武内宿禰(たけしうちのすくね)

武内宿禰(たけしうちのすくね/たけのうちのすくね)は、勿論一人の人物としては歴史上実存しない。

古代日本(上古代)の大王(おおきみ/天皇)の多数の忠臣達の群像を、理想的に擬人化し創出した伝説上の人物である。

日本書紀」では「武内宿禰(たけしうちのすくね/たけのうちのすくね)」、「古事記」では「建内宿禰(たけしうちのすくね)」、他文献では「建内足尼」とも表記される。

「宿禰(すくね)」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。


第十二代景行第十三代成務第十四代仲哀第十五代応神第十六代仁徳の五代の各大王(おおきみ/天皇)に仕えたという伝説上の忠臣である。

また、熊襲(くまそ)の討伐や三韓征伐を為したとされる「神功皇后(じんぐうこうごう)に付き従い、戦果に貢献した。」とされている。

武内宿禰(たけしうちのすくね/たけのうちのすくね)は、紀(き)氏・巨勢(こせ)氏・平群(へぐり)氏・葛城(かずらき)氏蘇我(そが)氏など中央有力豪族の祖ともされる。


「日本書紀」では、武内宿禰(たけしうちのすくね)の生まれについて「景行天皇紀」に拠ると、大王(おおきみ/天皇)は紀伊に行幸して神祇祭祀を行おうとしたが、占いで不吉と出たため、代わりに屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が遣わされた。

そして武雄心命(おたけおごころのみこと)が阿備柏原(あびのかしわばら:現・和歌山市相坂・松原かにて留まり住むこと九年、その間に影媛(かげひめ)との間に儲けたのが武内宿禰(たけしうちのすくね)であるという。


また成務天皇紀では、武内宿禰(たけしうちのすくね)は第十三代・成務大王(おおきみ/天皇)と同日の生まれ(景行十四年、月日不詳)としている。

その後、景行大王(けいこうおおきみ/第十二代天皇)から仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)までの五代に渡り武内宿禰(たけしうちのすくね)の事績が記されている。


「古事記」に於いても、建内宿禰(たけしうちのすくね/武内宿禰)に関して「日本書紀」と同様の説話が記されている。


なお武内宿禰(たけしうちのすくね)の系譜に関しては、武内宿禰(たけしうちのすくね)が後世(七世紀後半頃か)に創出された人物と見られる。

その事や、稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は「ヒコ → スクネ → ワケ」と変遷するべきで葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の位置が不自然である事から、原系譜では武内宿禰(たけしうちのすくね)の位置には襲津彦(そつひこ)があったとする説がある。


仁徳五十五年三月に武内宿禰(たけしうちのすくね)は三百六十余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残して行方知らずとなったという。

その他「公卿補任」では薨年未詳で二百九十五歳にて死去または一説として仁徳五十五年に年齢未詳で死去とある。

「水鏡」では、武内宿禰(たけしうちのすくね)は仁徳五十五年に二百八十歳で死去、「帝王編年記」では仁徳七十八年に年齢未詳または一説として三百十二歳)で死去したとある。


「日本書紀」・「古事記」の記す武内宿禰(たけしうちのすくね)の伝承には、歴代の大王(おおきみ/天皇)に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う人物像等が特徴として指摘される。

特に、大臣を輩出した有力豪族の葛城(かずらき)氏・平群(へぐり)氏・巨勢(こせ)氏・蘇我(そが)氏ら四氏が共通の祖とする事から、武内宿禰(たけしうちのすくね)には大臣の理想像が描かれているとされる。


ただし、「古事記」では「日本書紀」に比して武内宿禰(たけしうちのすくね)の物語が少ない事から、「旧辞」の成立より後、蘇我馬子(そがのうまこ)中臣鎌足(なかとみのかまたり/藤原鎌足)ら忠臣がモデルとなってその人物像が成立したと推測されてもいる。

また、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね/味師内宿禰)とともに「内宿禰」を称する事から、大和国宇智郡を根拠とした豪族の「有至臣(うちつおみ/内臣)」との関連も指摘される。


