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入江九一(いりえくいち)

入江九一(いりえくいち)は、千八百三十七年(天保八年)、長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれた。

九一(くいち)は、千八百五十八年(安政五年)、松下村塾に二十一歳で入門して吉田松陰(よしだしょういん)に学ぶ。

九一(くいち)は松陰から高く評価され久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作(たかすぎしんさく)吉田稔麿(よしだとしまろ)の松陰門下の三秀に加えて松門四天王の一人に数えられた。

後に明治の元勲となる同じ松陰門下の伊藤博文(いとうひろぶみ)の最初の妻・入江すみ子は九一(くいち)の妹である。

同千八百五十八年(安政五年)、師匠の松陰が江戸幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中の間部詮勝(まなべあきふさ)暗殺計画を企んだ。

この時門下の三秀の高杉晋作と久坂玄瑞、吉田稔麿らは猛反対したが九一(くいち)と弟・入江和作(後の野村靖)兄弟だけは賛成し計画に加担する。

九一(くいち)は、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国の為に死ねる男児である」と、心意気を高く評価されている。

そのため、師・松陰が井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄で処刑された後も師匠の遺志を受け継いで間部暗殺計画を実行に移そうとした。

しかし、幕府に察知されて弟と共に投獄されてしまった。

その後釈放されて千八百六十三年(文久三年)、足軽から武士の身分に取り立てられ、京都で尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉晋作の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。

翌千八百六十四年(元治元年)の禁門の変では、九一(くいち)は久坂玄瑞らと協力して天王山に布陣して奮戦したが敗れて久坂は自刃する。

九一(くいち)は何とか脱出しようと図ったが敵の槍を受けて目を負傷し、その場で切腹して二十八歳で果てた。

松陰門下で松門四天王と呼ばれた他の久坂玄瑞や高杉晋作、吉田稔麿(よしだとしまろ)は、いずれも勤皇の志半ばで無念の死を遂げている。

松門四天王の四人目・入江九一(いりえくいち)もまた、勤皇の志士としてのその後の活動が期待されていたが、志半ばで無念の死を遂げた。

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by mmcjiyodan | 2014-10-12 11:04 | Comments(0)  

吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)

吉田稔麿(よしだとしまろ/栄太郎)は、久坂玄瑞高杉晋作と共に松陰門下の三秀と称される。

しかし稔麿(としまろ)は、倒幕派・勤皇浪士と佐幕派・新撰組の衝突の中で、才能を発揮する場も得ないままに若くして命を落としている。


吉田稔麿(よしだとしまろ)は、千八百四十一年(天保十二年)、萩藩松本村新道に足軽・吉田清内の嫡子・栄太郎として生まれる。

栄太郎の生家は師・松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。

栄太郎は、松陰以前、久保五郎左衛門が教えていたころの松下村塾に通っていた。

栄太郎は無駄口を利かず、謹直重厚な人物であったといわれ、宝蔵院流の槍術と柳生新陰流の剣術を修める。

また、栄太郎は師・松陰が禁固を命ぜられて実家に戻っていた時に、松陰の松下村塾に十六歳で入門し、兵学を究める。

師・松陰は、栄太郎を高く評価した評を残している。

千八百五十八年(安政五年)に松陰に下獄の命が下されると、栄太郎は親族一門を守るために師の元を一時離れる。

翌年、師・松陰が江戸に送られる際には、栄太郎は隣家の塀の穴から見送ったとの逸話が残されている。

同千八百六十年(万延元年)十月に栄太郎が脱藩し、身軽になった栄太郎は、その年十月の松陰の慰霊祭に初めて参加している。

しかし二年後の千八百六十二年(文久二年)に、栄太郎は脱藩の罪を許される。

千八百六十三年(文久三年)六月、栄太郎は高杉晋作の創設した奇兵隊に参加し、七月に屠勇隊を創設する。

八月の朝陽丸事件では、栄太郎は烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功する。

またこの年に栄太郎は稔麿(としまろ)と改名し、吉田稔麿(よしだとしまろ)を名乗った。

千八百六十四年(元治元年)六月五日の池田屋事件では、稔麿(としまろ)も出席していたが、一度屯所に戻る為に席を外す。

しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に二十四歳の若さで討ち死した。

最近の説では、長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にしたとされる説もある。

また別の説として、池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃したという話もある。

後年、松下村塾の同門生で後の明治の元勲にもなった品川弥二郎(子爵)が「稔麿が生きていたら総理大臣になっただろう」と語ったとされる。

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by mmcjiyodan | 2014-10-10 23:26 | Comments(0)  

