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邪馬台国(ヤマタイコク)

邪馬台国が何処(どこ)に在ったのか、それはまだ特定されていない。

それも、永い間多くの学者が挑戦しての結果である。

邪馬台国(やまたいこく)は、わが国の古事記日本書紀に記述がなく、中国の「魏志倭人伝に記述が在る」と言う謎の国である。

魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているのは、卑弥呼の邪馬台国・スサノウ狗奴国葛城氏伊都国の三っの国だけで、つまりこの三っの国が当時の日本列島に於いて広域・有力な王国である可能性が強い。

そして広域倭国論を念頭に考えると、邪馬台国(やまたいこく)の所在が必ずしも日本列島に限定するものではない事も事実である。

それでもあえて日本列島で考えるなら、あくまでも推論だが、もしそれが天孫降(光)臨伝説に矛盾する事を塗布する為の「簡単なトリックだ」としたら、歴史学者はそのトリックを基にそれこそ「幻の邪馬台国」を追い続けて居る事になる。

邪馬台国の存在が「簡単なトリックだ」とすると、シンプルなアプローチも出来なくはない。

「大和の国」の音も、正しく「邪馬台国」の音に似ているのだ。

このヤマトの音であるが、中国式の発音で邪(ヤー)馬(マー)台(トゥ)と発音が合うので、大和はその充て読みと、我輩は考えている。

何故なら、通常使用するに大和の文字は、タイワ・ダイワとしか読めない。

中国式の発音でも大(タァー)和(ホォ)である。

それを、ダイワ(大和)に「国または朝廷」をつけて初めて、「ヤマトノクニや、ヤマトチョウテイ」と読ませる。


被征服者(民人・蝦夷)にとって、渡来系征服部族(後の皇統と貴族)は当初「恐怖の大王達」だった。

とにかく突然やって来て武力で土地を作物を強奪し、隷属を要求して支配者に治まる。

それらが土地の豪族(氏上)と成り、やがて勢力を拡大して小国家(王・臣王・国主)を作る。

その小国家群が連立して統一国家を形成、大和大国(やまとのおおくに)が成立して大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)を選出する道を辿るのである。

大和大国(やまとのおおくに)の大和(やまと)は大和合(だいわごう)で、大和合の大国(おおくに)と実に判り易い。

判り易いのに神話の天孫光臨伝説には符合しないから、「大和合大国(だいわごうのおおくに)では都合が悪い」と言う矛盾を抱えた名前が大和大国(やまとのおおくに)の名称である。

ちなみに、大和合(だいわごう)の大和(だいわ)を、邪馬台国(やまたいこく)の邪馬台(やまたい/ヤマタイの文字も音表記の充て字)に充ててヤマトと読ませ、「大和=やまと」ならシンプルで良いのだが・・・

特別記事・【日本人の祖先は何処から来たのか?(四)邪馬台国と狗奴国】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:34 | Comments(0)  

大和朝廷(やまとちょうてい)

大和大国(やまとのおおくに)の大和(やまと)は大和合(だいわごう)で、大和合の大国(おおくに)と実に判り易い。

黎明期の日本列島は都市国家もどきの倭の国々で、国主(くにぬし/国造・くにのみやっこ)も県主(あがたのぬし)も、大和合する以前は基本的に部族国家の王である。

判り易いのに神話の天孫降(光)臨伝説には符合しないから、「大和合大国(だいわごうのおおくに)では都合が悪い」と言う矛盾を抱えた名前が大和大国(やまとのおおくに)の名称である。

ちなみに、大和合(だいわごう)の大和(だいわ)を、邪馬台国(やまたいこく)の邪馬台(やまたい/ヤマタイの文字も音表記の充て字)に充ててヤマトと読ませ、「大和=やまと」ならシンプルで良いのだが・・・・。


弥生時代、日本列島は様々な異民族(異部族)が小国を創って割拠する人種の坩堝(るつぼ)で争いの地だった。

元々「日本の神話信仰」の根幹を為すのは異民族(異部族)同士の性交に拠る平和的和合(統合)であり、出来た子の代は異民族(異部族)混血の同一族である。

つまり、祭り(祀り)事は政(マツリゴト・政治)であると同時に政治は性事で、誓約(うけい)の性交は神聖な神事(マツリゴト・政治)である。

従って初期の神殿(神社)で執り行われた神事が性交そのもので在っても不思議は無く、その痕跡が現代でも垣間見られて当たり前で在る。

為に神殿(神社)性交は異民族(異部族)和合の神事で、これを「現代の性規範で否定しよう」とするから理解がされないのである。

この事は、単一日本民族の成立過程で起こった渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)呉族(ごぞく/海洋民族)現住縄文人(蝦夷/えみし)三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。

