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南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)

江戸時代後期の読本作者・曲亭(滝沢)馬琴(きょくていばきん)の代表作は、「南総里見八犬伝」と「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」である。

読み本作者・滝沢(曲亭)馬琴の南総里見八犬伝は、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏と妙見北辰信仰真言密教を題材に、弁天様(伏姫)と犬(八房)の畜生道(獣姦)が発端の物語である。

古代インダス文明は、東方の国々に多くの影響を与えた。

インド・ヒンドゥー教の神や祭祀は、一部形を変えながらも日本の仏教や神仏習合修験信仰に影響を与えている。

弘法大師・空海伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。

従って桓武天皇が設けた中務省・陰陽寮に於いても、ヒンドゥー教の統治に都合の良い部分は組み入れられていても不思議ではない。

実は北辰妙見信仰に於ける天地開開(てんちかいびゃく)神話に於ける世の最高神・天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)=陀羅尼神(だらにしん/全ての祈り神)もヒンドゥー教の三最高神の一柱・ヴィシュヌ神(天地創造神/見渡せる神)が妙見(見通す)に通じる所から、「同一の神である」と考えられるのだ。

神は恋人、神に捧げる踊りの原点は、インド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、ヒンドゥー教は正直な神で、ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)である。

つまりインドは、古代から人生の三大目的としてカーマ(性愛)、ダルマ(聖法)、アルタ(実利)が挙げられる国で、三大性典とされる「カーマ・スートラ」、「アナンガ・ランガ」、「ラティラハスヤ」と言った性典を生み出した愛と性技巧の国で、このヒンドゥー教の影響こそが、おおらかだった日本の性習俗の原点かも知れない。

例えばインドの土着信仰から始まったヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーが、中国経由で日本に渡来した弁財天の原型である。

弁財天は原型であるインド土着の女神・サラスヴァティーの頃から、性の女神としての側面をもっていた様で、そのイメージは日本に入って来てからも健在だった。

女神・サラスヴァティーはヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)であり、サンスクリット語(梵語)でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神としてインドのもっとも古い聖典リグ・ベーダに於いて、始めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の神話である。

仏教に於ける婆達多品(デーヴァダッタボン、或いはダイバダッタ品)の観世音菩薩について、この両者(弁才天と観世音)は、「自らを犠牲に供する事によって男を救済する存在」と言う共通性を持っていて、日本の民衆の間では女性の事を指して「弁天様」或いは「観音様」と表現する所から弁財天が「観世音菩薩の応変」と見なされて居る。


真言宗の空海・天台宗の円珍の行く所には多く弁才天の伝承が残っているそうだ。

言わば、修行を積んだ徳の或る僧も、人の子で、尊い高僧が説法の道すがら接した娘達は、生身の人間(女性)ではなく「神仏と接した」とする立場上の便宜性だったのか?

それとも、彼らは特別な秘法(呪詛)によって、村娘や町娘を浄化し、その土地の為に、新たに「生きた弁天菩薩」を作り出したのかも知れないが、真相は判らない。

元々インド・ヒンドゥー教の神や祭祀にはカーマ(性愛)を生活の糧とする思想が在り、シヴァ神(破壊神)やダキニ天(荼枳尼天)、カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)などを生み出した思想の国だったから、日本に持ち込まれた仏教や神仏習合の修験信仰にその影響を与えている。

なかでも江の島・弁財天は裸形弁財天で有名で、江の島の本宮とされる洞窟は弁財天信仰が持ち込まれる以前から、女性の性器や子宮に見たてられ「女陰信仰が盛んだった」と言う。

この辺りの下地が、「交わりによって相手を浄化する」と言うイメージを喚起したのかも知れない。

その根底にあったのが、「民族の血の同化」と言う国家プロジェクトと言う事になる。

インドの土着神話で、八歳の王の娘・娑竭羅龍(サラスヴァティー)が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い。

その土着神話で、八歳の娑竭羅龍(サラスヴァティー)王の娘が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い事からして、竜は獣と言う扱いらしい。

獣も仏法諸天の仲間で有り、獣(竜)でも成仏できるのなら、畜生道(獣姦)に落ちても成仏できる理屈である。

となると、「陰陽修験導師が暗躍した」と思われる人身御供伝説の原点がこのインド・ヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーと仏法諸天の仲間・獣(竜)の畜生道(獣姦)の物語「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」の竜を、犬や猿などに加工して応用したのではないかと推測されるのである。


