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豊臣秀吉・恩顧大名リスト

豊臣一族には、豊臣秀吉の異父弟(一説には同父弟)・◆【豊臣(羽柴)秀長(とよとみのはしばひでなが)】と秀吉の姉・日秀の子◆【豊臣(羽柴)秀次(とよとみのはしばひでつぐ)】がいる。

秀吉の妻方、【正室・おね(高台院)】の浅野・木下一族には◆【浅野長政(あさのながまさ)】は正室おね(高台院)の義弟にあたる。

おね(ねね)の兄弟・杉原(木下)家定を始めその家定の嫡男・【木下勝俊(若狭国後瀬山城八万石秀吉死去後改易)】、二男・【木下利房(備中足守木下家)】、三男・◆【小早川秀秋(筑前小早川家)】、四男・【木下延俊(豊後日出木下家)】など杉原(木下)家一族の全てが木下藤吉郎(豊臣秀吉)に臣従している。

正室・おね(高台院)にも面倒をみてもらった「秀吉の子飼いの家臣(知行数百石の軽輩)」から大名にまで出世した主な大名家は、下記の通りである。

◆【加藤清正(かとうきよまさ)

◆【福島正則(ふくしままさのり)

◆【蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)

◆【石田三成(いしだみつなり)

◆【大谷吉継(おおたによしつぐ)

◆【山内一豊(やまうちかつとよ)

◆【片桐且元(かたぎりかつもと)

◆【大野治長(おおのはるなが)

◆【堀尾吉晴(ほりおよしはる)

◆【中村一氏(なかむらかずうじ)

◆【生駒親正(いこまちかまさ)

◆【平塚為広(ひらつかためひろ)


◆【竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)

◆【黒田官兵衛孝高(くろだかんべいよしたか)

なお、元々大身の武将で臣従した家は除外してある。

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by mmcjiyodan | 2013-11-11 12:40 | Comments(0)  

堀尾吉晴(ほりおよしはる)

堀尾吉晴(ほりおよしはる)は千五百四十四年(天文十三年)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田)の土豪である堀尾泰晴(ほりおやすはる/吉久、泰時)の長男として生まれた。

父・泰晴(やすはる)は尾張国上四郡の守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に仕えて重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とともに連署した文書が残っている。

その後吉晴(よしはる)は、尾張を統一した信長に仕えたが、間もなくその家臣の木下秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。

その後吉晴(よしはる)は秀吉に従って各地を転戦し、千五百六十七年(永禄十年)の稲葉山城攻めでは、織田軍の稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めたと言われている。

千五百七十三年(天正元年)には、吉晴(よしはる)は近江国長浜の内に百石を与えられた。

その後も吉晴(よしはる)は武功を挙げ、播磨国姫路に於いて千五百石、後に丹波国黒江に於いて三千五百石に加増された。

千五百八十二年(天正十年)の備中高松城攻めでは、吉晴(よしはる)は自害した敵将・清水宗治の検死役を務める。

山崎の戦いでは、吉晴(よしはる)は中村一氏(なかむらかずうじ)と共に先手の鉄砲頭として参加している。

吉晴(よしはる)は天王山争奪の際に敵将を討ち取ると言う功績を挙げ、丹波国氷上郡内の黒井城を与えられ、知行六千二百八十四石となる。

千五百八十三年(天正十一年)に吉晴(よしはる)は、若狭国高浜に於いて一万七千石を与えられ大名に列する。

翌千五百八十四年(天正十二年)には、三千石の加増を得て知行二万石とされた。

吉晴(よしはる)は、千五百八十五年(天正十三年)の佐々成政(さっさなりまさ)征伐にも従軍する。

吉晴(よしはる)は、田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳直末らとともに豊臣秀次付の宿老に任命され、近江国佐和山(滋賀県彦根市周辺)に四万石を与えられている。

千五百八十七年(天正十五年)の九州征伐にも従軍し、吉晴(よしはる)は正五位下、帯刀先生に叙任された。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐にも、吉晴(よしはる)は秀次の下で山中城攻めに参加する。

