貨幣改鋳(かへいかいちゅう)

貨幣改鋳(かへいかいちゅう)とは、市場(しじょう)に流通している貨幣を回収してそれらを鋳潰し、金や銀の含有率や形を改訂した新たな貨幣を鋳造し、それらを改めて市場に流通させる事である。

目的の一つは財政政策で、支出の増加により悪化した財政の補填、大火や地震などの災害復興の為の費用、戦費や隊の維持費などを捻出する為に行われた。

改鋳によって貴金属の含有量を減らして以前より貨幣量を増やし、増えた分を益金(シニョリッジ)として得る事を目的として行われるものが多かった。

もう一つの目的は「気受け(きうけ)」に対する施策で、金銀不融通(きんぎんふゆうずう/資金の集中滞留)状況に対する対策である。

つまり大商人の倉に通貨が滞留して市中経済の活発を阻害した場合に、新通貨の貴金属の含有量を減らし価値を落とす事で、商人の手持ち旧通貨が差損を出す方策で強引に商人の消費を促す施策を採用した。


この貨幣改鋳に依る経済政策には、正反対の二つの意見がある。

正徳年間に貨幣改鋳を行なった新井白石は、貨幣数量説に基づいて「貨幣量が増加した事が物価の上昇をもたらした」と主張した。

弘化年間に町奉行に再任した遠山景元は、文政から天保期の物価上昇は「貨幣改鋳が原因の一つ」と主張している。

改鋳によるインフレーションは、貨幣価値の下落=貨幣の購買力の低下=平価切り下げとも言われている。

その一方で、改鋳による貨幣量の増加は貨幣の流通を後押しし、市場経済の活性化や拡大を促すとも言われている。

まぁ、この通貨量を増やす政策、現代の日本銀行がマイナス金利政策まで踏み込んだが、時の総裁がほぼ太平洋戦争と同じ期間の三年八カ月経過して「もう任期中には目標を達成できない」と匙を投げたほど理屈通りには行かないものである。


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# by mmcjiyodan | 2016-12-13 18:09 | Comments(0)  

敏達大王(びたつおおきみ/天皇)

敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の第二皇子として生まれた。

父・欽明大王(きんめいおおきみ)は、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の息子であり第十五代・応神大王(おおきみ/天皇)から分かれた傍系の出自であった。

このため、先々代の仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香(たしらか)を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった。

皇統のこの複雑な系流が、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)が「即位の為に任那(みまな)からやって来た任那の王族説」を否定できない理由に成っている。

この疑惑の詳しくは、小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。

つまり敏達大王(びたつおおきみ)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)と仁賢大王(にんけんおおきみ)の間に為された皇子だった。

欽明大王(きんめいおおきみ)は継体大王(けいたいおおきみ)と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)の皇女の間の息子である。

そして、母・石姫皇女(いしひめ)は宣化大王(せんかおおきみ/天皇・継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、敏達大王(びたつおおきみ)は父方・母方の双方からそれぞれ継体大王・仁賢大王・雄略大王(ゆうらくおおきみ/第二十一代天皇)の血を引いている。


五百七十一年五月二十四日(欽明三十二年四月三十日に、父・欽明大王(きんめいおおきみ)が崩御したことを受け、敏達大王(びたつおおきみ)は五百七十二年四月三十日に即位する。

敏達大王(びたつおおきみ)は、五百七十五年二月四日(敏達四年一月九日)に息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の女、広姫(ひろひめ)を皇后としたが、同年十一月に妃・広姫(ひろひめ)は崩御する。

翌五百七十六年四月二十三日(敏達五年三月十日)、十六歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后に立てた。

ここに一つ謎が在るのだが、実は敏達大王(びたつおおきみ)即位前の五百七十一年に額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を既に妃としていた。

額田部皇女(ぬかたべのひめみこ/後の推古大王)が皇女にもかかわらずそうでない広姫(ひろひめ)が何故当初皇后となったのかは不明である。


この敏達大王(びたつおおきみ)が、蘇我馬子(そがのうまこ)物部守屋(もののべのもりや)が争った宗教戦争の内乱、一方で、信仰に名を借りた権力闘争ともされる丁未の乱(ていびのらん)に巻き込まれる。

敏達大王(びたつおおきみ)は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が対立するという構図になっていた。

崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、五百八十五年(敏達十四年)に物部守屋(もののべのもりや)が敏達大王(びたつおおきみ)に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。

尼僧・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、晒し者にして連行し、群衆の目前で鞭打っ暴挙に出る。


五百八十五年九月十四日(敏達十四年八月十五日)敏達大王(びたつおおきみ)の病が重くなり崩御に到る。

敏達大王(びたつおおきみ)に皇太子はおらず、崩御の翌月の五百八十五年十月三日(敏達十四年九月五日)、日本書紀に依ると異母兄弟の大兄皇子が用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)として即位した。

この代替わりの結果、仏教を巡る争いは次世代に持ち越された。


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# by mmcjiyodan | 2016-12-05 17:07 | Comments(0)  

物部守屋(もののべのもりや)と丁未の乱(ていびのらん)

