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真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)は、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾に在ったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である。

真珠湾への雷撃攻撃は、日本時間千九百四十一年十二月八日未明、ハワイ時間十二月七日に実行された。

この攻撃を、「奇襲攻撃」と言えるかどうかで日米の認識には現在でも主張に異論がある。


千九百三十九年から千九百四十一年々頭に至る頃、日本政府及び日本海軍はABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)を実力で打破すべく検討を繰り返していた。

当初の日本海軍は、対米戦争の基本戦略として漸減邀撃(迎え撃ってしだいに減らせる)作戦を有していた。

これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて迎え撃ち、しだいに減らさせた上で日本近海に於いて艦隊決戦を行うというものであった。

その戦略が変ったのは、千九百三十九年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将が異なる構想を持っていたからである。

アメリカに長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本長官は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えていた。

為に山本長官は、遥かに若かった十一年前の千九百二十八年(昭和三年)の時点で、既にハワイ攻撃を提唱していた。


千九百四十一年一月十四日頃、連合艦隊司令長官・山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎中将 に「会いたい」と手紙が在った。

大西航空艦隊参謀長は、一月二十六日ないし二十七日頃、連合艦隊旗艦・長門(戦艦)を訪ね、山本長官からハワイ奇襲作戦の立案を依頼される。

山本長官は、日米開戦の已(やむ)むなきに至った場合、「わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ対米戦に勝ちを制する事はできない」と大西航空艦隊参謀長に切り出す。

その「余程思い切った戦法」の目標は、太平洋に配備された米国戦艦群である。

攻撃は雷撃隊による片道攻撃とし、開戦劈頭(へきとう/開戦冒頭)にハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し痛撃を与え、「当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す」と続けた。

山本長官は、第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもってこの目標を達成する為の作戦研究を大西航空艦隊参謀長に依頼したのだ。


鹿児島・鹿屋(かのや)司令部に戻った大西参謀長は、幕僚である前田孝成大佐に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談する。

前田大佐からの回答は、真珠湾は水深が浅い為に技術的に「雷撃攻撃は不可能」と言うものだった。

大西参謀長は二月初旬、今度は第一航空戦隊参謀・源田実中佐を呼びつけ、二月中旬に訪れた源田参謀に大西参謀長は同様の質問をした。

源田参謀からは、「雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではない」と言う回答が在った。

大西参謀長は源田参謀に「作戦計画案を早急に作るように」と依頼する。

源田参謀は二週間ほどで計画案を仕上げて大西参謀長に提出、それに大西参謀長が手を加えて作案し、三月初旬頃、山本長官に提出した。

山本長官は、真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ期待する所期効果を得ないので空襲作戦は断念するつもりであった。

しかし大西参謀長、源田参謀案で「不可能ではない」と判断された為、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった。


攻撃順序の主目的は戦艦・空母、副目的は航空基地・敵飛行機とした。

敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪う為には、水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えた。

戦力を二分しては、敵艦隊と工廠、油槽等施設を攻撃していずれも不徹底に終わる事を懸念しての方針立案だった。

水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断して居たのである。


第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎中将と第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介大佐は、ハワイ奇襲作戦に反対した。

大西中将と草鹿大佐の意見は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得の為に、アメリカの植民地のフィリピン方面に集中するべきとしていたのだ。

だが、山本長官の意見は頑(かたく)なだった。

大西と草鹿の両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだと言う積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べる。

さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからと言って、そう投機的だ、投機的だと言うなよ。君達の言う事も一理あるが、僕の言う事も良く研究してくれ」と話して説得した。

十月十九日、連合艦隊参謀・黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰(おっしゃ)っている」と軍令部次長・伊藤整一中将に伝える。

この山本長官の意向を伊藤中将から伝え聞いて驚いた軍令部総長・永野修身大将は作戦実施を認めた。


つまり真珠湾攻撃作戦は、直前に「宣戦布告をする予定」とは言え、勝つ為に何ヵ月も前から「先制攻撃」が計画されていた。

そしてこれがフィクション(架空の創作)ならば、血沸き肉躍る男のアクションドラマかも知れない。

しかしリアルな戦争であれば、手段を選ばない破壊や殺戮(さつりく)の非人道的な行為そのもので、これをワクワク楽しむ感性を持つ人は危険である。

男性の闘争本能を「自らの感性」と主張するに自己陶酔に、人間としての欠陥を理解すべきではないのか?


