「ほっ」と。キャンペーン

<   2015年 03月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 

マルチタスク(切り替えて実行)能力の男と女の違い

男と女のすれ違い、「それは男と女の脳の違いにある」とする話が、巷で一時期盛んにもてはやされた。

その違いが、脳の実際の作りとして男女で大きな差がある事が大阪大学大学院生命機能研究科のVerma博士のMRI装置を使った実験によって明らかにされた。

その結果、女性の脳はハードウェア的にマルチタスク(切り替えて実行できるシステム)となっている。

つまり現状に即応するマルチタスク能力(切り替えて実行できる能力システム)は、女性の脳の方が遥かに保有している。

だから女性は、恋愛心に対する切り替えや生活姿勢の切り替えが早く、こうと決めたら前の事柄を引きずらない。

この事が、終った恋に未練たらしい男性と新しく切り替えたい女性のギャップと成って、ストーカー事件の要因となっている。

勿論環境に対する適応力などは、女性の方が男性よりクレバー(賢い)にフレキシブル(柔軟性)で、解釈の自由性を持ち合わせている。

逆に男性の脳は単独の複雑なタスク(高凝集性)を処理するシングルタスク(一途なシステム)に適している事が判明していて、恋愛にも未練がましい。

しかし、この「未練がましい」は、戦国時代稚児小姓衆道)の習俗の「君臣間での誠実性に作用していた」と理解できるのである。

つまり男は、一度恋愛関係に在って抱いた女に執着するが、抱かれた女の方はそんな事は直ぐに切り捨てて忘れる。MRI装置を使った実験の結果、女性の脳は左脳と右脳の接続が男性に比べて格段に強く、男性は脳の個別の領域で激しい活動を見せ、特に小脳の運動技能で顕著だった。

男性の脳は前部と後部の接続がより強く、これによって情報を素早く理解し、即座に使用して複雑なタスク(プロセス)を実行する事ができる。

これは水泳の技術を修得したり、車を上手に駐車するのに役立つとされる。

反対に女性は、「人の顔を覚える」と言った脳の異なった領域を繋げて行うような技能に秀でている。

もちろん個人差は常にあるが、このVerma博士の調査実験で行っているのは、もし千人に対して統計的にデータを分析した時に「男性の脳と女性の脳がどの様に見えるか」と言う事である。

この調査ではもし男女が論理的な思考と直感的な思考の両方を含むタスク(コンピューターが処理する仕事の最小単位)を与えられた場合、女性の方が左右の脳の接続がより強力な為、依り良く対処できる事を示す。

逆説的に、もし瞬時の行動をたった今求められた時は、脳の前後の繋がりが強い為、男性の方がより早く対処でる。

小脳の激しい活動について考えれば、男性の脳はバイクに乗る能力水泳を修得する能力、地図を読む能力に長けていると言える。

逆に女性の脳は例えばパーティ中に大勢の中から誰かを見つけ出す様な、脳の幾つもの部位を繋げなければ出来無い様なタスク(コンピューターが処理する仕事の最小単位)を得意とする。

最後にその顔を見たのはどこだったか、この人の顔を見たか、前から知っている顔だったかのかなど、それらは脳の幾つもの下部ネットワークを必要とするが、女性はそうした能力に長けている。

こうした差異は社会的、文化的な男女の役割であるジェンダーの差によって生じるとされてきたが、Verma博士はこの違いは「男女の脳のハードウェアの差である」としている。

また、この実験は八歳から二十二歳までの被験者に対して行われた。

それは、八歳から十三歳、十三歳四ヶ月から十六歳、十七歳から二十二歳の三つのグループに分けられており、十三歳までのグループではより年上の二つのグループに比べて「男女差は遥かに少なかった」と言う。

結論として男女の脳の差は、これまでの通説に非常に近いものとして明らかにされた事に成る。

お互いの脳の違いをしっかり把握して付き合えばお互いこれまでよりも分かり合って良い関係を築く事が出来るかも知れない。

詳細関連小論
★【なぜ男はストーカーに成るのか?】に飛ぶ。
★【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】に飛ぶ。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式WEBサイト(こうしきうぇぶさいと)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-27 00:13 | Comments(0)  

霊長類の基本的な生殖行動は「群れ婚」

現代社会に在ってはいささかタブー染みた情報であるが、一番人間に近い類人猿・ボノボ、類人猿・チンパンジーなどの生殖行動を見ても判る通り、霊長類の基本的な生殖行動は「群れ婚」である。

チンパンジーの雄(オス)達は一頭の発情期の雌(メス)に順番に群がり、雌(メス)は一日に何頭もの雄(オス)と交尾する。

その理由は「確実な種の保存の為」で、雌(メス)が依り強くて優秀な精子に回(めぐ)り逢う目的で「自然がそうした生殖行動を選択させていた」と言う立派な理由が在るからだ。

霊長類の妊娠は基本的に年一回程度で、しかも基本的に出産は、一出産当たり一体である。

なので、他の哺乳類の様に沢山産んで生き残り率を確保できない分、健康な精子を得る必要があるからと解釈できる。

これは「種の保存」のメカニズムが主体の自然な生殖行動であるから、雄(オス)雌(メス)の生殖機能には目的に添った違いが在る。

当然、雄(オス)の方は次と交代させる為に肉体的に一度の射精で終わるが、雌(メス)の方は連続交尾を受け入れられる構造を、生殖器がしている。

つまり生物としての現生人類は、「確実な種の保存の為」に本能的に「虚弱精子劣性遺伝」や「XY染色体の劣勢遺伝」などを生殖機能として知っていた事になる。

人間と同じ類人猿・ボノボやチンパンジー、オランウータンは群れ婚で、本来発情期の雌(女性)は依り良い遺伝精子を得る為に複数の雄と連続性交するのが普通だった。

最も人類に近いチンパンジーの生殖行動でも判る通り、元々人間の元である霊長類の雌(メス)には強い精子を受け入れる為に発情期に多くの雄と連続して性交する資質がある。

ただ、人間社会が自然本能・群れ婚を否定して行く過程には、資産とか経済とかの群れとは別の個人の「財」が介在するようになる。

「財」が「子育て」に必要不可欠になり、女性の家に男性が通う「呼ばう(夜這い)婚」を経て、概念としての「家制度」が生まれ、群れ婚は崩れて行った。

しかしこの自然本能的に多くの異なった遺伝子を必要とする女性の脳の思考メカニズムは、現在でも深層部分で自然本能として存在する。

実は子を為した後の女性が本能的に次の遺伝子を求め、連れ合いの男性に嫌悪感を感じてセックスレス夫婦に陥(おちい)る傾向が在る。

群れ婚だった人類が、「子育て」に絡んで成立させた人間社会が、自然界に於ける脳科学的な機能とは乖離(かいり)しているからである。

つまり自然界に於いては、子供が出来ればその遺伝子の男性は「用済み」と脳が勝手に想うのである。

それが現代では、女性の関心が夫から離れ子供に傾倒して夫婦間に隙間が生じ、多くの離婚の芽が生まれる一因と成って居る。

こうした生き物としての生態系が人間社会の我侭(わがまま)で無視され、人間の実社会が自然な種の保存と乖離(かいり)してしまった現状で、社会矛盾に拍車が掛かっている。

