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将軍申次役・伊勢盛定(いせもりさだ)

下剋上戦国時代を迎える端緒となったのが、後の二代目当主から後北条氏と呼ばれる事になる北条早雲(伊勢氏)の新九郎盛時(しんくろうもりとき)の存在だった。

伊勢氏は源氏流足利氏の根本被官(代々家臣の出)の一族である。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)建武の新政(けんむのしんせい)に乗じて北朝・室町幕府を成立した足利尊氏(あしかがたかうじ)に仕えた伊勢貞継(いせさだつぐ)の系統が室町幕府政所執事を出す京都伊勢氏となる。

その伊勢本宗家・伊勢貞継(いせさだつぐ)の弟・盛経(もりつね)の系統の備中・伊勢氏は将軍の近習や申次衆を出していた。

将軍申次役や申次衆は、室町幕府の幕閣である政所執事や管領に次ぐ将軍の側近政務官僚である。

尊卑分脈の伊勢氏系図によると伊勢盛定(いせもりさだ)は備中・伊勢氏惣領・伊勢盛綱の四男であり、長男の盛富(もりとみ)が備中伊勢氏の惣領と推定される。

盛富(もりとみ)は父と同じ肥前守となり、備中守となった盛定(もりさだ)は兄と所領を分かち備中荏原郷(岡山県井原市)を領し高越山城主になった。


京都伊勢氏の貞親(さだちか)は千四百五十四年(享徳三年)に備中守から伊勢守に転じており、義兄弟になった盛定(もりさだ)に伊勢氏にとって重要な意味のある備中守を譲った。

伊勢本宗家・伊勢貞親(いせさだちか)は、千四百六十年(長禄四年)頃に備前守に転じている。

備中守は、貞親(さだちか)の弟・貞藤(さだとう/江戸時代以来、早雲の父と考えられていた)が継承している。


伊勢盛定(いせもりさだ)は備中伊勢氏惣領の兄・盛富(もりとみ)と並んで将軍申次を勤め、一族内でも重要な地位を占めていたと考えられている。

盛定(もりさだ)の名は畠山氏・畠山義就(はたけやまよしひろ)との交渉=千四百五十五年(享徳四年)や千四百六十年(長禄四年)の近江守護六角氏・六角政堯(ろっかくまさたか)追放事件、千四百六十三年(寛正四年)、幕府から追討命令を受けた信濃国人・高梨政高(たかなしまさたか)の赦免の交渉などの記録に見える。

これらの記録から、盛定(もりさだ)は八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の時代に幕政の中枢にあった貞親(さだちか)を外交交渉の面で補佐する立場にあったと考えられる。

千四百六十六年(文正元年)、「文正の政変」と呼ばれる斯波氏・斯波義廉(しばよしかね)の廃嫡問題を巡って貞親(さだちか)は将軍継嗣の足利義視(あしかがよしみ)と対立する。

伊勢本宗家・貞親(さだちか)は、「足利義視(あしかがよしみ)の暗殺を企てた」と糾弾されて臨済宗の僧・季瓊真蘂(きけいしんずい)、斯波義敏(しばよしとし)、赤松氏・赤松政則(あかまつまさのり)らと共に京都を出奔する事件が起き、盛定(もりさだ)はこれに同行している。

この斯波義廉(しばよしかね)の廃嫡問題に盛定(もりさだ)が深く関与し、斯波氏が守護に就いていた遠江の国人の堀越・今川氏や横地氏、勝間田氏の申次として連絡を取って居た。

根拠として、応仁の乱が起こると遠江は早々に貞親(さだちか)が支持する斯波義敏(しばよしとし)の支配下になった点が指摘されている。

この伊勢盛定(いせもりさだ)の娘が、北川殿として駿河・今川氏に嫁いだ事から伊勢氏と今川氏とに縁(えにし)ができ、盛定(もりさだ)の子・新九郎盛時(しんくろうもりとき)が後北条家の祖となる。