真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)に続く。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:14 | Comments(0)  

真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)

真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)に戻る。

第一航空戦隊参謀・源田中佐の真珠湾攻撃案は、出発基地を小笠原父島か北海道厚岸(あっけし)とし、空母を真珠湾二百海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。

一つ目の父島案では、雷撃可能な時は艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案である。

二つ目の厚岸(あっけし)案は、雷撃不可能な時には艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。

戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。

航路は機密保持の為に北方から進攻して急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。

本来の軍事作戦では、水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になる為に計算に入れなかった。

これに対して大西参謀長は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行う事、出発を単冠湾(択捉島)として作案した。

九月頃、大西参謀長から源田参謀が「これで行く様に」と厳命が手渡された。

手渡された厳命には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、「戦艦に致命傷がなくても行動できなくする事」になっていた。


真珠湾航空奇襲の訓練は、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。

従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていた。

しかし真珠湾航空奇襲を目的とする第一航空艦隊の航空訓練は、機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた。

また、この作戦の為に空中指揮官・淵田美津雄中佐と雷撃専門家・村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した。

この作戦では、海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とする為、空母の集中配備が採用された。


攻撃案は当初、真珠湾の北二百海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ三百海里圏外に脱出する案だった。

だが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田参謀から反対が在った。

それでフォード北二百三十海里で一次攻撃、南下して二百海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された。

技術的な課題は、水深十二mと言う浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、次に戦艦の装甲をどうやって貫通させるかの二点であった。

水深十二mと言う浅瀬に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた愛甲魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑える事に成功した。

また、鴨池航空隊(鹿児島鴨池航空基地所属)による超低空飛行訓練により、最低六十mの水深が必要だったものを十m以下に引き下げる事に成功した。

事実、実際の攻撃では投下された魚雷四十本のうち、射点沈下が認められたのは一本のみの大成果で在った。

戦艦の装甲をどうやって貫通させるかに対しては、戦艦の装甲を貫徹する為に水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施された。

模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通する為の運動量の計測などが行われた。


作戦使用航空母艦は、当初第一、第二航空戦隊の四隻を胸算していた。

だが、九月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母二隻となる。

連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にする事、山本長官の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成する事が重要課題である。

その課題達成の為には、「搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したい」と考えた。

山本長官は、かねがね日露戦争劈頭(へきとう/冒頭)の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。

しかし、軍令部総長・永野修身大将は四隻案で考えていた。

千九百四十一年十月九日~十三日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。

軍令部航空部員・三代辰吉中佐はこの研究会出席の為出張して来たが、研究会に間に合わず終了後来艦し、六隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った。


航空攻撃と併用して、五隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。

この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであった。

これは、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想が在った事を示している。

魚雷二本を艦首に装備した「甲標的(こうひょうてき/特殊 潜航艇)」は千九百四十年九月に正式採用され、三十四基の建造が命令された。

千九百四十一年一月中旬から訓練が開始され、八月二十日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。

訓練により戦力化に目処が立つと伴に日米関係が益々悪化する。

そうした状況に、搭乗員から開戦時に「甲標的(こうひょうてき)を使って港湾奇襲を行うべきである」との意見が盛り上がった。

先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。

この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員・有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束する。

九月初旬に、甲標的(特殊潜航艇)母艦・千代田の原田覚艦長と岩佐中尉が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが搭乗員の生還が難しい事から却下された。

司令部を納得させる為、甲標的(特殊潜航艇)から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行った。

だが、「搭乗員の収容に確実性がない」との山本長官の判断で再度却下された。

部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長する等の研究を行い、十月初旬に三度の具申を行った。

この具申の結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、終(つ)いに計画が採用された。

十月十一~十三日に長門で行われた図上演習には甲標的(特殊潜航艇)を搭載した潜水艦五隻による特別攻撃隊が使用された。

特別攻撃隊の甲標的(特殊潜航艇)五隻には、岩佐大尉ら十名の搭乗員が選抜される。

作戦に使う潜水艦として甲標的(特殊潜航艇)を後甲板に搭載可能な伊一六、伊一八、伊二〇、伊二二、伊二四が選ばれた。


千九百四十一年十一月一日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は十一月五日の昭和天皇の御前会議で承認された。

以降陸海軍は十二月八日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。

十一月十三日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。

山本長官は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。

この「日米交渉の妥結時帰投命令」に二、三の指揮官が不服を唱えた。

だが、山本長官は「百年兵を養うは、ただ平和を護る為である。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、只今から出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったと伝えられる。


十一月十七日、山本長官は佐伯湾に在った空母赤城を訪れる。

機動部隊将兵を激励するとももに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している。

十一月二十二日、南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結。

出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃する事を告げた。

赤城艦長・長谷川喜一大佐は、山本長官の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している。


艦隊航路の選定には、奇襲成立のため隠密行動が必要であった。

連合艦隊参謀の雀部利三郎(ささべりさぶろう)中佐が過去十年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べる。

