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オキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)

多少の個体差が在るので一律的な効果とは言えないが、「女性は一度男性と性交渉をしてしまうと、身体の中に何か「特別な物」が分泌されて、相手にすごく執着してしまう」と言う現象がある。

その「特別な物」が、オキシトシン(脳内愛情麻薬・抱擁ホルモン)である。


このオキシトシン(脳内愛情麻薬)は、一目惚れの作用をさせる「脳内ホルモン・フェール・エチル・アミン (トキメキホルモン)」の結果で発生する物質ではない。

つまり一方的な感情では無く、あくでも接触行為が実在してから発生する分泌ホルモンである。

食事や性行為の際に分泌放出される安全な脳内麻薬(快感ホルモン)・ベータ・エンドロフィンにうながされて発生する特別な分泌ホルモンがオキシトシン(脳内愛情麻薬)である。

オキシトシンは「愛情ホルモン」とも呼ばれる脳内物質で、性行為以外では、女性が赤ちゃんに触れる時や母乳を飲ませる時、ペットに触れた時などにも分泌される。

この「抱擁ホルモン」とも言われるオキシトシンは、愛撫や抱擁などの皮膚接触や性交渉による子宮頚部(しきゅうけいぶ)への刺激によって女性の脳内に大放出される。

つまり女性には、性交渉をすると「オキシトシン」というホルモンが男性よりも多く分泌される。

このオキシトシンのパワーは強力で、分泌されると性交渉相手への愛情が強まり、無意識に離れ難(がた)くなる。

よく世間の評価では、「あの女性(ひと)、何であんな男から離れない?」と言う事例が存在するが、これはオキシトシン(脳内愛情麻薬)の為せる現象である。

産んだ子を捨ててまで愛人と出奔(しゅっぽん)する女性も、オキシトシン(脳内麻薬)効果が働いての間違いと言える。


このオキシトシン(脳内麻薬)効果の証明は、日本の旧来の親同士が勝手に決めた婚姻形態で説明が着く。

以前の日本の婚姻形態では、親同士が勝手に決めた婚姻や親の都合の政略結婚で「新婚初夜まで相手の顔さえ見た事が無かった。」なんて事も多々在った。

しかし初夜で初対面だったとしても、その夫婦が結婚後に関係が成立するのはその後の性交渉に依るオキシトシン(脳内愛情麻薬)の効果である。

小論【美しくなれる興奮の解説】をお勧めします。


性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

詳しくは・関連小論記事
吊橋効果(つりばしこうか)の心理を検証する】を参照。
オレオレ詐欺と占術霊感商法】を参照。
私の愛した日本の性文化】を参照。
美しくなれる興奮の解説】を参照。
地球を救う「共生主義」と言うイデオロギー】を参照。

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by mmcjiyodan | 2017-11-15 14:50 | Comments(0)  

信長の首塚伝承(西山本門寺)

さて、本能寺の変後に行方(ゆくえ)が判らない織田信長についての伝承は多々在るが、筆者は有力と思える「信長の首塚伝承」を有する富士宮・西山本門寺(にしやまほんもんじ)を紹介する。

静岡県富士宮市西山に、西山本門寺(にしやまほんもんじ)は在る。

西山本門寺(にしやまほんもんじ)の開山は、日蓮(にちれん)の高弟六老僧の筆頭であり、白蓮阿闍梨と称する鎌倉時代の僧侶・日代である。

日代は日興門流の祖であり、富士大石寺の開山にして日蓮正宗第二祖に列せられる 。

その西山本門寺(にしやまほんもんじ)の寺伝によると、本能寺の変の折に第十八世貫主だったのは日順である。

日順の父・原宗安(はらむねやす・原志摩守)は、本因坊日海(本因坊算砂)の指示により、織田信長の首を西山本門寺まで持ち帰り、柊(ひいらぎ)を植え首塚に葬ったという。

