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横井小楠(よこいしょうなん)

薩長土肥の維新四藩以外の肥後藩から、唯一「維新の十傑」に数えられた横井小楠(よこいしょうなん)と言う人物が居る。

小楠(しょうなん)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。

つまり良く在る話だが、作家に拠る「面白可笑(おもしろおか)しい虚構」が混ざって評判をあげる現象が娯楽・英雄物語の虚(きょ)である。

熊本藩士の儒学者、横井小楠(よこいしょうなん)の本姓は北条流平氏で、正式な名のりは平時存(たいらのときひろ/ときあり)である。

横井家は桓武平氏北条嫡流得宗家・北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行四世孫にあたる横江時利の子が横井に改めたを始まりとする。


小楠(しょうなん)は千八百九年(文化六年)、肥後熊本(現在の熊本県)城下の坪内町に、熊本藩中堅藩士(百五十石)・横井時直の次男として生まれる。

千八百十八年(文政一年)、九歳で藩校・時習館に入校、講堂世話役を経て千八百三十七年(天保八年)に十九歳で居寮長(塾長)となる。

二年後、二十一歳で藩命により江戸に遊学、幕府朱子学者林家の当主・林大学頭(はやしだいがくのかみ)の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに会う。

また、小楠(しょうなん)は江戸滞在中に、幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。

二年後の千八百四十一年(天保十二年)に、小楠(しょうなん)は熊本藩に帰藩するも、筆頭家老の松井父子を頭目とする「学校党」と対立する。

帰藩から二年後、小楠(しょうなん)は二十五歳で私塾を開き、その六年後に福井藩士・三寺三作が小楠(しょうなん)の私塾・小楠堂に学だ事から福井藩に出仕する。

農村の熊本沼山津に転居し、自宅を「四時軒(しじけん)」と名づけて住まうも、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くがここを訪問している。

千八百六十二年(文久二年)、小楠(しょうなん)は松平慶永(春嶽)の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革に尽力する。

さらに小楠(しょうなん)は、江戸幕府三要職の一つ「政事総裁職」で在った松平慶永(春嶽)の助言者として幕政改革にかかわる。

千八百六十八年(明治元年)、鎖国体制・幕藩体制を批判していた小楠(しょうなん)は親交が在った倒幕派の要請で新政府に木戸孝允(桂小五郎)西郷隆盛大久保利通らと同格の参与として出仕する。

漸く小楠(しょうなん)持論の幕府・藩を越えた統一国家を目指したやさきであり、まだ京都御所が新政府の議事の場だった。

千八百六十九年(明治二年)、小楠(しょうなん)は参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺された。

横井小楠(よこいしょうなん)は暗殺に倒れたが、その国家観は新政府に受け継がれて新国家体制に反映された。

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by mmcjiyodan | 2012-12-24 00:49 | Comments(0)  

広沢真臣(ひろさわさねおみ)

広沢真臣(ひろさわさねおみ)は明治帝の信頼が厚く、復古功臣として木戸孝允(桂小五郎)西郷隆盛大久保利通らと同格の「維新の十傑」に数えられた人物である。

そんな真臣(さねおみ)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。

つまり良く在る話だが、作家に拠る「面白可笑(おもしろおか)しい虚構」が混ざって評判をあげる現象が娯楽・英雄物語の虚(きょ)である。

真臣(さねおみ)の幼名は柏村季之進で、千八百三十四年(天保四年) に長州藩士・柏村安利の四男として萩・土原村(ひじわらむら/現・萩市)に誕生する。

千八百四十四年(弘化元年)十二月、柏村季之進は十歳で同藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾(はたのきんご)と称した。

金吾(きんご)は長州藩士として藩校・明倫館に学び、千八百五十三年(嘉永六年)の黒船来航時には十九歳で大森台場警衛の為に江戸に出張している。

千八百五十九年(安政六年)藩の軍政改革に参画するなど、金吾(きんご)は尊攘派として活躍した。

以後、藩世子・毛利定広と共に入洛し、桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(玄瑞)の下、京都詰の事務方として尽力した。

千八百六十四年(元治元年)長州藩禁門の変下関戦争、第一次征長と厄続きで藩論も主戦派(主に正義派)と恭順派(主に俗論派)で混乱していた。

藩内の政権闘争で主戦派が恭順派に敗れた結果、金吾(きんご)も投獄されたものの、正義派でなく中間派だった為に処刑を免れた。

翌千八百六十五年(慶応元年)、高杉晋作や伊藤俊輔(博文)山縣狂介(有朋)ら正義派がクーデターによって藩の実権を掌握する。

このクーデターで、中間派であった波多野金吾(はたのきんご)が政務役として藩政に参加する事となる。

同千八百六十五年(慶応元年)四月四日、藩命によって波多野金吾(はたのきんご)は広沢藤右衛門と改名し、更に翌月の五月六日には広沢兵助と改名した。

因(ちなみ)に改名した広沢(廣沢)姓の由来は、佐伯流・波多野氏の祖が相模国秦野(波多野荘)の地に住して「広沢郷を領した」に依るとされる。


広沢兵助(へいすけ/真臣)は千八百六十六年(慶応二年)八月末の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟と安芸厳島にて交渉する。

