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「夜伽(よとぎ)歓待」の「マレビト習慣」

昔から、「江戸っ子は女房を貸し借りする」と言う諺(ことわざ)が在る。

つまり一部のキリスト教信者以外の江戸時代当時の庶民社会では、そぅ厳格に女房の貞操観念にこだわっては居なかった。

あくまでも、維新後のキリスト教の価値観の影響が現在の貞操観念で、江戸時代以前は武家社会ででも出世の為に主君の所望に応じて妻を差し出すなど、対して奇異な事ではなかった。

それは、読んで字のごとく、大名家は「家」であり、つまり属する者は運命共同体にしてその集団の一員だからである。

本来、地域社会の身内感覚(共同体意識)に依る「集団の性規範」は、民族・部族ごとに存在し、それを他者が自分達の価値観で「奇習だ」と批判するのは傲慢である。


江戸時代の商家のおかみさんは、手代や番頭の性の面倒まで見ていたし、相撲部屋のおかみさんはつい二十年位前まで「弟子の性の面倒をみている」と言ううわさが在った。

いずれも、使用人や弟子が外で不祥事を起こさない為の知恵だった。

また、「江戸っ子は女房を質に入れても初カツオを食う」と言う。

庶民に貞操観念自体が薄い時代で不倫は当たり前、初カツオの代金が女房の貞操代金に化けたとは、江戸庶民の粋な話かも知れない。


農村ではお祭りの際に若い男女の乱交的な性交渉を認める地方が多くあり、結果、子供ができれば神事に授かった子供として大切に育てられた。

また、江戸時代当時の旅人(旅行者)は、庄屋(しょうや)・名主(なぬし)、村長(むらおさ)と言ったその土地の有力者の家に招かれ逗留した。

その逗留に、「性的夜伽(よとぎ)歓待」の習慣のある地方では、旅人(旅行者)に妻女や娘にその相手をさせた性風習も在った。

これには経験学的な生殖学の経験・近親婚に拠る劣勢遺伝の現実が存在した。

当時の農村では、働き手である人口の増加や少ない娯楽として「夜這い」が認められていたが、何世代もの長期に渡ると一村全てが血液的には身内に成ってしまう。

つまり狭い範囲の村落での生殖行為は、「血が濃くなる一方」と言うリスクが在り、村に訪れる旅人を「マレビト(稀人・客人)」として大歓迎し、新たなる子種を得る目的が存在した。

一部では、「マレビト(稀人)」を客人と書いてマレビトと読ませる。

「つまり、マレビト(稀人=客人)と言い、「外部から来訪した珍しい客人」と提起されている。

勿論、この「マレビト(稀人・客人)」が、そのまま村に滞在する事が、村としては「夜伽(よとぎ)歓待」の最大の成果と言える。

この習俗の日本列島への知的伝播の元は、モンゴルの遊牧人の習慣と考えられる。

それは、仏教の伝播と伴に伝来したヒンドゥー教シヴァ神の経典などと伴に伝えられた処世術だった。

モンゴルの遊牧人の習慣として、砂漠の旅人(旅行者)は族長と言ったその部族の有力者の家に招かれ逗留した。

その逗留に、砂漠の民には「性的夜伽(よとぎ)歓待」の習慣があり、旅人(旅行者)に妻女や娘にその相手をさせた風習も在った。

台湾島の原住民・高砂十二民族の中にも、マレビト(客人)への夜伽歓待の習慣が在る。

日本統治時代に台湾山岳部を訪れた日本の青年が「マレビト(客人)歓待を受けた」と証言し、小説にも成っている。

アフリカ・マサイ族にも、モンゴルと同じように遠来の客に妻を差出して「夜伽(よとぎ)歓待」する習慣がある。

また、他所から見れば奇妙な習慣かも知れないが、マサイ族の新婚初夜はお祝いだから、新嫁の初夜権を友人にシェア(分配/共有)するのが当たり前である。

従ってハネムーンベィビーは、本当は誰の子か判らないのだが、できた子は新婚夫婦の子として大事に育てられる。

これには経験学的な生殖学の経験・近親婚に拠る劣勢遺伝の現実が存在し、この情報が早い時期に日本列島に伝播し、村落の習俗となった。

狭い範囲の部族での生殖行為は、「血が濃くなる一方」と言うリスク経験が在り、訪れる旅人を「マレビト(稀人・客人)」として大歓迎し、新たなる子種を得る目的が存在した。

勿論、この「マレビト(稀人・客人)」が、そのまま村に滞在する事が、村としては「性的夜伽(よとぎ)歓待」の最大の成果と言える。

つまり部族や村の人口維持の為に「性的夜伽(よとぎ)歓待」は必要だった。

まぁ部族や人種の別に限らず、平凡な日常生活を送る夫人にとって、この「マレビト習慣」は、非日常の刺激的イベント(行事)だったのかも知れない。

確かに一夫一婦制に於いては、貞操観念的に疑義がある習慣だが、一つの価値判断が、「全てに渡っては正解では無い」と言う事例の一つである。

類人猿・ボノボ こそ、争いを回避する知恵の原点】

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◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2015-05-25 13:01 | Comments(0)  

異国船打払令とフェートン号事件

異国船打払令の発令には、モリソン号事件を遡る事約三十年前のフェートン号事件(フェートンごうじけん)の影響が挙げられる。

フェートン号事件とは、千八百八年(文化五年)八月、「イギリス」の軍艦フェートン号が、鎖国体制下の 日本の長崎港に「不法侵入」 した事件である。

千八百八年(文化五年)八月十五日、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン(フリートウッド・ペリュー艦長)は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。

これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では、慣例に従って商館員ホウゼンルマンとシキンムルの二名を小舟で派遣する。

その商館員二名が長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えの為船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって拉致され、船に連行された。

それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。

長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。


オランダ・カピタン(商館長)ヘンドリック・ズーフは長崎奉行所内に避難し、奉行・松平康英に商館員の生還を願い、さらに戦闘回避を勧めた。

長崎奉行の松平康英は、カピタン(商館長)・ズーフに商館員の生還を約束する。

一方で、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩(藩主:黒田斉清)の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。

ところが長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減の為守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の十分の一ほどのわずか百名程度しか在番していない事が判明する。

長崎奉行・松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。


翌十六日、ペリュー艦長は人質の一人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。

人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、長崎奉行・松平康英はやむなく要求を受け入れることとした。だが長崎奉行・松平康英は、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図る事とした。


長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。

これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。

十七日未明、近隣の大村藩主・大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。

長崎奉行・松平康英は大村藩主・大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちする為の作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。


長崎港に不法侵入したフェートン号事件の背景には、欧州の政情が影響していた。

千六百四十一年以後、徳川幕府に依る鎖国政策下の日本は、長崎出島に於いてネーデルラント連邦共和国(のちのオランダ)のみが日本との通商を許されていた。

しかしそのオランダ本国が、千七百九十三年フランス革命でフランスに占領され、オランダ統領のウィレム五世はイギリスに亡命する。

その後の千八百六年、ナポレオン皇帝は弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王に任命し、フランス人によるオランダ王国(ホラント王国)が成立した。

世界各地にあったオランダの植民地は、すべて革命フランスの影響下に置かれる。

一方イギリスは、亡命して来たウィレム五世の依頼によりオランダの海外植民地の接収を始めていた。

だが、長崎出島のオランダ商館を管轄するオランダ東インド会社があったバタヴィア(ジャカルタ)は依然として旧オランダ(つまりフランス)支配下の植民地であった。

それでもアジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、バタヴィアでは旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は中立国のアメリカ籍船を雇用して長崎と貿易を続けていた。


フェートン号事件は、結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。

しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行・松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹する。

