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塩飽水軍(しわくすいぐん)

千八百六十年(安政七年=万延元年)、幕末の空気が漂う中、江戸徳川幕府万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)を派遣する。

この航海中に、日本の元号が安政から万延に改元される。

派遣された咸臨丸が、太平洋を渡り無事サンフランシスコに到達し後無事帰国したのは、水夫五十名の内三十五人が瀬戸内海塩飽島に本拠地を置く、操船技術に卓越した塩飽水軍(しわくすいぐん)の末裔だった。


塩飽諸島には島民自治が認められ、太閤、将軍などから辞令を受けて統治に当たる言わば大名・小名は存在しなかった。

塩飽水軍(しわくすいぐん)の本拠地・塩飽諸島は、天領として織田信長豊臣秀吉徳川家康と治世が変わるごとに朱印状と言う所領の安堵や許認可の書状を得て、船方六百五十人(船主、乗組員)によって千二百五十石を共同領有した。

塩飽水軍(しわくすいぐん)は、厳密に言うと海賊と言うよりは造船と操船の技術集団で「主家に仕える」と言う武士的な武門意識に薄かった。

その薄かった武門意識が幸いして、常に時の最高権力者である足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と主君を替えて生き残り、秀吉や家康にもその存在を認められた。

塩飽水軍(しわくすいぐん)は、南北朝並立期にその存在が文書に現れる。

南北朝期・後醍醐天皇方に敗れて九州へ逃れた足利尊氏は、塩飽水軍(しわくすいぐん)の露払いを受けて海路・瀬戸内海を東へ進み、後醍醐方を吉野に追い遣り、京都に南朝を建て室町幕府を開く事ができた。

織田信長が考案した安宅船(あたけぶね)に鉄の装甲を施した軍船・鉄甲船(てっこうせん)を操船し、石山本願寺攻めで毛利氏村上水軍雑賀衆の水軍などを打ち破った。

尚、この戦功で塩飽水軍(しわくすいぐん)が、織田信長の時代には朱印状を与えられ、巧みな航海術を駆使して活発な交易を行い、島内に莫大な富を蓄積して行く。

塩飽水軍(しわくすいぐん)は豊臣秀吉の四国攻め九州遠征小田原攻めの時にも、軍艦の操縦や輸送に優れた働きをみせた。

特に塩飽水軍(しわくすいぐん)は、嵐の中の操船は他の水軍の及ぶ所ではなく、秀吉が絶賛して千二百五十石の共同領有を許している。

その後の家康の江戸幕府でも塩飽水軍(しわくすいぐん)の操船技術と造船技術は高く評価されて、塩飽の自治は安堵されている。

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by mmcjiyodan | 2014-12-30 03:57 | Comments(0)  

幼子(ややこ)踊り(子供踊り)

出雲阿国(いずものおくに)が評判を得たのがツンツルテンの衣装を着た「ややこ踊り」と言う「子供踊り」が大評判だったからで在った。

この「ややこ踊り(こども踊り)」が人気を博したのは、簡単に言えば「色気が在ったから」である。

実は時代考証として、この時代に衣の重ね着は在っても下着は無い。

腰巻の上に重ねて着ける裾除(すそよ)けの蹴出(けだ)しは勿論、腰巻又は湯文字(ゆもじ)の普及さえ江戸期後期に入ってから武家や裕福な町人の間で始まった物である。


それで白拍子静御前が激しい男舞いを舞ったり、歌舞伎踊りで出雲阿国が丈の短い幼子(ややこ)の衣装で踊れば着物の裾が乱れる結果は明らかだった。

つまり必然的に、静御前の「男舞い」や出雲阿国のツンツルテン衣装の「ややこ踊り」は、「見せてナンボ」の娯楽だった。

娯楽の踊りに色気は付き物で、白拍子の「男舞い」にしても阿国歌舞伎の「幼子(ややこ)踊り」にしても、要は乱れた着物の裾から踊り手の太腿(ふともも)が拝める事で人気を呼んだのだ。

客寄せ目当ての「元祖ミニ丈のファッション」と言う事で、腰を巻く布以外、下着を身に着ける習慣が無い時代だから、元祖ノーパン風俗芸能かも知れない。


そうとするなら、現在の映画やテレビドラマのような優雅な踊りではなく、下着を身に着ける習慣がないノーパンティ時代に丈が足りない子供丈衣装で腿(もも)も露(あらわ)に踊った事に成る。

もっともこれを史実通りに映画化すれば、今の時代では十八禁指定を採らなければ成らないだろう。

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by mmcjiyodan | 2014-12-20 03:08 | Comments(0)  

腰巻又は湯文字(ゆもじ)

腰巻又は湯文字(ゆもじ)とは、同じ着物下着でも蹴出(けだ)しよりも短く膝よりも上で、裾さばきも良く通気性が良い白い下着である。

江戸時代の中期まで、公家や武家で入浴時に着用した事から湯文字(ゆもじ)の名がある。

当初の湯文字(ゆもじ)は、腰部から膝までを覆(おお)う白い着物下着で、腰巻とも呼ばれる。

平安時代、御湯殿(宮中の風呂)に奉仕する女官が活動しやすいように袴の代わりに身に着けていた「湯巻」と呼ばれる白い巻きスカートのような衣服が湯文字(ゆもじ)の起源とされる。