それでも大和合の大和国(ヤマトの国)を認めないのは、古事記日本書紀天孫降臨伝説から皇国史観(こうこくしかん)に到る国家観と民族観に反する事実だからである。


日本の調理方法には「和(あ)える」と言う言葉がある。

「和(あ)える」は「ごま和(あ)え」などと使う食品の調理方法で、調和或いは和合であり、言わば食材のベストミックスの事を言う。

調理方法の「和(あ)える」は調和の事だが、このベストミックスの精神こそ三千年から二千年に到る時期の、人種の坩堝(るつぼ)だった日本が大和合した事と「同じ意味を持ち合わせている」と想われる。

また、気持ちなどがやわらぐの意味で使う「和(なご)む」についても、争(あらそ)うとは対極の意味合いがある言葉である。


そもそも大和朝廷(ヤマト王権)によって、日本列島の西日本統一が実現された時、征服(侵略)部族の王達が神格化された事もあって、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想から、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用された。

そしてその事が、常に有力な武力を持つ大豪族(御門・臣王)勢力の傀儡(かいらい)的な立場に大王(おおきみ/後の天皇)を置く事に成った。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:30 | Comments(0)  

両班(ヤンバン・特権貴族階級)

清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高き朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は、間違い無く存在していた。

朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。

最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。

つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。

処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に性の愛玩物にされても仕方が無い。

この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いである。

貴族特権とは王権に対抗し得る有力者の懐柔目的も在るから、如何に儒教の国とは言え王権維持の為の実利的例外に性奴隷としての奴婢身分は、法の抜け道として必要だったのだろう。

都合が良い事に、人に非(あら)ずの家畜である「奴婢(ヌヒ)身分」には儒教の精神思想は除外で、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外の扱いだったのである。

また宮廷の医女(イニョ)も身分は家畜扱いの公奴婢(くぬひ)であり、遊技の妓生(キーセン)同様に女医と言うよりも両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。

身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」であったから、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。

旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。

奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。

女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。

その点では日本の江戸期までの女性に対する奴刑(しゃつけい)と扱いが共通する。

この文章は、小論・【遊女(女郎)の歴史】の一部として記載されています。

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第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:26 | Comments(0)  

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)

平安初期、八百年代に起きた称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に天皇位を譲ろうとした事件でも、和気清麻呂(わけのきよまろ)は、近くの伊勢神宮ではなく、わざわざ宇佐神宮の御神託を仰ぎに、遠方の九州まで出向いている。

朝廷の一大事に、アドバイス(助言)したのが、他でも無い宇佐神宮なのだ。
宇佐神宮御神託事件」である。

弓削氏(ゆげうじ)は、古代の日本で弓を製作する弓削部(ゆげべ)を統率した氏族で、武器を扱う事を職掌とする物部氏(もののべうじ)と関係が深く、一部の系統はその傍系とも称した。

但し弓削氏(ゆげうじ)には、祖先伝承や根拠地域が異なる複数系統があり、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の弓削氏(ゆげうじ)は、物部尾輿(もののべおこし)の子・物部守屋(もののべのもりや)の母姓「弓削」に因み後裔は弓削を称して河内国若江郡弓削郷を本貫とする。

この「御神託事件」だが、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、若年の頃、法相宗の高僧義淵(ぎえん)の弟子となり、良弁(ろうべん)から梵語(サンスクリット語)を学ぶ。

また大和国(奈良県)の葛城山に篭り「密教の宿曜秘法を習得した」とも言われる。

七百六十二年(天平宝字五年)孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)は病に伏せ、近江保良宮で看病に当たった弓削氏の僧・道鏡(どうきょう)は上皇の病を癒して寵を受け、孝謙上皇は道鏡(どうきょう)を寵愛するようになり、それを批判した淳仁大王(じゅんにんおおきみ/第四十七代天皇)と対立する。

この対立が引き金となり、七百六十二年(天平宝字六年)に孝謙上皇は近江保良宮より平城京に帰還し、出家して尼になる。

孝謙上皇は尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)から天皇としての権限を取り上げる為「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。

