文観弘真(もんかんこうしん)

鎌倉末期から建武親政期室町初期にかけて、京都醍醐寺に文観弘真(もんかんこうしん)と言う僧侶がいた。

彼は先人で有る仁寛(にんかん)僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮(もくれん)真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。

後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。

文観は、僧侶にしては恐ろしく身軽で、何やら武術の心得もあり、得体の知れない所があったが、如何(どお)やら奈良西大寺の真言僧の若い頃に修験武術を会得しているらしかった。

実は出自不明と言われる文観弘真は、一説に拠ると、勘解由小路吉次の三男、伊勢(三郎)義盛の忘れ形見で、後に伊勢国(三重県亀山市 関町小野・旧鈴鹿郡関町小野)の国人武将となった小野(伊勢)義真の末裔・小野(伊勢)弘真だったので有る。

文観弘真僧正は、小野文観(おののもんかん)とも名乗っている。

伊勢の国(三重県)関町は戦国から江戸期にかけて火縄の産地として有名だった。

正式には定説は無く文観の出自は不明だが、過去が見えない事から勘解由小路党の草で有る事はどうやら間違いなさそうで有る。

建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立】に飛ぶ。
真言密教立川流と後醍醐天皇の子沢山】に飛ぶ。
真言密教立川流の解説】に飛ぶ。

文観弘真僧正については第二巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第二巻をお読み下さい。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:57 | Comments(0)  

大塔宮(おおとうのみや)/護良親王(もりながしんのう)

後醍醐天皇の即位六年目、千三百二十四年、後伏見上皇が幕府の後援を受けて一方的に皇子量仁(かずひと)親王の立太子を企てた為、業をにやした後醍醐天皇は、鎌倉幕府からの政権奪取を画策する。

後醍醐天皇は側近の日野資朝(ひのすけとも)日野俊基(ひのとしとも)らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告した事によりこれが露顕してしまう。

この時の謀議は発覚し、中納言・日野資朝(すけとも)が後醍醐帝を庇って罪を被り、首謀者とされ、佐渡国(佐渡ヶ島)に流される。

美濃国に在った後醍醐帝勤皇の士・多治見国長や土岐頼兼らは、追い詰められて自刃した。

これを「正中の変」と言う。

日野(ひの)家は、藤原氏北家流の名家の家格を有した公家で、儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えた。

勘解由小路(かでのこうじ)家は、日野家の流れでも有る。

そして、その本質は、賀茂家の影人の血筋だった。

つまり、日野家も影の血を引いていたのので、それ故今度の事には後醍醐天皇に味方した。

画策した後醍醐天皇や醍醐寺僧侶文観は、この時はうまく難を逃れている。

だが、この時既に鎌倉方の要注意人物に成って、その動静は京都の六波羅探題に警戒されていた。

日野資朝が一身に罪を被って佐渡国(佐渡ヶ島)に流された為、事無を得た後醍醐天皇は、十一歳で比叡山延暦寺に入山した皇子の護良(もりなが)親王を二十歳で最高位の天台宗の座主(ざす)に就任させる事により、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。

護良親王(もりながしんのう)は天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に尊雲法親王として入っている。

この時に門室を置いたのが東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺だった事から、大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれた。

その後門跡を継承して門主となり、後醍醐天皇の画策で天台座主となって居るが、護良親王(もりながしんのう)は武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む「極めて例が無い座主であった」と言われている。

後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕運動に明け暮れている頃、護良(もりなが親王)は荒法師達を相手に武芸の訓練に励みつつ、比叡山で倒幕の準備を着々と進め、また幕府調伏の祈祷をも行っていた。

比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、僧兵達を多く抱えた要塞として、台密山伏の本拠地として名高い。

元々日本の武術は、修験道の荒法師から発生して体系付けられたもので、護良(もりなが)親王が修行をしても不思議はない。

覇王を目指した男を父に持つ護良(もりなが)親王が生まれて来た時は、永く続いた平穏の時が終わりつつある鎌倉末期である。

天下大乱の予兆はあった。生まれてくる皇子は、背負い切れない運命を背負っていた。

我輩が魅力を感じるのは、権力に固執せず、クールな熱血漢の美学に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的で純粋な信念ある生き方をしたのがこの男、後醍醐天皇・第一皇子(だいいちみこ)・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王である。

河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)も捨て難いが、悲劇的な護良(もりなが)親王の生涯には及ばない。

