夜這(よば)い

妻問婚」とは、男が女性の下へ通う婚姻形を指している。

中国・雲南省の水耕稲作発祥の地は、未だにこの「妻問婚」が行われて居る土地だが、正月の風習などわが国の習慣に共通点が多いので、昔から初期日本民族(統一大和族)に於ける「習慣の遠いルーツでは無いか」と指摘されている。

ただし、言っておくが、記録に残っているのは相応の家柄を有する征服部族の末裔だけで、底辺の庶民の記録には残らない。

この「妻問婚」の呼び名が、「夜這い」の語源で、動詞「呼ばふ」の連用形「呼ばひ、が名詞化した語」と言うのが定説で、「夜這い」と書くのは当て字である。

「呼ばひ」は上代から見られる語で、本来、男性が女性の許に通い、求婚の呼びかけをする「妻問婚」事を意味した。

この求婚の呼びかけ、今ほど厳密なものでなく、「唯の口説き」と区別は付き難い。

当時は男性側に、「多妻・重婚」が多かったのだ。

勿論、この「呼ばう」の場合、女性が呼ぶのであるからお相手の選択権は呼ぶ方の女性にあった。

そして、女性の気分次第で呼ぶ相手が違っても、別段不思議な事では無かった。

つまり女系主体の子孫継続の形態である。

これはその時代の合意であり、現在の倫理観とは大きく違うが、現在の考え方はその形式の一つに過ぎず、絶対的なものではない。

貴族・氏族社会では、家長が女性で「よばう形」で男性を寝屋に引き入れる習慣・「よばひ(夜這い)制度」は、虚弱精子劣性遺伝に苦しめられていた古墳時代から平安初期の貴族・氏族社会では、家系を後世に繋ぐ手段として有効だった。

そしてこの妻問婚(つまどいこん)の「よばう形」が無くなり、女性が家に嫁ぐ形に成った平安中期くらいから、今まで「よばひ(夜這い)制度」が塗布していた問題が噴出し、貴族・氏族社会で「養子のやり取り」が頻繁に行われる様に成ったのは皮肉である。

その後この問題の合理的な解決として考えられたのは、祭りの晩の神からの授かりもので、よそ様の種を頂いて自分の子として育てるには、性交相手は顔も判らぬ見ず知らずで性交場所は暗闇が良い。

やがて、後発で入って来た渡来人や経典の影響で、父系の血筋を繋ぐ貴族社会から、徐々に「嫁入り婚」が支配的になり「妻問婚が、不道徳なもの」と考えられる様になった。

当時は照明が発達していないから昼間働き、「夜、性行為をする」イメージが定着していた為、「夜這い」の文字が当てられた。

時代が下がり、「夜這い」の字が当てられて以降、求婚の呼びかけの意味は忘れられ、「男が女の寝床に忍び込む意味」として用いられる様になった。

まず、農漁村部における「夜這い」の前提をはっきりさせておきたい。

元々の百姓、漁師などの身分と生活環境を考えてみよう。

百姓や漁師の生活環境は村里集落であり、身分はその地名に住む誰々(山里村のゴンベイ)で苗字に当るものは無いので有る。

つまり公家や神官、武士、僧侶階級の家系単位と違い、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の存在である。

村人は、村の所属であり、村の名が一体化した村人の苗字の代わりだった。

つまり、民は領地を有した領主の所属で有り、村名は領主の名(地名)苗字(なえあざ・みょうじ)を使用した所属制度である。

従って所有する方とされる方では、明らかな利害関係が成立していた。

そこで村人は、生きる為に組織化する。

権力者の搾取、或いは隣村との土地や水利権の争いなどから彼らを守る「自治組織」としての村には、村人の団結が唯一の手段で有る。

従って村の団結を壊すルール違反があれば「村八分」と言う形で制裁を受けた。

と成ると、「夜這い」はルール違反ではなく、帰属意識を前提とする「積極的公認の事」と解釈するべきである。

これは、「集団婚(群れ婚)、妻問婚」の名残とみる説が定説で有るが、陰陽修験の影響が根底にある事を考慮してはいない。

この夜這いの習慣が、日本の村落地区から完全に無く成ったのは、欧米化が進んだ戦後の集団就職(しゅうだんしゅうしょく)に起因する地方の若者の減少が止めを刺した事になる。