その講和交渉の傍ら、兵助(へいすけ)は坂本龍馬薩摩藩の五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成するなど、木戸孝允の代理人かつ同僚として奔走する。

千八百六十七年(慶応三年)十月には、兵助(へいすけ/真臣)は大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。


維新政府の発足後、兵助(へいすけ/真臣)は参与や海陸軍務掛、東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任する。

戊辰戦争では、米沢藩の宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸孝允と同様に寛典論者であった。

千八百六十九年(明治二年)、兵助(へいすけ/真臣)は復古功臣として木戸や大久保と同じ永世禄千八百石を賜り、民部大輔や参議の要職を務めた。

千八百七十一年(明治四年)正月、東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、兵助(へいすけ/真臣)は刺客の襲撃によって暗殺された。

その暗殺犯は、木戸孝允らの懸命の捜査にも拘わらず未だ謎の未解決事件である。

☆関連小説
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by mmcjiyodan | 2012-12-24 00:03 | Comments(0)  

大村益次郎(おおむらますじろう)〔一〕

長州藩からはもう一人、長州征討戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった医師・西洋学者・兵学者の大村益次郎(おおむらますじろう)が出た。

また大村益次郎(おおむらますじろう)は、「維新の十傑」に数えられる人物でもある。

益次郎(ますじろう)は、周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじむら)字大村に、村医兼農業の村田孝益(むらたたかます)と妻うめの長男として生まれる。

若い頃の大村益次郎(おおむらますじろう)は父が使う村田姓で幼名は村田宗太郎、通称は村田蔵六(良庵)を名乗って居た。


千八百四十二年(天保十三年)、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は十八歳で防府の蘭法医・梅田幽斎(うめだゆうさい)に医学や蘭学を学ぶ。

翌千八百四十三年四月、梅田の勧めで豊後国日田に向かい、蘭学者・高野長英らが学んだ広瀬淡窓(ひろせたんそう)の私塾・咸宜園(かんぎえん)に入る。

村田蔵六(むらたぞうろく)は塾咸宜園(かんぎえん)で二年間、漢籍、算術、習字など学び帰郷して梅田門下に復帰する。

その後、千八百四十六年(弘化三年)、大坂に出て医師・蘭学者の緒方洪庵(おがたこうあん)の私塾・適塾(てきじゅく)で学ぶ。

適塾在籍の間に、蔵六(ぞうろく)は長崎の奥山静叔の下で一年間遊学し、その後帰阪、適塾の塾頭まで進む。

千八百五十年(嘉永三年)、村田蔵六(むらたぞうろく)は父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵(むらたりょうあん)と名乗る。

三年後の千八百五十三年(嘉永六年)、蔵六(ぞうろく/良庵)はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねる目的で伊予国宇和島へ行く。

宇和島に到着した蔵六(ぞうろく/良庵)は、二宮や藩の顧問格であった僧・晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士・大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。

ちょうどその時代は、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代で、蔵六(ぞうろく/良庵)は伊予宇和島藩の要請で出仕する。

村田蔵六(むらたぞうろく)は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。

千八百五十四年(安政元年)から翌千八百五十五年(安政二年)には、蔵六(ぞうろく)は長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。

長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。

ズッと後日談だが、後年、益次郎(ますじろう/村田蔵六/むらたぞうろく)が京都で襲撃され重傷を負った後、蘭医ボードウィンの治療方針の下でイネは益次郎(ますじろう)を看護し、その最期を看取っている。


千八百五十六年(安政三年)四月、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)は江戸に出、十一月、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える。

同年同月中旬、蔵六(ぞうろく/良庵)は宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となる。

教授方手伝としては、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米二十人扶持・年給二十両を支給される。

翌千八百五十七年(安政四年)十一月、蔵六(ぞうろく/良庵)は築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。

千八百五十八年(安政五年)三月、蔵六(ぞうろく/良庵)は長州藩上屋敷に於いて開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行う。

この蘭書会読会於いて、蔵六(ぞうろく/良庵)は桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。

千八百六十年(万延元年)、桂小五郎との知遇を得たを機に長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、年米二十五俵を扶持として支給され、塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。

