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維新の十傑(いしんのじゅっけつ)

江戸時代末期の徳川幕府の幕閣とは一線を画しながらも、幕末の幕藩体勢に影響を与えた大名諸侯がいた。

薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)、福井藩主・松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)、土佐藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)の四人を並び称して幕末の四賢侯とされた。

但し、千八百五十八年(安政五年)の斉彬(なりあきら)没後は薩摩藩十二代藩主・島津忠義の父・島津久光(しまづひさみつ)をバトンタッチまたはプラスワンと言う形で四賢候に加える場合もある。

それにしても、維新の功臣を多く輩出した・長州藩のリアルタイムの藩主・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)の名が、幕末の四賢侯には並んでいない。

長州藩主・毛利敬親(もうりたかちか)は何でも部下任せの「そうせい侯」として有名で、平凡な藩主と言う評価が一般的だが、しかし全て藩士任せにした事で「多くの維新の功臣を輩出した」と言う結果論も在る。


そして幕末の四賢侯から歴史の経緯を引き継いで江戸幕府の倒幕を為した主力の者達が、「維新の十傑」である。

「維新の十傑」に数えられる人物は、公家岩倉具視長州藩大村益次郎木戸孝允(桂小五郎)前原一誠広沢真臣の四名、薩摩藩西郷隆盛大久保利通小松帯刀の三名、そして肥前藩から江藤新平、肥後藩から横井小楠の各一名である。

横井小楠(よこいしょうなん)と広沢真臣(ひろさわさねおみ)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。

薩長土の三藩プラス肥後藩の薩長土肥と数えられる四藩閥に在りながら、十傑から洩れているのは旧土佐藩士出身の後藤象二郎板垣退助がいる。

但しこの「維新の十傑」は幕末の動乱を生き残ったからこそで、吉田松陰 (よしだしょういん)を始め、高杉晋作(たかすぎしんさく)久坂玄瑞(くさかげんずい)吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)入江九一(いりえくいち)などなど、若くして非業の最期を遂げた勤皇の志士も数多い。

また維新の十傑の内、岩倉具視を除く九名全員が明治十年前後の「紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)」までに、暗殺もしくはなんらかの理由で死亡している。

十傑が去った後に明治政府を主導して行ったのは、何故か伊藤博文山県有朋井上馨と言った長州藩出身者に絞られた元老達である。

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by mmcjiyodan | 2013-09-25 15:52 | Comments(0)  

華族(かぞく)

千八百六十九年(明治二年)三月、明治帝は明治元年の江戸行幸に続き三条実美(さんじょうさねとみ)らを従えて再び東幸を慣行する。

行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在する為に東京城を「皇城」と称する事とする。

建前はあくまでも東京への一時的な行幸だったが、明治帝はそのまま皇城・東京城(旧江戸城)に住み続ける形で千年の都・京都から江戸へ遷都し、東京と為す。


明治維新を成し遂げた英雄達は、日本を欧米列強と伍して行く近代国家にする為に国家の制度そのものを大改定する事にした。

即(すなわ)ち将軍家や大名家、そして下級武家と言った今までの分散軍事支配体制を全て廃止して天皇直轄の軍隊に改め、天皇親政の支配体制にする事を選択する。

旧公家、旧大名家、維新の功績者家などは「華族(かぞく)」、旧下級武家は「士族(しぞく)」とする新たな身分制度に移行する事にした。


華族(かぞく)とは、千八百六十九年(明治二年)から千九百四十七年(昭和二十二年)まで存在した近代日本の貴族階級の事である。

公家に由来する華族を「公家華族」、江戸時代藩主に由来する華族を「大名華族(諸侯華族)」、国家への勲功により華族に加えられたものを「新華族(勲功華族)」、臣籍降下した元皇族を「皇親華族」と区別する。


千八百六十九年(明治二年)七月二十五日、「版籍奉還」と同日に出された行政官布達五十四号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となる事が定められた。

公家百三十七家・諸侯二百七十家・明治維新後に公家となった五家・維新後に諸侯となった家十六家の合計四百二十七家は新しい身分層である「華族」に組み入れられた。

なお、維新後に公家となった五家の内訳は松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家の五家である。

維新後に諸侯となった家十六家は、徳川御三卿(一橋徳川家・清水徳川家・田安徳川家)の三家徳川御三家の各附家老家(尾張徳川家附家老・成瀬家・竹腰家)、(紀伊徳川家附家老・安藤家・水野家)、(水戸徳川家附家老・中山家)の五家、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩主・吉川家、一万石以上の所領を持つ交代寄合格六家(山名家、池田家、山崎家、平野家、本堂家、生駒家)、一万石以上の所領を持つ高家・大沢家の十六家である。

当初は華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族が在った。

またこの後も、新たな華族が加えられる。

奈良興福寺の門跡や院家だった公家の子弟が還俗して新たな華族となった二十六家は奈良華族と総称された。

また、大久保利通(おおくぼとしみち)の功により大久保家が、木戸孝允(きどたかよし)の功により木戸家が、広沢真臣(ひろさわさねおみ)の功により広沢家が、それぞれ明治帝の特旨によって華族になった。

華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの三家のみである。

他に西郷隆盛(さいごうたかもり)の功により西郷家も華族(侯爵)になっているが、西南戦争の影響で大幅に遅れた。

さらに歴史上天皇に対して忠節を尽くした者の子孫・南北朝時代の南朝方の忠臣だった新田義貞(にったよしさだ)の功により新田家が、名和長年(なわながとし)の功により名和家が、菊池武光(きくちたけみつ)の功により菊池家が、明治帝の特旨によりこの明治時代に華族復権となっている。

この南朝忠臣の華族復権は、北朝系である筈の明治帝の特旨としては唐突処置の為に「維新の謎」とも言われている。


華族と言う名称が採用された経緯ははっきりとしない。

華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣、大久保利通、副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」・「名族」・「公族」・「卿家」などの案を持っていたとされる。

総裁・議定・参与の三職による討議(小御所会議)の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった。

明治以前までの「華族」と言えば公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格である清華家の別称だった。