その結果十一月から十二月にかけては北緯四十度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し、困難な北方航路が採用された。

なお、当時第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。

ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったと伝えられている。

十一月二十六日八時、旗艦「赤城」以下の南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾(択捉島)を出港した。


十二月一日、昭和天皇の御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の三十分以上前に行うべき事が決定された。

勿論、「攻撃三十分以上前宣戦布告」は、相手に応戦準備をさせない奇襲をギリギリのアリバイとして主張できる「違法ではないが限りなく不適切」な戦法である。

十二月二日十七時三十分、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文が発信された。

ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で、当時の日本の最高峰ある。

一二〇八とは十二月八日の事で、「X日(エックス・ディ)を十二月八日(日本時間)と定める」の意の符丁であった。

ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。

重責を背負った空母機動部隊・南雲中将は航海中、「えらい事を引き受けてしまった。断ればよかった。上手く行くかしら?」と草鹿大佐に語りかけたと言う。


真珠湾攻撃(日米開戦)の(三)に続く。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:11 | Comments(0)  

真珠湾攻撃(日米開戦)の(三)

真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)に戻る。

鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、十一月十八日に択捉島の単冠湾へと向かった。

真珠湾攻撃は、周到精密な計画と多大な成果を得るべく攻撃訓練を繰り返した航空隊と水雷隊の精鋭兵をもって敢行された作戦である。

なお、ワイキキやダウンタウンなどの市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が厳重に言い渡されていた。


十二月七日、伊号潜水艦隊から甲標的(特殊潜航艇)が発進した。

十二月八日午前一時三十分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦四十三機、艦爆五十一機、艦攻八十九機、計百八十三機が発進。

第一航空艦隊参謀長・草鹿大佐は百八十三機が発進したとしているが、爆装の艦攻五十機が戦艦を、雷装の四十機が戦艦および空母を目標とした。

艦爆五十四機は航空基地を、艦戦四十五機は空中および地上の敵機を目標と定めていたという。


午前二時四十五分、第二波空中攻撃隊として艦戦三十六機、艦爆八十一機、艦攻五十四機、計百七十一機が発進した。

草鹿大佐によれば、五十四機の艦攻は航空基地を、八十一機の艦爆は空母および巡洋艦を、三十六機の艦戦はやはり敵機を目標と定めていた。

なお敵空母の動勢は不明であったが、付近を索敵するなどの案は排され、真珠湾攻撃に全力が向けられた。

また、攻撃隊を二派に分けているのは航空母艦の飛行甲板の広さや滑走距離による制限だった。

当時の日本の航空母艦は、搭載する全航空機を全て甲板に並べ、一斉に発進させる事はできなかった。

なお、この攻撃に先立ち陸軍は、イギリスの植民地のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。

真珠湾とマレーで一方が先行すれば、その情報が直ちにイギリスからアメリカに伝えられる事となり、他方の奇襲が成り立たなくなる。

しかし源田中佐の案により、暗闇での発艦を回避する為、攻撃隊の発進は当初の予定より二時間遅れとなった。

この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかった為、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しない事にした。

これにより真珠湾攻撃は、コタバル奇襲上陸作戦の二時間遅れとなった。

しかし、結果的にマレー上陸の報がアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響する事はなかった。


ハワイは、現地時間十二月七日日曜日の朝だった。

七時十分(日本時間八日午前二時四十分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の小型潜水艦を発見する。

駆逐艦「ワード(ウォード)」の砲撃により、国籍不明の小型潜水艦は撃沈された。

この小型潜水艦が、日本軍の甲標的(特殊潜航艇)で在った。

ワード号は直後に「未識別の小型潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電した。

しかし、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしば在り、その重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。


七時三十五分(日本時間三時五分)に、海軍航空隊はオアフ島北端カフク岬を雲の切れ目に発見する。

そして七時四十分(同三時十分)に「突撃準備隊形作れ」を意味する「トツレ」が発信され、信号弾が発射された。

この際、奇襲の場合には合図が信号弾1発で火災による煙に妨げられる事ない状況で対艦攻撃を実施させるべく艦攻による攻撃を先行させる。

強襲の場合には、合図が信号弾二発で艦爆による対空防御制圧が先行させる作戦計画になっていた。

だが、信号弾一発で雷撃専門家・村田重治少佐率いる雷撃隊が展開行動を起こさないのを見て空中指揮官・淵田美津雄中佐は、村田少佐が「合図を見逃した」と誤解する。

それでもう一発信号弾を発射、艦爆隊指揮官である翔鶴飛行隊長・高橋赫一海軍少佐はこれを合わせて信号弾二発と誤解し先行した。

間もなく「重巡筑摩」の偵察機から「在泊艦は戦艦一〇、甲巡一、乙巡一〇」との報告がある。

それと前後してラハイナ泊地に向かった重巡利根の偵察機からは「敵艦隊はラハイナ泊地にはあらず」との報告が入った。

草鹿大佐によれば、「重巡筑摩」より、三時十分に入った報告とされている。

七時四十分(同三時十九分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。

七時五十二分(同三時二十二分)、淵田中佐は旗艦赤城に対してトラ連送「トラ・トラ・トラ」を打電した。

これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号である。

この電波は赤城で中継したが、中継を待つまでもなく広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営でも指揮官機の電波を直接受信した。