国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。

後ろ盾の光明皇太后を失い、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の権限を狭められた藤原仲麻呂は軍事力により孝謙上皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に対抗しようと挙兵を企てる(藤原仲麻呂の乱)も敗れ、孝謙上皇は淳仁大王(じゅんにんおおきみ/第四十七代天皇)を追放する。

この孝謙上皇の、強気の振る舞いの裏で後押しをしていたのが野望を抱いた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)で在った事は想像に難くない。

孝謙上皇は重祚(再即位)し、称徳天皇(しょうとくてんのう・/第三十八代女帝)となって再即位し、即位後は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を太政大臣禅師とするなど重用し、天皇位の譲位を目論む「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)御神託事件」を起こす。

大宰府の主神(かんづかさ)・中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡神社の託宣を報じる。

この御神託事件は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が共謀して「でっち上げた」と見られ和気清麻呂(わけのきよまろ)が勅使として宇佐八幡に送られたが、「この託宣は虚偽である」と御神託が下り、以前の神託を否定し復命され、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の即位計画は破綻した。

これに怒った太政大臣・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は和気清麻呂(わけのきよまろ)を因幡員外介(いなばのいんがいのげ)として左遷し、さらに称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)は清麻呂(きよまろ)を除名し大隅国(鹿児島県)へ配流する。

しかしこの宇佐八幡神社御神託事件の翌年、称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)は病につき僅か百日余りで崩御する。

女帝の為に生涯独身を通した淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)に子は無く、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁第四十九代天皇)が即位し、太政大臣・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は失脚して下野国・薬師寺別当に配流された。

女帝に成る定めを負って生まれた淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)は、孤独の中で権力闘争の生涯を送り、只一度の心許す男が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)だったのかも知れない。

この淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)以降は、江戸時代の明正天皇(めいしょうてんのう・女帝)に至るまで、実に八百五十余年間女帝が立てられる事はなかった。

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第一巻の二話】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:14 | Comments(0)  

夜這(よば)い

妻問婚」とは、男が女性の下へ通う婚姻形を指している。

中国・雲南省の水耕稲作発祥の地は、未だにこの「妻問婚」が行われて居る土地だが、正月の風習などわが国の習慣に共通点が多いので、昔から初期日本民族(統一大和族)に於ける「習慣の遠いルーツでは無いか」と指摘されている。

ただし、言っておくが、記録に残っているのは相応の家柄を有する征服部族の末裔だけで、底辺の庶民の記録には残らない。

この「妻問婚」の呼び名が、「夜這い」の語源で、動詞「呼ばふ」の連用形「呼ばひ、が名詞化した語」と言うのが定説で、「夜這い」と書くのは当て字である。

「呼ばひ」は上代から見られる語で、本来、男性が女性の許に通い、求婚の呼びかけをする「妻問婚」事を意味した。

この求婚の呼びかけ、今ほど厳密なものでなく、「唯の口説き」と区別は付き難い。

当時は男性側に、「多妻・重婚」が多かったのだ。

勿論、この「呼ばう」の場合、女性が呼ぶのであるからお相手の選択権は呼ぶ方の女性にあった。

そして、女性の気分次第で呼ぶ相手が違っても、別段不思議な事では無かった。

つまり女系主体の子孫継続の形態である。

これはその時代の合意であり、現在の倫理観とは大きく違うが、現在の考え方はその形式の一つに過ぎず、絶対的なものではない。

貴族・氏族社会では、家長が女性で「よばう形」で男性を寝屋に引き入れる習慣・「よばひ(夜這い)制度」は、虚弱精子劣性遺伝に苦しめられていた古墳時代から平安初期の貴族・氏族社会では、家系を後世に繋ぐ手段として有効だった。

そしてこの妻問婚(つまどいこん)の「よばう形」が無くなり、女性が家に嫁ぐ形に成った平安中期くらいから、今まで「よばひ(夜這い)制度」が塗布していた問題が噴出し、貴族・氏族社会で「養子のやり取り」が頻繁に行われる様に成ったのは皮肉である。

その後この問題の合理的な解決として考えられたのは、祭りの晩の神からの授かりもので、よそ様の種を頂いて自分の子として育てるには、性交相手は顔も判らぬ見ず知らずで性交場所は暗闇が良い。

