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小栗忠順(おぐりただまさ)〔一〕

落日の江戸幕府に在って徹底抗戦を主張し、必死で体制を立て直そうとした秀才・小栗忠順(おぐりただまさ)が居た。

幕末の幕臣(直参旗本)としては、小栗忠順(おぐりただまさ)は「類を見ない秀才」と評価は最上級に高い。

忠順(ただまさ)は江戸時代末期の幕府官僚で、勘定奉行兼陸軍奉行並の地位に在って、滅び行く江戸幕府を必死で支えた人物である。

忠順(ただまさ)は、三河小栗氏第十二代当主で、三河小栗氏は酒井氏と伴に徳川氏(三河松平氏)の庶家に属する氏族で、松平一族が常陸小栗氏と婚姻し家を興したとされる。

常陸小栗氏は桓武平氏・平繁盛(平国香の次男)流と伝えられ、国香は平高望(高望王)の長男である。

常陸国・小栗氏は鎌倉公方に叛して兵を挙げた「上杉禅秀の乱」に敗れ、その本貫地である小栗御厨荘を失って一族の一部が三河国に流れ着いた。

松平氏庶家・三河小栗氏が興った経緯だが、松平郷松平家の系統七代目・松平親長(まつだいらちかなが)が、常陸から三河に移り住んだ常陸小栗氏の末裔・小栗正重(おぐりまさしげ)の娘と婚姻して、生まれた男子・忠吉がその後の離婚で三河小栗氏を称した。


小栗忠順(おぐりただまさ)は、千八百二十七年(文政十年)、禄高二千五百石の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷に生まれ、幼名は剛太郎を称す。

当初剛太郎(忠順)は、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていた。

だが、剛太郎(忠順)は成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、十四歳の頃には自身の意志を誰に憚(はばか)る事無く主張する様になった。

この結果は虚け者(うつけもの)・織田信長をほうふつさせ、行儀が良い子供よりも悪戯好きな悪童の方が、上手く育てば可能性を秘めているのかも知れない。

千八百四十三年(天保十四年)、忠順(ただまさ)は十七歳になり登城、幕府に出仕すると文武の才を注目され、若くして両御番(書院番と小姓組を併せて呼ぶ名称)となる。

しかし率直な物言いを疎(うと)まれて、忠順(ただまさ)は幾度か官職を変えられたが、その度(たび)に才腕を惜しまれて官職を戻されている。

千八百四十九年(嘉永二年)、忠順(ただまさ)は林田藩前藩主・建部政醇(たけべまさあつ)の娘・道子と結婚する。

千八百五十三年(嘉永六年)、忠順(ただまさ)は進物番出役に登用され、徳川家定(とくがわいえさだ/十三代将軍)に近侍する。

同千八百五十三年(嘉永六年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが浦賀に来航、開国を迫る。

その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。

この頃から忠順(ただまさ)は、外国との積極的通商を主張し、造船所を作ると言う発想を持ったと言われる。


千八百五十五年(安政二年)、忠順(ただまさ)二十九歳の時、父・忠高が医師の誤診により死去し、家督を相続する。

家督相続から四年、千八百五十九年(安政六年)には、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任して「安政の大獄」を始め、世の中が騒然とする。

ぞの年(安政六年)、忠順(ただまさ)は従五位下豊後守に叙任され、千八百六十三年(文久三年)、上野介(こうずけのすけ)に遷任され、以後小栗上野介と称される。

千八百六十年(安政七年)、万延元年・遣米使節目付(監察)として正使(代表)の外国奉行・新見正興(しんみまさおき)が乗船するポーハタン号で忠順(ただまさ)は渡米する。

二ヶ月の船旅の後、新見正興(しんみまさおき)や忠順(ただまさ)の一行はサンフランシスコに到着する。

代表(正使)は新見正興(しんみまさおき)であったが、目付の忠順(ただまさ)が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。