この小田原征伐の役の途中でともに出陣した吉晴嫡子・金助が戦傷死している。

小田原開城後、吉晴(よしはる)はこれらの戦功を賞され、関東に移封された徳川家康の旧領である遠江国浜松城主十二万石に封じられ、豊臣姓も許された。

この頃吉晴(よしはる)は、秀次・宿老から独立した立場になった為、後の秀次事件にはかろうじて連座していない。

この後吉晴(よしはる)は、秀吉の奥州仕置への反抗である九戸政実(くのへまさざね)の乱にも従軍して功があったと言う。

秀吉の晩年には、吉晴(よしはる)は中村一氏(なかむらかずうじ)や生駒親正(いこまちかまさ)らと共に中老に任命され、豊臣政権に参与した。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、吉晴(よしはる)は東軍に与すも、本戦直前の七月、濃国加賀野井城主・加賀井重望と三河刈谷城主・水野忠重とが酒席で争い、重望が忠重を殺害した。

その場に同席した吉晴(よしはる)は、槍傷十七ヵ所の重傷負うも重望を討った為九月の本戦には参加できなかった。

代わって出陣した次男で世子の忠氏(ただうじ)が戦功を賞され出雲富田二十四万石に加増移封された。

千六百十一年(慶長十六年)、吉晴(よしはる)は松江城を建造し本拠を移したが、間もなく六十八歳で死去した。

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by mmcjiyodan | 2013-11-10 05:08 | Comments(0)  

中村一氏(なかむらかずうじ)

中村一氏(なかむらかずうじ)は、近江国甲賀(現・滋賀県甲賀郡)の瀧(又は多喜)という家の出身とされる。

瀧孫平次(たきまごへいじ/後の一氏)は生来果敢な人間で、どちらかと言えば村の暴れ者だったと伝えられる。

一氏(かずうじ)は、早くから織田信長の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、千五百七十三年(天正元年)頃に秀吉より近江長浜のうち二百石を拝領する。

千五百七十七年(天正五年)の天王寺を攻略する本願寺門跡派の一揆の鎮圧や、千五百八十二年(天正十年)の山崎の戦いに、一氏(かずうじ)は鉄砲隊を指揮して武功をたてる。

千五百八十三年(天正十一年)の賤ヶ岳の戦いに参戦し、一氏(かずうじ)は和泉国岸和田城主となり三万石を拝領する。

千五百八十四年(天正十二年)秀吉の紀州攻めに於いては、一氏(かずうじ)は新都・大坂防衛の主将として紀州勢と対陣している。

小牧・長久手の戦いにより秀吉軍主力が尾張へ出陣した間隙(かんげき)をぬって岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも一氏(かずうじ)は寡兵ながら城を守り切る。

翌年の紀州反転攻勢に於いても、一氏(かずうじ)は主導的役割を果たした。

千五百八十五年(天正十三年)、一氏(かずうじ)は近江国水口岡山城主になり六万石を拝領、従五位下式部少輔に叙任された。

千五百九十年(天正十八年)の小田原征伐に於いて、一氏(かずうじ)は羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分の攻略に成功する。

この小田原征伐の功により、一氏(かずうじ)は駿河国駿府十四万石を拝領する。

また千五百九十五年(文禄四年)には、一氏(かずうじ)は豊臣家の駿河直領(蔵入地)の代官として駿河を任される。

千五百九十八年(慶長三年)、一氏(かずうじ)は堀尾吉晴(ほりおよしはる)生駒親正(いこまちかまさ)らと共に豊臣政権三中老の一人に任命された。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、一氏(かずうじ)は東軍に属すが合戦前の旧暦七月十七日(西暦八月二十五日)に病死する。

一氏(かずうじ)の墓は、家康が今川人質時代に学んだとされる静岡市の臨済寺にある。

なお、関ヶ原合戦には弟の一栄(かずしげ)や、家督を継いだ長男の中村一忠(なかむらかずただ)が出陣し、美濃表で大いに戦った。

戦後、その戦功によって一忠(かずただ)は伯耆一国米子城十七万五千石および国持大名の格式を与えられたが、九年後の千六百九年(慶長十四年)に一忠(かずただ)が急死してしまう。

跡継ぎを欠いた中村家は江戸幕府により改易され、わずか二代で断絶した。

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by mmcjiyodan | 2013-11-10 05:05 | Comments(0)  

生駒親正(いこまちかまさ)

