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践祚(せんそ/天皇位の継承)

皇室の最も重要な行事に、践祚(せんそ)が在る。

践祚(せんそ)とは、天皇位の継承(天子の位を受け継ぐ事)であり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。

古くは「践�<」と書き、「践」とは位に就く事で、「�<」は天子の位を意味する。

これに続いて位に就いた事を内外に明らかにするを即位と言う。

日本に於いて、第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)以前の践祚(せんそ)は即位と同義だった。

第五十代天皇である平城天皇は、即位に先立ってこの践祚(せんそ)を行い、その後に即位式を行っている。

これ以後、践祚と即位の区別がなされるようになったと思われる。

丁度この践祚(せんそ/天皇位の継承)の形式が始まったのが、桓武天皇の時代と重なった事で、やはり桓武天皇の「新しい時代を切り開こう」と言う強い意志を感じる。

この区別の為、践祚のみで即位式が行われなかった第八十五代・仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)は、「半帝」と呼ばれて太上天皇号も崩御後の諡号(しごう/おくりな)も贈られる事も無かった。

順徳天皇の第一皇子・懐成親王(かねなりしんのう)が、承久の乱に絡んで四歳で践祚(せんそ)するもわずか七十八日間で廃され、即位も認められていなかった。

懐成親王(かねなりしんのう)が即位を認められ「仲恭(ちゅうきょう)」の諡号(しごう/おくりな)が贈られたのは、実に崩御から六百三十六年後の事である。

天皇が崩御(ほうぎょ/亡くなる)した場合の践祚(せんそ)は諒闇践祚(りょうあんせんそ)、譲位の時の践祚は受禅践祚(じゅぜんせんそ)と称し、古くはその儀式に違いがあった。

この違いは譲位の時には前天皇が譲位の宣命を出す「譲位宣命宣制」が践祚(せんそ)の最初の儀式として行われる為である。

但し現憲法下では生前に帝位を譲る「譲位の制度」がない為、崩御(ほうぎょ/亡くなる)時の践祚(せんそ)しか存在しない。

践祚(せんそ)にかかる儀式を「践祚の儀(せんそのぎ)」と言い、先帝崩御後直ちに行われる「剣璽等承継の儀」及び新帝が即位される。

現憲法下では、即位後初めて三権の長(内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官)を引見される「即位後朝見の儀」は共に国事行為とされる。

さらにその後、先帝の諒闇(りょうあん/新帝が喪に服する期間)が明けて行われる御大典「即位の礼」・「大嘗祭(おおにえのまつり/にいなめさい)」へと続く。


践祚(せんそ)し皇位を継承するには「三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)」を先帝から受け継ぐ事が必要とされる。

三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)は八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)で構成されるが、その内八咫鏡(やたのかがみ)は祀られている賢所(かしこどころ)を含む宮中三殿を相続する事によって受継ぐ。

続いて、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)を受継ぐ儀式が「剣璽等承継の儀」となる。

八咫鏡(やたのかがみ)は天の岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)に於いて、岩戸に隠れた天照大神(あまてらすおおみかみ)を誘い出すツール(道具)として使われた。

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、同じく岩戸隠れに際して玉造部(たまつくりべ)の祖神・玉祖命(たまのおやのみこと/豊玉神・とよたまのかみとも言う)が作り、八咫鏡とともに榊の木に掛けられた。

天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ/草薙剣)は、須佐之男命(すさのうのみこと)が出雲・簸川上(ひのかわかみ)で倒した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出て来たとし、その時の名前は都牟刈の太刀(つむかりのたち/偉大な力を持つ太刀)であった。


皇位そのものの証明は三種の神器の所持を以て挙げられる為、南北朝正閏論に於いては神器が無いまま即位した北朝の正当性が否定される根拠の一つとなっている。

南北朝並立時代から室町時代を経由して戦国時代の乱世に、上下関係の身分秩序を侵す武力行為で上位者を倒して地位を乗っ取る事が下克上(げこくじょう)である。

金も力も無い天皇家が、その乱世の下克上(げこくじょう)の時代でさえ践祚(せんそ)し皇位を継承し、生き残ったのは何故だろうか?