勘違いの理由として、正使(代表)の新見を始めとして同乗者の多くは外国人と接した事がなく困惑していた

その中に在って、忠順(ただまさ)は詰警備役として外国人と交渉経験がある為に落ち着いており、その為代表に見えたとされる。

その後、忠順(ただまさ)はナイアガラ号(米国海軍の蒸気フリゲート艦)に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。

帰国後、忠順(ただまさ)は遣米使節の功により二百石を加増されて二千七百石となり、外国奉行に就任する。

千八百六十一年(文久元年)、ロシア軍艦が対馬を占領する事件が発生、忠順(ただまさ)は事件の処理に当たるも、同時に幕府の対処に限界を感じる。

忠順(ただまさ)は江戸に戻って、老中に対馬を直轄領とする事、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行う事、国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得る事などを提言したが容(い)れられず外国奉行を辞任する。

千八百六十二年(文久二年)、忠順(ただまさ)は再び登用され、勘定奉行に就任し幕府の財政立て直しを指揮する。

当時、幕府は海軍力強化の為四十四隻に及ぶ艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に三百三十三万六千ドルに上った。

忠順(ただまさ)は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。

千八百六十三年(文久三年)、忠順(ただまさ)は軍事力強化の為に製鉄所建設案を幕府に提出する。

忠順(ただまさ)は幕閣などから反発を受けたが、十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)はこれを承認し、同年十一月二十六日に実地検分が始まり建設予定地は横須賀に決定された。

なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し武田斐三郎などを現地の見分に派遣する。

見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した。

但し近隣での石炭供給が不十分をであるので、暫(しばら)くの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。

また千八百六十五年(慶応元年)には高炉で使用する木炭を確保する為、忠順(ただまさ)は御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。

小栗忠順(おぐりただまさ)〔二〕】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2013-02-26 19:55 | Comments(0)  

小栗忠順(おぐりただまさ)〔二〕

小栗忠順(おぐりただまさ)〔一〕】へ戻る。

小栗忠順(おぐりただまさ)の幕府軍備強化の中、千八百六十七年(慶応三年)十一月九日、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が朝廷に「大政を奉還」をする。

大政を奉還し、政権を返上した慶喜は新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使する事を想定していた。

所が、討幕派の公家や薩摩藩が主導した十二月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって慶喜自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。

この処置に旧幕府軍は、千八百六十八年(慶応四年)正月三日、鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、鳥羽・伏見の戦いと呼ぶ戦闘となった。


千八百六十八年(慶応四年)一月、忠順(ただまさ)四十二歳の時、鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。

伊勢から海路逃げ帰った将軍・慶喜の江戸帰還後、一月十二日から江戸城で開かれた評定に於いて、忠順(ただまさ)は榎本武揚(えのもとたけあき)、大鳥圭介、水野忠徳等と徹底抗戦を主張する。

この時、忠順(ただまさ)は、見事な挟撃策を提案している。

新政府軍が箱根関内に入った所を陸軍で迎撃、同時に榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅すると言うものだった。

後にこの策を聞いた大村益次郎(おおむらますじろう)は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と懼(おそ)れたと言う。

実際、この時点に於いて旧幕府軍は多数の予備兵力が残されていたが、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)はこの策を採用せず恭順論を受け入れた。

忠順(ただまさ)はなおも抗戦を説くが、その努力も空しく十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は抗戦を避ける選択をした。

徳川家定(とくがわいえさだ/十三代将軍)徳川家茂(とくがわいえもち/十四代将軍)の二代の将軍に寵を得た忠順(ただまさ)も、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)には通じなかった。

徳川慶喜は朝廷から追討令を受けて謹慎し、幕府参与・大久保一翁(おおくぼいちおう・忠寛/ただひろ)や陸軍総裁・勝海舟(かつかいしゅう)の進言を受け入れて江戸城を無血開城し、戊辰戦争へと導いて江戸幕府は滅んだ。


