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下克上(げこくじょう)

下の者が上の者に打ち勝って権力を手中にする乱世の社会風潮を、下克上(げこくじょう)と言う。

元々下克上(げこくじょう)は六世紀頃(春秋時代)の中国・隋の書物に見られた言葉で、群雄が台頭し国土を割拠、勢力拡大を試みた時代である。

中国の乱世・春秋時代を通じて諸侯が行なった地域開発は文物の発達と交流を伴い、都市国家群が領域国家へ移行する原動力にもなった。

士大夫(したいふ)は、中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者で有力族長層と共に、名門意識を高めて後世貴族と呼ばれる階級に変わって行く。

産業の発達を主導した士大夫(したいふ)勢力の抬頭は春秋時代を象徴する下剋上の風潮を醸成し、孔子の提唱した礼制も、身分秩序の崩壊に対する反動=復古主義を根幹に据えていた。

春秋初期には、中国・隋は中国・楚の武王をしばしば撃退し、中国・楚の兄王子・杜敖に圧迫された弟王子・惲(成王)を庇護して即位させるなど侮りがたい国力を有し居た。

つまり中国・隋は、楚の兄王子・杜敖が王位に就くところに介入し、下克上(げこくじょう)に依って弟王子・惲を成王として即位させている。

中国・隋は、中国・呉に郢都(寿春城)を逐われた楚の昭王にも頼られたが、やがてその後は楚の衛星国の如くになっていた。

日本では、この隋書に習い、南北朝時代から室町時代を経由して戦国時代の乱世に、上下関係の身分秩序を侵す武力行為で、上位者を倒して地位を乗っ取る事が下克上(げこくじょう)とした。

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by mmcjiyodan | 2013-04-30 18:24 | Comments(0)  

三官推任(さんかんすいにん)

尾張時代の織田信長は、受領名・上総介(かずさのすけ)を自称していたものの、直接朝廷より任官を受ける事はなかった。

これは朝廷に献金を行って受領名・備後守や三河守の官を得た父・織田信秀とは対照的である。
今川義元を破って後の信長は、受領名・尾張守を自称している。

足利義昭を奉じて上洛し、義昭を十五代将軍に据えた後も、信長は弾正少忠や弾正大弼と言った比較的低い官位に甘んじている。

弾正(だんじょう)は律令制下の八省の一つで、監察・警察・裁判機構の長官を意味する官職である。

本音で言えば実力主義の信長で、官位には余り執着しては居なかった。
しかし将軍・足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇する。

千五百七十四年(天正二年)に参議に任官して以降わずか三年で、信長は従二位右大臣に昇進している。

これは武家としては源実朝以来の右大臣任官である。

また信長以前にこれより上位の官職に生前任官した武家は、平清盛(太政大臣)足利義満(太政大臣)足利義教(左大臣)足利義政(左大臣)の四人しかいなかった。

しかし信長は千五百七十八年(天正六年)四月に右大臣兼右近衛大将を辞した後は官職に就かず、以後四年の長きに渡って散位のままだった。

この後二度に渡って信長の任官が問題となった。

先ずは、千五百八十年(天正九年)三月、朝廷より左大臣就任を求められるが、信長は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の譲位(退位)を交換条件と返答するものの、結局、実現はなされなかった。

千五百八十一年(天正十年)四月から五月と言う時期には、二度目の左大臣就任を求められる。

この二度目は、その直前の三月に信長が武田氏を滅ぼし、また北条氏(後北条)とも連携を強めていた事から、朝廷では当時これをもって信長が関東を平定したものと解釈していたからである。

五月には朝廷・武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝の邸を訪れ、ふたりの間で信長の任官について話し合いが持たれた。

堂上公家・勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)は、この信長の任官の件についての話し合いを日記に書き記している。

この話し合いのなかで、征夷大将軍・太政大臣・関白の内どれかに信長が任官する三職推任(さんかんすいにん)が申し出された。

この三職推任(さんかんすいにん)と言う選択任官方式を申し出たのが朝廷側だったのか信長側だったのかをめぐっては、後世ふたつの説が対立する。

これが三職推任(さんかんすいにん)問題で、信長が将来的に朝廷をどのように扱おうと考えていたのかを考察する考える上での貴重な資料と成り得る。

信長の本意を解く重大な問題だが、勿論信長が朝廷に任官する意志が在ったかどうかも含め、信長からの正式な回答が判明する前に本能寺の変が起こった。

その本能寺の変の為、信長自身がどのような政権構想を持っていたのかは永遠の謎となってしまった。

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by mmcjiyodan | 2013-04-17 22:44 | Comments(0)  