ここに、象徴的な小説・「南総里見八犬伝」がある。

里見氏(さとみうじ)の本姓は清和源氏(河内源氏)源義国(みなもとのよしくに)流の源(新田)義重の三男・義俊を祖とする後裔の氏族で、新田氏の庶宗家である。

新田義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み初めて里見氏を称したが、後に里見家基が鎌倉公方・足利持氏に仕え、持氏が「永享の乱」で敗死した後、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して幕府に敵対し「結城合戦」で家基が戦死する。

里見家基が嫡子・義実は、父を失って城を逃れて落ち延び、相模の三浦から海上を安房の白浜に渡り安房の国に落ち着き房総里見氏の祖となる。

詳細は不明だが安房国に移った新田(源)家基の子息、里見義実が土地の領主・安西氏を追放し安房国(今の千葉県の一部)の領主となる。

折りしも安房国は、室町時代中期の惣領制の崩壊によって旧来の豪族による支配が崩れ、鎌倉時代以来の豪族である安西・神余・丸・東条の各氏が互いに隙を伺って睨み合い、戦乱がうずまいていた。

そうした戦乱の隙を突いて安房・里見氏を始め上総武田氏・正木氏・酒井氏・土岐氏などの諸将が、各々他国から入って来て戦国時代に安房に勢力を築き上げるもこれに勝ち抜いた安房・里見氏が房総地方を領する戦国大名にまで成長した。

戦国時代末期には関東一円に勢力を拡大した後北条氏と敵対していたが、中央でほぼ天下を掌握しつつ在った羽柴秀吉(羽柴豊臣)小田原平定戦に参軍するも、独自の動きをして秀吉の怒りを買う不祥事を引き起こす。

その場は徳川家康の取り成しで切り抜け、秀吉に所領の一部は取り上げられたが安房一ヵ国は安堵されて生き残った。

千六百九十九年(慶長五年)の関ヶ原の合戦に際して、里見氏は家康の継嗣・徳川秀忠の要請に応じて宇都宮方面に参陣し、戦勝後には恩賞として常陸国鹿島郡に三万石の加増を受け十二万石の大名となった。

千六百十四年(慶長十九年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉三万石に転封となったが、実態は配流と同じ扱いであった。

そして千六百二十二年(元和八年)、当主・里見忠義が病死すると、「跡継ぎが居ない」として里見氏は改易された。

滝沢(曲亭)馬琴(本名:滝沢興邦)の「南総里見八犬伝」はこの里見氏の遺臣達が活躍する「架空の物語」である。


滝沢(曲亭)馬琴の筆に拠って八房(犬)と里見家の伏姫を主人公とし、伏姫(里見伏)は自ら八房の妻となる事で八房の怒りを鎮め、やがては菩提心へと導く物語である。

当初、八房と父の犬との戯れの約束、「敵将の安西の首を持ち帰れば伏姫をやる。」との約束に、八房が見事敵将・安西の首を持ち帰る。

所が、伏姫の父は「たかが犬との約束」とないがしろにし、約を破って八房の恨みを買い、里美家は次々に不幸に見舞われる。

伏せ姫が、父の落ち度に心を痛め、約束を果たして八房の怒りを静める為に「八房の妻」となる決意をする。

それで、安西との戦の功により、八房は伏姫と富山の祠(ほこら)で同棲するに至る。実は、八房には伏せ姫のあずかり知らない過去の恨みによる陰謀が、怨念として付いていた。

それ故、伏せ姫を畜生道(獣姦)に導きて、この世からなる「煩悩の犬」となさんと、最初からの企みが背景にあった。

元々伏姫一人を畜生道(獣姦)に落とすのみならず、伏姫に「八房の子を孕ませよう。」と言う心づもりがあったのだ。

富山の祠(ほこら)で同棲した伏せ姫は、やがて懐妊し、八つの玉を産み落とす。

滝沢(曲亭)馬琴は情交なしの懐妊を書いているが、情欲によって伏姫を身ごもらせたなら、それはやはり畜生道(獣姦)の交わりなのではあるまいか。

「自らを犠牲に供する事によって男を救済する菩薩(弁才天)の慈悲」を、馬琴の筆により伏姫は、その物語において体現している。

八房の情欲を転化させるアイテムとして、「法華経」の獣姦の過ちをも赦す「提婆達多品」が登場する事となる。

馬琴にも、流石に人間、それも清浄の姫君と獣の交わりを書くのは多いに抵抗があったのだろう。

滝沢(曲亭)馬琴(本名:滝沢興邦)のこの筆の舞台が、妙見信仰の地を選んだ事、中にダキニ天(稲荷様・稲成り)と思われる狐の化身や北辰信仰(天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰)など、明らかに密教から題材をとっているのだ。

