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宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)

他人に人を殺させれば「殺人教唆(さつじんきょうさ)」、人を一人~二人と殺せば「殺人者」、しかし人を大量に殺させたり自ら大量に殺せば歴史的英雄に成れる。

この大矛盾は、部族益とか民族益とかを基準にして、現代でも正当化されている「特に留意すべき問題部分」である。

覇権本能は男の性(さが)であるから一概(いちがい)に「悪」とは言い切れないが、それが大量殺戮や一般市民を巻き込む悲劇を生む所に、良識ある者には違和感を感じる。

所が、当の覇権主義者(統治者)は、「目的の為の手段」と言う思考がその延長線上にあるから、「統治者の論理」で押し通し庶民の苦しみなど意に介しない。

群れ社会から始まった人間の感性には、「リーダーに成った者が偉い」と言う一種の依存性とも言える「想いたい願望」が存在する。

このタイプの「リーダー依存性人間」は、原始感性を引きずって生きて来た未成熟で純粋な、そして権力者に「利用され易い善人」である。

しかし歴史研究者として時代時代のリーダーを評価すると、その業績には功罪相半ばする「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」が排除できない。

そして学識者の本音では「そんな事は当たり前だ」と想いながらも、「リーダーに成った者が偉い」と言う庶民の幻想を、建前として支持している。


人間は、とてつもなく優しくも、とてつもなく非情にもなれる。

「人を殺したら地獄へ堕ちる」が、古来からの我が国の独自文化だった筈が、大勢殺した張本人の戦争指導者(A級戦犯)を、靖国に合祀する為に「死ねば罪が消える」と古来からの文化を歪曲した。

地獄に堕ちるべき戦争指導者(A級戦犯)を神に祀り挙げておいて、「凶悪犯罪が多発しているのは戦後の教育が成っていないから」と平気で言うが、「好戦主義者」は「戦争は別」と言いたいのか?

この二面性の裏には宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)が存在し、「目的の為の手段」と言う魔法の言葉で、「非情な悪」も正義に成るからである。

現代社会では、金や権力を持たないと中々他人に何かしてやれない。

だが、他人に何かしてやれるように成るには、「多少の無理をしても、のし上がろう」と言う矛盾(むじゅん)に眼を瞑(つむ)らなければ、金も権力も容易(たやすく)く手に入らない。

つまり金や権力をもたらせる「目的の為の手段」と言う理屈が己を納得させつつ、「多少の無理」を行使する事が、人間が腐る始まりである。


我輩の歴史研究者としてのスタンスでは、「政治家も官僚も、そして労働組合の幹部も、権力を握れば人間性が腐って善人で居られない。」が正に持論である。

実は、「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」と言う理論が、「目的の為の手段」と言う魔法の言葉で、「権力を握れば、人間性が腐って善人で居られない。」を生み出している。

つまり、「従業員の為」と「会社の為」は、ある部分では「利」が一致するが、当然ながら「利」が相反する場合も多く、そこに「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」が在る。

だから「従業員の為」と言いながら「会社の為」に腐心する経営者は、何処かでその矛盾に「目的の為の手段」と言う魔法を使う。

無論、労使間に存在する賃金や労働環境整備など、基本的な「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」は両立が難しく対立は回避できない。

会社維持の為に人権費の圧縮は当たり前だし、同様に節税(脱税?)もするし安全設備の出費も圧縮する。

「何が宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)か」と言うと、政治権力を握らないと理想的政治を実施できないが、しかし政治権力を握るには「清廉潔白」とばかりでは居られない矛盾(むじゅん)がつきまとう。

財界首脳と言う権力を握るには、熾烈な社内抗争からライバル企業との競争に打ち勝ち、そのポストを手にしたら企業と業界の発展の発展には「清廉潔白」とばかりでは居られない矛盾(むじゅん)がつきまとう。


例えば地方政治家の仕事は条例の制定、中央政治家(代議士)の仕事は立法である。

この条例や立法の内容を、少しでも有利にする為の団体が、財界経済団体や業界団体、そして労働団体で、合法の寄付行為から裏金まで「役に立つ議員だから出す金」で、目的も無しに出す金など何処の団体にも無い。

もしもそれらの団体が議員に何も求めないで、「集票支援や寄付だけする」と言うのなら、それが真実であったらそれは団体加盟者への裏切りになるから、それ自体が欺瞞である。

合法の寄付行為も、政治家達が抵抗して残した抜け道だけで、支援団体が政治家を利用する構図は昔の「お主しも悪よの~」とたいして違いは無い。

つまり族議員を支援する財界経済団体や業界団体、そして労働団体の目的は、「国民全体の利益」など眼中に無く、すべからく自分達の業界の発展(おのれの利)だけに特化して尽力している訳である。