つまり維新前の家格は「完全に新しいものと置き換えられた」と言える。


実は華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。

千八百六十九年(明治二年)五月には、華族を「公」「卿」「太夫」「士」の四つに分け、公と卿は上下の二段階、太夫と士は上中下の三段階という計九等級に分ける案が三職会議から提出された。

千八百七十一年(明治四年)九月には正院から左院に「上公」「公」「亜公」「上卿」「卿」の五等級に分ける案が下問された。

これを受けた左院は十月に「公」「卿」「士」の三等級に分ける案を提出した。

千八百七十六年(明治九年)には法制局が「公」「伯」「士」の三等級案を提出し、西南戦争以前は三等級案が主流となっていた。

千八百七十八年(明治十一年)二月四日、法制局大書記官・尾崎三良と少書記官・桜井能堅から伊藤博文に対し、「公」「侯」「伯」「子」「男」の五等級案が提出された。

これは五経の一つである「礼記」の王制篇に「王者之制禄爵 公侯伯子男 凡五等」とあるのにならったものである。


千八百六十九年(明治二年)十一月二十日、旧諸侯の華族は原則東京に住居する事が定められるも、地方官や外交官として赴任するものはこの限りでなかった。

また同月には旧公家の華族の禄制が定められ、また華族は全て地方官の貫属とする旨が布告された。

千八百七十一年(明治四年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民(士農工商)の上に立ってその模範となる事が求められた。

また諸侯華族(旧大名家)は、千八百七十一年(明治四年)二月二十日に全て東京府の貫属となる。

為に諸侯華族(旧大名家)は旧領の支配権を失い、七月十四日には廃藩置県が行われ、諸侯華族は知藩事としての地位も失った。


千八百七十四年(明治七年)には華族の団結と交友の為、華族会館が創立された。

千八百七十六年(明治九年)全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別無く系図上の血縁ごとに七十六の「類」として分類された。

同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになり、千八百七十八年(明治十一年)にはこれをまとめた「華族類別録」が刊行されている。

千八百七十七年(明治十年)には華族の子弟教育の為に学習院が開校され、同年華族銀行と呼ばれた第十五国立銀行も設立された。

これら華族制度の整備を主導したのは、自らも公家華族である右大臣・岩倉具視(いわくらともみ)だった。


岩倉具視は伊藤博文(いとうひろぶみ)と政治的に協力関係に在った。

だが、伊藤博文や木戸孝允(きどたかよし)が構想した将来の議会上院形成の為に華族を増員する事、具体的には維新の功労者を華族に加える事には強い拒否反応を示した。

岩倉具視は、そもそも華族が政治に参加する事に反対だった。

しかし千八百八十一年(明治十四年)に国会開設の詔(みことのり)が出されると岩倉具視もようやく伊藤博文の上院形成方針に同意した。

千八百八十三年(明治十六年)、岩倉具視は喉頭癌(こうとうがん)を発症、同年七月二十日、具視は死去する。

岩倉具視の死後、伊藤博文を中心に設置された制度取調局で華族制度の「爵制整備案」が進められた。


千八百八十四年(明治十七年)七月七日、華族令が制定され、これにより華族は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。

この基準は、二ヶ月前の五月七日に賞勲局総裁・柳原前光から太政大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。

同時に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家二十九家が華族に列せられ、爵位を受けている。

叙爵は七月中に三度行われ、五百九人の有爵者が生まれた。


その華族令制定から六十三年の時が過ぎ、元号は大正、昭和と移り行く。

千九百四十七年(昭和二十二年)五月三日、貴族制度の禁止(憲法十四条二項)と法の下の平等(憲法十四条一項)を定めた日本国憲法の施行とともに華族制度は廃止された。

当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たる事により、いかなる政治的権力も有しない。(補則第九十七条)」と、存命の華族一代の間はその栄爵を認める形になっていた。

自ら男爵でもあった幣原喜重郎もこの条項に強いこだわりを見せたものの、衆議院で即時廃止に修正(芦田修正)して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。

なお、歴史学者・小田部雄次(静岡福祉大学教授)の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は千十一家である。

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by mmcjiyodan | 2013-09-21 18:17 | Comments(0)  

士族(しぞく)

千八百六十九年(明治二年)三月、明治帝は明治元年の江戸行幸に続き三条実美(さんじょうさねとみ)らを従えて再び東幸を慣行する。

行幸二十日余りを持って東京城(旧江戸城)に入り、ここに滞在する為に東京城を「皇城」と称する事とする。

建前はあくまでも東京への一時的な行幸だったが、明治帝はそのまま皇城・東京城(旧江戸城)に住み続ける形で千年の都・京都から江戸へ遷都し、東京と為す。


士族(しぞく)とは、明治維新以降、江戸時代の旧武士階級や公家などの支配階層のうち、原則として録を受け取るも華族とされなかった者に与えられた身分階級の族称である。

士族階級に属する者には、「壬申戸籍(じんしんこせき)」に「士族」と身分表示が記され、第二次世界大戦後千九百四十七年(昭和二十二年)の民法改正による家制度廃止まで戸籍に記載された。


千八百五十九年(明治二年)の「版籍奉還」の直後の千八百六十九年(明治二年)八月二日、行政官達第五百七十六号により明治政府は旧武士階級(藩士兵卒)のうち、藩一門から平藩士までを士族と呼ぶ事を定める。

士族の選定基準は藩によって異なるが、加賀藩の場合では、直参身分で在った足軽層の一部や上級士族の家臣である陪臣層も士族とされていた。

一方で、中間などの武家奉公人は卒族に編入された。

政府方針としては旧来の武士身分の統一を図るものであったが、多くの藩では独自に上中下などの等級をつけ、旧来の家格制度を維持しようとした。

さらに千八百七十年(明治二年)一月三日、太政官布第千四号によりかつての旗本が新政府帰順後に与えられていた中下大夫上士以下の称が廃止され、華族に編入された一部の交代寄合を除いて士族に編入された。

