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吉田東洋(よしだとうよう)

江戸時代末期の土佐藩に、藩執政としてその存在を名を挙げた吉田東洋(よしだとうよう)が居る。

吉田東洋(よしだとうよう)は、江戸時代末期の土佐藩士(上士)で、東洋は号、諱は正秋である。

吉田家の出自は、藤原北家秀郷流(俵藤太秀郷)の支流・香美郡夜須城主の吉田備後守重俊の孫の吉田俊政(孫助)とされる。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)に仕えていたが、長宗我部氏滅亡後も在郷の名家ゆえに土佐一国を拝領してやって来た山内家初代・山内一豊(やまうちかつとよ)に上士として迎えられている。

父は土佐藩士・吉田光四郎正清、母は吉田正幸の娘。

室(妻)は藩士・後藤正澄の三女・琴で、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は義理の甥にあたる。

東洋(とうよう)は、千八百十六年(文化十三年)、土佐藩上士・吉田正清(馬廻格・二百石)の四男として高知城下帯屋町に生まれる。

千八百二十三年(文政六年)、東洋(とうよう)は庶兄の早世によって嗣子となる。

千八百三十七年(天保八年)、東洋(とうよう)は口論のすえに家僕を無礼討ちした事から蟄居する。

千八百四十一年(天保十二年)、父・正清の死去により東洋(とうよう)は吉田家の家督を相続する。

千八百四十二年(天保十三年)九月に、東洋(とうよう)は船奉行として出仕し、同年十一月には郡奉行に転じて民政に携わる。

藩主・山内豊熈(やまうちとよてる)の進める藩政改革に参与し、飢饉に備えた藩営備蓄の「済農倉」設立を進言する。

千八百四十五年(弘化二年)、東洋(とうよう)は病により無役となったが、人事や法令改正、海防等の意見書である「時事五箇条」を提出する。

千八百四十七年(弘化四年)には、東洋(とうよう)は船奉行として再出仕する。

千八百四十八年八月二十三日(嘉永元年七月二十五日)、妻の兄弟・後藤正晴が病死すると、その遺児 後藤保弥太(のちの後藤象二郎(ごとうしょうじろう))を父親代わりになって養育する。

同千八百四十八年(嘉永元年)十二月、藩主・豊熈(とよてる)の死去に伴って東洋(とうよう)は無役となる。

千八百五十一年(嘉永四年)、東洋(とうよう)は近畿地方(上方)を遊歴し、伊勢国の漢学者・斉藤拙堂や京都の梁川星巌や頼三樹三郎らに会して見聞をひろげた。千八百五十三年(嘉永六年)七月、藩主・山内容堂(豊信)によって大目付に抜擢され、十二月には参政として強力に藩政改革を主導した。

千八百五十五年(安政三年)三月、東洋(とうよう)は参勤交代に伴って江戸へ出府して藤田東湖や塩谷宕陰、安井息軒らと親交を結ぶが、酒宴に於ける旗本殴打事件を引き起こして罷免される。

さらに東洋(とうよう)は、家禄を百五十石に減らされた上、帰郷して隠居する事を余儀なくされた。

帰郷後、東洋(とうよう)は高知郊外に私塾(少林塾)を開き、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)や乾(板垣)退助(いぬいたいすけ)、福岡孝弟、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)等の若手藩士に教授する。

やがて彼らが、「新おこぜ組」と称され藩内の一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えた。

千八百五十七年(安政四年)十二月に赦免された東洋(とうよう)は、新知行百五十石、役高三百石を給され、翌千八百五十八年(安政五年)年一月には参政として藩政に復帰する。

藩参政・吉田東洋(よしだとうよう)は法律書「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。

しかし、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党・武市瑞山(たけちずいざん/半平太)との政治的対立を生じさせる結果となる。

千八百六十二年五月(文久二年四月)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助に待ち伏せされ、東洋(とうよう)は四十七歳で暗殺された。

この時、東洋(とうよう)の嫡男・正春(源太郎)はわずか十一歳で、東洋(とうよう)暗殺の二年後、母・琴も病死して正春(源太郎)は孤児となった為、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が引き取って育てた。


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by mmcjiyodan | 2015-04-25 11:12 | Comments(0)  

ジョン万次郎(中浜万次郎)