当時はあくまで袴の代用であり、下着と言う認識のものではなく、この白い腰巻は室町時代ごろに公家の女性の日常着となった。

江戸で武家や商家などに真似られる様に成ったのは文政八年(十一代将軍・徳川家斉)頃で、漸く着物の下に腰巻又は湯文字(ゆもじ)と呼ばれる下着が着用される様に成る。

勿論町の湯屋は混浴で、湯文字(ゆもじ)が使われ始めたのも文政年間に入ってからで、それまでは暗闇に全裸だった。

つまり後に明治維新を主導した公家・岩倉具視(いわくらともみ)が誕生した千八百二十五年(文政八年)まで、着物の下に下着が着用される事など無かった。

ましてや文政八年以後も、武家・大商人の女人と高級遊女はともかく、民・百姓や町人の娘など庶民階層では、腰巻又は湯文字(ゆもじ)など着用などしては居なかった。

つまり日本の服飾文化には、永い事下着と言う認識は無かった。

呉服とノーパンティ文化(和服のルーツ)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2014-12-20 02:48 | Comments(0)  

元禄の好景気(げんろくのこうけいき)

元禄の好景気(げんろくのこうけいき)は、運好く成功した政府(江戸幕府)のインフレ(インフレーション)政策である。

江戸時代の五代将軍・徳川綱吉の御世である元禄年間、勘定吟味役・荻原重秀(おぎわらしげひで)が、千六百九十五年に「元禄の改鋳」による金銀含有率の引き下げを行った。

この改鋳は慶長小判に対し銀を加えて含有金量を三分の二とし、元禄小判を鋳造して通貨量を五十パーセント増量にするものであった。

勘定吟味役・荻原重秀(おぎわらしげひで)が目指したのは、初めて導入した幕府の管理通貨策による財政拡大・財政赤字増大策だった。

重秀(しげひで)案では、金銀本位の実物貨幣から幕府の権威による信用通貨へと移行する事ができれば、市中に流通する通貨を増やす事が可能となる。

流通通貨を増やせば、幕府の財政をこれ以上圧迫する事なくデフレを回避できる。

その結果市場経済はインフレーションには成ったが、マネーサプライ(通貨供給量)が増え、太平下で物資の生産が増えてだぶつき、デフレーション気味であった経済の立て直しに成功した。

また当初引替に対し慶長小判百両に対し、元禄小判百一両と僅かな増歩(ぞうぶ)しか付けなかったため、引替はあまり進捗(しんちょく)しなかった。

結果、「元禄の改鋳」は、貨幣流通量の増加が緩やかに徐々に持続的に上昇するクリーピング・インフレをもたらせて景気は好転した。


なお、荻原重秀(おぎわらしげひで)は、甲斐武田氏分家・荻原氏の出自とされ、武田氏滅亡後は徳川氏に仕えた一派として旗本に列っしていた。

将軍・徳川綱吉の寵愛を受け、知行は切米百五十俵支給の軽輩身分から三千二百石の大身旗本まで加増された。

しかし将軍が、六代・徳川家宣(とくがわいえのぶ)に代替わりすると、新井白石(あらいはくせき)などの家宣(いえのぶ)近臣達との政争に破れ、重秀(しげひで)は幕府要職を罷免された。

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by mmcjiyodan | 2014-12-18 22:32 | Comments(0)  

昭和大恐慌(しようわだいきょうこう)

日本の昭和恐慌(しょうわきょうこう)の発端は、第一次世界大戦による戦時バブルが大正中期に崩壊した事だった。

第一次世界大戦中(千九百十四年~千九百十八年)の大正初期の日本は、戦時バブルの大戦景気に沸いた。

しかし終戦後、ヨーロッパの製品がアジア市場に戻って来ると、千九百二十年(大正九年)には戦後恐慌が発生する。

その戦後恐慌が終息に向おうとしていた千九百二十ニ年(大正十一年)には第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊によって銀行が抱えた不良債権が金融システムを招く銀行恐慌が発生する。

銀行恐慌は一時収束するものの、千九百二十三年(大正十二年)九月には関東大震災が起こって再び恐慌に陥った。

この震災恐慌時、被災地の企業の振り出した手形を日銀が再割引して震災手形としたが、返って事態の悪化をまねく結果になった。

もう一つの恐慌の要因として、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。


戦時バブルの最中の千九百十七年(大正六年)九月、日本は米国に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、金本位制から離脱していた。

実は、日本ではその後の戦後処理が問題で、米国は、大戦直後の千九百十九年(大正八年)には早くも金輸出を解禁し、金本位制に復帰した。

しかし日本は、大戦後の千九百十九年(大正八年)末には内地・外地あわせて正貨準備が二十億四千五百万円に昇り、国際収支も黒字で在ったにも関わらず金解禁を行わなかった。

千九百ニ十年代には世界の主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰し、金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制のネットワークが再建されて行く。