品川弥二郎(しながわやじろう)

品川弥二郎(しながわやじろう)は千九百四十三年(天保十四年)、長州藩の足軽・品川弥市右衛門の長男として生まれた。

千八百五十七年(安政五年)、弥二郎(やじろう)は十四歳(数え十五歳)で松下村塾に入門して吉田松陰から教えを受ける。

しかし僅か二年後の千八百五十九年(安政七年)、安政の大獄で師・松陰が刑死する。

弥二郎(やじろう)は高杉晋作(たかすぎしんさく)らと行動を共にして尊王攘夷運動に奔走し、英国公使館焼き討ちなどを実行している。

同じ松下村塾出身に在って弥二郎(やじろう)は、木戸孝允(桂小五郎)井上馨(いのうえかおる)伊藤俊輔(博文)らより地味な存在だが、倒幕活動にはコツコツと実績を積ん行く。

千八百六十四年(元治元年)の禁門の変では、弥二郎(やじろう)は八幡隊長として参戦し、後に太田市之進、山田顕義らと御楯隊を組織した。

千八百六十五年(慶応元年)、木戸孝允(桂小五郎)と共に上京して情報収集と連絡係として薩長同盟の成立に尽力する。

幕府方残存勢力の掃討と成った戊辰戦争では、弥二郎(やじろう)は奥羽鎮撫総督参謀、整武隊参謀として活躍する。

明治維新後の千八百七十年(明治三年)、明治政府に出仕して高級官僚に成った弥二郎(やじろう)は渡欧して普仏戦争を視察するなどドイツやイギリスに留学する。

視察留学から帰国した弥二郎(やじろう)は、内務大書記官や内務少輔、農商務大輔、駐独公使、宮内省御料局長、枢密顧問官などを歴任する。

千八百八十四年(明治十七年)、弥二郎(やじろう)は維新の功により子爵を授けられる。

弥二郎(やじろう)は、千八百九十一年(明治二十四年)に第一次松方内閣の内務大臣に就任する。

ところが弥二郎(やじろう)は、次官の白根専一と共に警察を動員して強力な選挙干渉を行ない、死者二十五人を出してしまう。

その死者を出した選挙干渉の経緯を非難され、弥二郎(やじろう)は引責辞職を余儀なくされる(ただし、辞職の経緯については別説が存在する)。

その後の弥二郎(やじろう)は、西郷従道(さいごうとしみち)と協力して政治団体・国民協会を組織する。

民間に在っては、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも弥二郎(やじろう)は貢献している。

千九百年(明治三十三年)、品川弥二郎(しながわやじろう)は肺炎の為に五十八歳で死去した。

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by mmcjiyodan | 2014-10-10 15:13 | Comments(0)  

玉木文之進(たまきぶんのしん)

玉木文之進(たまきぶんのしん)は、千八百十年(文化七年)九月二十四日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男として萩で生まれる。

杉寅之助(吉田松陰/吉田家へ養子)の父・百合之助は長兄なので文之進(ぶんのしん)は叔父に当たる。

千八百二十年(文政三年)六月、十歳の文之進(ぶんのしん)は、家格では杉家より上にあたる大組士、四十石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。

文之進(ぶんのしん)は山鹿流の兵学を学び、同時に教育者として千八百四十二年(天保十三年)、松本村(現在の山口県萩市)に松下村塾を開いて、幼少期の杉寅之助(吉田松陰)を厳しく教育した。

