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千姫(せんひめ/天樹院)

江戸末期まで、氏族の女性は嫁いでも実家の姓を名乗った。

千(せん)は徳川秀忠浅井江(あざいごう)の娘であるから、正式な名乗りは徳川千(とくがわせん)である。

大名家の姫であるから通称が千姫(せんひめ)である。


千五百九十七年(慶長二年)四月十一日、千姫(せんひめ)は徳川秀忠と正室・浅井江(あざいごう)の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。

浅井江(あざいごう)は、徳川秀忠への輿入れが再々婚に当たり、つまり結婚は三度目になる。

千六百三年(慶長八年)に千姫(せんひめ)は七歳で豊臣秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局(異母姉/浅井長政の娘)と伴に大坂城に入る。

千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により千姫(せんひめ)は落城する大坂城から救出される。

その後、秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に千姫(せんひめ)は彼女を自らの養女にして命を助ける。

千六百十六年(元和二年)、千姫(せんひめ)は徳川家康重臣・桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚する。

この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫(せんひめ)を強奪する計画を立てている事が発覚する。

直盛直盛は自害(もしくは家臣により殺害説在り)、坂崎氏は改易処分となる「千姫事件」を引き起こす。

千六百十六年(元和二年)九月二十六日に、千姫(せんひめ)は桑名城に着いた。

この時千姫(せんひめ)は、父・徳川秀忠から「十万石の化粧料を与えられた」と伝えられる。

翌年の千六百十七年(元和三年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には八月二十八日に桑名を発って姫路城に移って、千姫(せんひめ)は播磨姫君と呼ばれるようになる。

翌千六百十八年(元和四年)には長女・勝姫(後に池田光政正室、池田綱政生母)、千六百十九年(元和五年)には長男・幸千代が生まれた。

この千姫(せんひめ)の結婚生活、順調に行くかと想われたが、千六百二十一年(元和七年)に本多幸千代が三歳で没した。

続いて、千六百二十六年(寛永三年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続いた。

この不幸の連鎖に、前夫・豊臣秀頼の呪いを噂されるなどして千姫(せんひめ)は本多家を娘・勝姫と共に出る事となった。

千姫(せんひめ)は江戸城に入り、出家して天樹院と号し、娘・本多勝(ほんだかつ)とニ人で竹橋の邸で暮らした。

千六百二十八年(寛永五年)に勝姫(本多勝)が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(せんひめ)は一人暮らしとなる。

千姫(せんひめ)は池田家に嫁いだ一人娘の事を心配し、「天樹院書状」を送っている。

千六百三十二年(寛永九年)父・秀忠が薨去する。

千六百三十九年(寛永十六年)光政と勝姫の嫡男・興輝(おきてる)、後の池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。

千六百四十四年(正保元年)、千姫(せんひめ)は迷信を避ける為に江戸城から移った弟・徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重(つなしげ)と暮らすようになる。

この事で千姫(せんひめ)は、大奥で大きな権力を持つようになったとされる。


紛らわしい放しだが、秀忠の三女に千姫の娘・本多勝(ほんだかつ)と同じ名前の実妹・勝姫(徳川勝)が居る。

その妹・勝姫(徳川勝)が従兄で越前国福井藩主の松平忠直(伯父・結城秀康の嫡男)と結婚していた。

その後勝姫(徳川勝)の夫・松平忠直は乱行を理由に廃されて豊後大分に配流される。

松平忠直配流の翌千六百二十四年(寛永元年)、忠直嫡男・松平光長は越後高田藩二十六万石弱に移される。

入れ替わりに英勝院の縁によって越後高田藩で別家二十六万石弱を与えられていた忠直弟(秀康の次男)の松平忠昌が五十万石で後釜に移封され、福井藩の主な家臣、藩領を継承する。

千六百五十五年(寛文五年)この忠直弟・松平忠昌の子で福井藩主・松平光通と越後高田藩・松平光長の娘・国(国姫)との間に婚姻の話が持ち上がる。

天樹院・千姫(せんひめ)はこの婚姻に関して、嫁側である越後高田藩の勝姫(越後高田藩主・松平光長の母)に依頼されて、幕府に対して介入を行っている。

千六百五十七年(明暦三年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。

天樹院・千姫(せんひめ)は千六百六十六年(寛文六年)、七十歳で江戸に死去した。


千姫事件(せんひめじけん)】に続く。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2013-06-27 21:25 | Comments(1)  