やがて、後発で入って来た渡来人や経典の影響で、父系の血筋を繋ぐ貴族社会から、徐々に「嫁入り婚」が支配的になり「妻問婚が、不道徳なもの」と考えられる様になった。

当時は照明が発達していないから昼間働き、「夜、性行為をする」イメージが定着していた為、「夜這い」の文字が当てられた。

時代が下がり、「夜這い」の字が当てられて以降、求婚の呼びかけの意味は忘れられ、「男が女の寝床に忍び込む意味」として用いられる様になった。

まず、農漁村部における「夜這い」の前提をはっきりさせておきたい。

元々の百姓、漁師などの身分と生活環境を考えてみよう。

百姓や漁師の生活環境は村里集落であり、身分はその地名に住む誰々(山里村のゴンベイ)で苗字に当るものは無いので有る。

つまり公家や神官、武士、僧侶階級の家系単位と違い、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の存在である。

村人は、村の所属であり、村の名が一体化した村人の苗字の代わりだった。

つまり、民は領地を有した領主の所属で有り、村名は領主の名(地名)苗字(なえあざ・みょうじ)を使用した所属制度である。

従って所有する方とされる方では、明らかな利害関係が成立していた。

そこで村人は、生きる為に組織化する。

権力者の搾取、或いは隣村との土地や水利権の争いなどから彼らを守る「自治組織」としての村には、村人の団結が唯一の手段で有る。

従って村の団結を壊すルール違反があれば「村八分」と言う形で制裁を受けた。

と成ると、「夜這い」はルール違反ではなく、帰属意識を前提とする「積極的公認の事」と解釈するべきである。

これは、「集団婚(群れ婚)、妻問婚」の名残とみる説が定説で有るが、陰陽修験の影響が根底にある事を考慮してはいない。

この夜這いの習慣が、日本の村落地区から完全に無く成ったのは、欧米化が進んだ戦後の集団就職(しゅうだんしゅうしょく)に起因する地方の若者の減少が止めを刺した事になる。

遥か世界の屋根に見る「夜這いのルーツ」】に続く。

夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。
民族性・・「個の性規範」と「集団の性規範」の違い】に飛ぶ。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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春画・浮世絵(しゅんが・うきよえ)】に飛ぶ。

第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:10 | Comments(0)  

吉田松陰(よしだしょういん)

外圧に危機感を持つ孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷思想・・・その気持ちを無視して幕府は勅許を得ずに諸外国と条約を結んだ。

天皇の意向に反する幕府の開国方針に憤(いきどお)った勤皇の志士の中心となったのが、長州・毛利藩(萩藩)薩摩・島津藩だった。

勿論両藩には、永年の外様の悲哀を感じていた大藩故の条件環境の整いが、藩論を倒幕に到らしめる要素ではあった。

中でも特筆すべきは、長州藩には吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき隠し玉が存在していた。

幕末(江戸時代末期)には、長州藩はその隠し玉故に「公武合体論や尊皇攘夷」を主張して京都の政局へ積極的に関わり、詰まる所は倒幕に持ち込んだ。


明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は、杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。

つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔と言う事に成る。


吉田松陰(よしだしょういん)の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家禄二十六石の萩藩士の家で、松陰(ょういん)は、その杉家の次男として生まれた。

父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高二十六石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。

母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。

次男だったので生まれて四年後、杉寅之助四歳の時に父・百合之助の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。

吉田寅之助(松陰)九歳の時、後に友人・小田村伊之助の妻になる妹・杉寿(すぎひさ)が生まれる。

そのその三年後の吉田寅之助(松陰)十二歳の時には、後に松陰門下となる久坂玄瑞(くさかげんずい)の妻となる末の妹・杉文(すぎあや・すぎふみ)が生まれている。

倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)である。

元々松下村塾(しょうかそんじゅく)は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したもので、若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。

頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書/戦法篇」を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。

