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賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)

初期の日本列島は、部族を中心とした都市国家もどきの小国が乱立していて、それぞれが国主(くにぬし/部族長/部族国家の王)を支配者として頂いていた。

やがて、その都市国家もどきの小国が徐々に統合され、国主(くにぬし/部族長)が支配する国々が大国主をいただく連合国家に成長する。

神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)が軍勢を率いて九州の本拠地を出立、瀬戸内海を東に向かい各地の勢力を恭順させながら畿内を目指す神武東征が始まる。

神武東征が始まり、神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)が奇襲攻撃を企んで紀州半島に新宮に上陸、山越えをして畿内へ攻め込み、有力勢力を恭順させる。

西日本を統一した神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)が大和朝廷が成立、統一を果たして西日本・統一大王(統一おおきみ/初代天皇)に即位する。

その西日本統一過程の当事者だった国主(くにぬし/部族長)が、日本神話に於ける神々として登場し、神武東征に下りて助勢協力したり行く手を阻んで抵抗したりする者が神格化されて神話に名が残った。

日本列島各地に乱立した小国家群は、時の経過と伴に統一の経過を辿り、九州で勢力を誇った神武大王(おおきみ/天皇)が進路の小国を傘下に収めつつ畿内山城国遷都に至る経緯が、神武東遷物語である。


賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)は、日本神話に登場する神で、鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)とも表記する。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

「山城国風土記(逸文)」によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の二柱の御子神がいる。

建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)は、後に賀茂県主となる。

建玉依比売命は、丹塗矢(にぬりや)に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を懐妊し出産したと伝えられる。


「新撰姓氏録」によれば、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。

神武東征の際、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)=高木神(たかぎのかみ)や天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて日向の曾の峰に天降(あまくだ)る。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、八咫烏(やたがらす)に化身して大和の葛木山に至る神武大王(おおきみ・天皇)を先導した。

つまり賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、神武大王(おおきみ・天皇)が、宿敵・長髄彦(ながすねひこ)の裏を書き山城国に攻め込んで大和朝廷を開く助力をしたのだ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

関連小論・【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。
関連小論・【葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-01-23 21:33 | Comments(0)  

高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)

初期の日本列島は、部族を中心とした都市国家もどきの小国が乱立していて、それぞれが国主(くにぬし/部族長)を支配者として頂いていた。

やがて、その都市国家もどきの小国が徐々に統合され、国主(くにぬし/部族長)が支配する国々が大国主をいただく連合国家に成長する。

神武東征が始まって西日本を統一した大和朝廷が成立、統一を果たした神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)が即位する。

その西日本統一過程の当事者だった国主(くにぬし/部族長)が、日本神話に於ける神々として登場し、神武東征に下りて助勢協力したり行く手を阻んで抵抗したりする者が神格化されて神話に名が残った。

日本列島各地に乱立した小国家群は、時の経過と伴に統一の経過を辿り、九州で勢力を誇った神武大王(おおきみ/天皇)が進路の小国を傘下に収めつつ畿内山城国遷都に至る経緯が、神武東遷物語である。



高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、日本神話に於いて別天津神(わけあまつかみ)の一柱の神である。

古事記」では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、「日本書紀」では高皇産霊尊と書かれる。

また、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)と言う名で登場する。


別名の通り、本来は高木が神格化されたものを指したと考えられている。

「産霊(むすひ)」は生産・生成を意味する言葉で、神皇産霊神(かみむすびのかみ)とともに「創造」を神格化した神である。

女神的要素を持つ神皇産霊神(かみむすびのかみ)と対になり、男女の「むすび」を象徴する神であるとも考えられる。


「古事記」によれば、天地開闢の時、最初に天之御中主神(あめのみなかぬしかみ)が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすびのかみ)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)と言う神である。

高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子に知恵を司どる思兼神(おもいかね)、機織りの女神・栲幡千千姫命(たくはたちじひめみこと)がいる。

天之御中主神(あめのみなかぬし)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、共に造化の三神とされる。

この三柱は、いずれも性別のない神、かつ人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。

この造化三神のうち、神皇産霊神(かみむすびのかみ)と高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、その活動が皇室・朝廷に直接的に大いに関係していると考えられた為、天皇守護 の神・神祇官八神(しんしかんはっしん)として八神殿で祀られた。

高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、「日本書紀」では天地初発条一書第四に「又曰く?」と言う形式で登場している。