人類の生殖行動(本能的生殖行動と倫理規範の矛盾)

ここで原生人類の本能的生殖行動と現代の倫理規範の矛盾をご紹介して置く。

現代日本人の倫理感覚では、「夜這い婚」の一妻多夫形態など到底理解できないかも知れないが、実は「種の保存」を優先する自然界では人間の生殖倫理の一夫一婦制の方が異例である。

いささかタブー染みた情報であるが、一番人間に近い類人猿・チンパンジーなどの生殖行動を見ても判る通り、雄(オス)達は一頭の発情期の雌(メス)に順番に群がり、雌(メス)は一日に何頭もの雄(オス)と交尾する。

その理由は「確実な種の保存の為」で、雌(メス)が依り強くて優秀な精子に回(めぐ)り逢う目的で「自然がそうした生殖行動を選択させていた」と言う立派な理由が在るからだ。

これは「種の保存」のメカニズムが主体の自然な生殖行動であるから、雄(オス)雌(メス)の生殖機能には目的に添った違いが在る。

当然、雄(オス)の方は次と交代させる為に肉体的に一度の射精で終わるが、雌(メス)の方は連続交尾を受け入れられる構造をしている。

つまり生物としての原生人類は、「確実な種の保存の為」に 本能的に「虚弱精子劣性遺伝」や「XY染色体の劣勢遺伝」などを知っていた事になる。

そうした人類発達の歴史の中で培(つちか)われた原始の生殖行動の記憶としての残滓(ざんし/残りかす)が、時代と伴に変化しながら辿り着いたのが「夜這い婚」だった。

言うなれば、元々の人間の原始生殖行動は本来それに近い理由で「群れ婚」に拠る一妻多夫形態が自然な遠い記憶で、それが「夜這い婚」のルーツである。

つまり「夜這い婚」や「歌垣(うたがき)」、「暗闇祭り」などは、「種の保存」の為に知恵を絞った安全装置だった。

その結果、女性が一家の家長で家の財産を引き継ぎ、男性が女性の家に通って来る「妻問い婚」が生まれ、「呼ばう」が「夜這い」となった。

しかし現代日本人の倫理感覚は一夫一婦制で、血が濃くなる「虚弱精子劣性遺伝」や晩婚に拠る「卵子の老化問題」は人権問題も絡む為に余り考慮しないから、子に恵まれない家庭も増えている。

これらの生殖相手の選択は、自然界に於いて自然淘汰されるべき劣勢DNA因子や劣勢XY染色体、晩婚に拠る卵子の老化を、人間だけの別の価値観で「種の保存」としては間違った選択をして居るからである。

そして一夫一婦制の縛りが在りながら、「愛」と言う名の「好き嫌い」や、金や地位と言う価値観、昔は結婚と出産の適齢期が十五歳~二十歳までだったものが今は諸般の事情で晩婚化しているなど、自然で「確実な種の保存」とは程遠い現状がある。

まぁ、欲の為に自然を破壊して此処まで文明を発達させた人類だから、現在の自然に反した生き方で「種としての滅びの道」を歩む事が因果応報かも知れない。

これはあくまでも「人類も生物」としての自然の法則だけで捉えた見解であるが、如何なる社会性を鑑みても「滅亡してから気が付いた」では遅いのではないか?

◆遺伝子関係の詳しくは・小論【ホモサピエンス(知性人)の「種の保存と遺伝子」】を参照下さい。

類人猿・ボノボ こそ、争いを回避する知恵の原点】

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2013-04-13 01:27 | Comments(0)  

佐久間象山(さくましょうざん)

佐久間象山(さくましょうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家で、門弟に明治維新の英雄を多く排出した松下村塾の塾長・吉田松陰(よしだしょういん)がいる。