生駒氏(いこまうじ)は、安土桃山時代に尾張生駒氏(おわりいこまうじ)と土田生駒氏(どたいこまうじ)に分化するが、江戸時代にも度々両家の交流が行われている。

尾張生駒氏(おわりいこまうじ)・生駒家長(いこまいえなが)、土田生駒氏(どたいこまうじ)・生駒親正(いこまちかまさ)の代に織田信長に仕え織田氏家臣として織田家統一・天下統一に向けた戦国時代を支える。

尾張生駒氏が生駒氏の宗家で、灰(染料用)と油を扱い馬借として商い財を蓄え小折城を居城としていた室町時代から江戸時代以後までの武家商人である。

「桶狭間の戦い」の戦功により信長から安堵状を受け、領内を自由に商売していた為、信長の大躍進の裏には生駒家の資金力や情報収集力に基づく強固な後方支援が存在していたとの指摘もある。

生駒氏(いこまうじ)の家業「馬借」とは陸の物流業で、川の物流業である川並衆・蜂須賀氏等との地理的近接交流、養子、婚姻関係がみられる。


生駒親正(いこまちかまさ)は、土田生駒氏(どたいこまうじ)・生駒親重(いこまちかしげ)の子として美濃国可児郡土田(現在の岐阜県可児市土田)に生まれる。

千五百六十六年(永禄九年)、親正(ちかまさ)は織田信長の美濃攻めに際してその臣下となる。

その後親正(ちかまさ)は羽柴秀吉付属の武将に任じられ、長篠の戦い石山本願寺攻め紀伊国雑賀攻めなどに参加した。

姫路城主時代の秀吉に仕えていた千五百七十八年(天正六年)の親正(ちかまさ)の知行は約千石だった。

千五百八十二年(天正十年)に本能寺の変が起こり、信長死後親正(ちかまさ)は羽柴秀吉の家臣となり、山崎の戦い賤ヶ岳の戦い小田原征伐文禄の役などに参加して活躍する。

親正(ちかまさ)は秀吉に臣従して転戦し、千五百八十四年(天正十二年)に二千石加増されて三千石、千五百八十五年(天正十三年)に二万三千五百石を与えられて大名家に列する。

その後も親正(ちかまさ)は、千五百八十六年(天正十四年)には六万石と着々と知行を増やし、千五百九十五年(文禄四年)には讃岐国十七万千八百石を与えられた。

これに先立ち、親正(ちかまさ)は讃岐の前国主であり戸次川の戦いで討ち死にした三好氏流・十河存保(そごうまさやす)の嫡男・千松丸を預かっていた。

その十河存保(そごうまさやす)の遺領二万石を親正(ちかまさ)が横領する為に、甥の大塚采女に命じて「千松丸を毒殺させた」と伝わる。

その後も親正(ちかまさ)は、十河氏(そごうし)復活の芽を摘む為三好氏に連なる者を徹底的に弾圧した事で知られる。

秀吉の晩年に親正(ちかまさ)は、堀尾吉晴(ほりおよしはる)中村一氏(なかむらかずうじ)と共に三中老に任じられて豊臣政権に参与している。

千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、子の一正(かずまさ)が東軍・家康方に与し、親正(ちかまさ)は在国していたが西軍・石田方に与して丹後国田辺城攻めに家臣を代理として派遣した。

この親子が分かれた事の理由として西軍決起時に在坂して居た為西軍に付かざるを得なかったとも、どちらが敗れても生駒氏が存続できるよう配慮したなどの説がある。

関ヶ原の戦いの頃、親正(ちかまさ)は剃髪し高野山に入った。

西軍に与した責任を取る為とされて来たが、高野山入りが関ヶ原で戦闘が行われる前であり、東軍寄りの行動の責任を問われた為とする説もある。

戦後、一正(かずまさ)が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は家康に安堵された。

親正(ちかまさ)はほどなくして高野山を降りて讃岐国に戻り、千六百三年(慶長八年)に高松城にて死去した。

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by mmcjiyodan | 2013-11-10 05:01 | Comments(0)  

太閤検地(たいこうけんち)

