履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)

履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)は、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の第一皇子である。

履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)は、反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)の同母弟である。

つまり第十七代・履中(りちゅう)、第十八代・反正(はんぜい)、そして第十九代・允恭(いんぎょう)は、全て仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の皇子である。

そして、この三代の大王(おおきみ)は、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女子・磐之媛命(いわのひめのみこと)が同じ母である。


仁徳八十七年一月、父である仁徳大王(にんとくおおきみ/第十七代天皇)崩御する。

仁徳大王第二皇子・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が皇位を奪おうとして叛乱を起こす。


古事記」では、即位前に婚約者の羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘、葦田宿禰(あしだのすくね)の娘の二説がある黒媛(くろひめ)と、大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)本人だと偽って通じた住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の反乱を受け、兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)は難波宮から石上神宮へ逃げている。

この時反乱に加担した黒媛(くろひめ)は、履中五年に成って神の祟りで急死と伝えられるている。

それにしても、同父母の第二皇子・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が、兄皇子を武力で倒そうとするのは権力欲なのか、それとも身分を偽って関係を持った黒媛(くろひめ)への、辻褄合わせの結果なのか、解釈が難しい。


難波宮から石上神宮へ逃げる途中、大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと/履中大王)は穴虫峠で少女に会って、伏兵が居るので、遠回りしろと教えられる。


住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の反乱に、仁徳大王第一皇子・大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと/履中大王)は、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、履中元年二月に即位する。

履中二年、履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)は蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。

履中四年八月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。

履中六年正月に蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興し(「古語拾遺」には内蔵を興すとある)、三月に病気のため稚桜宮で崩御した。

日本書紀」に於いては七十歳、「古事記」に六十四歳、「神皇正統記」に六十七歳崩御とあるが、在位について、実態は明らかでない。

ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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# by mmcjiyodan | 2017-08-05 17:09 | Comments(0)  

允恭大王(いんぎょうおおきみ/天皇)

允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)は、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の第四皇子である。

允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)は、履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇)の同母兄弟である。

つまり第十七代・履中(りちゅう)、第十八代・反正(はんぜい)、そして第十九代・允恭(いんぎょう)は、全て仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の皇子である。

そして、この三代の大王(おおきみ)は、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女子・磐之媛命(いわのひめのみこと)が同じ母である。


日本書紀」に拠ると、反正五年一月、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと/後の第十九代允恭大王)を大王(天皇)に推挙する。

雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと/後の第十九代允恭大王)は、病気を理由に再三辞退して十一ヵ月間も空位が続いた。

しかし、反正五年十二月=允恭元年十二月、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ=翌允恭二年皇后に立后)の強い要請を受け即位する。

允恭三年八月、朝鮮半島・新羅国から医者を招聘、允恭大王(いんぎょうおおきみ)の病気を治療する。

允恭四年九月、允恭大王(いんぎょうおおきみ)は諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯(くがたち/神判)を実施する。

つまり、今名乗っている氏姓は「神に誓って正しいか」を、後に嘘がばれたら刑を与える事を条件に諸氏族に確認した。

允恭五年七月玉田宿禰(たまだのすくね/葛城襲津彦・かずらきのそつひこの孫)の叛意が露顕、允恭大王(いんぎょうおおきみ)はこれを誅殺する。


允恭七年十二月、允恭大王(いんぎょうおおきみ)は皇后の妹・衣通郎姫(そとおりひめ)を入内させるが、皇后の不興を買い、藤原宮(奈良県橿原市)に住まわせる。

允恭八年二月、衣通郎姫(そとおりひめ)が皇后の嫉妬を理由に茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。

允恭大王(いんぎょうおおきみ)は遊猟にかこつけて衣通郎姫(そとおりひめ)の許に行幸を続けたが、允恭十年に皇后に諌められ、その後の茅渟行幸は稀になった。


允恭二十四年六月、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)の近親相姦が発覚する。

古事記」に拠れば、允恭大王(いんぎょうおおきみ)は木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を廃太子とし、伊予に配流した。