元々、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)の生家は長州であり、長州藩の出仕要請は「願ったり適ったり」だった。

千八百六十一年(文久元年)正月、蔵六(ぞうろく/良庵)は一時帰藩し西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。

二年後の千八百六十三年(文久三年)、蔵六(ぞうろく/良庵)は萩へ帰国し、手当防御事務用掛に任命される。

翌千八百六十四年(元治元年)、蔵六(ぞうろく/良庵)は兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行う。

また、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進する。

村田蔵六(むらたぞうろく)は語学力を買われ、同千八百六十四年八月には四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、下関に出張している。

同年外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰、明倫館廃止後の年末には、博習堂用掛兼赤間関応接掛に任命される。

長州藩では千八百六十四年(元治元年)の第一次長州征討の結果、幕府へ恭順し、保守派が政権を握った。

所が、千八百六十五年(慶応元年)、高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒、藩論を倒幕でまとめた。

同千八百六十五年、蔵六(ぞうろく/良庵)は藩の軍艦壬戌丸売却の為、本人のメモのみで仔細不明だが、秘密裏に上海へ渡っている。

高杉晋作らは、西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめとする軍制改革に着手、村田蔵六(むらたぞうろく)にその指導を要請する。

桂小五郎(木戸孝允)の推挙により、村田蔵六(むらたぞうろく)は馬廻役譜代百石取の上士となり、藩命により村田姓から大村姓に改名、大村益次郎永敏とする。

「大村」は故郷の鋳銭司村字大村(すぜんじむらあざおおむら)の字から、「益次郎」は父親の「孝益」の一字をそれぞれとっている。


千八百六十六年(慶応二年)、幕府は第二次長州征討を号令、騒然とした中、藩の明倫館が再開され、大村益次郎(おおむらますじろう)も深く藩政に関わる事に成る。

桂小五郎は同千八百六十六年五月に藩の指導権を握り、大村益次郎、高杉晋作、伊藤博文井上聞多(井上馨)らと倒幕による日本の近代化を図り、幕府との全面戦争への体制固めを行っていた。

長州藩は、同盟関係に合った薩摩藩の協力もあってミニエー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺を購入し幕府軍に備える。

千八百六十六年六月に戦闘が開始されるも、長州藩は優勢に戦いを進め、事実上の勝利のもとに停戦し、益次郎(ますじろう)は長州藩兵を指揮し勝利の立役者と成った。

大村益次郎(おおむらますじろう)〔二〕】に続く。

☆関連小説
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by mmcjiyodan | 2012-12-23 00:10 | Comments(0)  

大村益次郎(おおむらますじろう)〔二〕

大村益次郎(おおむらますじろう)〔一〕】に戻る。

第二次長州征討終了後、大村益次郎(おおむらますじろう)は山口に帰還、年末には海軍用掛を兼務し、海軍頭取・前原彦太郎(前原一誠)を補佐する。

千八百六十七年(慶応三年)、討幕と王政復古を目指し西郷吉之助(隆永/隆盛)大久保一蔵(利通)ら薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われる。

長州藩論は分立し、益次郎(ますじろう)は慎重論を唱えたが、大久保一蔵が長州に来て討幕を説得した事で藩論は出兵論に傾く。

徳川慶喜による大政奉還後の千八百六十八年(明治元年)一月中旬、鳥羽・伏見の戦いを受け、藩主・毛利広封(もうりひろあつ)が京へ進撃、益次郎(ますじろう)は随行する形で用所本役軍務専任となる。

千八百六十八年(明治元年)二月、益次郎(ますじろう)は王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。

その月、益次郎(ますじろう)は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。

翌三月、益次郎(ますじろう)は明治天皇行幸に際して大阪へ行き、月末の天保山での海軍閲兵と翌四月初旬の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。

同四月、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。

益次郎(ますじろう)は岩倉具視に意見具申の手紙を送り、有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられ、海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。

益次郎(ますじろう)は京都に在った新政府の指示を受け、東叡山寛永寺に立て篭もりの姿勢を見せる彰義隊(しょうぎたい)の駆逐を敢行した上野戦争(うえのせんそう)を全権指揮する。

千八百六十九年(明治二年)、函館五稜郭で、榎本武揚らの最後の旧幕残党軍も降伏し、戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が確立し、新しい時代が開かれた。


千八百六十九年(明治二年)六月、大村益次郎(おおむらますじろう)は戊辰戦争での功績により永世禄千五百石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び、新政府の幹部となった。

同月、益次郎(ますじろう)は政府の兵制会議で大久保利通らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。

