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佐竹義宣(さたけよしのぶ)

佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、佐竹氏第十八代当主・佐竹義重(さたけよししげ)の長男で母は伊達晴宗の娘、出羽久保田藩(秋田藩)の初代藩主である。

佐竹(右京大夫)義宣は、佐竹氏としては第十九代当主に当たり、伊達政宗は母方の従兄にあたる戦国時代から江戸時代前期の武将・大名である。


義宣(よしのぶ)は千五百七十年(元亀元年)七月十六日、常陸国・太田城(現・茨城県常陸太田市)に生まれた。

義宣(よしのぶ)が誕生した頃、父・義重(よししげ)は那須氏を攻めていたが、千五百七十二年(元亀三年)、那須氏と和睦した。

この和睦は、当時三歳の義宣(よしのぶ)に那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎える事等が条件となっていた。

この頃の佐竹氏は南方を抑える為、千五百八十四年(天正十二年)に後北条氏と和議を結んでいた。

しかし北方では義重(よししげ)の次男であり義宣(よしのぶ)の弟である蘆名義広(あしなよしひろ)が城主となっていた黒川城を伊達政宗に陥落させられ、南奥州の基盤を失う事態に陥っていた。

佐竹氏は伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。


千五百八十六年(天正十四年)から千五百九十年(天正十八年)の間に、義宣(よしのぶ)は、父・義重(よししげ)の隠居によって家督を相続している。

義宣(よしのぶ)は、千五百八十九年(天正十七年)十一月二十八日に秀吉から、小田原征伐への出陣命令を受ける。

しかし、義宣(よしのぶ)は南郷に於いて伊達政宗と対峙している最中であった為、直ちに命令に従う事はできなかった。

義宣(よしのぶ)は、秀吉自らが京を出立したと言う知らせを受けて、従兄弟で盟友・宇都宮国綱(下野国戦国大名)に対応を相談した。

千五百九十年(天正十八年)五月、宇都宮国綱ら与力大名を含めた一万余の軍勢を率いて小田原へ向かう。

義宣(よしのぶ)は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、千五百九十年(天正十八年)五月二十七日、秀吉に謁見して臣下の礼をとった。

秀吉の下に参陣した義宣(よしのぶ)は、千五百九十年(天正十八年)六月、石田三成指揮の下、映画・「のぼうの城のモデルである忍城」を攻めた。

この忍城攻めは水攻めで、義宣(よしのぶ)は堤防構築に従事している。


小田原の役後の義宣(よしのぶ)は、かねて伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館及び南郷)について、秀吉から知行として認められる。

奥州仕置の後、本領である常陸国(結城氏領を除く)及び下野国の一部、計二十一万貫余(三十五万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられた。

これにより佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、徳川家康や前田利家島津義久毛利輝元上杉景勝と並んで豊臣政権の六大将と呼ばれた。

以後、義宣は秀吉の権威を背景に江戸氏・大掾氏を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。

義宣(よしのぶ)は、朱印状による所領安堵の直後から、常陸国全域に支配を及ぼすことを企図し、まずは、居城を太田城から水戸城へ移すこととした。

当時の水戸城主は、小田原征伐の際に参陣しなかった江戸重通であった。

義宣(よしのぶ)は上洛中であったので、水戸城攻略は父・義重(よししげ)が行う。

千五百九十年(天正十八年)十二月二十日、義重(よししげ)は水戸城を攻め落とし、同月二十二日には、府中(後の石岡市)に拠る大掾清幹(だいじょうきよもと)を攻めて大掾氏(だいじょううじ)を滅亡させている。

千五百九十一年(天正十九年)二月九日、義宣(よしのぶ)は京から帰国する。

義宣(よしのぶ)は鹿島郡及び行方郡に散在していた大掾氏(だいじょううじ)配下の国人達、所謂(いわゆる)「南方三十三館」の国人衆を謀殺して常陸国全域の支配権確立に成功する。