允恭四十二年一月、允恭大王(いんぎょうおおきみ)は崩御する。

「古事記」、「旧事紀」に七十八歳崩御、「愚管抄」、「神皇正統記」に八十歳崩御、北野本「日本書紀」に八十一歳崩御としている。

新羅王はこれを悲しみ、弔使を送ったと伝えられる。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


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# by mmcjiyodan | 2017-08-05 02:44 | Comments(0)  

孝徳大王(こうとくおおきみ/天皇)

孝徳大王(こうとくおおきみ/第三十六代天皇)は、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の孫で押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の子である茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男に当たる。

大王(おおきみ)即位前は、軽皇子(かるのみこ)と呼ばれた。

母は欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の孫で桜井皇子(さくらいのみこ)の王女に当たる吉備姫王(きびひめのおおきみ)である。

皇極大王(こうぎよくおおきみ/第三十五代女帝=斉明大王)とは同母弟となる。

また、孝徳大王(こうとくおおきみ)は、天智大王(てじちおおきみ/第三十八代天皇)=(中大兄皇子)・間人皇女(はしひとのひめみこ)と天武天皇(てんむてんのう/第四十代)=(大海人皇子/おおあまのみこ)の叔父でもある。

その姪である間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后にした。


孝徳大王(こうとくおおきみ)は、有力豪族・阿倍内麻呂(あべのうちまろ/阿倍倉梯麻呂)の娘の小足媛(おたらしひめ)を妃として有間皇子(ありまのみこ)を儲けるも他に子女は確認されていない。

その他、有力豪族・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。



日本書紀」によれば、孝徳大王(こうとくおおきみ)は仏法を尊び、神道を軽んじたが、しなやかな性質で、儒者を好み貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。

また、有力豪族・蘇我入鹿(そがのいるか)を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(なかとみのかまこ/後の藤原鎌足・ふじわらのかまたり)が軽皇子(かるのみこ)に接近していた事が知られている。

皇極四年六月十二日(六百四十五年七月十日)に「乙巳の変(いっしのへん)」が起きると、翌々日に皇極大王(女帝)は中大兄皇子に位を譲ろうとしたが、中大兄は辞退して軽皇子(かるのみこ)を推薦する。

軽皇子(かるのみこ)は三度辞退して、舒明大王(じょめいおおきみ)の第一皇子・古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を推薦するが、古人大兄は辞退して出家した。

変後十四日の内に、軽皇子(かるのみこ)は立太子を経ないまま皇極大王(こうぎょく大王)から史上初めての譲位を受け、軽皇子(かるのみこ)は壇に登って孝徳大王(こうとくおおきみ/第三十六代天皇)として即位した。


軽皇子(孝徳大王)が、中大兄皇子を教唆して乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説を唱える歴史学者もいる。

しかし、軽皇子(孝徳大王)が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。


孝徳大王(こうとくおおきみ)は、皇極(こうぎよく)前大王に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/後の天智大王・てんじおおきみ)を皇太子とした。

さらに阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にし、中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。

また、学僧・旻(みん/びん)と学者・高向玄理(たかむこのくろまろ)を国博士とした。


孝徳元年六月十九日(六百四十五年七月十七日)、史上初めて元号を立てて大化元年六月十九日とし、大化六年二月十五日(六百五十年三月二十二日)には白雉(はくち)に改元し、白雉元年二月十五日とした。


「日本書紀」の記述に依ると、大化元年から翌年にかけて、孝徳大王(こうとくおおきみ)は各分野で制度改革を行なった。

この改革を、後世の学者は大化の改新と呼ぶ。

しかしこの改革につき、日本書紀が引用する改新之詔四条(かいしんのみことのり)の内、第一条と第四条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものである事が分かっている。

この事から、日本書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。


孝徳大王(こうとくおおきみ)の在位中には、朝鮮半島の国々・高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。

従来の百済(ペクチョ)の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅(シルラ)も人質を送って来た。