その他では巻十五の「顕宗紀」に於いて阿閇臣事代が任那に派遣され壱岐及び対馬に立ち寄った際に、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の名前が登場する。

また高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は、「延喜式」、「祝詞」、「出雲国神賀詞」では「神王高御魂命」とされている。


天照大神(あまてらすおおみかみ)の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の娘・栲幡千々姫(たくはたちじひめ)と結婚して生まれたのが天孫ニニギの命(みこと)である。

つまり、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)は天孫ニニギの外祖父に相当する。

天津国玉神(あまつくにたま/天国玉神)の子である天若日子(あめのわかひこ)が、天孫降臨に先立って降ったが復命しなかった。

天若日子(あめのわかひこ)は、その問責の使者・雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を射殺した為高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)にその矢を射返されて死んだという。

しかし「古事記」では、即位前の神武大王(おおきみ・天皇)が熊野から大和に侵攻する場面で夢に登場する。

さらに天照大神(あまてらすおおみかみ)より優位に立って天孫降臨を司令している伝(つたえ)も存在する事から、この神が本来の皇祖神だとする説もある。


詳しくは関連小論・【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-01-23 21:31 | Comments(0)  

十津川郷士(とつかわごうし)

郷士とは民(良民)と武士の間に位置する下級の百姓で、農業従事を生計の糧としながらイザと言う時は戦闘にも参加する家柄である。

その郷士の中でも、特筆すべき存在が十津川郷士(とつかわごうし)だった。

紀伊半島の山間に点在する十津川郷と言う村々がある。

その村の住人は、神武東遷(じんむとうせん)で新宮の浜に上陸した神武大王(おおきみ/天皇)に加勢して以来、歴史的な合戦に参加し続けている。

古くは壬申の乱(じんしんのらん)平治の乱(へいじのらん)南北朝の戦乱大坂の役などなど、十津川郷の郷士は見事な働きをした。


十津川村は日本一の面積を誇る村であるが、人家は谷合に点在する土地柄でほとんどで耕地には恵まれていない。

つまり山深く、田地が少ない米作に不向きな奈良・十津川村は、代々帝(天皇)から年貢を免じられた代わりに兵役を課せられた郷士の里である。

農作に適さない土地柄の事情で、年貢を免じられた代わりに兵役を引き受けていたから、所謂村人の全てが嫌応無しに武人の最下位に位置して居た。

だから現在でも、十津川高校は剣道の名門として全国に知られている。


十津川村が所在する紀伊半島は、畿内に都が落ち着いた端緒となる伝説に包まれた歴史の地である。

神武東遷(じんむとうせん)の折に、神武大王(おおきみ/天皇)が紀伊半島に上陸し、畿内豪族勢に対して、山越えの裏口突破を狙った奇襲作戦を敢行する。

紀伊半島には、「八咫烏(やたがらす)伝説」や榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をした「穂積姓鈴木氏伝説」など、永きに渡り大王(おおきみ/天皇)の子飼い勢力としての歴史がある。

その紀伊半島子飼い勢力として、古くから十津川地域の住民は朝廷(大王・おおきみ/天皇家)に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。

これらの戦功により、十津川郷士は度々税減免措置を受けている。

この減免措置は明治維新期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も永い減免措置であろうと言われている。


後醍醐天皇足利尊氏の覇権争いに端を発した南北朝時も、十津川郷士は吉野の南朝方に尽くしている。

十津川郷は、米のほとんど採れない山中と言う事もあり、室町時代になっても守護職の支配下に入らなかったと言う。

豊臣秀吉が命じたとされる太閤検地時にも、十津川郷は年貢が赦免された。

豊臣家が滅亡と成った大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。

この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗る事を許された。


むしろ特異とも言える独立独歩の精神からか、現在の十津川村も平成の大合併に際しても、最初から「近隣のどの自治体とも合併する気などなかった」と言われている。

その背景として、十津川は独特の地理的歴史的環境から文化や言語の面でも独自性が強い事が挙げられる。

民俗学者の柳田國男氏も、近畿圏に在りながら東京式アクセントであるその特色について注目している。

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by mmcjiyodan | 2015-01-19 23:02 | Comments(0)  

八咫烏(やたがらす)伝説

三種の神器(みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)の一つ八咫鏡(やたのかがみ)の名称は、神武東遷(じんむとうせん)物語の「八咫烏(やたがらす)神話」にその源を感じる。