本多忠政(ほんだただまさ)

本多忠政(ほんだただまさ)は、千五百七十五年(天正三年)、徳川家康の重臣・本多忠勝(後に桑名藩の初代藩主)の継嗣(第三子)として生まれる。

千五百九十年(天正十八年)の小田原平定に、忠政(ただまさ)は十五歳で初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てる。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、忠政(ただまさ)は徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第二次上田合戦にも従軍する。

千六百九年(慶長十四年)六月に父・忠勝が隠居した為、忠政(ただまさ)は家督を相続して桑名藩の第二代藩主となる。

忠政(ただまさ)は大坂の陣にも参加し、冬の陣では千六百十四年(慶長十九年)十月十一日に徳川軍の先鋒を命じられる。

忠政(ただまさ)は大坂城包囲に於いては北側の天神橋方面に陣取っていた。

なお、冬の陣が終わって家康が帰途に着く際、当時の忠政(ただまさ)の所領・桑名で一泊している。

また、冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、忠政(ただまさ)は埋め立て奉行を松平忠明達と担当している。

千六百十五年(慶長二十年)の夏の陣では、忠政(ただまさ)は京都御所の警備を勤め、その後に家康の軍勢と南下して五月七日に豊臣方の薄田兼相や毛利勝永らと戦った。

忠政(ただまさ)は薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている。

この合戦で忠政(ただまさ)は、二百九十二の敵首級を挙げたと伝わっている。

大坂の陣の戦後には、それらの功績を賞された(ただまさ)は西国の押さえとして、千六百十七年(元和三年)七月十四日に姫路城主となって播磨十五万石を領した。

忠政(ただまさ)の正室は、非業の死を遂げた家康の長男・松平信康の次女・熊姫である。

また、忠政(ただまさ)の嫡男・忠刻(ただとき)の妻は、豊臣秀頼の妻だった千姫(せんひめ/天樹院)である。

しかし、千六百二十六年(寛永三年)に忠刻(ただとき)が早世した為、忠政(ただまさ)が千六百三十一年(寛永十六年)八月十日に姫路で五十七歳で死去する。

本多の家督は、忠政(ただまさ)次男の政朝(まさとも)が継いだ。

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by mmcjiyodan | 2013-06-24 02:09 | Comments(0)  

板倉勝重(いたくらかつしげ)

板倉氏(いたくらし)は、源氏流足利泰氏の次男・渋川義顕(しぶかわよしあき)を源に辿る源氏の後裔である。

鎌倉幕府御家人・渋川義顕(しぶかわよしあき)は当初は足利庄の板倉の地を領して本貫とし、板倉二郎と称した。

板倉二郎(義顕)は、のち上野国渋川荘を有して渋川氏の祖となっているが、その後裔と伝えるのが江戸期の板倉氏である。


板倉勝重(いたくらかつしげ)は、千五百四十五年(天文十四年)板倉好重の次男として三河国額田郡小美村(現在の愛知県岡崎市)に生まれる。

勝重(かつしげ)の才を恐れた兄・板倉忠重の嫉妬により幼少時に出家し、香誉宗哲(こうよそうてつ)と称して浄土真宗の永安寺の僧となった。

ところが千五百六十一年(永禄四年)に父の好重が深溝城主・深溝松平(ふこうずまつだいら)家・松平好景に仕えて善明提の戦いで戦死する。

さらに家督を継いだ弟の定重(さだしげ)も千五百八十一年(天正九年)に高天神城の戦いで戦死した為、徳川家康の命で家督を相続する。

その後は主に施政面に従事し、千五百八十六年(天正十四年)には家康が浜松より駿府へ移った際、勝重(かつしげ)は家康より駿府町奉行を拝命する。

千五百九十年(天正十八年)に家康が関東へ移封されると、勝重(かつしげ)は武蔵国新座郡・豊島郡で千石を給され、関東代官、江戸町奉行となる。

関ヶ原の戦い後の千六百一年(慶長六年)、勝重(かつしげ)は三河国三郡に六千六百石を与えられる

この加増と伴に、勝重(かつしげ)は京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視に当たった。

なお、勝重(かつしげ)が二代将軍・秀忠の継嗣・徳川家光(後の三代)の乳母を公募し、斉藤福(春日局)が公募に参加したと言う説があるが、真偽の程は定かで無い。

千六百三年(慶長八年)、徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開いた際に、勝重(かつしげ)は従五位下・伊賀守に叙任される。