七時五十三分(同三時二十三分)に旗艦・空母赤城から「隊長、先の発信、赤城了解」と返信があった。

奇襲に成功した事を知った草鹿大佐は、南雲機動部隊司令・南雲忠一中将の手を固く握り落涙したと伝えられる。


航空機による攻撃は、八時零分(同三時三十分)に雷撃により開始される予定だった。

だが、これより五分早い七時五十五分(同三時二十五分)に急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ二百五十kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となった。

続いてヒッカム飛行場からも爆煙が上がった。

雷撃隊を率いていた村田重治少佐は正しく奇襲と理解し予定通りヒッカム飛行場上空を通る雷撃コースに入ろうとしていた。

だが村田少佐は、ヒッカム飛行場からの爆煙に驚き、目標が見えなくなっては一大事と近道を取り、七時五十七分(同三時二十七分)に雷撃を開始した。

つまり淵田中佐は、飛行場攻撃の爆煙があまり激しくならないうちに水平爆撃を開始する旨を決意し、水平爆撃隊に「突撃」(ツ・ツ・ツ・・・のツ連送)を下命した。

七時五十五分頃に戦艦「アリゾナ」で空襲警報が発令される。

七時五十八分(同三時二十八分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。

八時零分(同三時三十分)、戦闘機隊による地上銃撃が開始され、八時五分(同三時三十五分)、水平爆撃隊による戦艦爆撃が開始された。

八時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した八百kg爆弾が戦艦「アリゾナ」の四番砲塔側面に命中。

次いで八時六分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。

八時十分、戦艦「アリゾナ」の前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は千百七十七名の将兵とともに大破沈没した。

戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。

オクラホマは転覆沈没し将兵四百十五名が死亡または行方不明となった。

なお第一波の攻撃の最中に、アメリカ本土から回航されて来たボーイングB-17が五機ヒッカム基地に着陸しようとした。

だが、地上からの連絡を受けて一機は日本軍機の攻撃をよける為にベローズ基地に向かい、残りの四機は無事着陸したものの、瞬く間に攻撃を受けて一機が大破炎上した。


アメリカ東部時間午後二時二十分(ハワイ時間午前八時五十分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」を手渡す。

日本は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を発して、先に戦線が開かれていたイギリスと並びアメリカに宣戦を布告した。

この文書は、本来なら攻撃開始の三十分前であるアメリカ東部時間の午後一時に面会し、その際にハル国務長官へ手渡す予定であった。

この「宣戦ノ詔書」を手渡す面会、一旦は「昼食の予定がある」としてハル国務長官に断られていた。

だが、駐ワシントンD.C.日本大使館員の不手際によって結果的には攻撃開始の約一時間後となってしまった。

その為「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」と、アメリカから批判を受ける事となった。

この原因について、駐アメリカ日本大使館の井口貞夫事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取った事が要因と言う説明が極東軍事裁判でなされた。

この戦後の極東国際軍事裁判における弁護側のこの弁明以降、日本側の「駐アメリカ大使館の不手際」と言う説明が通説とされて来た。

重要な内容で在った事は、翻訳時に解っていた事である。

ならば、面会に遅延する事を避けるべく、タイピングが終わった部分だけでも予定通りの面会時間に届けると言う判断をしなかった野村や来栖の責任を問う意見も在った。

ハル国務長官も、「そのようにすべきであった」と指摘している。

これに対して、井口貞夫事官の子息で元外交官の井口武夫は、日本側「駐アメリカ大使館の不手際説」に反論している。

まず、「対米覚書」全十四部の中で第十三部ならびに最後の十四部までの訂正電がそれ以前の部よりも十五時間も遅く発信された

また、規定の「至急」と言う指定を公電の冒頭に入れていなかった事を指摘し、軍(陸軍参謀本部)による工作(意図的な遅延)の可能性を示唆している。


真珠湾攻撃(日米開戦)の(四)に続く。

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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:09 | Comments(0)  

真珠湾攻撃(日米開戦)の(四)

