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ランナーズハイの陶酔

「憑霊(ひょうい)現象」とも表現される「神懸かり」のルーツは、「ランナーズハイの陶酔(セックスハィの陶酔)」である。

ランナーズハイの陶酔とは、マラソンなどで長時間走り続けると、脳内神経伝達物質・エンドルフィン (endorphin) が作用して気分が高揚して来る現象を言う。


エンドルフィン (endorphin) は脳内で機能する神経伝達物質のひとつで、内在性オピオイド(モルヒネ受容体/たんぱく質)であり、モルヒネ同様の作用を示す。

エンドルフィン (endorphin) は、特に脳内の「報酬系」に多く分布する。

「報酬系」とは、ヒト・動物の脳に於いて、食欲などの欲求が満たされた時、或いは満たされる事が予測される時に活性化し、その個体に快の感覚を与える神経系の事である。

つまり欲求が満たされた時に活性化する為、性行為をするとベータ・エンドルフィン (β-endorphin) が分泌され、多幸感を得る。

また、ベータ・エンドルフィン (β-endorphin) には鎮痛作用があり、内在性鎮痛系に関わって多幸感をもたらすと考えられている為、脳内麻薬と呼ばれる事もある。


ここでランナーズハイの陶酔であるが、これは「ある種の苦しさからの防衛作用」として脳内麻薬を自然発生させる側面が考えられる。

マラソンなどで長時間走り続けると気分が高揚して来る作用「ランナーズハイ」は、ベータ・エンドルフィン (β-endorphin) の分泌によるものとの説があり、「二人以上で走ると効果が高い」と言われて居る。

この「苦しさからの防衛作用の陶酔」は、登山中に発生するクライマーズハイや、夜通し踊る盆踊り・ダンシングハイの心地良い疲れなどにも脳内麻薬として作用している。

原始的信仰のダンスから、盆踊り、カーニバルに到るまで、踊り続ける事によって神が降りる(脳内麻薬の発生)のである。

そして、過度な性交によるセックスハィの陶酔やSM行為と言う不合理な趣味のプレィのM側に走る原因も、危機感からベータ・エンドルフィン (β-endorphin) を発生だせる「苦しさからの防衛作用の陶酔」の陶酔が癖に成るからかも知れない。

詳しくは【美しくなれる興奮の解説】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2013-12-31 17:42 | Comments(0)  

金峰山寺(きんぷせんじ)

金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山で、本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角(えんのおづぬ)と伝えられる。

総本山・金峯山寺の所在する吉野山は、古来より山桜(ヤマザクラ)の名所として知られ、南北朝時代には後醍醐天皇方・南朝(吉野朝)の中心地で、吉野御所が在った。

「金峯山」とは、単独の峰の呼称ではなく、奈良県吉野郡の吉野山(吉野町)と、その南方二十数キロの大峯山系に位置する同郡・山上ヶ岳(天川村)を含む山岳霊場を包括した名称である。

吉野・大峯山系は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。

吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、及びこれら霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素となっている。

第二巻・第二話】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2013-12-18 00:11 | Comments(0)  

岐阜城(ぎふじょう)

岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城で、元は斎藤氏が居城とする稲葉山城だった。

元々は美濃守護代・斎藤利永が、室町期に金華山(稲葉山)に在った廃城を修復して居城とし、代々斎藤氏が居城としていた。

千五百二十五年(大永五年)斎藤氏家臣の長井長弘と長弘の養子・長井新左衛門尉(斎藤道三の父)が謀反を起こして斎藤氏の居城・稲葉山城を攻撃、城は長井氏の支配下となる。

千五百三十三年(天文二年)、長井家を継いだ新左衛門尉(斎藤道三の父)が没すると、その子・長井新九郎規秀(斎藤利政/後の斎藤道三)が後を継ぎ城主となる。

美濃国守護代になっていた斎藤利政(斎藤道三)が下克上を起こし、千五百四十一年(天文十年)美濃国守護土岐頼芸(ときよりのり)を追放する。

千五百四十一年(天文十年)・織田信長の父・織田信秀が頼芸派(よりのりは)の家臣に助勢して稲葉山城下まで攻め入る「加納口の戦い」を起こすも大敗する。

千五百五十四年(天文二十三年)美濃国国主・斎藤利政(斎藤道三)、居城・稲葉山城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り剃髪、道三と号する。

千五百五十六年(弘治二年)父・道三と不仲になっていた二代・斎藤義龍が長良川の戦いにより道三を討ち取る。

千五百六十一年(永禄四年)、 義龍の急死により、三代・斎藤龍興が十三歳で家督を継ぎ、城主となる。

千五百六十七年(永禄十年)織田信長が、美濃国主・斎藤龍興から美濃国と稲葉山城を奪取し、稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。

山城の岐阜城の麓(ふもと)に館を増築して城の付属とし、その館を迎賓館として活用した。

阜城岐は、織田信長が近江国に安土城を建設、嫡子・織田信忠を岐阜城の城主にするまで信長の居城だった。

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by mmcjiyodan | 2013-12-14 10:03 | Comments(0)  