一方、千三百三十二年に「隠岐(おき)の島」に流された後醍醐天皇の流刑中に、息子(第一皇子)の天台宗座主(ざす)尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮(おおとうのみや)として臣民の支持を一身に集めた。

護良親王を産んだ源親子(みなもとのちかこ)は、権大納言・源師親(みなもともろちか・村上源氏北畠家)の娘である。

尊良(たかなが)親王を「第一皇子」とするものも世間に見受けられるが、これは第一皇子の大塔宮(おおとうのみや)護良(もりなが)親王が仏門(天台宗)にあって、世俗の舞台へのデビューが、尊良(たかなが)親王より遅れた事による間違いである。

第一皇子の護良(もりなが)親王は千三百八年生まれ、尊良(たかなが)親王は千三百十一年生まれで、護良(もりなが)親王の三歳年下の第二皇子に成る。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王(もりながしんのう)は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、足利尊氏は鎮守府将軍となった。

護良(もりなが)親王は建武政権においても足利尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に義良親王(後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。

しかし、足利尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫・阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集めたりしたため、征夷大将軍を解任される。

千三百三十四年(建武元年)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれる。

大塔宮護良親王は、父(後醍醐帝)に愛されなかった人物である。

人間何かを背負って生きる者で、何事にも代償は必要である。

高貴な生まれだからと言って、人生何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。

親王は、心を開かない父帝に生涯心痛めながらも、純粋に父帝を慕っていた。

それは、後醍醐帝の第一皇子として育てられた無償の愛だった。

護良親王は、武をもって、鎌倉幕府から父(後醍醐帝)が権力奪取する事に尽くし、帝の「建武親政」を成立されながら、父(後醍醐帝)に疎(うと)まれて足利方・鎌倉に入牢、惨殺されている。

詳細は【元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡】に飛ぶ。

大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)については第二巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第二巻をお読み下さい。

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詳しくは、関連小論・【真言密教立川流の解説】に参照下さい。
詳しくは、関連小説・【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:53 | Comments(1)  

森(成利)欄丸(もりらんまる)

森(成利)欄丸は稚児小姓上がりの織田信長側近である。

稚児小姓とは閨(ねや)で夜伽の相手(男色)をした小姓を言い、森欄丸の前は若い頃の前田利家が稚児小姓を務めていた。

森成利(もりなりとし/蘭丸)の森氏(もりうじ)は、清和源氏の一家系・河内源氏の棟梁である、八幡太郎・源義家の七男(六男説あり)・源義隆(みなもとのよしたか)を祖とする。

成利(なりとし/蘭丸)の父は、美濃・斉藤家の家臣から織田家の客将・家臣に納まり、近江・坂本城で討ち死にした知将・森可成(もりよしなり)である。

森可成(もりよしなり)の三男・成利(なりとし/蘭丸)は、織田信長の稚児小姓から岩村城五万石の大名にまで取り立てられ、本能寺で最後まで信長の傍近くにいた。

信長の男色寵愛を受け、織田・家臣団の第二世代トップの位置に居た人物が成利(なりとし/蘭丸)だった。

兄に猛将と謳われた森長可(もりながよし)が居る。

兄・森長可(もりながよし)も戦国時代から安土桃山時代の初期にか掛けて活躍し、一時は二十万石の太守に成った人物である。

森成利(もりなりとし/蘭丸)は、十二歳で織田信長の小姓(近江国に五百石の知行)として召抱えられ、「本能寺の変」当時はまだ十六歳だった。

戦国期は、親兄弟息子に到るまで油断がならない。

増してや部下などは、下克上を虎視眈々と伺っているやも知れない。

大方が自分もそうして来たから、それが世の習いだった。

それ故この時代、大名は稚児小姓を愛でる習慣があったが、それは、硬い絆の元に安心できる部下の確保育成を目的とする一面を持っていた。

稚児小姓になる方も、主君の信頼を獲得し出世が保障される所から、世間でもこの関係を、「さして異様なもの」とは扱われていなかった。

余談だが、こうした形態の信頼構築の心理は、何も戦国時代の主従関係における特殊な事例ではない。

もっとも同性同士はめずらしいだろうが、異性同士なら、実は現代の上司と部下の場合でも「職場不倫」と言う形で存在し、珍しいものではない。

けして職場不倫をお薦めしたり肯定する訳ではなく、ただの心理分析であるが、職場不倫には、互いに不安を打ち消す手段として、奇妙な「刹那的(せつなてき)安心心理」が介在している。