伊勢本宗家・伊勢貞親(いせさだちか)は将軍の赦免を受けて京都へ復帰し、千四百六十七年(応仁元年)に応仁の乱が起こる。

駿河守護の今川義忠(いまがわよしただ)は上洛して花の御所に入り、東軍に属した。

義忠(よしただ)は貞親(さだちか)の屋敷をしばしば訪れており、盛定(もりさだ)は本宗家と今川氏との申次を務めた。

その申次の縁で、盛定(もりさだ)の娘・北川殿が義忠(よしただ)の妻となったと考えられる。

以前、北条早雲(伊勢新九朗)が伊勢素浪人と考えられていた時期の日本史解釈では、北川殿は側室とされていた。

だが、将軍近臣の備中伊勢氏と今川氏とは家格に遜色がなく、現在では北川殿は正室と考えられており、結婚の時期は応仁元年頃と推定されている。

盛定(もりさだ)の娘・北川殿は千四百七十一年(文明三年)に嫡男・龍王丸(今川氏親/いまがわうじちか)を生んだ。

伊勢盛定(いせもりさだ)の所領・備中荏原郷(岡山県井原市)で、千四百七十一年(文明三年)に発給された文書に新九郎盛時(しんくろうもりとき)の署名がある。

この時期、新九郎盛時(しんくろうもりとき)は京都で活動する父・盛定(もりさだ)に代わって所領の備中荏原郷(えばら)の支配を行っていたようだ。

千四百七十六年(文明八年)、今川義忠(いまがわよしただ)は遠江で横地氏、勝間田氏と戦い勝利するが、帰路に残党に襲われて討ち死にした。

従来、横地氏と勝間田氏は西軍の斯波義廉(しばよしかね)に内応した為に義忠(よしただ)がこれを討ったとされていた。

だが、近年の研究によって、これ以前から義忠(よしただ)は東軍の斯波義寛(義敏の子)の遠江の被官の国人と戦っている事が明らかになっていて、義忠(よしただ)は同じ東軍と戦っていた事になる。

この際に盛定(もりさだ)は、婿の義忠(よしただ)ではなく横地氏、勝間田氏を支援していたと考えられている。


幼少の今川龍王丸に対して不安を持った家臣の一部が今川義忠(いまがわよしただ)の従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ)を擁立して家督争いが起こった。

ここで、盛定(もりさだ)の娘・北川殿の弟・伊勢新九郎(盛時)が駿河に下向して、龍王丸成人まで小鹿範満(おしかのりみつ)を家督代行とする事で内紛の調停を成功させている。

後の北条早雲(伊勢新九郎)の最初の活躍とされる事件だが、近年、伊勢新九郎(盛時)の父・盛定(もりさだ)が幕府の重要な地位にあった事が近年明らかになった。

その事で、伊勢新九郎(盛時)は盛定(もりさだ)の代理として幕府の意向を受けて駿河下向したと言う説が有力になりつつある。

今川氏の家督争いで浮上した小鹿範満(おしかのりみつ)は関東管領・上杉氏の一族(上杉政憲)の娘を母としており、関東管領の影響力が駿河に及ぶのを幕府が嫌った。

この為、幕府(東軍)と敵対関係にあった義忠(よしただ)の子の龍王丸だが、幕府が龍王丸支持に切り替えて、龍王丸の叔父にあたる伊勢新九郎(盛時)を派遣したと言う説を出している。

一方、歴史書・軍記物の「鎌倉大草紙」に記した今川氏の家督争いについて、伊勢新九郎(盛時)の活動が見られない事から新九郎の調停の実在に疑問を呈する説もある。

その後、伊勢新九郎(盛時)は駿河から京へ戻り、千四百八十一年(文明十五年)に九代将軍・足利義尚(あしかがよしなお)の申次衆になっている。


千四百八十七年(文明十九年)に、伊勢新九郎(盛時)は再び駿河へ下向して小鹿範満(おしかのりみつ)を討ち今川龍王丸を家督に就かせた。

千四百九十三年(明応四年)、宗瑞(盛時が出家)は伊豆へ乱入して堀越公方・足利茶々丸を討っている。

伊勢宗瑞(盛時が出家)の堀越公方(ほりこしくぼう)・足利茶々丸に対する下克上・伊豆奪取事件は、戦国時代の幕開けとされる事件である。

近年の研究では、この事件は中央で起こった管領・細川政元が十代将軍・足利義材を追放して茶々丸の弟の足利義遐(あしかがよしとお)を将軍に据えた「明応の政変」に連動して起こったとする説が有力である。

