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大仙古墳(だいせんこふん)は仁徳天皇陵か?

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)とも呼ぶ大仙古墳(だいせんこふん)は、大阪府堺市堺区大仙町にある前方後円墳である。

大仙古墳(だいせんこふん)の墳丘長は日本最大で、墓域面積は世界最大であるとされ、周囲の古墳と共に百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)を構成している。

大仙古墳(だいせんこふん)は、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として第十六代・仁徳天皇の陵に【治定(考古学的矛盾あり)】され、「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも称されている。

つまり大仙古墳(だいせんこふん)は「記紀(古事記・日本書紀)」や「延喜式」などの記述により仁徳天皇の陵と【治定】されているが、確たる証拠はない。


日本の歴史を辿って調べて見ると、客観的に見て極めて人為的な「奇妙な違和感」が到る所に存在した。

その一つが聖徳太子(厩戸皇子/うまやどのみこ)の実在疑惑であり、もう一つがここでご紹介する仁徳大王(にんとくおおきみ・第十六代天皇)の存在である。

歴史学は、後世のその場に居合わせ無い者が、多くの情報の辻褄を合わせて推定する学問で、単純に「古文書に記載が在るから正しい」とするのは邪道の極みである。

なぜならば、古文書を代表する古事記日本書紀にしても、リアルにその時代に記述されたものでは無く、短くても二百年~百五十年間以上の時を経てから、天皇統治の正当性を証明すべく目的を持って編纂された物である。

にも拘(かかわ)らず、「歴史の説(記・紀神話の異説)」を書き記すと、多くの者が「どの文献からの引用か?」と問うて来る。

しかし残念な事に、当然古文書には為政者や利に関わる者の意志が繁栄され、歴史が捏造される事も少なくない。

大仙古墳(だいせんこふん)が、一般には「仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」とも呼ばれるが、「延喜式」などの記述とは大きく食い違がある。

百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇の三陵が築かれたとされ、実はどれが仁徳天皇陵かは認定できない為に「治定」と言う。

古文書の内要に疑義があれば、この「説の証拠」は「どの文献の由来(出典)」では無く、出来るだけ多くの事象の「辻褄を合わせての推測」なのだ。

つまり歴史現象を裏付ける事象の「辻褄を合わせ」が、数多く集中している条件こそが、推定される真実の歴史である。

仁徳大王(にんとくおおきみ・第十六代天皇)の父親が八幡神の応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)が、実在性が濃厚な最古の大王(天皇)とも言われる。

だが、応神大王(おうじんおおきみ)・仁徳大王(にんとくおおきみ)同一説が存在する。

同一説に付いては、仁徳大王(にんとくおおきみ)の事績の一部が父の応神天皇と重複・類似する事から、「元来は一人の天皇の事績を二人に分けて記述した」とする見方が学者間に存在する。


仁徳大王(にんとくおおきみ)の称号の根拠となっている「竈(かまど)から炊煙の善政」逸話は、大王(おおきみ)に「直接徴税権が無かった」と言う大きな矛盾がある。

仁政として知られる仁徳大王(おおきみ/天皇)は、「人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていない事に気づいて租税を免除し、その間は倹約の為に宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」と言う記紀の逸話を持つ大王(おおきみ/天皇)である。

こうした「善政の逸話」は多分にその人物の神格化の為に記紀(古事記・日本書紀)に於いて架空創作された内容である疑いが濃い。

なぜなら、記紀(古事記・日本書紀)に記載の逸話「民の竈(かまど)」で知られ、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約の為に「宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」と伝えられている。

しかしながら、当時の初期大和(やまと)朝廷王権の地方支配形態の現実を検証すれば、大王(おおきみ)には直接徴税権は無かった。

大王(おおきみ)大国主(おおくにぬし)都市国家もどきに乱立した国主(くにぬし)=国造(くにのみやっこ・こくぞう)の中から有力者が互選によって選出され、大和朝廷が成立した。

つまり国主(くにぬし)に大幅な地方支配権を残したまま、大王(おおきみ)が即位したもので、徴税権を含む直接の地方支配はそれぞれの国主(くにぬし)=国造(くにのみやっこ・こくぞう)の支配だった。