その首塚上の柊(ひいらぎ)、現在では静岡県指定天然記念物の大柊(だいひいらぎ)として健在である。

つまり信長公の御遺体も、首から上が無くては誰の身印(みしるし)と特定など出来ない理屈である。


僅かな供回りを連れて本能寺に泊まったこの信長の本能寺宿泊には、囲碁の当世第一人者である顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)・寂光寺(じゃっこうじ)の僧・日海(にっかい)も帯同していた。

安土桃山江戸時代に 織田信長・豊臣秀吉徳川家康の三英傑に仕えたとされる囲碁の棋士・本因坊日海(ほんいんぼうにっかい)=(本因坊算砂/ほんいんぼうさんさ)である。

実はこの僧・日海(にっかい)が、この「信長の首塚伝承」には欠かせない存在だった。

本能寺の変前日、織田信長が茶会を催したのだが、その茶会の流れで信長お気に入りの囲碁の棋士・日海をまだ傍(かたわら)に置いていたのだ。


織田信長(おだのぶなが)については第三巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第三巻をお読み下さい。

伝・織田氏関連記事
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★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-11-09 16:47 | Comments(0)  

宣化大王(せんかおおきみ/天皇)

宣化大王(せんかおおきみ/第二十八代天皇)は、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の第二子で、母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)である。

安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)の同母弟であり欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)の異母兄にあたる。

日本書紀」では、諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)という。

古事記」では、 和風諡号を建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)といい、「日本書紀」では武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)という。

宣化大王(せんかおおきみ)の皇后は、仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)の皇女・橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ)である。

妃には、大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)が居る。

宣化大王(せんかおおきみ/天皇)の皇女の内、石姫皇女(いしひめのひめみこ)は異母弟・欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)の皇后・となって居る。

同じく宣化帝の皇女・小石姫皇女(おいしひめのひめみこ)・倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめのひめみこ)・日影皇女(ひかげのひめみこ)の三人も欽明大王(きんめいおおきみ)の妃となって居る。


先の安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)が崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化大王(せんかおおきみ/天皇)が満六十九歳にして即位した。

在任中の業績としては、筑紫の官家の整備を行い、大伴金村(おおとものかなむら)に命じて新羅(シルラ)に攻められている任那(ミマナ)に援軍を送った。

五百三十六年とされる即位元年に蘇我稲目(そがのいなめ)が大臣となり、子の蘇我馬子(そがのうまこ)以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれる事となる。

高齢での即位と、在位が三年余りと短い為、宣化大王(せんかおおきみ/天皇)にはあまり主立った事績は無い。

また、安閑・宣化朝は父・継体大王(けいたいおおきみ/天皇)死後直ぐに即位した異母弟の欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)と並立していたとの説(辛亥の変仮説)がある。

いずれにせよ、宣化大王(せんかおおきみ)の血統も石姫皇女(いしひめのひめみこ)を通して現在まで受け継がれる事となる。

一説に、飛鳥時代の歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)は宣化大王(せんかおおきみ)の四世孫(玄孫)とも言われる。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


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古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2017-10-31 03:23 | Comments(0)  

安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)

安閑大王(あんかんおおきみ/第二十七代天皇)は、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の長子である。

母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)と伝えられている。

安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)は、仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)の皇女である春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)を皇后としている。

他に妃を三人持つが、皇子皇女の記述は記紀(古事記・日本書紀)に無い。

この安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)、「日本書紀」では、諱を「勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)別に(まがりのおいねのみこ)とも読む」としている。

古事記」では、和風諡号に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、「日本書紀」に広国押武金日天皇(読み古事記と同じ)とある。


安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)は、父・継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の崩御を受けて六十六歳で即位するも、わずか四年で崩御した。

「安閑記」に、安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)の治世の出来事として、関東から九州までの屯倉(みやけ)の大量設置と、四十一箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部(いぬかいべ)の設置が記されている。

なお、「日本書紀」によれば、「百済本記」から引用された所伝で、五百三十一年頃に天皇と太子・皇子が共に薨去した」と言う記述がある。

この事から、継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の死後、安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)・宣化大王(せんかおおきみ/天皇)の朝廷と欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)の朝廷が並立し、二朝間で内乱があったのではないかとする「辛亥の変説」もある。