北条早雲(ほうじょうそううん/伊勢新九郎盛時)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2014-07-13 04:15 | Comments(1)  

探題(たんだい)

探題(たんだい)とは、鎌倉幕府室町幕府に於いて、政務について裁決を行う重要な職位を指す。

探題(たんだい)は、元々仏教用語で使われていた職で、僧の資格を問う論議に於いて出題に対し出された答えに判定を行う役の僧を言った。

その判定役名・探題(たんだい)を、裁判権など重要な判定を行う幕府の職位に転用したものである。


鎌倉幕府に於ける探題(たんだい)は、幕府の両所たる執権(政所別当/政務執行者/管領とも呼ぶ)と連署(公文書に執権と連名で署名)の中央二役職、そして畿内周辺を担当する重要出先機関・六波羅探題職を指す。

執権、連署、六波羅探題の三職の他に、西国に置かれた広範囲な裁判権、軍事指揮権を持つ職にも探題(たんだい)の名が与えられた。

この西国に置かれた探題(たんだい)は、関東・相模国に在った鎌倉幕府が西国運営の為に置いた出先機関とその職責者を指す名称で、長門探題(中国)、鎮西探題(九州)の二ヵ所に設置赴任されていた。

尚、この鎌倉幕府の探題制とは別に、安倍一族系の秋田・安東家が、勝手に蝦夷探題(えみしたんだい)を称して一時羽州(出羽/秋田、山形)を仕切っていた。


時が移り、京都・畿内に政府を開いた室町幕府では鎌倉の執権に相当する執事(政務執行者)または管領(将軍補佐/幕政統轄)が置かれた。

室町幕府初期に於ける将軍補佐役が、足利氏の譜代家人から採用される執事の職で、二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の晩年から幼少の三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の頃までに、執事から管領の呼称変更がなされている。

これら執事または管領は探題とは呼ばず、やはり京都・畿内の中央から遠い奥羽や西国に於いて広範な執行権を持つ職に対して探題が用いられた。

室町期の探題(たんだい)は、奥州探題(陸奥/青森、岩手、宮城、福島)、羽州探題(出羽/秋田、山形)、中国探題(旧・長門探題)、九州探題(旧・鎮西探題)の四ヵ所である。

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by mmcjiyodan | 2014-07-07 01:04 | Comments(0)  

今川貞世(いまがわさだよ/了俊)

今川貞世(いまがわさだよ/了俊)を排出した今川氏(いまがわうじ)家系は、清和源氏のひとつ河内源氏の流れを汲む足利将軍家御一家吉良家の分家にあたる。

吉良家は足利将軍家の親族であり足利宗家の継承権を有して、斯波家畠山家をはじめとする他の足利一門諸家とは別格の地位にあった。

今川家は、室町時代にその吉良家分家として駿河の守護に代々任命され、さらに遠江守護家も分流する。

また、初期の分家である今川関口家は室町幕府の奉公衆であった。


今川貞世(いまがわさだよ)は、足利流・今川氏の一族で鎌倉時代後期から南北朝並立時代・室町時代の武将で、守護大名である。

室町幕府執事となった細川清氏(ほそかわきようじ)が千三百六十一年(正平十六年/延文六年)に失脚して南朝に下ると、今川貞世(いまがわさだよ)は父の命で講和呼びかけの為に遠江から召還される。

貞世(さだよ)は軍事活動のほか、遠江や山城の守護職、幕府の侍所頭人、引付頭人などを務め、千三百六十七年(正平二十二年/貞治六年)に二代将軍・足利義詮が死去すると出家・了俊(りょうしゅん)を名乗る。

今川貞世(いまがわさだよ/了俊)は、三代将軍・足利義満時代の千三百七十年(建徳元年/応安三年)頃に、幕府管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)から渋川義行(しぶかわよしゆき)の後任の九州探題(九州の統括長官)に推薦され、正式に任命された。

