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鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)

鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)は、神魂命(かみむすびのみこと)の孫として日本神話に登場する神である。

賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)とも呼ばれ、山城国の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

奈良県宇陀市榛原区の八咫烏(やたがらす、やたのからす)神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。

鴨県主(かものあがたぬし)は大化年間以前から京都の賀茂神社の祠官であった。

日本全国でよく呼称される「氏神神社」の由来は、初期の神社がその土地の支配者(氏/うじ)の神格化を狙った政治的なものだからである。

県主(あがたぬし)は,古くはその地方の豪族が治めていた「小国家群の範囲で在った」と考えられ、「古くは国と県を同列に扱っていた」とする説もある。

つまり、前身は日本列島への渡来部族が勝手に創った小国家群・倭の国々で、その大和朝廷(ヤマト王権)統合過程で県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやつこ)を称した。

賀茂神社の上社(上賀茂神社)の祠官の流れは賀茂氏を名乗り、岡本氏・松下氏・林氏・座田氏・梅辻氏・鳥居氏・小路氏・森氏の諸家を分出した。

賀茂神社の下社(下賀茂神社)の祠官の流れは鴨氏を称し、泉亭氏・梨木氏・鴨脚氏・滋岡氏・下田氏・南大路氏の諸家を出している。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍・「方杖記」を著わした鴨長明(かものちょうめい)もこの鴨氏の氏人だ。

賀茂社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は「宮崎県の日向から大和の葛城山に降りた」とされている。

従って、伊豆半島を発祥とし大和葛城に本拠を移した葛城氏と大和の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が同族で在った方が説明が着き易い。


参考小論【葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説】を参照ください。
関連小論・【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2015-10-18 10:31 | Comments(1)  

徳川秀忠関ヶ原遅参・上田合戦

信州で生き延びた真田昌幸は、やがて豊臣秀吉が天下を取るとその臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解する。

和解の後、徳川氏の与力大名とされた事から、嫡男・真田信幸(さなだのぶゆき)と家康養女・小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。

これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である真田昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である真田信幸(沼田城)のニ家が夫々に主を頂く二家体制となる。

この二家体制が、後に真田氏を二分させて戦う事態となる。

五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。

真田昌幸と次男・信繁(幸村)は信州・上田城にて二代将軍・徳川秀忠率いる約三万の軍勢を僅か数千で迎え撃ち秀忠軍の足止めに成功、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかった原因と言われた。


千六百年(慶長五年)の徳川秀忠関ヶ原合戦の遅参の因となった上田城の戦いを第二次上田戦とする。

上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏上杉氏後北条氏の国境として不安定な地域であった。

そこを真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し、上田城を築城した。

そこに石田三成率いる豊臣方西軍と徳川家康率いる東軍で、東西を二分する関ヶ原の戦いが起きる。

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知り、東北上杉勢討伐に向かっていた軍を西に返した。

この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる三万八千人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。

そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

小諸に到着した秀忠は、昌幸の嫡男・信之と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して無難に開城を求める。

老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。

数日の後、昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。

充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」と言うものだった。

あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は怒って上田城攻略を決意したとされる。

この時本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮る事はせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言する。

だが、兵力差が圧倒的だった事、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かった事、さらに前述の第一次上田合戦で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かった事もあり、秀忠の決断を覆す事は出来なかった。

これこそまさに昌幸の思う壺だった。

昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎで、この時点ですでに戦わずして秀忠隊を三日間足止めしており、さらにあからさまな挑発を加える事によって徳川方に揺さぶりをかけた。

仮に徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、既に三日の足止めに成功し、役目は充分に果たしている。

逆に挑発に乗って攻め来れば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけである。

家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えない事は明らかである。

兵力で圧倒されていようとも、城に籠もって数日間持ち堪えれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。