時の権力者へ官位官職を授けて権威を持たせる事が天皇の主たる仕事であり、兵を持たない非力な立場でも、その認定者としての存在価値故に天皇家は永く続いた。

その背景に在ったのは、日本が血統至上主義社会だったから、歴史的に稀有な存在として他に変え難い天皇家である。

だからこそ、これ以前の日本史もこれ以後の日本史も、その存在を利用したり蔑(ないがし)ろにしたりしながらも天皇家を中心に廻って行く事になる。

この南北朝並立時代も、これから起こる本能寺の変明治維新も、そこに天皇家が在っての事である。

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by mmcjiyodan | 2013-03-21 11:43 | Comments(0)  

神前祭祀(しんぜんさいし)と大麻(おおぬさ)

神前娼婦(しんぜんしょうふ)】に戻る。

ご存知の様に、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人は陶酔作用を引き起こす。

為に日本では、大麻草は大麻取締法の規制により、大麻の化学成分(THC、CBDなど)は麻薬及び向精神薬取締法の規制 対象に成って居る。

しかし薬剤について知識が深くない時代の古代信仰に於いて、大麻(マリハナ)の不思議な作用(陶酔作用)を神とのコンタクト(神懸(かみがか)り)に利用する考えを持っても当然ではないだろうか?

そして大麻(おおぬさ)が神前祭祀(しんぜんさいし)に用いられたは、その陶酔作用だけでない効力があったからである。

実は、日本神道に於ける大麻(おおぬさ)の信仰には、経験学的な大麻(おおぬさ)の薬効を奇跡として認知していた。

つまり現在では麻薬として禁止薬物扱いの大麻(おおぬさ)で、当時不治の病と思われた病気が劇的に回復し、その現実で神秘的な信仰を集めたからである。

それが現代医療で見直され、日本では禁止薬物だが末期癌には大麻有効で改善の兆候を示す為、米国の於いては医療用大麻の使用は認められている。


この大麻草(マリファナ)は、陶酔作用・鎮痛作用・食欲増進などの薬理作用がある事などから、日本での古くは「大麻 (おおぬさ/神道)」を神道の神札として活用されて来た。

ご推察の通り、大麻草(マリファナ)の陶酔作用は、神殿に於ける祭祀に感性的な補完作用が在った事から、祭祀の「お払いの草」として採用された。

大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。

祭祀は神(かみ/上)をもてなす為の行為と定義つけられている。

それ故に、初期の神事である「神前娼婦(巫女)の性交接待に於いては大麻(おおぬさ)を焼(く)べた陶酔作用は効果的だった」と想像に難くない。

但し現在の祭祀に使う大麻(おおぬさ)は、白木の棒の先に特殊な断ち方をして折った紙・紙垂(しで)または麻の繊維を原料として作った糸・麻苧(あさお)をつけた祓串(はらえぐし)とも言う「はたき様の道具」である。

祭祀の大麻(おおぬさ)は現代では、お祓いを受け目に見えない罪穢(つみけがれ)を祓い、元の清浄な状態に戻す際に用いられる神道の儀礼様式化した道具で、勿論エロチックなものではない。

「おおぬさ」の本来は「ぬさ」の美称で、「ぬさ」とは神への供え物や、罪を祓う為に使用する物の事である。

主として麻(あさ)や木綿(ゆう)、後には布帛や紙が使われていた事から、神事に使う布帛や紙の事を大麻(おおぬさ)と呼ぶようになった。


只何の裏付けも無く祭祀に採用される訳も無く、その大麻(おおぬさ)採用の本質は、明らかに神懸(かみがか)り的効果を演出する陶酔作用だった。

つまり当時は、学問的よりも純粋に陶酔現象を神懸り(かみがか)りと受け止めた所から大麻(おおぬさ)は神をお迎えする神の道具とされた。

この大麻(おおぬさ)は中国を経由して、大量に自然自生する遥かヒマラヤ高地のチベット、ネパール、ブータンと言った山岳仏教の国々からはるばる夜這いの風習や桜の原木と伴に伝わったものである。