孝徳大王(こうとくおおきみ)は、形骸(けいがい/かたちだけ)のみとなっていた任那(みまな)での徴税・調(ちょう/布を納入する徴税)を廃止した。

孝徳大王(こうとくおおきみ)は、多数の随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した。



北の蝦夷(エミシ)に対しては、渟足柵(ぬたりのさく)・磐舟柵(いわふねさく)と言う古代城柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。

日本書記の史料に見える城柵と柵戸の初めである。


孝徳大王(こうとくおおきみ)は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めたが、白雉四年(六百五十三年)に、皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は孝徳大王に倭京(わきょう)に遷る事を求めた。

孝徳大王(こうとくおおきみ)がこれを退けると、皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と皇后・間人皇女(はしひとのひめみこ)、皇弟=(大海人皇子(おおあまのみこ))を連れて倭京(わきょう)に赴いた。

大海人皇子(おおあまのみこ)は、後の天武天皇(てんむてんのう/第四十代)である。

この遷都対立、臣下の大半が皇太子・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に随って去った。

孝徳大王(こうとくおおきみ)は気を落とし、翌白雉五年(孝徳十年/六百五十四年)、病気になって五十八歳で崩御した。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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# by mmcjiyodan | 2017-08-02 12:11 | Comments(0)  

安康大王(あんこうおおきみ/天皇)

安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)は、允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)の第二皇子・穴穂皇子(あなほのみこ)である。

次代となる雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)とは同母にあたる忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)で、応神大王(おうじんおおきみ第十五代天皇)の皇子・稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)の皇女である。

安康大王(あんこうおおきみ/天皇)は、「宋書」・「梁書」に記される「倭の五王」中の「倭王・興」に比定されている。


允恭四十二年一月に允恭大王(いんぎょうおおきみ)が崩御する。

第一皇子である皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)には近親相姦の前科が有った為に群臣は皆従わず、同母弟の穴穂皇子(あなほのみこ)の側に付いた。

木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)の近親相姦とは、同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)と情を通じ公に成った事で廃太子されている。


木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は穴穂皇子(あなほのみこ)を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ。

しかし穴穂皇子(あなほのみこ)が率いる兵に包囲され、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の計らいで戦は避けられたが、軽皇子(かるのみこ)は自裁した。

尚、別説として「古事記」では「伊余湯=伊予湯(いよのゆ:愛媛県松山市)に流罪となった」と記される。


こうして、穴穂皇子(あなほのみこ)は允恭四十二年十二月に践祚(せんそ/天子の位を継ぐ)し、安康大王(あんこうおおきみ/天皇)として即位した。

安康元年、安康大王(あんこうおおきみ/天皇)は根使主の讒言を信じて大草香皇子(おおくさかのみこ/仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫(なかしひめ)=中磯皇女(なかしのひめみこ)を皇后に立てた。


安康三年八月九日、安康大王(あんこうおおきみ/天皇)は中蒂姫(なかしひめ)の連れ子眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。

安康大王(あんこうおおきみ/天皇)は皇太子を指名する事なく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ/履中大王・りちゅうおおきみ/天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる。

「古事記」と「旧事紀」には享年五十六歳、「帝王編年記」に享年五十四歳と伝えられる。


大王(おおきみ/天皇)が暗殺されたのは、他に崇峻大王(すしゅんおおきみ/第三十二代天皇)の例がある。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


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# by mmcjiyodan | 2017-07-31 15:23 | Comments(0)  

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)は、大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)とも、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも呼ばれる。


雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は、「宋書」、「梁書」に記される「倭の五王」中の倭王・武に比定される。

その倭王・武の上表文には「周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されている」とされている。

例えば、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「隻加多支鹵大王」と読め、即(すなわ)ちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。

日本書紀」の暦法が「雄略紀」以降とそれ以前で異なること、「万葉集」や「日本霊異記」の冒頭に雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)が掲げられている。