注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


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# by mmcjiyodan | 2017-08-28 17:22 | Comments(0)  

熊襲(くまそ)=隼人(はやと)

熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話(古事記・日本書紀)に登場する、九州南部に本拠地を構えてヤマト王権(大和朝廷)に抵抗したとされる人々の記述がある。

日本史学者・津田左右吉らの説に、熊襲(くまそ)は五世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人(はやと)」として仕えたという説がある。


熊襲(くまそ)は、部族が居住した地域名を意味するとされる語で、肥後国球磨郡(くまぐん・現人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国(おおすみのくに)曽於郡(そおぐん。現霧島市周辺及び現曽於市)に居住した部族とされる。

古事記」には熊曾と表記され、「日本書紀」には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。


「古事記」には、景行大王(けいこうおうきみ/天皇)の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)による熊襲建(クマソタケル/川上梟帥)の征伐譚が記されいる。

「日本書紀」に於いては、日本武尊(やまとたけるのみこと)に先立つ景行大王(けいこうおうきみ天皇)自身の征討伝説が記されている。

特に「古事記」では、当時はまだ小碓命( おうすのみこと)と名乗った日本武尊(ヤマトタケル)が、女装し熊襲建(クマソタケル兄弟)の寝所に忍び込み、これらを討ちとる。

その征伐譚際に、小碓命( おうすのみこと)が「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である。


なお、隼人(はやと)研究家の日本史学者・中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲(くまそ)の本拠は、都城地方や贈於(そお)地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。


魏志倭人伝中の狗奴国(くなくに)をクマソの国であるとする説が、東洋学者・内藤湖南、津田左右吉、古代史(上代日本史)・井上光貞らにより唱えられている。

ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。


文献資料ではなく、土器の分布の面からは、免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲(くまそ)の文化圏によって生み出されたものではないかと考古学・森浩一は考察している。


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# by mmcjiyodan | 2017-08-24 21:48 | Comments(0)  

皇統初期・欠史八代(けっしはちだい)

欠史八代(けっしはちだい)とは、第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までの八人の大王(おおきみ/天皇)の実在が疑われている事を言う。

皇統の初期段階の大王(おおきみ/天皇)について、実在を裏付ける資料がほとんど無い事から「伝説上だけの存在で、実在しないではないか?」とされ、「欠史八代」として別に扱われる大王(おおきみ/天皇)が居る。

第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇) = 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)

第三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)=磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)

第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)=大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)

第五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)=観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)

第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)=日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)

第七代・孝霊大王(こうれいおおきみ/天皇)=大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)

第八代・孝元大王(こうげんおおきみ/天皇)=大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)

第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)=稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらミコト)

この初期皇統の疑惑を、以下この文章で少し詳しくお伝えする。

これらの大王(天皇)を「後に創作された架空のもの」とする根拠は、第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の「お名前・漢風諡号(かんふうしごう)」にあり、崇神大王(すじんおおきみ)の「お名前」である御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つからである。

つまり崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇)には、現代日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての大王(おおきみ/天皇)と言う評価がある。

「記・紀神話(古事記//日本書紀)」の謎解きの中にはこうしたメッセージも巧みに隠されていて、本来の系図では第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代である事を物語っている。


欠史八代(けっしはちだい)とは系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞/成し遂げた仕事)が記されない為、皇室の「起源の古さと権威を示す為」の偽作とされる疑惑が在る。

これらの大王(おおきみ/天皇)は実在説もあるが、史学界で支配的なのは「実在せず後に創作された架空のもの」とする考えが上記「欠史八代」である。

欠史八代(けっしはちだい)の大王(おおきみ/天皇)は「古事記・日本書紀」に「お名前」が記載されている。

例えば二代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)は、「古事記」では「神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)」と言い、「日本書紀」では「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)」とも言うのが、そのお名前は、「和風諡号(わふうしごう)」である。

綏靖(すいぜい)と言う呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船(おうみ の みふね)が歴代天皇の和風諡号(わふうしごう)を一括撰進した時に付されたが、その「古事記・日本書紀」での「お名前=和風諡号(わふうしごう)」に秘密が隠されていると読めるのだ。