宮中の大嘗祭(おおにえのまつり)に於ける祭祀や、昔から夫々(それぞれ)の神社の祭祀でも、大麻(おおぬさ)は使われる。

大嘗祭(おおにえのまつり)は、天皇が即位の礼の後に初めて行う一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚(せんそ)の儀式である。

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性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

この文章は、小論・【遊女(女郎)の歴史】の一部として記載されています。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-03-17 19:27 | Comments(0)  

長州征討(ちょうしゅうせいとう)

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、千八百六十年代に、江戸幕府長州藩(毛利氏)の間で二度に渡って行われた戦いである。

この幕末に到る戦いは、長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。


長州藩は尊皇攘夷公武合体の倒幕思想を掲げて京都の政局に関わっていた。

しかし千八百六十三年(文久三年)に孝明天皇・公武合体派の公家・薩摩藩会津藩による八月十八日の政変により京より追放される。

翌千八百六十四年(元治元年)には、八月十八日の政変で問われた藩主父子の赦免などを求めて長州軍が京へ軍事進攻する禁門の変が起こる。

その尊皇攘夷を掲げて幕府に反抗する長州藩に手を焼いた幕府は、長州征討(第一次)に踏み切った。

朝廷は京都御所へ向かって発砲を行った事を理由に長州藩を朝敵とし、将軍・徳川家茂に対して長州征討(第一次)の勅命を下す。

幕府は前尾張藩主・徳川慶勝を総督、越前藩主・松平茂昭を副総督、薩摩藩士・西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ三十六藩・十五万の兵を集結させて長州へ進軍させる。

一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂して尊皇攘夷派が勢いを失い、保守派(俗論派)が政権を握る。

征長総督参謀の西郷隆盛は、政権を握った長州藩保守派(俗論派)と和解交渉に入る。

西郷隆盛は禁門の変の責任者である三家老(国司親相・益田親施・福原元僴)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、長州藩庁はこれに従い恭順を決定する。

幕府側はこの処置に不満であったが、十二月には総督・徳川慶勝により撤兵令が発せられている。

この撤兵、幕府側の不満も然る事ながら、恭順した側の長州藩内尊皇攘夷派の不満を怨念として燃え上がらせる結果と成った。


千八百六十五年(慶応元年)長州藩では、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して「元治の内乱」と呼ぶをクーデターを起こし保守派を打倒し、長州藩内に倒幕派政権を成立させた。

高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。

また、長防士民合議書を三十六万部印刷し、士農工商隔(へだ)てなく領内各戸に配布する事で領民を一致団結させた。


十四代将軍・徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。

幕府は大目付・永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中・小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。

「四境戦争」とも呼ばれている第二次長州征討の戦争であるが、幕府は当初五方面から長州へ攻め入る計画だった。

しかし萩口攻めを命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否する。

その為萩口から長州を攻める事ができず、四方面から攻める事になり「四境戦争」と呼ぶ事と成った。

千八百六十六年(慶応二年)六月七日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、十三日には芸州口・小瀬川口、十六日には石州口、十七日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。

長州側は、山口の藩政府の高杉晋作ら倒幕派政権の合議制により作戦が指揮された。

第二次の長州征討は第二次幕長戦争とも、また幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の四方から攻めた為、長州側では四境戦争と呼ばれる。

この四境戦争、奇兵隊や長州藩諸隊を編成し新式兵器で武装した長州側に対し、幕府の出兵命令を拒んだ藩も多く、幕府軍側の士気が上がらない。

第二次征討は各攻め込み口で長州側が善戦し、幕府軍側は主要な長州藩内に攻め込めず、事実上幕府軍の全面敗北に終わる。

第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎である事が知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力を失う結果を招いた。

その為、この第二次征討の敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けた事と成る。


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by mmcjiyodan | 2013-03-17 03:52 | Comments(0)  

真言密教立川流と後醍醐天皇の子沢山

文観弘真(もんかんこうしん)僧正真言密教立川流に心酔した後醍醐天皇は、教義に添って多くの子を為すのだが、この「後醍醐天皇の子沢山」は、後の出来事を思うと「歴史の必然だった」のかも知しれない。