真珠湾攻撃(日米開戦)の(三)に戻る。

ハワイ時間午前八時五十四分(日本時間四時二十四分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。

第二波攻撃隊は、アメリカ軍の防御砲火を突破する強襲を行い、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行いこれを成功させた。

また、戦艦「ペンシルバニア」が収容されていた乾ドッグへの攻撃を行った。

これに対して、一息ついて反撃の余裕ができたアメリカ軍は各陣地から対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとした。

しかしこの時点でフォード島のアメリカ海軍機は全滅し、飛行可能な飛行機は1機もなくなっているなど甚大な被害を受けていた。

そのため、百七十機の急降下爆撃機や戦闘機を抱える圧倒的な数量の日本軍に効果的な損害を与えることは不可能であった。

この頃、ようやくワイキキのラジオ局のKGMBが真珠湾への日本軍の攻撃を伝え始めた。

しかし、オアフ島内は情報が混乱し、真珠湾上空を飛び回る飛行機による爆音や、爆弾の爆発音を、日本軍による攻撃ではなく演習によるものと誤認するものも多かった。

なお、ハワイ庁のジョゼフ・ポインデクスター庁長ですらこの時点で真珠湾への日本軍の攻撃を知らないままで居た。

上記のラジオ局からの電話による問い合わせで「初めて攻撃を知る」と言う有様であった。


第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きかったが、「加賀」攻撃隊(零戦九機、艦爆二十六機)において零戦二機、艦爆六機を失い、十九機が被弾したのみであった。

また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳 一飛曹)はニイハウ島に不時着、十二月十三日のニイハウ島事件で死亡した。

なお第二波の攻撃の最中に、アメリカ本土から回航されてきたボーイングB-17の第二陣六機がヒッカム基地に着陸しようとした。

しかし、日本軍機による強行着陸と誤認した地上兵に対空砲火を受けた為、三機は無事着陸したものの、二機はハレイワ基地に向かい、残りの一機はカフクにあるゴルフコースに不時着した。

なお、これらの攻撃隊に対して、市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が事前に厳重に言い渡されていた。

実際に日本軍機とオアフ島上空で遭遇した小型機は、日本軍機に視認されていたにも拘らず攻撃を受けないでいた。

しかし基地が攻撃を受けた結果、基地内に勤務する軍属や基地内に居住する軍人の家族、基地周辺の在住する民間人など合計五十七人が死亡している。


機動部隊とは別に甲標的(特殊潜航艇)を搭載した伊号潜水艦五隻は下記の編成で十一月十八~十九日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃する。

十二月七日オアフ島沖五・三~十二・六海里まで接近した。

甲標的(特殊潜航艇)はハワイ時間午前零時四十二分(日本時間二十時十二分)から約三十分間隔で順次真珠湾に向かって出撃した。

湾入り口の対潜水艦防御門が空いていた事もあり、攻撃は五隻全艇が湾内に潜入する事に成功し、三隻が魚雷攻撃を行った。

しかし四隻が撃沈、出航時からジャイロコンパスが不具合を起こしていたものの、艦長の判断で出港した1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わった。

その後、行方不明であった甲標的(特殊潜航艇)が発見され、魚雷は未発射であった事から魚雷攻撃を行ったのは二隻とされている。


近年までは、軍事史家・中村秀樹(元海上自衛官二等海佐)氏のように「成果なし」と評価する者が在った。

甲標的(特殊潜航艇)によって戦艦・ウェストバージニアと戦艦・オクラホマへの雷撃が行われている。

このうち戦艦・オクラホマは甲標的(特殊潜航艇)による雷撃が転覆をもたらしたとするアメリカ側からの評価がなされている。

日本では、撃沈された四隻(雷撃に成功した一隻は自沈)の乗組員八名と、座礁した艇から脱出して水死した一名を加えた九名が二階級特進し、「九軍神」として顕彰された。

座礁した艇から、艇長の酒巻和男海軍少尉が脱出して漂流中に捕虜となったが公表されなかった。

また、九軍神とされた将兵を顕彰する配慮から、撃沈ではなく自沈であり、空中攻撃隊の八百kg爆弾で撃沈された戦艦・アリゾナは甲標的(特殊潜航艇)による撃沈と言う発表が大本営から行われた。


南雲中将の空母機動部隊は、出動した攻撃隊の収容に備え真珠湾北方百九十裡にまで南下していた。

攻撃後は次席指揮官の第三戦隊司令官・三川軍一少将から再攻撃の意見具申があったが、一航艦長官・南雲忠一は参謀長・草鹿龍之介の進言もあり、予定通り離脱した。

山口多聞少将は「第二撃準備完了」とそれとなく催促はしたが、搭乗員や参謀からの再攻撃を意見具申する要望に「南雲さんはやらないよ」と意見具申まではしなかった。

連合艦隊司令部では連合艦隊長官・山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言した。

だが、山本長官は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令は発しなかった。


日本時間午前八時三十分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。

午前九時頃、南雲中将率いる日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた。


軍令部は、南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまで米艦隊主力を抑え、かつ敵減殺を本作戦の主目的として居た。