後世、神仏習合の教説で安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)を蔵王権現と同一視されたため、明治時代の神仏分離以降に、従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑大王(あんかんおおきみ/天皇)を祭神とし直したところが多い。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-10-30 13:00 | Comments(0)  

上古天皇(かみふるてんのう/かみのみなすめらみこと)一覧

初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

この「上古天皇」は、「かみふるてんのう/かみのみなすめらみこと」と読むのだが、この「上古天皇(かみふるてんのう)」は「神降(かみふ)る=天孫降臨」とも読め、古事記日本書紀編纂意図が伺われる。

神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)

皇統初期・欠史八代(けっしはちだい)
(第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までが、欠史八代)

崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇)

垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)

景行大王(けいこうおおきみ/第十二代天皇)と日本武尊(やまとたけるのみこと)

成務大王(せいむおおきみ/第十三代天皇)

仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/第十四代天皇)

応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)

仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)

履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)

反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇)

允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)

安康大王(あんこうおおきみ/第二十代天皇)

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)

清寧大王(せいねいおおきみ/第二十二代天皇)

顕宗大王(けんぞうおおきみ/第二十三代天皇)

仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)

武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。


神武王朝四代に関しては、参考小論【神武王朝四代と葛城御門(かつらぎみかど)】を参照下さい。

五代・孝昭大王に関しては、参考小論【欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-09-20 10:30 | Comments(0)  

顕宗大王(けんぞうおおきみ/天皇)

顕宗大王(けんぞうおおきみ/第二十三代天皇)は、「記(古事記)紀(日本書記)」・「播磨国風土記」に伝えられる大王(おおきみ)である。

顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、「記・紀」及び「播磨国風土記」に弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)と伝えられる第二十三代大王(おおきみ)である。

「古事記」に於いては、袁祁王(をけのおおきみ)・袁祁之石巣別命(をけのいわすわけのみこと)、「播磨国風土記」には袁奚王(おけのみこ)とも伝えられる。


顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、数奇な運命を辿って大王(おおきみ/天皇)に即位した。

安康三年十月一日父・市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)が雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)に殺されると、兄の億計王(おけのみこ、後の仁賢大王)と共に逃亡して身を隠した。

兄弟は丹波国与謝郡(京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。

清寧二年十一月、弟・弘計王(をけのおおきみ)自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。

子がなかった清寧大王(せいねいおおきみ/天皇)はこれを喜んで迎えを遣わし、翌・清寧三年に二王を宮中に迎え入れて、兄王・億計(おけ)を皇太子に、弟・弘計(をけ)を皇子とした。

清寧五年一月十六日に清寧が崩御した後、皇太子の億計(おけ)は身分を明かした大功を理由として弟の弘計(をけ)に皇位(王位)を譲ろうとするも、弘計(をけ)はこれを拒否する。

兄弟互いが譲り在った為に皇位の相譲が続き、その間は履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)の皇女・飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政した。

結果的に兄の説得に折れる形で顕宗元年元旦、弘計(をけ)が顕宗大王(けんぞうおおきみ)として即位する。

引き続き兄・億計(おけ)が皇太子を務めたが、大王(天皇)の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。

顕宗大王(けんぞうおおきみ)は、罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走り意祁命にその陵の破壊を命じることもあった。

しかし、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。

顕宗三年四月二十五日、顕宗大王(けんぞうおおきみ)は崩御する。

「古事記」に三十八歳(但し治世八年と計算が合わない)、「一代要記」では四十八歳とある。

「日本書紀」に皇子女の記載なし、「古事記」にも「子無かりき」とある。

なお「古事記」には、顕宗大王(けんぞうおおきみ)が即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-09-20 09:28 | Comments(0)  

清寧大王(せいねいおおきみ/天皇)

清寧大王(せいねいおおきみ/第二十二代天皇)は、資料・文献が少ない大王(おおきみ/天皇)である。

日本書記で御名は白髪皇子(しらかのみこ)、和風諡号は、白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)とある。