千八百七十一年(明治三年)一月三十日には、華族とみなされなかった多くの地下家、公家に仕えていた青侍などの家臣層も士卒族に統合された。

その後、寺社の寺侍(じざむらい/てらさむらい)なども段階的に士卒族へ統合された。

その一方で、給金の財源不足への対策として帰農帰商が推奨され、士卒族から平民への転籍が推進された。

また蔵米の等級の変更により、一部の卒族から士族への族籍変更が行われた。

千八百七十二年(明治五年)に編製された戸籍「壬申戸籍(じんしんこせき)」に於いては族籍の項目が設けられた。

当時の全国集計による士族人口は全国民の三.九%を占め、また卒族人口は全国民の二十%を占め、士族・卒族・地士の人口は全国民の約六%を占めた。


千八百七十二年(明治五年)三月八日、太政官布第二十九号で卒族の称が廃止される。

卒族のうち世襲であった家の者も士族に編入される事となった一方、新規に一代限りで卒に雇われた者は平民に復籍する事となる。

千八百七十二年(明治五年)初頭の時点で卒族だった者の九割近くは、士族に移行している。

千八百七十五年(明治八年)までには卒族は完全に解体され、世襲の郷士階級も士族に統合された。

千八百七十六年(明治九年)の時点で、士族は全国民の五.五%を占める事となった。


明治から昭和の初めまでは、明治初期からの代々の家族が全て同じ戸籍に記され、四代程度に渡って兄弟姉妹、配偶者、それぞれの子供、子孫ら家族すべてが記されていた。

男子は結婚しても兄弟すべての家族が記され、他家に嫁いだ姉妹のみ結婚後は籍を移すが、男子が分籍する事はなかった。

士族に生まれた者であっても分籍した場合は平民とされた為、分籍するのは何らかの特別な事情がある場合に限り、通常は大所帯の戸籍であった。

大正時代の平民宰相・原敬は上級武士の家柄であったが、当時の徴兵制度で戸主は兵役義務から免除される規定を受ける為、二十歳の時に分籍して戸主となり「平民」に編入された。

士族(しぞく)の解体】に続く。

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by mmcjiyodan | 2013-09-21 18:09 | Comments(0)  

士族(しぞく)の解体

士族(しぞく)】に戻る。

江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀などの身分的特権を持っていた。

こうした旧来の封建制的な社会制度は明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。

千八百六十九年(明治二年)の版籍奉還で武士身分の大半が士族として政府に属する事になる。

それが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設に於いても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。

士族の特権は段階的に剥奪され、千八百七十三年(明治六年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、千八百七十六年(明治九年)には廃刀令が実施された。

秩禄制度は千八百七十二年(明治五年)に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、千八百七十三年(明治六年)には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。

そして、千八百七十六年(明治九年)に金禄公債を発行し、兌換(だかん)を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。

また、苗字の名乗りは千八百七十年(明治三年)に平民にも許可され、千八百七十五年(明治八年)には義務化(国民皆姓)された。

この他、千八百七十一年(明治四年)年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。

一時、士族に対して「華族と別立ての爵位を授与しよう」と言う議論が岩倉具視(いわくらともみ)らにより模索されていた。

だが、明治新政府の元勲であった伊藤博文が維新に功労があった武士を勲功華族とする案が提唱され、これが採択される。

そのことにより、士族に対する恩典は名字帯刀や秩禄はおろか、名分上の栄誉さえも許されず、たんに戸籍における族称のみが士族に許されただけであった。

四民平等へと移行される過程で士族身分は解体され、大量の失業者が発生した。

秩禄を失った士族は政府や諸官庁に勤めたり、軍人・教員などに成る事もあった。

だが、職に就けずに没落する者も多く、慣れない商売に手を出して失敗し「士族の商法」と揶揄される事もあった。

代表例としては「有平糖(ありへいとう/不平党)」、「お芋の頑固り不平おこし(薩摩士族)」などがある。

政府による救済措置として、困窮した士族を救済する士族授産が行われたが、北海道への屯田兵移住などを除き、失敗する例が多かった。

こうした状況から新政府の政策に不平を唱える士族(不平士族)による反乱(士族反乱)が各地で発生した。



佐賀の乱(さがのらん)」、「神風連の乱(しんぷうれんのらん)」、「秋月の乱(あきずきのらん)」、「萩の乱(はぎのらん)」、「西南戦争(せいなんせんそう)」などがそれである。

西郷隆盛(さいごうたかもり)が唱えた「征韓論」にも士族の救済と言う側面が在ったが、西郷が西南政争に敗れ実現しなかった。

また、初期の自由民権運動は「士族民権」とも言われ、不平士族が中心になっていた。

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by mmcjiyodan | 2013-09-21 17:58 | Comments(0)  

太宰治(だざいおさむ)

太宰治(だざいおさむ)は、本名を津島修治(つしましゅうじ)、筆名(ペンネーム)を太宰治(だざいおさむ)とする小説家である。

修治(しゅうじ)は、千九百九年(明治四十二年)六月十三日、青森県北津軽郡金木村(のちの北津軽郡金木町、現青森県五所川原市)に、県下有数の大地主である津島源右衛門、タ子(たね)の六男として生まれた。

両親には子女が十一人居て、修治(しゅうじ)はその十番目の生まれで、修治(しゅうじ)が生まれた時には、既に長兄・次兄は他界していた。

修治(しゅうじ)の父・源右衛門は、木造村の豪農・松木家からの婿養子で、松木家も県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員等をつとめた地元の名士だった。

津島家の富豪振りは半端な物では無く、津軽地方では「金木の殿様」とも呼ばれていた。

父・津島源右衛門は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったので、修治(しゅうじ)自身は乳母らによって育てられた。

千九百二十三年(大正十二年)、修治(しゅうじ)が青森県立青森中学校(現・青森県立青森高等学校)へ入学直前の三月、父・津島源右衛門が死去する。

修治(しゅうじ)が十七歳の頃、習作「最後の太閤」を書き、また同人誌を発行して作家を志望するようになる。

官立弘前高等学校文科甲類時代の修治(しゅうじ)は、泉鏡花や芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の作品に傾倒すると共に、左翼運動ににも傾倒する。