豊臣秀吉が全国的に行った田畑の測量及び収穫量調査(山林を除く)を「太閤検地 (たいこうけんち)」と言い、別称として天正の石直(こくなお)し、文禄の検地とも言う。

秀吉は、千五百八十二年から各地を征服するごとに検地を行い、征服地を確実に把握して全国統一の基礎とした。

秀吉は、千五百九十一年に関白位を豊臣秀次に譲るまでは太閤ではなかったが、学術上の呼称は太閤以前の検地も含めて「太閤検地」と呼ばれている。

太閤と成った千五百九十一年に、秀吉は全国の大名に対し、国郡を基準とした石高帳(一国御前帳)の作成を命じた。

勿論、秀吉の検地以前にも各地の大名によって検地は行われており、特に織田信長によって大規模な検地が行われて「太閤検地の原型になった」と言われている。

信長の命令で柴田勝家が行った越前・加賀・能登などの検地は「国中御縄打」と呼ばれ一五七六年頃の実施である。


戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」と言う団体として領主に年貢を納める「地下請(じげうけ)」と言う制度ががほとんどだった。

この体制下では一つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められると言った複雑な権利関係が存在した。

太閤検地ではこう言った権利関係が整理され、一つの土地に複数の耕作者=納税者が存在する事はなくなった。

しかしこれは帳簿の上での事で、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた。

この検地により、表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位が統一された。

ただし、実際に計測していないまま申告された例も多く存在し、また検地が実施されても例外は多数存在した。

太閤刀狩(たいこうかたながり)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2013-11-06 18:13 | Comments(0)  

出雲大社(いずもおおやしろ・いずもたいしゃ)

出雲大社(いずもおおやしろ・いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。

正式名称の読み方は「いずもおおやしろ」であるが、一般には主に「いずもたいしゃ」と読まれる。

出雲大社(いずもおおやしろ)の社格は、式内社(名神大)出雲国一宮で、旧社格は官幣大社である。

現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人出雲大社教の宗祠(祖廟)である。


古代より江戸時代まで杵築大社(きづきのおおやしろ・きづきたいしゃ)と呼ばれていたが、明治維新後の千八百七十一年(明治四年)に出雲大社(いずもおおやしろ)と改称した。

杵築大社(きづきたいしゃ・きづきのおおやしろ)は、「古事記」、「日本書紀」。「出雲国風土記」などにその存在が記載されている。

杵築大社(きづきたいしゃ)の祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)で、千百四十二年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。

千八百七十一年(明治四年)に明治政府により官幣大社に列格の後、大正時代に天皇により勅使が遣わされる勅祭社(ちょくさいしゃ)となった。

神無月(旧暦十月の異称)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われ、為に神はその各地に居なくなり「神無月(かんなづき)」となるのだが、出雲だけは神在月(かみありつき)である。

出雲大社(いずもおおやしろ)の伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言える事は、天津神(大王/天皇)の命によって、国津神である「大国主神の宮が建てられた」と言う事である。

その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代に於ける国家的な事業として行われたものである事が伺(うかが)える。

また、杵築大社(出雲大社)の社伝に於いては、垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)の時が第一回、斉明大王(さいめいおおきみ/重祚して第三十七代天皇)の時が第二回の造営とされている。


二拝四拍手一拝の作法で拝礼するが、これは出雲大社(いずもおおやしろ)の他には天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮(いせじんぐう)に次ぐ社格の宇佐神宮(うさじんぐう)だけである。

出雲大社(いずもおおやしろ)は、明治維新に伴う近代社格制度下に於いて唯一「大社」を名乗る神社であった。

但し平安時代初期の延喜式神名帳に大社として列 格される四百九十二の神社、または~大社と名乗る神社も存在するが、大社(おおやしろ)と称するのは、出雲大社(いずもおおやしろ)のみである。

創建以来、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子の天穂日命(あめのほひのみこと)を祖とする出雲国造家(いずものくにのみやっこけ)が祭祀を担って来た。

現在の宮司は八十四代国造(くにのみやっこ)・千家尊祐(せんげたかまさ)で、國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格する。

千家尊祐(せんげたかまさ)は、二千二年(平成十四年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。

また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。

現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。

約六十年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開される事がある。

詳しくは小論・【因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)伝説と大国主(おおくにぬし)】がお薦めです。

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因幡(いなば)の白兎(うさぎ)伝説と大国主の命】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2013-11-05 13:14 | Comments(0)