日露戦争の英雄とされ著名な軍人・乃木希典(のぎまれすけ)も玉木家とは親戚で、乃木家とは代々交流が在り、希典(まれすけ)も文之進(ぶんのしん)の教育を受けている。

玉木家は乃木傳庵の長男である玉木春政が、母の玉木の勲功で母の雅号を家名として分立し成立した分家だった。


千八百四十三年(天保十四年)、文之進(ぶんのしん)は大組証人役として藩に出仕するも、三十三歳と遅いお声掛かりだった。

千八百五十六年(安政三年)に、文之進(ぶんのしん)は吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたと伝わっている。

千八百五十九年(安政六年)に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。

しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより千八百六十年(万延元年)十一月に代官職を剥奪されている。

文之進(ぶんのしん)は、千八百六十二年(文久二年)に郡用方として復帰し、千八百六十三年(文久三年)からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年の内に当役(江戸行相府)に進む。

文之進(ぶんのしん)は藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門家・厚狭毛利家・毛利親民の参謀を兼ね、千八百六十六年(慶応二年)の第二次長州征伐では萩の守備に務めた。

その後、文之進(ぶんのしん)は奥番頭にすすむが千八百六十九年(明治二年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に務めている。


乃木希典の父である乃木希次と文之進(ぶんのしん)は歳が近い上に性格も似ていたので、平素互いに推服していた為、実子の彦助が死去すると希次の子が文之進の養子となり、玉木正誼(たまきまさよし)と名乗る。

ところが千八百七十六年(明治九年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼(たまきまさよし)や門弟の多くが参加したため、文之進(ぶんのしん)はその責任を取る形で先祖の墓の前、六十七歳で自害した。
文之進(ぶんのしん)自害後の玉木家は、玉木正誼の子・玉木正之が相続している。

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by mmcjiyodan | 2014-10-10 13:56 | Comments(0)  

小田村伊之助(おだむらいのすけ・楫取素彦/かとりもとひこ)

楫取素彦(かとりもとひこ)は、千八百二十九年(文政十二年)三月十五日、長門国萩魚棚沖町(現・山口県萩市)に長州萩藩の藩医・松島瑞蟠の次男として生まれ、松島久米次郎を名乗る。

松島久米次郎の兄に松島剛蔵、弟に小倉健作がいる。

千八百四十年(天保十一年)、松島久米次郎は十三歳で小田村氏の養嗣となって伊之助と改め、後に文助・素太郎を名乗る。

小田村伊之助(おだむらいのすけ)が養子と成った小田村家は儒学をもって公務に就く、代々続く儒官の家であった。


千八百四十四年(弘化元年)、小田村伊之助(おだむらいのすけ)は明倫館に入り、千八百四十七年(弘化四年)十九歳で司典助役兼助講となる。

千八百五十一年、伊之助は二十二歳で大番役として江戸藩邸に勤め、安積艮斎・佐藤一斎に教えを受ける。

四年後の千八百五十五年(安政二年)四月、伊之助は明倫館舎長書記兼講師見習となる。

翌千八百五十三年(安政三年)二月、伊之助は相模出衛を命ぜられ、千八百五十七年(安政四年)四月帰国、明倫館都講役兼助講となる。

伊之助は直接関係はなかったが、この頃から吉田松陰の教育事業・松下村塾はようやく盛んになる。

吉田松陰の伊之助への信頼厚く、翌千八百五十八年(安政五年)十一月から松下村塾閉鎖まで、初めはその計画に参与し、また時々訪問し間接の援助を与え塾生とも相知る事となる。