千六百九年(慶長十四年)には近江・山城に領地を加増され一万六千六百石余を知行し勝重(かつしげ)は大名に列している。

同年の猪熊事件では、勝重(かつしげ)は京都所司代として後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。

千六百十四年(慶長十九年)からの大坂の陣の発端となった方広寺鐘銘事件では、勝重(かつしげ)は本多正純らと共に強硬策を上奏する。

大坂の陣後に江戸幕府が禁中並公家諸法度を施行すると、勝重(かつしげ)は朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に当たった。

勝重(かつしげ)千六百二十年(元和六年)、長男・重宗に京都所司代の職を譲り、四年後の千六百二十四年(寛永元年)に七十九歳で死去した。

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by mmcjiyodan | 2013-06-20 02:18 | Comments(0)  

片桐且元(かたぎりかつもと)〔一〕

片桐且元(かたぎりかつもと)は、近江国浅井郡須賀谷(滋賀県長浜市須賀谷)の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男として生まれる。

信濃源氏の名族・片桐氏は伊那在郷の鎌倉御家人であったが、本流が片桐郷に残る一方、支流が承久年間以降に美濃や近江に進出する。

この近江に進出した片桐氏が戦国大名化した浅井氏に仕えるように成ったのは且元(かつもと)の父・直貞の代からと言う。

本拠とした須賀谷は浅井氏の本拠地・小谷城と山続きであり、同城の支城の一つとして機能するとともに、温泉が湧出するために湯治場としても利用されていた。

千五百七十年(元亀元年)から千五百七十三年(天正元年)九月にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、小谷城は陥落する。

この小谷陥落直前、浅井長政から片桐直貞に宛てられた感状が現存している所から当時十七歳の且元(かつもと)も浅井方として戦い落城を経験する。

片桐且元(かたぎりかつもと)の名乗りは、後の関ヶ原の戦いの直前の頃に始めたもので、それまでは片桐直盛(かたぎりなおもり)を名乗っていた。


羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井氏に変わって長浜城主及び北近江三郡の領主となり、多くの人材を募っていた事から直盛(なおもり/且元・かつもと)も秀吉に仕官する。

千五百八十三年(天正十一年)五月、信長死後の織田家の存続を賭けて秀吉と柴田勝家が対立する。

その柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で直盛(なおもり/且元・かつもと)は福島正則加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた。

直盛(なおもり/且元・かつもと)はこの時、秀吉から戦功を賞されて摂津国内に知行地三千石を与えられている。

千五百八十四年(天正十二年)六月、小牧・長久手の戦いでは、陣立書から他の七本槍と共に馬廻衆として百五十人を率いて本陣を守った。

その後の直盛(なおもり/且元・かつもと)は前線で活躍する事はなく、馬廻衆として後方支援などの活動が中心となり、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっている。

その後は秀吉の支配領域の拡大に伴い検地奉行に携わり、九州征伐では軍船の調達、小田原平定では小田原城の接収、奥州仕置では出羽国秋田での検地などを務める。

秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では、直盛(なおもり/且元・かつもと)は釜山(現在の釜山市)昌原城(馬山城)に駐在し、秀吉からの指令を各軍勢に取り次ぎ、二度度の晋州城の戦いなどに参加する。

千五百九十五年(文禄四年)に直盛(なおもり/且元・かつもと)は、播磨国内などに五千八百石を加増され、摂津茨木城主(一万石)の大名となる。

慶長伏見地震(文禄五年)が発生、直盛(なおもり/且元・かつもと)は、その復興事業に関連した大坂の都市改造計画に関わる。

二年後の千五百九十八年(慶長三年)、直盛(なおもり/且元・かつもと)は大坂城番として城詰めとなり、豊臣秀頼傅役五人の一人に選ばれる。

千六百年(慶長五年)豊臣秀頼が五大老・五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸の無い徳川家康は伏見城に戻るまで、直盛(なおもり/且元・かつもと)の屋敷に二泊する。