折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。

松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山に師事をして蘭学を学んだ。

この吉田虎之助(松陰)、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。

つまり自分が「こうする」と決めたら、後先や親族の迷惑など考えず無鉄砲に突き進む一族の困り者が吉田虎之助(松陰)だった。

吉田松陰の生き方は織田信長と一緒で、その時代の武士としての常識や藩士としての常識を遥かに超えた発想で行動する為、周囲は困惑していた。

もっとも「常識」と言う文言自体が維新後の造語で、言わばパラダイム(当時の支配的な物の考え方)であるから、そこから逸脱した発想や行動は理解され難いのだ。

当時に常識と言う言葉がなければ非常識も無く、松陰の行動を表現するなら「型破り」と言う事になる。

だが、松陰の場合は只の型破りとはスケールが違い、軽輩と言う身分もお構いなしに藩主にまで建白(意見を奏上)するのだから周囲が振り回される。

しかしその松陰だからこそ、欧米による大植民地時代に日本の活路を創造し得た思想の「範たり得た」のである。

その吉田虎之助(松陰)が、江戸遊学中の千八百五十二年(嘉永五年)に最初の事件を仕出かす。

友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

所が、ここからが吉田松蔭の真骨頂で、翌年(嘉永六年)に米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれる。

翌千八百五十四年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。

この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見もあったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。

翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。

その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。

吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)高杉晋作久坂玄瑞伊藤俊輔(博文)井上馨(いのうえかおる/井上聞多)山県有朋吉田稔麿前原一誠など維新の指導者となる人材を教えてる。

なかでも、高杉晋作と並び称された久坂玄瑞には、末の妹・杉文(すぎあや)を娶(めと)らせている。

前述のごとく、吉田松陰 (よしだしょういん)が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは千八百五十七年(安政四年)である。

松陰 (しょういん)が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、千九百五十九年(安政六年)の十月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か三年の間だけである。

だが、松陰 (しょういん)の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、「門弟同士も互いに議論を交わしながら育った」と言える。


実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の孫皇子・良光(ながみつ)親王懐良(かねなが)親王の子)の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。

在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。

すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。

伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいた。

その周防国熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。

杉家の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。

長門国萩から周防国熊毛までは二十里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤俊輔(博文)、等を引き連れて会いに行く。

松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。

「これなら、上手く行くだろう。」

そして松陰は、井上馨、伊藤俊輔(博文)の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。

千八百五十八年(安政五年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝(まなべあきふさ) の暗殺を計画する。

所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。

翌千九百五十九年(安政六年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。

井伊直弼(いいなおすけ)は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(千九百五十九年/安政六年)の十月に斬刑に処されている。

師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。

松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。

当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。

吉田松陰自身は、安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは、尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導し、明治維新の原動力となった。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:04 | Comments(0)  

琳聖(りんしょう)太子

中国地方、周防国(山口県)下松(くだまつ)市、光市、田布施町などの町々は、瀬戸内海に連なる北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)と朝鮮半島、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子の来朝帰化の伝承の地である。

琳聖太子は、 大内氏(豪族~大名)の「伝説的始祖」とされている。

琳聖太子は、 大内氏の伝説的始祖とされているが、六百十一年(推古天皇十九年)百済国聖明(さいめい)王第三子、琳聖太子が周防国多々良浜に上陸した。

琳聖太子は摂津に上り、聖徳太子に拝謁して、「周防国大内県(おおうちあがた)を賜った」と言う。

琳聖太子は青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を桂木山に建立し、日本で初めての 「北辰祭(妙見祭)を行った」と伝えられている。

なお、琳聖太子は、多々良姓を賜って日本に帰化し、後に領国・大内県(おおうちあがた)の名を採り西国一の大名になる大内氏の祖先になった 。

この降星伝説、周防、長門に五百年間と長く君臨した「大内氏の出自を正当化する政治工作」とも言われているが、いずれにしてもこの地では、妙見信仰は長く庇護され、人々に根付いていた。

琳聖太子が妙見大菩薩を祀る社を「桂木山に建立した」とあるが、この桂木山が、同名で後二山、「葛城山」と違う字で全国に三山あり、「臣籍降下した」と言う皇統に葛城王と言う親王の血統を持つ貴族が存在しているが、関わりはあるのだろうか?