千五百九十一年(天正十九年)三月二十一日、義宣(よしのぶ)は水戸城に移り、竹氏の一門・佐竹義久(さたけよしひさ)に水戸城の整備拡張を命じた。

水戸城に本拠を移した直後の六月、豊臣政権は義宣(よしのぶ)に奥州出兵二万五千人という非常に重い軍役を命じ、この動員は同年十月まで約四ヶ月間続いた。

奥州出兵の最中の九月、今度は秀吉が唐入り(中華侵攻)の為各国大名に朝鮮出兵を命じ、義宣(よしのぶ)も、五千人の出兵を命じられる。

この軍役は、千五百九十二年(文禄元年)一月から翌千五百九十三年(文禄二年)閏九月まで約二十一ヶ月間続く。

当初の佐竹氏への五千人の軍役は途中で三千人に軽んぜられ、「御軍役役弐千八百六十九人」と名護屋陣中より報告された。


義宣(よしのぶ)は、千五百九十二年(文禄元年)一月十日、水戸を出発し、同年四月二十一日、名護屋城に到着する。

翌千五百九十三年(文禄二年)五月二十三日、義宣(よしのぶ)は朝鮮へ渡るよう命じられる。

その翌月には、先陣の佐竹義久が千四百四十人を率いて名護屋を出航する。

本隊が直ぐに追う筈だったが、七月七日、義宣(よしのぶ)に対して渡海を見合わせるよう連絡があったので、義宣自身が朝鮮に渡る事はなかった。

その為義宣(よしのぶ)は、唐入りに際して整備した軍役体制を活用して水戸城の普請を進め、千五百九十四年(文禄三年)、普請は一応の完成を見た。

一方、千五百九十四年(文禄三年)一月十九日、義宣(よしのぶ)は秀吉から伏見城の普請を命じられ、伏見城竣工後、伏見城下に屋敷を与えられた。

千五百九十五年(文禄四年)六月十九日、折からの太閤検地によって諸大名の石高が確定された事を受け、義宣(よしのぶ)は、五十四万石を安堵する旨の朱印状を秀吉から受領する。

また、義宣(よしのぶ)は、千五百九十五年(文禄四年)七月十六日以降、家中の知行割りを一斉に転換し、領主と領民との伝統的な主従関係を断絶させて、佐竹宗家の統率力を強化する。


千五百九十七年(慶長二年)十月、佐竹氏の与力大名であり義宣(よしのぶ)の従兄弟である宇都宮国綱が改易される。

これに伴い、佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、従前から親交があった石田三成の取りなしによって処分を免れ、大きな借りができた。

その借りを返す時は、程なく訪れる。

千五百九十九年(慶長四年)閏三月三日、前田利家が死去した事を契機として、加藤清正福島正則加藤嘉明浅野幸長黒田長政細川忠興及び脇坂安治は、石田三成の屋敷を襲撃する。

この知らせを受けた義宣は、三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせている。

この一連の動きについて、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(古田織部)は、徳川家康に釈明するよう勧めた。

これに対し、義宣は、「三成は公命に背いた事もないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けたから、三成の危急を見て命にかけて救っただけである。この事を家康に謝罪すべきというなら、御辺よきにはかられよ」と応えた。

これを受けて茶の師・古田重然(古田織部)は、細川忠興に取りなしを依頼した。

家康は細川忠興からこの話を聞き、「義宣(よしのぶ)身命に賭けて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。異存はない」と答えた。


千六百年(慶長五年)五月三日、徳川家康は会津征伐(上杉討伐)の為に東国の諸大名を京都に招集する。

義宣(よしのぶ)もこの招集に応じ、同年五月中旬、京都に上洛した。

同年六月六日、招集された諸大名の進撃路が発表され、義宣(よしのぶ)は仙道口を任される事となり、水戸へ帰る。


千六百年(慶長五年)七月二十四日、小山に到着した徳川家康は、水戸にいた義宣に使者を派遣し、上杉景勝の討伐を改めて命じた際、家康の使者は人質を上洛させるよう要求する。

義宣(よしのぶ)は、会津征伐は豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、自身は秀頼に逆らう意志はないから新たな人質を出す必要はないとしてこの要求を断っている。

この時期の佐竹氏の動向は、東軍に付くとも西軍に付くとも言えないもので家康は佐竹氏に預けられていた花房道兼を呼び出して、義宣(よしのぶ)の動向を確認した。


千六百年(慶長五年)七月十九日頃、義宣(よしのぶ)は上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約を交わしたようで、自軍の赤館以北への進軍を差し止めている。

七月二十五日に成って、義宣(よしのぶ)は突如として兵を引き水戸城へ引き上げる。

義宣(よしのぶ)は家康に対し、重臣・小貫頼久(秀郷流小野崎系)を使者として派遣し、水戸城へ帰った理由を釈明させる。

また、上田城に篭る真田昌幸を攻撃していた徳川秀忠への援軍として、一族の重鎮・佐竹義久に率いさせた三百騎を送った。


関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、義宣(よしのぶ)は徳川家康及び秀忠に対し、戦勝祝賀の使者を派遣した。

義宣(よしのぶ)は、上杉景勝が未だ伊達軍及び最上軍と対峙しているのを見て、佐竹氏に累が及ぶ事を恐れ、家康に陳謝すべく伏見へ向かう。

途中、神奈川で会った秀忠に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康に会って謝罪及び家名存続の懇願をした。


関ヶ原の戦いの翌々年に当たる千六百二年(慶長七年)三月、義宣(よしのぶ)は大阪城の豊臣秀頼と徳川家康に謁見する。

その謁見直後の同年五月、義宣(よしのぶ)は家康から転封先不明転封後の石高も不明の国替えの命令を受けた。

従って義宣は、家臣の和田昭為に宛てた書状の中で、譜代の家臣にも従前のような扶持を与える事はできないであろう事や、五十石~百石取りの給人については転封先に連れて行かない事などを書き述べている。