また、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩の家老等数人も責任を取って切腹した。

さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、十一月には藩主・鍋島斉直に百日の閉門を命じた。

フェートン号事件の後、カピタン(商館長)・ズーフや長崎奉行・曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。

その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は千八百二十五年に異国船打払令を発令する事になる。

この屈辱を味わった鍋島藩は次代藩主・鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。


詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-05-14 17:08 | Comments(0)  

モリソン号事件と「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」

実はマシュー・ペリーのアメリカ軍艦(黒船来航)の前に、アメリカが日本の開国には武力が必要と認識させる「モリソン号事件」が起きていた。

モリソン号事件(もりそんごうじけん)とは、千八百三十七年(天保八年)、日本人漂流民(音吉ら七人)を乗せたアメリカ合衆国の商船を日本側砲台が砲撃した事件である。

鹿児島湾、浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号(Morrison)」に対し、薩摩藩及び浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行った。

鹿児島湾の砲撃は薩摩藩、江戸湾で砲撃を命ぜられたのは小田原藩と川越藩だった。

このモリソン号にはマカオで保護されていた日本人漂流民の音吉・庄蔵・寿三郎ら七人が乗っていた。

モリソン号が、この日本人漂流民の送還と通商・布教の為に平和目的で来航していた事が事件の一年後に各方面に判かり、問答無用の異国船打払令に対する批判が強まった。

また、当時モリソン号はイギリス軍艦と勘違いされていたが、アメリカ商船モリソン号は非武装だった。

後に、「慎機論」を著した渡辺崋山(わたなべかざん)、「戊戌夢物語」を著した高野長英(たかのちょうえい)らが幕府の頑(かたく)なな対外政策を批判した為逮捕されると言う事件「蛮社の獄」が起こる。


別名・「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」は、千八百三十九年(天保十年)五月に起きた蘭学者に対する言論弾圧事件である。

高野長英(たかのちょうえい)、渡辺崋山(わたなべかざん)などが、モリソン号事件と幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられて獄に繋がれるなど罰を受けた。


「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」の発端の一つとなったモリソン号事件は、千八百三十七年(天保八年)に起こった。

江戸時代には、日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人七名もそのケースであった。

彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。

この際に使用された船が、アメリカ商船船モリソン号である。

千八百三十七年(天保八年)六月二日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は六月二十八日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。

モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老の島津久風(しまづひさかぜ)と交渉した。

島津久風(しまづひさかぜ)は、七人の漂流民をアメリカ船モリソン号が唯一出島で国交があるオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶する。

薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃された為、モリソン号は断念してマカオに帰港した。

日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表す為に武装を撤去していた為である。

また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。

翌千八百三十八年(天保九年)六月、長崎のオランダ商館がモリソン号渡来の経緯(いきさつ)について報告した。

モリソン号はイギリス船と誤って伝えられたが、これにより初めて幕府はモリソン号が漂流民を送り届けに来た事及び通商を求めて来た事を知った。

老中・水野忠邦(みずのただくに)は、この報告書を幕閣の諮問にかけた。


千八百三十八年(天保九年)七~八月に提出された諸役人の答申は以下のようである。

老中・水野は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌九月の林大学頭の答申は前回と変わらず、老中・水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。

これに対する千八百三十八年(天保九年)戌十月の評定所一座の答申は以下のとおり。

評定所一座(寺社奉行・町奉行・公事方勘定奉行)の結論は「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし。」と出た。

老中・水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であった。

十二月になり老中・水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。


「蛮社の獄」に於ける近年の説では、  目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)に、幕臣を告発する意図は最初からなかったとしている。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)は昵懇の間柄であり、鳥居は渡辺崋山(わたなべかざん)の友人に幕府高官もいる事を利用して老中・水野に崋山の危険性と影響力の強さを強調しようとしたものと解されている。

また老中・水野が再調査を命じた根拠とされる「鳥居耀蔵(とりいようぞう)の上書(告発状)」以外のもう一通の上書についても、老中・水野の再調査命令による上書ではない。

上書は、吟味の過程で鳥居耀蔵(とりいようぞう)の告発に疑問を抱いた北町奉行所が、作成したものだろうとしている。

何故なら、もし老中・水野の信任厚い羽倉・江川に疑惑があるなら直接問い正す筈だし、またこの時点で水野が鳥居を全面的に信頼しているのは明らかだとしている。

千八百三十九年(天保十年)五月十四日に渡辺崋山(わたなべかざん)・無人島渡航計画のメンバーに出頭命令が下され、全員が伝馬町の獄に入れられた。

キリストの伝記を翻訳していた小関三英は自らも逮捕を免れぬものと思い込み、五月十七日に自宅にて自殺した。

高野長英(たかのちょうえい)は一時身を隠していたが、五月十八日になり自首して出た。

これにより、逮捕者は以下の八名、

田原藩年寄・渡辺崋山(四十七歳)、町医・高野長英(三十六歳)、無量寿寺住職・順宣(五十)とその息子・順道(二十五歳)、旅籠の後見人・山口家金次郎(三十九歳)、蒔絵師・山崎秀三郎(四十歳)、御徒隠居・本岐道平(四十六歳)、元旗本家の家臣・斉藤次郎兵衛(六十六歳)

となった。


詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-05-08 21:20 | Comments(0)  

松平定信(まつだいらさだのぶ)と「寛政の改革」

松平定信(まつだいらさだのぶ)は、千七百五十八年(宝暦八年)十二月二十七日、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武(とくがわむねたけ)の七男として生まれる。

定信(さだのぶ)の父・徳川宗武(とくがわむねたけ)は、八代将軍・徳川吉宗の次男だった。

定信(さだのぶ)の実際の生まれは十二月二十八日の亥の半刻(午後十時ころ)であったが、田安徳川家の系譜では二十七日とされ、また「田藩事実」では十二月二十八日とされている。

翌千七百五十九年(宝暦九年)一月九日に、定信(さだのぶ)は幼名・賢丸(まさまる)と命名される。

御三卿は、江戸幕府第八代将軍・徳川吉宗の子で構成されているから、その血統にある賢丸(まさまる=定信)は、将軍・吉宗の孫に当たる。

定信(さだのぶ)の生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かって来た。

母・とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、女子の山村三演は采女(うねめ=女官)と称して本家の厄介となった。

母・とやは山村三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。

父・宗武の正室が近衛家の出身である為、母・とやも田安徳川家に仕えて父・宗武の寵愛を受けた。

定信(さだのぶ)は側室の子(庶子)であったが、父・宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察が嫡子になっていた。

その為、同母兄の六男・松平定国と一歳年下の定信(さだのぶ)は後に正室である御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となった。

千七百六十二年(宝暦十二年)二月十二日、田安屋敷が焼失した為、定信(さだのぶ)は江戸城本丸に一時居住する事を許された。

千七百六十三年(宝暦十三年)、定信(さだのぶ)六歳の時に病にかかり危篤状態となったが、治療により一命を取り留めた。

定信(さだのぶ)の幼少期は多病だったと伝えられている。


定信(さだのぶ)は幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第十代将軍・徳川家治の後継と目されていた。

しかし、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれていた。

老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済(はるさだ)によって、定信(さだのぶ)は養子に出される。

千七百七十四年(安永三年)に、定信(さだのぶ)は久松・松平家の庶流で陸奥白河藩第二代藩主・松平定邦(まつだいらさだくに)の養子とされた。

白河藩の養子になった後も、定信(さだのぶ)はしばらくは御三卿・田安徳川家の田安屋敷で居住していた。

同千七百七十四年九月八日(実際は八月二十八日)の兄・徳川治察(田安/とくがわはるさと )の死去により田安家の後継が不在となった。

定信(さだのぶ)は幕閣に養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。

一時期は将軍世子とまで言われた定信(さだのぶ)は、この事により老中・田沼意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる。