千八百六十八年(慶応四年)一月十五日、抗戦派だった忠順(ただまさ)は江戸城にて老中・松平康英より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡される。

忠順(ただまさ)は沙汰を受けて、同月二十八日に知行地の「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。

旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたもののこれを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮する事があれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝える。

また二月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「将軍(徳川慶喜)に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した。

三月初頭、忠順(ただまさ)は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。

当時の村人の記録によると、忠順(ただまさ)は水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子は見られない。

千八百六十八年(慶応四年)閏四月四日、忠順(ただまさ)は東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵により、東善寺にいる所を捕縛される。

閏四月六日朝四ツ半(午前十一時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、忠順(ただまさ)は斬首された。

小栗忠順(おぐりただまさ)〔一〕】へ戻る。

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by mmcjiyodan | 2013-02-26 19:53 | Comments(0)  

有栖川宮・熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)

有栖川宮・熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)は、有栖川宮・幟仁親王(ありすがわのみや・たかひとしんのう)の第一王子で、幼名は歓宮(よしのみや)を称した。

徳川家に降嫁した和宮親子内親王と婚約していた事で知られるが和宮との婚約は時の政治情勢により反故となる。

為に、旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の妹・徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎えている。


十五代将軍・徳川慶喜は、千八百六十七年(慶応三年)十月大政奉還により政権を朝廷へ返上する。

政権を返上した慶喜は新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使する事を想定していた。

所が、討幕派の公家・岩倉具視(いわくらともみ)や薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち)西郷隆永(さいごうたかなが・隆盛/薩摩)らが主導した十二月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって慶喜自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。

この処置に旧幕府軍は、慶応四年正月三日、鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、鳥羽・伏見の戦いと呼ぶ戦闘となった。

鳥羽・伏見の戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して錦旗を与え、幕府軍は朝敵となってしまう。

その為山城・稲葉藩(淀藩)や津藩などが旧幕府軍から離反し、慶喜は六日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦・開陽丸で海路江戸へ逃走し、鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。

正月十一日、海路品川に到着した慶喜は、翌十二日江戸城西の丸に入り今後の対策を練り、徳川家人事の変更が行われる。

若年寄 ・平山敬忠、同・川勝広運、 陸軍総裁・ 勝義邦(海舟)、同副総裁 ・藤沢次謙 、海軍総裁 ・矢田堀鴻、同副総裁 ・榎本武揚(えのもとたけあき)、会計総裁 ・大久保忠寛(一翁)、同副総裁 ・成島柳北、 外国事務総裁・ 山口直毅、同副総裁・河津祐邦と言う新体制の顔ぶれだった。


慶喜が海路江戸へ逃走した頃、既(すで)に新政府は正月五日には橋本実梁(はしもとさねやな/公家・羽林家)を東海道鎮撫総督に出撃させる。

整然と隊列を組んだ官軍は、錦旗を翻し威風堂々とピーヒャラと鼓笛を鳴り響かせながら東海道を江戸に向かって進軍して行く。

官軍の東征に列した軍勢の主力は世に薩長土肥と言う、薩摩勢(島津藩)、長州勢(毛利藩)、土佐勢(山内藩)、肥前勢(鍋島藩)だった。

同九日には東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、岩倉具定(いわくらともさだ/公家)を東山道鎮撫総督に、高倉永y\(たかくらながさち/公家)を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていた。

そして二月六日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。

二月九日には新政府総裁の有栖川宮・熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう)が東征大総督に任命(総裁と兼任)される。

先の鎮撫使は全(すべ)て大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。

大総督府参謀には正親町公董(おおぎまちきんただ/公家)・西四辻公業(にしよつつじきみなり・きんなり/公家)が、下参謀には広沢真臣(ひろさわさねおみ/長州)が任じられた。

所が、寛大な処置を主張する広沢真臣(ひろさわさねおみ/長州)は十二日に下参謀を辞退し、代わって強硬派の西郷隆永(さいごうたかなが・隆盛/薩摩)と林通顕(はやしみちあき/宇和島)が十四日に補任された。