関連小論・【仁徳天皇(にんとくてんのう)と天皇陵(てんのうりょう)】をご一読下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-06-24 17:21 | Comments(0)  

箸墓古墳(はしはかこふん)

箸墓古墳(はしはかこふん)は、奈良県桜井市に所在する纒向古墳群 (まきむくこふんぐん)の中でもひときは目立つ規模(前方後円墳中最大)を持っている。

箸墓古墳(はしはかこふん)は、最古級の前方後円墳によくみられるように前方部が途中から撥型(ばちがた)に大きく開く墳形である。

測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていた事が分かる。

奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会の陵墓指定の範囲の外側を発掘した調査により、墳丘の裾に幅十メートルの周壕とさらにその外側に幅十五メートル以上の外堤が存在していた事が確認されている。

巨大な前方後円墳・箸墓古墳(はしはかこふん)が、その最古の時期から周壕を持つ事が分かった。

陵墓指定範囲の外側の周辺部での発掘調査によって、墳丘の裾の幅十メートルの周濠の底から布留0式(ふるぜろしき)土器が出土し、箸墓古墳(はしはかこふん)が古墳時代前期初頭の築造である事が確定した。


また年代測定で、箸墓古墳(はしはかこふん)の築造年代が卑弥呼の没年(二百四十八年から遠くない頃)に近い事から、「卑弥呼の墓ではないか」と言う説が浮上している。

その根拠として、魏の使者張政が詔書、黄幢をもって来倭し、 難升米がこれを拝受し魏の告諭を受けたのち、「卑弥呼以って死す」とある。

その魏書に依り、卑弥呼の死亡時期が二百四十七年の年か、翌二百四十八年頃亡くなったのは確実と思われる事が説の根拠である。

しかしながら、「卑弥呼の墓」は、数多くある諸説の一つに過ぎない。

なぜなら、卑弥呼の没年と箸墓古墳築造年代が重なる以外に証明が出来ないからだ。


そもそも論から言わしてもらえば、卑弥呼は古事記日本書紀は勿論の事、日本の古文書にはまったく記載が無く、他国の正史である魏書(全三十巻)の「東夷伝中の倭人の条(通称・魏志倭人伝)」に記載されているのみの存在で、卑弥呼の正体さえ明確でない

明確でないのに頭から卑弥呼の存在を肯定した上で、「卑弥呼の墓を見つけた」は学者にあるまじき強引な発想である。


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by mmcjiyodan | 2015-06-24 17:06 | Comments(0)  

松方正義(まつかたまさよし)

松方正義(まつかたまさよし)は、薩摩藩士として激動の時代に出世を遂げ、維新後は官僚、政治家として日本の近代化に関わった。

正義(まさよし)は、明治期の日本に於いて内閣総理大臣を二度(第四代・第六代)務め、また大蔵卿、大蔵大臣を長期間務めている。

正義(まさよし)は日本銀行を設立したり、金本位制を確立するなど、財政通として財政面で業績を残した。

そして正義(まさよし)は、晩年を元老、内大臣として政局に関与し影響力を行使した。


薩摩国鹿児島郡鹿児島近在荒田村(現在の鹿児島県鹿児島市下荒田一丁目)に松方正恭、袈裟子の四男として正義(まさよし)は生まれる。

正義(まさよし)は、わずか十三歳にして両親を亡くす。


千八百四十七年(弘化四年)、正義(まさよし)は薩摩藩士の子弟が通う藩校「造士館」に入る。

千八百五十年(嘉永三年)、正義(まさよし)十六歳の時、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米四石を得る。

この後、大番頭座書役となり、七年間勤めたが、この間幾度か藩主・島津候に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金百三十両を下賜された。


正義(まさよし)は、島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関係している。


二十九歳の時、議政書掛(ぎせいしょがかり)という藩政立案組織の一員となった。

低い身分から異例の出世を遂げた正義(まさよし)は、に対し、称賛する者もいる反面、妬む者もいた。


千八百六十六年(慶応二年)、正義(まさよし)は軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。

千八百六十七年(慶応三年)、正義(まさよし)は軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けなどに当たった。