一方で、定信(さだのぶ)自らも幕閣入りを狙って、老中・田沼意次に賄賂を贈っていた事は、有名な逸話である。

ただし、定信(さだのぶ)が白河藩の養子となった当時は、将軍・家治(いえはる)の世子の家基が健在で、この時点では定信が将軍後継になる可能性は絶無だった。

また、御三卿は庶子だけでなく世子や当主ですら他大名家への養子へ送り出される事が多かった為、定信(さだのぶ)の将軍世子候補の件は後世に付け加えの可能性さえある。

同じ久松・松平家の伊予松山藩主・松平定静(まつだいらさだきよ)が、田安家から定信(さだのぶ)の実兄・定国を養子に迎えて溜詰に昇格していた。

養父・白河藩々主・松平定邦(まつだいらさだくに)も、溜詰(たまりづめ)と言う家格の上昇を目論んで定信(さだのぶ)を養子に迎えた。

家督相続後、定信(さだのぶ)は幕閣に家格上昇を積極的に働きかけている。

ただし、それが実現したのは定信(さだのぶ)が老中を解任された後であった。


定信(さだのぶ)は、天明の大飢饉に於ける白河藩々政の建て直しの手腕を将軍・家治や幕閣に認められる。

千七百八十八年(天明六年)に将軍・家治が死去して将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の代となり、老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)が失脚した。

後の千七百八十九年(天明七年)、定信(さだのぶ)は徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の下(もと)で老中首座・将軍輔佐となる。

そして天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の「享保の改革」を手本に「寛政の改革」を行い、幕政再建を目指した。

老中職には譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。

確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。

徳川家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。

しかし、定信(さだのぶ)は将軍・徳川吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。

定信(さだのぶ)は、前任者である田沼意次(たぬまおきつぐ)の重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治を改める。

定信(さだのぶ)は、飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などで一応の成果をあげた。

しかし定信(さだのぶ)は、老中就任当初から、偽作者で狂歌師の大田南畝(おおたなんぽ)により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。

さらに「尊号一件」や「大御所事件」なども重なって次第に家斉(いえなり)と松平定信は対立するようになった。

家斉(いえなり)と松平定信の対立原因ともなった「尊号一件」とは、千七百八十九年(寛政元年)に時の光格天皇が実父・典仁親王に太上 (だいじょう) 天皇の尊号を贈りたい旨江戸幕府に希望した際、老中・松平定信が皇統を継がない者で尊号を受けるのは皇位を私するものとして拒否した一連の事件を言う。

また「大御所事件」とは、将軍・ 徳川家斉は将軍就任直後、将軍でなかった実父の徳川治済に大御所号を贈ろうとした際、老中・松平定信が先例が無いとして否定した事件である。

幕府のみならず様々な方面から定信(さだのぶ)批判が続出し、わずか六年で老中を失脚する事となった。


千七百九十二年頃に成ると、日本沿岸に多数の外国船が出没し通商を求めて来る。

定信(さだのぶ)は江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めている。

同千七百九十三年七月二十三日、定信(さだのぶ)は、海防の為に出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。

定信(さだのぶ)引退後の幕府は、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだ。

彼ら留任組は寛政の遺老と呼ばれ、定信(さだのぶ)の「寛政の改革」に於ける政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持される事となった。


老中失脚後の定信(さだのぶ)は、白河藩の藩政に専念する。

白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信(さだのぶ)は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。

また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。

定信(さだのぶ)の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。

ところが、寛政の改革の折に定信(さだのぶ)が提唱した江戸湾警備が千八百十年(文化七年年)に実施に移されることになる。

最初の駐屯は主唱者とされた定信(さだのぶ)の白河藩に命じられる事となり、これが白河藩の財政を圧迫した。

千八百十二年(文化九年)、定信(さだのぶ)は家督を長男の定永(さだなが)に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。

定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。

桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。

ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった息子・定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図った。

その為に、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄・堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある。


千八百二十九年(文政十二年)の一月下旬から定信(さだのぶ)は風邪をひき、二月三日には高熱を発した。

この風邪の療養中、江戸は大火にみまわれて、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼した。

定信(さだのぶ)は避難する事となるが、避難する際に定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送された。


屋敷の焼失により、定信(さだのぶ)は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、手狭のため四月十八日に松山藩の三田の中屋敷に移った。

この仮屋敷の中で病床にあった定信(さだのぶ)は家臣らと歌会を開き、嫡子の定永(さだなが)と藩政に関して語り合った。

定信(さだのぶ)は、一時回復の兆しも見せる。

しかし、五月十三日の八つ時(午後二時)頃から呻き声をあげ始め、七つ時頃(申の刻、午後四時)に医師が診察する中で、急に脈拍が変わり、七十二歳で死去した。


詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-05-08 21:17 | Comments(0)  

江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)と韮山反射炉(にらやまはんしゃろ)

明治維新の少し前、米国使節マシュー・ペリーや、ロシア使節プチャーチン一の来航に危機感を抱いた幕臣も数多く居た。

その中でも中心的役割を果たしたのが江川太郎左衛門・英龍(えがわたろうざえもん・ひでたつ)である。

江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)とは伊豆国田方郡韮山(静岡県伊豆の国市韮山町)を本拠とした江戸幕府の世襲代官である。

江川家の始祖は、清和源氏源経基の孫・源頼親でありこの血統は大和源氏と呼ばれた。

初め宇野氏を名乗り、伊豆には九代・親信の代・平安末期に移住した中世以来の名家である。

平安末期、宇野治長(うのはるなが)が源頼朝の伊豆挙兵を助けた功で江川荘を安堵されたことにより、領域支配が確定した。

その後鎌倉幕府後北条氏など、その時代の支配者に仕え、本拠地・江川荘を持って宇野姓から江川姓に名乗りを変える。

二十八代・江川英長は、たびたび北条氏直の使いにて岡崎の徳川家康目通(めどお)りしている。

家康と昵懇(じっこん)になるも同僚・笠原隼人が北条氏直に讒言(ざんげん)した為、これを斬り、三河の家康の下に走る。

のち北条氏直に許され、家康の次女・督姫(とくひめ)が氏直に嫁ぐときに従い韮山に 帰る。

千五百九十年(天正十八年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、江川家二十八代・英長は北条氏を寝返って徳川家康に従い、その功により代官に任ぜられた。

以降江川家は、享保八年- 宝暦八年の三十五年間を除き、明治維新まで相模・伊豆・駿河・甲斐・武蔵の天領五万四千石分(後二十六万石に膨れ上がる)の代官として、民政に当たった。


この有力代官・江川家は大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄で、太郎左衛門(たろざえもん)とは江川家の代々の当主の世襲通称である。

中でも三十六代当主・江川英龍(えがわひでたつ)が著名で、この欄の太郎左衛門は主に英龍(ひでたつ)を指す事とする。

父・英毅(ひでたけ)が長命だった為に英龍(ひでたつ)が代官職を継いだのは、三十五歳の時とやや遅い千八百三十五年(天保六年)の事である。

元服から代官職を継ぐ間の英龍(ひでたつ)は、やや悠々自適に過ごしていた。

英龍(ひでたつ)は、時に江戸に遊学して岡田十松に剣を学び、同門の斎藤弥九郎と親しくなり、彼と共に代官地の領内を行商人の姿で隠密に歩き回ったりしている。

英龍(ひでたつ)が正体を隠していたのは、甲斐国では千八百三十六年(天保七年)八月に甲斐一国規模となった天保騒動の影響や博徒(甲州博徒)が横行していた為の「甲州微行」だった。