初期の日本列島は、部族を中心とした都市国家もどきの小国が乱立していて、それぞれが国主(くにぬし/部族長)を支配者として頂いていた。

やがて、その都市国家もどきの小国が徐々に統合され、国主(くにぬし/部族長)が支配する国々が大国主をいただく連合国家に成長する。

神武東征が始まって西日本を統一した大和朝廷が成立、統一を果たした神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)が即位する。

その西日本統一過程の当事者だった国主(くにぬし/部族長)が、日本神話に於ける神々として登場し、神武東征に下りて助勢協力したり行く手を阻んで抵抗したりする者が神格化されて神話に名が残った。

日本列島各地に乱立した小国家群は、時の経過と伴に統一の経過を辿り、九州で勢力を誇った神武大王(おおきみ/天皇)が進路の小国を傘下に収めつつ畿内山城国遷都に至る経緯が、神武東遷物語である。


八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話に於いて「神武大王(おおきみ/天皇)を大和の橿原(かしはら)まで案内した」とされており、古来導きの神として信仰されている。

八咫烏(やたがらす)は、神武東征=神武東遷(じんむとうせん)の際、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)によって神武大王(おおきみ/天皇)の下に遣わされ、「熊野国から大和国への道案内をした」とされるカラス(烏)である。

八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、中国や朝鮮の伝承で太陽の化身ともされ、一般的に三本足のカラスとして知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。

また、現代では、八咫烏(やたがらす)は主に日本サッカー協会のシンボルマーク及び日本代表エンブレムの意匠として用いられている


日本史と深く関わる信仰の熊野三山に於いて、カラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの/神使)とされている。

八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、熊野大神(素盞鳴尊/スサノウのみこと)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。


近世以前に、よく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)には、カラスが描かれている。

咫(あた)は古来の長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約十八センチメートル)の事である。

つまり八咫(やた)は、十八センチメートルの八倍百四十四センチメートルとなるが、ここで言う八咫は、八を使う用法の単に「大きい」という意味で使っている。

なお、八咫烏(やたがらす)は、桓武帝が皇統の正統性を示させる為に編纂した「日本書紀」や「古事記」に登場する。

その、「日本書紀」では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦(ながすねひこ)との戦いで神武大王(おおきみ/天皇)を助けたともされる。

その為に、八咫烏(やたがらす)と金鵄が、しばしば同一視ないしは混同される事もある。


八咫烏(やたがらす)が三本足である事が何を意味するか、については諸説ある。

熊野本宮大社では、八咫烏(やたがらす)の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟である事を示すとしている。

また三本足は、過つて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威(い)を表すとも言われる。

しかしながら、「古事記」や「日本書紀」には三本足であるとは記述されておらず、後世に中国や朝鮮の伝承の鳥・「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったともいわれる。

また千九百三十九年(昭和十四年)に、「天皇の命令」の形式をとる勅令(勅令第四九六号)によって制定された日中戦争の従軍記章たる支那事変従軍記章は、その章(メダル)の意匠に八咫烏(やたがらす)を用いるが、これは三本足ではなく二本足であった。

一方一九三十一年(昭和六年)には、サッカー協会のマークとして三本足の鳥を図案化している。

これは中国の故事に基づいたものと言われているが、日本サッカー協会のウェッブサイトでは、三足烏(やたがらす)と表現している。

元々賀茂氏が持っていた「神の使いとしての鳥」の信仰と、中国の「太陽の霊鳥」が習合したものともされる。


古来より太陽を表す数が三とされて来た事に由来するとする見方は、宇佐神宮など、太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴である事と同じ意味を持っているとする説である。

中国では古代より道教と関連して奇数は陽を表すと考えられており、「三足烏(さんそくう)」は、中国神話では太陽に棲むといわれる。

陰陽五行説に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、「朝日、昼の光、夕日を表す足である」とも言われる。