千九百二十九年(昭和四年)、当時流行のプロレタリア文学の影響で同人誌・「細胞文芸」を発行すると辻島衆二の名義で作品を発表する。

この頃は他に小菅銀吉または本名・津島修治・名義でも文章を書いていたが、自らの富裕階級の身に悩み、十二月にカルモチン自殺を図っている。

翌・千九百三十年(昭和五年)、修治(しゅうじ)は弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業する。

フランス語を知らぬまま、修治(しゅうじ)はフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学する。

しかし修治(しゅうじ)は、高水準の講義内容が全く理解できなかった上、実家からの仕送りで有る豪奢(ごうしゃ)な生活を意味するデカダンスを送る。

一方修治(しゅうじ)は、それに対する自己嫌悪・六男坊という修治(しゅうじ)自身の立ち位置もあいまって、マルキシズムに傾倒して行く。

修治(しゅうじ)は、思想自体に本気でのめり込んでいた訳ではないものの当時治安維持法にて取り締まられた共産主義活動に没頭し、講義には殆ど出席しなかった。

同じ頃、修治(しゅうじ)は小説家を目指して作家・井伏鱒二に弟子入りし、この頃から本名・津島修治に変わって太宰治(だざいおさむ)を名乗るようになる。

在籍した東京帝国大学文学部仏文学科の籍は、留年を繰り返した挙句に授業料未納で除籍される。

治(おさむ)は、卒業口頭試問を受けた時、教官の一人から「教員の名前が言えたら卒業させてやる」と言われた。

しかし、講義に全く出席していなかった治(おさむ)は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。

治(おさむ)は、在学中にカフェの女給で人妻である田部シメ子と出会い、鎌倉・腰越の海にて入水自殺を図るも、シメ子だけ死亡し治(おさむ)だけは生き残る事件を起こす。

千九百三十三年(昭和八年)、治(おさむ)は芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)を敬愛しつつ短編・「列車」を「サンデー東奥」に発表する。

同・千九百三十三年(昭和八年)同人誌・「海豹」に参加し、「魚服記」を発表する。

千九百三十五年(昭和十年)に治(おさむ)は、「逆行」を「文藝」に発表する。

初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、憧れの第一回芥川賞候補となったが作家・石川達三の「蒼氓」が受賞し、治(おさむ)の「逆行」は落選した。

この時選考委員である後のノーベル賞作家・川端康成(かわばたやすなり)から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、治(おさむ)は「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌上で反撃した。

その後、治(おさむ)は都新聞社に職を求めるも入社できず、またも自殺未遂事件を起こす。

第一回芥川賞の選考時に治(おさむ)の「逆行」を高く評価していた選考委員の作家・佐藤春夫(さとうはるお)を知り師事する。

第二回芥川賞の受賞を治(おさむ)は期待し、佐藤春夫も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となる。

第三回芥川賞の選考では、治(おさむ)は仇敵であった川端康成にまでも選考懇願の手紙を送っている。

しかし、過去に候補作となった作家は選考対象から外すと言う規定が設けられ、治(おさむ)は候補にすら成らなかった。

千九百三十六年(昭和十一年)、治(おさむ)は前年よりのパビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女短編集「晩年」を刊行する。

翌千九百三十七年(昭和十二年)、治(おさむ)は内縁の妻・小山初代とカルモチン自殺未遂を起こし一年間筆を絶つ。

千九百三十八年(昭和十三年)、師事する作家・井伏鱒二の招きで山梨県御坂峠にある天下茶屋を訪れ三ヵ月間逗留している。

その井伏鱒二の仲人で甲府市出身の石原美知子と結婚した。

治(おさむ)は甲府市御崎町(現・朝日)に棲家を得て精神的にも安定し、「富嶽百景」「駆け込み訴へ」「走れメロス」などの優れた短編を発表する。

戦中も、治(おさむ)は甲府に在って創作活動を継続、「津軽」、「お伽草紙」などを書き上げ、戦後の千九百四十七年(昭和二十二年年)に没落華族を描いた長編小説「斜陽」が評判を呼び、流行作家となる。

太宰治(だざいおさむ)は、「人間失格」、「桜桃」などを書きあげた後、千九百四十八年(昭和二十三年)六月十三日に玉川上水で、愛人・山崎富栄と入水自殺を遂げた。

大正ロマンのポルノチック(性愛情景的)な世相の中に在って、治(おさむ)は退廃的な生真面目過ぎ、左傾思想などに向き合うも、心の隙間を埋める為か女性関係だけは賑やかだった。

詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-09-17 01:05 | Comments(0)  

江戸川乱歩(えどがわらんぽ)

江戸川乱歩(えどがわらんぽ)は、大正から昭和に掛けて活躍した推理小説を得意とした小説家・推理作家である。

江戸川乱歩(えどがわらんぽ)の筆名(ペンネーム)は敬愛するアメリカの文豪エドガー・アラン・ポーをもじったもので、本名は平井太郎(ひらいたろう)である。

中学での平井太郎(ひらいたろう)=江戸川乱歩(えどがわらんぽ)は、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読し、旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)卒業後早稲田大学政治経済学部に入学した。

千九百二十三年(大正十二年)、「新青年」に掲載された短編推理小説・「二銭銅貨」で乱歩(らんぽ)は作家デビュー、森下雨村、小酒井不木に激賞される。

今日の乱歩(らんぽ)の作品では、明智小五郎と小林少年を始めとする少年探偵団が活躍する少年向け作品・「怪人二十面相」などが多数知られる。

しかし、乱歩(らんぽ)が活躍したリアルタイムの世情は、大正ロマンのポルノチック(性愛情景的)な風俗が反乱する時代で、大衆読者に好まれたのは幻想・怪奇小説、あるいは犯罪小説だった。

乱歩(らんぽ)は、文豪・谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の耽美主義作品に「少なからぬ影響を受けた」とされる。