その後も同門の友人・斎藤弥九郎との関係は終生続いた。

父・英毅(ひでたけ)は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られる。

英龍(ひでたつ)も施政の公正に勤め、二宮尊徳(にのみやそんとく)を招聘して農地の改良などを行った。

英龍(ひでたつ)は日本で初めてパンを焼いたとされ、製パン業界では「パン祖」とされている。

また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。

こうした領民を思った英龍(ひでたつ)の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。

現在に至っても彼の地元・韮山では江川英龍(えがわひでたつ)へ強い愛着を持っている事が伺われる。


江戸時代で最も文化が爛熟したといわれる文化年間以降、日本近海に外国船がしばしば現れ、ときには薪水を求める事態も起こっていた。

幕府は異国船打払令を制定、基本的に日本近海から駆逐する方針を採っていたが千八百三十七年(天保八年)、モリソン号事件が発生する。

浦賀沖に現れたアメリカの商船「モリソン号」に対し、幕府の「異国船打払令」を適用した浦賀奉行は、小田原藩と川越藩に命じて砲撃を敢行する。

この砲撃、沿岸備砲は旧式ばかりで沖合に停泊していたモリソン号には全く届かず、海防装備に於ける大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さも鮮明となり、新型大砲の鋳造が急がれた。

英龍(ひでたつ)としても代官としての管轄区域には伊豆・相模沿岸の太平洋から江戸湾への入り口に当たる海防上重要な地域が含まれており、この問題に大きな関心と危機感を持った。

こうした時期に川路聖謨(かわじとしあきら)・羽倉簡堂(はくらかんどう)の紹介で英龍(ひでたつ)は渡辺崋山(わたなべかざん)高野長英(たかのちょうえい)ら尚歯会の人物を知る事になる。

渡辺崋山(わたなべかざん)らはモリソン号の船名から当該船は英国要人が乗っている船であるとの事実誤認を犯していた。

だが、それだけに英龍(ひでたつ)の危機意識は一層高いものとなり、海防問題を改革する必要性を主張した。

ところが当時の状況を見れば肝心の沿岸備砲は旧式ばかりで、砲術の技術も多くの藩では古来から伝わる和流砲術が古色蒼然として残るばかりであった。

尚歯会は洋学知識の積極的な導入を図り、英龍(ひでたつ)は彼らの中にあって積極的に知識の吸収を行った。

そうした中で英龍(ひでたつ)と同様に自藩(三河国田原藩)に海防問題を抱える渡辺崋山(わたなべかざん)は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆(たかしましゅうはん)の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。

しかし、幕府内の蘭学を嫌う目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)ら保守勢力がこの動きを不服とした。

特に鳥居耀蔵(とりいようぞう)からすれば過去に英龍(ひでたつ)と江戸湾岸の測量手法を巡って争った際に、渡辺崋山(わたなべかざん)の人脈と知識を借りた英龍(ひでたつ)に敗れ、老中・水野忠邦(みずのただくに)に叱責された事が在る。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)は、職務上の同僚で目の上のたんこぶである英龍(ひでたつ)、そして彼のブレーンとなっていた渡辺崋山(わたなべかざん)らが気に入らなかった。

千八百三十九年(天保十年)、ついに鳥居耀蔵(とりいようぞう)は「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」を越して冤罪をでっち上げ、渡辺崋山(わたなべかざん)・高野長英(たかのちょうえい)らを逮捕し、尚歯会を事実上の壊滅に追いやった。

しかし英龍(ひでたつ)は彼を高く評価する老中・水野忠邦(みずのただくに)に庇(かば)われ、罪に落とされなかったというのが通説である。

だが近年の研究では、この通説否定する説も浮上している。

否定説に依ると、英龍(ひでたつ)とは高野長英(たかのちょうえい)は面識がなく、また渡辺崋山(わたなべかざん)と簡堂の接点も不明である。

そして、崋山(かざん)と秋帆(しゅうほう)も「面識はなかった」と伝えられている。

崋山(かざん)・長英(ちょうえい)らはいずれも内心鎖国の撤廃を望んでいたが、幕府の鎖国政策を批判する危険性を考えて崋山(かざん)は海防論者を装っていた。

崋山(かざん)が所属していた田原藩の海防も、助郷返上運動のための理由づけとして利用されただけだった。

海防論者である英龍(ひでたつ)は崋山(かざん)を海防論者と思って接触し、逆に崋山(かざん)はそれを利用して英龍(ひでたつ)に海防主義の誤りを啓蒙しようとした。

やがて英龍(ひでたつ)も崋山(かざん)が期待したような海防論者ではないことを悟ったとみられる。

幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、韮山反射炉である。


また、江戸湾巡視の際に鳥居耀蔵(とりいようぞう)と英龍(ひでたつ)の間に対立があったのは確かだ。

だが、もともと鳥居耀蔵(とりいようぞう)と英龍(ひでたつ)は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、耀蔵(ようぞう)が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いている。

幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、江川家の韮山反射炉である。

図式で言ってしまえば、既存する徳川政権の維持を最優先した鳥居耀蔵(とりいようぞう)と、それでは時代に即さないとする蘭学者・渡辺崋山(わたなべかざん)との勢力争いだった。

その図式で言えば、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)英龍(ひでたつ)は国防の為に大砲の制作を心がけ韮山に反射炉を作成を意図したのであり、鳥居耀蔵(とりいようぞう)の危惧した幕府批判とは全く違う。


「蛮社の獄」に際しても鳥居耀蔵(とりいようぞう)は英龍(ひでたつ)を標的とはしておらず、英龍(ひでたつ)は「蛮社の獄」とは無関係だとしている。

なお、尚歯会の会員で処罰を受けたのは渡辺崋山(わたなべかざん)と高野長英(たかのちょうえい)のみで、尚歯会自体は弾圧は受けていない。


その「蛮社の獄」の後、英龍(ひでたつ)は長崎へと赴いて高島秋帆(たかしましゅうはん)に弟子入りし(同門に下曽根信敦)、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。

これが実現し、英龍(ひでたつ)は老中・水野忠邦(みずのただくに)より正式な幕命として高島秋帆(たかしましゅうはん)への弟子入りを認められる。

以後、英龍(ひでたつ)は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、全国の藩士にこれを教育した。

佐久間象山・大鳥圭介・橋本左内・桂小五郎(後の木戸孝允)など、そうそうたる人材が英龍(ひでたつ)の門下で学んでいる。

英龍(ひでたつ)は千八百四十三年(天保十四年)に水野忠邦(みずのただくに)が失脚した後に老中となった阿部正弘(あべまさひろ)にも評価される。

千八百五十三年(嘉永六年)、英龍(ひでたつ)はペリー来航直後に勘定吟味役格に登用され、老中・阿部正弘(あべまさひろ)の命で台場を築造した。

同様に英龍(ひでたつ)は、反射炉も作り、銃砲製作も行った。

現在も伊豆韮山(静岡県)に、英龍(ひでたつ)が計画し、跡を継いだ息子の江川英敏(えがわひでとし=世襲・太郎左衛門/たろうざえもん)が築いた反射炉跡が残っている。

英龍(ひでたつ)の跡を継いだ子息・英敏(えがわひでとし=世襲・太郎左衛門/たろうざえもん)は、反射炉を活用して大砲を鋳造した他、江戸幕府の命により韮山形(にらやまがた)と呼ぶ型式の西洋式軍艦を建造している。

「韮山反射炉は、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)が造った」で正解なのだが、太郎左衛門は江川家代々の襲名だから、実は英龍(ひでたつ)と英敏(ひでとし)の親子二代で造った事が、一人で造ったと誤解されている。

幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、韮山反射炉である。

図式で言ってしまえば、既存する徳川政権の維持を最優先した鳥居耀蔵(とりいようぞう)と、それでは時代に即さないとする蘭学者・渡辺崋山(わたなべかざん)との勢力争いだった。

その図式で言えば、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)英龍(ひでたつ)は国防の為に大砲の制作を心がけ韮山に反射炉を作成を意図したのであり、鳥居耀蔵(とりいようぞう)の危惧した幕府批判とは全く違う。


韮山反射炉は、伊豆の国市中字鳴滝入に現存している反射炉の遺跡で、近代化産業遺産群の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される。

日本に現存する近世の反射炉は、この韮山反射炉と萩反射炉(山口県萩市)のみであるため貴重な遺構とされる。


英龍(ひでたつ)は勘定吟味役格に登用されたが、近年の説では老中・正弘正弘(あべまさひろ)は海防強化には終始消極的だったとされる。

水野忠邦(みずのただくに)が罷免され、阿部正弘(あべまさひろ)が老中として実権を握ると、海防強化策は撤回され英龍(ひでたつ)も鉄砲方を解任されている。

品川沖台場の築造も翌千八百五十四年(嘉永七年)に日米和親条約が調印されると、予定十一基のうち五基が完成しただけで工事の中止が決定されている。

英龍(ひでたつ)は造船技術の向上にも力を注ぎ、更に当時日本に来航していたロシア使節プチャーチン一行への対処の差配に当たる。

そうした諸般の任に加え、英龍(ひでたつ)は爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図した。

しかし、あまりの激務に体調を崩し、英龍(ひでたつ)は千八百五十五年(安政二年)一月十六日に満五十三歳で病死している。


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by mmcjiyodan | 2015-05-06 14:13 | Comments(0)  

渡辺崋山(わたなべかざん)

渡辺崋山(わたなべかざん)は、江戸時代後期の武士、画家で、三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)の藩士であり、のち家老となった。

父・渡辺定通は江戸詰(定府)の田原藩士で、崋山(かざん)は長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区)の田原藩邸で生まれた。

渡辺家は田原藩(三宅家)で上士の家格を持ち、代々百石の禄を与えられていたが、父・定通が養子である事から十五人扶持(田原藩では二十七石)に削られていた。

藩の財政難による更なる減俸で実収入はわずか十二石足らずとなり、父・定通が病気がちで医薬費がかさみ、渡辺家は困窮していた。

崋山(かざん)には画才が在り、絵を売って生計を支えるようになる。

さらに崋山(かざん)は、画家・谷文晁(たにぶんちょう)に入門し、絵の才能が大きく花開き、二十代半ばには画家として著名となり、家計は安定する。


田原藩士としての崋山(かざん)は、八歳で時の藩主・三宅康友の嫡男・亀吉の伽役(とぎやく/遊び相手)を命じられるも、嫡男・亀吉は夭折(ようせつ/幼くして亡くなる)する。

嫡男・亀吉の夭折(ようせつ)後もその弟・元吉(後の藩主・三宅康明)の伽役(とぎやく)となり、藩主・康友からも目をかけられるなど、崋山(かざん)は幼少時から藩主一家とごく近い位置に在った。

崋山(かざん)は十六歳で正式に藩の江戸屋敷に出仕、そのお役は納戸役・使番等など、藩主にごく近い役目だった。

千八百二十三年(文政六年)、崋山(かざん)は田原藩の和田氏の娘・たかと結婚する。

千八百二十五年(文政八年)には父・定通の病死の為、崋山(かざん)は三十二歳で家督を相続し、家禄八十石を引き継いだ。

しかし相続間もない千八百二十五年(文政十年)、伽役(とぎやく)を務めて親しかった藩主・康明が二十八歳の若さで病死してしまう。

藩首脳部は貧窮する藩財政を打開する為、当時裕福で在った姫路藩(酒井氏)から養子を持参金付きで迎えようとする。

崋山(かざん)はこれに強く反発し、用人の真木定前らとともに康明の異母弟・友信の擁立運動を行った。

結局藩上層部の意思が通って養子・康直が藩主となるも、崋山(かざん)らは藩首脳部と姫路藩双方と交渉して後日に三宅友信の男子と康直の娘を結婚させ、生まれた男子(のちの三宅康保)を次の藩主とする事を承諾させている。

更に藩首脳部は、崋山(かざん)ら反対派の慰撫の目的もあって、友信に前藩主の格式を与え、巣鴨に別邸を与えて優遇する。

崋山(かざん)は友信の側用人として親しく接する事となり、後に崋山が多くの蘭学書の購入を希望した際には友信が快く資金を出す事もあった。

絵画ですでに名を挙げていた崋山(かざん)は、藩政の中枢にはできるだけ近よらずに画業に専念したかったようだが、その希望はかなわず年寄役末席(家老職)に就任する。

家老職就任は崋山(かざん)三十九歳、千八百三十二年(天保三年)の事だった。

崋山(かざん)は優秀な藩士の登用と士気向上の為、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図り、藩政改革に尽力する。

崋山(かざん)は藩の助郷免除嘆願の為に海防政策を口実として利用した。

よって田原藩は幕府や諸藩から海防への取り組みを高く評価されたが、それは助郷免除嘆願の為の隠れ蓑で、崋山(かざん)自身は開国論を持っており、本音は鎖国・海防に反対だった。


崋山(かざん)は紀州藩儒官・遠藤勝助が設立した尚歯会に参加し、高野長英(たかのちょうえい)などと飢饉の対策について話し合う。

この成果として高野長英(たかのちょうえい)はジャガイモ(馬鈴薯)とソバ(早ソバ)を飢饉対策に提案した「救荒二物考」を上梓する。

絵心のある崋山(かざん)が、その「救荒二物考」の挿絵を担当している。

その後、この学問会は千八百三十七年(天保八年)のモリソン号事件とともにさらなる広がりを見せる。

蘭学者の高野長英や小関三英、幡崎鼎、幕臣の川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍(太郎左衛門)などが加わり、海防問題などまで深く議論するようになった。

特に江川英龍(えがわひでたつ)は崋山(かざん)に深く師事するようになり、幕府の海防政策などへの助言を受けたとされている。

しかし近年の研究では、幡崎・川路・羽倉・江川は尚歯会に参加しておらず、崋山と川路・江川が個人的に親交を持っていただけだったとする説も在る。

崋山(かざん)や高野長英、小関三英は、内心では鎖国の撤廃を望んでいた。

つまり崋山(かざん)は、幕府の鎖国政策に反対する危険性を考えて海防論者を装っていた。

江川英龍(えがわひでたつ)は崋山(かざん)を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川に海防論の誤りを啓蒙しようとしていた。

千八百三十八年(天保九年)にモリソン号事件を知った崋山(かざん)や高野長英(たかのちょうえい)は幕府の打ち払い政策に危機感を持ち、崋山はこれに反対する「慎機論」を書いた。

但し崋山(かざん)は、田原藩の年寄と言う立場上幕府の対外政策を批判できなかった。

崋山(かざん)は提出を取りやめ草稿のまま放置していた。

だが、この反故にしていた崋山(かざん)の原稿が約半年後の「蛮社の獄」に於ける家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされる事になる。

「蛮社の獄」は、幕府の保守派、目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)が蘭学者を嫌って起こした事件とされていたが、これは明治の新聞記者・藤田茂吉(ふじたもきち)がこれを自由民権運動との連想で書いた為だった。