数日後転封先が秋田に決定し、常陸水戸五十四万石から出羽秋田二十万石(出羽久保田藩)への減封となるも、正式な石高が決定されたのは久保田藩二代藩主・佐竹義隆の代になってからである。

佐竹氏の処遇決定が他の大名家と比較して大幅に遅れた理由については諸説ある。

この時期になって初めて上杉氏との密約が発覚したとする説や、島津氏に対する処分を先行させる事で島津氏の反乱を抑える狙いがあったとする説がある。

また、佐竹氏が減転封された理由としては、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざける狙いがあったとする説もある。

義宣(よしのぶ)は、秋田への減転封を機に、一門及び譜代の家臣の知行を減少させ、その勢力を減殺し、当主の権力を強化して新たな政策の実施と人材登用を可能にした。


千六百十四年(慶長十九年)、徳川家康が名実伴に天下人となる為に豊臣家を攻める大坂の役が起こり、義宣(よしのぶ)は徳川方として参陣する。

義宣(よしのぶ)は参勤の為、千六百十四年(慶長十九年)九月二十五日に久保田城を出立していたが、その途中十月七日に大阪への出陣命令を受ける。

これを受けて佐竹軍は、十月十五日以降に順次久保田城を出発し、江戸に居た義宣(よしのぶ)は軍勢と合流し、同月二十四日に江戸を出発した。

義宣(よしのぶ)が大阪へ到着したのは、同千六百十四年年十一月十七日である。

義宣(よしのぶ)は玉造口に陣取り、上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢と戦闘、新規に召抱えた重臣・渋江政光を失っている。

この戦いでの佐竹軍の勝利は戦況に大きな影響を与えたので、幕府に於ける佐竹軍の評価は高まった。

大阪の役(冬の陣)に於いて幕府から感状を受けたのは僅か十二名で、内五名を佐竹家中の者が占めた武功だった。


関ヶ原の戦いに遡る話しの後日談だが、佐竹家が様子見で参戦しなかった罪を家康に問われ、常陸水戸五十四万石から出羽秋田二十万石(出羽久保田藩)への減封となった。

その減封を強力に主張した当時の幕府中枢・本多正信・正純親子の内、本多正純が宇都宮城釣天井事件で失脚した。

幕府は本多正純の身柄を出羽横手への流罪とし、正純に恨みがある佐竹氏に預ける露骨な仕置きをした。

正純は流人として、佐竹家で十五年間を過ごした。

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by mmcjiyodan | 2013-08-28 15:17 | Comments(0)  

佐竹義重(さたけよししげ)

佐竹義舜(さたけよしきよ)の曾孫で佐竹氏第十八代当主の義重(よししげ)は、「鬼義重」の異名をとる名将である。

義重(よししげ)の時代に佐竹氏は江戸氏(旧・那珂氏)や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置く事に成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。

滅亡した武田氏の浪人・小山田氏などを仕官させ家臣団を強化させていた事も理由のひとつである。

奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった佐竹義重は、自らの正室の甥にあたる伊達政宗と対立する。

千五百九十五年(天正十三年)、義重(よししげ)は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した。

佐竹方は三万の大軍を率い、伊達方の十倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えた。

だが、佐竹方は一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。

しかし義重(よししげ)は戦国時代を通じて領国を拡大し、家督を譲った継嗣の義宣(よしのぶ)の時代に佐竹氏は豊臣秀吉の小田原征伐にも参陣して居る。

千五百八十六年(天正十四年)から千五百九十年(天正十八年)の間に、義重(よししげ)は隠居によって継嗣・義宣(よしのぶ)に家督を相続している。

家督相続以後、義重(よししげ)と義宣(よしのぶ)は二人三脚で家の隆盛に勤める。

当主・義宣(よしのぶ)は上洛中であったので、水戸城攻略は先代当主・義重(よししげ)が行う。

千五百九十年(天正十八年)十二月二十日、義重(よししげ)は水戸城を攻め落とし、同月二十二日には、府中(後の石岡市)に拠る大掾清幹(だいじょうきよもと)を攻めて大掾氏(だいじょううじ)を滅亡させている。


小田原征伐後の戦後処理で秀吉の太閤検地の結果、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされるも、常陸五十四万五千八百石の大名として認められた。

水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかった為に所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移して居る。


千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いては、佐竹家ではどちらに与するか家中での意見がまとまらず、義宣(よしのぶ)は中立的な態度を取った。

関ヶ原の戦いの戦後処理が前年にはほぼ終了した千六百二年(慶長七年)三月、義宣(よしのぶ)は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。

所が、凡そ二ヵ月後の五月八日、義宣は家康から突然出羽国への国替えを命じられ、七月二十七日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封される。