千八百十一年(文化八年)二月二十八日、信濃松代藩下級藩士・佐久間一学国善の長男として信濃埴科郡松代字浦町で生まれる。

佐久間家は五両五人扶持という微禄であったが、父・国善は藩主の側右筆を務め、卜伝流剣術の達人で藩からは重用されていた。

象山(しょうざん)は、父・国善が五十歳、母は国善の妾・まん(足軽の荒井六兵衛)が三十一歳の時に生まれた男児であった。

養子続きの佐久間家では久しぶりの男児だった為、父・国善は大変喜び、将来に大きな期待をかけるつもりで詩経の「東に啓明あり」から選んで幼名を啓之助と名づけた。


象山の烏帽子親(えぼしおや)は窪田岩右衛門馬陵恒久と言う郷里・松代の大先輩で藩儒を務め、象山の才能を高く評価した人物である。

ただし象山の性格に、人を見下し勝手な事をする驕慢(きょうまん)な所があったのを憂い、窪田恒久(くぼたつねひさ)は死ぬまで象山の行く末を心配した。

若き象山(しょうざん)は、経学と数学を学び、特に数学に興味を示し、熱心に学んだ。

若年期に数学の素養を深く身に着けた事は、この後の象山(しょうざん)の洋学吸収に大きく寄与する。


佐久間家の祖は戦国時代の北信濃葛尾城主で武田信玄を二度に渡って破った名将として名高い村上義清に八千石で仕えた佐久間大学という。

大学の孫である与左衛門国政の時に松代藩の連枝(分家)である上野沼田藩三万石の藩主である真田信政の下で馬役を務めて二百五十石を食(は)んだ。

その後、信政が信濃上田藩の初代藩主・真田信之の世継として松代藩を継いだ為、佐久間国政も松代に移ったが間もなく家は絶えた。

しかし岩間二郎左衛門清村の次男である岩間三左衛門国品が名跡を継いで佐久間と称して真田信弘に仕えて百石を食(は)み、 この国品が佐久間家中興の祖とされている。


象山(しょうざん)は十四歳で藩儒の竹内錫命に入門して詩文を学び、十六歳の時に美濃国岩村藩儒学者・佐藤一斎の門下生であった藩重役・鎌原桐山(かんばらとうざん)に入門して経書を学び、鎌原桐山は最も象山に影響を与えた。

また同じ十六歳の時に藩士の町田源左衛門正喜に会田流の和算を学び、象山(しょうざん)は数学を「詳証術」と称したという。

千八百二十八年(文政十一年)、父・国善が高齢を理由に家督を譲った為、象山(しょうざん)は十七歳で佐久間家の家督を継ぐ。

千八百三十一年( 天保二年)三月、象山(しょうざん)二十歳の時に藩主の真田幸貫(さなだゆきつら)の世子である真田幸良(さなだゆきよし)の近習・教育係に抜擢されるも、高齢の父に対して孝養ができないとして五月に辞任した。

藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)は象山(しょうざん)の性格を癇が強いとしつつも才能は高く評価していた。

二十歳の時、象山は漢文百篇を作って桐山に提出すると、師・鎌原桐山(かんばらとうざん)ばかりか藩主・幸貫(ゆきつら)からも学業勉励であるとして評価されて銀三枚を下賜されている。

千八百三十二年(天保三年)四月十一日、藩老に対して不遜な態度があったとして象山(しょうざん)は藩主・幸貫(ゆきつら)から閉門を命じられた。

これは武芸大会で象山が国善の門弟名簿を藩に提出した所、序列に誤りがあるとして改めるように注意を受けたにも関わらず、象山(しょうざん)は絶対に誤り無しとして自説を曲げなかった。

その為、象山(しょうざん)は「長者に対して不遜である」として藩主・幸貫(ゆきつら)の逆鱗に触れ閉門を命じられる。

この閉門の間に父・国善の病が重くなった為、藩主・幸貫(ゆきつら)は八月十七日付で象山(しょうざん)を赦免するも国善はその五日後に死去している。

千八百三十三年(天保四年)十一月、象山(しょうざん)は、江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎に詩文・朱子学を学び、山田方谷と共に「二傑」と称されるに至る。

この頃の象山は、西洋に対する認識は芽生えつつあったものの、基本的には「伝統的な知識人」であった。

従って象山(しょうざん)は、千八百三十九年(天保十年)の二十七歳の時に江戸で私塾「象山書院」を開いているが、ここで象山が教えていたのは儒学だった。

ところが千八百四十二年(天保十三年)、象山(しょうざん)が仕える松代藩主・真田幸貫(さなだゆきつら)が幕府老中兼任で海防掛に任ぜられて以降、状況が一変する。

藩主・幸貫(ゆきつら)から洋学研究の担当者として白羽の矢を立てられ、象山(しょうざん)は沿岸防備の第一人者・江川英龍(えがわひでたつ/太郎左衛門)の下で兵学を学ぶ事になる。

象山(しょうざん)は、藩命に拠り江川英龍(えがわひでたつ)に洋式砲術を学んだ。

江川英龍(えがわひでたつ/太郎左衛門)は、伊豆韮山代官を務めた幕臣で近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、反射炉を築いて日本に西洋砲術を普及させた人物である。

象山(しょうざん)は西洋兵学の素養を身につける事に成功し、藩主・幸貫(ゆきつら)に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。

また象山(しょうざん)は、江川英龍(えがわひでたつ)や高島流砲術家兼洋式兵学者・高島秋帆(たかしましゅうはん)の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。