益次郎(ますじろう)と木戸孝允(桂小五郎)は、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る。

しかし意見を異にし、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保利通らとの間で激論が闘わされた。

益次郎(ますじろう)は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。

所が大久保利通は、戊辰戦争による士族の抵抗力を熟知していた為、「返って士族の反発を招く」と政治的に考えていた。

また、岩倉具視らは農民の武装化は「そのまま一揆につながる可能性排除できない」として慎重な態度をとっていた。

この兵制論争中、六月下旬段階での争点は、京都に駐留していた三藩の各藩兵の取り扱いをめぐってのものであった。

益次郎(ますじろう)を支持する木戸孝允(桂小五郎)も、論争に加わり援護意見を述べた。

しかし大久保の主張に沿った形で、京都駐留の三藩兵が「御召」 として東下する事が決定され、この問題については大久保派の勝利に終わった。

また会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保の右腕とも言える吉井友実も議論に加わり今後の兵卒素材についての議論も始まった。

大久保・吉井らの主張する「藩兵論」と益次郎(ますじろう)や木戸が主張する「農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し、益次郎(ますじろう)の建軍構想はことごとく退けられる。

大久保が益次郎(ますじろう)の更迭を主張し始め、益次郎(ますじろう)は辞表を提出したが、木戸孝允(桂小五郎)の説得に応じて新たに設置される兵部省に出仕する。

兵部省に出仕した益次郎(ますじろう)は、兵部大輔(今の次官)に就任する。

当時の兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王で、名目上だけの存在であり、益次郎(ますじろう)が事実上近代日本の軍制建設を指導して行く。

益次郎(ますじろう)は戊辰戦争で参謀として活躍した門弟・山田顕義(やまだあきよし)を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。

千八百六十九年(明治二年)、着々と軍制建設を構築していた益次郎(ますじろう)は軍事施設視察と建設予定地の下見の為、京阪方面に出張する。

京阪方面が不穏な情勢となっていた為、木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、益次郎(ますじろう)はそれを振り切って中山道から京へ向かう。

九月四日、益次郎(ますじろう)は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、益次郎(ますじろう)の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食する。

その会食中、益次郎(ますじろう)一行は元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら八人の刺客に襲われる。
静間と安達は死亡、益次郎(ますじろう)は重傷を負った。

その時の疵(キズ)は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負い、特に右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。

兇徒が所持していた「斬奸状」では、益次郎(ますじろう)襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった事が示されている。

益次郎(ますじろう)は一命をとりとめたが重傷で、九月七日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。

同月二十日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。

十月一日、益次郎(ますじろう)は河東操練所生徒・寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれる。

高瀬川の船着き場から伏見で一泊の後、翌十月二日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町に入院する。

その大阪仮病院で、楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが、病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受ける事となる。

だが手術は東京との調整に手間取って手遅れとなり、敗血症による高熱を発して容態が悪化し、十一月五日の夜に益次郎(ますじろう)は死去した。

益次郎(ますじろう)は学者・軍人としては超一級の逸材だったが、政治家としての度量には欠けていた。

為に益次郎(ますじろう)は、学者として理想の軍制改革を早急に具現化しようとして凶賊に倒れてしまう。

維新の十傑の一人に数えられながら、大政奉還後をわずか二年余り、戊辰戦争の終結からはわずか数ヶ月間生きただけで、益次郎(ますじろう)は命を落としている。

益次郎(ますじろう)の軍制構想・「農兵論」は、兵部大丞・山田顕義(やまだあきよし)らに拠って進められる。

千八百七十一年(明治四年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって軍制構想は実行に移されるが、同年内には事実上廃棄されている。

その後、兵部省(のち陸軍省)内の主導権が山田顕義から山縣有朋に移った後の千八百七十三年(明治六年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定される事となる。

大村益次郎(おおむらますじろう)〔一〕】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2012-12-23 00:08 | Comments(0)  

屋島の戦い(やしまのたたかい)

屋島は讃岐国(香川県高松市)に在り、瀬戸内海上に台形の概観を持つ島で、源平の合戦(治承・寿永の乱)の主戦場のひとつ「屋島の戦い(やしまのたたかい)」と成った。

平安時代末期の千百八十五年(文治元年)、「一ノ谷の戦い」で敗れた平家が屋島に本拠を置いた所から源氏との決戦の場とった。

源義仲(木曽義仲)に敗れた平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れるも在地の武士達が抵抗して大宰府からも追われてしまう。

平家はしばらく船で流浪していたが、阿波国(徳島県)の豪族・田口成良(たぐちしげよし)に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置く事ができる。