この突然の処置は、関ヶ原の戦いに於いて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいた事が発覚した為と言われている。

加えて、徳川氏の本拠地である江戸に近い常陸の佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質八十万石以上の勢力と目される事も要因と言える。

その上、佐竹氏は関ヶ原合戦に直接参加していない為に軍団が無傷で残っており、その観点での脅威だった。

処遇の際、細川忠興(ほそかわただおき)が「大々名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言した

しかし、徳川家康の側近だった本多正信正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国で良し」と決められてしまう。

こうして佐竹氏は、平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去り、出羽半国の久保田藩と成った。


この半国処置には後日談があり、後に政争に負けた本多正純が宇都宮城釣天井事件で失脚した時、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。

佐竹氏に取って仇がある相手である為「恩情をかける事はない」と幕閣首脳が考えたのだろうか。

権勢を誇った本多正純は、「横手城の一角でさびしく生涯を終えた」と伝えられる。


転封時点で明示されていなかった石高は、千六百六十四年(寛文四年)四月に日付で二十万五千八百石(実高四十万石)と決定された。

うち五千八百石は、千六百五年(慶長十年)十月十七日に追加で与えられた下野国河内郡・都賀郡の飛び地十一ヶ村分だった。

佐竹氏は、江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続し明治維新後は侯爵に叙せられている。

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by mmcjiyodan | 2013-08-28 15:13 | Comments(0)  

宇都宮城・釣天井事件(うつのみやじょう・つりてんじょうじけん)

江戸時代の千六百二十二年(元和八年)に宇都宮城釣天井事件は起きた。

下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純(ほんだまさずみ)が、宇都宮城に釣天井を仕掛けて二代将軍・徳川秀忠の暗殺を図ったなどの嫌疑を掛けられ、本多家は改易、正純が流罪となった事件である。

ただしこの嫌疑、実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因に依る仕組まれたものとされる。


本多正純の父・本多正信(ほんだまさのぶ)は将軍・秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所・徳川家康の側近であった。

本多正信・正純父子は政敵・大久保忠隣を失脚させるなど、幕府内に強い影響力を持っていた反面、幕閣内では政敵も多かった。

だが、正信の存命中に於いて、正信に逆らえる者は実質おらず、家康も正信の事を、「自分の友」とまで言っていたほど信頼は厚く、その地位は揺るがなかった。

所が、千六百十六年(元和二年)、家康と正信が相次いで没すると、正純は二万石を加増されて下野小山藩五万三千石となり、将軍・秀忠付の年寄(後の老中)にまで列せられる。

しかし、正純は先代からの宿老である事を恃(たの)み権勢を誇り、やがて将軍・秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。

千六百十九年(元和五年)十月、福島正則の改易後、正純は亡き家康の遺命であるとして、奥平忠昌を下野宇都宮藩十万石から下総古河藩十一万石へ移封させ、自身を小山五万三千石から宇都宮十五万五千石への加増とした。

だが、このお手盛り三倍加増により、正純は将軍・秀忠やその側近達周囲から一層の反感を買う事になる。

ただし正純(まさずみ)自身は、政敵のうらみ嘆きや憤怒などの事情や心情をくみとり、「過分な知行として加増を固辞していた」と言う伝聞も在る。


そうした背景を抱えた本多正純は、千六百二十二年(元和八年)将軍・秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、宇都宮城に一泊する予定で在った為、城の普請や御成り御殿の造営を行わせた。

四月十六日に将軍・秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」と言う密訴があった。

内容の真偽を確かめるのは後日とし、四月十九日、将軍・秀忠は「御台所が病気である」との知らせが来たとして予定を変更して宇都宮城を通過し、壬生城に宿泊して二十一日に江戸城へ帰還した。


八月、出羽山形藩・最上家親の改易に際して、正純は上使として山形城受取りの為同所に赴(おもむ)く。

その最中、将軍・秀忠は伊丹康勝と高木正次を糾問(きゅうもん)の使者に立てて出羽山形に赴(おもむ)く正純を追わせる。

将軍・秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて将軍・秀忠を圧死させようと画策したなど、十一ヵ条の罪状嫌疑を正純へ突きつける。

秀忠の近持・伊丹康勝と高木正次が上使として正純の下に赴き、その十一ヵについて問い正すと正純は一つ一つ明快に回答した。

しかし伊丹康勝が追加で行なった糾問(きゅうもん)、将軍家直属の根来同心を処刑した事、鉄砲を無断で購入した事、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をした事の三ヵ条については回答する事ができなかった。

その為、宇都宮の所領は召し上げ、ただし先代よりの忠勤に免じて改易は赦し、改めて出羽由利郡に五万五千石を与えると減封の代命を伊丹らから受ける。

この時、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で伊丹らの詰問に応じ、さらにその五万五千石を弁明の中で固辞し、逆に正純の態度が将軍・秀忠の逆鱗に触れる事と成る。

