<   2013年 10月 ( 4 )   > この月の画像一覧

 

大久保忠隣(おおくぼただちか)

千五百五十三年(天文二十二年)、大久保忠隣(おおくぼただちか)は松平氏(徳川氏)の重臣・大久保忠世(おおくぼただよ)の長男として三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)で生まれる。

忠隣(ただちか)は、千五百六十三年(永禄六年)から父・忠世(ただよ)の主君・松平元康(まつだいらもとやす/徳川家康)に仕える。

千五百六十八年(永禄十一年)に、忠隣(ただちか)は遠江堀川城攻めで初陣を飾り、敵将の首をあげる武功を立てた。

これを皮切りに、忠隣(ただちか)は家康の家臣として三河一向一揆、千五百七十年(元亀元年)の姉川の戦い、千五百七十二年(元亀三年)の三方ヶ原の戦いに従軍し活躍する。

三方ヶ原の合戦の負け戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走する中、忠隣(ただちか)は家康の傍を離れず浜松城まで随従した事から、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した。

千五百八十二年(天正十年)の本能寺の変に際して、忠隣(ただちか)は家康の伊賀越えに同行、甲斐・信濃平定事業に於いても切り取った領国の経営に尽力した。

この時に土屋長安(大蔵から土屋)も抜擢され、長安(ながやす)は忠隣(ただちか)はの元で辣腕を発揮し、忠隣(ただちか)から大久保の姓を与えられた。

忠隣(ただちか)は千五百八十四年(天正十二年)の小牧・長久手の戦い、千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐などに従軍し活躍した。


千五百八十六年(天正十四年)の家康上洛の時に、忠隣(ただちか)は秀吉の意向で従五位下治部少輔に任じられ、豊臣姓を与えられた。

家康の関東入国の折、忠隣(ただちか)は武蔵国羽生二万石を拝領し、千五百九十三年(文禄二年)には家康の三男・徳川秀忠付の家老となる。

千五百九十三年(文禄三年)に父・忠世(ただよ)が死去すると、家督を継ぐと共にその遺領も相続して相模国小田原六万五千石の領主(後に初代藩主)となる。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦い時には、忠隣(ただちか)は東軍の主力を率いた徳川家継子・中納言・秀忠に従い中山道を進む。

その西に向かう途中、信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸(さなだまさゆき)に対して、忠隣(ただちか)は攻撃を主張して本多正信らと対立する。

この上田合戦、結果的に東軍の主力を率いた徳川家継子・中納言・秀忠を「関ヶ原合戦への遅参」と言う痛恨の結果を為す事になる。

千六百一年(慶長六年)、忠隣(ただちか)は高崎藩十三万石への加増を打診されるが固辞した。

千六百十年(慶長十五年)には老中に就任し、第二代将軍・秀忠の政権有力者となり、大御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の体制となる。

二元政治の中、秀忠重臣の忠隣(ただちか)は家康重臣である本多正信正純父子と対立する。

その底流には、武功派と吏僚派の対立があり、吏僚派の本多父子に対し千六百年頃の忠隣(ただちか)は武功派に強い求心力を持っていた。

本多父子が家康の後継者に家康次男・結城秀康を推奨していた事もあり、側近として秀忠を後援する忠隣(ただちか)には看過しがたいものが在った。

両者の対立は次第に顕在化の様相を呈し、千六百十二年(慶長十七年)の岡本大八事件(有馬賄賂疑獄事件)を経て一気に沸騰する。

さらに千六百十四年(慶長十九年)に起こった大久保長安事件(幕府御用金横領疑獄事件)に忠隣(ただちか)が連座する。

この長安事件に便乗する形で、浪人の馬場八左衛門が忠隣(ただちか)が大坂の豊臣秀頼に内通していると誣告した為、家康の不興を買った。

忠隣(ただちか)はキリシタンの鎮圧の命を帯びて大坂へ赴いたところ、突如改易を申し渡され、近江国に配流されて井伊直孝(いいなおたか/井伊直政の次男)に御預けの身となった。