上述のように、三足烏の伝承は古代中国の文化圏地域で見られる。

中国では前漢時代から三足烏が書物に登場し、王の墓からの出土品にも描かれている。

三脚の特色を持つ三脚巴やその派生の三つ巴は非常に広範に見られる意匠である。

三本足のカラスの伝承については朝鮮半島では、かつて高句麗があった地域(現在の北朝鮮)で、三本足のカラスを描いた国旗が使用された事も在った。

一方、三本足のカラスの伝承は朝鮮半島南部(現在の韓国)にまでは広がっていなかったという。

日本神話の「東征」に於いて、八咫烏(やたがらす)は瀬戸内海から近畿に進もうとした神武大王(おおきみ/天皇家)の道案内を務めたとされる。

神武大王(おおきみ/天皇)は、当初畿内豪族勢に対して正面突破を挑み、西から大阪に攻め入って敗れる。

為に、太陽神・天照大神の子孫である自分たちは西から東へではなく、東から西へ日の出の方角に向かって攻め入るべきだと考えた。

つまり畿内豪族勢に対して、山越えの裏口突破を狙った奇襲作戦である。

そこで八咫烏(やたがらす)の案内により、瀬戸内海から紀伊半島を大きく迂回して現在の南紀・新宮(和歌山県)付近に上陸する。

この南紀・新宮から攻め入る事にし、その後、大和国南部・吉野(奈良県)を経て橿原(かしはら)に行き畿内豪族勢を制圧して大和朝廷を開いた。


日本の古代神話に於いて、八咫烏(やたがらす)は熊野の神の使いとしても活躍する。

山でイノシシを追っていたある猟師がカラスに導かれて大木をみい出し、そこに見えた光に矢を向けると、「私は熊野の神である」と言う声が聞こえた為その神を祀る社を建てたと言う。

この時が、熊野の神が人々の前に「初めて姿を現した瞬間だ」と伝えられる。

八咫烏(やたがらす)の記録は「古事記」、「日本書紀」、「延喜式」のほか、キトラ塚古墳の壁画や珍敷塚古墳(福岡県)の横穴石室壁画、千葉県木更津市の高部三十号噴出土鏡、玉虫厨子(法隆寺)の台座などにみられる。

「新撰姓氏録」では、八咫烏(やたがらす)は高皇産霊尊(たかみむすびの)の曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身である。

その後、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は、鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとする。

奈良県宇陀市榛原の八咫烏神社は、建角身命(たけつのみのみこと)を祭神としている。

八咫烏(やたがらす)は、戦国時代には紀伊国の雑賀衆(さいがしゅう)を治めた鈴木家の家紋・旗ともなっている。


詳しくは関連小論・【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-01-19 18:17 | Comments(0)  

長髄彦(ながすねひこ)

初期の日本列島は、部族を中心とした都市国家もどきの小国が乱立していて、それぞれが国主(くにぬし/部族長)を支配者として頂いていた。

やがて、その都市国家もどきの小国が徐々に統合され、国主(くにぬし/部族長)が支配する国々が大国主をいただく連合国家に成長する。

神武東征が始まって西日本を統一した大和朝廷が成立、統一を果たした神武大王(じんむおおきみ・初代天皇)が即位する。

その西日本統一過程の当事者だった国主(くにぬし/部族長)が、日本神話に於ける神々として登場し、神武東征に下りて助勢協力したり行く手を阻んで抵抗したりする者が神格化されて神話に名が残った。

日本列島各地に乱立した小国家群は、時の経過と伴に統一の経過を辿り、九州で勢力を誇った神武大王(おおきみ/天皇)が進路の小国を傘下に収めつつ畿内山城国遷都に至る経緯が、神武東遷物語である。



長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話・神武東遷(じんむとうせん)物語に登場する有力な伝承人物である。

古事記」では、長髄彦(ながすねひこ)は那賀須泥毘古(ながすねひこ)と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。

長髄彦(ながすねひこ)は神武東征の場面で、機内・大和地方で東征して来た神武大王(おおきみ/天皇)に抵抗した豪族の長(部族王)として描かれている人物である。

また、長髄彦(ながすねひこ)には安日彦(あびひこ)と言う兄弟が居るとされる。

日本神話によれば、長髄彦(ながすねひこ)は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の手によって殺された或いは失脚後に故地に留まり死去したともされている。


長髄彦(ながすねひこ)が、神武大王(おおきみ/天皇)の東征前に「政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行った」と言う伝承がある。

これが東征の理由にも関与していた可能性をも匂わせ、神武大王(おおきみ/天皇)到達の故地の候補地となりし伝承も存在する。

また、自らを長髄彦(ながすねひこ)の後裔と主張する矢追氏による「自死した」と言う説もある。

そして長髄氏(ながすねうじ)は、旧添下郡鳥貝郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族と言う説もある。