この家康との縁で、直盛(なおもり/且元・かつもと)は家康に接近し、以後、二人は報告・連絡を取りを続けて行く。

この頃に、片桐直盛(かたぎりなおもり)は片桐且元(かたぎりかつもと)を名乗るようになる。

同千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、且元(かつもと)は文治派奉行衆を中心とした石田三成方・西軍に付き、大津城の戦いに増田長盛と同じく家臣を派遣した。

しかし関ヶ原の戦いは、武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍が圧勝で勝利する。

東軍勝利の後、且元(かつもと)は長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走する。

且元(かつもと)は、徳川家康に協力的な立場で豊臣秀頼に仕え、為に播磨国と伊勢国の所領六千石と引替に、家康から大和国竜田藩二万四千石を与えられる。

それ以降且元(かつもと)は、大老筆頭としての家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となった。

しかし且元(かつもと)は、豊臣として徳川家康の圧力をかわしながら秀頼を支え、豊臣家の存続に助力する。

そんな中、千六百十四年(慶長十九年)三月には、豊臣家の威信が賭かった再建開始から十四年目の、且元も十二年間を総奉行として関わって来た方広寺大仏殿がほぼ完成する。

しかし京都所司代・板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などの疑惑によるとする方広寺鐘銘事件が起こり、豊臣家の命運が激変する事態と成る。

片桐且元(かたぎりかつもと)〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2013-06-17 01:37 | Comments(0)  

片桐且元(かたぎりかつもと)〔二〕

片桐且元(かたぎりかつもと)〔一〕】に戻る。

千六百十四年(慶長十九年)七月末、京都所司代・板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などの疑惑によるとする、方広寺鐘銘事件が起こる。

なんと南禅寺長老の文英清韓(ぶんえいせいかん)に選定させた方広寺鐘銘に在る銘文「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘の銘文が「徳川を呪い豊臣の繁栄を祈願する」と言う言い掛かりだった。

臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)本多正純を中心に調査が行われ、京都所司代・板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定される。

八月十三日の夜、大坂城下が静まらない中、片桐且元、大野治長、文英清韓などが駿府へ派遣される。

十七日に鞠子宿にて南禅寺僧・文英清韓(ぶんえいせいかん)が駿府奉行に囚えられる。

十九日の入府より、且元(かつもと)は、金地院崇伝ら相手への弁明に務めたが、家康との会見も無いまま日々を刻んで居た。

しかし、二十九日に駿府入りしていた大野治長の母・大蔵卿局は家康とすんなり対談となり、鐘銘の事も話題とならずに丁寧に扱われるなど分断策の布石も打たれていた。

九月八日、且元(かつもと)は崇伝より、大蔵卿局と共に、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい。」と伝えられる。

九月十二日に且元(かつもと)は帰坂し、戦争を避ける為に、「秀頼の駿府と江戸への参勤。」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする。」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る。」の対策の中の一つを早急に選ぶ事を提案する。

この提案、徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか、裏で崇伝らに半ば言い含められたものかは不明瞭である。

だが、且元(かつもと)はこの提案で大野治房(大蔵卿局の子/大野治長の弟)、渡辺糺(わたなべただす)と言った豊臣家の家臣達から家康との内通を疑われるようになる。

徳川方の豊臣分断策は成功し、暗殺計画も且元(かつもと)の知る所と成り、弟・貞隆、犬山城主・石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去する。

「不忠者である」として改易が決められ、大阪城を退去した且元(かつもと)は弟・板倉貞隆の茨木城へ入り、京都所司代・板倉勝重に援兵を要請した。

この日は、既に板倉勝重から且元(かつもと)の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受けていた家康に依る徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日でもある。

大坂の陣には家康に人質を送って従属し、徳川方として堺の救援をし、二条城の軍議に加わり、家康依り先鋒を命じられる。

大坂城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいる事を、彼らの助命嘆願の依頼と共に且元(かつもと)に知らせて来たので秀忠に通報するも助命叶わず豊臣氏は滅亡した。