二月十五日、熾仁親王(たるひとしんのう)以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、三月五日に駿府に到着する。

翌六日には大総督府の軍議に於いて江戸城進撃の日付が三月十五日と決定されたが、同時に、将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意がある事も「別秘事」として示されている。

この頃には既(すで)に西郷隆永(さいごうたかなが・隆盛/薩摩)や大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)らの間にも、慶喜(よしのぶ)の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあった。

実際、これらの条件も前月に大久保利通(おおくぼとしみち/薩摩)が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。

江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう)】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2013-02-22 16:15 | Comments(0)  

鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)

日本列島の本来の先住民はネイティブジャパニーズ・蝦夷(えみし/縄文人)だった。

この蝦夷(えみし/縄文人)と呼ばれる先住民族(鵺、土蜘蛛、鬼、の類)が、原日本人系縄文人(原ポリネシア系)と考えられる。

大和朝廷(ヤマト王権)の中央に陰陽寮なる官庁が在る以上、初期の段階に於ける地方派遣の陰陽師修験者が、情報操作及び政治工作を担った大和朝廷(ヤマト王権)の工作員である事は順当な解釈である。

そしてその役目は、先住民である蝦夷(エミシ)の抵抗勢力を鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)と称して暴力的な蛮人に仕立て上げる事である。

つまり渡来人が日本列島に居座って成立した大和朝廷(ヤマト王権)の正当性を照明する為に、先住民族・蝦夷(えみし/縄文人)は殊更に野蛮な部族でなければ成らなかった。

その工作員・陰陽師修験者の工作が実って、現代の日本に伝わる先住民・蝦夷(エミシ)の抵抗勢力は、見事に言われ無き悪役としてしか地方民話にも残っていない。

その代表的な伝説が、源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)の鬼(おに)退治や土蜘蛛(つちぐも)退治、源(三位)頼政(みなもとよりまさ)の鵺(ぬえ)退治だった。

現在でも、この鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)を悪役とし、源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)、源(三位)頼政(みなもとよりまさ)の活躍伝承は、神楽舞いや田舎歌舞伎、祭りの主人公などで全国に残っている。

それにしても、多少の落人伝説(おちゆうどでんせつ)はあるものの、現実には全国に残る村落の住人の祖先は先住民族・蝦夷(えみし/縄文人)系が有力である。

つまり時を経ると、農漁村の村落の民までも自らの先祖である鵺(ぬえ)・鬼(おに)・土蜘蛛(つちぐも)を忌むべき存在と認識する事に成った。

或いはそうした認識結果こそ、陰陽師修験者の情報操作及び政治工作が相当に上手く行った事に成る。

いずれにしても、「古事記・日本書紀編纂」の目的は皇統の神格化であるから、その目的の為に実史にアレンジを加えて成立させた物語である。

当時の修験者に拠る「天孫降臨伝説」を紛れ込ませた為政者の権威の為になる情報操作、「記紀神話(古事記(こじき)日本書紀(にほんしょき))」の流布は効果的だったに違いない。

陰陽師起源の詳しくは、小論【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

関連小論
日本人の祖先は何処から来たのか?】に飛ぶ。
豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実】に飛ぶ。
大和民族(ヤマト民族/日本人)の成立過程】に飛ぶ。
ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族】に飛ぶ。
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】に飛ぶ。
地球を救う「共生主義」と言うイデオロギー】に飛ぶ。
天狗修験道と犬神・人身御供伝説】に飛ぶ。


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by mmcjiyodan | 2013-02-13 15:19 | Comments(0)  

秩禄処分(ちつろくしょぶん)

秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が千八百七十六年(明治九年)に実施した旧幕藩体制での秩禄給与の全廃政策である。

秩禄(ちつろく)とは、華族士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称である。


江戸時代の幕藩体制に於いて、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、その秩禄(ちつろく)を維持していた。