維新が為されると、正義(まさよし)は明治政府で長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する。

県内視察の際、海上交通の便を図れば別府発展が期待されるとの発案から別府港を築港、現在の温泉都市となった別府温泉の発展の礎を築いた。

日田で正義(まさよし)は大量の太政官札の偽札流通を密告により発見する。

この調査により、旧福岡藩士が犯した偽札製造の事実を明らかにした事で大久保利通の評価を得、その功績、推挙で正義(まさよし)は民部大丞・租税権領に就任する。


以降正義(まさよし)は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿・大久保利通の下で地租改正にあたる。

だが、正義(まさよし)は財政方針を巡って大蔵卿・大隈重信と対立する。

当時は千八百七十七年(明治十年)の西南戦争の戦費の大半を紙幣増発でまかなった事などから政府紙幣の整理問題が焦点となっていた。

正義(まさよし)は大隈重信が進める外債による政府紙幣の整理に真っ向から反対したのである。

その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。


正義(まさよし)は、千八百七十七年(明治十年)に渡欧する。

千八百七十八年(明治十一年)三月から十二月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から三つの助言を得る。

第一に日本が発券を独占する中央銀行を持つべき事、第二にその際フランス銀行やイングランド銀行はその古い伝統故にモデルとならない事、第三に従って最新のベルギー国立銀行を例としてこれを精査する事、を勧められた。


その後、帰国した正義(まさよし)は、千八百八十一年(明治十四年)七月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出する。

政変によって大隈重信が失脚すると、正義(まさよし)は参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創設した。

後の千八百八十三年(明治十六年)に、正義(まさよし)は明治天皇に働きかけて、レオン・セイに勲一等旭日大綬章が贈られるように図っている。


正義(まさよし)は財政家として、政府紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行による紙幣整理、煙草税や酒造税や醤油税などの増税や政府予算の圧縮策などの財政政策、官営模範工場の払い下げなどによって財政収支を大幅に改善させ、インフレーションも押さえ込んだ。

ただ、これらの政策は深刻なデフレーションを招いた為に「松方デフレ」と呼ばれて世論の反感を買う事になった。


千八百八十五年(明治十八年)に内閣制度が確立されると、第一次伊藤(博文)内閣に於いて正義(まさよし)は初代大蔵大臣に就任する。

千八百九十一年(明治二十四年)に第一次山縣(有朋)内閣が倒れると、正義(まさよし)は大命降下を受けて総理大臣(兼大蔵大臣)に就任した。

しかし閣内の不一致や不安定な議会運営が続き、千八百九十二年(明治二十五年)八月八日に正義(まさよし)は辞任に追い込まれた。

同日付けで正義(まさよし)は、特に前官の礼遇を賜い麝香間祗候となる。

その後第二次伊藤内閣を挟んで千八百九十六年(明治二十九年)に再び正義(まさよし)に組閣(総理大臣兼大蔵大臣)の大命が下る。

正義(まさよし)は千八百九十七年(明治三十年)に懸案であった金本位制への復帰こそ成し遂げたものの、大隈重信率いる進歩党との連繋がうまくいかず、一年数か月で辞任を余儀なくされた。

この時に正義(まさよし)は、衆議院を解散した直後に内閣総辞職しているが、日本憲政史上このような例は第二次松方内閣だけである。


日露戦争前の千九百一年(明治三十四年)に開かれた、日英同盟を締結をするかどうかを検討した元老会議に於いては、正義(まさよし)は対露強硬派として、当時の首相・桂太郎の提案どおりに、山縣有朋、西郷従道らともに日英同盟締結に賛成している。

元老会議の結果を尊重して明治天皇は日英同盟締結の裁可を下している。

千九百二年(明治三十五年)一月に日英同盟が締結されると、日露戦争の準備の為にアメリカを経由して欧州七ヵ国へ赴き、正義(まさよし)は戴冠前のイギリス国王エドワード七世に拝謁を許されるなどの大歓迎を受けている。

オックスフォード大学からは、正義(まさよし)は法学名誉博士号(後には国家元首にのみ与えられる)を授与されている。アメリカでは大統領セオドア・ルーズベルト、ドイツでは皇帝ヴィルヘルム二世、ロシアでは皇帝ニコライ二世と会見している。