以降、象山(しょうざん)は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになり、千八百五十三年(嘉永六年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。

しかし千八百五十四年(嘉永七年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。

象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は千八百六十二年(文久二年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。

千八百六十四年(元治元年)、象山(しょうざん)は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。

しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山(しょうざん)には危険な状況であった。

千八百六十四年(元治元年)七月十一日、供も連れなかった象山(しょうざん)は三条木屋町で因州藩士・前田伊右衛門、熊本藩士・河上彦斎(かわかみげんさい)等の尊皇攘夷過激派の手にかかり暗殺される。

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by mmcjiyodan | 2013-04-08 18:36 | Comments(0)  

大久保一翁(おおくぼいちおう・忠寛/ただひろ)

勝海舟(かつかいしゅう)江戸城無血開城を為し得たには、幕臣・大久保一翁(おおくぼいちおう・忠寛/ただひろ)の後押しが在っての事である。

千八百十七年(文化十四年)十一月二十九日、一翁(いちおう)は旗本(五百石取り)の大久保忠尚の子として生まれ、幼名は市三郎である。

大久保一翁(おおくぼいちおう)は千八百六十五年(慶応元年)に剃髪して隠居した後の名で、隠居前は大久保忠寛(おおくぼただひろ)を名乗って居た。


大久保忠寛(おおくぼただひろ)は第十一代将軍・徳川家斉の小姓を勤め、千八百四十二年(天保十三年)の父・忠尚の死去に伴いその年の年末に家督を相続して当主となる。

忠寛(ただひろ)は老中の阿部正弘(あべまさひろ)に早くから見出されて千八百五十四年(安政元年)に目付・海防掛に任じられた。

その後も忠寛(ただひろ)は、幕府に意見書を提出した勝海舟を訪問してその能力を見出し、阿部正弘に推挙して登用させるなどしている。

千八百五十六年(安政三年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた。

この頃、幕閣では第十三代将軍・徳川家定の後継を巡る将軍継嗣問題で、一橋派と南紀派の壮絶な対立が在った。

千八百五十七年(安政三年)、一橋派の老中・阿部正弘が没し南紀派の井伊直弼(いいなおすけ)が大老となる。

大老となった井伊直弼(いいなおすけ)が始めた一橋派への弾圧である安政の大獄で、忠寛(ただひろ)は直弼から京都における志士の逮捕を命じられる。

しかし忠寛(ただひろ)は安政の大獄には否定的な考えであり、直弼(なおすけ)の厳しすぎる処分に反対した為、直弼(なおすけ)に疎まれる様に成って行く。

そして忠寛(ただひろ)の部下に質の悪い者がおり、志士の逮捕で横暴を振るっているのを知って激怒した忠寛(ただひろ)は、この部下を厳重に処罰する。

これを直弼(なおすけ)に、「忠寛(ただひろ)が志士の逮捕を怠っている」と言う理由にされて、奉行職を罷免させられる。

千八百六十年(安政七年)、桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で直弼(なおすけ)が没すると、翌千八百六十一年(文久元年)忠寛(ただひろ)は幕府より復帰を許されて再び幕政に参与する。

復帰した忠寛(ただひろ)は、外国奉行・大目付・御側御用取次などの要職を歴任する。
そして忠寛(ただひろ)は、政事総裁職となった福井藩主の松平慶永(春嶽)らとも交友し、第十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)にも仕える。

この時忠寛(ただひろ)は幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還する事を提案している。

千八百六十五年(慶応元年)、大久保忠寛(おおくぼただひろ)は隠居して一翁(いちおう)を名乗るも幕府要職に止まる。

千八百六十六年(慶応二年・年末)第十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が病没する。

家茂(いえもち)の病没後、第十五代将軍となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)にも、一翁(いちおう)は大政奉還と雄藩を中心とした諸大名議会政治や公武合体を進言している。

つまり後の坂本龍馬(さかもとりょうま)の「大政奉還や船中八策」は、「一翁(いちおう)の教えを実践した」と言う有力な説が在るのだ。

千八百六十八年(慶応四年)の鳥羽・伏見の戦い後、徳川家の若年寄・会計総裁に選出された。

その後、新政府軍が江戸に向かって進撃してくると、一翁(いちおう)は勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力する。

一翁(いちおう)は、駿河に移封となった徳川家第十六代当主・家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当する。

廃藩置県後は新政府に出仕、明治政府では東京府の第五代知事、並びに政府の議会政治樹立などに協力している。

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by mmcjiyodan | 2013-04-03 13:28 | Comments(0)  

高須四兄弟(たかすよんきょうだい)と美濃高須藩(たかすはん)