且元(かつもと)前年より肺病を患い、家康より送られた家康の侍医・片山宗哲の診察を受けていた。

その且元(かつもと)が、大坂夏の陣後から二十日日ほどして、五月二十八日に京屋敷にて、六十歳での突如の死を遂げている。

「秀頼に殉死した」との説もあるが、定かではない。

片桐且元(かたぎりかつもと)〔一〕】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2013-06-17 01:35 | Comments(0)  

土井利勝(どいとしかつ)

二代将軍・徳川秀忠の懐刀として江戸時代前期の幕府の老中・大老を務めた土井利勝(どいとしかつ)の出自には多数の説が在り、謎に包まれている。

一説では、利勝(としかつ)は徳川家康の伯父・水野信元の三男として千五百七十三年(元亀四年)三月十八日に生まれたとある。

また、利勝(としかつ)は水野信元の三男ながら系図には徳川家家臣・土井利昌の子と記載されているとされる。

家康の伯父・水野信元の三男説に於いては、千五百七十五年(天正三年)に信元が武田勝頼と内通したという罪により織田信長の命で家康に討たれた後、家康の計らいで土井利昌の養子になった。

土井利昌には長男の元政がいたが、それを差し置いて利勝(としかつ)が家督を継いでいる。

そして利勝(としかつ)には、土井利昌の実子として遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれたという説もある。


また、利勝(としかつ)には、家康の落胤という説もある。

土井家は三河譜代の家臣ではないにも関わらず、利勝(としかつ)が幼少時から家康の鷹狩りに随行する事を許されるなど破格の寵愛を受けていた為に家康の落胤説がある。

元康(家康)には双子説が在り、今川氏の人質(築山の夫)ではないもう一人の竹千代(家康)が相当自由に三河から遠近江を遊び回ったらしく、落胤説が数例を数える。

利勝(としかつ)は、影竹千代(家康)が利昌の娘(後玉等院)に産ませた隠し子で、最初に水野信元の養子となり、信元が暗殺されると利昌の養子にされたとも言われる。

井川春良西尾藩儒臣)が著した「視聴草」には、家康の隠し子である事が書かれている他、徳川家の公式記録である「徳川実紀」にも同落胤説が紹介されている。

また、元康(家康)と正室の築山殿との仲が冷え切っており、その為に築山殿の悋気を恐れて他の女性に密かに手を出して利勝が生まれたと言う可能性も否定できない所がある。

ただし、元康(家康)には双子説が在り、その説では正室の築山殿の存在に関わらず落胤を儲けた可能性を否定出来ない。

この双子説では、今川氏の人質(築山の夫)ではないもう一人の竹千代(家康)が、相当自由に三河から遠近江を遊び回ったらしく、鈴木一蔵を始め落胤説が数例を数える。

在野の書誌歴史学者・森銑三(もりせんぞう)は、父とされる水野信元と家康の性格を比較した時、短慮であった信元よりも、思慮深い家康の方が利勝の性格と共通する要素が深いと考察している 。

千五百七十九年(天正七年)四月に徳川秀忠が生まれると、利勝(としかつ)は七歳にして安藤重信や青山忠成と共に、役料二百俵で三男・秀忠の傅役を命じられる。

千五百九十一年(天正十九)に、利勝(としかつ)は相模国に領地一千石を得る。

千六百年(慶長五年)九月の関ヶ原の戦いの際には、利勝は秀忠に従って別働隊となり、江戸から中山道を通って西へ向かった。

しかし信濃上田城の真田昌幸を攻めあぐみ、関ヶ原の決戦にはついに間に合わなかったものの戦後に五百石を加増され、利勝(としかつ)は知行千五百石としている。

千六百一年(慶長六年)に、利勝(としかつ)は徒頭(かちがしら)に任じられ、千六百二年(慶長七年)十二月二十八日に一万石を領して諸侯に列し、下総国小見川藩主となった。

千六百四年(慶長九年)、李氏朝鮮より正使・呂祐吉以下の使節が来日すると、利勝(としかつ)はその事務を総括した。

千六百五年(慶長十年)四月、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられる

此れに依り随行していた利勝(としかつ)も従五位下・大炊頭に叙位・任官し、以後は二代・秀忠の側近としての地位を固めて行った。

千六百八年(慶長十三年)には、利勝(としかつ)は浄土宗と日蓮宗の論争に裁断を下して政治的手腕を見せ、千六百十年(慶長十五年)一月、下総国佐倉三万二千石に加増移封となった。