後醍醐天皇のお相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで十六人に及ぶ親王(しんのう/皇子)、内親王(ないしんのう/皇女)を設けられている。

正直、一頃の親王(しんのう/皇子)・内親王(ないしんのう/皇女)の誕生時期が重なるほど後醍醐帝の子創りがお盛んだった為、どなたが何番目のお子なのか不明なくらいだった。

南北朝期の初期、中央の畿内では北朝方・足利尊氏が南朝の本拠地・吉野山周辺を残してほぼ制圧を果たし、戦が義良親王(のりながしんのう /後村上天皇・ごむらかみてんのう )を頂いた東北地方と懐良(かねなが)親王を頂いた九州にその主戦場が移って居て居た。

その他に中国・四国を中心に活躍した第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)、越後・越中・信濃で活躍した宗良親王(むねながしんのう)新田義顕(にったよしあき)と共に戦い越前国金ヶ崎に散った尊良親王(たかながしんのう)など、帝の意を受けて戦った多くの皇子がいた。

千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」まで南北朝の抗争が六十年間続いたのは、多くの親王が各地で抵抗したからである。

つまり真言密教立川流に心酔した後醍醐帝の「子沢山」が「歴史の必然だった」と思えるほど、南朝方は「皇統を繋ぐには親王(しんのう)が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

詳しくは、関連小論・【真言密教立川流の解説】に参照下さい。
詳しくは、関連小説・【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-03-12 00:52 | Comments(0)  

満良親王(みつながしんのう)

後醍醐天皇の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)は、千三百三十八年(延元三年/暦応元年九月に征西将軍宮・懐良親王(かねながしんのう)と伴に伊勢大湊から出港して土佐国に入る。

新田綿打入道・金沢左近将監など四国の南朝軍を従えて、千三百四十年(延元五年/暦応三年)正月、四国高知の武将・大高坂松王丸(おおたかさかまつおうまる)の救援の為に潮江山に布陣する。

満良親王(みつながしんのう)の宮方軍勢は、北朝方・細川定禅(ほそかわじょうぜん)の要請を受けた四国北朝軍と交戦するも、遂に敗北して大高坂城は陥落した。

南北朝時代の周防国守護大名・大内弘世(おおうちひろよ)は、南朝方の武将として満良親王(みつながしんのう)を奉じて長門国などへ勢力を拡大、周防国と長門国を領する。

しかし大内弘世(おおうちひろよ)は、その後北朝・足利方に寝返った為満良親王(みつながしんのう)は千三百四十二年(興国三年/康永元年)頃にはほぼ勢力を失って、西国へと落ち延びその後の消息は不詳とされる。

満良親王(みつながしんのう)のその後の消息は不詳だが、遠江国・方広寺を開山したとされる臨済宗の無文元選(むもんげんせん)や、千三百五十一年頃に周防国で盛んに令旨を発給している常陸親王(ひたちのしんのう)が、後身であるとするなど多説がある。


後醍醐帝の第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)と懐良親王(かねながしんのう)の継嗣・良光王(ながみつおう)を混同した記載も散見される。

この誤解の為に、後の懐良流(かねながりゅう)後胤が満良親王(みつながしんのう)の後胤とされるが、大内家の隠し玉は懐良流(かねながりゅう)後胤・良光王(ながみつおう)の方である。

尚、良光王(ながみつおう)を親王と記載するには、懐良親王(かねながしんのう)が幼くして九州制圧に任じ、九州に十九年間在って、その内十一年間も九州を制圧、安定した出先行政府まで置いて居た為、独立した九州王朝だったと見る状況が在ったからである。

懐良親王(かねながしんのう)が九州に渡り時を経ると、中央では既に南朝勢力は衰微していたものの、九州に於ける懐良親王(かねながしんのう)は幾多の戦いを勝ち抜いてさながら九州王国並みの強固な地盤を築いている。

そうした懐良親王(かねながしんのう)の勢力を認めて、明の太祖(洪武帝)がこの頃北九州で活動していた倭寇と呼ばれる海上勢力の鎮圧を要求する国書を懐良(かねなが)に宛て送り来る。