観応の擾乱後に、南朝方の菊池武光が征西大将軍・懐良親王(かねながしんのう)を奉じた征西府、初代室町将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の庶子(直義の養子)である足利直冬らが分立し、征西府が筑前の少弐頼尚を撃破して大宰府を占領し、南朝勢力が強くなっていた。

その南朝方征西勢力の九州の平定の為に、今川貞世(いまがわさだよ/了俊)は北朝方九州探題(九州の統括長官)として派遣される。

命を受けた了俊(りょうしゅん)は、本国・遠江で九州出立つの準備をした後、千三百七十年十月に京都を出発する。

千三百七十一年(建徳二年/応安四年)五月に、今川貞世(いまがわさだよ/了俊)は中国地方・安芸に留まり、毛利元春、吉川経見、熊谷直明、長井貞広、山内通忠ら安芸国人衆を招集し、次いで十二月に九州へ渡り豊前へ至っている。

了俊(りょうしゅん)は周防・長門の大内弘世(おおうちひろよ)、義弘(よしひろ)父子らの協力も得て新興の国人勢力と連絡し、豪族・阿蘇惟村(あそこれむら)の協力を得て豊後に嫡男の今川貞臣(いまがわさだおみ)を田原氏能と共に豊後高崎山城に入り込ませる。

弟の今川仲秋(いまがわなかあき)は松浦党の協力を得て肥前から大宰府を攻め、了俊(りょうしゅん)自身の兵は豊前から大宰府を攻めた。

千三百七十一年(文中元年/応安五年)六月、了俊(りょうしゅん)は南朝方・懐良親王(かねながしんのう)菊池武光(きくちたけみつ)らを筑後高良山(現・福岡県久留米市)から菊池氏本拠の肥後隈部城まで追い、南朝勢力から大宰府を奪回し、北朝方の拠点とした。

この後、九州に於ける南北朝対決の戦局は肥後へ移り、千三百七十四年(文中三年/応安七年)七月、了俊(りょうしゅん)は水島(現・熊本県菊池市)まで出兵した。

千三百七十五年(天授元年/永和元年)、了俊(りょうしゅん)は水島での会戦に備えて勢力結集をはかり、九州三人衆と呼ばれる豊後の大友親世(おおともちかよ)、筑前の少弐冬資(しょうにふゆすけ)、大隅の島津氏久(しまづうじひさ)らの来援を呼びかける。

三人衆の内、唯一九州探題と対立していた少弐冬資(しょうにふゆすけ)は着陣を拒んだが、島津氏久(しまづうじひさ)の仲介で来陣した。

了俊(りょうしゅん)は水島の陣に於いて、獅子身中の虫なる危険を孕む冬資(ふゆすけ)を宴の最中に謀殺する挙に出る。

この水島の変により面子を潰された島津氏久(しまづうじひさ)は離反して帰国、島津氏は了俊(りょうしゅん)の九州経営に抵抗するようになった。

また、大友親世(おおともちかよ)も探題に対して嫌疑を抱き、了俊(りょうしゅん)への支援を止めてしまった。

九州の有力大名の離反によって一転して窮地に陥った了俊は、同盟関係にあった周防・長門の守護・大内氏に協力を要請する。

これに対して大内弘世(おおうちひろよ)は難色を示したが、子の大内義弘(おおうちよしひろ)は了俊(りょうしゅん)を支持し、九州に援軍を派遣している。

また、大内義弘(おおうちよしひろ)の援軍を派遣により、大内氏と婚姻関係の在った大友親世(おおともちかよ)も、消極的では在ったが北朝方に帰順した。

水島の変から二年後の千三百七十七年(天授三年/永和三年)、了俊(りょうしゅん)は菊池武朝(きくちたけとも)・阿蘇惟武(あそこれたけ)ら南朝勢力と肥前蜷打(現・佐賀市高木瀬)で激突する。

この肥前蜷打の戦いは北朝方・九州探題の大勝に終わり、南朝方の有力武将を多数討ち取っている。

蜷打の戦い以降、了俊(りょうしゅん)は再び南朝方に対する攻勢を強め、千三百八十一年(弘和元年/永徳元年)には菊池武朝(きくちたけとも)を本拠地・隈部城から追放している。