一介の漁師でありながら、漂流者から日本の近代化に大きく貢献した人物・ジョン万次郎(まんじろう)が居る。

万次郎(まんじろう)は、千八百二十七年(文政十年)、土佐の国(高知県土佐清水市中浜)の漁師の子として産まれた。

千八百四十一年(天保十二年)、十四歳だった万次郎(まんじろう)は仲間の漁師四人と出漁中に遭難し、伊豆諸島の無人島・鳥島(とりしま)に漂着する。

万次郎(まんじろう)達四人は、無人島・鳥島(とりしま)漂着後百四十三日生き延び、通り掛かった米国捕鯨船ジョン・ハラウンド号に救出される。

当時日本は鎖国状態だった為、ジョン・ハラウンド号は日本に寄港出来無い為、年配の三人は寄港先のハワイ島に降ろされる。

ただ、年少だった万次郎(まんじろう)は、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて航海への帯同を許される。

同千八百四十一年(天保十二年)、アメリカ本土に渡った万次郎(まんじろう)は、マサチューセッツ州の船長の自宅に連れられて行く。

万次郎(まんじろう)はホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、千八百四十三年(天保十五年)にはオックスフォード学校に学ぶ。

翌千八百四十四年(弘化元年)に万次郎(まんじろう)は、バーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。

万次郎(まんじろう)は、千八百四十六年(弘化三年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活する。

千八百五十年(嘉永三年)五月、万次郎(まんじろう)は日本に帰る事を決意し、帰国の資金を得る為にサンフランシスコへ渡り、金の採掘で得た六百ドルの資金を持ってハワイ島ホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。

千八百五十年十二月十七日、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せてホノルルを立ち日本へ向け出航した。

千八百五十一年(年嘉永四年)二月二日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られる。

海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。

薩摩藩では万次郎一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった薩摩藩々主・島津斉彬(しまづなりあきら)は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問する。

藩主・斉彬(なりあきら)の命により、万次郎(まんじろう)は藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。

斉彬(なりあきら)は万次郎の英語・造船知識に注目し、後に薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。

万次郎(まんじろう)ら四人は長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。

長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でない事を証明し、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。

高知城下に於いて、土佐藩執政・吉田東洋(よしだとうよう)らにより出身藩での取り調べを受けた後、漂流から十一年目にしてようやく故郷に帰る。

その取り調べの際に万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍(かわだしょうりょう)は万次郎の話を記録し、後に「漂巽紀略」を記している。

その後、河田小龍(かわだしょうりょう)が記した「漂巽紀略・五巻」は、十五代土佐藩主・山内豊信(やまのうちとよしげ/容堂)に献上される。

同書「漂巽紀略・五巻」が江戸に持ち込まれると諸大名間で評判になり、万次郎(まんじろう)の運命はまたも切り開かれる。

千八百五十三年(嘉永六年)、マシュー・ペリーの黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていた事から、万次郎(まんじろう)が幕府直参として取り立てられる事となった。

万次郎(まんじろう)は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の旗本の身分を与えられ、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。


余談だが、土佐国帰郷後すぐに、万次郎(まんじろう)は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。

この藩校「教授館」の教授時代、万次郎(まんじろう)は後藤象二郎岩崎弥太郎などを教えている。

また、万次郎(まんじろう)から得た河田小龍(かわだしょうりょう)の知識は、坂本龍馬(さかもとりょうま)に「貿易立国」を志させる切っ掛けとなった。

千八百六十年(万延元年)、
日米修好通商条約の批准書を交換する為の遣米使節団の一人として、咸臨丸に乗りアメリカに渡る。

船長の勝海舟(かつかいしゅう)が船酔いが酷くまともな指揮を執れなかった為、万次郎(まんじろう)は代わって船内の秩序保持に努めた。

サンフランシスコに到着後、万次郎(まんじろう)は使節の通訳として活躍する。

また、万次郎(まんじろう)は帰国時に同行の福澤諭吉(ふくざわゆきち)と共にウェブスターの英語辞書を購入し持ち帰る。

万次郎(まんじろう)は、千八百六十六年(慶応二年)には土佐藩・開成館教授、千八百六十七年(慶応三年)には薩摩藩教授を務めるも武力倒幕の機運が高まり江戸に戻った。

明治維新後の千八百六十九年(明治二年)、万次郎(まんじろう)は明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命される。

千八百七十年(明治三年)、万次郎(まんじろう)は普仏戦争視察団として大山巌(おおやまいわお)らと共に欧州へ派遣される。

その帰国の途上、万次郎(まんじろう)は米国にて恩人のホイットフィールド船長と再会し、身に着けていた日本刀を贈った。

欧州派遣から帰国後、万次郎(まんじろう)は軽い脳溢血を起こすも、数ヵ月後には日常生活に不自由しないほどに回復する。

時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるよう誘われたが、万次郎(まんじろう)は教育者としての道を全うした。