懐良親王(かねながしんのう)は、始めは断るものの、後に「日本国王・良懐(ながかね)」として冊封を受け、明の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。

この名を前後させ「日本国王・良懐」として明の太祖(洪武帝)依りの冊封を受けた事を根拠に、その第一皇子を同様に光良(みつなが)から良光(ながみつ)として親王を名乗った可能性を感じる。

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by mmcjiyodan | 2013-03-11 11:52 | Comments(0)  

宗良親王(むねながしんのう)

後醍醐天皇の皇子で、金ヶ崎の戦いに敗れて散った尊良親王(たかながしんのう)の弟に宗良親王(むねながしんのう)が居る。

千三百三十年(元徳二年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。

父・後醍醐帝の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となる。

しかし足利尊氏(あしかがたかうじ)が反旗を翻し、建武の新政が崩壊して南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良(むねなが)を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。

千三百三十八年(暦応元年/延元三年)には、宗良親王(むねながしんのう)は義良親王(のりながしんのう)と伴に北畠親房(きたばたけちかふさ)に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(福島県伊達郡霊山町)へ渡ろうとする。

しかし宗良親王(むねながしんのう)が乗船した船が、暴風に遭って座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族・井伊道政(いいみちまさ)のもとに身を寄せる。

もう一方の義良親王(のりながしんのう)の船は、その暴風で伊勢に漂着し、船団は離散している。

千三百四十年(暦応三年、興国元年)に足利方の高師泰(こうのもろやす)・仁木義長(にっきよしなが)らに攻められて井伊谷城が落城するも宗良親王(むねながしんのう)は脱出する。

余談だが、この井伊谷の豪族・井伊道政(いいみちまさ)の後裔が徳川家康(とくがわいえやす)の寵愛を得て、彦根藩・井伊家を再興した井伊直政(いいなおまさ)に、そして幕末の大老・井伊直弼(いいなおすけ)へと繋がって行く。


その後、越後国(新潟県)の寺泊(現、新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現、富山県射水市)などに滞在した記録が在る。

千三百四十四年(興国五年/康永三年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族・香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現、長野県大鹿村)に入った。

南北朝時に「信濃宮」と呼ばれた宗良親王(むねながしんのう)を奉じて内ノ倉(現在の御所平)に仮御所を設け、三十年に渡って信濃の地に庇護した伊那郡の豪族・香坂高宗(こうさかたかむね)も南朝の忠臣である。

香坂高宗(こうさかたかむね)は信濃望月氏の一族とされ、信濃望月氏一族の多くが、信濃宮・宗良親王(むねながしんのう)に与して南朝方として戦っている。

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by mmcjiyodan | 2013-03-11 00:15 | Comments(0)  

尊良親王(たかながしんのう)

後醍醐天皇と二条為世の娘・為子との間には二人の親王が居て、兄は尊良親王(たかながしんのう)、弟は宗良親王(むねながしんのう)である。

尊良親王(たかながしんのう)は元弘の乱に父・後醍醐帝と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。

しかし尊良親王(たかながしんのう)は土佐を脱出して翌年には九州に移り、その後、建武の新政が開始されると京都に帰還している。

千三百三十五年(建武二年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞(にったよしさだ)と共に討伐軍を率いるも敗退した。

この時は、義良親王(のりながしんのう)を奉じて奥州平定に任じていた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が奥州平定の軍勢を率いて足利尊氏軍を追って上京する。

上京した顕家(あきいえ)の奥州軍は、新田義貞、楠木正成(くすのきまさしげ)名和長年(なわながとし)の軍勢と合流して入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏(たかうじ)は九州へと落ち延びる。

翌年、九州に落ちた尊氏(たかうじ)が力を盛り返して上洛して来ると、尊良親王(たかながしんのう)は義貞(よしさだ)と共に北陸に逃れた。

しかし千三百三十七年(延元二年/建武五年)三月六日、尊良親王(たかながしんのう)が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る。

尊良親王(たかながしんのう)は義貞(よしさだ)の子・新田義顕(にったよしあき)と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、三月六日に義顕(よしあき)や他の将兵と共に自害した。