同千九百二年(明治三十五年)十二月二十九日に、正義(まさよし)は日本赤十字社社長に任命される。

帰国後の千九百三年(明治三十六年)に正義(まさよし)は、戴冠式を終えたエドワード七世からナイトの最高勲章を贈られている。


また、正義(まさよし)は栃木県那須(現在の那須塩原市)に千本松牧場を開場し、後に隣接して別邸(松方別邸)を造り、皇太子・嘉仁親王を招くなどの社交の場とした。

千九百三年(明治三十六年)から正義(まさよし)は枢密顧問官、千九百十七年(大正六年)から内大臣を務めた。

内大臣時代は、宮中某重大事件・大正天皇の病気による摂政設置などの問題に遭遇した。


正義(まさよし)は、伊藤博文や山縣有朋らの死後、元老を主導する立場となり、加藤友三郎内閣の成立などに関与した。

千九百二十四年(大正十三年)七月二日、正義(まさよし)は呼吸不全により八十九歳で死去した。


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by mmcjiyodan | 2015-06-18 02:21 | Comments(0)  

陸奥宗光(むつむねみつ)

陸奥宗光(むつむねみつ)は、紀州藩々士から勤皇志士(尊皇攘夷運動/そんのうじょういうんどう)として行動し、維新後は外交官、政治家として日本の近代化に関わった。

宗光(むねみつ)は官僚として、明治初期に行われた版籍奉還廃藩置県徴兵令地租改正など国策に大きな影響を与えた。

また、カミソリ大臣と呼ばれ、伊藤(博文)内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。


宗光(むねみつ)は、千八百四十四年(天保十五年)八月二十日、紀伊国和歌山の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。

宗光(むねみつ)の幼名は牛麿(うしまろ)と名付けられ、後、伊達小次郎、陸奥陽之助と称する。

宗光(むねみつ)の生家は、奥州伊達家・伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられる。

だが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家(後に紀州伊達氏)の子孫である。

国学者・歴史家としても知られていた父・宗広の影響で、宗光(むねみつ)は尊王攘夷思想を持つようになる。

父・宗広は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であった。

だが、千八百五十二年、宗光(むねみつ)が八歳の時に藩内の政争に敗れて失脚した為、一家には困苦と窮乏の時を過ごした。


千八百五十八年(安政五年)、宗光(むねみつ)は江戸に出て儒学者・安井息軒(やすいそっけん)に師事するも、遊郭・吉原通いが露見し破門されてしまう。

その後は儒学者・水本成美に学び、土佐藩坂本龍馬長州藩桂小五郎(木戸孝允)伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。


千八百六十三年(文久三年)、宗光(むねみつ)は坂本龍馬(さかもとりょうま)と伴に勝海舟(かつかいしゅう)の幕府・神戸海軍操練所に入る。

千八百六十七年(慶応三年)には坂本龍馬(さかもとりょうま)の海援隊(前身は亀山社中)に加わるなど龍馬(りょうま)と行動を伴にした。

勝海舟(かつかいしゅう)と龍馬(りょうま)の知遇を得た宗光(むねみつ)は、その才幹を発揮する。

龍馬(りょうま)をして「(刀を)二本差さなくても食って行けるのは、俺と陸奥宗光(むつむねみつ)だけだ」と言わしめるほどだった。

宗光(むねみつ)もまた龍馬(りょうま)を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。
明治維新後、宗光(むねみつ)は岩倉具視(いわくらともみ)の推挙により、千八百六十八年に外国事務局御用係に採用される。

戊辰戦争に際し、宗光(むねみつ)は局外中立を表明していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し締結に成功する。

その際、ストーンウォール号の引き渡しに関し未払金十万両が在ったがまだ財政基盤の脆弱だった新政府には払えなかった。

この資金を、宗光(むねみつ)が大阪の商人達に交渉し、一晩で借り受ける事に成功する。

宗光(むねみつ)は、千八百六十九年・兵庫県知事、千八百七十一年・神奈川県令、千八百七十二年・大蔵省・地租改正・租税頭(局長/そぜいのかみ)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞し、故郷・和歌山に帰った。