同じ年の慶長十五年十月、本多忠勝が死去すると、家康の命令により十二月一日に秀忠付の老中に任じられ、二年後の慶長十七年に一万三千石加増され四万五千石と成る。

千六百十五年(慶長二十年)大坂の陣が起こると、利勝(としかつ)は秀忠付として従軍し、豊臣氏滅亡後、秀忠より猿毛柄の槍を贈られ、さらに六万二千五百石に所領を加増された。

千六百十五年(慶長二十年)夏には、利勝(としかつ)は青山忠俊、酒井忠世と共に秀忠継嗣・徳川家光の傅役を命じられる。

千六百十六年(元和二年)、利勝(としかつ)は将軍・秀忠の名で一国一城令と武家諸法度(十三ヵ条)を制定する。

これにより戦国時代は終わりを告げ、諸大名は幕藩体制に組み込まれる事と成った。

同千六百十六年(元和二年)四月に家康が死去すると、久能山に葬られる際には利勝(としかつ)がその一切の事務を総括した。

六年後の千六百二十二年(元和八年)、家康の側近として辣腕を振るった本多正純が失脚し、この失脚によって、利勝は名実ともに「幕府の最高権力者」と成った。

千六百二十三年(元和九年)、二代将軍・秀忠は将軍職を家光に譲り、家光が三代将軍と成る。

将軍交代の際には側近も変わるのが通常であったが、利勝(としかつ)は家光の傅役を務めた事でこの後も青山忠俊、酒井忠世と共に幕政に辣腕を振るって行く。

千六百二十五年(寛永二年)、利勝(としかつ)は十四万二千石に加増を受ける。

政権が三代将軍・家光に移ってほどない千六百三十二年(寛永九年)、日本史に残る大事件が二件勃発した。

二代将軍・秀忠の三男・甲斐甲府藩と駿河府中藩二ヵ国の太守徳川忠長加藤清正・三男・肥後熊本藩の第二代藩主・加藤忠広が改易さたのだ。

当時老中としてこの二大事件に関わった利勝(としかつ)は、これを期に政治の実権から徐々に遠ざかって行く。


千六百三十五年(寛永十二年)には、利勝(としかつ)は武家諸法度に参勤交代を組み込むなど十九条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定し下総国古河十六万万石に加増移封される。

千六百三十七年(寛永十四年)頃から利勝(としかつ)は中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、三代将軍・家光より慰留されて撤回する。

翌千六百三十八年(寛永十五年)十一月七日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。

それから六年、利勝(としかつ)は千六百四十四年(寛永二十一年)六月に病床に臥し、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが七月十日に七十二歳で死去する。

利勝(としかつ)の後を、長男の利隆が継いだ。

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by mmcjiyodan | 2013-06-16 02:43 | Comments(0)  

本多正純(ほんだまさずみ)

本多正純(ほんだまさずみ)は千五百六十五年(永禄八年年)、本多正信の嫡男として生まれる。

当時、父・正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河国を追放されて大和国の松永久秀を頼っていた。

正純(まさずみ)は、大久保忠世(おおくぼただよ)の元で母親と共に保護されていたようである。

父・正信が徳川家康のもとに復帰すると、正純(まさずみ)は共に復帰して家康の家臣として仕えた。

正純(まさずみ)が父・正信と同じく智謀家であった事から家康の信任を得て重用されるようになり、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。

関ヶ原戦後、捕らえた石田三成の身柄を家康の命令で預かっている。

また、父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、これを推挙するも適わなかった。

千六百三年(慶長八年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、正純(まさずみ)は家康にさらに重用されるようになる。

千六百五年(慶長十年)、家康が将軍職を三男の秀忠(二代将軍)に譲って大御所となる。

家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣(おおくぼただちか)が、駿府の家康には正純が、正純の父・正信は両者の調停を務める形でそれぞれ補佐として従うようになった。

正純(まさずみ)は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。

千六百八年(慶長十三年)には、正純(まさずみ)は下野国小山藩三万三千石の大名として取り立てられる。

千六百十二年(慶長十七年)二月、正純(まさずみ)の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束する。