それで乱歩(らんぽ)も、次第に「赤い部屋」「人間椅子」「鏡地獄」等に代表される「変格もの」を多く書くようになって行った。

乱歩作品の「変格もの」とは、本来は秘すべき歪んだ嗜好やドロドロとした性癖をテーマにして人間の裏面を暴き出したもので、大正ロマンの一郭を占めていた言える。

幸い乱歩(らんぽ)は、衆道の少年愛や少女愛、女装・男装、人形愛、草双紙、サディズムやグロテスク・残虐趣味などの嗜好も強く、これを活かした通俗探偵小説は昭和初年以降当時の一般大衆に歓迎された。

何しろ江戸川乱歩作品には、本来は秘すべき歪んだ嗜好やドロドロとした性癖をテーマにして人間の裏面を暴き出したものも多く、大正ロマンの一郭を占めていた言える。

千九百二十八年(昭和三年)八月、一年二ヶ月の休筆の後、乱歩は自己の総決算的中篇「陰獣」を発表する。

変態性欲を基調としたこの作品「陰獣」を不健康な作とみなす者もいる。

一方、当時の探偵小説のメッカとでも称すべき雑誌「新青年」の編集者・横溝正史が「前代未聞のトリックを用いた探偵小説」と絶賛するなど戦前の本格探偵小説のエポックを築く事になった。

詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-09-16 01:15 | Comments(0)  

川端康成(かわばたやすなり)

川端康成(かわばたやすなり)は、日本人初のノーベル文学賞受賞作家である。

康成(やすなり)は千八百九十九年(明治三十二年)、済生学舎卒の医師・栄吉を父に、ゲンを母に大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に生れる。

まだ康成(やすなり)が二歳の千九百一年(明治三十四年)に父が死去、母の実家がある大阪府西成郡豊里村(現在の大阪市東淀川区)に移ったが、翌千九百二年に(明治三十五年)に母も死亡する。

祖父の三八郎、祖母のカネと一緒に摂津・三島郡豊川村(現在の茨木市)に移った。

千九百六年に(明治三十九年)九月に祖母が死に、千九百六年に(明治三十九年)には別居していた姉・芳子も死亡した。

千九百十二年(明治四十五年/大正元年)、康成(やすなり)は大阪府立茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)に首席で入学する。

しかし二年後、最後の身内である祖父・三八郎が死去した為、康成(やすなり)を豊里村の黒田家が引き取ったが、中学校の寄宿舎に入りそこで生活を始めた。

茨木中学校の下級生には、ジャーナリストでノンフィクション作家の大宅壮一が在学していた。

康成(やすなり)が作家を志したのは中学二年の時で、千九百十六年(大正五年)から「京阪新報」に小作品を、「文章世界」に短歌を投稿するようになる。

康成(やすなり)は千九百十七年(大正六年)に茨木中学校を卒業すると上京し、浅草蔵前の従兄の家に居候し、予備校に通い始める。

その成果で、康成(やすなり)は第一高等学校の一部乙、英文科に入った。

後年「伊豆の踊子」で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌千九百十八年(大正七年)の秋に伊豆へ旅行した時のものである。

その後十年間、康成(やすなり)は伊豆湯ヶ島湯本館へ通うようになっている。

千九百二十年(大正九年)、康成(やすなり)は第一高等学校を卒業し、東京帝国大学文学部英文学科に入学する。

東京帝国大同期には北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作らがいた。

同千九百二十年(大正九年)、康成(やすなり)は今東光、鈴木彦次郎、石濱、酒井真人と共に同人誌・「新思潮(第六次)」の発刊を企画し、英文学科から国文学科へ移った。
翌千九百二十一年(大正十年)、「新思潮(第六次)」を創刊、同年そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛(きくちかん)らに評価される。

康成(やすなり)は、千九百二十三年(大正十二年)に菊池寛(きくちかん)に拠って創刊された「文藝春秋」の同人となった。

国文科に転じた事もあり、東京帝国大学に一年長く在籍したが、千九百二十四年(大正十三年)に「日本小説史小論」を卒論に卒業した。

同千九百二十四年(大正十三年)、康成(やすなり)は横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら十四人と伴に同人雑誌「文藝時代」を創刊する。

「文藝時代」には、「伊豆の踊子」などを発表した。

千九百二十六年(大正十五年/昭和元年)、康成(やすなり)は処女短篇集・「感情装飾」を刊行する。

この年、千九百二十六年(大正十五年/昭和元年)、康成(やすなり)は青森県八戸市の松林慶蔵の三女・秀子と結婚する。

千九百二十七年(昭和二年)、康成(やすなり)は秀子夫人とともに豊多摩郡杉並町馬橋(高円寺)に移転する。

移転先の杉並町で、同人雑誌・「手帖」を創刊し、のちに「近代生活」、「文学」、「文学界」の同人となった。

その後康成(やすなり)は、「雪国」、「禽獣」などの作品を発表し、千九百三十七年(昭和十二年)に「雪国」で文芸懇話会賞を受賞する。

千九百四十四年(昭和十九年)、「故園」、「夕日」などにより菊池寛賞を受賞し、この頃三島由紀夫が持参した「煙草」を評価する。

康成(やすなり)は、三島由紀夫を文壇デビューさせたその師的存在である。


千九百四十五年(昭和二十年)、康成(やすなり)は作家仲間の志賀直哉の推薦で海軍報道班員(少佐待遇)となり、山岡荘八と鹿屋へ趣き、神風特別攻撃隊神雷部隊を取材する。

この取材で、同行した山岡荘八は作家観が変わるほどの衝撃を受け、康成(やすなり)は「生命の樹」を執筆している。

千九百四十五年(昭和二十年)八月十五日の終戦を経て、康成(やすなり)は「千羽鶴」、「山の音」などを断続発表しながら千九百四十八年(昭和二十三年)に日本ペンクラブ第四代会長に就任する。