つまり、古代から脈々と流れている性交を交えて信頼関係を築く「誓約(うけい)心理」が、変形して具現化されたものである。

腹心の部下を「懐刀(ふところかたな)」と言う。

職場不倫にも、ある種そうした要求が働く。

基本的に「誓約(うけい)心理」が働いて関係が形成されるものであるから、ドロドロの関係になる危険を孕むにも関わらず、発生する不倫には、ただの肉体的快楽目的だけではなく、相応の安心の合意に拠る人間的心理が働く。

弱肉強食のコンクリートジャングルの職場社会にあって、上司が本当に気を赦せ信頼できる異性は肉体(性交)を赦す相手である。

部下の方も、上司が愛人なら、職場として安心できる環境が整う事になる。

そうした人間心理「誓約(うけい)」は、何千年も変わらない事を意味している。

困った事に、こうした安心心理の介在を「愛」と誤解するからドロドロの仲になる。

覚めてみると、「愛なんかじゃない」と言う事に気付くのが一般的である。

関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】を参照下さい。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:45 | Comments(0)  

山伏(やまぶし)

表向きの山伏(やまぶし)の概念は、山の中をひたすら歩き、修行をする修験道の行者の事であり、「修験者」(しゅげんじゃ)とも言い、奥深い山中で、踏破や懺悔などの厳しい艱難苦行を行なって、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事を目的とする。

この修験道の「密教・山岳信仰」のルーツこそ、中華帝国を経由し仏教と習合して伝わった遥かヒマラヤ山脈の「夜這いの国々のヒンズー教起源」である事は間違いない。

元々弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典を現代の先入観に当て嵌めて真言密教を理解しようとする所に無理がある。

弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典には、ヒンドゥー教の経典も多数含まれていた事から、真言密教が生まれた。

だからこそヒマラヤ原産の桜木も日本に伝わり、吉野に代表する山岳信仰と桜木は日本でも一体のものと成った。


山伏は「やまぶせ」とも読め、恐らくは身を隠す仕事(影の仕事)を意味している。

大和朝廷の幕開けの頃、「恐怖の支配」を実践したのは、初期修験道師達である。

初期修験道師は、果たして民間の自然発生的なものだったのか?

疑うべき最大の疑問は資金と組織力で、表向きの個人的な宗教への情熱などが理由では余りにも話が綺麗過ぎる。

つまり、行動範囲と人数の規模が、不自然に大掛かりに過ぎるのだ。

それに修験者のあのお馴染の「行者服」の出(い)で立ち、中々凝っていて高価そうである。

山中でも一目で識別が可能なしろものであるが、活動費や行者服(ぎょうじゃふく)の資金はいったい何処から出ていたのか?

あれは常識的に考えて「軍事組織か警察組織の制服にしか見えない」が、如何か?
昔は武人の装備を「出(い)で立ち」と言った。

これには、機能性以外に相手を威圧したり心服させる為のアピール効果の目的が込められている。

いずれにしても、残念ながら人間の見かけなどそう差が有る訳ではないから、衣装や住居など現代にも通じる「こけおどし」が無ければ相手には中々認めては貰えない。

修験者の「行者服」の出(い)で立ちの裏に、「表沙汰にし難い理由」があり、宗教(信仰)でカモフラージュして民間の体裁を整えた「公的な秘密組織ではないか」と、我輩は疑ってみた。

元々衣装や装飾は、身分を現す為の言わば「分別標識」である。

童話ではないが、王子と乞食が衣装や装飾を取り替えれば、だれも乞食が「本物の王子だ」とは気が付かない。

わが国でも「馬子にも衣装」と言う諺(ことわざ)がある。
裏返すと、元々大差がないものをそれらしく見せる為に衣装や装飾は存在し、時代に拠っては身分の違うものに、その衣装や装飾の使用は制限されていた。

国家を形成する重要要件の一つが帰属意識(きぞくいしき)である。

人間には帰属意識(きぞくいしき)があり、その帰属意識(きぞくいしき)は人種(民族意識)だったり国(国民意識)だったり、同一宗教や勤務先企業だったりするのだが、その根底に在るのは「人間が群れ社会の生き物である」と言う極原始的な本能にある。

また、その帰属意識(きぞくいしき)の形成過程に影響を与えるのが、この「群れ社会の生き物」と言う原始的な帰属本能と「集団同調性(多数派同調)バイアス」と言う心理効果の利用である。