この学説を証明する為に、新疆ウイグル自治区の四千年前に描かれた世界初のエロ本とでもいうべき壁画には、女性一人に順番待ちする多数の男性の姿が描かれている。


性に関わる物をタブー(触れたくないもの)とし、清廉を正義ぶってモラル(道徳)・インモラル(不道徳/背徳的)を説いても、それは本当に正しいのだろうか?

どうにも納得出来ない事に、子が為せなければ「その家族の物語が途絶えてしまう」と言う切実な苦悩がある。

当時者にしてみれば、「妊娠不能」は上っ面の建前倫理観で論じられたくない深刻な家庭問題である。

それを天命として、途絶える物語を受け入れるのがモラル(道徳)と言うのなら、確かにそれは切ない話しだった。

その救済措置としての「日本古来の種の保存装置」は、当時の人々が知恵を絞った「暗闇祭り(くらやみまつり)」の風習だった。

類人猿・ボノボ こそ、争いを回避する知恵の原点】

小論・【ホモサピエンス(知性人)の 「種の保存と遺伝子」】よりご紹介。

関連記事
類人猿・ボノボ】に飛ぶ。
虚弱精子劣性遺伝と貧乏人の子沢山】に飛ぶ。
人類の生殖行動】に飛ぶ。
近親交配(きんしんこうはい)と女性の臭覚】に飛ぶ。
フェール・エチル・アミン】に飛ぶ。
遥か世界の屋根に見る「夜這いのルーツ」】に飛ぶ。
亜鉛パワー】に飛ぶ。
皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)】に飛ぶ。
江戸城大奥女中(えどじょうおおおくじょちゅう)】に飛ぶ。
徳川幕府倒幕の隠れた要因・血統主義の崩壊】に飛ぶ。
共生村社会(きょうせいむらしゃかい)】に飛ぶ。
性欲本能と人類共生】に飛ぶ。
擬似生殖行為】に飛ぶ。

第五巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式WEBサイト(こうしきうぇぶさいと)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-26 12:04 | Comments(0)  

足利義輝(あしかがよしてる・十三代将軍)

足利義輝(あしかがよしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第十三代征夷大将軍である。

義輝(よしてる)は千五百三十六年(天文五年)三月十日、第十二代代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)の嫡男として東山南禅寺で生まれる。

義輝(よしてる)の幼名は菊童丸と言い、誕生直後に外祖父・近衛尚通(このえひさみち)の猶子となる。

この頃の幕府では父・義晴と管領細川晴元が対立し、義晴(よしはる)はその度に敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸(義輝)もそれに度々従った。

その後も父・義晴(よしはる)と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

千五百四十六年(天文十五年)十二月、菊童丸(義輝)はわずか十一歳にして、父・義晴(よしはる)から将軍職を譲られる。

父・義晴(よしはる)がかつて十一歳で元服・将軍宣下を行った事に加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。

この時の将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官樹下成保の第で行われ、六角定頼を烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ/義輝)と名乗った。

千五百四十八年(天文十七年)、流浪の将軍・義藤(よしふじ/義輝)は管領・細川晴元と和睦して京に戻った。

この時、管領・細川晴元も義藤(よしふじ/義輝)の将軍就任を承諾している。

ところが、管領・細川晴元の家臣で、畿内に大勢力を築きつつあった三好長慶が細川晴元を裏切って細川京兆家(管領家)の家督を争っていた細川氏綱(ほそかわうじつな)の陣営に転じてしまう。

千五百四十九年(天文十八年)六月、江口の戦いで三好長慶に敗れた管領・細川晴元によって足利義晴・義藤(義輝)父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。

千五百五十年(天文十九年)五月、前将軍・義晴(よしはる)が常在寺にて死去する。

将軍・義藤(義輝)は父・義晴(よしはる)が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま十一月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ(中尾城の戦い)、翌年に朽木へ移った。

千五百五十二年(天文二十一年)一月、細川氏綱(ほそかわうじつな)を管領にするという妥協条件で義藤(義輝)は三好長慶と和睦し、京に戻った。

ただし義藤(義輝)は将軍とは有名無実で、三好長慶とその家臣・松永久秀(弾正)の傀儡であった。

翌千五百五十三年(天文二十二年)に、義藤(義輝)は細川晴元と協力して三好長慶との戦端を開くも敗退し、再び近江朽木へ逃れ、以降五年間をこの地で過ごした。

尚、朽木へ亡命中の千五百五十四年(天文二十三年)二月十二日、将軍・義藤は名を義輝に改めている。


千五百五十八年に年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた将軍・義輝(よしてる)は改元を知るのに三ヵ月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続ける事となり、朝廷に抗議している。

千五百五十八年(永禄元年)五月、将軍・義輝(よしてる)は六角義賢(承禎)の支援で細川晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺(うかが)う。

翌六月、将軍・義輝(よしてる)は如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。

この「北白川の戦い」は、一時期は六角義賢の支援を受けた足利方が優勢であった。

だが、三好長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られた為に戦況は思うように展開しなかった。

千五百五十八年(永禄元年)十一月、六角義賢の仲介により三好長慶との間に和議が成立した事に伴って、五年ぶりに将軍・義輝(よしてる)の入洛が実現し、幕府政治が再開される。

千五百五十八年(永禄元年)十二月二十八日には、将軍・義輝(よしてる)は伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。

三好長慶はさらに権勢を誇り、幕府の御相伴衆(しょうばんしゅう)に加えられ、さらに修理大夫に推挙されたが、同時に臣下として幕府機構に組み込まれる事となった。


入洛(都入り)した将軍・義輝(よしてる)は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。

千五百四十八年(天文十七年)の伊達晴宗と稙宗、千五百五十八年(永禄元年)の武田晴信長尾景虎、千五百六十年(永禄三年)の島津貴久大友義鎮毛利元就尼子晴久、千五百六十三年(永禄六年)の毛利元就と大友宗麟、千五百六十四年(永禄七年)の上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行い、将軍の威信を知らしめた。