伊之助が吉田松陰の激論を受け止め、互いに敬愛する所は、二人の交わりの特色であり、結果、松陰の妹二人が伊之助(素彦)の妻となっている。

まず、伊之助は吉田松陰の妹の一人・寿(ひさ)を杉家から娶っている。

杉寿(すぎひさ)は千八百三十九年生まれで、松陰(しょういん)の九歳年下の妹である。

千八百五十三年、十六歳に成った杉寿(すぎひさ)は松陰(しょういん)の友人・小田村伊之助(当時二十五歳、後の楫取素彦)と結婚する。

伊之助は松陰投獄後塾生指導の任に当たるも国事に忙しくなり、塾の世話ができなくなったが、明治以後は松陰の兄・杉民治と共に一門の中心となって、松陰の顕彰に尽力した。

千八百六十年(万延元年)、伊之助は山口講習堂及び三田尻越氏塾で教え、千八百六十一年(文久元年)以後は専ら藩主に従って江戸・京都・防長の間を東奔西走する。

千八百六十四年(元治元年)十二月、伊之助は藩の恭順派の策謀に野山獄に投ぜられ、翌千八百六十五年(慶応元年)出獄する。

五月には藩命により、伊之助は当時太宰府滞在中の五卿(七卿落ちの七人から錦小路頼徳と澤宣嘉を除いた五人)を訪ねる。

四境戦争の時伊之助は、広島へ出張の幕軍総督への正使・宍戸璣(ししどたまき/山縣半蔵)の副使となる

千八百六十七年(慶応三年)冬、伊之助は長州藩兵上京の命を受け諸隊参謀として出征する。

伊之助は公卿諸藩の間を周旋し、遂に鳥羽・伏見の戦いに於いて、江戸幕府の死命を制するに至った。

この頃素彦(もとひこ)のもとへ嫁いでいた吉田松陰の妹・寿(ひさ)が病死、二児を残す。

同千八百六十七年(慶応三年)九月、伊之助は氏名を楫取素彦(かとりもとひこ)と改めた。

素彦(もとひこ)は維新後に一旦帰国して藩に出仕、千八百七十一年(明治四年七月十四日に発布された廃藩置県を経て新政府官僚に出仕する。

素彦(もとひこ)は千八百七十二年(明治五年)に足柄県参事となり、千八百七十四年(明治七年)に熊谷県権令、千八百七十六年(明治九年)の熊谷県改変に伴って新設された群馬県令となった。

群馬県令在任中に、群馬県庁移転問題で前橋が正式な県庁所在地と決定され、高崎から素彦(もとひこ)は反発を受けた。


素彦(もとひこ)は、吉田松陰の末の妹で妻・寿の妹でもある久坂玄瑞(くさかげんずい)と死別していた杉文(すぎふみ・あや)を娶(めと)り再婚を果たしている。

杉文(すぎふみ・あや)の氏姓について、江戸幕府時代の嫁は実家の姓を名乗る夫婦別姓だったから、久坂玄瑞(くさかげんずい)と結婚した頃はまだ杉文(すぎふみ・あや)名乗りだった。

明治維新後は夫婦同姓が定められ、楫取素彦(かとりもとひこ/小田村伊之助)と再婚した時は楫取姓を名乗る楫取美和子(かとりみわこ)だった。


杉文(すぎふみ・あや/楫取美和子)は千八百四十二年に、松陰(しょういん)の十二歳年下の末の妹として誕生している。

杉文(すぎふみ・あや)は素彦(もとひこ)の妻と成り、楫取美和子(かとりみわこ)を名乗っている。

また素彦(もとひこ)は、「明治の三老農」の一人・船津伝次平に駒場農学校へ奉職するよう勧めている。

千八百八十四年(明治十七年)、素彦(もとひこ)は県令から中央官僚の元老院議官に転任する。

その後素彦(もとひこ)は、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任し、また貞宮多喜子内親王の御養育主任を命ぜられた事もあった。

千八百八十七年(明治二十年)、素彦(もとひこ)は男爵を授けられる。

千八百九十年(明治二十三年)十月二十日、素彦(もとひこ)は錦鶏間祗候(きんけいのましこう)となる。

錦鶏間祗候(きんけいのましこう)は、功労のあった華族や官吏を優遇するため、明治時代の半ばに設けられた資格で職制・俸給等はない名誉職である。

千九百十二年(大正元年)八月十四日、素彦(もとひこ)は山口県の三田尻(現・防府市)で八十四歳にて死去した。

没後に素彦(もとひこ)は正二位に追叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。

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by mmcjiyodan | 2014-10-09 01:49 | Comments(0)  