千八百七十二年(明治五年)に蓮子夫人が亡くなり、宗光(むねみつ)は翌千八百七十三年(明治六年)に亮子と結婚している。

千八百七十五年(明治八年)、宗光(むねみつ)は大阪会議で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。


千八百七十七年(明治十年)、西郷隆盛を首魁に担ぎ出しての西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀った。

宗光(むねみつ)は、その土佐派と連絡を取り合っていた。

翌千八百七十八年(明治十一年)にこの土佐派との事が発覚し、宗光(むねみつ)は除族のうえ禁錮五年の刑を受け、投獄された。


山形監獄に収容された宗光(むねみつ)は、せっせと妻・亮子に手紙を書く一方で、自著を著し、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。

山形監獄が火災に会った時、宗光(むねみつ)焼死の誤報が流れたが、誤報である事が解かる。

千八百七十八年(明治十一年)に伊藤博文(いとうひろぶみ)が手を尽くして宗光(むねみつ)を当時最も施設の整っていた宮城監獄に移させた。

出獄の後の千八百八十三年(明治十六年)にベンサムの「Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)」は「利学正宗」の名で刊行されている。


千八百八十三年(明治十六年)一月、宗光(むねみつ)は特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。

千八百八十四年(明治十七年)にロンドンに到着した宗光(むねみつ)は、西洋近代社会の仕組みを知る為に猛勉強した。

ロンドンで陸奥が書いたノートが今も七冊残されている。

内閣制度の仕組み、議会運営など、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を、宗光(むねみつ)は盛んに吸収した跡が観られる。

また、宗光(むねみつ)はウィーンではシュタインの国家学を学んだ。


その後、宗光(むねみつ)は第二次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任する。

千八百九十四年(明治二十七年)、宗光(むねみつ)はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。

以後、宗光(むねみつ)はアメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。

宗光(むねみつ)はが外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた十五ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。

同千八百九十四年(明治二十七年)八月、陸奥宗光(むつむねみつ)は子爵を叙爵する。


一方、外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)は同千八百九十四年(明治二十七年)五月に朝鮮で甲午農民戦争が始まると「清」の出兵に対抗して派兵する。

七月二十三日に朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、二十五日には豊島沖海戦により日清戦争を開始する。

イギリス、ロシアの中立化にも成功した。

この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と宗光(むねみつ)が気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。


戦勝後、宗光(むねみつ)は伊藤博文とともに全権として千八百九十五年(明治二十八年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。

しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を「清」に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。

宗光(むねみつ)は日清戦争の功により、伯爵に陞爵(しょうしゃく/ランクアップ)する。


宗光(むねみつ)はこれ以前より肺結核を患っていた。

三国干渉の外圧が到来した時、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた宗光(むねみつ)の病床においてで在った。

千八百九十六年(明治二十九年)、宗光(むねみつ)は外務大臣を辞し、大磯別邸(聴漁荘)やハワイにて療養生活を送る。

この間に宗光(むねみつ)は、雑誌・「世界之日本」を発刊している。

千八百九十七年(明治三十年)八月二十四日、宗光(むねみつ)は肺結核の為、西ヶ原の陸奥邸で、五十三歳で死去した。


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by mmcjiyodan | 2015-06-18 02:16 | Comments(0)  

地租改正(ちそかいせい)

地租改正(ちそかいせい)とは、千八百七十三年(明治六年)に明治政府が行った租税制度改革である。

地租(ちそ)の由来は、大化の改新により成立した律令国家が、唐に倣って採用した租税制度である「租庸調(そようちょう)」のうちの「租(そ)」に遡(さかのぼ)る。

ここでいう租(そ)とは、田畑(口分田)の収益を課税物件とした租税である。

明治以前には田租(たそ)・貢租(こうそ)などと呼ばれていた。

豊臣秀吉(とよとみのひでよし)の行った太閤検地により、土地の生産力を石高(玄米の生産量)であらわし、その石高に応じて年貢を課す事とされた。

また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。

地租は収穫量を今日で言う課税標準とし、直接に耕作者である生産者からその生産物をもって物納徴収され、この納入は村請により村単位で一括して行われた。


江戸時代までの貢租(こうそ)は米による物納制度であり、あくまで生産者が納税義務者で在った。

また、その制度は全国で統一したものではなく、地域毎に違いがあった。

このような制度を、陸奥宗光(むつむねみつ)は、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めたのである。