江戸時代後期の千八百六十七年(慶応二年)に十五代将軍・徳川慶喜大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。

明治政府は、抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争に於ける戦費などで発足直後から財政難で全国総石高・三千万石の内、僅か八百万石を確保できているだけだった。

また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかった為、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持され、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。

新政府の歳出の三割以上を、維新功労者に対する賞典禄の支給(約七十五万石)と華士族に対する家禄支給(二十万三千余両)が占める状態だった。

明治政府の中央集権化など改革を行うに際しての財源確保のため、禄制改革が課題の1つとなっていた。

また、四民平等に於いては武士階級の身分的特権は廃止の必要があり、軍事的にも伝統的特権意識は軍制改革に於いて弊害となっていた。

政府は諸藩に対する改革の指令を布告し、財政状態の報告と役職や制度の統一が行われ、旧武士階級は士族と改められた。

千八百六十九年(明治元年)には、大蔵卿・大久保利通木戸孝允(桂小五郎)らの主導で版籍奉還が行われ、家禄は政府から支給される形となり、禄制は大蔵省が管轄する事となる。

更に千八百七十年(明治二年)には、公家に対する禄制改革が実施される。

千八百七十一年(明治三年)四月には廃藩置県が実行されて幕藩体制は解消、全国の士族は政府が掌握する。

同年十月には幕末に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)などを目的とした岩倉使節団が派遣され、留守政府に於いて禄制改革は行われた。

大蔵卿・大久保利通に代わり次官大輔の井上馨が担当し、地租改正と平行して井上は急進的な改革を提言する。

井上の改革案は大蔵少輔・吉田清成を派遣して使節団に参加している大久保や工部省大輔の伊藤博文に報告を行うが、急進的な改革案に対し岩倉具視や木戸孝允らは難色を示し、審議は打ち切られる。

一方で千八百七十一年(明治三年)、留守政府に於いて禄高人別帳が作成されるなど、多元的で在った家禄の支給体系の一律化が進む。

禄制改革をはじめとする留守政府の政策に対しては反対意見も存在し、農民一揆なども勃発していた。

留守政府では旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝鮮出兵を巡る征韓論で紛糾しており、薩摩士族の暴発を予防策として家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を行うべきであるとする意見も存在していた。

しかし千八百七十三年(明治六年)一月には、中将・陸軍大輔・山縣有朋(やまがたありとも)軍人勅諭の制定し、徴兵制の施行により家禄支給の根拠が消失した。

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by mmcjiyodan | 2013-02-07 06:03 | Comments(0)  

教育勅語(きょういくちょくご)

勅語(ちょくご)とは、天皇が口頭により発する公務上の意思表示(おことば)である。

一般的に「教育勅語(きょういくちょくご)」と呼ぶが、正式な名称・「教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)」は、明治維新以後の大日本帝国で、政府の教育方針を明記した勅語である。

「教育勅語(きょういくちょくご)」は、千八百九十年(明治二十三年)十月三十日に、明治天皇の名で発表された勅語である。

明治天皇が国民に語りかける形式をとる「教育勅語」の趣旨は、明治維新以後の大日本帝国では、修身・道徳教育の根本規範と捉えられた。

歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。

続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの友愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くす事など十二の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。

以上を歴代天皇の遺した教えと「教育勅語(きょういくちょくご)」を位置づけ、国民とともに「明治天皇自らこれを守る為に努力したい」と誓って締め括(くく)る。

四大節と呼ばれた祝祭日、紀元節(二月十一日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(十一月三日)及び一月一日(元日、四方節)には学校で儀式が行われる。

その儀式に於いて全校生徒に向けて校長が「教育勅語」を厳粛に読み上げ、その写しは御真影(天皇の肖像/御写真)とともに奉安殿に納められて丁重に扱われた。

また、外地(植民地)で施行された朝鮮教育令(明治四十四年・勅令第二二九号)、台湾教育令(大正八年・勅令第一号)では、教育全般の規範ともされた。

千九百四十五年(昭和二十年)八月十五日の終戦に至り、千八百九十年(明治二十三年)十月三十日渙発の「教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)」は、その役割を終える。