なお長髄(ながすね)とは、記紀では「邑(むら/村)の名である」とされている。


長髄彦(ながすねひこ)は、登美夜毘売(トミヤヒメ)あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)とも言う自らの妹を、天の磐舟(あめのいわふね)で斑鳩(いかるが)の峰・白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。

中世、戦国の武将・尾張織田家(織田信長を輩出)や奥州(東北)で活躍したの伊達家(伊達正宗を輩出)が長髄彦(ながすねひこ)の子孫であると伝えられている。

神武大王(おおきみ/天皇)が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、この時の戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。

その後長髄彦(ながすねひこ)は、八十梟帥(やそたける)や大和国磯城の豪族・兄磯城(えしき)を討った皇軍(神武方)と再び戦う事になる。

この時、金色の鳶が飛んできて、神武大王(おおきみ/天皇)の弓弭に止まり、長髄彦(ながすねひこ)の軍は眼が眩(くら)み、戦う事ができなくなった。

長髄彦(ながすねひこ)は神武大王(おおきみ/天皇)に疑いを述べる。

「昔、天つ神の子が天の磐船(あまのいわふね)に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命と言う。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」と・・・。

この疑いに、神武大王(おおきみ/天皇)は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢((あまのははや)と歩靱(かちゆき)を見せ、長髄彦(ながすねひこ)は恐れ畏(かしこ)まったが、改心する事はなかった。

その為、間を取り持つ事が無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に、長髄彦(ながすねひこ)は殺されたと伝わる。

詳しくは関連小論・【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-01-18 12:21 | Comments(0)  

咸臨丸(かんりんまる)

咸臨丸(かんりんまる)は、勝海舟(かつかいしゅう)が教えた海軍伝習所生(海軍学校生)の操船で、初めて大洋を渡った船である。

勝海舟(かつかいしゅう)の出世の糸口は、ペリーが黒船船団を率いて来航し、「開国」を要求した事にある。

「開国」の問題は内政と違う深刻な外交問題で、江戸幕府老中首座・阿部正弘(あべまさひろ)は幕府の決断のみで鎖国を破る事に慎重になり、海防に関する意見書を広く募集した。

海防意見書を提出した勝海舟(かつかいしゅう)の意見書は阿部正弘(あべまさひろ)の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得て念願の役入りを果たした。

幕府が洋式海軍技術・操練術移入の目的でオランダ人を招き長崎に「海軍伝習所(海軍学校)」を開いた為、勝海舟(かつかいしゅう)はその「海軍伝習所(海軍学校)」に入門した。

蘭語が良く出来た為に教監も兼ね、オランダ人教官と伝習生の連絡役も果たす内に海軍伝習所での指導者的地位を確立して、足掛け五年間を長崎で過ごし、その間に坂本龍馬も弟子にしている。

勝海舟(かつかいしゅう)がこの間に学んだ洋式海軍技術・操練術は、幕府随一のものと成って居た。


万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)の派遣が決まると、遣米使節の正使及び副使に、共に外国奉行及び神奈川奉行を兼帯していた新見正興(しんみまさおき)と村垣範正(むらがきのりまさ)が任命された。

その遣米使節に軍艦奉行・水野忠徳(みずのただのり)の建議で、正使一行とは別に護衛を名目に咸臨丸を派遣する事にする。

その随行艦・咸臨丸の司令官には、軍艦奉行並で在った木村喜毅(きむらよしたけ/芥舟・かいしゅう)を軍艦奉行に昇進させ命じた。

軍艦奉行・木村喜毅は、咸臨丸乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟(かつかいしゅう)をはじめとする海軍伝習所出身者で固め、海舟(かいしゅう)に海外渡航のチャンスがめぐって来た。

この遣米使節(けんべいしせつ)は、サンフランシスコ滞在中に元号が「万延」に変わり、「万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)」と称されている。


千八百六十年(安政七年=万延元年)、幕末の空気が漂う中、江戸徳川幕府は万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)を派遣する。

この航海中に、日本の元号が安政から万延に改元される。

派遣された咸臨丸が、太平洋を渡り無事サンフランシスコに到達し後無事帰国したのは、水夫五十名の内三十五人が瀬戸内海塩飽島に本拠地を置く、操船技術に卓越した塩飽水軍(しわくすいぐん)の末裔だった。

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by mmcjiyodan | 2015-01-06 17:00 | Comments(0)