物部守屋(もののべのもりや)は古墳時代の大連(おおむらじ/有力豪族)物部氏の頭領一族で、物部尾輿(もののべのおこし)の子である。

守屋(もりや)の物部氏の名乗りの物部は武器及び軍事物資の事で、物部氏は有力な軍事氏族である。


丁未の乱(ていびのらん)は、古墳時代に起きた蘇我氏と物部氏の宗教戦争の内乱と言われている。

しかしその一方で、信仰に名を借りた権力闘争の悪臭も香って来る。

物部氏は独自の物部神道を有し、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立したとされるが、「守屋(もりや)個人の意思」とも言われる。

何故なら、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もあるからだ。


五百七十二年(敏達天皇元年)、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の即位に伴い、守屋(もりや)は大連(おおむらじ)に任じられる。

五百八十五年(敏達天皇十四年)、病になった大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ/中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神=仏教)を信奉した為に疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)は、この求めを受け入れ仏法を止めるよう詔した。

守屋(もりや)は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子(うまこ)や司馬達等(しばたっと)ら仏法信者を面罵した。

更に守屋(もりや)は、達等(たっと)の娘・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

しかし守屋(もりや)の行動に効果は無く、疫病は更に激しくなり、敏達大王(びたつおおきみ)も病に伏した。

馬子(うまこ)は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、敏達大王(びたつおおきみ)は馬子(うまこ)に限り許した。

敏達大王(びたつおおきみ)の許可を得た馬子(うまこ)は、守屋(もりや)に迫害された三尼を崇拝し、寺を営んだ。


ほどなくして、敏達大王(びたつおおきみ)は崩御し、殯宮(あがりのみや/もがり のみや)で葬儀が行われ、馬子(うまこ)は佩刀(はいとう/腰に刀を帯び)して誄言(しのびごと)を奉った。

守屋(もりや)は「猟箭(ししや/猟矢)がつきたった雀鳥のようだ」と笑い、守屋が身を震わせて誄言(しのびごと)を奉ると、馬子(うまこ)は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。


敏達大王(びたつおおきみ)の次帝には馬子(うまこ)の推す用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇・欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位する。

馬子(うまこ)に対抗する守屋(もりや)は、敏達大王(びたつおおきみ)の異母弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と結んだ。


五百八十六年(用明天皇元年)穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、炊屋姫(しきやひめ/敏達大王の后妃)を犯そうと欲して殯宮(あがりのみや/もがり のみや)に押し入ろうとしたが、敏達前帝の寵臣・三輪逆(みわのさかう)に阻(はば)まれる。

その邪魔を怨んだ穴穂部皇子(あなほべのみこ)は守屋(もりや)に命じて三輪逆(みわのさかう)を殺させる。

馬子(うまこ)は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆くが、守屋(もりや)は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えたと言う。


五百八十七年(用明天皇二年四月二日)、用明大王(ようめいおおきみ)は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ)は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対する。


馬子(うまこ)は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子(あなほべのみこ)に僧の豊国をつれて来させるが守屋(もりや)は睨みつけて大いに怒る。


史(書記)の押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)が守屋(もりや)に、群臣たちが守屋(もりや)の帰路を断とうとしていると告げた。

守屋(もりや)は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国渋川郡跡部郷=現在の大阪府八尾市跡部)へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海(なかとみのかつみ)は、馬子派の皇子・彦人皇子(ひこひとのみこ)と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作り呪詛した。


しかし、中臣勝海(なかとみのかつみ)は、やがて彦人皇子(ひこひとのみこ)の邸へ行き用明大王(ようめいおおきみ)への帰服を誓った。

自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子(ひこひとのみこ)と馬子(うまこ)の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている。

その彦人皇子邸から帰路、舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が中臣勝海(なかとみのかつみ)を斬った。


守屋(もりや)は、物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子(うまこ)のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。


そうした混乱の中、五百八十七年(用明天皇二年四月九日)、病を得てわずか六日で用明大王(ようめいおおきみ)は崩御した。

守屋(もりや)は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようと図ったが、六月七日、馬子(うまこ)は炊屋姫(しきやひめ)の詔を得て、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を包囲して誅殺し、翌日には宅部皇子(やかべのみこ)を誅した。


七月、馬子(うまこ)は群臣にはかり、守屋(もりや)を滅ぼすことを決める。

馬子(うまこ)は泊瀬部皇子(はつせべのみこ/後の崇峻大王)、竹田皇子(たけだのみこ)、厩戸皇子(うまやどのみこ)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋(もりや)の館へ向かった。

守屋(もりや)は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。

その軍は強盛で、守屋(もりや)は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけ応戦した。

皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

これを見た厩戸皇子(うまやどのみこ)は、仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。

馬子(うまこ)は、軍を立て直して進軍させた。


舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋(もりや)を射落として殺した。

寄せ手は攻めかかり、守屋(もりや)の子らを殺し、守屋(もりや)の軍は敗北して逃げ散った。


守屋(もりや)の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」と称する。


厩戸皇子(うまやどのみこ)は摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子(うまこ)のものになった。