伊丹らが正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると秀忠は激怒し、本多家は改易され、正純(まさずみ)の身柄は久保田藩主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)に預けられ出羽国横手への流罪となった。


突然の仕置きだったが、正純(まさずみ)には父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げた過去があり、二代・秀忠には遺恨が在ったのかも知れない。

正純の失脚により、家康時代に側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝(どいとしかつ)ら秀忠側近が影響力を一層強める事になる。

本多正純(ほんだまさずみ)は、後に千石の捨て扶持を配所の横手於いて仕置きから十五年後の千六百三十七年(寛永十三年)三月に七十三歳で死去するまで与えられ寂しく生涯を終えている。

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by mmcjiyodan | 2013-08-28 15:07 | Comments(0)  

立花宗茂(たちばなむねしげ)〔一〕

安土地桃山時代江戸時代に、大友氏の一族で九州の有力大名と成った立花氏が在る。

立花宗茂(たちばなむねしげ)は、九州の雄・島津義弘が一目置き、豊臣秀吉徳川家康にその勇猛振りを認めさせた男である。

そして立花宗茂(たちばなむねしげ)こそ、関ヶ原の合戦に西軍として参戦し一度徳川家康に改易されて後に旧領復帰を果たした唯一の伝説大名である。


立花宗茂(たちばなむねしげ)は、千五百六十七年(永禄十年)11月18日、大友氏の重臣・吉弘鎮理(よしひろしげまさ/のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる。

宗茂(むねしげ)の幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改めている。

宗茂(むねしげ)は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えている。

ちょうどこの年には、大友家から毛利家に通じて謀反を起こし、両家の全面対決のきっかけを作ったり、反乱を起こして雷神・立花道雪に打ち倒された高橋鑑種(たかはしあきたね)が討伐される。

吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の子である宗茂(むねしげ)の父・吉弘鎮理(しげまさ)が、高橋の名跡を継いで高橋鎮種(たかはししげまさ)、後に改名して高橋紹運(たかはしじょううん)を名乗る。

紹運(じょううん)の嫡男である彌七郎・・後の統虎(むねとら)=宗茂(むねしげ)もその高橋氏の跡取り(次期当主)として育てられる。

ところが、千五百八十一年(天正九年)、大友氏の庶流にあたる家臣・戸次鑑連(道雪)が男児の無かった立花氏の跡継ぎとして紹運の子・高橋統虎(むねとら、宗茂の初名)を養子に入れようと画策する。

紹運(じょううん)は宗茂(むねしげ)の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとした。

だが、共に大友氏の庶流にあたる道雪(どうせつ)が何度も請うて来た為に紹運(じょううん)も拒絶できず、宗茂を道雪の養子として出している。

このとき、宗茂(むねしげ)は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代と結婚して娘婿となり、名も戸次統虎と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られた。

しかし宗茂(むねしげ)は、誾千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したと伝えられる。


千五百八十一年(天正九年)七月、立花家の養子と成った宗茂(むねしげ)は養父・立花道雪と実父・高橋紹運とともに出陣し、秋月氏との嘉麻・穂波の戦い(石坂の戦いともいう)で初陣を飾る。

八木山の石坂の地で紹運は敵軍正面に弓・鉄砲・長槍隊を三段に布陣し、道雪の伏兵が側面より奇襲する戦法を採った。

この合戦で宗茂(むねしげ)は五十騎を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた。

左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂(むねしげ)に組みかかって来た。

しかし、相撲を得意とする宗茂(むねしげ)は彼を圧倒し、家臣の萩尾大学が堀江を討ち取って手柄を立てた。

同千五百八十一年の十一月にも同じ戦地で戦闘があった。

立花勢は朽網鑑康(くたみあきやす)の救援に向かう途中で、鑑康(あきやす)が秋月種実(あきづきたねざね)や、問註所統景(もんぢゅうじょすべかげ)の大叔父・問註所鑑景(もんぢゅうじょあきかげ)との原鶴の戦いで戦闘した。

その後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に宗茂(むねしげ)は秋月軍の追撃を受けた。

それからの過程は七月の戦闘とよく似ているが、両軍の激戦は立花三百余、秋月七百六十の合わせて一千を超える死傷者を出し、当地には千人塚の名が残された。

この戦を立花方は潤野原の戦い、秋月方は八木山の戦いと記した。


千五百八十二年(天正十年)四月、宗茂(むねしげ)は秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍二千との岩戸の戦いに五百の伏兵を率い武功を挙げた。

千五百八十四年(天正十二年)八月、養父・立花道雪と実父・高橋紹運は主家・大友氏(大友宗麟)の筑後奪回戦に参陣する。

この戦いでは、宗茂(むねしげ)は養父・道雪出陣後、一千程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。