千九百五十八年(昭和三十三年)、康成(やすなり)は国際ペンクラブ副会長に就任し、以後国際的文壇で活躍する。

千九百六十八年(昭和四十三年)十一月、「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さ」を評価し康成(やすなり)に対してノーベル文学賞受賞が決定した。

受賞から三年半、千九百七十二年(昭和四十七年)四月十八日、神奈川県逗子市のマンション「逗子マリーナ」の自室・仕事部屋で、康成(やすなり)が死亡しているのが発見された。

康成(やすなり)七十二歳、ガス管を咥え絶命しているところを発見され、自殺と報じられた。

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by mmcjiyodan | 2013-09-15 01:22 | Comments(0)  

永井荷風(ながいかふう)

小説家・永井荷風(ながいかふう)は筆名(ペンネーム)で、本名は永井壮吉(ながいそうきち)と言う・

千八百七十九年(明治十二年)十二月三日 、永井壮吉(ながいそうきち)=永井荷風(ながいかふう)は永井久一郎と恒(つね)の長男として、東京市小石川区金富町四十五番地(現文京区春日二丁目)に生まれた。

壮吉(そうきち)の父・久一郎はプリンストン大学やボストン大学に留学経験もあるエリート官僚で、内務省衛生局に勤務した後に日本郵船に天下った。

壮吉(そうきち)の母・恒は久一郎の師で、儒者の鷲津毅堂の二女と言うエリート家系だった。

千八百九十一年(明治二十四年)に、壮吉(そうきち)神田錦町に在った高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)二年に編入学した。

千八百九十四年(明治二十七年)に病気になり荷風(かふう)は一時休学、病気による長期療養が元で一年留年している。

千八百九十七年(明治三十年)三月に、荷風(かふう)は漸く中学を卒業する。

同千八百九十七年七月、荷風(かふう)は第一高等学校入試に失敗、九月には家族と上海に旅行し、帰国後の千八百九十八(明治三十一年)、旅行記・「上海紀行」を発表する。

この「上海紀行」が現存する荷風(かふう)の処女作と言われている。

同時期に神田区一ツ橋の高等商業学校(現一橋大学・東京外国語大学)附属外国語学校清語科に臨時入学したが欠席が過ぎて二年後に除籍になる。

千九百八年(明治四十一年)、荷風(かふう)二十九歳で「あめりか物語」を発表する。

翌千九百九年(明治四十二年)の「ふらんす物語」と「歓楽」は退廃的な雰囲気や日本への侮蔑的な表現などが嫌われたようで風俗壞亂(ふうぞくかいらん)として発売禁止の憂き目にあう。

夏目漱石(なつめそうせき)からの依頼により東京朝日新聞に「冷笑」が連載され、その他「新帰朝者日記」「深川の唄」などの傑作を発表するなど荷風(かふう)は新進作家として注目される。

注目を受け、荷風(かふう)は森鴎外(もりおうがい)夏目漱石や小山内薫、二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持った。

千九百十年(明治四十三年)、森鴎外と上田敏の推薦で、荷風(かふう)は慶應義塾大学文学部の主任教授となる。

教育者としての荷風(かふう)はハイカラーにボヘミアンネクタイと言う洒脱(しゃれ)な服装で講義に望んだ。

講義内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だったが、関係者には「講義は面白かった。

しかし荷風(かふう)教授ととの雑談は「講義以上に面白かった」と佐藤春夫(さとうはるお)が評したように好評だった。

この講義から、佐藤春夫(さとうはるお)の他に水上瀧太郎、松本泰、小泉信三、久保田万太郎などの人材が生まれている。

この頃の荷風(かふう)は八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)を見出す。

荷風(かふう)は訳詩集・「珊瑚集」の発表、雑誌・「三田文学」を創刊し、谷崎潤一郎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。

荷風(かふう)は、華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けた為、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。

為に、千九百十二年(明治四十五年/大正元年)、父・久一郎に本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女・ヨネと結婚させられる。

所が、翌千九百十三年(大正二年)に父・久一郎が没し、荷風(かふう)が家督を継いで間もなく離縁している。

次の年、千九百十四年(大正三年)には新橋の芸妓・八重次(後の藤蔭静枝)を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。

しかも八重次との生活も翌年には早くも別居、荷風は京橋区築地(現中央区築地)の借家へ移った。

千九百二十六年(大正十五年/昭和元年)四十七歳の頃から、荷風(かふう)は銀座のカフェーに出入りする。

荷風の創作の興味は旧来の芸者から新しい女給や私娼などに移り、千九百三十一年(昭和六年)「つゆのあとさき」、千九百三十四年(昭和九年)「ひかげの花」など新境地の作品を作り出す。

このころ各出版社から荷風の全集本が発売された事により多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。

旺盛な執筆の傍ら寸暇を惜しんで、荷風(かふう)は友人の神代帚葉らと銀座を散策したり、江東区荒川放水路の新開地や浅草の歓楽街、玉の井の私娼街に遊ぶ。

そんな成果が実り、千九百三十七年(昭和十二年)には「?東綺譚」を朝日新聞に連載、この小説は後に映画化されている。

随筆では、下町の散策を主題とした「深川の散歩」、「寺じまの記」、「放水路」などの佳作を発表している。

永井荷風(ながいかふう)の日常も、大正ロマンのポルノチック(性愛情景的)な風俗が反乱する時代の作家に相応しく、艶聞に色どられたものだった。

永井荷風(ながいかふう)もまた、谷崎潤一郎と同様に女性との艶聞遍歴が創作意欲であり、体験的な「作品の種」だったのだろう。

荷風(かふう)が関係した女性達については、自らの日記・「断腸亭日乗」の千九百三十六年(昭和十一年)一月三十日付けの記事に列記している。

詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-09-14 00:55 | Comments(0)  

夏目漱石(なつめそうせき)〔一〕

小説家、評論家、英文学者として知られる筆名(ペンネーム)夏目漱石(なつめそうせき)の本名は夏目金之助(なつめきんのすけ)である。

金之助(きんのすけ)は、千八百六十七年(慶応三年)二月九日、江戸の牛込馬場下に名主・夏目小兵衛直克、母・千枝の末子(五男)として出生する。

父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった。

母・千枝は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、金之助(きんのすけ)は望まれない子として生まれた。

