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松浦高俊(まつらたかとし)

その松浦(まつら)党の中に、平清盛側近の松浦高俊(まつらたかとし)が居た事の縁で、一族こぞって平家方に着いていた。

つまり松浦(まつら)党は、瀬戸内海に於ける「一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)」、「屋島の戦い(やしまのたたかい)」、「壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)」と言う一連の源平合戦に西国方(平家方)として参戦していた。


松浦氏の娘婿に、前九年の役にて源頼義源義家率いる軍勢に厨川柵(くりやがわのさく・岩手県盛岡市)で破れ、降伏して四国配流、後に九州に配流された宗任(むねとう)の子孫・安倍季任がいて、婿入りして松浦実任(まつらさねとう・三郎大夫実任)を名乗り、北部九州で勢力を拡大して行く。

松浦実任(安倍季任)の子孫の松浦高俊は、平清盛の側近だったので、西国方(平家方)の水軍として活躍し、転戦している。

しかし元々弱い結合体の松浦(まつら)水軍の本流は壇ノ浦の戦いに形勢不利と悟って大半が源氏方に寝返り、平家討伐の源氏方大将・源義経(みなもとよしつね)の下に寝返る。

平家に反旗を翻した水軍・松浦(まつら)党は、伊予水軍・河野氏と連携して平氏討伐の功を挙げる。

為に松浦高俊(まつらたかとし)一党は孤立し、高俊(たかとし)は生き残ったが現在の山口県長門市油谷(周防国日置郷・藩政時代は大津郡)に流罪となった。

松浦本流に裏切に遭った松浦高俊は長門国油谷に流されて旧来の安倍姓に復したが、裏切った本流の一部は松浦家として鎌倉時代、室町時代を経て戦国大名となり、江戸時代を平戸藩六万三千石として明治維新まで生き残った。

この松浦高俊(まつらたかとし)の子孫が長州・安部家で、近年総理候補や総理を輩出している山口県の名家・安部家である。

壇ノ浦の戦いと松浦(まつら)水軍】に飛ぶ。

参考【安倍姓二千年の歴史メモ】へ飛ぶ

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:18 | Comments(2)  

松平春嶽(しゅんがく/慶永・よしなが)

明治維新の動乱時に京で活躍した越前(福井県)藩主松平春嶽は、徳川御三卿・田安家からの養子ではあるが、藩の血統としては結城(ゆうき)秀康の子孫である。

ちなみに、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子となった結城(ゆうき)秀康は、本来は徳川家康(とくがわいえやす)二男で、長男・信康切腹の後は徳川家の跡取りにもなれる血筋である。

しかし、豊臣家滅亡後も徳川家に復する事なく、越前(福井県)に松平家を興し、明治維新の幕臣側立役者の一人、松平春嶽へと続いて行くのである。

この結城(ゆうき)秀康が徳川家に復さず越前松平家を起こす経緯」には、織田信長(おだのぶなが)の隠された構想に拠る意志が働いていた。

しかしながら、この信長の思考は異端であり、明智光秀(あけちみつひで)や家康の先祖からの「氏(血統)の思想」とは合致しなかった。

松平春嶽 (まつだいらしゅんがく/慶永・よしなが)は、公武合体派ながら幕府親藩の藩主としては珍しく尊攘派勢力にも理解を示し、幕府に拠る長州・毛利藩(萩藩)征討に反対するなど、討幕軍からも一定の評価を得た人物である。

松平春嶽 (まつだいらしゅんがく)は明治維新動乱期の越前(福井)藩主だったが、生まれは徳川御三卿・田安家の八男坊として江戸城内・田安邸に産まれている。

十一歳の時、越前(福井)藩主松平斉喜(まつだいらなりさわ)養嗣子となり、斉喜(なりさわ)の死去によって越前(福井)藩主に就任した。

マシュー・ペリーが浦賀に来航した頃(千八百五十三年/嘉永六年)、二十六歳になっていた春嶽は強硬な鎖国攘夷論者で、海防強化を主張し水戸藩主徳川斉昭の海防参与任命を薩摩・島津藩世子・島津斉彬とともに働きかけて実現させている。

その後春嶽 (しゅんがく)は、総領事ハリスが下田に着任(千八百五十七年/安政三年)して通商開国を迫った時に鎖国攘夷では国際的に通用しないとして開国通商論者に転じている。

松平慶永(まつだいらよしなが/春嶽)は、後に伴に四賢候と称された宇和島藩第八代藩主・伊達宗城(だてむねなり)、土佐藩第十四代藩主・山内豊信(やまうちとよしげ/容堂)、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)と連携して幕政に関与を図り存在感を誇示した。