自害の寸前、義顕(よしあき)は尊良親王(たかながしんのう)に落ち延びる事を勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げる事はできないと述べて拒絶したと伝えられる。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

詳しくは、関連小論・【真言密教立川流の解説】に参照下さい。
詳しくは、関連小説・【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-03-11 00:14 | Comments(0)  

万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)〔一〕

千八百五十四年(嘉永七年三月三日/西暦三月三十一日)に締結された日米和親条約に続き、千八百五十八年(安政五年六月十九日/西暦七月二十九日)には日米修好通商条約が締結された。

両国の批准書交換は「ワシントンで行う」とされた為、江戸幕府は米国に使節団を派遣する事となった。

米国での批准書交換を提案したのは条約の交渉を行った外国奉行・岩瀬忠震(いわせただなり)であったが、安政の大獄で左遷となり、さらに蟄居をさせられた為、岩瀬は使節には加われなかった。

千八百五十九年(安政六年)九月、遣米使節の正使及び副使に、共に外国奉行及び神奈川奉行を兼帯していた新見正興(しんみまさおき)と村垣範正(むらがきのりまさ)が任命された。

外国奉行としては村垣が先任で在ったが、村垣は知行五百石、対して新見は知行二千石の格上大身で在った為、新見が正使に村垣が副使となった。

目付(監察官)には、秀才の誉れ高い小栗忠順(おぐりただまさ)が選ばれた。

本来目付は不正が無いか等を監察するのが任務であるが、非公式ではあるものの小栗には通貨の交換比率の交渉と言う役目あった。

新見、村垣、小栗の三人を正規の代表とする使節団七十七人は、ジョサイア・タットノール代将が司令官・ジョージ・ピアソン大佐が艦長を務める米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米する事になる。

また、ポーハタン号の事故など万が一に備え、軍艦奉行・水野忠徳(みずのただのり)の建議で、正使一行とは別に護衛を名目に咸臨丸を派遣する事にした。

その咸臨丸の司令官には、軍艦奉行並で在った木村喜毅(きむらよしたけ/芥舟・かいしゅう)を軍艦奉行に昇進させ命じた。

軍艦奉行・木村喜毅は、咸臨丸乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟(かつかいしゅう)をはじめとする海軍伝習所出身者で固める。

また、木村喜毅は通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を選んだ。

土佐国漁師・中浜万次郎は、漁に出て遭難、五日半の漂流後奇跡的に無人島・鳥島に漂着、米国捕鯨船に救助され米国に滞在する。

無学だった万次郎は、米国滞在中にオックスフォード学校やバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んで帰国、英語・造船知識が豊富で鎖国中に在った日本では希少な存在だった。

そしてこの遣米使節には、後の慶応義塾創設者・福沢諭吉(ふくざわゆきち)が軍艦奉行・木村喜毅の従者として乗船している。

この幕府遣米使節・正使一行及び随行船・咸臨丸の乗員から、幕末の動乱期と維新後の新国家建設に力を発揮した人材が育ったのだ。


随行船・咸臨丸の指揮を執る軍艦奉行・木村喜毅は、外洋航行に不慣れな日本人乗組員の航海技術では咸臨丸の太平洋横断に不安ありと考える。

そこで技術アドバイザーとして、難破し横浜に滞在中だった測量船フェニモア・クーパー号の艦長で海軍大尉ブルックを始めとする米国軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせる。

万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)〔二〕】に続く。


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by mmcjiyodan | 2013-03-07 09:52 | Comments(0)  

万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)〔二〕

万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)〔一〕】に戻る。

千八百六十年(安政七年一月十八日/西暦二月九日)、使節団一行は品川沖でポーハタン号に乗船、横浜に四日停泊した後、一月二十二日/西暦二月十三日、サンフランシスコに向け出港した。