この物語、近世(江戸期・文化・文政時代)に入ってから書かれているが、その原点は「昔話の伝承にあった」と見る。

馬琴が付けた「伏姫(ふせひめ)」の意味は、明らかに「山伏(修験者)の(所有する)姫」を意味している。

伏せ姫にあたる女性が何者かは思い至らなくても、八房はまさしく陰陽師勘解由小路党の「大神(おおかみ/狼)」であり、八つの玉(八人の子)は皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血統を持つ「優秀な存在」と位置就けられていたのである。


北辰北斗星信仰が所謂妙見さんだけれど、その使いの神が居る。「使い」と言っても甘く見てはいけない。

妙見菩薩は宇宙を支配する最高神だ。

その使い神だから霊力が格段に強い。

それで、「狼(オオカミ)がその使い神だ」と言われている。

明治維新前は全国的に妙見宮と言う神社があったが、それが、夜との関わりが強い。

つまり「種の保存本能」を祈りの基本にした信仰だ。

その使いが、狼と梟(フクロウ)で、狼の方には「夜夫座神社」と言う意味深な名前が付いている。

狼神社として知られていた兵庫の養父神社筆頭に「夜夫座神社」が、その名もズバリ妙見山と言う山の麓にある。

所謂、山犬(狼)神社である。

この神社の狼は「北斗(妙見)の使い」と言う事になっている。

これが北辰信仰の中にあるヤマイヌ信仰である。

梟(フクロウ)の方は秩父神社で、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命が先祖の八意思兼命を祭ったのが始まりで、関東でも屈指の古社である。

「秩父妙見宮、妙見社」などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に、名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称された。

秩父神社の使いは「北辰の梟(ふくろう)」である。

フクロウが一晩中目を見開く姿を形取り、夜を制する「神の使い」である。

関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。

狼神社に於いて狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。

つまり伏姫を抱き、孕ましたのは妙見神の使い犬神(大神=狼)なのである。


八犬伝の里見家に戻る。

千葉県館山市上真倉に妙音院(安房高野山妙音院)がある。

天正年間に、安房の国の大名、里見義康公の発願により、紀州高野山の直轄別院・里見家の祈願寺として開山された南房総唯一の古義(高野山)真言宗の寺である。

つまり、里見家は真言宗との縁が強い。

妙音院も、紀州根来寺内の密教修験院の名を取った妙見信仰の証で、その妙音院からちょうど北東(鬼門)の方角に意味深な地名がある。

南房総市の一角に旧安房郡富山町があり、その富山町の平群地区にある地名が、「犬掛」と言う、まるで八犬伝が実際にあったがごとき地名である。

【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。

我が国では、四足動物を人為的に交尾繁殖させる行為を【掛ける】と言う。

この【掛ける】の語源であるが、歌垣の語源は「歌掛け」であり、夜這いも「呼ばう(声掛け)」である。

また異説では、交尾を意味する「掛ける」の語源は、神懸(かみがか)りの「懸ける」から来ていると言う説もある。

つまり陰陽呪詛の信仰に於いて交尾や性交は生命を宿る為の呪詛儀式と捉えていて、その行為は「女性を神懸(かみがか)らせる事」と言う認識である。


こちらは滝沢(曲亭)馬琴の「南総里見八犬伝」の話であるが、「走る」の意味も「駆ける」であるが、当てる字が違う。

伏姫はフィクションで実在しないので、誰か女性が、忌み祓いの為に、犬を「掛けられた」と言う「昔話(伝承)が存在した」と解釈するのが妥当であり、そうなると昔話の方は修験山伏の仕事と解釈するのが妥当なのだ。

勿論「南総里見八犬伝」は滝沢馬琴の創作小説であるが、その題材の基に成った妙見信仰の伝承が在り、その伝承の地が安房の「犬掛」だったのでは無いだろうか?