将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたが、千八百五十八年に幕府が朝廷の勅許なしで条約に調印(違勅調印)すると、定められた登城日ではないにも関らず、斉昭らと登城して大老・井伊直弼(いいなおすけ/彦根藩主)を詰問した。

所が井伊直弼の反撃に合い、その不時(勝手)登城を理由に、春嶽 (しゅんがく)は僅か三十一歳で隠居・謹慎に処せられた。

藩主を退(しりぞ)かされ江戸霊岸島に幽閉された春嶽 (しゅんがく)だったが、「桜田門外の変」で井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されると謹慎を免除され、その後幕政参与を命じられている。

春嶽は参与に任じられると、公武間の対立を解消するための将軍・家茂の上洛を進言し、京都の尊攘派勢力対処策として、武力制圧ではなく公武合体派連合(薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策を主張し幕府にその意見を認めさせている。

千八百六十三年、春嶽三十六歳の時に将軍に先発して入京し、先に上京していた将軍後見職・一橋慶喜や守護職・松平容保とともに公武合体派勢力挽回に務めたが、京都の情勢は尊攘派に有利で、公武合体派連合策は挫折した。

同じ年に起こった「禁門の政変」に拠って攘派が失脚して公武合体派が政権を握ると、春嶽 (しゅんがく)は再び上洛し、慶喜・容保ら公武合体派諸侯とともに朝廷参与に任命される。

その後、朝廷参与を辞任、長州征討をにらんで陸軍総裁職に転出した松平容保に代って京都守護職に就いたりしたが、その間役職を引き受けたり離れたりの出入りが激しく、長州征討策に関しては最後まで反対だった阻止できず、幕府軍不利の戦況の最中に将軍家茂が大坂城で病没し休戦となっている。

徳川慶喜大政奉還、王政復古後は明治新政府の議定、大蔵卿など要職を担う一方幕府と朝廷の間に立って慶喜の政権参加に尽力して、明治維新後の初期にも重要な役割を果たしている。

越前・松平藩と松平(結城)秀康】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:15 | Comments(0)  

御門(みかど)

この国(日本列島)は、永い歴史において帝(みかど)が治める「大和合の国」、つまり大和(やまと)の国だった。

帝(みかど・日本読み、中国読みはディ・テェィ)の語源であるが、元は御門(みかど)である。
これが、初期の神社の成り立ちと大きい関わりがある。

「御門(みかど)」と言う呼称であるが、門(もん/かど)に特別な意味があるのは、定住した部族が城砦集落(じょうさいしゅうらく)を築き外敵から部族を一括して守った事から、その出入り口に在る門(もん/かど)を「その部族の象徴」としたものを部族のリーダーに結び付け、そのリーダーを「御門(みかど)」と呼んだのではないだろうか。

そしてその城砦集落(じょうさいしゅうらく)の中心にシャーマニズムを統治に活用する部族のリーダー・御門(みかど)の住居としての屋敷が設けられ、時を経てその地が聖域として神格化されて「神社に成った」と推測するのである。

つまり、門構えがある砦状の屋敷を持つ有力者(征服部族長)の象徴が、御門(みかど)と言う「尊称だった」と考えられる。

逆説的に推測するに、「門を持つ屋敷」は、有力者にしか持つ事は許されなかったのでは無いだろうか?

また、そうした部族長の一部が支配域を広げて国主(くにぬし・王/臣王)に成長し、国主=御門(みかど)と成り、多くの国主(くにぬし)=王(おう)が集まって大国主(おおくにぬし)=大王(おおきみ・後の帝/みかど)を選出した。

御門(みかど)が有力者(征服部族長)の尊称であるから、その屋敷の門が独特の権威を持つ。つまり御門(みかど)は当初一人ではなく地域地域で大勢居た。

そして、その有力者(征服部族長)は、被支配者統治の為に神格化して行く。

有力者(征服部族長)の砦状の屋敷も神域化されて、鎮守氏上が鎮守氏神に成って初期の神社の様式が出来上がった。

当初、「社(やしろ)」は神の降臨する為の場所だった。

つまり、神の声(御託宣)を頂く為の祭場だったのである。

所が、何時の頃からか「社(やしろ)」とは建て物であり、神はそこに「常在するもの」と言う解釈に変化して行った。

この辺りに氏神(氏上)様のカラクリがある。

氏神(氏上)様の屋敷が社(やしろ)に成り、敷地が御神域に成って、精神的にも冒(おか)す事出来ない権力と成った。

わが国独特の建造物として、鳥居(とりい)がある。

つまり、御門(みかど)として独特の権威を持つ鎮守氏上の屋敷の門が、神格・神域化して殊更権威ある物としての特別な門「鳥居(とりい)」の様式が、時間を掛けて完成されて行った。