法的には、千九百四十八年(昭和二十三年)六月十九日衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」及び参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)と共にその失効が確認され廃止される。

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by mmcjiyodan | 2013-02-07 05:59 | Comments(0)  

軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)と戦陣訓(せんじんくん)

「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」と「戦陣訓(せんじんくん)」を解説する。

軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)は、正式には「陸海軍軍人に賜(たま)はりたる敕諭」と言い、明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭(訓示)とされる。

「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」は、啓蒙思想家・西周(にしあまね)が起草、有識者・福地源一郎・官僚政治家、官僚政治家・井上毅(いのうえこわし)、軍人政治家・山縣有朋によって加筆修正され、千八百八十二年年(明治十五年)一月四日に発効される。

この「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」は、千八百七十八年(明治十一年)十月に陸軍卿・山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した「軍人訓誡」が元になっている。

当時、多発した士族の反乱自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていた為に、これを抑(おさ)え精神的支柱を確立する意図で起草されたものである。


「戦陣訓(せんじんくん)」は、太平洋戦争(第二次世界大戦)中の軍人規律の規範を示して士気を維持する目的の訓令だった。

千九百四十一年(昭和十六年)一月八日に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)が「戦陣訓(せんじんくん)」で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書である。

現在ではこの「戦陣訓(せんじんくん)」の中の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と言う一節が有名であり、軍人・民間人の死亡の一因となったか否かが議論されている。

その後の千九百四十五年(昭和二十年)八月十五日の終戦により、日本軍そのものが解体後廃止される。

千九百四十八年(昭和二十三年)六月十九日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」及び参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)の失効が確認された。

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関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-02-07 05:55 | Comments(0)  

自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)

板垣退助が主導した自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本に於いて行われた政治運動・社会運動である。

従来の通説では、この運動は千八百七十四年(明治七年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされ、千八百九十年(明治二十三年)の帝国議会開設頃まで続いた。

いわゆる自由民権運動は、明治維新後に政府の専制政治に反対して国会開設や立憲政治の確立など民主的な改革を求める大規模な運動として起こる。

薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げていた。


発端は千八百七十三年(明治六年)に起こった「明治六年の政変」で征韓論を主張する板垣退助が、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れた事である。

新政府が分裂し板垣は西郷隆盛らと伴に下野し、翌千八百七十四年(明治七年)、後藤象二郎江藤新平副島種臣らと愛国公党を結成する。

板垣退助は有司専制を批判すると伴に、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して高知に立志社を設立する。

この民撰議院設立建白書が新聞に載せられた事で、自由民権運動が広く世間に知られるようになる。

翌千八百七十五年(明治八年)には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により消滅する。

また、後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。

千八百七十四年の建白書の直後に、江藤新平が士族反乱の佐賀の乱を起こし死刑と成るなど、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。

武力を用いる士族反乱の動きは千八百七十七年(明治十年)の西南戦争まで続くが、士族民権(自由民権)は武力闘争と紙一重であった。


西南戦争後の千八百七十八年(明治十一年)に愛国社が再興し、千八百八十年(明治十三年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。

千八百八十一年(明治十四年)、参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、起こった明治十四年の政変で参議・伊藤博文らによって罷免された。

一方、政府は国会開設の必要性を認めると伴に当面の政府批判をかわす為、十年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。

この十年後の国会開設、政府は十年も経(た)てばこの運動も収まるだろうと「甘く思っていた」と言う。

しかし、ともかくこの「国会開設の勅諭」によって国会開設のスケジュールが公に具体的となった。

その後、国会期成同盟第三回大会で自由党が結成され、一方明治十四年の政変により下野した大隈重信は千八百八十二年(明治十五年)に立憲改進党の党首となった。

自由民権運動に好意的と見られて来た大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功する。

千八百八十二年(明治十五年)には板垣退助が保守主義者の暴漢に襲われた「岐阜事件」が発生するも命はとりとめ、傷も回復する。

伊藤博文らは、後藤象二郎を通じて自由党総理・板垣退助に洋行を勧め、民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。