この時忠隣(ただちか)は、栗太郡中村郷に五千石の知行地を与えられている。

改易の主要な理由については、表向きには馬場の訴状で指摘された豊臣との内通、長安事件の連座の他、忠隣(ただちか)の養女と山口重信との無断婚姻などが提示されている。

だが、本多父子が長安事件を口実に利用し、政敵である忠隣(ただちか)を追い落とす為の策謀を巡らせたとする見解も強い。

本多正純は岡本大八事件に部下・岡本大八が関与した事で政治的な地盤が揺らいでおり、忠隣(ただちか)を排斥する事で足場を固めておきたかったものと思われる。

忠隣(ただちか)の改易は「徳川実紀」も本多父子による陰謀説を支持している。

また、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、「和平論を唱える可能性のあった忠隣(ただちか)を遠ざけた」とする説などもあるが、明確な理由は不明である。

その後、忠隣(ただちか)は出家して渓庵道白と号し、千六百二十八年(寛永五年)六月二十七日に七十五歳で死去した。


忠隣(ただちか)に将軍家の許しが下る事は終(つい)に無かった。

しかし忠隣(ただちか)の累代に於ける武功が大きかった事から、大久保家の家督は嫡男の忠常が早世した為、嫡孫の忠職(ただもと)が継ぐ事が許される。

その忠職(ただもと)の養子で忠職の従弟・忠朝(ただとも)の時に小田原藩(十一万三千石)の藩主として復帰を果たした。

また、連座で謹慎していた忠隣次男の石川忠総(いしかわただふさ)は復帰を許され、大坂の陣で戦功を挙げた事から最終的に近江国膳所藩主となり、子孫は伊勢国亀山藩(五万石)の藩主となった。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式WEBサイト(こうしきうぇぶさいと)


未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2013-10-22 12:36 | Comments(0)  

御厨(みくりや)