この集団同調性(多数派同調)バイアスに関してだが、多くの場合は宗教指導者や為政者、またはその両者が協力して「信仰心や民話の刷り込み」が応用され帰属意識(きぞくいしき)を醸成して行く事になる。

天武帝桓武帝が進めた古事記日本書紀の編纂とそれを広める陰陽修験道師の活動は、正に帝の下に国家を統一させる為の国策だった訳である。

そして異説だが、縄文期に古代イスラエルの失われた十支族の一部が列島に移り住んで原住民と民族的に和合し、縄文人を形成した痕跡が存在する。

その縄文人が「ヘブライ文化の一部を定着させた」と言う、未だ解明されない「古代ヘブライ(ユダヤ)伝説」がある。

実はこのヘブライ文化が、六百九十九(文武天皇三年)に役小角(えんのおずぬ)が成立させたの陰陽道に、日本列島の原信仰として取り入れられた形跡がある。


そしてかなり時代が下ってからだが、神前祭祀(しんぜんさいし)に於ける邪気払いの大麻(おおぬさ)は、修験道の「祈願・焚(た)き行」でも使われていた。

大麻草(マリファナ)は、真言密教の遠祖・チベット仏教(ラマ教)の地であるヒマラヤ高地一帯で自然に自生していた薬草である。

当然ながら密教・修験道師(山伏)は、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人が陶酔作用を引き起こす事をしばしば信者獲得に利用した。

大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。

つまり密室での「焚(た)き行」の陶酔の中で、願主と修験道師(山伏)が如何なる加持祈祷儀式を為して居たかは当事者しか知らない。

陰陽師起源の詳しくは、小論【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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# by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:39 | Comments(0)  

邪馬台国(ヤマタイコク)

邪馬台国が何処(どこ)に在ったのか、それはまだ特定されていない。

それも、永い間多くの学者が挑戦しての結果である。

邪馬台国(やまたいこく)は、わが国の古事記日本書紀に記述がなく、中国の「魏志倭人伝に記述が在る」と言う謎の国である。

魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているのは、卑弥呼の邪馬台国・スサノウ狗奴国葛城氏伊都国の三っの国だけで、つまりこの三っの国が当時の日本列島に於いて広域・有力な王国である可能性が強い。

そして広域倭国論を念頭に考えると、邪馬台国(やまたいこく)の所在が必ずしも日本列島に限定するものではない事も事実である。

それでもあえて日本列島で考えるなら、あくまでも推論だが、もしそれが天孫降(光)臨伝説に矛盾する事を塗布する為の「簡単なトリックだ」としたら、歴史学者はそのトリックを基にそれこそ「幻の邪馬台国」を追い続けて居る事になる。

邪馬台国の存在が「簡単なトリックだ」とすると、シンプルなアプローチも出来なくはない。

「大和の国」の音も、正しく「邪馬台国」の音に似ているのだ。

このヤマトの音であるが、中国式の発音で邪(ヤー)馬(マー)台(トゥ)と発音が合うので、大和はその充て読みと、我輩は考えている。

何故なら、通常使用するに大和の文字は、タイワ・ダイワとしか読めない。

中国式の発音でも大(タァー)和(ホォ)である。

それを、ダイワ(大和)に「国または朝廷」をつけて初めて、「ヤマトノクニや、ヤマトチョウテイ」と読ませる。


被征服者(民人・蝦夷)にとって、渡来系征服部族(後の皇統と貴族)は当初「恐怖の大王達」だった。

とにかく突然やって来て武力で土地を作物を強奪し、隷属を要求して支配者に治まる。

それらが土地の豪族(氏上)と成り、やがて勢力を拡大して小国家(王・臣王・国主)を作る。

その小国家群が連立して統一国家を形成、大和大国(やまとのおおくに)が成立して大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)を選出する道を辿るのである。

大和大国(やまとのおおくに)の大和(やまと)は大和合(だいわごう)で、大和合の大国(おおくに)と実に判り易い。

判り易いのに神話の天孫光臨伝説には符合しないから、「大和合大国(だいわごうのおおくに)では都合が悪い」と言う矛盾を抱えた名前が大和大国(やまとのおおくに)の名称である。

ちなみに、大和合(だいわごう)の大和(だいわ)を、邪馬台国(やまたいこく)の邪馬台(やまたい/ヤマタイの文字も音表記の充て字)に充ててヤマトと読ませ、「大和=やまと」ならシンプルで良いのだが・・・

特別記事・【日本人の祖先は何処から来たのか?(四)邪馬台国と狗奴国】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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