折りしも鎌倉の源頼朝と源義仲(木曽義仲)の抗争が起きて義仲は滅び、その期に乗じて平家は失地を回復し、勢力を立て直して摂津国福原まで進出する。

しかし、頼朝の弟の範頼義経の兄弟に攻められて大敗を喫した「一ノ谷の戦い」で平家は一門の多くを失う大打撃を蒙る。

「一ノ谷の戦い」の後、源氏の総大将・源範頼は一旦鎌倉へ帰還し、源義経が頼朝の代官として京に留まった。

平家は、安徳天皇と三種の神器を奉じて讃岐国屋島に内裏(だいり/天皇の座所)を置いて本拠とし、平知盛(たいらのとももり/清盛四男)を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。

平家はこの長門国彦島の拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。

一方の鎌倉方は水軍を保有していなかった為、長門国彦島攻め・讃岐国屋島攻めに踏み切れず平家の水軍に傍観が続いた。

鎌倉へ帰還していた源範頼が再び大軍を揃えて九州・中国地方の制圧に掛かるが、長門国彦島は孤立しながらも強固に抵抗する。

京に在った源義経は後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得、摂津国の水軍・渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津(わたなべみなと)に兵を集める。

渡邊津を出航するにあたり義経は戦奉行の梶原景時と軍議を持ち、景時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案した。

しかし、義経は「そのようなものを付ければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。景時は「進むのみを知って、退く事を知らぬは猪武者である」と言い放ち、義経は「初めから逃げ支度をして勝てるものか、私は猪武者で結構である」と言い返した。

義経が四国に向けて出航するに際し、天候が崩れて暴風雨と成る。

暴風雨の為、諸将は出航を見合わせを提言、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、義経は郎党に命じて弓で船頭を脅し、僅か五艘、手勢百五十騎で出航を強行する。

義経の船団は暴風雨をつき通常三日の航路を四時間ほどで阿波国勝浦に到着、在地武士・近藤親家を味方にした。

屋島の平家方は、田口成直(田口成良の子)が三千騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、屋島には千騎程しか残って居なかった。

その千騎も阿波国、讃岐国各地の津(港)に百騎、五十騎と分散して配しており、「屋島は手薄である」との情報を阿波国勝浦の在地武士・近藤親家から手に入れ、義経は好機と判断した。

義経は平家方の豪族・桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破り、徹夜で讃岐国へ進撃して翌日には屋島の対岸に至った。

今なお屋島は相引川によって隔てられているが、江戸時代の新田開発により陸続きに近くなるまで、この頃の屋島は独立した島になっていた。

しかし干潮時には騎馬で島へ渡れる事を知った義経は、屋島強襲を決意する。

義経はわずか百五十騎の寡兵である事を悟られない為に、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏(だいり/天皇の座所)へと攻め込んだ。

海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は、四国の陸地伝いに攻め寄せた義経軍に狼狽し、内裏を捨てて屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。

この時の義経の勝因は、貴族化した平家方には想像できない暴風雨の中の渡海と陸伝いの奇襲だった。

やがて、渡邊津から出航した梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫り、平氏は長門国彦島へ退き、屋島の陥落により四国に於ける拠点を失った。

既に九州は源範頼の大軍によって押さえられており、平氏は長門国彦島(現山口県)に孤立してしまう。

義経は水軍を編成して、最後の決戦である「壇ノ浦の戦い」に臨む事になる。

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by mmcjiyodan | 2012-12-21 12:51 | Comments(0)  

佐藤信寛(さとうのぶひろ)

吉田松蔭に、南朝の皇統と伝えられる大室家の存在を教えたのは、田布施町出身の総理経験者、佐藤栄作氏の曾父・佐藤信寛(さとうのぶひろ)との接点が有望である。

信寛(のぶひろ)は、江戸時代後期の長州藩士で佐藤家第十代当主で、子孫には首相を務めた岸信介・佐藤栄作兄弟(曾孫)及び安倍晋三がいる。

岸、佐藤、両首相経験者の曾父・佐藤信寛(さとうのぶひろ)は、山口県熊毛郡田布施町に長州藩士・佐藤源右衛門の嫡男として生まれている。

信寛(のぶひろ)は藩校・明倫館にて山県太華に学び、江戸に出て清水赤城に長沼流兵学を修める。

信寛(のぶひろ)の師・清水赤城は吉田松陰に兵要禄を授けて居る為、学問的には松蔭の恩師筋の先輩にあたり深い親交が在った。

明治の初め、信寛(のぶひろ)は長州閥の一人として新政府に任官し、浜田県権知事、島根県令等を務め、県令として萩の乱の首謀者・前原一誠(まえばらいっせい)らを逮捕する活躍をしている。

千八百七十六年(明治九年)十一月、前原一誠・奥平謙輔(おくだいらけんすけ)ら萩の乱幹部七名が敗走し、東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港する。