古事記では、白髪大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)と記述されている。

清寧大王(せいねいおおきみ)は、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)の第三皇子(だいさんみこ)で、母は、葛城韓媛(かつらぎのからひめ)とされる。

雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)の第三皇子(だいさんみこ)ではあるが、父帝の雄略に皇太子に指名された。

御名の「白髪皇子(しらかのみこ)」の通り、清寧大王(せいねいおおきみ)はアルビノで生来白髪で在った為、父帝の雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)は霊異を感じて皇太子としたと言う。

この辺りに疑問があるのだが、清寧大王(せいねいおおきみ)には后妃なし、従って皇子も女子もなし。

時の大王(おおきみ)に后妃なし、皇子も女子もなし、資料・文献が少ない大王(おおきみ/天皇)は、それだけで実在性を疑われる。


雄略二十三年八月、前帝・雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇)は崩御する。

吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)が大蔵を占拠し、権勢を縦(ほしいまま)にした為、白髪皇子(しらかのみこ=清寧大王/せいねいおおきみ)は大伴室屋(おおとものむろや)・東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)らにこれを焼き殺させる。

清寧大王(せいねいおおきみ)は翌・清寧元年正月に即位する。


清寧大王(せいねいおおきみ)は皇子がいないことを気に病んでいた。

だが、清寧二年、履中大王(りちゅうおおきみ)の第一皇子と市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子である億計王(後の仁賢大王/天皇)・弘計王(後の顕宗大王/天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。

翌、清寧三年、億計王(おけのおおきみ=仁賢大王)と弘計王(をけのおおきみ=顕宗大王)の二王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。

清寧五年、清寧大王(せいねいおおきみ)は崩御し、「水鏡」には四十一歳、「神皇正統記」には三十九歳とある。


ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。


注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-09-20 09:24 | Comments(0)  

三韓征伐(さんかんせいばつ)

三韓征伐(さんかんせいばつ)は、神功皇后(じんぐうこうごう)の朝鮮半島出兵を言い、三韓については馬韓・弁韓・辰韓の三國ともまたは新羅(しらぎ・シルラ)・高麗(こうくり・コグリョ)・百済(くだら・ペクチェ)の三國(サムグ)を指すとも言われる。

馬韓・弁韓・辰韓の三國説では、馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那加羅)辰韓(後の新羅)を示し高句麗を含まない朝鮮半島南部のみの征服とも考えられる。


日本書記の記載に於いて、仲哀八年、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)は、后妃・神功皇后(じんぐうこうごう)と熊襲(くまそ)討伐(くまそとうばつ)のため、奴国(なこく)の儺県(ながあがた)と呼ぶ地を訪れ香椎宮(かしいぐう)仮御所とする。

この儺県(ながあがた)で、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)は神懸りした神功皇后(じんぐうこうごう)に神のお告げを受けた。

託宣では熊襲(くまそ)よりも宝のある朝鮮半島の新羅(しらぎ・シルラ)を攻めよとされたが、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)はこれを信じず熊襲征伐を行い、敗北し儺県(ながあがた)に撤退する。

儺県(ながあがた)に撤退した仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)は、翌仲哀九年に香椎宮(かしいぐう)にて崩御する。

神功皇后(じんぐうこうごう)は、夫・仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)の崩御後の六十八年間政事を執り行なった。


皇后政事の始めの仕事は、齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐する事だった。

熊襲討伐(くまそとうばつ)に成功した神功皇后(じんぐうこうごう)は、住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、お腹に子供(のちの応神大王)を妊娠したまま渡海し、半島の国・新羅(シルラ)を攻める。

新羅(シルラ)は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗(コグリョ)・百済(ペクチェ)も朝貢を約したと伝えられているが、あくまでも遥か後に編纂された「日本書記」に載せられた記事である。


この頃の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。


注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-09-01 15:01 | Comments(0)  

応神大王(おうじんおおきみ/天皇)

応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)は、仲哀九年十二月十四日、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/第十四代天皇)神功皇后(じんぐうこうごう)の子として生まれた。