しかしこの獣姦、現代の感覚で考えてはいけない。

山犬は大神(狼)であり、犬公方と言われた五代将軍・徳川綱吉により、「生類哀れみの令」が発布される時代だった。

つまり、神の子を宿す神聖な呪詛である。

しかも「八っ房」と「伏姫」との「犬掛け」はあくまでも伝承であり、現実には天狗伝説に在るように天の狗(てんのこう/てんのいぬ)=修験山伏の行者の仕業なのである。

下総国(千葉県)に在る地名「犬掛」は当主・里見義豊が叔父(父の弟実堯)の長男里見義堯との家督相続の戦いに破れ、自刃した不吉な古戦場跡で、鬼門の方角に当る。

今以上に信心深い時代の事で、鬼門封じの呪詛を里見家が修験道に命じて、密かに執り行った可能性は棄て切れない。

或いは滝沢(曲亭)馬琴が、その土地に密かに伝わる「人身御供伝説の噂」を参考に、作品に取り入れた可能性も棄て切れないのである。

つまり、滝沢(曲亭)馬琴の南総里見八犬伝は、山犬(狼=大神)信仰と人身御供伝説を江戸時代の当世風にアレンジした小説である。

里見八犬伝のベースが陰陽修験道をモチーフにしているなら、主要登場人者・伏姫(ふせひめ)の名称にしても修験道師の別称・山伏(やまぶし)から取った山伏姫なのかも知れない。

この江戸時代後期の読本作者・滝沢(曲亭)馬琴のもう一つの代表作が、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏を題材とした「南総里見八犬伝」である。

滝沢(曲亭)馬琴の里見八犬伝の「八」は、日本古来の信仰から「八」を導いている。

八犬伝(八剣士)であり、犬の名は八房である。

日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。

また、犬に関わる人身御供伝説は、日本全国に数多く存在する。


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by mmcjiyodan | 2016-04-26 16:20 | Comments(0)  

曲亭馬琴(きょくていばきん)

千九百六十七年(明和四年)、滝沢(曲亭)馬琴は、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。

馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだと言う。


千七百七十五年(安永四年)馬琴九歳の時に父・滝沢運兵衛興義が亡くなり、長兄の興旨が十七歳で家督を継いだ。

しかし、主家は俸禄を半減させた為、翌千七百七十六年(安永五年)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。

この時既に、次兄の興春は他家に養子に出ていた。

母と妹も興旨とともに戸田家に移った為、松平家には馬琴一人が残る事になった。

馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、千七百八十年(安永九年)、十四歳の時に松平家を出て母や長兄と同居する。

翌千七百八十一年(天明元年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。

馬琴は、俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深める。

二年後の十七歳で、馬琴は吾山撰の句集・「東海藻」に三句を収録しており、この時はじめて馬琴の号を用いている。

その後の二十一歳の時には、馬琴は俳文集・「俳諧古文庫」を編集する。

また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。

馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とする。

馬琴はこの時期、放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。

千七百八十五年(天明五年)母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合う。

そして次兄が貧困の中で急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。


千七百九十六年(寛政八年)、三十歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。

この年に耕書堂から刊行された読本・「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。

また、生活の為により通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。

千八百四年(文化元年)に刊行された読本・「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗する事となった。

千八百十四年(文化十一年)に、大長編読本・「南総里見八犬伝」が刊行を開始された。

「南総里見八犬伝」の執筆には、千八百十四年(文化十一年)から千八百四十二年(天保十三年)までの二十八年を費やし、馬琴のライフワークとなった。

その間に、一人息子で医術を修めた興継が宗伯と名乗りを許され陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となるも、千八百三十五年(天保六年)に死去する。


馬琴は、千八百三十三年(天保四年)頃から異常を覚えていた眼病が悪化し、千八百三十九年(天保十年)の時には失明する。

執筆が不可能となった為、息子・宗伯の妻・お路が口述筆記をする事となった。

馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対し、妻のお百が嫉妬して家庭内の波風は絶えなかった。

そのお百も、千八百四十一年(天保十二年)に没した。

同千八百四十一年(天保十二年)八月、大長編読本・「南総里見八犬伝」の執筆が完結し、千八百四十二年(天保十三年)正月に刊行される。

馬琴は千八百四十八年(嘉永元年)、お路を代筆記者として、「傾城水滸伝」や「近世説美少年録」の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、八十二歳で死去した。