杉文(すぎふみ・あや)=楫取美和子(かとりみわこ)

吉田松陰(よしだしょういん)の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家である。

家禄二十六石の萩(長州毛利)藩士・杉家の子として生まれたが、次男だったので父の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。

父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州毛利藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高二十六石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。

母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。


杉家次男・吉田松陰(よしだしょういん)は松下村塾を主宰していたが、その杉家姉妹の中に、四女・杉文(すぎふみ・あや)が居た。

千八百三十年に杉家の次男・杉寅之助として生まれた吉田松陰(よしだしょういん)の十二歳年下の末の妹として、杉文(すぎふみ・あや/楫取美和子)は千八百四十二年に誕生する。

杉百合之助(常道)の四女として生まれた杉文(すぎふみ・あや)は、叔父の玉木文之進(松下村塾の創立者)が自分の名から「文」の一字をとって与えた。

二兄の寅次郎は、すでに吉田家へ養子に出てその家督を継ぎ、吉田寅次郎(松陰)を名乗っていた。


千八百五十七年(安政四年)、文(あや)は門弟・久坂玄瑞(くさかげんずい)の才を高く評価する寅次郎(松陰)の強い勧めが在って結婚する。

玄瑞(げんずい)十八歳、文(ふみ・あや)十五歳、夫・玄瑞(げんずい)が禁門の変に敗れて自害した為、二人の婚姻期間は七年だった。

文(あや・ふみ)は秀才・久坂玄瑞(くさかげんずい)に嫁いだのだが、その玄瑞(げんずい)が禁門の変の折に自害、文(あや・ふみ)は未亡人となる。

後に文(ふみ・あや)は、姉・寿の嫁ぎ先小田村伊之助(楫取素彦)と再婚して楫取美和子(かとりみわこ)を名乗る事になる。


未亡人・杉文(すぎふみ・あや)は萩(長州毛利)藩世子・毛利定広の正室・安子の女中、及びその長男・興丸の守役を勤めて居り、美和の名もこの頃から使い始めている。

小田村伊之助(楫取素彦)のもとへ嫁いだ次女の姉・寿の縁で、伊之助は二十二歳にして未亡人となった杉文(すぎあや・ふみ)の境遇を憐れみ、その身を案じていた。

そんな折、姉・寿が四十三歳で死去した為、母・瀧子の勧めもあり、杉美和(杉文/すぎあや・ふみ)は群馬県令を務めて居た伊之助(楫取素彦/慶応三年九月改名)と再婚、姉の子二人の子育ても引き受ける。

楫取素彦(かとりもとひこ)明治維新政府の高級官僚と成り、後に高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官等を歴任した。

楫取素彦(かとりもとひこ)の妻と成った楫取美和子(かとりみわこ)は、夫・素彦(もとひこ)が明治二十年に男爵を授けられ男爵夫人となる。

夫・素彦(もとひこ)が大正元年八月、山口県の三田尻(現・防府市)にて八十四歳で死去後も美和子(みわこ)は大正十年まで生き、山口県防府町にて死去し同じ墓で眠っている。

文(ふみ・あや)=楫取美和子(かとりみわこ)には、久坂玄瑞(くさかげんずい)、楫取素彦(かとりもとひこ)のいずれの間にも子はいない。

杉文(すぎふみ・あや)の氏姓について、江戸幕府の時代の嫁は実家の姓を名乗る夫婦別姓だったから、久坂玄瑞(くさかげんずい)と結婚した頃はまだ杉文(すぎふみ・あや)名乗りだった。
明治維新後は夫婦同姓が定められ、楫取素彦(かとりもとひこ/小田村伊之助)と再婚した時は楫取姓を名乗る楫取美和子(かとりみわこ)だった。

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by mmcjiyodan | 2014-10-03 17:57 | Comments(0)  