戸田康光(とだやすみつ)と戸田松平家

戸田氏は三河国渥美郡二連木城(愛知県豊橋市)や田原城(愛知県田原市)に拠った国人領主家である。

その三河国渥美郡に根拠地をもった戸田氏からは、徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した。

三河国の戸田氏は、藤原北家・藤原公季流・正親町三条家の末裔と伝わり、古い時代に於いては十田(とだ)と記した例もある。


戸田氏の運命が大きく動いたのは、三河国に勢力を持っていた松平氏の勢力が弱まった戦国中期だった。

戸田氏や牧野氏を抑え、三河を統一しかけていた松平清康(まつだいらきよやす)の急死により、松平氏の隆盛には陰りが見えはじめていた。

清康(きよやす)の跡を継いでいた松平広忠(まつだいらひろただ)は織田氏の圧迫を受け、嫡男の松平竹千代(後の徳川家康)を今川氏の人質に出す事を条件に後援を申し入れていた。

この時、人質として送られる松平竹千代(後の徳川家康)の今川領・駿河国までの護衛を命じられていたのが戸田氏だった。

松平竹千代(後の徳川家康)の護衛役を命ぜられた戸田家の当主・戸田康光(とだやすみつ)は、三河に於ける今川方の有力な戦国武将で在った

所が先年、今川義元(いまがわよしもと)に一門の戸田宣成(とだのぶなり)が滅ぼされた事を深く恨み、同じ末路をたどる事を恐れて尾張の織田氏に寝返ろうとした。

康光(やすみつ)は松平竹千代を駿河に送ると見せかけ、織田家に通じて今川氏から離反した。

今川氏の仇敵・織田氏に松平竹千代を届けた為に、これに怒った今川義元(いまがわよしもと)は、田原に兵を差し向ける。

今川氏の追討を受け、康光(やすみつ)は田原城に籠って奮戦するが衆寡敵せず嫡男・尭光(たかみつ)と共に討死し、田原・戸田氏は滅亡した。

宗家が壊滅した為、分家して仁連木戸田家を立てていた仁連木城主で康光次男の宣光(のぶみつ)は今川氏についてその命脈を保ち、宣光系の嫡流が戸田宗家となった。

その後戸田宗家は、棟梁の今川義元(いまがわよしもと)が桶狭間の戦い織田信長に討たれて今川家が弱体化し、三河に独立した松平元康(徳川家康)に臣従する。

戸田氏の嫡流・戸田(松平)康長(宣光系)は徳川家康の異父妹・松(久松俊勝の娘)と婚姻して戸田宗家(宣光系)は松平家の家名を下され、戸田松平家と呼ばれた。

その戸田(松平)康長以降、松平丹波守の称号を継承し、葵の紋所を許されるなど江戸幕府より厚遇され江戸十八松平のひとつとして数えられた。

嫡流家(宣光系)は、主に信濃国松本藩(七万石/松本城)を与えられている。

支流には主に宇都宮藩として七万石を与えられていた光忠系、主に美濃国大垣藩主として美濃に十万石を許されていた一西系など、譜代大名としては六家が幕末に至った。

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by mmcjiyodan | 2013-12-05 17:48 | Comments(0)  

長元の乱(ちょうげんのらん)=平忠常の乱(たいらのただつねのらん)

長元の乱(ちょうげんのらん)=平忠常の乱(たいらのただつねのらん)は、平安時代の千二十八年(長元元年)に房総三カ国(上総国、下総国、安房国)で起きた反乱である。

平安時代のこの反乱は、関東地方では平将門(たいらのまさかど)の乱以来の大規模な反乱だった。

平忠常(たいらのただつね)は、平将門(たいらのまさかど)の叔父・平良文(たいらのよしふみ/村岡良文)の子孫に当たる

忠常(ただつね)は上総国、下総国、常陸国に父祖・平良文(たいらのよしふみ)以来の広大な所領を有し、傍若無人に振る舞い、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。

千二十八年(長元元年)六月、忠常(ただつね)は安房守・平維忠(たいらのこれつね)を焼き殺す事件を起こす。

原因は不明だが、受領と在地領主である忠常(ただつね)との「対立が高じたも」と説明されている。

続いて忠常(ただつね)は、上総国の国衙(こくが/地方政治を遂行した役所)を占領してしまう。

上総介・縣犬養為政(あがたいぬかいのためまさ)の妻子が京へ逃れ、これを見た上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総三ヵ国(上総国、下総国、安房国)に広まった。

この乱の鎮圧に朝廷は検非違使・平直方(たいらのなおかた)を主将とする討伐軍を派遣するが三年にわたって鎮圧できなかった。

平直方(たいらのなおかた)は検非違使を罷免され、直方(なおかた)は伊豆に一族の安住の地を得、後にこの子孫が鎌倉期北条氏となる。

代わって源氏武士団有力武士・源頼光(みなもとのよりみつ)の弟・源頼信(みなもとのよりのぶ)が起用されるに及び忠常(ただつね)は戦わず降伏した。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2013-12-03 13:39 | Comments(0)