金之助(きんのすけ)の祖父・直基は道楽者で、死ぬときも酒の上で頓死(とんし)したといわれるほどの人であったから、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった。

しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得る事ができた。

金之助(きんのすけ)という名前は、生まれた日がこの日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった「庚申の日」だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。

また三歳頃に罹った疱瘡により、痘痕は目立つほどに残る事となった。

当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、金之助(きんのすけ)は生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出される。

所が、この赤子(金之助)が、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。

その後の千八百六十八年(明治元年)十一月、金之助(きんのすけ)は塩原昌之助のところへ養子に出された。

塩原は父・直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人のやすと言う女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。

しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、金之助(きんのすけ)七歳の時、養母・やすと伴に一時生家に戻る。

一時期金之助(きんのすけ)は実父母の事を祖父母と思い込んでいた。

養父母の離婚により、金之助(きんのすけ)九歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により二十一歳まで夏目家への復籍が遅れた。

このように、金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)の幼少時は波乱に満ちていた。

この養父・塩原には、漱石(そうせき)が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。

養父母との関係は、後の自伝的小説・「道草」の題材にもなっている。

家庭のごたごたのなか、市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。

金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)十二歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の日比谷高校)に入学する。

しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学した事と、また漢学・文学を志す為、金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)は二年ほどで中退した。

中退の後も金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)は、長兄・大助に咎められるのを嫌い、弁当を持って一中に通う振りをしていた。

後に金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)は、漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)に入学する。

この二松學舍で、後の小説で見られる漱石(そうせき)の儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。

しかし、長兄・大助が文学を志す事に反対した為、はこの二松學舍も数か月で中退する。

長兄・大助は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていた。

そこで出来の良かった末弟の金之助(きんのすけ)=漱石(そうせき)を見込み、大学を出て立身出世をさせる事で夏目家再興の願いを果たそうとしていた。

二年後の千八百八十三年(明治十六年)、金之助(きんのすけ)は英語を学ぶ為、神田駿河台の英学塾・成立学舎に入学し、頭角を現した。

千八百八十四年(明治十七年)、大学予備門の受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていた事も幸いし、金之助(きんのすけ)は無事に大学予備門予科に入学。

ちなみにその隣席の友人は不合格であった。

大学予備門時代の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。

千八百八十六年(明治十九年)、大学予備門は第一高等中学校に改称する。

その年、金之助(きんのすけ)は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず中村是公と共に落第する。

その後金之助(きんのすけ)は、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活し、以後は学業に励み、ほとんどの教科に於いて首席であった。

金之助(きんのすけ)は、特に英語が頭抜けて優れていた。

千八百八十九年(明治二十二年)、同窓生として漱石(そうせき)に多大な文学的・人間的影響を与える事になる俳人・正岡子規(まさおかしき)と初めて出会う。

正岡子規(まさおかしき)が手がけた漢詩や俳句などの文集・「七草集」が学友らの間で回覧された時、金之助(きんのすけ)がその批評を巻末に漢文で書いた事から、本格的な友情が始まる。

この時金之助(きんのすけ)は、初めて漱石(そうせき)と言うう号を使う。


漱石(そうせき)の名は、唐代の「晋書」にある故事「漱石枕流(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)」から取ったもので、負け惜しみの強い事、変わり者の例えである。

「漱石(そうせき)」は子規(しき)の数多いペンネームの内の一つであったが、後に漱石(そうせき)は子規(しき)からこれを譲り受けている。

千八百八十九年(明治二十二年)九月、房州(房総半島)を旅した時の模様を漱石(そうせき)が漢文でしたためた紀行・「木屑録(ぼくせつろく)」の批評を、子規(しき)に求めるなど、徐々に交流が深まって行く。

漱石(そうせき)の優れた漢文、漢詩を見て子規(しき)は驚いたと言う。

以後、子規(しき)との交流は、漱石(そうせき)がイギリス留学中の千九百二年年(明治三十五年)に子規(しき)が没するまで続く。


千八百八十七年(明治二十年)三月、漱石(そうせき)は長兄・大助と死別、同年六月に次兄・栄之助と死別する。

千八百九十年(明治二十三年)、漱石(そうせき)は創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学する。

帝国大学入学直後の千八百九十一年(明治二十四年)には三兄・和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした。

長兄、次兄を続けて亡くした事も影響して、この頃から漱石(そうせき)は、厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。

漱石(そうせき)は三兄・和三郎の妻・登世に「恋心を抱いていた」とも言われ、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

翌千八百九十二年(明治二十五年)、漱石(そうせき)は特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で「方丈記」の英訳などする。

その年の千八百九十二年(明治二十五年)、漱石(そうせき)は兵役逃れの為に分家し、貸費生で在った為北海道に籍を移す。

漱石(そうせき)は同年五月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。

漱石(そうせき)と子規(しき)は早稲田の辺を一緒に散歩する事もままあった。

その様を子規(しき)は自らの随筆・「墨汁一滴」で「この時余が驚いた事は漱石(そうせき)は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。

千八百九十二年(明治二十五年)七月七日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規(しき)と共に、漱石(そうせき)は初めての関西方面の旅に出る。

夜行列車で新橋を経ち、八日に京都に到着して二泊し、十日神戸で子規(しき)と別れて十一日に岡山に到着する。

岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に一か月あまり逗留する。

この間、七月十九日、松山の子規(しき)から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。

漱石(そうせき)は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。

その後漱石(そうせき)は、八月十日、岡山を立ち、松山の子規(しき)の元に向かう。

子規(しき)の家で、後に漱石(そうせき)を職業作家の道へ誘う事になる当時十五歳の高浜虚子(たかはまきょし)と出会う。

子規(しき)は千八百九十三年(明治二十六年)三月、帝国大学を中退する。


千八百九十三年(明治二十六年)、漱石(そうせき)は帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶ事に違和感を覚え始める。