遥か世界の屋根に見る「夜這いのルーツ」】に続く。

夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。
民族性・・「個の性規範」と「集団の性規範」の違い】に飛ぶ。

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◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:10 | Comments(0)  

吉田松陰(よしだしょういん)

外圧に危機感を持つ孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷思想・・・その気持ちを無視して幕府は勅許を得ずに諸外国と条約を結んだ。

天皇の意向に反する幕府の開国方針に憤(いきどお)った勤皇の志士の中心となったのが、長州・毛利藩(萩藩)薩摩・島津藩だった。

勿論両藩には、永年の外様の悲哀を感じていた大藩故の条件環境の整いが、藩論を倒幕に到らしめる要素ではあった。

中でも特筆すべきは、長州藩には吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき隠し玉が存在していた。

幕末(江戸時代末期)には、長州藩はその隠し玉故に「公武合体論や尊皇攘夷」を主張して京都の政局へ積極的に関わり、詰まる所は倒幕に持ち込んだ。


明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は、杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。

つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔と言う事に成る。


吉田松陰(よしだしょういん)の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家禄二十六石の萩藩士の家で、松陰(ょういん)は、その杉家の次男として生まれた。

父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高二十六石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。

母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。

次男だったので生まれて四年後、杉寅之助四歳の時に父・百合之助の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。

吉田寅之助(松陰)九歳の時、後に友人・小田村伊之助の妻になる妹・杉寿(すぎひさ)が生まれる。

そのその三年後の吉田寅之助(松陰)十二歳の時には、後に松陰門下となる久坂玄瑞(くさかげんずい)の妻となる末の妹・杉文(すぎあや・すぎふみ)が生まれている。

倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)である。

元々松下村塾(しょうかそんじゅく)は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したもので、若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。

頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書/戦法篇」を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。

折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。

松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山に師事をして蘭学を学んだ。

この吉田虎之助(松陰)、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。

つまり自分が「こうする」と決めたら、後先や親族の迷惑など考えず無鉄砲に突き進む一族の困り者が吉田虎之助(松陰)だった。

吉田松陰の生き方は織田信長と一緒で、その時代の武士としての常識や藩士としての常識を遥かに超えた発想で行動する為、周囲は困惑していた。

もっとも「常識」と言う文言自体が維新後の造語で、言わばパラダイム(当時の支配的な物の考え方)であるから、そこから逸脱した発想や行動は理解され難いのだ。

当時に常識と言う言葉がなければ非常識も無く、松陰の行動を表現するなら「型破り」と言う事になる。

だが、松陰の場合は只の型破りとはスケールが違い、軽輩と言う身分もお構いなしに藩主にまで建白(意見を奏上)するのだから周囲が振り回される。

しかしその松陰だからこそ、欧米による大植民地時代に日本の活路を創造し得た思想の「範たり得た」のである。

その吉田虎之助(松陰)が、江戸遊学中の千八百五十二年(嘉永五年)に最初の事件を仕出かす。

友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

所が、ここからが吉田松蔭の真骨頂で、翌年(嘉永六年)に米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれる。

翌千八百五十四年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。

この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見もあったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。

翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。

その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。

吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)高杉晋作久坂玄瑞伊藤俊輔(博文)井上馨(いのうえかおる/井上聞多)山県有朋吉田稔麿前原一誠など維新の指導者となる人材を教えてる。

なかでも、高杉晋作と並び称された久坂玄瑞には、末の妹・杉文(すぎあや)を娶(めと)らせている。

前述のごとく、吉田松陰 (よしだしょういん)が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは千八百五十七年(安政四年)である。

松陰 (しょういん)が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、千九百五十九年(安政六年)の十月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か三年の間だけである。

だが、松陰 (しょういん)の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、「門弟同士も互いに議論を交わしながら育った」と言える。


実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の孫皇子・良光(ながみつ)親王懐良(かねなが)親王の子)の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。

在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。

すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。

伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいた。

その周防国熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。

杉家の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。

長門国萩から周防国熊毛までは二十里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤俊輔(博文)、等を引き連れて会いに行く。