馬子(うまこ)の妻が守屋(もりや)の妹であるので、物部氏の相続権があると主張したためである。

また、残りの半分は四天王寺へ寄進された。


戦国時代の近江の戦国大名・浅井氏は、守屋(もりや)の末裔を称している。


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# by mmcjiyodan | 2016-12-03 19:30 | Comments(0)  

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

日本史に於ける廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味である。

仏教寺院・仏像・経巻を破毀(はき)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する事を指す。

古代日本に於いては、日本の初期信仰は神道だった。

そこに仏教が伝来し、日本書紀の欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)・敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)・用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)の各天皇記を基にすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われた。

しかし日本の大和朝廷は、先進の中華文明を取り入れる為に「神仏習合」をもってこれを受け入れる方向にシフトした。

やがて、仏教が浸透していく事によってこのような動きは見られなくなった。


戦国時代及び安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した一部地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

江戸時代前期に於いては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まる。

この影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内に於いて仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。

なかでも、徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏は規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなった。

水戸藩主・徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。

天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。

幕末期に新政府を形成する事になった勤皇派の志士達は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。

言うまでも無いが、皇室は日本神道の最上位である天照大御神の祭司であり、その新体制を強化しうる動きの一環と言える。

また同時期に勃興した国学に於いても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。

中でも平田派(平田篤胤/ひらたあつたね・復古神道)は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与する事になった。

この経緯を経て、大政奉還後に成立した新政府によって「神仏習合を廃して神仏分離を押し進める廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が明治維新後に発生した。

千八百六十八年四月十五日(慶応四年三月十三日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、及び千八百七十年二月三日(明治三年一月三日)に出された詔書「大教宣布」などの神仏習合の廃止政策が図られた。

「神仏分離令」や「大教宣布」は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかった。

しかし、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。

明治期の神仏分離政策後、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。


明治新政府の政策に拠り、皇統の神格化が図られて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行うまでは、日本の宗教政策は大和朝廷以来江戸末期まで、信仰に基付く争いを避ける知恵を働かせて、基本的に永い期間「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」政策だった。

所が明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰陰陽修験犬神信仰真言大覚寺派の教えも、明治維新まで或いは戦前までは「共生主義」の一形態として民衆の間に根強く残っていたのは確かである。


神仏分離が廃仏毀釈に至った原因は地域・事例ごとに様々である。

廃仏思想を背景とするものの他、近世までの寺檀制度下に於ける寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、地方官が寺院財産の収公を狙っての事など、社会的・政治的理由も窺える。

政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ事」と、神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではないとの注意を改めて喚起した。

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# by mmcjiyodan | 2016-12-02 13:57 | Comments(0)  

和気清麻呂(わけのきよまろ)

和気清麻呂(わけのきよまろ)は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身で、当初の氏姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)を名乗る。

のち藤野真人(ふじののまひと/輔治能)、和気宿禰(わけのすくね)、和気朝臣(わけのあそみ)に改めた。

清麻呂(きよまろ)は、磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)または平麻呂(たいらまろ)の子として生まれた奈良時代末期から平安時代初期の貴族である。


七百六十九年(神護景雲三年)七月頃、宇佐八幡宮神託事件が起こる。

宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛を与えていた「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に就かせれば天下太平になる。」と称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)へ奏上する。

道鏡はこれを信じて、或るいは道鏡が習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自らが皇位に就く事を望む。

称徳大王(しょうとくおおきみ)は、神託の確認に側近の尼僧・和気広虫(わけのひろむし/法均尼)を召そうとする。

だが、虚弱な広虫(ひろむし/法均)では長旅は堪えられぬ為、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。

清麻呂(きよまろ)は称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の使者(勅使)として宇佐八幡宮に参宮し、宝物を奉り宣命の文を読もうとした。

その時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊く(きく/受け入れる)事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願う。

すると、身の丈三丈、およそ九mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊(き)く事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は与曽女(よそめ)とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳大王(しょうとくおおきみ)へ報告した。

清麻呂(きよまろ)の報告を聞いた称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は怒り、清麻呂(きよまろ)を輔治能真人(ふじののまひと)姓を与え因幡員外介(いなばいんがいのすけ)に一旦左遷する。

その上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。


七百七十年(神護景雲四年)八月、称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は崩御し、後ろ楯を無くした道鏡は失脚したため清麻呂(きよまろ)は光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)により従五位下に復位した。

その後、和気清麻呂(わけのきよまろ)は播磨・豊前の国司(こくし/くにのつかさ)を歴任する。

この時、清麻呂(きよまろ)は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造(くにのみやつこ)に任じられている。

その後清麻呂(きよまろ)は、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の下で実務官僚として重用されて高官となる。

清麻呂(きよまろ)は、山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し、七百九十三年(延暦十二年)自ら造営大夫として尽力した。

もし、和気清麻呂(わけのきよまろ)が称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の意向に応じて居れば、「この宇佐八幡宮神託事件で皇統が途切れていた。」として評価される人物である。


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# by mmcjiyodan | 2016-11-29 16:07 | Comments(0)