二年前の、登世との失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。

その後、漱石(そうせき)は鎌倉の円覚寺で釈宗演のもとに参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。

千八百九十五年(明治二十八年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任する。

ちなみに、松山は子規(しき)の故郷であり、漱石(そうせき)は二ヵ月あまり静養していた。

この頃、子規(しき)とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。

夏目漱石(なつめそうせき)〔二〕】に続く。

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by mmcjiyodan | 2013-09-13 01:06 | Comments(0)  

夏目漱石(なつめそうせき)〔二〕

夏目漱石(なつめそうせき)〔一〕】に戻る。

千八百九十六年(明治二十九年)、漱石(そうせき)は熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚をする

しかし鏡子は、慣れない環境と流産の為ヒステリー症が激しくなり、三年目には白川井川淵に投身を図るなど、漱石(そうせき)には順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。

この頃の漱石(そうせき)は俳壇でも活躍し、家庭面以外では順調に名声をあげて行く。

千九百年(明治三十三年)五月、漱石(そうせき)は文部省より英語研究の為(英文学の研究ではない)英国留学を命ぜられる。

千九百年最初の漱石(そうせき)の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。

漱石(そうせき)はメレディスやディケンズをよく読み漁った。

大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講を止めてしまう。

漱石(そうせき)は「永日小品」にも出て来るシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また「文学論」の研究に勤しんだりする。

しかし漱石(そうせき)は、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。

漱石(そうせき)は「夜下宿ノ三階ニテ、ツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。

それでもこのロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆・「倫敦塔」が書かれている。

千九百一年(明治三十四年)、化学者の池田菊苗と二か月間同居する事で新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。


その結果、今まで付き合いの在った留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送る。

土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。

漱石(そうせき)英国留学中の千九百二年(明治三十五年)九月、正岡子規(まさおかしき)が三十五歳の若過ぎる死を迎えた。

千九百二年(明治三十五年)九月に芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出る。

その為、「漱石発狂」という噂が文部省内に流れる。

漱石(そうせき)は急遽帰国を命じられ、千九百二年(明治三十五年)十二月五日にロンドンを発つ事になった。

帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石(そうせき)の親族は、これを漱石(そうせき)が精神病を患っている為であろうと、いよいよ心配した。


当時の漱石(そうせき)最後の下宿の反対側には、「ロンドン漱石記念館」が恒松郁生によって千九百八十四年(昭和五十九年)に設立された。

漱石(そうせき)の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを記念館に展示し一般公開されている。


漱石(そうせき)は英国留学から帰国後の千九百三年(明治三十六年)三月三日に、本郷区駒込千駄木町五十七番地(現在の文京区向丘2-20-7)に転入する。

千九百三年(明治三十六年)四月、漱石(そうせき)は第一高等学校と東京帝国大学から講師として招かれる。

当時の第一高等学校長は、親友の狩野亨吉であった。

東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。

また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石(そうせき)に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。

こうした中、漱石(そうせき)は神経衰弱になり、妻・鏡子とも約二か月別居する。

千九百四年(明治三十七年)には、漱石(そうせき)は明治大学の講師も務める。

その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげる為処女作になる「吾輩は猫である」を執筆し初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。

千九百五年(明治三十八年)一月、「ホトトギス」に一回の読み切りとして掲載されたが、好評の為続編を執筆する。

この時から漱石(そうせき)は、作家として生きて行く事を熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。

漱石(そうせき)の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。

千九百六年(明治三十九年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。

これが後の「木曜会」の起こりと成る。

その「木曜会・夏目門下」には内田百閒・野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介(かくたがわりゅのすけ)や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成などの学者がいる。

千九百七年(明治四十年)二月、漱石(そうせき)は一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社する。

当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。

千九百七年(明治四十年)六月、漱石(そうせき)は職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始するが、執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。

千九百九年(明治四十二年)親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。

この旅行の記録は、「朝日新聞」に「満韓ところどころ」として連載される。

千九百十年(明治四十三年)六月、「三四郎」、「それから」に続く前期三部作の三作目にあたる「門」を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院する。

同千九百十年(明治四十三年)八月、療養の為門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。

しかしそこで胃疾になり、八百グラムにも及ぶ「修善寺の大患」と呼ばれる大吐血事件を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。

この時の一時的な「死」を体験した事は、その後の作品に影響を与える事に成る。

漱石(そうせき)自身も「思い出すことなど」で、この時の事に触れている。

最晩年の漱石(そうせき)は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。

「硝子戸の中」では、本音に近い真情の吐露が見られる。


千九百十年(明治四十三年)十一月、漱石(そうせき)の容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。

千九百十一年(明治四十四年)八月関西での講演直後に胃潰瘍が再発し、漱石(そうせき)は大阪の大阪胃腸病院に入院する。

退院して東京に戻った後は、痔にかかり通院する。


大正期に入った後の漱石(そうせき)は、それこそ闘病との連続で、千九百十二年(大正元年)九月に痔の再手術をする。

千九百十二年(大正元年)十二月には、「行人」も病気の為に初めて漱石(そうせき)は執筆を中絶する。

千九百十三年(大正二年)、漱石(そうせき)は、神経衰弱、胃潰瘍で六月頃まで悩まされる。

千九百十四年(大正三年)九月、漱石(そうせき)は四度目の胃潰瘍で病臥する。

この年の漱石(そうせき)作品は人間のエゴイズムを追い求めて行き、後期三部作と呼ばれる「彼岸過迄」、「行人」、「こゝろ」へと繋がって行く。

千九百十五年(大正四年)三月、漱石(そうせき)は京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。

この年の六月より、漱石(そうせき)は「吾輩は猫である」の執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始する。

千九百十六年(大正五年)には、漱石(そうせき)は糖尿病にも悩まされる。

この千九百十六年(大正五年)、辰野隆の結婚式に出席して後の十二月九日、漱石(そうせき)は大内出血を起こし、「明暗」執筆途中に四十九歳十ヶ月で死去した。

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by mmcjiyodan | 2013-09-13 01:04 | Comments(0)