御厨(みくり・みくりや)とは、「御厨(神の台所)」の意で、神饌(しんせん/供物)を調進する場所の事で、本来は屋舎(おくしゃ/建物)を意味する。

また御厨(みくり・みくりや)は、神饌(しんせん/供物)を調進する為の領地(神領)も意味する。

つまり「御厨(みくりや)」は、皇室伊勢神宮下鴨神社の領地を意味した。

中世日本に於いては、皇室や伊勢神宮など、有力な神社が荘園(神領)=御厨(みくりや)を持ち、後に地名及び名字として残った。

本格的武家社会が成立する鎌倉時代には、荘園(神領)が全国各地に五百箇余ヵ所を数えるほどになっていた。

また中世では、荘園(神領)が度々武士団によって略奪・押領される(武士の領地化)と言った事が起こっている。

特に相馬御厨(そうまみくりや)や大庭御厨(おおばみくりや)は源義朝(みなもとよしとも)の濫行(らんぎょう)で歴史上有名である。


相馬御厨(そうまみくりや)は伊勢神宮の荘園だった。

相馬御厨(そうまみくりや)は、現在の茨城県取手市、守谷市、千葉県柏市、流山市、我孫子市のあたりにあった中世の寄進型荘園の一つである。

千葉常重によって成立した相馬御厨(そうまみくりや)は伊勢神宮に寄進されたが、藤原親通や源義朝(みなもとよしとも)から脅かされる。

千葉常胤(ちばつねたね)はこれを回復し再度伊勢神宮に寄進するが、平家政権になると佐竹義宗に奪い取られてしまう。

これを奪回する為に、千葉常胤(ちばつねたね)は源頼朝(みなもとよりとも)を利用した。

相馬御厨(そうまみくりや)をめぐる攻防が、治承・寿永の乱の原動力の一つとなった。

相馬御厨(そうまみくりや)は在庁官人が在地領主に変貌していく過程で、国司や目代と激しく対立した在地領主層が脆弱な地位を守る為に寄進を行った。

寄進による保護にも限界があり、鎌倉幕府の成立へとつながって行った事の例示としてよく取り上げられる。


大庭御厨(おおばみくりや)は、相模国高座郡の南部(現在の茅ヶ崎市、藤沢市)に在った寄進型荘園の一つである。

その大庭御厨(おおばみくりや)は、鎌倉時代末期には十三の郷が存在した相模国最大の御厨(伊勢神宮領)である。

大庭御厨(おおばみくりや)は鎌倉景政(かまくらかげまさ/平景政・たいらのかげまさ)によって開発された。

伊勢神宮に寄進されたが、源義朝(みなもとよしとも)の乱入を防ぐ事は出来なかった。

千百四十四年(天養元年)、源義朝(みなもとよしとも)の大庭御厨濫行事件が起きる。

源義朝(みなもとよしとも)は相模国衙の田所目代(税務の代官)源頼清と組んで、「大庭御厨内の鵠沼(くげぬま)郷は鎌倉郡に属する公領である」と主張する。

源義朝(みなもとよしとも)は在庁官人と伴に大庭御厨(おおばみくりや)に侵攻して濫妨(暴行・略奪)を行い、神人に重傷を負わせる。

大庭御厨(おおばみくりや)の荘園主・伊勢神宮は直ちに朝廷政府に、源義朝(みなもとよしとも)の濫行を提訴する。

しかし、その最中に源義朝(みなもとよしとも)は、源頼清や在庁官人の三浦義継・中村宗平など「千余騎」によって大庭御厨(おおばみくりや)に再侵攻する。

源義朝(みなもとよしとも)は、大庭御厨(おおばみくりや)の停廃を宣言して大規模な収奪を行った。

相模大庭御厨一帯を支配した大庭氏(鎌倉景政流平氏)は、保元の乱以降、源氏の配下となった。

大庭氏は和田合戦で滅亡したが、大庭御厨(おおばみくりや)は三浦氏北条得宗家の所領として存続した。

こうした寄進型荘園の歴史経緯から、市町村名に限らず大字や小字として日本各地に「御厨(みくりや/荘園)」の地名が残っている。

例えば、静岡県御殿場市の旧地名は駿東郡御厨町であり、静岡県磐田市の旧地名は磐田郡南御厨村である。

源義朝(みなもとよしとも)】に戻る。

第二巻・第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式WEBサイト(こうしきうぇぶさいと)


未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2013-10-14 21:48 | Comments(0)  

大正ロマンと新女性列伝(一)

千九百十二年(大正元年)から千九百二十六年(大正十五年・昭和元年)の僅か十五年間が大正時代である。

その十五年間、日清日露の戦勝に拠る好景気に沸いた日本は、大正ロマン・大正デモクラシー(民本主義)の最中だった。

大正ロマンは、大正時代の雰囲気を伝える思潮や文化事象を指して呼ぶ言葉で、しばしば「大正浪漫」とも表記される。

明治時代の経済の自由化とともに商人の立場が向上、大正時代に入って商業が大きく開花する。

欧米から学んだ会社制度が発達し、制度上は個人商店で在った私企業が財閥に発展、世界に向けて大規模化して行く絵に描いたような好景気だった。

また投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ、庶民に於いても新時代への夢や野望が大いに掻き立てられる時代背景だった。

好景気を得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。

大正ロマンの語源は、十九世紀を中心にヨーロッパで展開した精神運動である「ロマン主義」の影響を受けて呼ばれた名称である。

個人の解放や新しい時代への理想に満ちた大正時代の風潮にかぶせて、「大正ロマン・大正浪漫」と呼ばれるようになった。

大正デモクラシー(民本主義)とは、「政権運用の目的は特権階級ではなく人民一般の利福にあり、政策決定は民意に基づくべき」と言う民権思想である。

西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆文化が花開いた。

芸術作品にはアール・ヌーボーやアール・デコ、表現主義など世紀末芸術から影響を受けたものも多く誕生する。

文芸に於ける耽美主義や同時代のダダイズム(芸術思想・芸術運動)、或るいは政治思想であるアナキズム(無政府主義)などの影響もあった。

元々当時の芸術家や思想家は知性や学歴が良く、為に思考に対する柔軟性や自由度は社会常識には囚われず、一般大衆の生き方とは一線を画していた。

島村抱月(しまむらほうげつ)松井須磨子(まついすまこ)の劇団事件は、政治的圧力や短い期間での破綻が大衆の好奇を刺激し芸能人への憧れや自由恋愛の風潮を育む影響を世与えた。