馬琴は、ほとんど原稿料のみで生計を営む事のできた日本で最初の著述家で、代表作は「椿説弓張月」と「南総里見八犬伝」である。


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by mmcjiyodan | 2016-04-26 16:16 | Comments(0)  

琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)

千八百五十三年(琉球暦:咸豊三年、和暦:嘉永六年)五月、薩摩藩の付庸国・琉球へ黒船が来航する。

アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。

黒船は翌千八百五十四年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。

ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。


千八百六十七年(慶応三年)、日本列島では薩長土肥四藩を主体とする軍事クーデターが起きて大政奉還、王政復古と進み、江戸・徳川幕府を倒し明治維新が成立する。

千八百七十一年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、千八百七十二年には琉球藩を設置し、琉球国王・尚泰を琉球藩王に「陞爵(しょうしゃく/昇格)」して華族に列した。

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京する事などを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。

そのため千八百七十九年三月、処分官・松田道之が随員・警官・兵あわせて約六百人を従えて来琉する。

武力的威圧のもとで三月二十七日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、四月四日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされる。

沖縄県令として前肥鹿島藩(佐賀藩の支藩)前主の鍋島直彬が赴任するに至り、第二尚氏王統の琉球支配は終わった。

旧琉球國(ルーチュークク)の王族は、日本の華族とされた。

しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。

外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展した。

だが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。


なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張する中国の人物も存在している。

しかし、過去の冊封関係を持って領有権主張の根拠とするなら、朝鮮半島も、現在独立している周辺国もその冊封関係国の範疇にはいる。

つまり、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、また琉球処分が無効である根拠も明らかではない。

そして、現・中華人民共和国が台湾や沖縄尖閣諸島などの領有を主張するも、歴史的検証では明帝国に至るまでの各中華帝国は台湾島を含め沖縄諸島などに然したる関心や領有意欲は無かった。

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)】に戻る。

詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-04-03 00:27 | Comments(0)  

薩摩藩の琉球侵攻(さつまはんのりゅうきゅうしんこう)

十六世紀後半(千五百九十年代)、豊臣秀吉が明国とその進路にある李氏朝鮮国を征服しようとして琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国で在った為に琉球国王は一旦拒否する。

千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正福島正則小西行長黒田長政浅野幸長らを主力に、十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出す。

一旦拒否した琉球王国は、文禄・慶長の役で日本が実際に朝鮮半島に攻め込んだ時には、日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担っている。

その後豊臣秀吉の死去により、関ヶ原合戦を経て日本の支配者は徳川家康に移る過程を辿る。

千六百二年、仙台藩伊達氏領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、千六百三年に琉球に送還される。

以後、薩摩藩島津氏を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、琉球王国は最後までこれに応じなかった。

この背景には、戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求していた。

しかし琉球側が、これを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつ在ったからである。

こうした両者の、元々在った緊張関係が琉球征伐に至る過程に大きく影響したと考えられている。

千六百八年九月には、家康と徳川秀忠が舟師(しゅうし/水軍)を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて僧・大慈寺龍雲らを遣わす。

僧・大慈寺龍雲は、琉球王国・尚寧王(しょうねいおう)及び三司官(宰相)に対し、家康に必ず朝聘するよう諭した。

三司官(宰相)の 一人で久米三十六姓の末裔の政治家・謝名利山(じゃなりざん)は聴従せず、かえって侮罵(ぶば/あなどりののしる)に至り、大いに使僧を辱めた。

こうして遂に、徳川家が江戸幕府開府した千六百三年(慶長八年)から六年後、徳川幕府から琉球征伐の御朱印が、薩摩藩島津氏に下る事となった。


千六百九年(琉球暦万暦三十七年・和暦慶長十四年)薩摩藩島津氏は三千の兵を率いて三月四日に薩摩を出発し、三月八日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍する。

三月二十六日には沖縄本島に上陸し、四月一日には首里城にまで進軍する。

島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い四千の兵士を集めて対抗したが四月五日には敗れ、薩摩藩軍が首里城を陥し、和睦を申し入れた琉球国王・尚寧を捕らえ首里城は開城した。

これ以降、薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、また徳川幕府に使節を派遣し江戸へ上った。

その後琉球王国は、明国に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清国にも朝貢を続ける。

つまり琉球王国は、薩摩藩と清国への両属という体制をとりながらも、独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。

琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離された。

だが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)】に戻る。

詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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by mmcjiyodan | 2016-04-02 21:25 | Comments(0)