明治維新以後、この地方の小さな町々から光市出身の伊藤博文(いとうひろぶみ)を始めとして、三人もの総理大臣を輩出している。

総理大臣が田布施町出身の岸信介と佐藤栄作氏で、政治家に縁のある土地柄である。

維新の「長州閥」と言ってしまえばそれまでだが、この土地の隠された謎も後ほどの章で解明してみたい。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

大内氏(おおうちうじ)】に続く。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 15:35 | Comments(0)  

倭(わ)の国

中国の後漢時代、日本を呼ぶのに「倭(わ)の国」と言った。

この「倭」であるが、「河の対岸」と言う意味がある。

中国大陸から見て、隔たって「手が届かない所」と言う意味である。

前に、遮る様に横たわる「河」は、何処を指しているだろう。

また、倭と言う文字は素直に読むと「人に任せる(委任する・託す)」と読める。

自分達を中心に考えた中国独自の表現の方法で、読みようでは「支配の及ばない所」と言う事に成る。

だが、あくまでも「他人に任せる」と属国がごとく表現する。

この、「自分達を中心にものを考える」のが、中華思想である。

つまり、中国側から見れば、東の属国群の総称が「倭人の国」だったのだ。

中国の史書によると、朝鮮半島の北西に位置する遼寧省(リャオニィ・チャーン)の遼東半島(リャオトンパンタオ)南部にも倭人が居たとしている。

すなわち、倭人=日本列島の民と限定するには「無理がある」と言う事である。

この「倭の国解釈」の違いは、同じように後の人々がタイムラグ(時間的ずれ)を考慮に入れないで最終解釈だけを理解している「百姓の意味の変遷」と同じである。

日本列島が最初から「倭の国」と言うこの国の歴史的な誤解も、永い民族的歴史である誓約(うけい)の真実も、所詮帰属意識建前を優先して綺麗事の強情を張るばかりの「嘘付きの建前主義者」には真実は語れない。

倭の国は、朝鮮半島と日本列島を含んだ広域の倭人の住む地域の事である。

この「広域倭の国論」、半島側と列島側双方の頭の固い学者が、あくまでも「倭の国列島説」を主張している所から、高句麗第十九・代好太王(こうたいおう・広開土王・クァンゲトワン/在位三百九十一年~四百十二年)の「好太王顕彰碑」における墨水廓填本(ぼくすいかくてんぼん/拓本)の内容について、史実を反映していない為に、旧日本軍による碑文すり替え説や事実を隠蔽する為の「石灰塗布作戦」と言った論争が繰り広げられている。

好太王顕彰碑に拠ると、当時高句麗軍の南面方面の最大の敵は、倭と呼ばれていた当時の列島側(大和朝廷)からの「派遣軍」と言う事に成っている。

つまり、当時の倭(列島側/大和(やまと)朝廷)は強い勢力を持ち、百済と新羅を武力制圧して配下に押さえ、その派遣軍は新羅の王都・慶州を占拠したり、帯方軍の故地まで侵入して高句麗軍と戦った事に成っているのである。

所が、この時期に、列島側(大和朝廷)が「朝鮮半島に軍を派遣した」と言う事実はなく、碑文の解釈、さらには碑の文字に「何んらかの問題がある」とする説が提起されている。

碑文の解釈が「倭の国列島説」に符合しないから強引に「陰謀説」で辻褄合わせをするのだが、「広域倭の国論」であれば、充分に符合するのである。

何故なら、「広域倭の国論」であれば百済も新羅も「半島側の倭の国」だったからである。

この倭(わ)の国、実は一つの国ではない。

多数の都市国家もどきの「小国の集合体」である。

歴史書の記す所の「混乱」に、倭(わ)の国とその他の国を、強引に同列に分けて、それぞれ別の国と考える今風の概念の「物差し(ものさし)」が有るからだ。

この間違った考えから、倭の国=大和の国を導くと、後の説明がまるで付かないのである。

日本列島の西半分が統一され大和朝廷が成立する前は、多くの渡来部族が地方を武力掌握して小さな国家を成立させて、王を名乗って居た。

そして統一後は、大王家(おおきみけ/大国主/天皇)に対して臣下の礼をとる地方豪族・臣王(おみおう)は初期に国主(くにぬし)または国造(くにのみやっこ)県主(あがたぬし)とされる地方の「王」だった。

朝鮮半島までに広がっていた「古代・広域・倭国(わのくに)群」が消滅の道を辿ったのは、朝鮮半島側が早い時期に大きな国三ヶ国に成り、やがて統一国家「新羅統一王朝」の成立と伴に、倭の国の名称が日本列島側だけに残ったからで、その日本列島側の小国群の総称も「大和(やまと)朝廷」であり、「倭国(わのくに)」ではない。