松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。

「これなら、上手く行くだろう。」

そして松陰は、井上馨、伊藤俊輔(博文)の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。

千八百五十八年(安政五年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝(まなべあきふさ) の暗殺を計画する。

所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。

翌千九百五十九年(安政六年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。

井伊直弼(いいなおすけ)は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(千九百五十九年/安政六年)の十月に斬刑に処されている。

師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。

松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。

当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。

吉田松陰自身は、安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは、尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導し、明治維新の原動力となった。

★明治維新にまつわる噂の謎・明治天皇入れ替わり説は異説ですが、小説・【異聞・隠された明治維新クリック】をお読み下さい。
★松下村塾・関連小説【松下村塾関係者・維新顛末記】を参照下さい。

幕末~明治維新・人名と事変の周辺記事なら【クリックリスト】がお薦めです。

幕末の長州(毛利)藩主【そうせい侯・毛利敬親/慶親(もうりたかちか/よしちか)】に飛ぶ。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:04 | Comments(0)  

琳聖(りんしょう)太子

中国地方、周防国(山口県)下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

琳聖太子は、 大内氏(豪族~大名)の「伝説的始祖」とされている。

琳聖太子は、 大内氏の伝説的始祖とされているが、六百十一年(推古天皇十九年)百済国聖明(さいめい)王第三子、琳聖太子が周防国多々良浜に上陸した。

琳聖太子は摂津に上り、聖徳太子に拝謁して、「周防国大内県(おおうちあがた)を賜った」と言う。

琳聖太子は青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を桂木山に建立し、日本で初めての 「北辰祭(妙見祭)を行った」と伝えられている。

なお、琳聖太子は、多々良姓を賜って日本に帰化し、後に領国・大内県(おおうちあがた)の名を採り西国一の大名になる大内氏の祖先になった 。

この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の出自を正当化する政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では、妙見信仰は長く庇護され、人々に根付いていた。

琳聖太子が妙見大菩薩を祀る社を「桂木山に建立した」とあるが、この桂木山が、同名で後二山、「葛城山」と違う字で全国に三山あり、「臣籍降下した」と言う皇統に葛城王と言う親王の血統を持つ貴族が存在しているが、関わりはあるのだろうか?

明治維新以後、この地方の小さな町々から光市出身の伊藤博文(いとうひろぶみ)を始めとして、三人もの総理大臣を輩出している。

総理大臣が田布施町出身の岸信介と佐藤栄作氏で、政治家に縁のある土地柄である。

維新の「長州閥」と言ってしまえばそれまでだが、この土地の隠された謎も後ほどの章で解明してみたい。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

大内氏(おおうちうじ)】に続く。

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第一巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 15:35 | Comments(0)  

倭(わ)の国

中国の後漢時代、日本を呼ぶのに「倭(わ)の国」と言った。

この「倭」であるが、「河の対岸」と言う意味がある。

中国大陸から見て、隔たって「手が届かない所」と言う意味である。

前に、遮る様に横たわる「河」は、何処を指しているだろう。

また、倭と言う文字は素直に読むと「人に任せる(委任する・託す)」と読める。

自分達を中心に考えた中国独自の表現の方法で、読みようでは「支配の及ばない所」と言う事に成る。

だが、あくまでも「他人に任せる」と属国がごとく表現する。

この、「自分達を中心にものを考える」のが、中華思想である。

つまり、中国側から見れば、東の属国群の総称が「倭人の国」だったのだ。

中国の史書によると、朝鮮半島の北西に位置する遼寧省(リャオニィ・チャーン)の遼東半島(リャオトンパンタオ)南部にも倭人が居たとしている。

すなわち、倭人=日本列島の民と限定するには「無理がある」と言う事である。

この「倭の国解釈」の違いは、同じように後の人々がタイムラグ(時間的ずれ)を考慮に入れないで最終解釈だけを理解している「百姓の意味の変遷」と同じである。

日本列島が最初から「倭の国」と言うこの国の歴史的な誤解も、永い民族的歴史である誓約(うけい)の真実も、所詮帰属意識建前を優先して綺麗事の強情を張るばかりの「嘘付きの建前主義者」には真実は語れない。