また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀(弾正)には桐紋使用を許した。

さらに自らの名・足利(義藤)義輝の偏諱(一字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。

例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。

また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。

将軍・義輝(よしてる)の、その戦国大名を懐柔する政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」と評された。

このような経緯を経て、義輝(よしてる)は次第に諸大名から将軍として認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して拝謁、大友宗麟は鉄砲を献上している。


永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎(上杉謙信)との川中島の戦いが起きていた。

将軍・義輝(よしてる)はこの両者の争いを調停し、千五百五十八年(永禄元年)には武田信玄を信濃守護に補任する。

だが、武田信玄はさらに長尾景虎(上杉謙信)の信濃撤退を求めた為、将軍・義輝(よしてる)は長尾景虎(上杉謙信)の信濃出兵を認める。

千五百六十一年(永禄四年)には武田信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。

また相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斉藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。


千五百五十八年(永禄元年)の義輝(よしてる)の帰京以降も三好長慶の権勢は続いた。

その三好長慶に反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起した「久米田の戦い」で、一族の三好実休が戦死、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。

こうした中、千五百六十二年(永禄五年)、三好長慶と手を結び幕政を壟断していた政所(まんどころ)執事の伊勢貞孝が長慶と反目する。

将軍・義輝(よしてる)は三好長慶を支持して伊勢貞孝を更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。

これに激怒した伊勢貞孝は反乱を起こしたが、九月に三好長慶の手で討たれた。

これによって、将軍の介入すら許さないほどの影響力を保持し続けてきた伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、将軍による政所掌握への道を開いた。

千五百五十九年(永禄二年)、将軍・義輝(よしてる)は大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。

大友氏の任命は、元々九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していた為の補任である。


この時大友家は、九州において足利将軍家に最も親しい有力守護大名で、この時大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた。

千五百六十四年(永禄七年)七月に三好長慶が病死する。

長年の政敵・三好長慶が滅し、義輝(よしてる)はこれを好機として、いよいよ中央に於いても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。

しかし、三好長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀(弾正)と三好三人衆にとっては、そのような義輝(よしてる)は邪魔な存在であった。

松永久秀(弾正)と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義輝(よしてる)を排除して、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する。

一方で将軍・義輝(よしてる)が頼みとする近江国・六角氏は千五百六十三年(永禄六年)の観音寺騒動(家中お家騒動)以降、領国の近江を離れられなくなっていた。

千五百六十五年(永禄八年)五月十九日、松永久秀(弾正)と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに義栄を奉じて「永禄の変」と呼ぶ謀叛を起こし、二条御所を軍勢を率いて襲撃した。

将軍・義輝(よしてる)は名刀三日月宗近等を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、数え年齢三十歳で殺害された。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。


第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。
未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-12 03:30 | Comments(0)  

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)

永正の錯乱(えいしょうのさくらん)は「両細川の乱」とも呼ばれ、この擾乱(じょうらん/入り乱れて騒ぐ)が、戦国時代への号砲だった。

この乱は、戦国時代初期の千五百七年(永正四年)、管領細川晴元の暗殺を発端とする室町幕府管領・細川氏(京兆家)の内紛(ないふん/うちわもめ)である。

細川氏が幕府の権力を掌握していた為、将軍職をめぐる抗争も絡んで、畿内は長い対立抗争状態へ突入して行く。


千四百九十三年(明応二年)、管領・細川政元は十代将軍・足利義材(後に義尹、さらに義稙と改名)を廃立して当時少年だった足利義高(後に義澄と改名)を十一代将軍に擁立した「明応の政変」が起こる。

強大な専制権力を樹立した細川政元であったが、女人禁制である修験道の修行をしていた為に実子はおらず、兄弟もいなかった。

細川京兆家(細川一門本宗家)には管領・細川政元の後継者がなく、養子を迎えて家名を繋ぐ事になる。

関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、さらに京兆家の分家の野州家から高国の三人を迎えて養子にした。

管領・細川政元の京兆家・が三人の養子を迎えた為、分裂抗争の芽を胚胎する事と成る。

千五百六年(永正三年)、摂津守護となった養子の一人・細川澄元が実家の阿波勢を率いて入京し、その家宰・三好之長(みよしゆきなが)が管領・細川政元に軍事面で重用されるようになる。

この三好之長(みよしゆきなが)の重用に、これまで政元政権を支えて来た「内衆」と呼ばれる京兆家重臣(主に畿内有力国人層)と、阿波勢との対立が深まる。


千五百七年(永正四年)六月二十三日、修験道に没頭して、天狗の扮装をするなど度々奇行の在った管領・細川政元は、魔法を修する準備として邸内の湯屋に入った。

その湯屋入を狙った政元暗殺・「細川殿の変」が、九条家から養子に入った細川澄之を擁する内衆の薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって殺害された。

さらに翌日、香西長忠ら内衆は澄元・三好之長(みよしゆきなが)の屋敷に攻め寄せ、阿波から養子入りしていた細川澄元らを近江に敗走させ、主君として細川澄之を迎えて細川氏(京兆家)家督を継がせた。

六月二十六日には、管領・細川政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めていた赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとする。

しかし赤沢朝経は、一色義有や丹後の国人石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれるも、養子の赤沢長経は逃げ延び、細川澄元の配下になる。

もう一人の養子・細川高国は、一族の摂津分郡守護・細川政賢や淡路守護・細川尚春、河内守護・畠山義英と語らい、管領・細川政元の後継者を細川澄元とする事で合意をみた。

まず七月二十八日、澄元派の弟・薬師寺長忠に滅ぼされていた摂津守護代・薬師寺元一の子・万徳丸は叔父・長忠の居城茨木城を攻め落す。

続いて翌二十九日には、澄元派の細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落とす。

そして八月一日、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長(みよしゆきなが)が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒(京都・嵐山)を高国勢とともに一気に攻め落した。

この敗戦で、一方の旗頭だった細川澄之は自害する。

翌二日、細川澄元は将軍に拝謁し、細川京兆家の家督と管領職を継いだ。


明応の政変で将軍職を追われていた前将軍・十代・足利義尹(義材)は、千四百九十九年(明応八年)に西国一の大名である周防の大内義興(おおうちよしおき)を頼り以来その元に在った。

政元暗殺後、幕府はその動向を恐れて千五百七年(永正4年)閏六月、義興追討の綸旨を得て安芸・石見の国人らに義興追討を命じた。

しかし同年末、大内義興は前将軍・足利義尹を擁して周辺国にも参加を呼び掛けて上洛軍を起こし、軍勢を率いて山口を発すると、備後国の鞆で年を越しつつ入京の時期をうかがった。


