、直政(なおまさ)は南山城国・守護、翌天正三年三月にはさらに大和国守護の兼務を命じられ、二ヶ国を支配するなど吏僚としての活躍も目立つ才を発揮する。

以後、直政(なおまさ)は信長の軍事作戦にも参加し、対本願寺戦や千五百七十五年(天正三年)の伊勢長島攻め、高屋城の戦い、越前一向一揆討伐に参加し戦功を立てる。

この年の叙任で塙直政(ばんなおまさ)は羽柴秀吉・明智光秀や簗田広正らに混じって備中守に任ぜられ、九州の名族・原田の姓を下賜され、備中守・原田直政(はらだなおまさ)を名乗った。

原田直政(はらだなおまさ/塙直政)は、長篠の戦いで鉄砲奉行を務めるなどその後も信長に重用されるも、一向一揆の本拠地・本願寺との戦が命運を分けてしまう。

千五百七十六年(天正四年)四月、直政(なおまさ)は明智光秀、荒木村重、細川藤孝らと共に石山本願寺攻め(石山合戦)に出陣する。

直政(なおまさ)は主力として三津寺攻略を担当したが、本願寺側の伏兵・雑賀衆の鈴木重秀(雑賀孫市の一人)の軍に遭い、乱戦の中討死した。

残念ながら原田直政(はらだなおまさ)は、石山本願寺との戦いで野戦を挑み 敗戦 戦死した為、歴史の舞台からプツリと消えてしまった。

これによって戦線が崩壊しかけ、明智光秀を始めとする織田軍は天王寺砦に於いて本願寺軍に包囲されて一時危機に陥った。

だが、急を知った信長自らの早急な出陣と奮戦によって戦線を再び持ち直す事に成功し、本願寺側の攻勢は頓挫する。

信長はこの戦いの後、石山攻めの方針を転換し、重臣筆頭格の佐久間信盛に大軍を与えて長期包囲する作戦に切り替えた。

余談だが、本願寺との戦い(天王寺の戦い)で原田直政(はらだなおまさ/塙直政)と共に討ち死にした豪傑・塙安弘(ばんやすひろ)は一族の者と思われる。

塙安弘(ばんやすひろ)は千五百七十年(元亀元年)の朝倉攻めの退却時、太田牛一らと共に「殿(しんがり)の一人を務めた」と伝えられる豪傑である。

安弘(やすひろ)は信長の馬廻(親衛隊)だったようだが、原田直政(はらだなおまさ/塙直政)が南山城主と大和の守護になるとこれを補佐し、塙一族の名を高めている。

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by mmcjiyodan | 2012-11-09 00:31 | Comments(0)  

簗田政綱(やなだまさつな)・簗田広正(やなだひろまさ)

織田信長は、大軍をもって尾張に攻め入られた駿河・遠江・三河の太守・今川義元との桶狭間の合戦のおり、奇襲をもってこれを破った。

家臣をやきもきさせながら城で時間を費やしていた信長は、この時、誰からの報告を待って居たのか?

その報告が、簗田政綱(やなだまさつな)からのもので在った可能性が高い。

桶狭間の合戦に「影で大きな働きをした」とされるのが、歴史上謎だらけの人物とされる簗田政綱(やなだまさつな)である。

また後に起こる、信長が窮地に立った朝倉攻めに於ける小谷より逃げ返った時の殿軍(しんがり)では息子の簗田広正(やなだひろまさ)が活躍している。

簗田政綱(やなだまさつな)・簗田広正(やなだひろまさ)父子は、織田氏の家臣で戦国時代の武将である。

簗田政綱(やなだまさつな)は、桶狭間の戦いにて今川義元の首を挙げた毛利良勝(毛利新介)に増して論功行賞を受けたとされる。

一説には、政綱(まさつな)は勝敗を分けた情報・桶狭間に陣取る今川義元の本陣位置を織田信長に報告した人物とされている。

簗田姓は、下野国簗田郡簗田御厨発祥、桓武平氏繁盛流とされる。

桓武平氏繁盛流・平繁盛は平安時代中期の武士である。

平繁盛は関東八州の独立を画した平将門(たいらのまさかど)の宿敵で伯父の平国香(たいらのくにか)の次男にあたる。

平国香は、平高望の長男で常陸平氏や伊勢平氏の祖である。

簗田氏は、簗田政綱(やなだまさつな)の代に尾張守護である斯波氏(武衛家)十四代当主・斯波義統(しばよしむね)に仕えるも、後に信長に仕えた。

政綱(まさつな)は千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の戦いで功績を挙げ、戦後は沓掛三千貫を与えられ沓掛城主となる。

だが、政綱(まさつな)が「桶狭間の戦いで功績を挙げた」とする事実が鮮明に判定できる史料は、今の所何処からも発見されていない。

故に情報で手柄を立てた人物と云う事で、密偵とされたり忍びとされたり作戦参謀とされたりと中々に想像力を掻き立てられる人物であるが、史実としてハッキリしている事は、一切無い。

つまり簗田政綱(やなだまさつな)は、秘密作戦の立案や密偵としての影働を担当して居たのではないだろうか?