国際金本位制のネットワークに因り、世界経済は大衆消費社会をむかえ「永遠の繁栄」を謳歌していた米国の好景気と好調な対外投資によって相対的な安定を享受していた。

日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと機会を窺(うかが)った。

しかし千九百ニ十年代の日本経済は上述したように戦後恐慌、銀行恐慌、震災恐慌と慢性的な不況が続いて危機的な状態にあり、尚且つ立憲政友会が反対に回った事から金解禁に踏み切る事ができなかった。

さらに千九百ニ十七年(昭和二年)には、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した金融恐慌(昭和金融恐慌)が起こり、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。

千九百ニ十八年(昭和三年)六月にはフランスも「五分の一切下げの新平価」による金輸出解禁(金解禁)を行ったので、主要国では日本のみが残される。

この頃、日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下した為、金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となった。

この時、立憲民政党の濱口雄幸内閣が成立し、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」と「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて登場し、金本位制の復帰を決断する。

新内閣は、日本製品の国際競争力を高める為に、物価引き下げ策を採用し、市場にデフレ圧力を加える事で産業合理化を促し、高コストと高賃金の問題を解決しようとした。

この政策は、多くの中小企業に痛みを強いる解決策と言う側面を持っていた。

浜口内閣の井上準之助蔵相は、徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金輸出解禁を行う事によって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図る。

しかし日本政府の経済建て直しの最中、千九百ニ十九年(昭和四年)秋に米国であらたな恐慌が起き、世界中を巻き込んで世界恐慌に発展して行く。

この米国発の世界恐慌の影響が再び日本経済を襲い、千九百三十年(昭和五年)から翌千九百三十一年(昭和六年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れる。

それが、後に昭和恐慌(しょうわきょうこう)と呼ばれる戦前の日本において最も深刻な恐慌だった。

高橋是清(たかはしこれきよ)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2014-12-16 03:57 | Comments(0)  

昭和天皇・裕仁(ひろひと)陛下と「玉音放送」

日本の第百ニ十四代天皇は、迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)陛下である。

後に践祚(せんそ/天子の位を受け継ぐ)して大正天皇となる明治天皇の皇太子・嘉仁親王と節子妃(後の貞明皇后)の第一皇子として誕生する。

昭和天皇は、神話上の天皇を除くと、在位約六十二年と歴代天皇の中で期間が最も長く、最も長寿(宝算八十七年)であった。


その昭和天皇の御世に、大東亜戦争(太平洋せんそう)と名付けた大戦争が起こった。

昭和天皇は、望まぬままに当時の軍事政権から現人神(あらひとかみ)と祀り上げられた人物であるが、その国民を愛する精神は正に神そのものだった。

しかし残念ながら、欺瞞に満ちた臣下達の思惑は、単純ではない陰謀が煮えたぎッた後の話で、昭和天皇はその臣下の思惑に翻弄された。

正義と言うものは、各自の信じるところに拠って矛盾を生じるもので、歴史は常に残酷な殺戮(さつりく)と伴に在った。

従って、その正解は「勝ち残った者(連合国側)の主張」と言う事に成る。

つまり昭和天皇陛下の望まない大戦が、欺瞞に満ちた臣下達の思惑で進んでいても、それに苦悩為されながらも、昭和天皇陛下の心は国民と伴に在った。

広島や長崎に、都市を一瞬で破壊する特殊爆弾を投下されるなど戦局不利に成る中、昭和天皇陛下はこれ以上の国民の受害を抑えるべく、終戦の国策決定などに深く関与する。

昭和天皇陛下が自ら国民に語りかけた「玉音放送」など終戦の手続きを辿り、日本は進駐軍を受け入れる。


そして今また、終戦時の「玉音放送」の音声が、時を超えて鮮やかによみがえる。

「朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑(かんが)ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ 收拾セムト欲(ほっ)シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク・・・」

あの時(昭和二十年八月十五日)、昭和天皇の玉音が流れなかったら、日本人は、あの戦いを「ピタリ」と止める事が出来たのか、大いに疑問ではないか。

玉音がなかったら、「本土決戦」と言う泥沼に嵌まっていたかも知しれない。

それこそ葛城朝が二千年前に画策した血の民族同化の目論みは見事成功して、「大和単一民族」が完成していた証拠だ。

昭和の時代、昭和天皇と皇室は間違いなく、「日本の守り神」として機能した。

千九百四十八年(昭和二十二年)に施行された日本国憲法の下では、昭和天皇陛下は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である天皇として「国政に関する権能を有しない」ものとされた。

昭和天皇・裕仁(ひろひと)陛下と、今上天皇(きんじょうてんのう/平成天皇)であられる継宮(つぐのみや)・明仁(あきひと)陛下の東条英機(とうじょうひでき)氏への想いは、戦犯合祀後の靖国神社参拝に対する御意志で推測がつく。

昭和天皇・裕仁陛下も、現在の今上天皇・明仁陛下も、「A級戦犯合祀」が公に成って以来「靖国神社」には参拝していない。

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by mmcjiyodan | 2014-12-04 15:39 | Comments(0)