倭の国は、朝鮮半島と日本列島を含んだ広域の倭人の住む地域の事である。

この「広域倭の国論」、半島側と列島側双方の頭の固い学者が、あくまでも「倭の国列島説」を主張している所から、高句麗第十九・代好太王(こうたいおう・広開土王・クァンゲトワン/在位三百九十一年~四百十二年)の「好太王顕彰碑」における墨水廓填本(ぼくすいかくてんぼん/拓本)の内容について、史実を反映していない為に、旧日本軍による碑文すり替え説や事実を隠蔽する為の「石灰塗布作戦」と言った論争が繰り広げられている。

好太王顕彰碑に拠ると、当時高句麗軍の南面方面の最大の敵は、倭と呼ばれていた当時の列島側(大和朝廷)からの「派遣軍」と言う事に成っている。

つまり、当時の倭(列島側/大和(やまと)朝廷)は強い勢力を持ち、百済と新羅を武力制圧して配下に押さえ、その派遣軍は新羅の王都・慶州を占拠したり、帯方軍の故地まで侵入して高句麗軍と戦った事に成っているのである。

所が、この時期に、列島側(大和朝廷)が「朝鮮半島に軍を派遣した」と言う事実はなく、碑文の解釈、さらには碑の文字に「何んらかの問題がある」とする説が提起されている。

碑文の解釈が「倭の国列島説」に符合しないから強引に「陰謀説」で辻褄合わせをするのだが、「広域倭の国論」であれば、充分に符合するのである。

何故なら、「広域倭の国論」であれば百済も新羅も「半島側の倭の国」だったからである。

この倭(わ)の国、実は一つの国ではない。

多数の都市国家もどきの「小国の集合体」である。

歴史書の記す所の「混乱」に、倭(わ)の国とその他の国を、強引に同列に分けて、それぞれ別の国と考える今風の概念の「物差し(ものさし)」が有るからだ。

この間違った考えから、倭の国=大和の国を導くと、後の説明がまるで付かないのである。

日本列島の西半分が統一され大和朝廷が成立する前は、多くの渡来部族が地方を武力掌握して小さな国家を成立させて、王を名乗って居た。

そして統一後は、大王家(おおきみけ/大国主/天皇)に対して臣下の礼をとる地方豪族・臣王(おみおう)は初期に国主(くにぬし)または国造(くにのみやっこ)県主(あがたぬし)とされる地方の「王」だった。

朝鮮半島までに広がっていた「古代・広域・倭国(わのくに)群」が消滅の道を辿ったのは、朝鮮半島側が早い時期に大きな国三ヶ国に成り、やがて統一国家「新羅統一王朝」の成立と伴に、倭の国の名称が日本列島側だけに残ったからで、その日本列島側の小国群の総称も「大和(やまと)朝廷」であり、「倭国(わのくに)」ではない。

朝鮮半島側に新羅(シルラ)統一王朝が成立した為、大陸の中華帝国は半島を新羅(シルラ)と呼び、残りの日本列島を倭国(わのくに)として呼称を残した為に、日本列島・大和朝廷を「倭国(わのくに)と認識した」と考えられるのである。

桃太郎伝説の誤解と真実】に続く。

詳しくは、小論【広域和の国】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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呉族(ごぞく/海洋民族)】に飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 15:31 | Comments(0)  

倭の五王(わのごおう)

中華帝国・宋代の朝廷文書「宋書(四百二十~五百二年頃編纂)」の「倭国伝」に見える倭王(讃・珍・済・興・武)についても、倭の五王と「記・紀(古事記や日本書紀)」に登場する古代天皇との比定の努力が古くからなされているが、まだ確定した説はない。

倭国の五人の王「讃、珍、済、興、武」は、歴代の大王(おおきみ/古代天皇)とも並立していた大王(おおきみ)とも言われて、その「記・紀」の系譜自体に疑問がもたれている。

このそれぞれに使節を派遣して朝貢し、官位を授かった事を「宋書」に記している讃、珍、済、興、武の五王についても、その思考の最初から「倭国=列島の国」と限定して歴代の大王(おおきみ/古代天皇)と比定を試みているが、我輩が提唱する「広域倭の国論」であれば、倭の五王が列島の大王(おおきみ)とは限らない事になる。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 15:25 | Comments(0)