仁徳大王(にんとくおおきみ)=仁徳天皇(にんとくてんのう)

応神天皇(第十五代天皇)の崩御の後、三年間の空位(神功皇后摂政)を経て、古事記に於いては「大雀命(おほさざきのみこと/仁徳)」・「日本書紀に於いては大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)」が、仁徳天皇元年(西暦年は不明)に第十六代天皇・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)に即位(御座所は難波宮)したとされる。

ただし、この仁徳天皇(にんとくてんのう)の即位から在位について実態は明らかでない為に、西暦に換えての表示は不可能である。

また、天皇の称号は第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)からで、それ以前の称号は大王(おおきみ)であるから、正式なリアルタイムの称号では仁徳大王(にんとくおおきみ)である。

大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと/仁徳天皇)の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号(かんふうしごう)もこれに由来する。

いずれにしても、第十六代とされる仁徳大王(おおきみ/天皇)の事を、第五十代の桓武天皇の代に編纂記事としてまとめている。

ほぼ三十五代の差が在るのだから、正確な基点が判らなくても五~六百年前後も昔の天皇の逸話を創作したもので、とても正確な歴史書とは言えない。

つまり仁徳大王(おおきみ/第十六代天皇)の表記自体も、五百年以上を経過した桓武天皇の代に記紀(古事記・日本書紀)が編纂されて始めて表に出て来た名である。


仁徳大王(にんとくおおきみ)の称号の根拠となっている「竈(かまど)から炊煙の善政」逸話は、大王(おおきみ)に「直接徴税権が無かった」と言う大きな矛盾がある。

記紀(古事記・日本書紀)に記載の逸話「民の竈(かまど)」で知られ、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約の為に「宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」と伝えられている。

しかしながら、当時の初期大和(やまと)朝廷王権の地方支配形態の現実を検証すれば、大王(おおきみ)には直接徴税権は無かった。

大王(おおきみ)=大国主(おおくにぬし)都市国家もどきに乱立した国主(くにぬし)国造(くにのみやっこ・こくぞう)の中から有力者が互選によって選出され、大和朝廷が成立した。

つまり国主(くにぬし)に大幅な地方支配権を残したまま、大王(おおきみ)が即位したもので、徴税権を含む直接の地方支配はそれぞれの国主(くにぬし)=国造(くにのみやっこ・こくぞう)の支配だった。

また、父大王(ちちおおきみ)・応神天皇(第十五代天皇)の業績を二つに分けて仁徳大王(にんとくおおきみ)を創作した説や、大雀大王(おおさざき天皇)と難波高津宮大王(なにわこうづぐう天皇)の二人の天皇の事跡を一人に合成したとする説もある。

そうした立証不可能な事実から、記紀(古事記・日本書紀)に於ける仁徳天皇(にんとくてんのう)の記述は、天皇の統治権を正当化する為の創作が疑われる。


大阪府堺市堺区大仙町にある前方後円墳、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)は墳丘長は日本最大で、墓域面積は世界最大であるとされ、周囲の古墳と共に百舌鳥古墳群を構成している。

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)が、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第十六代仁徳天皇の陵に「治定」とされている。

この陵墓が、一般には「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」とも呼ばれるが、「延喜式」などの記述とは大きく食い違がある。

百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇の三陵が築かれたとされ、実はどれが仁徳天皇陵かは認定できない為に「治定」と言う

つまりまだまだ解き明かされていない天皇と陵墓の存在を、記紀(古事記・日本書紀)の記述だけで徳育に使われた。

記紀(古事記・日本書紀)が信仰の経典ならそれも結構だが、日本史学上ではこれを学ぶべきではない。

詳しくは小論・【仁徳天皇(にんとくてんのう)と天皇陵(てんのうりょう)】を参照下さい。
詳しくは小論・【広域倭の国論(定説・日本倭国論の疑惑)】を参照下さい。
詳しくは小論・【因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)伝説と大国主(おおくにぬし)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2014-10-01 02:36 | Comments(0)