さらにこの頃、管領・細川澄元を支える三好之長の専横に反発する畿内の勢力は細川高国の元に結集していた。

管領・細川澄元は大内義興と和議を結ぶための交渉に細川高国を差し向けようとしたが、逆に細川高国は伊賀に出奔する。

出奔した細川高国は義尹・義興と結び、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らの畿内国人を味方につけた。

千五百八年(永正五年)四月、管領・細川澄元や十一代将軍・足利義澄は相次いで近江に逃れ、細川高国が入京した。

その四月末、前将軍・足利義尹と大内義興は和泉国堺に到着、出迎えた細川高国が京兆家の家督を継いだ。

六月、前将軍・足利義尹は堺から京に入り、再び将軍となった。

細川高国は右京大夫・管領となり、大内義興は左京大夫・管領代・山城守護となった。

結果、この一年の間に細川氏(京兆家)の家督は細川政元から細川澄之、細川澄元、細川高国とめまぐるしく入れ替わった。


ただ、細川澄元・その子細川晴元・三好氏ら阿波勢は、京から撤退しただけで一定の勢力を維持して復帰を狙っていた。


この擾乱(じょうらん/入り乱れて騒ぐ)を契機として、京を押さえた細川高国らと、細川澄元・その子晴元・三好氏ら阿波勢との攻防が長期にわたって繰り返される事となる。

関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。


第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。
未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-12 03:27 | Comments(0)  

相伴衆(しょうばんしゅう)

相伴衆(しょうばんしゅう、御相伴衆とも)は、室町幕府に於ける役職的な身分の一つで、将軍が殿中に於ける宴席や他家訪問の際に随従・相伴(しょうばん)する人々の事である。

管領家の一族や有力守護大名に限定されていた為、一種の社会的身分としての価値が生じて幕府内の職制にも反映され、相伴衆(しょうばんしゅう)は管領に次ぐ席次を与えられるようになった。


将軍の外出などに守護大名が随従する慣習は第三代将軍・足利義満の頃には成立していたが、役職・身分としての相伴衆の成立は第六代将軍・足利義教の永享年間であると推定されている。

即ち室町幕府全盛期の「相伴衆(しょうばんしゅう)」と言えば下記の七家の当主を指していた。

〔一〕但馬・備後・安芸の守護、山名氏

〔二〕侍所所司、四職家、丹後・伊勢・三河の守護、一色氏

〔三〕侍所所司、四職家、能登の守護、畠山氏(匠作家・清和源氏系)。

〔四〕阿波の守護、讃州細川氏(細川氏支流)。

〔五〕播磨・備前・美作の守護、赤松氏

〔六〕侍所所司、四職家、出雲・隠岐・飛騨の守護、京極氏

〔七〕侍所所司、四職家、周防・長門・豊前・筑前の守護、大内氏

このうち「宗五大草紙」等に於ける格式・礼式の規定を見ると、赤松・京極・大内の三家は相伴衆中では下位に位置づけられていたようである。


更にこれとは別に将軍家に近い公家が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例があった。

永正の錯乱の際に第十一代将軍・足利義澄に従って京都を脱出した日野高光、出家隠遁した冷泉為広、妻の実家・今川氏に逃れた正親町三条実望は義澄の相伴衆(しょうばんしゅう)であったという。

戦国時代に入ると、朝倉孝景や北条氏康、尼子晴久、斎藤義龍、毛利元就、毛利隆元、今川氏真、大友義鎮、伊東義祐(日向伊東氏)、河野通直 (弾正少弼)など在京して将軍に随従する事もない地方の戦国大名が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例も増える。

地方在住の大名が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる例が増えて、役職としての意味合いは希薄化して大名の格式を示す身分としてのみ存在するようになる。

一方で
武田信玄から追放されて京都へ居を移した信玄の父・武田信虎が相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられる事例もあった。

また、本来は細川氏の家臣であった三好長慶が第十三代将軍・足利義輝より相伴衆(しょうばんしゅう)に任じられてその身分的権威をもって管領の役職を代行して幕政の実権を握り、さらに長慶の子の三好義興も任じられた。

職制としての相伴衆(しょうばんしゅう)には室町時代のみであるが、戦国時代から江戸時代初期に見られる御伽衆は、しばしば相伴衆とも呼ばれ、将軍(あるいは大名)に仕えた似たような役職である。


★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。


第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。
未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-12 03:20 | Comments(0)  

筒井順慶(つついじゅんけい)(一)

筒井順慶(つついじゅんけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての有力武将・戦国大名で、大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。

千五百五十年(天文十九年)、父が病死したため、順慶(じゅんけい)はわずか二歳で家督を継ぐ事となる。

得度(僧籍に入る)して順慶(じゅんけい)と称する前は、室町幕府十三代将軍・足利義藤(後の義輝)の偏諱により藤勝(ふじかつ)、藤政(ふじまさ)と名乗っていた。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は、大和国筒井城主、後に大和国郡山城主で、事績については奈良興福寺の「多聞院日記」に詳らかに記述されている。


当時の大和国は松永久秀(弾正)が隆盛を極めており、筒井氏と協力関係にあった十市郡領主・十市遠勝(とおいちとおただ)が久秀の軍門に下るなど、筒井氏にとって厳しい情勢にあった。

叔父の筒井順政が後見人として補佐を努めたが、その順政は久秀(弾正)による大和侵攻が激しくなっていた千五百六十四年(永禄七年)に死去してしまった。

後ろ盾を無くして藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)の基盤が揺らいでいる所に、久秀(弾正)が翌千五百六十五年(永禄八年)に奇襲を仕掛け、藤政(ふじまさ/順慶)は居城・筒井城を追われる。

この落城で、箸尾高春・高田当次郎と言った家臣達が藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)を見限り出奔(しゅっぽん/ 逃げだし姿を消す)している。


居城を追われた藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は、一族の布施左京進(行盛)のいる布施城に逃れ、しばらく雌伏の時を過ごした。

その後、藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は布施氏の下で力を蓄え、離反した高田氏(当次郎)の居城である高田城を攻撃している。

巻き返しを図る藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は、千五百六十六年(永禄九年)になると、果敢に松永軍に対する反撃を敢行する。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は三好三人衆と結託し、筒井城の奪還を企図する。

千五百六十六年(永禄九年)の四月十一日から二十一日にかけて両軍の間で小競り合いが行われ、美濃庄城を孤立させて降伏させている。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)と三好三人衆は勢いに乗り、久秀(弾正)側に乗っ取られていた筒井城へ肉薄する。