短期決戦を行うしかない徳川勢の採れる戦術は自ずと限られ、その分読み易く御し易すい。しかも総大将の秀忠はこれが初陣であった。

徳川勢が挑発に乗らなければ良し、乗ればなお良しの二段構えで、狡猾な昌幸の策に陥った徳川勢は戦わずして苦しい状況に陥れられた。

秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁(幸村)の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁(幸村)の兄である真田信之の軍勢を差し向ける。

徳川首脳陣には真田一族である真田信幸に疑念を覚える者が多く、あえて実弟と戦わせる事によって信之の心中を試すと同時に万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われている。

迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁(幸村)は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げる。

信之軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨(かちどき/ときの声)を上げる。

これは、信繁(幸村)が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信之に手柄を上げさせ、信之に対する秀忠の信用を高めようとした為と推測が出来る。

また、信之軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信之を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。

事実、信繁が戦わずして戸石城を信幸に明け渡した事により、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。

戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。

短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、九月八日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。

徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出して来た。

そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走する。

それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。

それらの流れは全て昌幸の作戦であった。

徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。

さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。

功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していた為、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。

このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。

さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。

前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁(幸村)隊二百が秀忠本陣に奇襲をかけた。

信繁(幸村)隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込んだ。

秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れた。

また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せる。

真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦はわずか一日で真田方の大勝に終わった。

名将・昌幸(まさゆき)と次男・信繁(のぶしげ/幸村)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、再び数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。

しかし戦いそのものは東軍・徳川方の勝利となり、戦後に昌幸と次男・信繁(幸村)は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって嫡男・真田信之(信幸改め)が上田領を引き継いでいる。


大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(一)発端】に続く。

詳しくは、関連小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

戦国時代(せんごくじだい/室町末期)

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2015-10-09 20:59 | Comments(0)  

真田昌幸(さなだまさゆき)・上田神川の合戦

戦国期になると、真田氏は甲斐国守護・武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。

しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死する。

すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸(さなだまさゆき)は織田信長に恭順した。

つまり、真田信繁(幸村)の祖父にあたる幸隆や叔父達、父・昌幸も、上杉謙信や 武田信玄が一目置く武将だった。

その後、本能寺の変明智光秀に反逆された織田信長が横死する。

父・真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え真田家の勢力維持に奔走する。

名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に果敢抵抗した事である。

昌幸(まさゆき)は徳川軍兵七千の攻撃を受けるも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。

真田家の得意技は篭城戦で、その戦法は元弘の乱(げんこうのらん)当時の名将・楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城篭城戦と良く似ている。

つまり最小の軍勢で大軍を破るのに適して居るのが篭城戦であるが、攻め手が大軍で先を急いでいるほどその戦法は効果的である。

昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。


最初の徳川対真田の戦いは、徳川軍敗戦と成った【上田・神川の合戦】である。

千五百八十二年(天正十年)六月に京都で織田信長本能寺の変で横死し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる五万六千の兵で織田領上野に侵攻する。

織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる二万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。

これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可(もりながよし)も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退する。

その為、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。


甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。

このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。


千五百八十二年(天正十年)十月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換する事とした。

翌千五百八十三年(天正十一年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。


千五百八十五年(天正十三年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではない事を理由にして拒否する。

さらに昌幸は、敵対関係にあった上杉氏と通じた。

同千五百八十五年(天正十三年)七月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知る。

家康は八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約七千の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣し、「上田神川の合戦」が勃発する。


徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開する。

これに対して真田方は約千二百人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。

また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟・矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

千五百八十五年(天正十三年)閏八月二日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。

さらに後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。

この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は千三百人もの戦死者を出したと言われる。

一方、真田軍は四十人ほどの犠牲ですんだと伝えられる。

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後二十日日間程対陣を続ける。

この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政/一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の五千)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は二十八日に上田より撤退した。

その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、十一月には譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退する事になる。


徳川秀忠関ヶ原遅参・上田合戦】に続く。

詳しくは、関連小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

戦国時代(せんごくじだい/室町末期)

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by mmcjiyodan | 2015-10-09 20:54 | Comments(0)