南九州に下った氏久と甥の島津伊久に対して了俊(りょうしゅん)は、五男の満範を派遣して南九州国人一揆を結成させ、弘和元年十月に帰順させている。

千三百九十一年(元中八年/明徳二年)に八代城の名和顕興(なわあきおき/名和長年の孫)と征西大将軍・良成親王を降伏させ、千三百九十二年(元中九年/明徳三年)の南北朝合一を機に菊池武朝(きくちたけとも)と和睦し、九州南朝勢力を帰順させて九州平定を果たした。

但し、南北朝合一後も氏久の息子・元久と対立、了俊(りょうしゅん)は千三百九十四年(応永元年)に四男の尾崎貞兼を南九州に派遣したが、翌年に九州探題を解任された為、島津氏討伐は失敗に終わった。

外交では懐良親王(かねながしんのう)を指すとされている「日本国王良懐」を冊封する為に派遣された明使を抑留し、日明交渉を将軍・足利義満の手に委ねた。

また、朝鮮半島・高麗の使者・鄭夢周とも接触して独自の交渉を行い、千三百九十一年(元中九年)に李氏朝鮮が成立しても交渉を継続した。


千三百九十五年(応永二年)七月、了俊(りょうしゅん)に上京の命が下り、同年八月に上京する。

ところが、上京した了俊(りょうしゅん)は幕府から九州探題を罷免されてしまい、後任の九州探題として、了俊(りょうしゅん)の前探題だった渋川義行(しぶかわよしゆき)の次男・渋川満頼(しぶかわみつより)が任命された。

南北朝合一を達成して将軍権力を確立した第三代将軍・足利義満が、了俊(りょうしゅん)の九州に於ける勢力拡大や独自の外交権を危険視していた事が推測される。

了俊(りょうしゅん)は九州探題を罷免された後、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の今川仲秋(いまがわなかあき)、甥の今川泰範(いまがわやすのり)と分割統治する事となった。

了俊(りょうしゅん)は守護職として駿河の統治に専心した。

千三百九十九年(応永六年)、大内義弘が堺で挙兵し、応永の乱が起こっている。

この千三百九十九年(応永六年)、了俊(りょうしゅん)鎌倉公方・足利満兼に乱に呼応するように呼びかけたとされ、義満によって乱の関与を疑われた。

応永の乱平定後の千四百年翌(応永七年)には関東管領・上杉憲定(うえすぎのりさだ)に対して了俊(りょうしゅん)追討令が出される。

しかし、了俊(りょうしゅん)は上杉憲定(うえすぎのりさだ)や甥の今川泰範(いまがわやすのり)の嘆願や弁明、今川一族の助命嘆願の結果許され、千四百二年(応永九年)には上洛し、政界に関与しない事を条件に赦免された。

この今川一族が、遠江国と駿河半国の守護地を営々と守り、戦国時代に至って今川義元(いまがわよしもと)を排出している。

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by mmcjiyodan | 2014-07-06 00:10 | Comments(0)  

少弐氏(しょうにし)・少弐資頼(しょうにすけより)

少弐氏(しょうにし)は、藤原北家藤原秀郷(ふじわらひでさと)の子孫と称する武藤氏の一族で、筑前・肥前など北九州地方の鎌倉幕府御家人及び守護大名として勢力を築いたとされる。


少弐氏(しょうにし)は、武藤氏・武藤資頼(むとうすけより)が大宰府の次官である官職・大宰少弐(だざいしょうに)に任命された事から少弐氏(しょうにし)を名乗り始まる。

資頼(すけより)は藤原秀郷(ふじわらひでさと)の流れを汲む武藤頼平(むとうすけひら)の猶子(ゆうし/養子)となって武藤の名跡を継ぐが、資頼(すけより)の本当の出自は不詳である。

その意味では、少弐氏(しょうにし)は、資頼(すけより)の養父の武藤頼平(むとうすけひら)の家系からすれば、頼平(すけひら)の先祖である藤原秀郷の後裔になる。

しかし、武藤氏の猶子(ゆうし/養子)・資頼(すけより)の血筋からすれば、先祖不詳と言う事になる。


武藤氏の猶子(ゆうし/養子)となった資頼(すけより)は、初め平知盛(たいらのとももり)の部将であったが、一ノ谷の戦いのおり、知人の梶原景時(かじわらかげとき)を頼って投降し、三浦義澄(みうらよしずみ)に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人(御家人)となる。