当然ながら集票支援から寄付金まで、受け取る方の政治家も支援団体とは持ちつ持たれつで、減税立法から血税投入政策まで、そうした支援団体の意向は無視でき無い。

建前では、「清廉潔白」は議員立候補者の必須条件である。

しかし「嘘吐きは政治家の始まり」で、公約は選挙の為に在り、当選すればこっちのもので、「政策転換」と言う名で都合良く忘れ去るものである。


官僚は官僚で、政府系外郭団体から財界のシンクタンクまで天下り先の確保に血眼になって手心を加えている。

つまり現実は、どんなに綺麗事を言っても、議会政治から官僚行政まで、結果的に各種団体の利権が絡む社会構造に成って居る。

政治家・官僚・各支援団体の首脳まで、権力を手にしたリーダー達は「目的の為の手段」と言う発想で己を納得させつつ「自己の利益の為」に日夜奮闘している。

こうした権力者は、「宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)」の中で「目的の為の手段」を行使して勝ち上がっている。

そして一度その立場に立った権力者は、「権力のさらなる向上」と言う論理優先の為に、人間的に更らに品格が腐って行くものである。

つまり本当の善人には、金も権力も「金輪際手に入らない」と言う事である。

詳しくは、小論【宿命的矛盾(しゅくめいてきむじゅん)の考察】を参照下さい。

お薦め参考文献
国家の品格・武士道の国日本のまやかし】に飛ぶ。

第六巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2014-01-28 20:57 | Comments(0)  

平塚為広(ひらつかためひろ)

相模国平塚の地頭・三浦為高(みうらためたか/為重)の七代目の子孫・美濃垂井一万二千石・平塚為広(ひらつかためひろ)は、千六百年の関が原戦で石田方西軍の武将として戦死した。

平塚為広(ひらつかためひろ)の平塚氏は、現在の平塚市岡崎を領した三浦義明(みうらよしあき)の弟・岡崎義実(おかざきよしざね)を祖とし相模国大住郡平塚発祥の桓武平氏三浦氏流平塚氏である。

三浦氏は相模国三浦郡矢部郷の出身で、坂東八平氏と並び称される桓武平氏(桓武天皇の皇子・葛原(かずはら)親王流)の流れを汲むの一族である。

豊臣秀吉から勘気を被り浪人になっていた平塚藤蔵(為広)が、秀吉の中国出陣のおりに播磨の戦で黒田孝高(官兵衛)に陣借りをし、高倉山城主・福原助就を討ち取る手柄を立て再び秀吉に仕えた。

その後為広(ためひろ)は秀吉の継嗣・豊臣秀頼に仕え、千六百年の関ヶ原の戦いの直前、八千石の知行から漸く美濃垂井一万二千石を領するも関ヶ原の戦いで石田三成方西軍に与し、大谷吉継(行部)軍の一翼をになって伴に討ち死にした。

哀しい事に、本当に石田方として獅子奮迅の働きをしたのは、石田三成の手勢・兵六千に加え、三成の盟友・手勢の兵四千の小西行長と大谷吉継(大谷刑部)の率いた平塚為広との連合軍・僅か六千に足らぬ兵力の計一万六千だけだった。

平塚為広(ひらつかためひろ)の子・庄兵衛も関ヶ原の戦い討死したと伝えられ、弟の平塚久賀(ひらつかひさよし)は生け捕られ、徳川家康の前に引き立てられたが助命放免されている。

関ヶ原の戦いに生き残った為広(ためひろ)嫡男・為景(左馬助)は、その後の大坂夏の陣に参加、若江の戦いにて戦死している。

後々、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔を名乗る者現れるは、嫡男・為景(左馬助)や子・庄兵衛、弟・久賀(ひさよし)の子が生きながらえ残ったと考えられる。


江戸後期には、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔で幕府旗本・平塚為善(ひらつかためよし)の娘が将軍・徳川家斉(第十一代将軍)の側室・於万の方となる。

同じく平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔で平塚らいてう・本名は平塚明(ひらつかはる)・東京府麹町区三番町生まれが、文芸家・女性運動家として有名である。

千九百四十六年(昭和二十一年)の第一次吉田内閣で運輸大臣を務めた水産事業家・平塚常次郎(ひらつかつねじろう)もまた、平塚為広(ひらつかためひろ)の末裔だった。

豊臣秀吉・恩顧大名リスト】に飛ぶ。

関連記事
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by mmcjiyodan | 2014-01-22 00:40 | Comments(0)  

布織の技術・倭文(シズオリ)

伊豆の国(静岡県)修善寺(現・伊豆市修善寺)の大野地区辺りに小さな神社が在り、その名を「倭文神社」と言う。

読み方は、倭文と書いて「シズオリ」と読むのが正らしい。

別名を倭文織(しずお)り、綾布(あやぬの)、倭文布(しずぬの)などと呼び、カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代の織物(イラクサ染め)である

それが、朝鮮半島を経由して来た異国の文様に対する意で、「倭文(しず)の字を当てた」と言う。

勿論、最初は渡来氏族が日本列島にモタラした布織の技術であるが、それが日本全国に分布する機織(はたおり)の神様に成った。

その後、列島各地の土地それぞれに倭文(シズオリ)がなまって、しずり神社、しどり神社、しとり神社などと読ませる。


この倭文(しずおり)の意味は、「延喜式内社」として我が国の神社に加えられた「朝鮮半島系渡来文化」の織り布(イラクサ染め)の呼び名を「倭文」と呼び、それを祀っている。