「神功皇后紀」に拠れば、応神大王(おうじんおおきみ)は神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(うみ:福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。

また、「応神天皇紀」に拠れば筑紫の蚊田(かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされる。

かご坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)は異母兄にあたる。


応神大王(おうじんおおきみ)の諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)と伝えられる。

後の編纂に追号記述では、誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。


応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)の名とされる「ホムダワケ」について、誉田別(ほむだわけ/日本書紀表記)・品陀和気(ほむだわけ/古事記表記)は、「実は生前に使われた実名だった」とする説がある。


応神大王(おうじんおおきみ)が存在の確実性を増してからの「日本書紀」の記述による限り、大王(おおきみ/天皇)に和風諡号を追号するようになったのは六世紀の半ば以降と見られる。

とくに応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)から継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)にかけての名は概して素朴であり、ワカタケルのように明らかに生前の実名と証明されたものもある。


「日本書記」に拠れば、応神大王(おうじんおおきみ)は神功四年に立太子、応神年に七十一歳で即位する。

「日本書紀」によると応神十四年に弓月君(ゆづきのきみ/秦氏の先祖)が百済(こうくり・コグリョ)から来朝して窮状を応神大王(おうじんおおきみ)に上奏し援軍を求めた。

弓月君(ゆづきのきみ)は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅(しらぎ・シルラ)の妨害によって叶わず、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の助けで弓月君(ゆづきのきみ)の民は加羅(カラ)が引き受けるという状況下にあった。

しかし三年が経過しても葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)は、弓月君(ゆづきのきみ)の民を連れて帰還する事はなかった。

そこで、応神十六年八月、新羅(しらぎ・シルラ)による妨害の危険を除いて弓月君(ゆづきのきみ)の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)が率いる精鋭が加羅(カラ)に派遣され、新羅国境に展開した。


応神大王(おうじんおおきみ)の 新羅(しらぎ・シルラ)への牽制は功を奏し、無事に弓月君(ゆづきのきみ)の民が渡来した。

古事記」に拠れば、「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命(たけしうちのすくね)命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」とある。

「日本書紀」にも同様の記事が見え、応神五年八月の条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。

剣池は、奈良県橿原市石川町の石川池とされている。

「古事記」に、百済(くだら・ペクチェ)の国主・照古王(しょうこおう/百済の近肖古王)が、雄雌各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。

この阿知吉師は、阿直史(あちき)等の祖とされる。

また照古王(しょうこおう)は、応神大王(おうじんおおきみ)に横刀(たち)や大鏡を献上した。

また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師(わにきし)は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。

「日本書紀」の応神十五年八月条と応神十六年二月条に同様の記事が見える。

また、応神二十年九月条に「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があった事を伝えている。


「日本書紀」には、吉備臣の祖として御友別(みともわけ)の名が、「古事記」には、近江の安(やす)国造の祖先として意富多牟和気(おほたむわけ)の名が見えるが、これらの豪族の名の構成は「ホムダワケ」と全く同じである。

これらのことから、「ワケ」(別・和気・和希などと表記)の称を有する名は四世紀から五世紀にかけて皇族・地方豪族の区別なく存在し、ごく普遍的に用いられた名であることが分かる。

事実、景行・履中・反正の各大王(かくおおきみ)の名にも「ワケ」が含まれており、実名を基にした和風諡号である可能性が高い。

以上の点から、応神大王(おうじんおおきみ)の「ホムダワケ」と言う名も実名だったと、この仮説では見なしている。

なお、この「ワケ」の語義ならびに由来については、諸説あって明らかにしがたい。

「古事記」では、景行大王(けいこうおおきみ)が設置した地方官の官職名であり、皇族から分かれて諸地方に分封された豪族の称としているが、これは観念的説明との解釈もある。