幕末に京都守護職として徳川宗家を支えた合津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は、美濃高須藩(たかすはん)から養子に入った藩主である。

美濃高須藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩で、尾張徳川家御連枝である事から江戸中期以降は尾張藩支藩である。

立藩した藩祖は、御三家尾張藩第二代藩主・徳川光友の二男・松平義行で、藩は小さいながらも神君・家康の血が流れていた。


高須藩(三万石)の第十代藩主・松平義建(まつだいらよしたつ)には子が多く、息子達は、高須四兄弟(たかすよんきょうだい)を始めとして多くが幕末期に活躍した。

義建次男は尾張藩第十四代藩主・徳川慶勝となり、三男は石見浜田藩主・松平武成となり、五男は高須藩第十一代藩主・松平義比となった後に尾張藩第十五代藩主・徳川茂徳、さらに後には御三卿・一橋家当主・一橋茂栄となった。

七男が幕末に活躍した会津藩主・松平容保(まつだいらかたもりで、九男が桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)となり、十男・義勇は高須藩第十三代藩主となっている。

つまり義建の子息達・高須四兄弟(たかすよんきょうだい)は、尾張藩藩主・徳川慶勝、一橋家当主・一橋茂栄、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり/京都守護職)、九男が桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき/京都所司代)と、夫々(それぞれ)幕末から明治維新にかけてそれぞれ大きな役割を担い、歴史に名前を残している。


松平容保(まつだいらかたもり)は、保科正之(ほしなまさゆき)を藩祖とする会津松平藩九代目の藩主である。

二代将軍・秀忠の庶子とされ、信州高遠の小大名で終わる筈だった正之(まさゆき)は三代将軍・家光(保科の異腹兄弟)の引き立で家康死後に徐々に出世を始め、最上山形城主を経て合津松平藩の初代に落ち着く。

会津松平藩の初代となった保科正之(ほしなまさゆき)は二十三万石に加え南山御蔵入領五万石も預かり実質二十八万石で格式御三家の水戸家を石高で上回っていた。

その恩義に報いる為に、会津松平藩家訓・「会津家訓十五箇条の第 一条・会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」を定め、松平容保(まつだいらかたもり)はその家訓を重んじて困難と反対も多い藩内を抑えて「京都守護職を引き受けた」と言われる。

松平容保(まつだいらかたもり】に飛ぶ。
松平定敬(まつだいらさだあき)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2013-04-01 12:40 | Comments(0)  

松平定敬(まつだいらさだあき)

京都守護職・松平容保(まつだいらかたもり/会津藩主)とタックを組んで京都に於ける幕府方の主力となったのが京都所司代・松平定敬(まつだいらさだあき/桑名藩主)である。

桑名藩第四代藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)はいわゆる高須四兄弟の末弟で、兄に尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主・一橋茂栄、会津藩主・松平容保などがいる

松平定敬(まつだいらさだあき)は、美濃高須藩主(たかすはんしゆ)・松平義建(まつだいらよしたつ)の九男から桑名藩・松平久松氏(まつだいらひさまつうじ)に養子に入った人物で、松平容保(まつだいらかたもり)とは兄妹である。

徳川家康の母・於大の方の孫(家康の異父弟・松平定勝の三男)に当たる初代・松平定綱(まつだいらさだつな)の久松系松平家としては、定敬(さだあき)は十三代目に当たる。


大政奉還の後、鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、定敬(さだあき)は軍船・「開陽」で逃げ帰った徳川慶喜に従い、江戸の霊巌寺(江東区)にて謹慎した。

江戸城では小栗忠順(おぐりただまさ)ら抗戦派と大久保一翁と勝海舟(かつかいしゅう)ら恭順派が争い、恭順派により恭順工作が進められていた。

桑名藩は会津と並んで新政府側からは敵視されており、桑名の国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から先代当主の遺児・万之助(後の定教)を担いで恭順する事を家老達が決めていた。

そうした国許の情勢の為、徹底抗戦派と見られていた定敬(さだあき)の桑名帰国は困難な状況となり、桑名藩の分領である越後国柏崎へ赴った。

その後は柏崎から会津若松、仙台、箱館へ渡るなどしたが、千八百六十九年(明治二年)五月十八日には横浜へ戻り新政府に降伏した。

三年後の千八百七十二年(明治五年)一月六日に定敬(さだあき)は赦免され、その後は千八百七十六年(明治九年)十一月十一日に従五位に叙位されるを皮切りに、日光東照宮宮司就任するなどして最終従二位に昇叙している。

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by mmcjiyodan | 2013-04-01 12:39 | Comments(0)