対して久秀(弾正)は大和を抜け河内に赴いて同盟関係であった畠山氏・遊佐氏と合流、堺で三好義継と久秀(弾正)が激突する。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)はこの間隙を突いて筒井城の奪還を策し、筒井城周囲に設置された松永久秀(弾正)の陣所を焼き払うなどした。

焦燥した久秀(弾正)は友・能登屋と称する者に斡旋させて体良く和睦を結び、五月三十日に陣所から姿をくらました。

「多聞院日記」や. 戦国軍記・「細川両家記(ほそかわりょうけき)」などによれば、久秀(弾正)は筒井城の救援には向わなかったとされる。

周囲の陣を焼き払い、外堀を埋めた藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は本格的に城の奪還に着手、六月八日、終(つい)に城の奪還を果たした。

藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)が筒井城を奪還できた背景には、三好三人衆の進軍によって久秀の足場が揺らぎ、筒井城に軍勢を差し向けられる余裕がなかった事が指摘される。

筒井城を奪還した藤政(ふじまさ/順慶・じゅんけい)は、春日大社に参詣した。

この時、宗慶大僧都を戒師として藤政(ふじまさ)から陽舜房順慶と改名し、正式に順慶(じゅんけい)を名乗るのはこの時からである。


翌千五百六十七年(永禄十年)、順慶(じゅんけい)は再び三好三人衆と結んで奈良にて久秀(弾正)と刃を交えている。

この頃、織田信長の台頭が著しくなり、千五百六十八年(永禄十一年)に十五代将軍・足利義昭を擁立して上洛、三人衆を駆逐して影響力が畿内一円に及ぶようになる。

機敏な久秀(弾正)は迅速に信長と誼を通じたが、対する順慶(じゅんけい)は久秀(弾正)の打倒に専念するあまり情報収集が遅滞し、遅れをとった。

時流に乗る事に遅れた順慶(じゅんけい)を見限り、菅田備前守などの家臣が順慶(じゅんけい)から離反している。

そして、信長の後ろ盾を得た久秀(弾正)は、郡山辰巳衆を統率して筒井城に迫る。

順慶(じゅんけい)は奮戦したが久秀(弾正)方の勢いが良く、衆寡敵せず叔父の福住順弘の下へと落ちのびた。

福住城に潜伏して雌伏の時を過ごしていた順慶(じゅんけい)だが、千五百七十年(元亀元年)に十市遠勝の死によって内部に乱れを生じた十市城を攻め落とす。

さらに松永方の城となっていた窪之庄城を奪回し、椿尾上城を築城するなど、久秀(弾正)と渡り合う為に着々と布石を打っていった。

翌千五百七十一年(元亀二年)になると順慶(じゅんけい)・久秀(弾正)の関係は一層緊迫を強める。

順慶(じゅんけい)は、井戸良弘に命令して辰市城築城に着手する。

千五百七十一年(元亀二年)七月三日に完成した同城は松永久秀(弾正)攻略の橋頭堡となった。

城の着工が迅速に行われた背景には、順慶(じゅんけい)を支持する地元の人々の経済的な支援があったと考えられる。

翌八月四日には辰市城周辺で久秀・久通父子、三好義継らの連合軍と大規模な合戦に及び、これを蹴散らし松永軍に甚大な被害を与えた。

敗戦した久秀(弾正)は筒井城を放棄し、順慶(じゅんけい)は再び筒井城を奪還する事に成功した。

筒井城の奪還によって、信貴山城と多聞山城を繋ぐ経路が分断され、久秀(弾正)は劣勢に立たされる事となった。


千五百七十一年(元亀二年)十一月一日、順慶(じゅんけい)は明智光秀佐久間信盛の斡旋を得て織田信長に臣従し、その支援を得る事で大和における所領を守った。

対する久秀(弾正)は信長と反目して将軍・足利義昭、三好義継、武田信玄などと結託して信長包囲網を敷いていた。

順慶(じゅんけい)は久秀(弾正)と和議を結び、北小路城に久秀(弾正)・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた。

だが千五百七十二年(元亀三年)になると久秀(弾正)は反信長の態度をますます顕在化させ、つかの間の和睦も破綻した。

千五百七十三年(天正元年)になると信玄は病死、将軍・足利義昭が信長に追放、三好義継も信長に討伐され包囲網は瓦解する。

この間に順慶(じゅんけい)は、松永方の河内私部城を陥落させている。

やがて久秀(弾正)も降伏して信長の元へ下ったが、その後はしばらく小競り合いが続く。

臣従後、順慶(じゅんけい)は信長傘下として主に一向一揆討伐などに参戦して活躍した。

順慶(じゅんけい)は、三好義継討伐で先陣を務め、千五百七十五年(天正三年)の長篠の戦いに於いては信長に鉄砲隊五十人を供出、同年八月の越前一向一揆攻略にも五千の兵を率いて参戦した。

また順慶(じゅんけい)は、信長の臣従に際し、その証として母親と家臣二人を人質として差し出している。

翌千五百七十六年(天正四年)五月十日、順慶(じゅんけい)は、信長により大和守護に任ぜられた。

大和守護に任ぜられた十二日後の五月二十二日には、人質として差し出していた順慶(じゅんけい)の母が帰国した。

母の帰国を許可された事の返礼も兼ねて、順慶(じゅんけい)は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬(ちりめん/織物)や馬を賜っている。


筒井順慶(つついじゅんけい)(二)に続く。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。


第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。
未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-06 01:52 | Comments(0)  

筒井順慶(つついじゅんけい)(二)

筒井順慶(つついじゅんけい)(一)に戻る。

千五百七十七年(天正五年)、筒井順慶(つついじゅんけい)は他の諸将と共に雑賀一揆の鎮圧「紀州征伐」に参加する。

同千五百七十七年(天正五年)、松永久秀(弾正)が信長に対して再度謀反を起こすと、順慶(じゅんけい)は信貴山城攻めの先鋒を務めている。

手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われ、十月十日、遂に城は陥落、久秀父子は自害して果てた。

信貴山城陥落については、順慶(じゅんけい)が石山本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと「大和軍記」は伝えている。

また、「大和志科」は、久秀(弾正)の遺骸を順慶(じゅんけい)が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。

但し「和洲諸将軍伝」にも、久秀(弾正)の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があり、ここでは久秀(弾正)の遺骸を回収し葬った人物は公家・羽林家の「入江大五良」と書かれている。

久秀(弾正)父子の滅亡もあって、同千五百七十八年(天正六年)に信長の大和平定が果たされた。

同千五百七十八年(天正六年)に、順慶(じゅんけい)は信長の命令により龍王山城を破却している。

同千五百七十八年(天正六年)四月、順慶(じゅんけい)は播磨攻めに参戦し、六月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。