朝鮮半島側に新羅(シルラ)統一王朝が成立した為、大陸の中華帝国は半島を新羅(シルラ)と呼び、残りの日本列島を倭国(わのくに)として呼称を残した為に、日本列島・大和朝廷を「倭国(わのくに)と認識した」と考えられるのである。

桃太郎伝説の誤解と真実】に続く。

詳しくは、小論【広域和の国】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 15:31 | Comments(0)  

倭の五王(わのごおう)

中華帝国・宋代の朝廷文書「宋書(四百二十~五百二年頃編纂)」の「倭国伝」に見える倭王(讃・珍・済・興・武)についても、倭の五王と「記・紀(古事記や日本書紀)」に登場する古代天皇との比定の努力が古くからなされているが、まだ確定した説はない。

倭国の五人の王「讃、珍、済、興、武」は、歴代の大王(おおきみ/古代天皇)とも並立していた大王(おおきみ)とも言われて、その「記・紀」の系譜自体に疑問がもたれている。

このそれぞれに使節を派遣して朝貢し、官位を授かった事を「宋書」に記している讃、珍、済、興、武の五王についても、その思考の最初から「倭国=列島の国」と限定して歴代の大王(おおきみ/古代天皇)と比定を試みているが、我輩が提唱する「広域倭の国論」であれば、倭の五王が列島の大王(おおきみ)とは限らない事になる。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 15:25 | Comments(0)  

若狭の局(わかさのつぼね)

父・源頼朝の落馬死(??)により千百九十九年(正治元年)に家督を継いだ鎌倉二代将軍・源頼家には正室は居なかった。

一般的に妾妻とされる将軍・頼家に寵愛された「若狭の局(わかさのつぼね)」は、頼朝の乳母「比企の尼」の孫で、比企能員(ひきよしかず)の娘である。

若狭の局(わかさのつぼね)は妾妻で在ったが、例え鎌倉二代将軍・源頼家の正妻で在ったとしても、この時代は夫婦別姓で、正式には実家の姓を名乗るから、若狭の局(わかさのつぼね)の姓(かばね)名乗りは比企である。

比企氏が頼朝源氏との関わりが深かった為に権力の中枢に近づき、結果、北条氏と比企氏が鎌倉幕府の指導権を巡ってぶつかる事になる。

北条政子が、我子である頼家に敵対した訳は、「若狭の局(わかさのつぼね)」を寵愛する頼家をめぐる嫁姑の確執に止まらず、北条氏と比企氏と言う氏族の論理が根底に有ったからである。

鎌倉二代将軍・源頼家が家督を継いで間もなく、北条時政・北条政子の野望が噴出、北条氏など元老の干渉も多く老臣会議制を敷かれて将軍独裁を封じられた。

更に千二百三年(建仁三年)に頼家が罹病した時、相続の事が議せられて、北条時政と母政子(時政の娘)が、頼家の実子・一幡と弟実朝(千幡)に分譲する案を出した。

若狭の局が頼家との間に成した子・一幡が正式な後継ぎになると、比企氏の力が北条氏を上回りかねない危機感を募らせたのは北条時政・政子の親子だった。

これに対し、一幡の独裁を主張する一幡の母である若狭の局の父、比企能員(ひきよしかず)と意見が対立し、北条氏との間が次第に険悪化して行った。

二代将軍に任じた頼朝の嫡男・頼家は、将軍とは名ばかりの立場に置かれたが、源氏の実権の回復に努め、北条父娘の圧倒的勢力に対抗して、妻の実家「比企家」を頼り、妻の父「比企能員(ひきよしかず)」らと、北条時政を政権中枢から外そうとして失敗、返えって北条方の攻撃を受け、小御所(一幡の館)に篭城し抗戦するが、比企能員と頼家の実子・一幡は焼き討ちにされて殺され、比企氏は時政に滅ぼされ、頼家は退任させられ修禅寺に幽閉されてしまった。

伊豆の修善寺に流され、幽閉されていた二代将軍・源頼家は、翌年の千二百四年(元久元年)に北条時政の密計により、伊豆国修禅寺門前の虎溪橋際にある箱湯において、二十三歳と言う若さで刺客に暗殺された。
頼家の将軍在位は、僅か四年であった。

「若狭の局」は、「北条政子に殺された」と言える。

夫の頼家との息子「一幡」までも焼き討ちにされ、悲しみのあまり悲劇の入水自殺(自殺と成っているが暗殺説もある。)をして居る。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 15:21 | Comments(0)