この時、秋月種実率いる八千の兵が攻め寄せたが、宗茂(むねしげ)はまず謀叛の素振りをみせた櫻井中務・治部兄弟を粛清する。

その後宗茂(むねしげ)は兵を三隊に分けて果敢に城から出て、夜襲や火計で敵本陣に同士討ちを起こさせて秋月方を撃破する。

更に宗茂(むねしげ)は、西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃する。

この筑後奪回戦で、立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回した。

しかし、千五百八十五年(天正十三年)に養父・立花道雪が病死すると事態は急変し、筑後に於ける大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。

そうして士気が低くなった千五百八十六年(天正十四年)、島津忠長・伊集院忠棟が五万を称する島津軍の大軍を率いて筑前国に侵攻する。

この島津氏の侵攻に脅威を感じた大友宗麟(おおともそうりん)は、中央の覇権を握った羽柴秀吉(豊臣賜姓)に救援を求め、秀吉の九州征伐が開始される。

秀吉の九州征伐は、千五百八十六年(天正十四年)七月から千五百八十七年(天正十五年)四月にかけて行われた、羽柴秀吉(豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である。


この島津氏侵攻の初戦、宗茂(むねしげ)の実父・高橋紹運は、岩屋城にて島津の大軍と徹底抗戦の末に玉砕する。

この時、宗茂(むねしげ)も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。

更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、原田種実隊二千を撃退し、秋月種長隊二千を奇襲するなど縦横無尽の働きを見せ二千近い首級を挙げている。

島津軍は撤退しを開始するが、この時宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の二城を奪還する武功を挙げている。

これらの宗茂(むねしげ)の働きに、豊臣秀吉は大友宗麟から「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人(直臣)となしたまわりますよう」と要請された。


その後も宗茂(むねしげ)は、秀吉の九州征伐で活躍し、西部戦線の先鋒として四月初から肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とす。

更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏、祁答院氏、入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲する。

九州征伐の戦後、秀吉は宗茂(むねしげ)の武功を認めて筑後柳川十三万二千石を与え、大友氏から独立したご家人(直臣)大名に取り立てた。

この時秀吉は、宗茂(むねしげ)を「その忠義も武勇も九州(鎮西)随一で、九州(鎮西)の逸物ある」と高く評価した。

その後も宗茂(むねしげ)は、九州征伐終息後の「肥後国人一揆」の武力制圧にも活躍して武功を挙げている。

立花宗茂(たちばなむねしげ)〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2013-08-24 00:16 | Comments(0)  

立花宗茂(たちばなむねしげ)〔二〕

立花宗茂(たちばなむねしげ)〔一〕】に戻る。

立花宗茂(たちばなむねしげ)は千五百八十八年(天正十六年)に上洛し、七月に従五位下・侍従に叙任され、秀吉から羽柴の名字と豊臣姓(本姓)を与えられる。

千五百九十年(天正十八年)宗茂(むねしげ)は秀吉の小田原征伐に従軍する。

この時、豊臣秀吉は諸大名の前で「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたと伝えられる。


日本の覇権を握った豊臣秀吉は、その新たな野望を朝鮮半島と大陸に向け、大軍を編成して朝鮮に侵攻を始める。

千五百九十二年(文禄元年)からの「文禄の役」では、宗茂(むねしげ)は小早川隆景を主将とする六番隊に参陣し、秀吉から「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領している。

千五百九十七年(慶長二年)からの「慶長の役」では、侵攻軍には編入されずに安骨浦の守備を命ぜられた。

秀吉が死去すると、朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下った。

だが宗茂(むねしげ)は、順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれている事を知ると、弟の高橋統増・島津義弘・宗義智・寺沢広高らと共に水軍を編成して救援に向かう。

宗茂(むねしげ)は、陳璘(ちんりん)率いる明水軍や李舜臣(りしゅんしん/イ・スンシン)率いる朝鮮水軍と戦い(露梁海戦)、小西行長らの救出を成功させた。


秀吉の死去に伴い徳川家康が天下に実力を影響し始めて豊臣家の番頭格・石田三成と軋轢を生み関ヶ原の戦いに到る。

宗茂(むねしげ)は徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶する。
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、宗茂(むねしげ)は石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。

九月十五日の関ヶ原本戦には、宗茂(むねしげ)は大津城を攻めていた為に参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した。

大坂城に退いた後、宗茂(むねしげ)は城に籠もって徹底抗戦しようと西軍の名目総大将の毛利輝元に進言した。

しかし輝元は、その宗茂(むねしげ)進言を容れずに徳川家康に恭順した為、宗茂は自領の筑後柳川に引き揚げた。

その筑後柳川で、黒田孝高(如水)加藤清正、鍋島直茂が東軍方として攻め寄せて来る。

立花勢は柳川城へ篭城する構えを示し、慶長の役で共に苦労した黒田孝高(如水)、第二次蔚山城の戦いで宗茂(むねしげ)に救ってもらった加藤清正が宗茂を懸命に説得。

宗茂(むねしげ)は投降し、開城後は改易されて浪人となる。


その後宗茂(むねしげ)は加藤清正の食客をしていたが、由布惟信、十時連貞ら付き従う家臣を引き連れ浪人の身で京都に上る。

千六百三年(慶長八年)江戸に下った宗茂(むねしげ)は本多忠勝の世話で、由布惟信、十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送ながら改易の解除を待っていた。