この改革により日本に初めて土地に対する私的所有権が確立した事から、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。

地租改正は全ての土地に課税されるものとし、以前に認められていた恩賞や寺社領などに対する免税を否認した。

これに先立って施行された解放令によって穢地の指定を外されていたかつての穢多非人の所有地も同様であった。

また、入会地なども同様に否定して国有地に編入した。

この千八百七十三年(明治六年)の租税制度改革により日本に初めて土地に対する私的所有権が確立した。


倒幕派に依る明治維新が達成された初期から、大蔵省や民部省では全ての土地に賦課して一定の額を金納させる新しい税制である地租の導入が検討されていた。

千八百六十九年(明治二年)二月、兵庫県知事・陸奥宗光が、租税制度改革の建白書を中央に提出する。

宗光は、土地等級制の確立、税制の統一、地租金納を主張し、「古来検地ノ通弊ヲ改正」すべしとした。

また、一等訳官・神田孝平(洋学者/官僚)も、千八百七十年(明治三年)に「田租(たそ)改革建議」を提出して各藩ごとの税の不均衡を正して公正な税制にする為の貢租改革が提案されていた。

しかし当時、土地の賦課の是非は大名などの領主の権限と考えられていた。

そして、従来の検地に代わる大規模な測量の必要性がある事から、政府内でも賛否両論が在ってまとまらなかった。

その一年後の千八百七十一年(明治四年)、国家体制そのものの大改革で廃藩置県が行われる。

この廃藩置県で日本からは領主身分が一掃される形となり、反対論の大きな理由が失われた。

同千八百七十一年九月、「地所売買放禁分一収税施設之儀正院伺」が大蔵省によって作成される。

田畑永代売買禁止令の廃止とともに地租改正の実施が明治政府の方針として正式に決定されその準備が急がれたのである。

千八百七十二年(明治五年)四月、陸奥宗光は「田租改革建議」を太政官に上申した。

同千八百七十二年(明治五年)六月十八日、陸奥宗光は大蔵大輔井上馨によって、神奈川県令から大蔵省租税頭に抜擢され、権頭松方正義とともに、地租改正法案の策定にあたる事になった。

千八百七十三年(明治六年)大蔵省地方官会同で陸奥宗光は、租税頭に就任した。

この地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めた事から、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。


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by mmcjiyodan | 2015-06-18 02:13 | Comments(0)  

稲生の戦い(いのうのたたかい)

稲生の戦い(いのうのたたかい)は、千五百五十六年九月二十七日(弘治二年八月二十四日)に、尾張国春日井郡の庄内川に近い場所・稲生(現在の名古屋市西区)で起きた戦いである。

尾張下四郡を支配する守護代で清洲織田氏(織田大和守家)の分家での重臣たる清洲三奉行の一人、織田弾正忠家の当主・織田信秀(おだのぶひで)が頭角を現わす。

織田信秀は、尾張国国内の分裂に加え、領土の隣接する三河の松平氏や駿河の今川氏、美濃の斎藤氏らと争って、一代で尾張国内外に勢力を拡大し、尾張国の有力武将に伸し上がった。

その織田信秀が千五百五十一年(天文二十年)に急死し、跡を嫡男で那古野城主の織田信長が継いだ。

一方、信長の同母弟である織田信行(おだのぶゆき/信勝)は兄とは離れ、織田信秀晩年の居城である末森城に居住した。

稲生の戦い(いのうのたたかい)は、織田弾正忠家の織田信長とその弟・信行(信勝)との家督争いから起きた戦いで、稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれる。


織田信長は千五百五十五年、尾張守護の斯波氏の権威を利用して、主筋の清洲織田氏(織田大和守家)の下四郡守護代・織田信友を滅ぼす。

織田信長は尾張守護所であった清洲城に移り、父・信秀の残した勢力を着実に拡大していった。

しかし、織田信長は平素から評判が悪く「うつけ者」と呼ばれるほど凡人には理解できない奇行を行う人物であった。

さらに、千五百五十三年(天文二十二年)には傅役(ふやく/もりやく)であった家老・平手政秀(ひらせまさひで)が自殺(諫死とされる)する事件が起こり、家中からは頭領に相応しくないと目されていた。