つまり初代・神武天皇(じんむおおきみ/天皇)から九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは、架空の人物もしくは倭国群の内の一国から採って「記・紀神話(古事記/日本書紀)」などの古文書に記載した疑いもある。

また、五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)の「お名前・和風諡号(わふうしごう)」=観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)の名の中に在る「香殖稲(かえしね)」に、後世へのメッセージが疑われている。

香殖稲(かえしね/根を反す)とは、皇統が入れ替わった事を暗示させると疑いで、「欠史」にしても「香殖稲」にしても初期皇統にまつわる疑惑である。

そしてこの欠史八代と初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)が、賀茂・葛城氏の主神・事代主神(ことしろぬしのかみ)や賀茂・葛城御門(臣王)家と婚姻関係に在る事で、初期皇統の神武朝と賀茂朝をに見事に混合した疑いがある。

謎の始まりは、「古事記・日本書紀」に見える皇統・孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の存在である。

この孝昭大王(こうしょうおおきみ)、実在説もあるが、いわゆる欠史八代の一人で、実在しない大王(おおきみ/天皇)と捉える研究家の見方が一般的である。

「古事記」及び「日本書紀」に於いて、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の大王(おおきみ/天皇)の事、或いはその時代を指して欠史八代(けっしはちだい/缺史八代、また別体で闕史八代)とされている。


崇神大王(すじんおおきみ/天皇)と欠史八代】に続く。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


神武王朝四代に関しては、参考小論【神武王朝四代と葛城御門(かつらぎみかど)】を参照下さい。

五代・孝昭大王に関しては、参考小論【欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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# by mmcjiyodan | 2017-08-21 07:23 | Comments(0)  

崇神大王(すじんおおきみ/天皇)

崇神大王(すじんおおきみ/天皇)は、「古事記」及び「日本書紀」に記される第十代大王(おおきみ/天皇)である。

崇神大王(すじんおおきみ)の和風諡号(わふうしごう)は「日本書紀」では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)である。

また、崇神大王(すじんおおきみ)には御肇國天皇(はつくにしらすすめらのみこと)と称えられ、その諡号(しごう)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つ事に在る。

その諡号(しごう)から、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)には、現代日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての大王(天皇)と言う評価がある。

崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の「古事記」に於ける諡号(しごう)では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)である。


「古事記・日本書紀」に伝えられる事績の史実性、先帝達と繋がる系譜記事等には疑問もあるものの、三世紀から四世紀初めにかけて実在した大王(おおきみ/天皇)と捉える見方が少なくない。

初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が希薄であることから、この崇神大王(すじんおおきみ/天皇)をヤマト王権の初の大王(おおきみ/天皇)と考える説が存在する。

加えて「古事記・日本書紀」に記された事績の類似と諡号の共通性(後述)から、神武天皇と崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が同一人物とする説もある。

井上馨桂太郎の孫に当たる歴史学者・井上光貞は御名に後世的な作為が窺えず、欠史八代と違って旧辞も備わっている事から、崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇)を実在の可能性のある最初の帝としている。

ただし、井上光貞は崇神に次ぐ系譜と第十五代応神大王(おうじんおおきみ/天皇)以降の系譜との繋がりには懐疑的である。

歴史学者・直木孝次郎も同様の理由から応神以前に大和地方に存在した別王朝の首長と考えていた。

このように、後代の大王(おおきみ)・天皇達との連続性を疑う「王朝交替説」も存在する。


一方で神武大王(おおきみ)と欠史八代大王(おおきみ)の実在を支持する立場の歴史学者もいる。

その説では、「日本書紀」の記述に、畿内周辺の狭い領域の記述しか出て来なかったのは、初期のヤマト王権が「狭い領域の支配権しか有しなかったからではないか」と言う主張である。

その説では、畿内にしか力の及ばなかったヤマト王権が、崇神大王(すじんおおきみ)の代になって初めて全国規模の政権になったと考える説になる。


崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の代になって初めて「四道将軍の派遣など」など他地方にまで渡る記述が出てくる。