実際には、鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)との確執が「蛮社の獄」の原因である。

千八百三十九年(天保十年)五月、鳥居耀蔵(とりいようぞう)は江川英龍(えがわひでたつ)とその仲間を罪に落とそうとした。

江川英龍(えがわひでたつ)は老中・水野忠邦(みずのただくに)にかばわれて無事だったが、崋山(かざん)は家宅捜索の際に、崋山(かざん)が発表を控えていた「慎機論」を発見される。

崋山(かざん)は陪臣の身で国政に容喙したと言う事で、三河国田原に蟄居する事となったと言うのが通説である。

この通説が在るものの、近年の研究では、江戸湾巡視の際に鳥居耀蔵(とりいようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)の間に対立があったのは確かだが、元々、鳥居と江川は以前から昵懇の間柄だった。

その鳥居と江川の両者の親交は江戸湾巡視中や「蛮社の獄」の後も、鳥居が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いていて、両者に確執に求めるのは誤りであるともされる。

千八百四十一年(天保十二年)、田原の池ノ原屋敷で謹慎生活を送る崋山一家の貧窮ぶりを憂慮した門人・福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てる事となった。

ところが、崋山(かざん)が生活の為に絵を売っていた事が幕府で問題視されたとの風聞が藩内に立つ。

この風聞、一説には藩内の反崋山派による策動とされているが、藩に迷惑が及ぶ事を恐れた崋山(かざん)は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて四十八歳で切腹した。


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by mmcjiyodan | 2015-05-06 14:03 | Comments(0)  

高野長英(たかのちょうえい)

高野長英(たかのちょうえい)は、千八百四年(文化元年)五月五日陸奥国仙台藩の一門である水沢領主・水沢伊達氏家臣・後藤実慶の子として生まれる。

養父は叔父・高野玄斎で、玄斎は江戸で杉田玄白(すぎたげんぱく)に蘭法医術を学んだ事から家には蘭書が多く、長英も幼い頃から新しい学問に強い関心を持つようになった。

千八百二十年(文政三年)、長英(ちょうえい)は江戸に赴き杉田伯元(すぎたげんぱく)や吉田長淑に師事する。

この江戸生活で長英(ちょうえい)は吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。

千八百二十年(文政三年)、長英(ちょうえい)は父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となっている。

千八百二十八年(文政十一年)シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英(ちょうえい)はこのとき巧みに逃れている。

シーボルト事件から間もなく、異説もあるが、長英(ちょうえい)は豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという。

この間、義父・玄斎が亡くなっており、長英(ちょうえい)は故郷から盛んに帰郷を求められる。

長英(ちょうえい)は逡巡したものの終(つい)に拒絶して家督を捨て、同時に武士の身分を失っている。

千八百三十年(天保元年)長英(ちょうえい)は江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業する。

江戸開塾間もなく、長英(ちょうえい)は三河田原藩重役・渡辺崋山(わたなべかざん)と知り合う。

長英(ちょうえい)はその能力を買われ、田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。

長英(ちょうえい)らは、わが国で初めてピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロック、ヴォルフに至る西洋哲学史を要約する。

千八百三十二年(天保三年)、長英(ちょうえい)は紀州藩儒官・遠藤勝助が主宰する天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入る。

長英(ちょうえい)は「救荒二物考」などの著作を表し渡辺崋山(わたなべかざん)や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。


千八百三十七年(天保八年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きる。

翌千八百三十八年(天保九年)にこれを知った際、長英(ちょうえい)は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。

同千八百三十八年(天保九年)、長英(ちょうえい)はそうした意見をまとめた「戊戌夢物語」を著し、内輪で回覧に供した。

但しこの本「戊戌夢物語」は、長英(ちょうえい)の想像を超えて多くの学者の間で出回っている。

千八百三十九年(天保十年)目付・南町奉行・鳥居耀蔵(とりいようぞう)が主導する「蛮社の獄」が勃発する。

長英(ちょうえい)も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監される。

但しこの時、長英(ちょうえい)は捕らえられたのではなく、奉行所に自ら出頭した説もある。

長英(ちょうえい)は牢内で服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。

これらの行動と親分肌の気性から、長英(ちょうえい)は牢名主として祭り上げられるようになった。千八百四十四年(弘化元年)六月三十日、長英(ちょうえい)は牢屋敷の火災に乗じて脱獄する。

この牢屋敷火災、長英(ちょうえい)が牢で働いていた非人・栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。

脱獄の際、受牢者は三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けた。

だが、長英(ちょうえい)はこの警告を無視し、再び牢に戻って来る事はなかった。

脱獄後の詳しい経路は不明ながらも、長英(ちょうえい)は硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続ける。

長英(ちょうえい)は、一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死する。

その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。

しかし、この生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻り、長英(ちょうえい)は沢三伯の偽名を使って町医者を開業する。

医者になれば人と対面する機会が多くなる為、その中の誰かに長英(ちょうえい)と見破られる事も十分に考えられた。

千八百五十年(嘉永三年)十月三十日江戸の青山百人町(現在の南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛される。

現場にいたある捕手役人の覚書によると、何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だった為、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命した。

しかし奉行所に提出された報告書によれば、長英(ちょうえい)は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。

長英(ちょうえい)は江戸に於いて勝海舟と会談、もしくは勝に匿ってもらったと言う話も、確証はないが伝えられている。

高野長英(たかのちょうえい)の最後は、四十六歳の非業の死だった。


詳しくは、関連小論【黒船前夜・松陰が学んだ日本の危機】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-05-06 13:51 | Comments(0)  

高島秋帆(たかしましゅうはん)

洋式砲術家・高島秋帆(たかしましゅうはん)は、千七百九十八年(寛政十年)長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。

秋帆(しゅうはん)の先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔を名乗っている。

千八百十四年(文化十一年)、秋帆(しゅうはん)は父・茂起の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。

当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であった為、そこで育った秋帆(しゅうはん)は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然となる。

秋帆(しゅうはん)は出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え千八百三十四年(天保五年)に高島流砲術を完成させた。

この年に肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門すると、翌千八百三十五年(天保六年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。

その後、秋帆(しゅうはん)は清国がアヘン戦争でイギリスに敗れた事を知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える「天保上書」という意見書を提出する。

千八百四十一年(天保十二年)、秋帆(しゅうはん)は武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。

この演習の結果、秋帆(しゅうはん)は幕府からは砲術の専門家として重用され、阿部正弘(あべまさひろ)からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。

秋帆(しゅうはん)は江戸末期の砲術家、高島流砲術の創始者(流祖)として「火技之中興洋兵之開祖」と号す事を認めらる。

幕命により、秋帆(しゅうはん)は江川英龍(えがわひでたつ)や下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、更にその門人へと高島流砲術は広まった。

しかし、翌千八百四十二年(天保十三年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に、秋帆(しゅうはん)は逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。

幕府から重用される事を妬んだ鳥居耀蔵(とりいようぞう)の「密貿易をしている」という讒訴(ざんそ)によるというのが通説である。

だが、秋帆(しゅうはん)の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害する事を恐れた老中・水野忠邦(みずのただくに)によって行われたものとする説もある。

秋帆(しゅうはん)は、武蔵国岡部藩にて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。


千八百五十三年(嘉永六年)、ペリー来航による社会情勢の変化により秋帆(しゅうはん)は赦免されて出獄する。

秋帆(しゅうはん)は、幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする「嘉永上書」を幕府に提出する。

攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配及び師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。

その後秋帆(しゅうはん)は、千八百六十六年(慶応二年)まで生き六十九歳で死去した。


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by mmcjiyodan | 2015-05-06 13:37 | Comments(0)  

鳥居耀蔵(とりいようぞう)