その事から、まだ朝廷としての組織は未熟では在ったものの、雄略朝に於いてヤマト王権の勢力が拡大強化された事が、「歴史的に画期で在ったと古代の人々が捉えていた」とみられる。


記紀によれば、安康三年八月九日、安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)が、幼年の眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されたとする。

安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)は大草香皇子(おおくさかのみこ)を殺害し、その妃である中蒂姫命(なかしのひめみこ/長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。

中蒂姫(なかしのひめみこ)は大草香皇子(おおくさかのみこ)との子である眉輪王(まよわのおおきみ)を連れており、これが眉輪王に安康大王(あんこうおおきみ)が殺害される直接の原因となった。


記紀によれば、この眉輪王(まよわのおおきみ)、父の大草香皇子(おおくさかのみこ)が罪無くして安康大王(あんこうおおきみ)に誅殺された。

その後、母の中蒂姫命(なかしひめのみこと)は安康大王(あんこうおおきみ)の皇后に立てられ、眉輪王(まよわのおおきみ)は連れ子として育てられた。

安康三年(四百五十六年)八月、年幼くして楼(たかどの)の下で遊んでいた眉輪王(まよわのおおきみ)は、安康大王(あんこうおおきみ)と母・中蒂姫命(なかしひめのみこと)の会話を残らず盗み聞いて、亡父が安康大王によって殺された事を悟り、熟睡中の安康大王を刺殺する。

この「眉輪王の変」当時、眉輪王(まよわのおおきみ)の年齢を「古事記」では七歳とあるが誤記と推定されている。


安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)が、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の子である大草香皇子(おおくさかのみこ)に、妹の草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を同母弟である即位前の雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)の妃に差し出すよう命令する。

大草香皇子(おおくさかのみこ)と草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)は、父系の叔父と叔母にあたる。

命令した際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣(ねおみ)が、大草香皇子(おおくさかのみこ)の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りする為に、安康大王(あんこうおおきみ)に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言(ざんげん)をしている。


安康大王暗殺の事実を知った大泊瀬皇子(おおはつせのみこ/後の雄略大王・ゆうりゃくおおきみ)は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を斬り殺(生き埋め説あり)する。

次いで坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)と眉輪王(まよわのおおきみ)をも殺そうとした。

この二人は、豪族・葛城氏の葛城円宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ/雄略大王)は三人共に焼き殺してしまう。

さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢大王 ・顕宗大王の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、十一月月にヤマト王権の大王の座に就いた。


雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は即位後、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)に求婚する道の途中で、志貴県主(しきあがたぬし/参考:志貴県主神社)の館が「鰹木を上げて皇居に似ている」と何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。

その白犬を婚礼のみやげ物にして、雄略大王は草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を皇后とする。

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)は平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣(おおおみ)に、大伴室屋(おおとものむろや)と物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した。


雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させる事であった。

特に最大の地域政権・吉備氏に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。

具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進める。

さらに雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋(おおとものむろや)らが鎮圧して、ヤマト王権の優位を決定的にした。

「日本書紀」には他に、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)や伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)の豪族を討伐した記事がある。


雄略二十二年一月一日、白髪皇子(しらかのみこ/後の第二十二代天皇・清寧大王/せいねいおおきみ)を皇太子とし、翌二十三年八月、雄略大王は病気の為に崩御した。

雄略二十三年を機械的に西暦に換算すると四百七十九年となる。

しかし梁書によると、梁の武帝は五百二年、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)に比定される倭王・武を征東将軍に進号している。

この解釈としては、実際の雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の没年は記紀による年代よりも後であったとする見解と、「雄略帝=倭王武の比定」が誤っているとする見解がある。

雄略帝は、即位後も人を処刑する事が多かった為、後に大悪天皇と誹謗される原因となっている。

だが、大悪天皇の記述は武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)にも見られる事から、両者は同一人物ではないかとの別説もある。


記紀に於いては、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)が仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇后となる。

その娘の手白香皇女(たしらかのひめみこ)が継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の皇后となり欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)を産んでいる事から、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ)の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いている。

ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

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