その船が、悪天候の為に島根県の宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月月五日に島根県令・佐藤信寛(さとうのぶひろ)らに逮捕された。

千八百七十八年(明治十一年)頃に信寛(のぶひろ)は官を退き、熊毛郡麻郷村戎ヶ下(えびすがした/現・田布施町戎ヶ下)に居を定め、余生を風月と共に送った。

信寛(のぶひろ)は官職を退任後、戎ヶ下(えびすがした)の別荘に起居し、蝦洲(えびす)と号した。

信寛(のぶひろ)の別荘には和宮親子内親王と婚約していた事で知られる有栖川宮(ありすがわのみや)・熾仁親王(たるひとしんのう)や明治の元勲・伊藤博文(いとうひろぶみ)らが立ち寄ったと伝えられる。

尚、熾仁親王(たるひとしんのう)は、明治新政府の成立に至るまで、公家社会に於いて三条実美(さんじょうさねとみ)とならぶ長州系過激攘夷派の急先鋒として認識されていた。

こうした権力の裏側を勘繰れば、維新政府の有力者に南朝大室家の地元有力者が抜擢されて新政府の要職に就き、後に「伊藤・佐藤・岸・安倍と、何名もの首相や首相候補を輩出したのではないか」と、疑えるのである。

☆関連小説
「異聞・隠された明治維新」(明治維新にまつわる噂の謎)】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2012-12-15 00:13 | Comments(0)  

前原一誠(まえばらいっせい)

前原一誠(まえばらいっせい)は、「維新の十傑」に数えられる人物でもある。

千八百三十四年(天保五年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七(大組四十七石)の長男として一誠(いっせい)は生まれ、後に前原氏を相続する。

相続先の前原家の遠祖は、尼子氏重臣・戦国武将・米原綱寛(よねばらつなひろ/尼子十勇士の一人)である。

本姓の生家・佐世氏は、宇多源氏佐々木氏の分流で出雲源氏の諸流に属し、遠祖は尼子氏・毛利氏の重臣である佐世清宗(させきよむね)である。

一誠(いっせい)は倒幕の志士として活躍し、維新の十傑の一人と並び称されたが、維新後、萩の乱の首謀者として処刑とされた。


千八百三十九年(天保十年)、郡吏となった父・佐世彦七とともに一誠(いっせい)は厚狭郡船木村に移住する。

後に藩都・萩にて修学するが、千八百五十一年(嘉永四年)、一誠(いっせい)は再び船木村に帰り陶器製造など農漁業に従事する。

千八百五十七年(安政四年)、一誠(いっせい)は久坂玄瑞高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。

松陰の処刑後、一誠(いっせい)は長崎で洋学を修め、のちに長州藩の西洋学問所・博習堂に学ぶ。

千八百六十二年(文久二年)に一誠(いっせい)は脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽(ながいうた/時庸・ときつね)の暗殺を計画するも成就に到らず。

翌千八百六十三年(文久三年)、一誠(いっせい)は藩に復帰して右筆役、更に八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に逃れて来た七卿の世話役・七卿方御用掛となる。


萩の乱の首謀者として処刑とされた前原一誠(まえばらいっせい)も、維新前は長州藩倒幕派で在った。

と言っても一誠(いっせい)は、大勢の長州藩倒幕派の中の一人で、けして抜きん出た存在ではなかった。

しかし、一誠(いっせい)が「維新の十傑の一人」とまで数えられる大出世のチャンスは、八月十八日の政変(七卿落ち)で長州に逃れて来た七卿の世話役・七卿方御用掛だった。

想うに、明治維新の全ては 熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に繋がる「不思議な何か?」のパワー魔力である。

一誠(いっせい)に与えられた「七卿方御用掛」の縁が、その後彼が「維新の十傑の一人」とまで数えられる出世のチャンスに成ったのではないだろうか?

つまり一誠(いっせい)も、伊藤博文(いとうひろぶみ)井上馨(いのうえかおる/井上聞多)佐藤信寛(さとうのぶひろ)等と同様に、大室某の謀議に加わって出世の糸口を掴んだと考えられる。

その後一誠(いっせい)は、高杉らと下関に挙兵して藩権力を奪取し、用所役右筆や干城隊頭取として倒幕活動に尽力した。

幕府軍と交戦した長州征伐では小倉口の参謀心得として参戦、千八百六十八年(明治元年)の戊辰戦争で、一誠(いっせい)は北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦など会津戦線で活躍する。

千八百七十年(明治三年)戊辰戦争も終結し明治維新成る後、一誠(いっせい)は維新の戦功を賞されて賞典禄六百石を賜る。

維新後、新政府に任官した一誠(いっせい)は、越後府判事や新政府参議を勤める。

大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、一誠(いっせい)は出仕する事が少なかった為、船越衛は省務停滞を嘆いている。