千八百九十八年(明治三十一年)、万次郎(まんじろう)は七十二歳で死去した。

千八百九十八年(明治三十一年)は、この年一月、第三次伊藤博文内閣成立も六月には総辞職、第一次大隈重信内閣成立(隈板内閣)するも十月総辞職、第二次山縣有朋内閣が成立するなど、政情不安定な年だった。


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by mmcjiyodan | 2015-04-24 15:46 | Comments(0)  

松尾芭蕉(まつおばしょう)

松尾芭蕉(まつおばしょう) は、江戸時代前期の 俳諧の連歌を職業とする俳諧師(はいかいし)である。

千六百四十四年(寛永二十一年)に伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない。

芭蕉(ばしょう)の出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説と柘植(現在の伊賀市柘植)説の二説がある。

これは芭蕉(ばしょう)の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。

芭蕉(ばしょう)は、 阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母・ 梅 の間に次男として生まれる。

松尾忠右衛門・宗房=芭蕉(ばしょう)には、兄・松尾命清の他に姉一人と妹三人がいた。

松尾家は平氏の末流を名乗る一族で、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった。

千六百五十六年(明暦二年)、十三歳の時に父・松尾与左衛門が死去する。

兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。

異説も多いが、宗房=芭蕉(ばしょう)は千六百六十二年(寛文二年)に若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・上野の城代・藤堂主計良忠(とうどうかずえよしただ/俳号は蝉吟)に仕えた。

その宗房=芭蕉(ばしょう)の仕事は、「厨房役か料理人だったらしい」と伝わっているが、「稚児小姓として仕えた」とする説も有力である。

当時の武門は、「男色を賛美した習俗が極普通だった」と言われるので充分可能性は在った。


芭蕉(ばしょう)の幼名は金作である。

通称は甚七郎、次いで甚四郎、名は松尾忠右衛門宗房を名乗る。

歌人俳人・北村季吟(きたむらきぎん)門下で、俳号としては初め実名・宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。

宗房=芭蕉(ばしょう)は、蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風を確立し、後世では俳聖として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。

諸説あるが、千六百七十五年(延宝三年)初頭、宗房=芭蕉(ばしょう)は江戸へ下った。

宗房=芭蕉(ばしょう)は江戸では俳号・「桃青」を用い、多くの支援者を得て、神田川の分水工事の人足の帳簿づけなどをしながら生活の基盤を固め、江戸の職業俳諧師としての地位を築いてゆく。

やがて桃青=芭蕉(ばしょう)は、俳諧師の宗匠の証である歳旦帳を持ち、江戸や時に京都の俳壇と交流を持ちながら、多くの作品を発表する。


千六百八十九年五月十六日(元禄二年三月二十七日)、芭蕉(ばしょう)が弟子の河合曾良(かわいそら)を伴い、江戸を立つ。

芭蕉(ばしょう)が東北地方、北陸地方を巡り、中部地方・岐阜県の大垣まで旅した紀行文が「おくのほそ道」である。

下野・陸奥・出羽・越後・加賀・越前など、芭蕉(ばしょう)にとって未知の国々を巡る旅は、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的を持っており、多くの名句が詠まれた。