途中激しい嵐に遭遇して石炭を使い過ぎ、千八百六十年(安政七年二月十三日/西暦三月四日)補給の為にホノルルに寄港している。

この日付けに関して、実はホノルル到着の二日前に既に日付変更線を通過しているが、一行の多くは日付の調整を行っていない為、日記の日付が実際の日付と一致しない。

使節団一行は、ハワイ滞在中にハワイ王国国王・カメハメハ四世に拝謁している。

千八百六十年(安政七年二月二十六日/西暦三月十七日)ホノルルを出港、三月八日(西暦三月二十八日)にサンフランシスコに到着した。

三月十一日(西暦三月三十一日)には、サンフランシスコ市長主催の歓迎式が行われている。


一方、随行船・咸臨丸も嵐に遭遇し、軍艦奉行・木村喜毅の予想通り外洋航行に不慣れな日本人乗員は使いものにならなかった。

だが、ブルック以下米国人乗組員と操船技術に長けた塩飽水夫のの働きにより、ポーハタン号より十日早い二月二十七日(西暦三月十八日)に咸臨丸はサンフランシスコに到着していた。

ポーハタン号の到着により咸臨丸の随行任務は完了したが、咸臨丸の損傷が酷く修理の必要があった。

修理の為サンフランシスコに留まる間、勝海舟(かつかいしゅう)福沢諭吉(ふくざわゆきち)等咸臨丸の乗員らは現地の人々との交流も行っている。

諭吉は写真館に出掛け、アメリカ人の少女と一緒に写真に写り、また、英和辞典を作成する為に福沢と中浜万次郎(ジョン万次郎)はウェブスターの英中辞典を買い求めている。

咸臨丸はワシントンへ向う正使一行と別れ、千八百六十年(安政七年閏三月十九日)に米国人乗員を雇ってサンフランシスコを出発、ホノルルを経て安政七年五月五日に浦賀へと帰還した。


使節団正使一行の方は、サンフランシスコに九日滞在し、万延元年三月十七日(西暦四月七日)、パナマへ向かって出港した。

千八百六十年(万延元年閏三月四日/西暦四月二十四日)、正使一行はパナマに到着。

しかしこの時、パナマ運河はまだ完成していなかった為、一行はパナマ地峡鉄道が特別に用意した汽車で大西洋側のアスピンウォール(現在のコロン)へと移動した。

汽車は途中小休止をはさみつつも三時間でパナマ地峡を横断し、一行は大西洋に到達し、使節団の到着を待っていたロアノーク号に乗り換えた。

アスペンウォールを千八百六十年(万延元年閏三月六日/西暦四月二十六日)に出港し、ワシントンには閏三月二十五日(西暦五月十五日)に到着した。

翌閏三月二十六日(西暦五月十六日)に、一行はカス国務長官を訪問し、二十七日(西暦五月十七日)にブキャナン大統領に謁見・批准書を渡した。

五日後の四月二日(西暦五月二十二日)批准書は交換され、使節団最大の任務は完了した。

ワシントンには二十五日間滞在するが、その間にスミソニアン博物館、国会議事堂、ワシントン海軍工廠、アメリカ海軍天文台を訪れるなど、休む間もない日々を過ごしている。

ワシントン滞在中の四月十六日(西暦六月五日)には再び大統領に謁見、またこの前後複数回に渡り、小栗忠順(おぐりただまさ)に依る金銀貨幣の交渉が行われている。

米国側は小栗の主張の正当性は理解したものの合意には至らなかったが、小栗はこの交渉の過程でタフ・ネゴシエイターとして日本人の評価を上げた。

使節団一行は四月十九日(西暦六月九日)に、ボルチモア経由でフィラデルフィアに向けてワシントンを出発、翌二十日(日付け変更のため西暦では六月九日)に到着している。

フィラデルフィアには六日間滞在し、造幣局を見学し、日米金貨の分析実験や金銀貨幣の交渉も引き続き行っている。

四月二十七日(西暦六月十六日)午前にフィラデルフィアを出発、同日午後にはニューヨークに到着した。

ニューヨークでは空前と言われる大歓迎を受け、十三日日間滞在し、五月十二日(西暦六月二十九日)、ナイアガラ号で帰国の途についた。

帰国の為ニューヨークを出発した一行は、途中サン・ヴィセンテ島ポルト・グランデ(現カーボベルデ)、ルアンダ(アンゴラ)を経由し、七月十一日(西暦八月二十七日)には喜望峰を通過しインド洋に入った。