その為、一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した。

一方、連合艦隊長官・山本五十六は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたいと言う考えだった。

だが、草鹿大佐によれば南雲中将には「その真意が知らされていなかった」と言う。

また、アメリカ側ではヘンリー・スティムソン陸軍長官が真珠湾攻撃について次のように評している。

当初、スティムソンはハワイの部隊が反撃して、日本の攻撃部隊に大損害を与え得るだろうと考えていた。

それが間違いで、「日本が戦略的には馬鹿気た行為で在ったが戦術的には大成功をおさめた事を私が知った」のは、その日の夕方になってからであった。

つまり、「日本軍部は唯一の終局の結果しかない馬鹿気た戦争を始めたのであるが、日本のすべり出しは明らかに素晴らしい立派なものであった。」と評された。


十二月八日、山本五十六連合艦隊司令長官は第一艦隊の戦艦長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城及び第三航空戦隊空母瑞鳳、空母鳳翔、駆逐艦三日月、駆逐艦夕風と護衛駆逐艦若葉、子日、初春、初霜、有明、夕暮、白露、時雨等を率いて瀬戸内海を出撃した。

その際、司令部付・長官専属従兵だった近江兵次郎は藤井茂参謀に「野村大使の書類は間に合ったか?」と尋ねる山本連合艦隊司令長官を目撃している。

なお同日、瀬戸内海では大和型戦艦・大和が試験航海を終えて呉へ帰港中であり、第三航空戦隊主力は豊後水道で戦艦長門らとすれ違っている。

南雲機動部隊収容の為と言う名目だったが、特に何もせず、対潜哨戒を実施しつつ小笠原諸島附近で反転した。

十二月十日、空母鳳翔は哨戒機収容の為戦艦部隊から分離して風上へ向かい、駆逐艦三隻と共にそのまま行方不明となった。

翌日になっても空母鳳翔との連絡はつかず、長門乗艦の宇垣纏連合艦隊参謀長は「そんな馬鹿げた事があるものか」と呆れている。

この時の空母鳳翔は小笠原諸島東(戦艦部隊から五百浬)の地点まで離れており、鳳翔舷側の起倒式アンテナは波浪でもぎとられていた。

十二月十三日、空母鳳翔は豊後水道を通過。

ところが、空母鳳翔入泊を護衛していた駆逐艦早苗が米潜水艦(実際には存在せず)を発見して爆雷攻撃を開始する。

呉では鳳翔沈没の噂が流れており、鳳翔艦長・梅谷薫大佐は山本五十六連合艦隊司令長官から「水戦司令官となった気分だどうだった」と笑顔で迎えられたと言う。


十二月十六日、第二航空戦隊司令・山口多聞少将の指揮下、「飛龍」「蒼龍」と護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」がウェーク島攻略支援に転戦する。

十二月二十三日、南雲機動部隊本隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還し、作戦は終了した。

十二月二十六日、異例ながら佐官級による昭和天皇への真珠湾攻撃の軍状奏上が行われる。

第一波空中攻撃隊隊長の淵田美津雄中佐は艦船攻撃について、第二波空中攻撃隊隊長の嶋崎重和少佐は航空基地攻撃について奏上した。

続く海軍大臣官邸での祝賀会では、海軍軍事参議官が参集したり、翌二十七日に霞ヶ関離宮で成人皇族達と面会するなど真珠湾攻撃の影響の大きさがうかがえる。


日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦八隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。

アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。

真珠湾攻撃の直前にイギリスの植民地であるマレー半島での上陸作戦が開始されていることで、日本とイギリスおよびイギリス連邦諸国との戦争が開始された事に続いて、真珠湾攻撃でアメリカとの間にも戦争が開始された。

真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会はアメリカと日本は開戦したと宣言した。

当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争(支那事変)にも介入には消極的であった。

連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。

さらに、駐アメリカ日本大使館員の不手際により、日本政府の意思に反して日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃が始まる不手際がアメリカ世論に影響した。