その後、武藤資頼(むとうすけより)は、源頼朝の奥州合戦に出陣して功を立て、出羽国大泉庄の地頭職に任ぜられる。

平家滅亡後、資頼(すけより)は官職・大宰少弐(だざいしょうに)に任じられ、名乗りを武藤から少弐(しょうに)に変える。

頼朝は、平家方であった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして資頼(すけより)を登用、少弐資頼(しょうにすけより)は、鎮西奉行をはじめ北九州諸国の守護となる。

この頼朝による資頼(すけより)抜擢が、その後の少弐氏(しょうにし)の興隆のきっかけである。

鎌倉時代末期の千三百三十三年(元弘三年/正慶二年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こる。

少弐貞経(しょうにさだつね/少弐氏第五代)は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。

鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始される。

その後、新政から離反した足利尊氏が千三百三十六年(建武三年)に京都から駆逐され、九州へ逃れる

貞経(さだつね)の子・少弐頼尚(しょうによりひさ)は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。

頼尚(よりひさ)は、足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破って京都を目指す尊氏に従い畿内まで従軍した。

南北朝並立の危うさを含みながらも足利幕府が成立して、頼尚(よりひさ)は尊氏より恩賞として筑前国、豊前国、肥後国、対馬国などの守護職を与えられる。


九州に於ける南朝方の勢いが盛んになる室町時代を迎えると、頼尚の子は北朝方と南朝方に分かれそれぞれに味方した。

しかし、北朝方についた八代当主・少弐冬資(しょうにふゆすけ)が、新たに九州探題として派遣された今川貞世(いまがわさだよ/了俊)により水島の陣で謀殺されると、南朝方についた少弐頼澄の下で一致団結し反今川勢力として活動する。


南朝の九州勢力が衰退し、今川貞世が帰国した後は、代わって九州探題に就任した渋川氏の援護と称して周防の大内氏が北九州に度々侵攻する様になる。

少弐氏は豊後の大友氏や対馬の宗氏と結び抵抗し、一時は大内盛見を討ち取って勝利をした事もあったが、その後は度々敗北し、少弐満貞、少弐資嗣、少弐教頼などが戦死している。

戦国時代に入ると、大内氏の侵攻はますます激しくなった。

少弐氏は大内氏の侵攻を懸命に防いでいたが、次第に劣勢となり、第十五代代当主・政資(まさすけ)が大内氏によって討たれて一時滅亡する。

後に政資(まさすけ)の子である少弐資元(しょうにすけもと)が第十六代当主として少弐氏を再興するも、大内氏の優勢を動かす事は困難であり、拠点を肥前に移さざるを得なくなる。

この時代も肥前北部の綾部には肥前守護で九州探題であった渋川氏が健在であったので肥前南部に移る。

当時の肥前南部は九州千葉氏が支配していた。

その九州千葉氏の内紛に乗じて資元(すけもと)は同氏の領地を奪い、さらに大内氏が中央での政争や出雲の尼子氏との抗争に忙殺されている隙をついて一度は勢力を取り戻した。

だが、今度は家臣の龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)の台頭と謀反(一説には龍造寺氏は九州千葉氏の旧臣ともいう)にあって、資元(すけもと)は次第に衰退して行く。

少弐資元(しょうにすけもと)は、大内氏の侵攻に耐えられなくなって遂に大内義隆に降伏した。

しかし、大内義隆に欺かれて自害を余儀なくされ、少弐氏はまたも一時滅亡した。

資元(すけもと)の子で第十七代当主を継いだ少弐冬尚(しょうにふゆひさ)は、少弐氏を再興する。

その後、冬尚(ふゆひさ)は龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)の曾孫・龍造寺隆信と争い、千五百五十九年(永禄二年)に勢福寺城で自害し、少弐氏は滅亡した。

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by mmcjiyodan | 2014-07-03 17:56 | Comments(0)