応神大王(おうじんおおきみ)について上代日本史学者・井上光貞は、確実に実在が確かめられる最初の大王(おおきみ/天皇)としている。

一方、東洋史学者・岡田英弘は越前出身の継体大王(けいたいおおきみ/天皇)の祖先神であって、「人間ではない」としている。

また、応神大王(おうじんおおきみ)の条は、仁徳大王(にんとくおおきみ/天皇)の条と記載の重複・混乱が見られる。

応神大王(おうじんおおきみ)が河内王朝の始祖と見なす説、日本国外の史料との相対比較から、「宋書」や「梁書」に見える倭の五王の讃に比定する説や他に仁徳大王(おおきみ/天皇)や履中大王(おおきみ/天皇)を比定する説がある。


この頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

「日本書記」に拠れば、応神大王(おうじんおおきみ)は、応神四十一年に百十一歳で崩御とあり、「古事記」に拠れば百三十歳にて崩御とある。

後世、応神大王(おうじんおおきみ)は、神功皇后(じんぐうこうごう)と共に八幡神に付会され、皇祖神や武神として各地の八幡宮に祭られる。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


応神大王(おおきみ/天皇)と仁徳大王(おおきみ/天皇)の疑惑】参照下さい

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。


大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2017-09-01 00:39 | Comments(0)  

仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇

仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/第十四代天皇)は、日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)を父に持ち、皇后は三韓征伐を行った神功皇后(じんぐうこうごう)であり、応神大王(おうじんおおきみ/天皇)の父である。

日本書紀」によれば叔父の成務大王(せいむおおきみ)に嗣子が無く、成務四十八年三月一日に三十歳で立太子する。

十三年の皇太子期間を経て、仲哀元年一月に即位した。


仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)は、景行四十三年に病死し、白鳥となって天に昇った父・日本武尊(やまとたける)を偲んで、諸国に白鳥を献じる事を命じる。

ところが、異母弟の蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が「越国(えつのくに)の献じた白鳥を奪った為に誅殺した」とある。


仲哀二年一月十一日、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)は氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)を皇后(神功皇后・じんぐうこうごう)とする。


仲哀八年、熊襲(くまそ)討伐のため神功皇后(じんぐうこうごう)とともに筑紫に赴いた仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)は、神懸(かみがか)りした神功皇后(じんぐうこうごう)から神のお告げを受けた。

それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。

しかし、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)は、これを信じず神を非難した。

その仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)が、翌仲哀九年二月に急に崩じてしまい、神の怒りに触れたと見なされた。


「日本書紀」内の一書(異説)や「天書紀」では、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)は熊襲(くまそ)の矢に当たり橿日宮(訶志比宮)に同地で崩御したとされる。

遺体は武内宿禰(たけのうちのすくね)により海路穴門(穴戸海峡、現在の下関海峡)を通って穴戸豊浦宮で殯された。

古事記」に「凡そ帯中日津子天皇(大王)の御年、五十二歳。壬戌の年の六月十一日に崩りましき」とある。

「日本書紀」にも五十二歳歳とするが、これから逆算すると、天皇は父・日本武尊(やまとたける)の薨後三十六年目に生まれた事となり、矛盾する。


仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)は実在性の低い大王(おおきみ)の一人に挙げられている。

その最大の根拠は、彼が実在性の低い父・日本武尊(やまとたける)と妻・神功皇后(じんぐうこうごう)を持っている人物とされている為である。


日本武尊(やまとたける)の話は複数の大和地方の英雄の事跡を小碓命(おうすのみこと)一人にあてがって、一大英雄伝説に仕立て上げた物と指摘されている。

神功皇后(じんぐうこうごう)の話は白村江の戦いから、持統大王(じとうおおきみ/第四十一代女帝)による文武大王(もんむおおきみ/第四十代天皇)擁立までの経緯をもとに「神話として記紀に挿入された物である」との見方がある。

そして、この二人の存在および彼らにまつわる物語を史実として語るために創造され、記紀に挿入されたのが仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)であるというのが、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)架空説である。


そしてまた、例の「タラシヒコ」という称号が、十二代・景行十三代・成務、十四代・仲哀の三代と三十四代・舒明三十五代・皇極の称号の共通性がある。

そしてこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-09-01 00:34 | Comments(0)