真珠湾攻撃が真実とは反して「日本人による卑劣な騙し討ち」として、主としてアメリカ政府により宣伝される事となり、アメリカおよび連合国の世論に影響した。

イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信した」と回想している。


真珠湾攻撃おけるアメリカ側の死者は約二千四百名で、その内「四十八名~五十七名は民間人だ」とされている。

この死者の約半数は、撃沈された「戦艦アリゾナの乗組員だ」とされている。

また、日本側の戦死者は、飛行機搭乗員の五十五名、 特殊潜航艇搭乗員九名、合計六十四名、捕虜が一名だった。

アメリカ側を死者、日本側を戦死者としたのは、この攻撃で死んだアメリカ側の兵士が「戦闘行為の末になくなった」とは言い切れないからである。


この真珠湾攻撃(日米開戦)の異説として、アメリカ政府は日本軍の真珠湾攻撃察知していたが、他民族集合国家の人心を開戦に傾倒させる為に「わざと攻撃を許した」と言う説もあるが闇の中である。

この異説の根拠だが、当時アメリカが全ての空母を真珠湾から移動させていた事がその憶測を呼んでいる。

そして偶然か計画かは不明ながら、アメリカ海軍の空母が温存された事で、後のミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)における日本海軍機動部隊の大敗に結びつき、この戦争における主導権を失った。


いずれにしても、この真珠湾攻撃(日米開戦)が、戦場に赴いた兵士の九割が戦闘によらない餓死と病死と言う無残な戦いを強いられる端緒だった。

そして、日本中の都市部が空襲爆撃で死者多数の焼け野原にされると言う無謀な戦争の端緒だったのである。


真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)に戻る。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:06 | Comments(0)  

ミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の千九百四十二年(昭和十七年)六月五日(アメリカ標準時では六月四日)から七日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦である。

ミッドウェイ島は、北太平洋のハワイ諸島北西にある火山島に珊瑚礁が発達した数個の環礁からなり、ミッドウェー諸島とも言う。


日本海軍は当初から、ミッドウェー島を「占領してからの維持は、極めて困難である」と考えていた。

あくまでこの作戦は、米空母群を誘い出して撃滅する事を作戦目的としていた。

さらに占領後には他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ十月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていた。

ミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略する事により、アメリカ艦隊、特にエンタープライズとホーネットを主力とする空母機動部隊を誘い出して捕捉撃滅する事に主眼が置かれた。

日本軍がアメリカ軍の要点であるミッドウェー島を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとする事は明白だった。

現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。


千九百四十二年(昭和十七年)五月二十七日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した。


この海戦、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍の侵攻を、アメリカ海軍が迎え撃つ形で発生した。

フランク・J・フレッチャー少将の第十七任務部隊と、レイモンド・スプルーアンス少将の第十六任務部隊がミッドウェー島の北東で合流してフレッチャー機動部隊が編制される。

南雲中将率いる機動艦隊は、ミッドウェー島の航空機部隊の集中雷撃とアメリカ軍艦載機の集中雷撃を浴びる。

アメリカ軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母二隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から飛龍の沈没を知り、計三隻の撃沈を確信していた。

赤城については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事である。

六月十三日、第十六任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。


日本海軍の南雲機動部隊とアメリカのフレッチャー機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果は決定的だった。

日本海軍は、機動部隊の空母加賀 空母蒼龍、空母赤城、空母飛龍と言う航空母艦四隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。

日本軍は、ミッドウェー島基地部隊を「飛行艇二十四機、戦闘機十一、爆撃機十二、海兵隊七百五十名、砲台二十前後」または「哨戒飛行艇二個中隊、陸軍爆撃機一乃至二中隊、戦闘機二個中隊」と過小評価評価していた。

海兵隊三千名、航空機百五十機と言うミッドウェー島の本当の戦力を日本軍が知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった。

この時すでに、日本の軍令部も山本五十六連合艦隊司令長官も、アメリカの強大な軍備生産力が軌道に乗りつつある事を想像して居なかった。

日本とアメリカの軍備の差は現実の国力の差で、幼児が大人と戦うほど開いていたのだ。


軍令部はミッドウェー作戦と並行して同時にアリューシャン攻略作戦(AL作戦)を行う案を加えた。

AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害しシベリアにアメリカの航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。

ミッドウェー海戦はミッドウェー作戦(MI作戦)の前哨戦であり、この敗北で同作戦は中止された。

しかもこの海戦の敗北を「大本営発表(だいほんえいはっぴょう)」で勝利と情報操作し、以後負け戦を国民に隠し続けた。


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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:06 | Comments(0)  

正々堂々尋常(じんじょう)勝負は戦国時代の利権で生まれた

本来、決闘や戦と言う殺し合いに卑怯(ひきょう)もくそも無い、殺すか殺されるかだからである。

それを、正々堂々勝負や尋常勝負(じんじょうしょうぶ)と言う綺麗事の建前をかざすように成った裏には戦国時代の利権習慣が原因として在る。

本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせる為に始めた「名乗ってから切り合う」は当時の武士の暗黙の了解で、相手の首が「恩賞の決め手」と言う常識なのだ。