人気女優・松井須磨子(まついすまこ)の場合は、不倫関係にある愛人・作家の島村抱月(しまむらほうげつ)の病死の後を追って自殺した情死だった。


有名人のスキャンダルとして大衆の好奇の材料ともなった思想家・大杉栄(おおすぎさかえ)と女性開放活動家・伊藤野枝(いとうのえ)を取り巻く動きについては、逐一新聞などで報道される加熱振りだった。

伊藤野枝は不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤(つじじゅん/翻訳家、思想家)を捨てて大杉栄の妻・堀保子、愛人・神近市子(かみちかいちこ)と四角関係を演じた。



東京日日新聞の記者・神近市子(かみちかいちこ)は、愛人だった大杉栄が、新しい愛人・伊藤野枝に心を移した事から、神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷させる「日蔭茶屋事件」を起こし二年間服役する。

市子(いちこ)は出獄後文筆活動を始め、女性運動に参加して衆議院議員総選挙に当選、左派社会党議員として当選六回を重ねる政治家として戦後も活躍した。

野枝は人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など、今日でも問題となっている課題に取り組み、多くの評論、そして小説や翻訳を発表している。

同時代の人々には、自らを主張するその自由獲得への情熱に対する憧れや賛美がドラマチックな感動を与えた。

知識人に於いては個人主義・理想主義が強く意識され、自由恋愛の流行による事件も数少なくはなく、新時代への飛躍に心躍らせながらも、同時に社会不安にも脅かされる時代だった。


与謝野晶子(よさのあきこ)は、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に歌集「みだれ髪」で女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立する。

晶子は伝統的歌壇から反発を受けたが、世間の耳目を集めて熱狂的支持を受け、歌壇に多大な影響を及ぼす事となる。

夫・与謝野鉄幹(よさのてっかん)の編集で作られた歌集の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と言う短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。

晶子と知り合った時、夫・鉄幹には妻子が在ったが、鉄幹は晶子の為に妻と離婚し、二人は個人主義・理想主義の大正ロマンの自由恋愛のはしりを実践している。

平塚らいてう(ひらつからいちょう)は大正から昭和にかけ「婦人参政権」の獲得に奔走した事で知られる女性解放運動・婦人運動の指導者である。

らいてう(らいちょう)は妻子を郷里に置いて上京した森田草平(もりたそうへい)と関係を持ち、栃木県塩原で心中未遂事件を起こし、一夜にしてスキャンダラスな存在となる。

らいてう(らいちょう)は、自らが創刊した「青鞜社」に集まる個人主義・理想主義の大正ロマンの女性達の活躍の場を「青鞜」の誌上与えた。

らいてう(らいちょう)は五歳年下の画家志望の青年・奥村博史と茅ヶ崎で出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動の後に事実婚を始めている。

その事実婚の顛末を、らいてう(らいちょう)は「青鞜」の編集後記上で読者に公表、両親にも「青鞜」の誌上で報告している。

その後のらいてう(らいちょう)は、伊藤野枝に「青鞜」の編集権を譲ったり、与謝野晶子と「母性保護論争」を展開したり、「新婦人協会」を設立したりと活発に活動している。

伊藤野枝、与謝野晶子、平塚らいてうなど彼女達の衝動的で奔放(ほんぽう)な男女の行動は、まさに心理学で言う「シンクロニー(同調行動)」であり、「好きになったから仕方が無い」の言い分である。

正直、彼女達女性思想家が奔放(ほんぽう)な自由恋愛の生き方を体現した背景には、当時の男性が愛人・妾、アバンチュール(性愛の冒険)を自由に謳歌していた事への対抗心が在ったからである。

それでも兎に角、ドロドロとした性愛劇をあんに想像させる文人男女の争奪愛の経緯をモデルとして書いた作品の発表を、大衆は興味津々で待っていた。

それにしても世間のシガラミに縛られた大衆は、文人男女の自由奔放淫乱(じゆうほんぽういんらん)な性愛劇に、批判的だったのだろうか?