まぁ、判りやすく言えば、氏神(うじがみ・氏上)の屋敷兼砦の門が、権威を得て「鳥居に成った」と言う事である。

ちなみに、御門(みかど)が部族長或いは部族王の尊称であれば、安倍氏・貴族・土御門家(つちみかどけ)は紛れも無く土族(つちぞく)の長(王)であり、阿倍比羅夫(あべのひらふ)勾玉(まがたま)を祭祀に用いた縄文人(蝦夷族)の長に違いないのではないか?

また、古代ヘブライ(ユダヤ)の失われた十支族渡来説としての語学的酷似点としては、ヘブライ語の「ミコト・ミカド」の意味は「神々・天皇・貴人」の事を指す所から、ナニャドヤラ・古代ヘブライ(ユダヤ)伝説との類似を指摘している。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:09 | Comments(0)  

妙見宮(みょうけんぐう)

初期の渡来信仰として、妙見信仰の果たした影響は、計り知れない。

さて、渡来前の妙見信仰で有るが、妙見様の系譜は七仏八菩薩・諸説の一で菩薩、十二面観音菩薩*(世の中では十一面観音菩薩と言われるが、実は後一面密教として隠されている。)

が陀羅尼神(ダラニシン・妙見信仰)で、神格は天一星神(北斗・北極星神)である。

およそ二百年前までの人間界では、羅針盤(磁石)が無かった時代が続いていた。

アッシリアやバビロニアなどの西アジア砂漠地帯の遊牧民族は、道を間違えれば死を意味した。

砂漠を旅する民にとって、方角の分かる北極星はなくてならないものであるが、気象学的に北極星は見える日ばかりではない。

北極星を待ち望む気持ちが「神」としての信仰の形を取ったのであろう。

これが遊牧民経由でインドに伝わり、仏教では「七仏八菩薩・諸説・陀羅尼神呪(妙見神呪経)」として「大蔵経」の密教部に組み込まれた。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 19:04 | Comments(0)  

妙見信仰(みょうけんしんこう)

北斗・北辰妙見信仰は、北極星が天体の中で不動の位置に見え、方位を示す「みちしるべ」として世界中で神格化され、その古代妙見信仰が五百年代から六百年代にかけて渡来人と伴に日本列島・大和合の国に渡来した。

妙見とは「優れた目を持つ」の意味だが、この優れた目とは「見通せる」に通じ、役小角(えんのおずぬ)が成立させた初期の陰陽組織の修験道の根幹を為す信仰として活用された。

陰陽修験道は、有る密命を持って列島の隅々に活動範囲を広げて行く。

信仰が大衆に広まるには、「俗」にまで降ろしてた教えでないと中々理解されない。

この妙見信仰(みょうけんしんこう)、現代では織姫と彦星が年に一度の逢瀬を愉しむ「七夕伝承の祭り」として無難な形の庶民行事として残っている。

実はこの辺りの「俗」が妙見信仰が民衆に受け入れられた重要ポイントなのだが、妙見信仰には実にエロチックな内容の「祭事・北辰祭」が存在した。

つまり「北辰祭」が後に全国に広がって、庶民の間で俗に性交の事を「お祭りをする」と言われるくらい当時としては一般的な習俗で、その後明治維新政府が取り締まるまで信仰行事として続いた「暗闇乱交祭り」の原型だったからである。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、祭り(祀り)としての性交行事が認められていた。

大和朝廷は、七百九十六年(延暦十五年)に「風紀の乱れ」を理由に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止する。

所が禁止から僅か十年余りで、八百六年に空海(弘法大師)が唐から帰国して高野山(和歌山県)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山すると、北辰妙見信仰を取り込んで「妙見大菩薩」と言う真言密教の仏様に迎え入れる。

日本の真言宗が、真言陀羅尼(マントラダーラニー/しんごんだらに)を唱え、大日如来(本尊)を念じる教義であるが、実は空海(弘法大師)が中国大陸から持ち帰った教義を総合的に整理して教義とした為、空海(弘法大師)が持ち帰った教義の中に北辰妙見信仰と仏教が中国大陸で結び付いた「妙見大菩薩信仰/陀羅尼神呪経(妙見神呪経)」が含まれていたからである。