鳥居耀蔵(とりいようぞう)は江戸時代の幕臣、旗本で、耀蔵(ようぞう)は通称、諱は忠耀(ただてる)である。

耀蔵(ようぞう)の実父は、大学頭を務めた江戸幕府儒者の林述斎(はやしじゅっさい)である。

耀蔵(ようぞう)の父方の祖父・松平乗薀(のりもり)は小さいながらも大名で、美濃岩村藩三万石の第三代藩主だった。

耀蔵(ようぞう)は旗本・鳥居成純の長女・登与の婿として鳥居家の養嗣子となり、鳥居家を継ぐ。

耀蔵(ようぞう)の弟に日米和親条約の交渉を行った林復斎が、甥に同じく幕末の外交交渉に当たった岩瀬忠震、堀利煕がいる。

千九百七十六年(寛政八年)十一月二十四日、耀蔵(ようぞう)は林述斎(はやしじゅっさい/林衡)の三男(四男説もある)として生まれる。

生母の前原氏は、側室であった。

千八百二十年(文政三年)、耀蔵(ようぞう)は二十五歳の時に旗本・鳥居成純の婿養子となって家督を継ぎ、二千五百石を食む身分となる。

そして十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の側近として仕えた。

やがて家斉(いえなり)が隠居して徳川家慶(とくがわいえよし)が十二代将軍となる。

耀蔵(ようぞう)は老中である水野忠邦(みずのただくに)の「天保の改革」の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。

耀蔵(ようぞう)は、渋川敬直、後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれる。

千八百三十八年(天保九年)、耀蔵(ようぞう)は江戸湾測量を巡って江川英龍(えがわひでたつ)と対立する。

この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになる。

耀蔵(ようぞう)は、翌年の「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」で渡辺崋山(わたなべかざん)高野長英(たかのちょうえい)ら蘭学者を弾圧する遠因となる。

だが近年の研究では、耀蔵(ようぞう)は単なる蘭学嫌いでは無かった事が明らかとなっている。

千八百四十三年(天保十四年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷の書とても、専ら御採用相成」と主張して反対している。

つまり耀蔵(ようぞう)は、蘭学の実用性をある程度認めていた事が判明している。

また、江戸湾巡視の際に耀蔵(ようぞう)と、江川英龍(えがわひでたつ)の間に対立があったのは確かである。

だが、元々耀蔵(ようぞう)と江川英龍(えがわひでたつ)は以前から昵懇の間柄である。

両者の親交は江戸湾巡視中や「蛮社の獄」の後も、耀蔵(ようぞう)が失脚する千八百四十四年(弘化元年)まで続いていた。


権力にしがみ付きたい現体制派の人間と、もぅ時代環境が次の体制を求めている事に気がついた革新派の人間との軋轢は、どの時代にも存在する。

鳥居耀蔵(とりいようぞう)が仕掛けた「蛮社の獄」は、井伊直弼(いいなおすけ)が仕掛けた「安政の大獄」の前段として起こされた弾圧事件だった。

図式で言ってしまえば、既存する徳川政権の維持を最優先した鳥居耀蔵(とりいようぞう)と、それでは時代に即さないとする蘭学者・渡辺崋山(わたなべかざん)との勢力争いだった。

その図式で言えば、江川太郎左衛門(えがわたろざえもん)英龍(ひでたつ)は国防の為に大砲の制作を心がけ韮山に反射炉を作成を意図したのであり、鳥居耀蔵(とりいようぞう)の危惧した幕府批判とは全く違う。

幕末期、江戸お台場地区に渡来外国船対策に鋳造された大砲の鋼鉄を生産した溶鉱炉が、太郎左衛門(たろざえもん)の韮山反射炉である。


実は耀蔵(ようぞう)は、江戸湾巡視や「蛮社の獄」の一年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めていた。

耀蔵(ようぞう)の危惧するところは、蘭学者の一部が幕政を批判する事で世論が倒幕に向かう事、或いは蘭学者の一部が外来船に内通する事を恐れたのではないか?

「蛮社の獄」は「戊戌夢物語」の著者の探索に事よせて「蘭学にて大施主」と噂されていた渡辺崋山(わたなべかざん)を町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪する。

更に、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を、耀蔵(ようぞう)が企図して起こしたとしている。

千八百四十一年(天保十二年)、耀蔵(ようぞう)は南町奉行・矢部定謙を讒言(ざんげん)により失脚させ、その後任として南町奉行となる。

矢部家は改易、矢部定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。

天保の改革に於ける耀蔵(ようぞう)の市中取締りは非常に厳しかった。

おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていた為、当時の人々からは「蝮(マムシ)の耀蔵」、或いははその名をもじって「妖怪」とあだ名され、忌み嫌われた。

「妖怪」とは、耀蔵(ようぞう)の官位と通称の甲斐守耀蔵を「耀蔵・甲斐守」と反転させた上省略して呼んだものと言う。

この時期に北町奉行だった遠山景元(とうやまかげもと/金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図る。

すると、耀蔵(ようぞう)は水野忠邦(みずのただくに)と協力し、遠山景元(とうやまかげもと)を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させる。

但しその遠山景元(とうやまかげもと)は、耀蔵(ようぞう)の失脚後に南町奉行として復帰している。

千八百四十三年(天保十四年)に、耀蔵(ようぞう)は勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。

清国で起こったアヘン戦争後、列強の侵略の危機感から、江川英龍(えがわひでたつ)高島秋帆(たかしましゅうはん)らは洋式の軍備の採用を幕府に上申し、採用される。

だが、終始蘭学反対の立場にあった耀蔵(ようぞう)は快く思わなかった。

耀蔵(ようぞう)は、手下の本庄茂平次ら密偵を使い、姻戚関係にあった長崎奉行・伊沢政義と協力して、高島秋帆(たかしましゅうはん)の落とし入れを図る。

耀蔵(ようぞう)は赴任前の伊沢政義と事前に相談して自分の与力を伊沢に付き従えさせるなどし、高島秋帆(たかしましゅうはん)に密貿易や謀反の罪を着せた。

長崎で逮捕され、小伝馬町の牢獄に押し込められた高島秋帆(たかしましゅうはん)に、耀蔵(ようぞう)が自ら取り調べにあたるなどして進歩派を恐れさせた。

だがこれも近年の研究では、長崎会所の長年に渡る杜撰(ずさん)な運営の責任者として高島秋帆(たかしましゅうはん)は処罰されたのである。

高島秋帆(たかしましゅうはん)の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害する事を恐れた水野忠邦(みずのただくに)によって行われたものとする説がある。

改革末期に水野忠邦(みずのただくに)が上知令の発布を計画し、これが諸大名・旗本の猛反発を買った際に耀蔵(ようぞう)が反対派に寝返る。

耀蔵(ようぞう)は老中・土井利位(どいとしつら)に機密資料を残らず横流しした。

やがて「天保改革」は頓挫し、水野忠邦(みずのただくに)は老中辞任に追い込まれてしまうが、耀蔵(ようぞう)は従来の地位を保った。

ところが半年後の千八百四十四年(弘化元年)、外交問題の紛糾から水野忠邦(みずのただくに)が再び老中として将軍・家慶(いえよし)から幕政を委ねられると状況は一変する。

老中に再任された水野忠邦(みずのただくに)は、自分を裏切り改革を挫折させた耀蔵(ようぞう)を許さず、更に仲間の渋川、後藤の裏切りも在った。

同千八百四十四年(弘化元年)九月に耀蔵(ようぞう)は職務怠慢、不正を理由に解任される。

翌千八百四十五年(弘化二年)二月二十二日に有罪とされ、全財産没収の上で肥後人吉藩主・相良長福に預けられると決定する。

しかし同千八百四十五年(弘化二年)四月二十六日に、耀蔵(ようぞう)は出羽岩崎藩主・佐竹義純に預け替えになった。

それも変更され、結局、耀蔵(ようぞう)は十月三日に讃岐丸亀藩主・京極高朗に預けられる。

同日、渋川敬直も豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、後藤三右衛門は斬首された。

長崎奉行・伊沢政義も長崎奉行を罷免されて西丸留守居に左遷され、水野忠邦(みずのただくに)自身も再び老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居から隠居となる。