それとも本音は、羨(うらや)ましくて人気を集めたのだろうか?


なお、大杉栄・伊藤野枝とその甥・橘宗一(七歳)の三名は、甘粕正彦(あまかすまさひこ)憲兵大尉に強制連行されて取り調べで殺に至らしめられる「甘粕事件」の被害者となる。

「甘粕事件」は東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕大尉が、関東大震災の混乱に乗じて、震災から半月後の九月十六日にアナキスト(無政府主義者)の抹殺を目論んで起した事件である。

日清・日露の戦勝に拠る好景気に沸いた大正ロマン・大正デモクラシー(民本主義)の最中、日本の首都・東京府東京市とその周辺各地を大正関東地震・関東大震災(かんとうだいしんさい)が見舞う。

関東大震災とは、千九百二十三年(大正十二年)九月一日の正午寸前(一分三十秒ほど前)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード七・九の大正関東地震による地震災害を言う。

震源域の真上に位置していた「横浜市の震度は七と推定され、希に見る強震だった」と言う。

大正ロマンと新女性列伝(二)】に続く。

詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式WEBサイト(こうしきうぇぶさいと)


未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2013-10-01 01:06 | Comments(0)  

大正ロマンと新女性列伝(二)

大正ロマンと新女性列伝(一)】に戻る。

作家・谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られる事も少なくない。

潤一郎はその作品で情痴や時代風俗などのテーマを扱うも、その芸術性は世評高く、「文豪」と評価される。

千九百十五年(大正四年)、気鋭の作家・谷崎潤一郎は石川千代と結婚する。

結婚後潤一郎は、妻・千代に横恋慕した友人である佐藤春夫(さとうはるお/詩人・作家)に千代を譲る約束をする。

情痴や時代風俗などをテーマとして扱う潤一郎の作品には、「必ずモデルに成る事象が存在する」とされる。

つまり佐藤春夫(さとうはるお)が千代に惚れたのも、潤一郎が意図して「二人に関係を持たせた」と言う噂も在る。

実はこの潤一郎の企てには、潤一郎が千代の妹・せい子に惚れ、妻・千代を春夫(はるお)に押し付けて自分は新たにせい子と婚姻を謀る積りが在った。

しかしこの企ては、せい子に拒絶されて頓挫した。

潤一郎の画策で、春夫(はるお)の愛を受け入れた千代は、段々と以前に無い妖しげな魅力が出て来るようになり、潤一郎は春夫に千代を手放すのが惜しくなる。

千九百二十一年(大正十年)、潤一郎は妻・千代を佐藤春夫(詩人・作家)に譲ると言う前言を翻し反故にした為、春夫(はるお)と絶交する「小田原事件」を起こす。

千九百二十七年(昭和二年)、潤一郎は後に三度目の結婚相手となる根津松子と知り合う。

潤一郎は佐藤春夫(さとうはるお)と和解するも、またも妻・千代を、内弟子・和田六郎(後の大坪砂男/探偵作家)に譲る話が出るも、佐藤春夫の反対で話は壊れている。

この内弟子・和田六郎と潤一郎の妻・千代には肉体関係が出来ていたのだが、それは「潤一郎が仕向けたものだ」と言われている。

潤一郎は千代に六郎との関係を認めるかたわら、千代から六郎との恋の成行を詳細に報告させ、千代は「六郎の子を妊娠・堕胎した事も在った」と言う。

小説の著作には作家自身や家族の体験を加工したものが多く、「潤一郎の作品にはモデルが在る」と言われている。

だから潤一郎をとりまく男女の出来事は格好の題材であり、マスメディアに取り上げられれば出版の前宣伝にもなる。

勿論、千代と佐藤春夫(さとうはるお)との情交も潤一郎が画策したシュール(非日常)なシュチエーションを狙った物で、逐一その顛末を千代に報告させていた。

夫婦の間の事など他人には到底理解出来ない事で、千代は潤一郎作品の題材創りと話題作りに協力していたのかも知れない。

因(ちな)みに、夫に勧められて他人と性交する妻は貞淑なのか淫乱なのか、判断が分かれるところではないか?