「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」・・岩手県平泉町

「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」・・山形県・立石寺

「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」 ・・山形県大石田町

「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」・・新潟県出雲崎町


この旅で芭蕉(ばしょう)は、訪れた各地に多くの門人を獲得する。

特に金沢で門人となった者たちは、後の加賀蕉門発展の基礎となった。

また、歌枕の地に実際に触れ、変わらない本質と流れ行く変化の両面を実感する事から「不易流行」に繋がる思考の基礎を我が物とした。

芭蕉(ばしょう)は五月下旬に中部地方・大垣に着き、約五ヶ月六百里(約2400km)の旅を終えた。

その後芭蕉(ばしょう)は、九月六日に伊勢神宮に向かって船出し、参拝を済ますと伊賀上野へ向かった。

十二月には京都に入り、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごした。


千六百九十四年(元禄七年)五月、芭蕉(ばしょう)は愛人・寿貞尼(じゅていに)の息子である次郎兵衛を連れて江戸を発ち、伊賀上野へ向かった。

途中大井川の増水で島田に足止めを食らうも、五月二十八日には伊賀上野に到着した。

その後、湖南(滋賀県湖南市)や京都へ行き、七月には伊賀上野へ戻った。

同千六百九十四年(元禄七年)六月二日、江戸深川の芭蕉庵にて愛人・寿貞尼(じゅていに)が死去する。

芭蕉の甥・猪兵衛が、寿貞(じゅてい)の死を知らせる手紙を芭蕉のいる京都嵯峨の落柿舎に届けた。

九月に奈良そして生駒暗峠を経て大坂へ赴いた。

大坂行きの目的は、門人・大坂蕉門の重鎮の之道(しどう)と近江蕉門の珍碩(ちんせき)の二人が不仲となり、その間を取り持つためだった。

当初は若い珍碩(ちんせき)の家に留まり諭したが、珍碩(ちんせき)は受け入れず失踪してしまう。

この心労が健康に障ったとも言われ、体調を崩した芭蕉(ばしょう)は大坂に向かい之道(しどう)の家に移ったものの十日夜に発熱と頭痛を訴えた。

二十日には回復して俳席にも現れたが、二十九日夜に下痢が酷くなって伏し、容態は悪化の一途を辿った。

十月五日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちの看病を受ける。

八日、「病中吟」と称して「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を詠んだ。


伊賀と言えば、「幕府御庭番服部家」など伊賀流忍者の里で、その出身地から芭蕉(ばしょう)には異説が在る。

伊賀国土豪一族出身の松尾忠右衛門宗房が俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)の実名であり、諸国を旅した事から「諸国巡検の幕府隠密説」が在る。

まず、芭蕉(ばしょう)の母・ 梅 の出身も、伊賀流忍術の祖とされる百地(桃地)氏だった。

また、松尾宗房が十八歳で最初に仕えた藤堂新七郎の息子だが、藤堂新七郎が保田采女(藤堂采女)の一族で、采女が服部半蔵(はっとりはんぞう)の従兄弟だった為である。

とは言え、俳諧師(はいかいし)・芭蕉(ばしょう)が幕府隠密だった証拠はない。

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by mmcjiyodan | 2015-04-20 19:24 | Comments(0)  

五・一五事件(ご・いち・ごじけん)

五・一五事件(ご・いち・ごじけん)は、千九百三十二年(昭和七年)五月十五日に日本で起きた反乱事件である。

武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣・犬養毅を殺害した。


この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、第一次上海事変に出征して戦死した藤井斉(ふじいひとし)とは同志的な関係を持っていた。

事件は、千九百三十二年(昭和七年)二月から三月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺事件)・血盟団事件に続く昭和維新の第二弾として決行された。

古賀中尉は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、著名な思想家・大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。

農本主義者で「愛郷塾」主宰・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。

時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉・西田税を繰りかえし説得して、後藤映範(ごとうえいはん)ら十一名の陸軍士官候補生を引き込んだ。

三月三十一日、古賀中尉と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。


決行日の五月十五日は日曜日で、犬養首相は終日官邸にいた。

第一組九人は、海軍中尉・三上卓以下五人を表門組、海軍中尉・山岸宏以下四人を裏門組として二台の車に分乗して首相官邸に向かう。

彼らは午後五時に二十七分頃に官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせ、内一名が五月二十六日に死亡している。

三上中尉は食堂で犬養首相を発見すると、ただちに拳銃を犬養首相に向け引き金を引いたが、たまたま弾が入っていなかった為に発射されず、犬養首相に制止された。

そして犬養毅首相自らに応接室に案内され、そこで犬養首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。

その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩勇予備役海軍少尉が犬養首相の腹部を銃撃、次いで三上中尉が頭部を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。

襲撃者らは、銃撃後すぐに去った。

それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって絶命した。

首相官邸以外にも別の襲撃組に、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、いずれも被害は軽微であった。

千九百三十二年(昭和七年)六月十五日、資金と拳銃を提供したとして思想家・大川周明が検挙された。

同年七月二十四日、「愛郷塾」主宰・橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。

同年九月十八日、拳銃を提供したとして「柴山塾」主宰・本間憲一郎が検挙され、十一月五日には 玄洋社社員・頭山秀三(頭山満の三男)が検挙された。

この五・一五事件(ご・いち・ごじけん)以後、政権と政治家は軍部寄りになり、政権の軍部への統制力が弱体化して行った。

関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-04-14 01:41 | Comments(0)  

河本大作(こうもとだいさく)

張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、関東軍参謀・河本大作(こうもとだいさく)大佐によって「橋梁に爆弾が仕掛けられ実行された」が定説である。