帰国後の十月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を順慶(じゅんけい)は鎮圧している。

千五百七十九年(天正七年)には、信長に反旗を翻した荒木村重が篭る有岡城攻めにも順慶(じゅんけい)は参加した。

千五百八十年(天正八年)、順慶(じゅんけい)が居城を筒井城から大和郡山城へ移転する計画を立てていた所に、信長より本城とする城以外の城の破却を促す通達が寄せられる。

順慶(じゅんけい)は筒井城はじめ支城を破却し、築城した大和郡山城に移転した。

筒井城から大和郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。

同千五百八十年(天正八年)、やはり信長の命令により大和一帯に差出検地を実施している。

これに伴い、岡弥二郎・高田当次郎・戒重ら、かつて松永久秀(弾正)に追従していた筒井家配下の人物達が、信長に一度離反した咎(とが)で明智光秀らの主導で処断された。

翌千五百八十一年(天正九年)に順慶(じゅんけい)は、かねてより確執があった大和郡山城主・吐田遠秀(はんだひでとう)を闇討ちにして葬っている。

同年の天正伊賀の乱では他の武将と共に信長次男・織田信雄に属し、大和から伊賀へと進攻する。

順慶(じゅんけい)は三千七百の手勢を指揮し、蒲生氏郷(がもううじさと)と共に比自山の裾野に布陣するも、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。

この時、伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣が順慶(じゅんけい)の窮地を救ったと言われる。


千五百八十二年(天正十年)六月二日、明智光秀が信長を討ち取った「本能寺の変」が起こった。

順慶(じゅんけい)は福住順弘・布施左京進・慈明寺順国・箸尾高春・島清興(左近)・松倉重信ら一族、重臣を召集して評定を行う。

光秀は順慶(じゅんけい)が信長の傘下に入る際の仲介者で縁戚関係にもあり、武辺の多い織田軍団としては数少ない教養人同士として友人関係にもあった。

その為、光秀からは変の後即座に味方になるよう誘われた。

順慶(じゅんけい)は辰市近隣まで派兵して陣を敷いたが、積極的には動かなかった。

その後も評定を重ね、一度河内へ軍を差し向ける方針を立てたが、結局は食料を備蓄させて篭城する動きを見せた。

六月十日には、順慶(じゅんけい)は誓紙を書かせて羽柴秀吉(豊臣秀吉)への恭順を決意した。

同日、光秀の家臣・藤田伝五郎が順慶に光秀への加勢を促すよう郡山城を訪れたが、順慶(じゅんけい)はこれを追い返している。

十一日には、順慶(じゅんけい)が大和郡山で切腹したという風聞を始め流言蜚語が飛び交った。

光秀は親密な関係にあった順慶(じゅんけい)の加勢を期待して洞ヶ峠に布陣し順慶(じゅんけい)の動静を見守ったが、順慶(じゅんけい)は静観の態度を貫徹した。

洞ヶ峠への布陣は、順慶(じゅんけい)への牽制、威嚇であったとも解釈されている。

光秀が洞ヶ峠に出陣したことが後世歪曲されて喧伝され、順慶(じゅんけい)が洞ヶ峠で秀吉と光秀の合戦の趨勢を傍観したという。

以後、所謂「洞ヶ峠の故事」が生まれ、この「洞ヶ峠」は日和見主義の代名詞として後世用いられている。


結局光秀は十三日に山崎で合戦となり、秀吉方と刃を交えて敗死する。

光秀は謀反に際し、自らの与力的立場にある近畿地区の織田大名たちが味方してくれることを期待して居た。

だが、十八万石(大和の与力を合わせ四十五万石)の順慶(じゅんけい)と十二万石の細川藤孝(ほそかわふじたか/幽斎)は伴に名門で、この二大名に背かれた事は、その兵力もさる事ながら、他の大名への影響力も大きく、光秀には致命傷となった。


十四日、順慶(じゅんけい)は大和を出立して京都醍醐に向い、羽柴秀吉(とよとみひでよし)に拝謁する。

この際、秀吉は順慶(じゅんけい)の遅い参陣を叱責したと言う。

「多聞院日記」は、秀吉の叱責によって順慶(じゅんけい)が体調を崩し、その話が奈良一円に伝播して人々を焦燥させたと言う話を伝えている。

二十七日、織田家の後継者を選別する清洲会議が実施され、順慶(じゅんけい)は他の武将達と共に列席している。

七月十一日には、秀吉への臣従の証として、順慶(じゅんけい)は養子(従弟、甥でもあった)定次を人質として差し出している。

光秀死後、順慶(じゅんけい)は秀吉の家臣となり大和の所領は安堵された。

順慶(じゅんけい)は、千五百八十四年(天正十二年)頃から胃痛を訴え床に臥していたが、小牧・長久手の戦いに際して出陣を促され、病気をおして伊勢・美濃へ転戦する。

この無理がたたったのか、大和に帰還して程なく順慶(じゅんけい)は三十六歳の若さで病死した。

筒井順慶(つついじゅんけい)(一)に戻る。


★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。


第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。
未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-06 01:50 | Comments(0)  

雑賀一揆(さいがいっき)

雑賀一揆は、戦国期の紀伊国雑賀地方で蜂起した一揆である。

紀伊国雑賀衆は、寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力だった。

雑賀衆には本願寺門徒が多く、鉄砲組を主とした強力な軍事力をもち,石山本願寺の戦いでは織田信長と対抗する存在の勢力だった。

つまり、将軍や大名などと言う支配を排して自治を行う共和国的存在で、治外法権の自治境内都市・「惣国」だった。

為に雑賀一揆は、信長の「天下布武(てんかふぶ)」と言う中央集権思想と真っ向から対立する惣国一揆や寺社勢力の解体を目的として信長が兵を差し向けた。


雑賀一揆は、石山本願寺を攻めあぐねていた信長により、千五百七十七年(天正五年)に本願寺兵主力の本拠地・雑賀攻めを始める。

織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ三万(計六万)の兵を投入して侵攻を開始した。

その陣容は、山手の軍勢には根来衆と寝返った雑賀三組を先導役として佐久間信盛羽柴秀吉堀秀政荒木村重・別所長治・同重宗である。

山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。

これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。

浜手の軍勢は滝川一益明智光秀・長岡藤孝・丹羽長秀筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠北畠信雄神戸信孝織田信包である。

浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。

千五百七十七年(天正五年)二月二十八日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。

同年三月一日、織田勢は平井の鈴木(雑賀)孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。

その後、戦局は膠着状態となったが、鈴木(雑賀)孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら七人は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加える事を条件に降伏を誓った。