千六百四年(慶長九年)、宗茂(むねしげ)一党は本多忠勝の推挙で江戸城に召し出される。

宗茂(むねしげ)の実力をよく知っていた将軍・徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として五千石を給され、徳川家直臣として仕える事になる。

まもなく嫡男・徳川秀忠(次期将軍)の御伽衆に列せられて陸奥棚倉に一万石を与えられて大名として復帰し、同陸奥棚倉で加増され二万五千五百石の知行となった。

千六百十年(慶長十五年)には更に九千五百石の加増を受けて最終的に三万五千石の領地高となり、実はこの頃から漸く宗茂(むねしげ)と名乗っている。


大坂の役の時、大御所・家康は猛将・宗茂(むねしげ)が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったと伝えられる。

そして宗茂(むねしげ)の大坂夏の陣は二代将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、毛利勝永と交戦している。


千六百二十年(元和六年)、宗茂(むねしげ)は幕府から旧領の筑後柳川十万九千二百石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした唯一の大名となった。

また宗茂(むねしげ)は戦国武将としては世代が若く、伊達政宗加藤嘉明丹羽長重らとともに、三代将軍・徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。

千六百四十二年(寛永十九年)、宗茂(むねしげ)は七十六歳を生きて江戸柳原の藩邸で死去した。

宗茂(むねしげ)は生涯を通じて実子に恵まれなかった為、直系の子孫はいない。

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by mmcjiyodan | 2013-08-24 00:14 | Comments(0)  

柳生宗矩(やぎゅうむねのり)

柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、徳川将軍家の剣術指南役を務めた剣術家である。

宗矩(むねのり)の父は、大和国柳生庄二千石の領主・柳生宗厳(やぎゅうむねよし/石舟斎)で、宗矩(むねのり)はその五男として生まれる。

宗矩(むねのり)の父・宗厳(むねよし/石舟斎)は、千五百六十五年(永禄八年)に兵法家・上泉信綱(かみいずみのぶつな)から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でも在った。

母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)で、兄に厳勝、宗章らがいる。

宗矩(むねのり)少年時代、豊臣秀吉の太閤検地の際に隠田の露見によって父・宗厳(むねよし/石舟斎)が失領し、宗矩(むねのり)も牢人となる。

宗矩(むねのり)は仕官の口を求め、秀吉の小田原平定(北条攻め)に陣借りで加わるも適わず、浪々を続けていた。

千五百九十四年(文禄三年)、宗矩(むねのり)は徳川家康に招かれて無刀取りを披露した父・宗厳(むねよし/石舟斎)の推挙により、漸く二百石で家康に仕える事と成る。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、宗矩(むねのり)は家康の命を受け、筒井氏や大和の豪族と協力し、西軍の後方牽制によって功をたて、父の旧領・大和国柳生庄二千石を取り戻す事に成功する。

翌千六百一年(慶長六年)に宗矩(むねのり)は、後の二代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり同年九月十一日に千石加増、合わせて三千石の大身旗本となる。

千六百十五年(慶長二十年)の大坂の役で宗矩(むねのり)は将軍・秀忠の下で従軍、秀忠の元に迫った豊臣方の武者七人(人数に異同あり)を愛刀で瞬く間に倒したと伝えられる。

なお、宗矩(むねのり)が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの大坂の役の時だけである。


大坂の役の翌年、千六百十六年(元和二年)には、宗矩(むねのり)の友人でもあった坂崎直盛(出羽守)の反乱未遂事件(千姫事件)の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。

なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰した為、その約束で直盛の説得を行った宗矩(むねのり)は結果的に直盛を陥れた事になる。

この坂崎直盛(出羽守)の反乱未遂事件(千姫事件)の処理に対する絵図を描いたのは立花宗茂(たちばなむねしげ)で、宗矩(むねのり)はその絵図に乗せられたとも言われている。

宗矩(むねのり)はそれを終生忘れぬ為なのか、元々の柳生家の家紋「地楡に雀」(われもこうにすずめ)に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。

これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。

宗矩(むねのり)は坂崎の嫡子平四郎を引き取って二百石を与えて大和に住ませ、また二人の家臣を引き取り、その内一人には二百石を与えている。

千六百二十一年(元和七年)三月二十一日、宗矩(むねのり)は後の三代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、剣術(新陰流)を伝授する。

その後、三代将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、千六百二十九年(寛永六年)三月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。