正々堂々や尋常勝負(じんじょうしょうぶ)の裏に在ったのは、主に乱戦である戦で誰が誰の首を取ったと言う「手柄利権の確定」だった。

けして「武士道の精神」で尋常勝負(じんじょうしょうぶ)をした訳ではない。

それを、織田信長流に団体戦にされると手柄を雑兵に持って行かれる。

つまり合理性を主にした織田信長が歴史の表舞台に登場するまでは、戦が「名乗ってから切り合う」と言う個人戦の集積型だった。

織田信長の提案した団体戦は上級武士の手柄利権がらみなのであるから、それで事の是非ではなく旧勢力は頭から抵抗する。

それで守旧派の武士達は、織田信長を「虚(うつ)け者」呼ばわりしたのだ。


詳しくは小論・【織田信長の「大虚(おおうつ)け」を解説する】を参照下さい。

詳しくは小論・【宮本武蔵(みやもとむさし)伝説の真実】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2016-06-10 17:14 | Comments(0)  

巌流・佐々木小次郎(ささきこじろう)

佐々木小次郎(ささきこじろう)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての著名な剣術家である。

越前・朝倉領内の道場主・富田勢源 (とだせいげん) 門下として剣術を学び、十六歳頃に一流を立て巌流 (岸流) と称した。

諸国を巡歴し「燕返し (つばめがえし) 」の剣法を創案し後、当時小倉藩主だった細川忠興(ほそかわただおき)に仕えたとされている。


佐々木小次郎(ささきこじろう)は、宮本武蔵の自慢気(じまんげ)な自己紹介自伝で始まる「兵法書・五輪書(ごりんのしょ)」には、何故かライバルとして登場しない剣豪である。

しかし佐々木小次郎(ささきこじろう)は、世に「巌流島の決闘」とされる「船島=巌流島」で武蔵に敗れた剣豪として伝えられている。

しかしながら、「巌流島の決闘」には多くの疑問が呈されている。

その一つとして、小倉藩門司城代だった沼田延元の子孫が先代の書いたものを編集した書に、「武蔵は、隠して弟子たちを島へ連れて来ていた」と言う記述が在る。

武蔵の速い一撃で倒れた小次郎は、気絶から回復し起き上がろうとするも、隠して連れて来ていた武蔵の弟子たちに「袋叩きにされ撃ち殺された」とある。

勿論のこの弟子の助っ人は、「一対一の勝負」の約を武蔵が破った事が明白だった。

同じく細川氏家臣の沼田氏が千六百七十二年(寛文十二年)に編集した文書・「沼田家記」には、巌流島決闘で武蔵側が一対一の約定を違え、武蔵の弟子達が巌流島で小次郎を撲殺とある。

このアンフェアな決闘に怒った小次郎の弟子達の追撃から武蔵が遁走する。

当時門司城代を勤めた沼田延元に保護を願い、延元は武蔵を城内に保護した後、鉄砲隊で警護し、「豊後国に居住する養父・無二のところまで送った」との記述である。

つまりこの二家の古文書では、宮本武蔵とその弟子たちに「卑怯な振る舞いが在った」とする記述が残っている。


そしてもう一つ、巌流島決闘で佐々木小次郎(ささきこじろう)は、「武蔵の一撃で気絶した」とする記述の裏側には大きな年齢差が在る。

記録によると、佐々木小次郎が最初に学んだとされる朝倉領内の道場入門は千五百六十年代前半とされ、千五百八十四年生まれの武蔵とは四十歳前後の年齢差である。

つまり巌流島決闘時、名声を博しつつある武蔵が対峙した相手・佐々木小次郎は盛りを過ぎた初老の剣豪だった相手を多人数で仕留めた事になる。

ただし、宮本武蔵を剣豪とみるからその所業がアンフェアなので在って、本人自称のごとく「兵法書・五輪書(ごりんのしょ)」に在る通り武蔵は兵法者である。

「兵法者」であれば勝つ為に伏兵を用意しようが、上から石を投げ落とそうが煮えたぎった油を撒き落そうが立派な兵法である。


武蔵は、兵法書・「五輪書」に佐々木小次郎を書き記せない程、「巌流島決闘」は後ろ暗い記憶だった。

為に、「巌流島の戦いは、後の創作であり、そもそも佐々木小次郎という人物は存在しない」とする説まである。

しかし大藩の重役級の家二家に伝承される古文書が在る為、佐々木小次郎は存在した」と観るのが必然的である。

詳しくは小論・【宮本武蔵(みやもとむさし)伝説の真実】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-06-07 21:27 | Comments(0)