であるからこそ、政綱(まさつな)の公式記録は存在しない。

政綱(まさつな)の継嗣・簗田広正(やなだひろまさ)も織田信長の馬廻役として働くが資料からは動向が読み取れない。

簗田政綱(やなだまさつな)・広正(ひろまさ)の父子共に生没年不詳である事からして、諜報機関の香がプンプンしている。

父の出羽守(政綱)が桶狭間の戦いで偵察・作戦立案を担当し、その後資料から姿を消したことから推測すると、息子広正も偵察・作戦立案等を主な任務としていたと推測され矛盾が無い。

但し簗田広正(やなだひろまさ)の信長への貢献度は高く、千五百七十年(元亀元年)の浅倉攻めでは、信長が窮地に立った小谷より撤退の殿軍(しんがりぐん)を務め功をあげた。

為に五年後の千五百七十五年(天正三年)の叙任で、羽柴秀吉・明智光秀塙直政(ばんなおまさ)らに混じって官位・右近太夫に任ぜられ、朝廷から九州の名族である別喜(べっき)の姓を下賜され別喜(べっき)を名乗った。

広正(ひろまさ)これに拠り別喜右近(べっきうこん)を名乗るも、別称とされる「戸次」も別喜とは同族と言う説も存在する。

翌千五百七十六年(天正四年)に広正(ひろまさ)は加賀国の織田軍旗頭になり、大聖寺城を与えられて加賀一向一揆の討伐に当たる。

しかしこの加賀一向一揆の討伐作戦は、兵力が不足し調略も上手く行かずに討伐は失敗し、広正(ひろまさ)は尾張に召還された後安土城下に蟄居した。

その後広正(ひろまさ)は、信長の継嗣・織田信忠に従がい「甲州征伐などに従軍した」と言われるが、文献に拠る消息が特定出来ず、「本能寺の変以前に病死していた」との見方が主流である。

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by mmcjiyodan | 2012-11-09 00:29 | Comments(0)  

前田玄以(まえだげんい)

前田玄以(まえだげんい)は、千五百三十九年(天文八年)前田基光の子として美濃国に生まれる。

はじめは尾張小松原寺の僧侶で在ったが、後に比叡山延暦寺に入る。

しかし織田信長に招聘されて臣下に加わり、正室には織田家の官僚家臣の重鎮・村井貞勝の娘を娶っている。

玄以(げんい)は後に、信長の命令で嫡男・織田信忠付の家臣となる。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変に際しては、玄以(げんい)は信忠と共に妙覚寺から移った二条御所に在った。

本来なら信忠や村井貞勝と共に討ち死にする所だが、信忠の命で嫡男の三法師を連れて京都から脱出、美濃岐阜城、更に尾張清洲城に逃れた。

翌千五百八十三年(天正十一年)から玄以(げんい)は信長の次男・信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられた。

所が、千五百八十四年(天正十二年)に羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、玄以(げんい)は秀吉に家臣として仕えるようになる。

豊臣政権に於いて玄以(げんい)は、京都所司代として朝廷との交渉役を務め、千五百八十八年(天正十六年)の後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。

また寺社の管理も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている。

千五百九十五年(慶長元年)丹波亀山(五万石)を拝領する。

千五百九十八年(慶長三年)、玄以(げんい)は秀吉の命令で石田三成らと並ぶ豊臣政権下の五奉行の一人に任じられた。

秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康会津征伐に反対した。

千六百年(慶長五年)、石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名したが、一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行った。

また、玄以(げんい)は豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、更には病気を理由に最後まで出陣しなかった。

これらの働きにより関ヶ原の戦いの後、玄以(げんい)は丹波亀山の本領を安堵され、その初代藩主となった。

正に勝ち馬乗り武将の典型だったが、一説には家康が十七年間も所司代を務めた玄以(げんい)の「その利用価値を認めたから」とも言われている。

関ヶ原の戦いの二年後、千六百二年(慶長七年)五月に玄以(げんい)は死去する。

長男の秀以(ひでもち)は前年に早世していた為、三男(次男と言う説もある)の茂勝が後を継いだ。

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by mmcjiyodan | 2012-11-06 01:14 | Comments(0)