河本大作は、千八百八十三年(明治十六年)一月二十四日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に、地主の子として生まれた。

大作は高等小学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、千九百三年明治三十六年)十一月に陸軍士官学校(第十五期、卒業順位九十七番、歩兵科)を卒業。

翌千九百四年、大作は日露戦争に出征、重傷を負う。

千九百十四年(大正三年)に、大作は陸軍大学校(第二十六期、修了順位二十四番)を卒業し、軍人として順調に出世を重ねた。

千九百二十八年(昭和三年六月)、大作は階級が大佐で関東軍参謀時、張作霖爆殺事件を起し、停職、待命、予備役編入となる。

勝手に軍事行動を起こしたこの暴挙は、天皇の軍統帥権を犯す大罪の筈だった。

当時首相の田中義一は当初日本軍が関与した可能性があり事実ならは厳正に対処すると昭和天皇裕仁陛下(しょうわてんのうひろひとへいか)に報告した。

しかし後の報告では関与の隠蔽を図った為、昭和天皇の怒りを買い、田中内閣の総辞職につなかった。


予備役編入後、大作は関東軍時代の伝手を用いて、千九百三十二年(昭和七年)に南満州鉄道の理事、千九百三十四年(昭和九年)には満州炭坑の理事長となった。

大作への関東軍の支援は続き、千九百四十二年(昭和十七年)、第一軍参謀長・陸軍少将の花谷正の斡旋により国策会社山西産業株式会社の社長に就任、満州国内の有力財界人となる。

大作は、ソ連軍の満州侵入後、山西産業は中華民国政府に接収されるも中華民国政府の指示により西北実業建設公司(旧・山西産業)の最高顧問に就任し中国で生活を続けた。

大作は中国国民党の山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、千九百四十九年(昭和二十四年)には中国共産党軍は太原を制圧する。

大作は共産党軍の捕虜となり、戦犯として太原収容所に収監された。

六年後の千九百五十五年(昭和三十年)八月二十五日、元陸軍大佐・河本大作は収容所にて七十二歳で病死した。

結局の所、河本大作(こうもとだいさく)は祖国日本との縁が切れても、「国益」とは関わらない個人資格の功名心で中国共産党軍と戦ったただの好戦主義者ではなかったのか?

なお、陸軍士官学校第十五期の大作は、陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)の次男・保典(やすすけ/歩兵少尉、日露戦争で戦死)と同期である。

関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-04-11 12:29 | Comments(0)  

類人猿・ボノボ

一つのヒントであるが、争いの興奮を一瞬で鎮めるのは快感である。

アフリカ・コンゴに生息するサル目(霊長目)ヒト科チンパンジー属に分類される類人猿・ボノボは、個体間の争いをする雄(オス)が仲裁に入った雌(メス)との交尾(性交)でその場を解決する。

勿論、ボノボ社会が「群れ婚」だと言う事で、争い即・「手近(てじか)な雌(メス)」との交尾(性交)が成立している。

近くに雌(メス)が居ない場合は、雄(オス)同士が睾丸をぶつけ合う疑似交尾(疑似性交)で争いを解消する。

それで類人猿・ボノボの事を、「愛の類人猿」などと表現する。

この類人猿・ボノボ、遺伝子が人類に九十九%も一致するほど最も人類に近い事が判っている。

以前は「ピグミーチンパンジー」と呼ばれた類人猿・ボノボは、チンパンジーに比べて上半身が小さく、それに比例して脳容量も小さい。

類人猿・ボノボの知性はチンパンジーよりも高いと考えられるが、ただし野生での道具使用は報告されていない。

しかし脳容量が小さいにも関わらず、この類人猿・ボノボは言葉を理解し、生殖以外の目的の性行動を行うなど、チンパンジーよりもずっと人間に近いとも言われている。

類人猿・ボノボの赤ん坊はか細く、成長に時間が掛かる為に頼りない状態が長く続くなど人類に近い成長過程を要する。

また類人猿・ボノボは、成長するとチンパンジーよりよく直立二足歩行するなど人類に近い特徴を備えている。

そして類人猿・ボノボは、大人のメス同士 が頻繁に果実を分け合う行動を取るなど共生生活を送っている。

その類人猿・ボノボが、争いの解決手段に交尾(性交)や疑似交尾(疑似性交)の快感を有効活用するなど、或る意味見事に合理的な方法を採っている。

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by mmcjiyodan | 2015-04-05 02:00 | Comments(1)