また、一誠(いっせい)は前任・大村の方針である「国民皆兵」路線(徴兵令)に反対して木戸孝允と対立する。

やがて、徴兵制を支持する山縣有朋(やまがたありとも)に追われるように下野し、萩へ帰郷する。

新政府の方針に不満をもった一誠(いっせい)は、千八百七十六年(明治九年)、奥平謙輔(おくだいらけんすけ)とともに不平士族を集めて萩の乱を引き起こす。

しかし、即座に鎮圧されて幹部七名が敗走し、東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港する。

その船が、悪天候の為に島根県の宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月月五日に島根県令・佐藤信寛(さとうのぶひろ)らに逮捕され、萩にて処刑された。

☆関連小説
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by mmcjiyodan | 2012-12-15 00:12 | Comments(0)  

性交は「愛」が条件か?

人間は出遭った瞬間に恋する事は在っても、出遭った瞬間から相手を愛する事など出来ない。

しかし出遭った瞬間の恋でも性交をする事が出来るのだから、「愛が無ければ性交など出来ない」は綺麗事である。

厄介な事に、人間の思考には「理性」と「感性」の二つの発想が混在し、そして「感性の領域」では、観念を基とする幻想があたかも現実のごとく幅を利かせている。

つまり、「愛が無ければ性交など出来ない」は、本来に比して現実離れした「空想的感性」の理想を、夢に浸(ひた)って言っているだけの「偽善」に過ぎないのである。

そして本来、「理性」で考えれば「愛」は永い時間をかけて互いが育むものだから、見合いにしろ恋愛にしろ順序からすれば「愛」より性交が先である。

従って「愛」が性交の条件ではない事に成り、男女の仲に「愛」が無くても本能で性交は可能である。

大体に於いて、人間は性欲が強いと「嫌らしい」とか「スケベ」と非難されるが、言わせて貰えば子孫を残すのは本能だから、性欲がなければむしろその方が異常である。

つまり男女伴に、性欲が在って当たり前が正常な本能だからこそ、自然にペアが成立して性交をする。

そして元々初期の人類は、種の保存をヘッジ(リスク回避)する為に適した相手に巡り合う為の「群れ婚」で、その本能が潜(ひそ)んでいる。

勿論、「だから」と言って現代の社会ルールを破りながら「本能だから仕方が無い」と言う言い分は成り立たない。

ロジック(論理)的には「他人の家庭を壊さない」などの、社会性に反しない程度での性欲処理の利口な対処の問題で、「現実を否定すれば解決する」と言う幼稚な問題ではない。

性に関する事だけで無く学校での虐(いじ)め問題などもそうだが、無い事にしてしまうとそれで終わりで対処を考えない。

だから不都合な事実でも、その存在を現実と認めた上で対策を考えるのが最も人間らしい問題解決の筋である。

つまりその辺りの「機微(微妙な心の動きや物事の趣)」を上手く消化していたのが、長期に存在した村落共同体の「村社会の夜這い寝宿制度」だった。

詳しくは小論【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の【「共生主義」】は、地球を救う平和の知恵である。

類人猿・ボノボ こそ、争いを回避する知恵の原点】

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

★更に、「愛」とは全く繋がらない職業としての性交、【遊女(女郎)の歴史】も御参照下さい。

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「卵子の老化(らんしのろうか)」】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2012-12-11 01:25 | Comments(0)  

二世権現・徳川家光の謎

二代将軍・徳川秀忠が、実は明智光忠とするトンデモナイ説の根拠に、三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の呼称・二世権現の謎がある。

つまり、三代将軍・徳川家光の古文書には何故か二世権現や二世様などと記された文章が多数存在する。

問題なのは三代目を二世と称する奇妙な事で、何しろこれは天下の将軍家の血筋に関わる記述である。

もしそれが事実と異なる事なら、これは本来、書いた者が厳しいお咎めを受けても不思議は無い大変な記述である。

三代を二世とするからには、二代将軍・秀忠がイレギラーの存在で在る事を暗示させ、故に三代将軍・徳川家光が「家康春日局の子で在る」と言う説が散見される。

いずれにしても三代将軍・徳川家光を二世と数え書き記すは、いったい何を意味しているのだろうか?