伊藤の目論みが功を奏し、板垣がこの洋行に応じると民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出する。

また、千八百八十四年(明治十七年)に自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど民権運動は打撃を受けている。


千八百八十六年(明治十九年)に成ると、星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られる。

翌千八百八十七年(明治二十年)には更に、井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起り民権運動は激しさを増す。

これに対し政府が保安条例の制定や改進党・大隈の外相入閣を行う事で運動は沈静化し、千八百八十九年(明治二十二年)の大日本帝国憲法制定を迎える。

翌千八百九十年(明治二十三年)に第一回総選挙が行われ帝国議会が開かれ、以降、政府・政党の対立は議会に持ち込まれて行った。

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by mmcjiyodan | 2013-02-07 05:53 | Comments(0)  

主たる不満士族の反乱リスト

明治維新政府の形としては、天皇親政でが、現実は倒幕に功績のあった「薩長土肥と倒幕派公家」の連合政権である。

そして、徳川二百六十年の後始末は、江戸城開城後も内乱の形で、北陸、東北、北海道と「戊辰戦争」として続いた。

近代化を目指す明治政府は、まず身分制度が改める。

氏族(皇族や有姓身分の公家や武士)や平民、その下に非人(賎民)と言う扱いの差別が存在した江戸幕府の身分制度が、改められる。

千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効さる。

これに拠り非人(賎民)と言う扱いの被差別部落民は、賎民解放令に基づき平民として編入された。

五年後、明治政府は千八百七十六年(明治九年)三月に廃刀令、同年八月に金禄公債証書発行条例を発布した。

秩禄処分や廃刀令(明治九年三月)など、旧体制の利権を奪われた士族(旧武士階級)の不満は、専業軍人(武士)だっただけに、国家の根幹に関わる重大懸念だった。

この発布された二つは帯刀・禄の支給(知行地召し上げ)と言う旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

明治政府の政策に保守士族の立場から「このままでは士族は平民と一緒にされる」と言う危機意識から起こった一連の抵抗に拠る反乱が不満士族の反乱である。

佐賀の乱(さがのらん)】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2013-02-07 05:48 | Comments(0)  

萩の乱(はぎのらん)

萩の乱(はぎのらん)は、千八百七十六年(明治九年)に山口県萩で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

千八百七十六年十月二十四日に熊本県で起こった「神風連の乱」と、同年十月二十七日に起こった「秋月の乱」に呼応し、山口県士族の元参議・前原一誠、奥平謙輔ら約二百名によって起こされた反乱である。

秩禄処分や廃刀令など、旧体制の利権を奪われた士族(旧武士階級)の不満は、専業軍人(武士)だっただけに、国家の根幹に関わる重大懸念だった。

前参議・前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同士を集める。

十月二十六日には前原は、県庁を挟撃する為に徳山の同士に決起を促す使者を派遣した。

十月二十八日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知された為、方針を転換して天皇に直訴する為に山陰道を東上する。

しかし悪天候で出発が遅れ、一旦萩に戻った為そのまま市街戦となり、県令・関口隆吉を敗走させた。

その後、前原らは軍勢を小倉信一にまかせ別行動をとったが、小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、十一月六日までに政府軍により鎮圧された。

また、前原・奥平ら幹部七名も東京へ向かうべく船舶に乗船し萩港を出港するも、悪天候の為宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、十一月五日に島根県令・佐藤信寛らに逮捕された。

なお、前原は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は十月二十九日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。

萩の乱(はぎのらん)鎮圧後の十二月三日に萩で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平は即日斬首された。

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by mmcjiyodan | 2013-02-05 05:33 | Comments(0)