それにしても本名・鈴木氏が、雑賀棟梁として襲名する雑賀孫市や雑賀孫一など、ほとんど同姓同名が存在する事実もあり、雑賀一揆に登場の孫一が、孫市と同一人物と言う確証もない。


だが雑賀衆は、半年も経ない内に再び挙兵し、信長と戦う事になる。

同千五百七十七年(天正五年)七月、雑賀荘・十ヶ郷の諸士を中心とする雑賀衆が兵を動かし、先に信長に与した三組の衆への報復を始めた。

八月十六日、井ノ松原(現海南市)において鈴木(雑賀)孫一らの雑賀衆は日高郡の国人・地侍の応援を得て南郷の土豪・稲井秀次、岡本弥助らと戦い、これを撃破した。

同時期に信長は佐久間信盛父子を大将に七万~八万人の軍勢を動員して再び雑賀を攻めたが、この時も制圧に失敗した。

翌千五百七十八年(天正六年)五月、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって宮郷の太田城を一ヵ月に渡り包囲攻撃したが、落城には至らなかった。

宮郷の太田城はその後、本願寺に謝罪して赦免を受けている。

千五百八十年(天正八年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木(雑賀)孫一と土橋若大夫が対立するようになった。

千五百八十二年(天正十年)一月二十三日、鈴木(雑賀)孫一は土橋若大夫を暗殺した。

孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。

土橋派は若大夫の遺児五人を立てて抗戦したが、雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。

信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。


本当の紀州平定は、本能寺の変を挟んで雑賀一揆から八年後の千五百八十五年(天正十三年)豊臣秀吉の紀州征伐(きしゅうせいばつ)によって解体された。

関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)】に飛ぶ。


第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。
未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-06 01:22 | Comments(0)  

天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)・伊賀惣国一揆

天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)は、伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との二度に渡る戦いの総称である。

千五百七十八年(天正六年)から千五百七十九年(天正七年)の戦を第一次、千五百八十一年(天正九年)の戦を第二次とし区別する。


伊賀惣国一揆を、伊賀忍者織田信長の戦いと誤解される事が多いが、戦闘に参加した者の中には忍者はもちろん地侍や農民もいた。

北畠家の養子となっていた信長の次男・織田信雄(おだのぶを)は、千五百七十六年(天正四年)に北畠具教(きたばたけとものり)ら北畠一族を「三瀬の変」で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。

千五百七十八年(天正六年)二月、伊賀国の郷士の下山平兵衛が信雄(のぶを)を訪れ、伊賀国への手引きを申しでた。

信雄(のぶを)は同千五百七十八年三月に滝川雄利(たきがわかつとし)に北畠具教(きたばたけとものり)が隠居城として築城した丸山城の修築を命じた。

これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった。

山城・丸山城は、三層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は九回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている。

すぐさま伊賀郷士十一名が平楽寺に集まり、「丸山城修築の完成までに攻撃すべし」と集議一決した。

丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が集結し、同千五百七十八年(天正六年)十月二十五日に集結した忍者たちが総攻撃を開始した。

不意を突かれた織田勢・滝川雄利(たきがわかつとし)の軍勢や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した。

翌千五百七十九年(天正七年)九月十六日、信雄(のぶを)は八千の兵を率いて伊賀国に三方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。

伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、二~三日で信雄軍は六千もの兵を討たれ 、主将である信雄(のぶを)があわや討死するような場面もあった。

信雄軍は殿軍(しんがり)の最中に、千五百を率いていた重臣の柘植保重(つげやすしげ)を討たれるなど被害は甚大だった。

信雄(のぶを)が無断で伊賀に侵攻し、さらに敗戦した事を知った信長は激怒し、信雄(のぶを)を叱責した。

また、この信雄(のぶを)の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がって行く。

しかし信長はこの頃、一向宗・本願寺との抗争が激化していて、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。


千五百八十一年(天正九年)四月、上柘植の福地宗隆、河合村の耳須弥次郎の二人が安土城の信長の所に訪れ、伊賀攻略の際は道案内をすると申し出る。

そして再び、織田勢は織田信雄を総大将に五万の兵で伊賀国に侵攻する。

「信長公記」や奈良興福寺の「多聞院日記」には九月三日に攻撃開始との記述がある。

しかし、伊賀上野の町学者・菊岡如幻の手に依る「伊乱記」では、九月二十七日に伊勢地口、柘植口、玉滝口、笠間口、初瀬口、多羅尾口、の六か所から織田勢が一斉攻撃が開始されたと記述されている。

伊勢地口からは織田信雄、津田信澄、柘植口から丹羽長秀滝川一益、玉滝口からは蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光のそうそうたる武将が参加していた。


伊賀方は非戦闘員含め一万人、内伊賀衆は比自山城に三千五百、平楽寺 (後の伊賀上野城)に千五百で籠城した。

伊賀衆は河原(あるいは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷(がもううじさと)隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ大敗した。

筒井順慶(つついじゅんけい)隊にも夜襲を掛け、三千五百の兵のうち半数近くを討ち取られた。

これに怒った氏郷は平楽寺を強攻し、あわゆく退(しりぞ)けられるが、滝川一益の援軍を得てようやく平楽寺を陥落させた。

続く比自山城は難攻不落の要塞で、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、伊賀衆比自山の七本槍の活躍にその都度敗退し、落とせなかった。

しかし総攻撃の前日に、比自山城全ての城兵は柏原城に逃亡し、翌日には藻抜けの空であった。

その後の伊賀衆は織田方の調略を受け、連携を欠いて内応者が多く出た事もあり、織田軍は各地で進撃し同十月十一日にはほぼ伊賀国を制圧した。

村や寺院は焼き払われ、住民は片っ端から殺害され、平楽寺では僧侶七百人余りが斬首され、その様は地獄絵図の様であった。

現在でもその当時を物語る地名・「坊主落とし」、「焼尾」などが残っている。

奈良の大倉五郎次と言う申楽太夫(猿楽太夫)が柏原城に来て、和睦の仲介に入る。

実は申楽(猿楽)の祖である観阿弥・世阿弥のもう一つの顔は、服部氏の流れを汲む伊賀流忍者の枝であり、その伝(つて)が和睦の仲介だった。

惣名代として伊賀豪族で伊賀方総大将・滝野吉政(たきのよしまさ)が二十八日早朝に信雄(のぶを)に会って、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。