「うつけ者」とされる風評の中、三河との国境の要衝の鳴海城を守っていた山口教継が謀反を起こして今川氏に寝返る。

千五百五十六年には、織田信長の正妻に娶った斉藤帰蝶(きちょう/濃姫)の実家・美濃斎藤家で政変が起こる。

織田信長の舅であり後ろ盾であった美濃国主・斎藤道三(さいとうどうさん)が嫡子・斎藤義龍との戦いで敗死する。

さらに斎藤義龍と手を結んで尾張上四郡を支配する守護代で嫡流の岩倉織田氏(織田伊勢守家)が敵対するなど、織田信長の周辺は困難な情勢が続いた。

こうした逆風の中、織田信長では織田家をまとめられないと考えた信長宿老の林秀貞(はやしひでさだ)とその弟・林通具(美作守)、織田信行老臣の柴田勝家(しばたかつゆき)らは、織田信長を排除し、家中でも評価の高い弟・信行に家督を継がせようと画策した。

弟・信行自身も織田家代々の名乗りである弾正忠を自称したり、織田信長の直轄領である篠木などを押領し、砦を構えるなどして、反抗の意思を示した。

織田家内不穏な動きを織田信長が察知し、千五百五十六年八月二十二日、佐久間盛重に命じ名塚に砦を築かせた。

そして千五百五十六年八月二十四日、稲生原での合戦に至る。

信長軍が清洲から南東の於多井川(現・庄内川)を越えたところで、東から来た柴田軍と、南から来た林軍との戦いが始まる。

信長公記によれば、信長方の手勢は、佐久間盛重・森可成(もりながよし)佐久間信盛前田利家丹羽長秀(にわながひで)・織田信房ら、わずか七百人たらずだった。

対する、弟・信行方の兵力は柴田勝家が千人、林秀貞が七百人の合計千七人を擁していた。

正午頃、信長軍の約半数が柴田軍に攻めかかったものの、兵力差に加えて戦上手で知られる柴田勝家の活躍があり、信長方は佐々孫介(佐々成政の兄)ら主だった家臣が次々に討たれるなど苦戦を強いられる。

柴田軍が信長の本陣に迫った時には、信長の前に織田勝左衛門・織田信房・森可成と鑓持ちの中間四十人ばかりしかいないという危機に立たされた。

しかし、織田信房・森可成の両名が前線に立って戦い、清洲衆の土田の大原という武将を返り討ちにするなど奮戦した。

その戦闘の最中、信長が敵方に対して大声で怒鳴ると、身内同士の争いだった事もあり、柴田軍の兵たちは逃げて行った。

勢いを取り戻した信長軍は、次いで林軍に攻め掛かる。

戦いの中、林通具(美作守)が黒田半平と切り結んで息が切れたところに信長が打ちかかり、槍で突き伏せて討ち取った。

勢いついた信長方は、鎌田助丞・富野左京進・山口又次郎・橋本十蔵・角田新五・大脇虎蔵・神戸平四郎ら、信行方の主だった武将を含む四百五十人余りを討ち取った。

信行方は崩れ、敗走する。

その後、弟・信行方は末盛城・那古野城に篭城し、対して信長は両城の城下を焼き払った。

敗将である弟・信行は、信長と信行の母である土田御前(どたごぜん・つちだごぜん)の取りなしにより助命され、清洲城で信長と対面して許される。

また、弟・信行方の有力武将であった林秀貞と柴田勝家、津々木蔵人も信長に謝罪、忠誠を誓った。

千五百五十七年(弘治三年)十一月二日、弟・信行は再度謀反を企むが、既に信行を見限って信長に与していた老臣の柴田勝家に騙される。

弟・信行は、柴田勝家に信長が病に臥していると聞き訪れた清洲城の北櫓・天主次の間で、信長の命を受けた河尻秀隆らに暗殺され織田家の内乱は終息した。

★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-06-04 00:47 | Comments(0)