さらに宗矩(むねのり)は千六百三十二年(寛永九年)十月三日には、三千石を加増された後、同年十二月二十七日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。

宗矩(むねのり)はその後も功績をあげ、千六百三十六年(寛永十三年)八月十四日の四千石加増で計一万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩する。

さらに晩年に至る千六百四十年(寛永十七年)九月十三日、五百石の加増に続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分二千石の加増もあり、所領は一万二千五百石に達した。

一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、宗矩(むねのり)ただ一人である。

この寛永期前半頃、宗矩(むねのり)は友人の臨済宗の僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)を三代将軍・家光に推挙している。

三代将軍・家光に拝謁の結果、宗彭(そうほう)は宗矩(むねのり)の下屋敷に逗留し家光に近侍、お召しに応じて禅を説いた。

千六百四十六年(正保三年)、宗矩(むねのり)は江戸麻布日が窪にある自邸で死没する。

死後、その宗矩(むねのり)の死を惜しんだ三代将軍・家光の推挙により同年四月に従四位下を贈位された。

一万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かった事を示すものと言える。

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by mmcjiyodan | 2013-08-05 10:57 | Comments(0)  

シンクロニー(同調行動)

群れ社会を形成して生き延びて来た人類には、「シンクロニー(同調行動)」と言う心理的行動がある。

「シンクロニー(同調行動)」は、「理性(左脳域/計算)」よりも「感性(右脳域/感情)」を主体とした心理的行動である。

元々心理学に於いては、「好感」が「シンクロニー(同調行動)」をもたらせて、恋愛に到るとされる「感性(右脳域/感情)」の心理的行動を指す。

好感を持つと「仕草まで同調する」と言う見解で、心理学上の「シンクロニー(同調行動)」は成立した。


「シンクロニー(同調行動)」が顕著に現れるのが、その時々の「好感」を具現化する国政選挙での国民の投票行動である。

このシンクロニー(同調行動)型の国民の投票行動を、政界やメディアでは「風が吹く」と評する。

マスメディアの取り上げ方に拠ってブーム(熱狂的な人気の対象)が起こり、然したる根拠が無くてもシンクロニー(同調行動)の「風が吹く」のである。

つまり世論操作とシンクロニー(同調行動)は一体的傾向にある。

最近の事例としては小泉郵政選挙の自民党大勝だったり、その後の失望に拠る民主党への政権交代、そして首相の嘘吐きに愛想が尽きた結果安倍自民党の大勝は、国民の「シンクロニー(同調行動)投票行動」と言える。

そうなると政治家は、選挙勝利の要件として大衆の「シンクロニー(同調行動)」を意図的に「好感」を作り出す事になる。

だが、それらの「好感」は勢いだけで、後から大衆が気が付くと「何でシンクロニー(同調行動)したのかも判らない」と言う惨憺たる結果が大半である。


「同じ部族や同じ民族・人種」などの民族的同胞認識からも「シンクロニー(同調行動)」は顕著に現れる。

だからこそ日本列島・大和国の黎明期に、その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させている。

日本列島に於ける単一日本民族の成立過程で起こった経緯が、渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)呉族(ごぞく/海洋民族)、そして先住原縄文人(蝦夷/えみし)の、三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。

三つ巴の多民族とは、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系の象徴が邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)であり、呉族(ごぞく/海洋民族)系の象徴が、神武大王(じんむおおきみ/初代天皇)の祖・スサノウ(須佐王)の狗奴国(くなくに)、同じく呉族(ごぞく/海洋民族)系の伊都国の王・葛城氏(賀茂氏)、そして加羅族(からぞく)・呉族(ごぞく)が渡来する以前からの先住民・縄文人(蝦夷族/エミシ族)系の三民族に大別される。

これらの三民族の大和合こそは、天照大神(あまてらすおおみかみ)須佐之男命(スサノウノミコト)の「誓約神話」に象徴される平和の為の神事(呪詛)が「民族のシンクロニー(同調行動)」の為に必要だった。

そして古くは、「古事記」・「日本書紀」の編纂、そして当時の官製メディア・陰陽修験山伏に拠る「記紀神話の流布」も、日本列島の民が皇統崇拝に「シンクロニー(同調行動)させる事を政治的に目的とした」と考えれば解釈できる。


また、信仰や占術・予言の要素に「シンクロニー(同調行動)」がある。

先祖代々や両親、或いは周囲の大半が同じ信仰であれば「シンクロニー(同調行動)」が発揮されて自動的に信者になる。

つまり人に依っては、積極的に「独自の判断で入信した」とばかりに判断できない微妙な入信の経緯も見えて来る。

「シンクロニー(同調行動)」は群れ社会に基づく心理的行動であるが、他者に利用され易い側面が在る事を承知して居なければ成らない事でもある。

詳しくは小論・【シンクロニー(同調行動)の解説】を参照下さい。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2013-08-02 20:09 | Comments(0)