三代将軍・家光を二世と数えるのであれば、権現としての二代将軍・徳川秀忠の存在は一つ飛ばされている事になる。

つまりこの事は、二代将軍・秀忠の正体が養子であり「明智光忠である」と言う話にも信憑性が出て来る。

そしてこの事が事実であれば、春日局(かすがのつぼね)が駿府まで出向いて家康に家光を将軍に推させた事に納得が行く。

徳川家光と徳川忠長(とくがわただなが)は将軍世襲で微妙な状態にあり、実は保科正之(ほしなまさゆき)だけが二代将軍・秀忠の実子と言う事かも知れない。

つまり家光が二世権現や二世様と表記されるのは、家光が家康の「孫では無く子だからだ」と言うのだ。

だが、家光の二世権現や二世様の数え方について、もし家光の父・秀忠が家康の実子でなければ秀忠を初代、家光を二代と数える古文書の存在に別の筋で説明が着く。

詳しくは、小論【明智光秀=天海僧正説を検証する】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-12-09 01:39 | Comments(0)  

御女中(おじょちゅう)と腰元(こしもと)

御半下(おはした)・御端(おはし)は、武家の奥方や姫君に仕えて雑用をする御女中(おじょちゅう)より若い女性を言い、端女(はしため)とも言う。

御半下(おはした)・御端(おはし)、婢女(はしため)とも書く召使いの女で、江戸城大奥の場合いは、御末(おすえ)とも言いもっぱら湯殿・御膳所の水くみなどの雑用を務めた。

元は端女(はしため)と表記するが、婢女(はしため)とも下婢(はしため)とも下女(はしため)とも表記する。

将軍家・大名家・武家に於ける女奉公人には、「御女中(おじょちゅう)」、「仲居(なかい)」、そして「端女(お端・はしため)」や「下女(げじょ)」と言う階級があり、これは字のごとく下働きだが、「御女中(おじょちゅう)」の仕事は貴人(主人)の身の回りに限られている。

つまり「女中(じょちゅう)」は、女性奉公人としては少し上の階級で、貴人(主人)の身近で気持ち良い生活を提供する務めが主であり、「御伽(おとぎ)」と称するお手が付いても不思議では無い立場である。


映画・テレビ時代劇の武家方の女奉公人のシーンで、腰元(こしもと)と言う呼称が聞かれるが間違いで、腰元(こしもと)は商家の小間使(こまづかい)である。

一般には、腰元(こしもと)を江戸時代に武家方の奥向きに仕える女中と同義に解釈しているが、本来武家方の女奉公人の内には腰元(こしもと)の呼称は無い。

武家方の奥向きに仕えるのは御半下(おはした)・御端(おはし)と御女中(おじょちゅう)である。

しかし現在の辞書では、御女中(おじょちゅう)と腰元(こしもと)の正確な使い分けが無くなり、同義解釈に成ってしまった。

また、皇室や宮家の侍女・大名家の侍女は、婦人に個人的に仕えて雑用や身の回りの世話をする女性で、比較的身分が高い女性(貴族階級の女性)が行儀見習いの修行を兼ねて奉公する事が多い。

この侍女に関しては一定の階級層の出自である事から、「妾(側室)」を女官(侍女)の中から選ぶしきたりが在り、「妾(側室)」に代わる存在でも在って寵愛の有無に関わらず最初からお召し自由の多妻制妾妻身分だった。


実は、江戸期の大商家は身分こそ低い扱いだったが、その富裕さ故に腰元(こしもと)と呼ぶ女性使用人に雑用を任せる優雅な上流生活をしていた。

腰元(こしもと)とは「身の回り」を指す言葉で、転じて雑用を任せる女性使用人の事を言う職業名と成った。

つまり腰元(こしもと)は、上流の商家の人々の側に仕えて雑用をたす小間使(こまづかい)を指す呼称で、身の回りに置いて使う事から腰元使(こしもとづかい)とも言う。

また、これは商家の影響だと考えられるが、遊女屋の主人の居間や帳場で雑用に使われる女性使用人も「腰元(こしもと)」と言った。

何故に現代では、御女中(おじょちゅう)と腰元(こしもと)の辞書解釈が同義に解釈するように成ったかと言えば、明治維新後の環境の変化である。

明治維新後、戸籍法・通称・壬申戸籍 (じんしんこせき)の発布で身分制度が変わったのを期に身分意識が変わって、商家でも小間使(こまづかい)を御女中(おじょちゅう)と呼ぶ様に成って同義語と成ったと考えられる。

つまり商家の腰元(こしもと)が、格の高い武家の御女中(おじょちゅう)に格上げされた訳で、時代考証的には本来江戸時代の武家に腰元(こしもと)は存在しない。

こうした現象は、日本倭国論の疑惑と同様に、歴史的経時変化により、ある時点から後に解釈されると最初と違う内容になる。

詳しくは・小論【御女中(おじょちゅう)と腰元(こしもと)の違い】を参照下さい。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-12-06 00:31 | Comments(0)