これは、海洋系民族(呉族)の技法による朝鮮半島・新羅(シルラ)、任那(ミマナ)辺りからの職布が、「倭文(シズオリ)」であり、日本列島固有の物では無い事を意味している。

つまり日本列島を指して「倭国(わのくに)」とするのはかなり時代が下ってからで、「倭」の文字は、初期に於いて日本列島を指す言葉では無かった。


こうした渡来の布織技術を専門とした氏名(うじな)が、服部(はとりべ)・織部(おりべ)と言った大和朝廷下の職務名に充てられ、氏姓制度の基に成って居た。

つまり初期の日本列島に於いて、染色技術や布織技術が渡来氏族の独占技術だった事が、他の工業同様に技術者のステータスを高級化し、もって製品を高度な物に昇華させる下地を創った。

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by mmcjiyodan | 2014-01-14 10:14 | Comments(0)  

戦国武士の副業

豊臣秀吉の「太閤刀狩」は、専業武士(統治と武力行使を担当)と氏族系百姓(ひゃくしょう)の間に明確な線引きをして、氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主を町人、氏族系の地主を百姓と身分を明確に分けた「身分制度改革」だった。

その豊臣秀吉の「身分制度改革」以前の戦国武士は、副業をしていても当たり前で、それが普通だった。

それらの身分制度は江戸時代を境にそれが確定し、氏族系百姓身分の商業者は町人(商家/商人)と成った。

農業、工業、商業、漁業などの経営は、武士の直接経営から身分の分類で分離されて間接経営に変わり、金銀山などの鉱業経営だけが残った。

江戸時代を境に、農業、工業、商業、漁業などの経営は、武士の直接経営から身分の分類で分離されて間接経営に変わり、金銀山などの鉱業経営だけが残った。

しかしその身分分類の成立以前は、多くの業が武士(有姓氏族)の独占だった。

何故ならば、初期の渡来部族が大くの先端技術を持ち込んで日本列島を征服し、その渡来部族が氏姓(うじかばね)を名乗る支配階級・氏族(うじぞく)に成った事で、先端技術は有姓氏族の独占となって居た。


例えば後に肥後一国を領する黒田藩の成立は、備前国邑久郡の国人領主・黒田重隆(くろだしげたか)に遡(さかのぼ)る。

黒田家は、元々から宇多源氏佐々木六角流黒田氏を自称する武家で、本拠地は畿内に在った。

それが室町期に、「船岡山合戦」のいざこざから足利将軍家の不興を買い、備前国邑久郡に流れ着いて居を構えた。

黒田官兵衛孝高の祖父・黒田重隆(くろだしげたか)は目薬の製造販売(販売は姫路の広峯神社の神官が担当)で財を成して力を着け、郎党を集めて播磨の国人領主に成り上がった。

しかし勘違いして欲しくないのは、黒田重隆(くろだしげたか)は目薬屋から武士に成った訳ではない。

歴史の常識は、時代の経過と伴にその時代時代で変わるものであるから、つまり現代の業種分業の先入観で、この戦国時代の業態を判断して欲しくない。

元々平安期の武士は、神官を始め工業、農業、商業、海運業などの副業を持って居て、鉱業利権は勿論、刀剣の製造や後の銃砲の製造も武士(有姓氏族)の独占だった。

つまり、室町期から戦国期にかけてはまだ、武士とその他の業との区別は余り無かった。

例えば、戦国を大きく遡(さかのぼ)る平安末期の事だが、平清盛は海運業を盛んに行い、海外貿易まで手を染めていた。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)織田信長に仕官させた信長の愛妾・生駒吉乃(いこまきつの)生駒家は、馬借(ばしゃく)と言う馬の貸し出し業や陸運業を副業にしていた。

また、「美濃の国取り物語」で有名な油屋の斉藤家の話しも黒田家の目薬屋と似ているので紹介する。

下克上で「美濃一国の国主と成った」と言われる斉藤道三(さいとうどうさん)の父は、天皇の御所を守る「北面の武士」の家から妙覚寺に出家した松波基宗の子・松波峯丸(法蓮坊)である。

その松波峯丸(法蓮坊)が、「山崎屋庄五郎」と名乗り京都周辺で油屋を営み、財を成して美濃国の国主・土岐家の重臣・西村家の家督を継ぎ、西村新左衛門尉を名乗る。

それを脚ががりにして息子の道三の代には最後には主君・土岐頼芸(ときよりのり)を武力を持って追放し美濃一国を手に入れた。

この斉藤道三の国取り物語を、「道三が一代で油屋から国主に成り上がった」とする物語も捏造(ねつぞう)で、正しくは親子二代の国取りである。


あらゆる業種に副業を持っていた氏族が、室町期から江戸期に到る過程で武士との分業化が進み、商業を選択して町屋の大商人(豪商)になる者、帰農して農村部の村役や庄屋(江戸期)におさまる者が現れ身分制度が確立した。

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by mmcjiyodan | 2014-01-09 17:30 | Comments(0)