この事から、「初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは畿内周辺の狭い範囲の王朝だった」と言うのである。


「古事記」では、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して三百十八年(または二百五十八年)没と推測する説も見られる。

二百五十八年没説を採った場合、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なる事になる。


崇神大王(すじんおおきみ/天皇)をヤマト王権の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神の関わりをどう考えるかが問題となってくる。


邪馬台国畿内説からは、邪馬台国とヤマト王権は同一であるという認識の下、考古学者・水野正好は崇神を「卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」とする説を唱えている。

また、考古学者・西川寿勝は、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)は、「魏志倭人伝に記されている卑弥呼の男弟だった」という説を提唱している。


邪馬台国九州説からは、古代史学者・田中卓や歴史学者・武光誠などが「北九州にあった邪馬台国はヤマト王権とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神大王(すじんおおきみ/天皇)である」と提唱している。


加えて、思想史学者・古代史研究家の古田武彦等の、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)施政の同時代に「大和(日本)に卑弥呼のような女王はいない事からも邪馬台国畿内説は誤りである」とする説も存在する。


崇神大王(すじんおおきみ/天皇)は、「日本書紀」に於いて百二十歳にて崩御、「古事記」では戊寅年十二月、百六十歳にて崩御としている。

それにしても、いかに天孫の末裔とは言え「古事記」、「日本書紀」に記載の崇神大王(すじんおおきみ/天皇)崩御年齢は神格化の盛り過ぎではないのか?

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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# by mmcjiyodan | 2017-08-21 07:19 | Comments(0)  

反正大王(はんぜいおおきみ/天皇)

反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇)は、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の第三皇子である。

反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇)は、履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)の同母兄弟である。

つまり第十七代・履中(りちゅう)、第十八代・反正(はんぜい)、そして第十九代・允恭(いんぎょう)は、全て仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の皇子である。

そして、この三代の大王(おおきみ)は、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女子・磐之媛命(いわのひめのみこと)が同じ母である。


多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)は、淡路宮(所在地不詳、淡路島なのか?)で生まれ、容姿美麗であった。

生まれながらにして綺麗な歯並びであったので、瑞歯別(みずはわけ)の名があるという。


古事記」によれば、身長は九尺二寸半(約3.04m)、水歯別命(みずはわけ/多遅比瑞歯別尊)である。

多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)の名は、歯の長さが一寸、広さ(厚さ)は二分(4ミリ)で、上下等しく整っており、歯を褒め称えて、「水歯」と名付けられたことによる。


仁徳八十七年、父・仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子をその近習である曽婆訶理(隼人)を利用して直接手は下していないものの誅殺した。

履中二年一月四日に、多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)は、立太子(皇太弟)する。

反正六年三月十五日に履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)が崩御し、翌反正元年一月に即位する。

三代に渡る、皇位の兄弟継承はここに始まる。


反正年八月六日、共に和珥木事(わにのこごと)の娘である和珥津野媛(わにのつのひめ)を皇夫人に、和珥弟媛(わにのおとひめ)を妃に立てる。

反正大王(はんぜいおおきみ/天皇)は、同母兄弟の二大王と異なり皇族の妻を娶ることはなく、皇太子も立てず、子孫が即位することもなかった。

反正年十月、反正大王(はんぜいおおきみ)は河内丹比を都とする。

天下太平であり、何事もなく在位五年間、反正大王(はんぜいおおきみ)は、反正五年一月に崩御する。

「古事記」,「水鏡」に拠れば、反正大王(はんぜいおおきみ)六十歳での崩御である。

「古事記」に従えば、崩御した「丁丑年七月」は西暦四百三十七年に相当し、生年は逆算して、兄・履中大王(りちゅうおおきみ)より九歳年下の西暦三百七十八年に相当するが、定かではない。


反正大王(はんぜいおおきみ/天皇)の在位について、実態は明らかでない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


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# by mmcjiyodan | 2017-08-05 17:11 | Comments(0)