「信長公記」ではこの停戦時期を九月十一日としている。

「多聞院日記」では「十七日、教浄先陳ヨリ帰、伊賀一円落着」としており、日程のずれはあるが、当時の伝聞を集めた記録として信頼性は高い。

この柏原城が開城した時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。

残党は徹底的に捕縛され殺されたが、多くの指揮官は他国へ逃げ、ほとぼりが冷めた頃に帰国した。


千五百八十二年(天正十年)、伊賀国は平定され織田氏の支配下にあった。

しかし明智光秀が引き起こした「本能寺の変」で織田信長が横死したのを知ると、伊賀衆は再び挙兵、柏原城を攻めた。

柏原城は落城、伊賀豪族・滝野吉政(たきのよしまさ)は松ヶ島城へ逃走し、その後織田信雄が討伐に向かい、反乱軍は瓦解した。

伊賀衆に攻め落とされた滝野吉政(たきのよしまさ)のその後の動向は不明である。

また、こうした暴動が起きる中、手勢わずかだった徳川家康の「神君伊賀越え」が行われ、伊賀忍者の服部半蔵が家康の逃走を助ける。

その功で伊賀の地は、徳川家召し抱え忍者軍団・「伊賀組同心の本拠地」として再び歴史に姿を現す。

関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式WEBサイト(こうしきうぇぶさいと)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-04 00:46 | Comments(0)  

津田信澄(つだのぶすみ)

津田信澄(つだのぶすみ)は、千五百五十五年(弘治元年)織田信長の弟・織田信行(信勝)の嫡男として生まれる。

その父・織田信行(信勝)が、二度も謀反の企てを起こしたとして伯父の織田信長によって暗殺される。

謀反人の子であるが、幼少の信澄(のぶすみ)は祖母の土田御前(信長と信行の生母)の助命嘆願もあって、信長の命令により柴田勝家(しばたかついえ)の許で養育された。

父・信行(信勝)の謀反の企ての事もあって、信澄(のぶすみ)は織田氏を名乗らず、津田氏を称したとも言われる。


千五百六十六年(永禄九年)は、織田信長が美濃を平定して美濃・尾張二ヵ国の太守に成った頃である。

この頃、松平元康(のちの徳川家康)が三河を制覇した事により、松平から徳川へ改姓し、従五位下、三河守の叙位・任官を受ける。

家康が朝廷より三河守を拝命した千五百六十六年(永禄九年)、信長に任じられ明智光秀の後援を得て信澄(のぶすみ)は近江国高島(現・滋賀県 高島市)に城を持つ。

信澄(のぶすみ)が与えられた近江国高島郡は、旧浅井家臣の 磯野員昌(いそのかずまさ)が新庄城を居城として治めていた。

つまり磯野員昌(いそのかずまさ)は、勝手に離反して浅井家から独立していた武将であるから、今一度、織田・浅井同盟軍に臣従させる必要が在った。

員昌(かずまさ)は津田信澄(つだのぶすみ)を養子に迎えて家督を譲るよう迫られたところ、これを拒否した為に追放されたと言われる。

高島郡は信澄(のぶすみ)に与えられ、信澄(のぶすみ)は近江国高島城(大溝城)を築いて員昌(かずまさ)の居城・新庄城から移ったされている。

この時点の一説で、近江国高島城築城の縄張りは明智光秀が担当したと言われる。

だが、実は信長と浅井長政が織田・浅井同盟軍として提携する中で、明智光秀がお目付け役として旧浅井領内に城を持った可能性が、最近の細川系文献(家老・米田氏)から読み取れる事実が出た。

同千五百七十八年(天正六年)二月三日、浅井氏旧臣で高島郡を任されていた磯野員昌(いそのかずまさ)が織田家より出奔した為、信澄(のぶすみ)は員昌(かずまさ)の養子として高島郡の所領を加増される。

また同時期に信澄(のぶすみ)は、名は不明だが明智光秀の娘と結婚している。


柴田勝家に預けられた信澄(のぶすみ)は成長し、正確な時期は不明だが天正年間初期に元服したとされている。

元服後の信澄(のぶすみ)は、千五百七十四年(天正二年)二月三日朝に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に出席した記録がある。

翌三月には、信長が東大寺正倉院の香木・蘭奢待(らんじゃたい)を切り取る行事の奉行を信澄(のぶすみ)は務めている。

翌千五百七十五年(天正三年)七月の越前一向一揆征伐に信澄(のぶすみ)は従軍、初陣を果たした。

同千五百七十五年(天正三年)十月二十七日に、、細川藤孝(ほそかわふじたか)と親密な関係を持つ神道家の公家の吉田兼見(よしだかねみ)が信長に礼参した際、信澄(のぶすみ)が進物を披露している。

翌千五百七十六年(天正四年)一月十四日、信澄(のぶすみ)は高島郡より上洛した事が確認される為、これより以前に信長より近江に所領を与えられていたと確認されている。

同千五百七十六年(天正四年)には、信澄(のぶすみ)は明智光秀の丹波攻めに援軍として参加している。


同千五百七十八年(天正六年)四月四日、信澄(のぶすみ)は、織田信長嫡男・織田信忠に従い石山本願寺攻めに従軍し、十月から翌千五百七十九年十一月までの荒木村重討伐にも従軍している。

この荒木征伐で開城した摂津伊丹城には信澄(のぶすみ)が入り、村重の正室ら一族三十七名を捕えて京都に護送した。

また千五百八十一年(天正九年)十月、伊賀が平定された際に従兄の織田信忠と共に信長に同道したが、この際に信長に大和を知行する事を望んで信長から諌められたと伝わる。


千五百八十二年(天正十年)春、四国の雄・土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と織田信長の関係が悪化する。

信長は三男の信孝(神戸)を総大将に丹羽長秀、蜂屋頼隆、そして信澄(のぶすみ)を副将に付けて四国に渡海させる計画を立て、信澄(のぶすみ)は大坂城に駐留する。

そして京都から大坂に向かう徳川家康の接待役を、丹羽長秀と共に命じられる。

千五百八十二年(天正十年)六月二日、舅の光秀が京都にいた信長を襲撃して殺害した「本能寺の変」を起こす。

信澄(のぶすみ)は光秀の娘婿であった事が災いし、三日後の六月五日に信孝(神戸)と丹羽長秀により襲撃される。

信澄(のぶすみ)は、野田城で信孝の家臣・峰竹右衛門、山路段左衛門、上田重安によって二十八歳で殺害され、首級は信孝の命令で堺で晒された。


関連記事
戦国時代(せんごくじだい/室町末期)

第三巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=【日本史検索データ
にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式WEBサイト(こうしきうぇぶさいと)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2015-03-02 17:44 | Comments(0)