この斡旋話が詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれる「岡本大八事件」が発生する。

大八がキリシタンであった為、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。

この千六百十二年(慶長十七年)十二月二十二日には築城後間もない駿府城が火災で焼失し、家康は再建がなるまでの間、正純(まさずみ)の屋敷で暮らしている。

この千六百十四年(慶長十九年)に成ると、政敵・大久保忠隣(おおくぼただちか)を「大久保長安事件」で失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでに成る。

また、千六百十四年(慶長十九年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは「正純(まさずみ)であった」と言われている。


千六百十六年(元和二年)、家康と正信が相次いで没した後、正純(まさずみ)は江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。

しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。

なお正純(まさずみ)は、家康と正信が死去した後、二万石を加増されて五万三千石の大名となる。

千六百十九年(元和五年)十月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山藩五万三千石から宇都宮藩十五万五千石に加増を受けた。

この加増により、正純(まさずみ)は周囲からさらなる怨みを買うようになる。

ただし正純(まさずみ)自身は、政敵のうらみ嘆きや憤怒などの事情や心情をくみとり、「過分な知行として加増を固辞していた」と言う。


二代将軍・秀忠の本格治世と成り幕僚の世代交代が進んでいたが、正純(まさずみ)は幕府で枢要な地位に代わらず在った。

しかし、後ろ盾である家康や父・正信が没し、二代・秀忠が権力を握った事と、秀忠側近である土井利勝らが台頭してきた事で正純(まさずみ)の影響力、政治力は弱まって行った。

そこに将軍・秀忠やその側近達の陰謀ともされる、世に言う「宇都宮城釣天井事件」が起きる。

千六百二十二年(元和八年)八月、最上氏の改易に際して正純(まさずみ)は山形城の受取りに派遣され無事に城を接収する。

しかしその接収のさなか、伊丹康勝と高木正次が正純(まさずみ)糾問(きゅうもん)の使者として後を追って来た。

伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に十一ヵ条の罪状嫌疑を突きつけた。

正純(まさずみ)は最初の十一ヵ条については明快に答えたが、そこで追加して質問された三ヵ条については適切な弁明ができなかった。

その三ヵ条が城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑した事、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をした事だった。

正純(まさずみ)は「先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽・由利郡に五万五千石を与える」と言う二代・秀忠の減封の代命を伊丹らから受ける。

この時、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で伊丹らの詰問に応じ、さらにその五万五千石を弁明の中で固辞し、秀忠の逆鱗に触れる事と成る。

伊丹らが正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると秀忠は激怒し、本多家は改易され、正純(まさずみ)ぼ身柄は出羽国横手・佐竹義宣に預けられる流罪となった。

突然の仕置きだったが、正純(まさずみ)には父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げた過去があり、二代・秀忠には遺恨が在ったのかも知れない。

正純の失脚により、家康時代に側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝(どいとしかつ)ら秀忠側近が影響力を一層強める事になる。

本多正純(ほんだまさずみ)は、後に千石の捨て扶持を配所の横手於いて七十三歳で死去するまで与えられている。

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by mmcjiyodan | 2013-06-14 12:23 | Comments(0)  

上杉鷹山(うえすぎようざん/治憲・はるのり)

江戸幕府第十代将軍・徳川家治の時代、出羽国米沢藩に後々まで名君と賞賛される藩主が出現する。

上杉鷹山(うえすぎようざん) / 上杉治憲(うえすぎはるのり)は、領地返上寸前の米沢藩再生の危機を救う江戸幕府屈指の名君・米沢藩上杉家の第九代藩主である。

その上杉治憲(うえすぎはるのり)は藩主隠居後の号である(鷹山ようざん)の方が著名である。

日向高鍋藩第六代藩主・秋月種美の次男、幼名は松三郎/勝興(治憲)で、母は筑前国秋月藩の第四代藩主・黒田長貞の娘・春姫だった。

母方の祖母の豊姫が米沢藩第四代藩主・上杉綱憲の娘で、この事が縁で十歳で米沢藩の第八代藩主・重定(綱憲の長男・吉憲の四男、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。

米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって江戸桜田の米沢藩邸に移り、松三郎は直松に改名する。