この北辰妙見信仰は、百三十年余り以前に初期の陰陽組織を成立させた役小角(えんのおずぬ)が起こした修験道と深く関わっていた為、真言密教と修験道は一体化して行き東密修験道は総本山金剛峰寺(真言宗)を本拠地に、そして同時期に帰国した最澄(伝教大師)天台宗を創建すると同じく台密修験道として比叡山延暦寺(天台宗)を本拠地として融合する。

初期陰陽修験は、密教の到来と伴に真言宗・東密修験と天台宗・台密修験として僧と修験者の垣根が無くなり、修験者が僧に僧が修験者に教えを請う形で北辰妙見信仰は様々な教義を創設して新しい宗派を成立して行くのである。

日本に於ける神道系信仰習俗をまとめると、「歌垣の習俗」から「豊年祭り」に「エエジャナイカ騒動」、「暗闇祭り」から「皇室祭祀」に到るまで、「北辰祭(ほくしんさい/北斗・北辰信仰)」に集約される「妙見信仰」の影響が色濃く残っている。

そして天孫降(光)臨伝説の創出に、賀茂・葛城事代主(ことしろぬし)の神と共に天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)の妙見信仰が「習合的に採用された」と考えられるのである。

実はこれらの神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

その多部族・多民族が夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:49 | Comments(0)  

巫女(みこ/シャーマン)

御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

この文章は、小論・【遊女(女郎)の歴史】の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:46 | Comments(0)  

源頼政(みなもとよりまさ)

平安末期の千百五十三年(仁平三年)春、夜な夜な都の東三条の森から怪しげな黒雲が湧き起こり、「宮廷内裏(きゅうていだいり)の上空を覆う」と言う怪事に、時の若き天皇・近衛天皇(第七十六代/当時十三歳)は大変悩まれた。

当時の平安の都は、平安群盗(蝦夷ゲリラ)の出没が未だ収まらず、何時(いつ)恐ろしい場面に出食わさないとも限らない恐怖を、人々が深層心理の中に孕(はら)んだ時代だった。

近衛天皇は、当時まだ若く兵庫頭だった源(三位)頼政と、その朗等・猪早太の二人に御所(御殿)の警護をさせ、「鵺(ぬえ)を退治させた」と言う。

内裏(だいり・皇居)は、天皇の平常時における住まいの事で、皇宮(こうぐう)とも言う。

御所の鵺(ぬえ)退治の警備をした源(三位)頼政は、平安時代末期の人物である。

摂津源氏の嫡流である源頼政は、保元の乱では後白河天皇(第七十八代)方に属して平清盛源義朝(頼朝の父)らと共に崇徳上皇方と戦った。

源氏嫡流の摂津源氏の武将だった源頼政が、三位頼政(さんいのよりまさ)と呼ばれたのは、平治の乱の折りに御所の大内(内裏/だいり)守護としての立場から、幼帝・六条天皇(ろくじょうてんのう・第七十九代)と後白河法皇を奉じていた平清盛方の陣営に助勢、その功績でそれまで源氏の最高位が正四位下が定番だった叙任慣習を破り従三位に叙せられたからである。

後に後白河天皇の皇子、以仁王(もちひとおう)の令旨に従い、木曾(源)義仲より早く、伊勢平氏の平清盛一族打倒の最初の挙兵を行い、嫡子の源仲綱や源宗綱らと共に平氏と戦い、宇治(宇治橋の合戦)にて討ち死した人物だった。

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第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:35 | Comments(0)  

源頼朝(みなもとのよりとも)

源氏の頭領「源頼朝(みなもとのよりとも)」は源義朝の三男であったが、母が正室 (藤原季範の娘・由良御前)で在った為に「嫡男(ちゃくなん)」として育てられる。

幼名を、「鬼武者」と言った。

平治の乱の折に父義朝に従い、十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に平清盛の継母・池禅尼の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国(いずのくに)・「蛭ヶ小島」に流される。

平治の乱の折に、源頼朝(みなもとのよりとも)の父・義朝に従い共に討ち死にした長男と次男が居たが側室の腹だった。

この妾腹の子を庶子と言い、この場合庶兄が二人いた事になる。

この時代、身分違いの女性は、幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。

従って、正室(由良御前)の腹である頼朝が三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。

源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に処刑を免れ、伊豆の国(いずのくに)「蛭ヶ小島」に流刑とされる。

その流刑先の監視役が、後に源頼朝の正妻となる北条正子の父・北条時政だった。

伊豆・蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。

多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。

この流人時代が長かった為に、頼朝は猜疑心が強い性格になったのではないだろうか?