その後、水野家は出羽国山形藩に転封されている。

これの処断以降、耀蔵(ようぞう)は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、二十年以上お預けの身として軟禁状態に置かれた。

讃岐丸亀での耀蔵(ようぞう)には昼夜兼行で監視者が付き、使用人と医師が置かれた。

耀蔵(ようぞう)への監視は厳しく、時には私物を持ち去られたり、一切無視されたりする事も在った。

それでもお預けの身分の耀蔵(ようぞう)は自らの健康維持のみならず、領民への治療を行い慕われた。

耀蔵(ようぞう)は幕府儒者・林家の出身で在った為学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、彼らから崇敬を受けていた。

このように、軟禁されていた時代の耀蔵(ようぞう)は、「妖怪」と渾名され嫌われた奉行時代とは対照的に、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝されていた。

丸亀にいた間に、耀蔵(ようぞう)が食べたビワの種を窓から投げ捨てていたら、「彼が去る際に立派な大木に育っていた」と勝海舟(かつかいしゅう)が記している。

江戸幕府滅亡前後は、耀蔵(ようぞう)へ監視もかなり緩み、耀蔵(ようぞう)は病と戦いながら様々な変化を見聞している。

耀蔵(ようぞう)は明治政府による恩赦で、千八百六十八年(明治元年)十月に幽閉を解かれた。

しかし耀蔵(ようぞう)は「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府、丸亀藩を困らせた。

耀蔵(ようぞう)は東京と改名された江戸に戻って、しばらく居住していたが、千八百七十年(明治三年)、郷里の駿府(現在の静岡市)に移住を決意する。

この際、実家である林家を頼ったが、既に林家には彼を見知っているものが一人もいなかったと言う。

千八百七十二年(明治五年)に、耀蔵(ようぞう)は東京に戻る。

江戸時代とは様変わりした状態を耀蔵(ようぞう)は「自分の言う通りにしなかったから、こうなったのだ」と憤慨していた。

耀蔵(ようぞう)の晩年は知人や旧友の家を尋ねて昔話をする様な平穏な日々を送り、千八百七十三年(明治六年)十月三日、多くの子や孫に看取られながら七十八歳で亡くなった。


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by mmcjiyodan | 2015-05-06 13:19 | Comments(0)  

水野忠邦(みずのただくに)と天保の改革

水野忠邦(みずのただくに)は、千七百九十四年(寛政六年)六月二十三日、唐津藩第三代藩主・水野忠光の次男として生まれる。

忠邦(ただくに)は長兄の芳丸が早世した為、千八百五年(文化二年)に唐津藩の世子となり、二年後の千八百七年(文化四年)に第十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)と世子・家慶(いえよし)に御目見する。

忠邦(ただくに)は、千八百十二年(文化九年)に父・忠光が隠居した為、水野氏の家督を相続する。

忠邦(ただくに)は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、千八百十六年(文化十三年)に奏者番となる。

奏者番(そうじゃばん)は、大名や旗本が将軍に謁見するとき,姓名や進物を披露し,下賜物を伝達する取次ぎの役である。

忠邦(ただくに)は奏者番(そうじゃばん)以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負う事から唐津藩主では昇格に脈が無いと知る。

翌千八百十七年(文化十四年)九月、忠邦(ただくに)は家臣の諫言を押し切って、実封二十五万三千石の唐津藩から実封十五万三千石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させる。

この国替顛末に絡み、水野家々老・二本松義廉が忠邦(ただくに)に諌死をして果てている。

また唐津藩から一部天領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作の為の賄賂として使われたのではないかと言う疑念が生まれた。

この召し上げ天領、年貢の取立てが厳しかった事から、忠邦(ただくに)は後年までその地域の領民に恨まれている。

しかしこの国替えにより忠邦(ただくに)の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより同年に寺社奉行兼任となる。

忠邦(ただくに)が幕府の重臣となった事で、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。

その後、忠邦(ただくに)は将軍・家斉(いえなり)の下(もと)で頭角を現し、千八百二十五年(文政八年)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。

千八百二十六年(文政九年)に、忠邦(ただくに)は京都所司代となって侍従・越前守に昇叙し、文政十一年に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶(とくがわいえよし)の補佐役を務めた。

千八百三十四年(天保五年)に老中・水野忠成(みずのただあきら/沼津藩々主)が病没した為、忠邦(ただくに)は代わって本丸老中に任ぜられる。

忠邦(ただくに)は千八百三十七年(天保八年)に勝手御用掛を兼ね、千八百三十九年(天保十年)に老中首座となった。

忠邦(ただくに)は、異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす現状に心を痛めていた。

一方、年貢米収入が激減し、一方で大御所政治のなか、放漫な財政に打つ手を見出せない幕府にも、忠邦(ただくに)は強い危機感を抱いていたとされる。

しかし将軍・家斉(いえなり)の在世中は、天保の三侫人(さんねいじん)と総称される水野忠篤、林忠英、美濃部茂育をはじめ将軍・家斉(いえなり)側近が権力を握っており、忠邦(ただくに)は改革を開始できなかった。

千八百三十七年(天保八年)四月に徳川家慶(とくがわいえよし)が第十二代将軍に就任し、ついで千八百三十一年(天保十二年)閏一月の大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免する。

忠邦(ただくに)は、遠山景元、矢部定謙、岡本正成、鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門を登用して「天保の改革」に着手した。

「天保の改革」では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。

農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じる。

また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施した。

その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとった為、物価引下げとは相反する結果をもたらした。

腹心の遠山景元(とうやまかげもと/金四郎)は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に「遠山の金さん」として語り継がれた。

千八百四十三年(天保十四年)九月に、上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした。

その上、腹心の鳥居耀蔵(とりいようぞう)が上知令反対派の老中・土井利位(どいとしつら)に寝返って機密文書を渡すなどした為、忠邦(ただくに)は閏九月十三日に老中を罷免されて失脚した。

改革はあまりに過激で、忠邦(ただくに)は庶民の怨みを買ったとされ、失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃されている。

千八百四十四年(弘化元年)六月、江戸城本丸が火災により焼失する。

老中首座・土井利位(どいとしつら)は、その本丸再建費用を集められなかった事から将軍・家慶(いえよし)の不興を買った。

将軍・家慶(いえよし)は、同千八百四十四年(弘化元年)六月二十一日に外国問題の紛糾などを理由に忠邦(ただくに)を老中首座に再任した。

しかし忠邦(ただくに)は、重要な任務を任されるでもなく、欠勤、長期欠勤の後、千八百四十五年(弘化二年)に老中を辞職する。

老中・阿部正弘をはじめ、土井利位(どいとしつら)らは忠邦の再任に強硬に反対し、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居や後藤三右衛門らの疑獄の嫌疑が発覚し、忠邦(ただくに)は窮地に立つ。

同千八百四十五年(弘化二年)九月、忠邦(ただくに)は加増の内一万石・本地のうち一万石、合計二万石を没収されて五万石となる。

家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられ、まもなく出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。

なお、この転封に際して、領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとした為に領民が怒り、大一揆を起こすも、その一揆は、新領主の井上氏が調停して鎮めている。

山形転封から六年、忠邦(ただくに)は千八百五十一年(嘉永四年)二月十日、満五十六歳で死去した。


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