千七百六十三年(宝暦十三年)、上杉直松は尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、十七歳で元服して直丸勝興と称す。

元服に際し、直丸勝興は江戸幕府第十代将軍・徳川家治の偏諱を賜り、治憲と改名する。
四年後の千七百六十三年(明和四年)、上杉治憲は二十一歳で家督を継ぐ。

上杉家は、石高が十五万石(実高は約三十万石)でありながら初代藩主・上杉景勝の意向に縛られ、会津百二十万石時代の家臣団六千人を召し放つことをほぼせずに居た為、借財が二十万両に累積する財政危機に在った。

二十万両は現代の通貨に換算で「百五十億円から二百億円」と言い、経済規模が小さかった当時としては大金で、人件費が藩財政に深刻な負担を与えていた。

名家の誇りを重んずる故に豪奢な生活を改められなかった前藩主・上杉重定は、財政苦に藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどである。

新藩主に就任した治憲(鷹山)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立する。

また、それまでの藩主では千五百両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を二百十両程に減額し、奥女中を五十人から九人に減らすなどの倹約を行った。

ところがその為、千七百六十九年(明和六年)に江戸城西丸の普請役回避の幕臣への運動費が捻出できずに手伝いを命じられ、結果多額の出費が生じて藩財政の再生は遅れた。

治憲(鷹山)は藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせ、改革に反対する藩の重役が起こした七家騒動を退ける。

この治憲(鷹山)の施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。


言って置くが、藩政を画期的方向に導いた上杉治憲(鷹山)の藩政改革は、藩官僚にも相応の負担をさせた事で、最近の政権の官僚手付かず改革とは質が違う。

酷い話だが、官僚の専横を許して国民だけに負担を強いる手法は、悪魔に魂を売った政治家の所業である。

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by mmcjiyodan | 2013-06-09 16:30 | Comments(0)  

大野治長(おおのはるなが)

大野治長(おおのはるなが)は、千五百六十九年(永禄十二年)に京都に生まれる。

弟に、冬夏の大阪の陣で活躍した武将・大野治房(おおのはるふさ)がいる。

大野氏に関したは、大野治長(おおのはるなが)が有名なわりには、その出自や系譜など、詳しい事はほとんど分かっていない。

つまり治長(はるなが)の家系は、「取り立てて言うに値しなかった」と想われる。

その治長(はるなが)が、知行一万五千石の豊臣氏の家臣武将として出世したには、彼の母・大蔵卿局(丹後国の地侍・大野定長の妻)が、浅井三姉妹の長女・茶々(淀殿)の乳母をしていたからに他成らない。

幸運な事に、母・大蔵卿局が乳母を務めた浅井三姉妹の長女・茶々が、豊臣秀吉の側室・淀殿として寵を得、治長(はるなが)は秀吉に約三千石の馬廻衆として取り立てられる。

秀吉の死後は豊臣秀頼の側近として仕えた治長(はるなが)だが、千五百九十九年(慶長四年)の徳川家康暗殺疑惑事件の首謀者の一人として罪を問われ、下総国に流罪とされる。

翌千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに治長(はるなが)は東軍に参戦し武功を上げた事で罪を許される。

関ヶ原の戦後、治長(はるなが)は家康の命で「豊臣家への敵意なし」と言う家康の書簡をもって豊臣家への使者を務めた後、江戸に戻らずそのまま大坂に残った。

十四年後、千六百十四年(慶長十九年)、豊臣氏の家老であった片桐且元(かたぎりかつもと)が追放されると、豊臣家を主導する立場となる。

その後、豊臣家内部では主戦派が主流となり、各地から浪人を召抱えて大坂冬の陣に至るが、消極的和平を主張した治長(はるなが)は真田信繁など主戦派と反目する。 

千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では、治長(はるなが)は敗戦濃厚な中、将軍・徳川秀忠の娘で秀頼の正室であった千姫(せんひめ/天樹院)を使者とし、己の切腹を条件に秀頼母子の助命を願う。

しかし治長(はるなが)の願いは適わず、主君・秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自害した。

いずれにしても大野治長(おおのはるなが)が、凋落して行く豊臣家をナントカ永らえようと最後まで努力した事は間違いない。

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by mmcjiyodan | 2013-06-03 04:15 | Comments(0)