千九百三十年(昭和五年)に潤一郎と千代の離婚成立後、千代の佐藤春夫(さとうはるお)との再嫁の旨の挨拶状を三人連名で知人に送る。

この挨拶状が有名になり、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されてセンセーショナルな反響を呼び起こした。

夫からその友人に譲られた「千代夫人も幸せ」と言う、なんとも言えない作家達の愛の形である。


それは夫婦の性癖だって、相性が良い方が理想である。

性豪として、その道に研究熱心な潤一郎に仕込まれたからなのか、千代は従順の上に必死で奉仕する性癖の、言わば男性が抱いて愉しめるタイプの女性だった。

そして内弟子・和田六郎との経緯(いきさつ)を知りながら、それでも春夫(はるお)が千代に惚れ、「自分の嫁に」と望んだのには、「自分が千代の性を育てた」と言う拘(こだわ)りが在った。

潤一郎が仕掛けた事ではあるが、春夫(はるお)が千代を抱く都度に段々と妖しげな魅力が益し、床での行為につつましさを捨てた千代は妖艶に育って行ったからだ。

つまりこの「細君譲渡事件」、抱いて詰まらない女性であれば、春夫(はるお)もそこまで千代を我が物にする事に執心はしなかった筈である。


「細君譲渡事件」の翌年、千九百三十一年(昭和六年)に潤一郎は文藝春秋の記者・古川丁未子(ふるかわとみこ)と再婚する。

しかし潤一郎は、以前知り合った根津松子との関係が深くなり、直ぐに丁未子(とみこ)を邪魔にし始める。

この件に関しては、潤一郎の関心が根津松子に移っていた事もあるが、丁未子(とみこ)が千代の様に潤一郎の意志に沿って作品のモデルになる気が無かったからでもある。


松子の夫・根津清太郎は根津商店と言う大阪の大会社の御曹司で大富豪、松子も藤永田造船所専務・森田安松の四人姉妹の次女と言うお金持ちだった。

この根津清太郎がかなりの女好きの遊び人の上、芸術家のパトロンをする事を好んで、潤一郎もそのあたりの関わりで知り合った。

松子に惚れまくった潤一郎は、なんと松子の家の隣にいきなり引越し、お互い結婚しているいる身もおかまいなしに関係を続ける。

千九百三十五年(昭和十年)、松子が根津清太郎と離婚し戸籍を旧姓に戻して森田松子となった。

松子の離婚を期に潤一郎は二度目の妻・丁未子と離婚し、森田松子と三度目の結婚をする。

潤一郎の私生活は、佐藤春夫との「細君譲渡事件」や二度目の結婚・離婚、その間に永く関係が在った松子と三度度目の結婚をするなど、自由恋愛賑やかなものである。

谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)の女性遍歴は相当なもので、性癖も変態と指摘されるが、彼の作品はモデルを必要とし、その辺りが潤一郎(じゅんいちろう)の作品が高評価と結び付いて居そうである。


作家にとって、著作アイデアは「飯の種」・「金の成る木」で、世間体など気にしていては貧乏のままである。

事実多くの妻を娶(めと)り、その多様な家庭にも触れて潤一郎(じゅんいちろう)の著作アイデアは、永く枯れる事がなかった。

そして、その大正ロマン時代に流行ったモガ(モダンガール)・モボ(モダンボーイ)とは、戦前の若者文化である。

千九百二十年代の大正末期から昭和初期頃に、西洋文化の影響を受けて新しい風俗や流行現象に現れた外見的な特徴を指してこう呼んだ。

こうした情報が氾濫した大正ロマンの時代、庶民の生活規範も自由恋愛の風潮にかなり緩んで様々なドラマが在った時代だった。

谷崎潤一郎と石川千代(佐藤千代)の奔放(ほんぽう)な自由恋愛の生き方は、大正ロマンの個人主義・理想主義の申し子だったのかも知れない。

勿論他人が、その個人的価値観でこの二人を評価する権利など在りはしない。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

大正ロマンと新女性列伝(一)】に戻る。

詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。

第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式WEBサイト(こうしきうぇぶさいと)


未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2013-10-01 01:04 | Comments(0)