バタヴィア(現ジャカルタ)、香港を経由し九月二十七日(西暦十一月九日)に品川沖着、翌日下船し使節団は帰国を果たした。

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by mmcjiyodan | 2013-03-07 09:50 | Comments(0)  

福沢諭吉(ふくざわゆきち)〔一〕

慶應義塾の創設者・福澤諭吉(ふくざわゆきち)は、千八百三十五年(天保五年十二月十二日/西暦一月十日)、摂津国大坂堂島浜(現・大阪府大阪市福島区)に在った豊前国中津藩(現・中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助・於順の次男(末子)として生まれる。

諭吉(ゆきち)は、最初中津藩士のち幕府御家人、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者として幕末から明治を生きた。

福澤諭吉(ふくざわゆきち)は慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。


諭吉(ゆきち)と言う名の由来は、儒学者でもあった父・百助が「上諭条例(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)」を手に入れた夜に諭吉(ゆきち)が生まれた事による。

父・百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に中津藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌や帆足万里に学び、菅茶山・伊藤東涯などの儒教に通じた学者でもあった。

儒学者・百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園(なかむらりつえん)がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。

百助は中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名を成す事もできずにこの世を去った。

その為息子である諭吉(ゆきち)は、後に福翁自伝で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。


千八百三十六年(天保六年)、父・百助の死去により中村栗園(なかむらりつえん)に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現・大分県中津市)で過ごす。

諭吉(ゆきち)は、親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うと言う価値観はもっていなかった。

お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、諭吉(ゆきち)は悪童まがいの溌剌とした子供だったようだ

しかし諭吉(ゆきち)は、刀剣細工や畳の表替え、障子の張替えを熟(こ)なすなど内職に長けた子供であった。

その諭吉(ゆきち)は、五歳頃から藩士・服部五郎兵衛に漢学と一刀流の手解きを受けはじめる。

初め読書嫌いであったが、十四~五歳になってから近所で自分だけ勉強をしないと言うのも世間体が悪いと言う事で、諭吉(ゆきち)は勉学を始める。

しかし始めてみると直(す)ぐに実力をつけ、以後諭吉(ゆきち)は様々な漢書を読み漁り、漢籍を修める。

八歳になると、諭吉(ゆきち)は兄・三之助も師事した野本真城、白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。


諭吉(ゆきち)は「論語」、「孟子」、「詩経」、「書経」は勿論、「史記」、「左伝」、「老子」、「荘子」に及び、特に「左伝」は得意で十五巻を十一度も読み返して面白いところは暗記した。

この頃に諭吉(ゆきち)は、先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まる様になっていた。

また諭吉(ゆきち)は、学問の傍ら立身新流の居合術を習得した。

諭吉(ゆきち)の学問的・思想的源流に当たるのは、亀井南冥や荻生徂徠であり、諭吉(ゆきち)の師・白石照山は陽明学や朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。

従って、諭吉(ゆきち)の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまで遡る事が出来る。
のちに蘭学の道を経て思想家となる過程の中にも、この学統が原点にある。


幕末の時勢の中、千八百五十八年(安政五年)には無役の御家人(旗本)で石高わずか四十石の勝安房守(号は海舟)らが登用される。

同じ頃、江戸居留守役・岡見清熙の差出で諭吉(ゆきち)にも中津藩から江戸出府を命じられる。

諭吉(ゆきち)は江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となる為に、吉川正雄(岡本周吉、後に古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。

諭吉(ゆきち)達師弟は、築地鉄砲洲に在った奥平家の藩邸(中屋敷)に住み込み、そこを蘭学塾「一小家塾(いちしょうかじゅく)」として蘭学を教えた。

まもなく足立寛、村田蔵六(むらたぞうろく/後の大村益次郎)の「鳩居堂」から移って来た佐倉藩の沼崎巳之介・沼崎済介が「一小家塾」に入塾する。

この蘭学塾「一小家塾(いちしょうかじゅく)」が後の学校法人・慶應義塾の基礎となった為、この年が慶應義塾創立の年とされている。

福沢諭吉(ふくざわゆきち)〔二〕】に続く。

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