そして初陣の平治の乱も、再起の旗揚げをして自らが指揮した石橋山の合戦も敗退して、戦にはトンと自信がない武将だった。

この源頼朝が、関東武士の代表と成って平家の勢力を討ち、征夷大将軍に就いて所謂武士として始めての政権・鎌倉幕府を開いたのである。

源頼家(みなもとのよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)】に続く。
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源頼朝については記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。
詳しくは皇統と鵺の影人・本編の【第二巻】をお読み下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:31 | Comments(0)  

源(土御門)通親(みなもとの・つちみかど・みちちか)

源通親は土御門を名乗る公家であったが、安倍氏の血筋ではない。

通親は村上源氏嫡流の生まれであるが、この頃に成ると「土御門」の公家の名跡は安倍氏に拘らない公家の名流として帝よりの賜り名跡として通用していた。

村上源氏嫡流に生まれた土御門通親(みちちか)は、後白河上皇院政初期の千百五十八年(保元三年)に従五位下に任じられた。

通親(みちちか)の青年時代は平清盛とその一門の全盛期にあたり、通親(みちちか)も清盛の支援を受けた高倉天皇(第八十代)の側近として平家と関係を築いた。

実はこの源通親(みなもとのみちちか)、当初勘解由小路党には敵味方のどちらか判り難い存在だった。

権力を持つまでの源通親(みなもとのみちちか)の政治手法が、多分に風見鶏的であったからだが、当時の政治情勢で中枢に伸し上がるには、止むを得ない事だった。

後に伸し上がった公家政治家・源通親(みなもとのみちちか)は、その邸宅の号により、土御門(つちみかど)内大臣の称をもって世に知られる。

つまりここから暫くの間、この物語に村上源氏嫡流の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が絡む事と成る。

通親(みちちか)の村上源氏は頼朝の河内源氏と違い最高級公家の家柄である。

平安末期の千百八十三年(寿永二年)夏、平家木曾義仲に都を追われ安徳天皇を連れて西国に落ちた時に、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は比叡山に避難した後白河法皇に同行し、平家との訣別を表明した。

その後土御門(源)通親は、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母であった藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室(正室説あるも、疑わしい)であった藤原伊子(ふじわらのいし)を側室に迎えて曹洞宗開祖・道元を為している。

千百九十八年(建久九年)、後鳥羽天皇の退位と土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の孫でもある第一皇子為仁(ためひと)親王の即位が実現し、土御門(つちみかど)天皇(第八十三代)となる。

新帝・土御門天皇(第八十三代)の外祖父となった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は権大納言と院庁別当を兼任し、人々に恐れられる事になった。

十二世紀後半は、平氏政権の盛衰、鎌倉幕府の成立が象徴するように、日本史上稀にみる激動の時代であったが、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はこの困難な時局を皇統を補佐して泳ぎ切り、武力を持たない公家政治家として源平の武家相手に怯(ひる)むことなく立ち向った数少ない一人であり、後白河院政及び以後の朝廷中枢に立った一代の英傑である。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:31 | Comments(0)  

源義経(みなもとのよしつね)

源義経(みなもとのよしつね/牛若)は、母・常盤御前が源氏の棟梁・源義朝(みなもとのよしとも)の側室となり、義朝の九男として千百五十八年(保元三年)に生まれる。

正室の子、異腹の長兄が頼朝(よりとも)、次兄が範頼(のりより)で、同母兄に七男・(今若(阿野全成・あのぜんじょう)と八男・乙若(源義円・みなもとのぎえん)がいる。

千百五十九年(平治元年)に平治の乱が起き、父・源義朝が平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗死した時、牛若(義経)は数え年二歳だった。

母・常盤御前は、幼い今若、乙若、牛若の三兄弟の助命を敵将・平清盛(たいらのきよもり)に願い出て、清盛の側室に成る事で三人の助命に成功する。

その後、常盤御前は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は十一歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう/義経)と名乗った。

千百七十四年(承安四年)、十六歳の遮那王(しゃなおう/義経)は僧になる事を拒否して鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行い源義経(みなもとよしつね)を名乗る。


源義経(牛若丸・遮那王)は、腹違いの兄(源頼朝)に愛されなかった人物である。

純粋だったが故に、一途に兄(源頼朝)の権力奪取に尽くしながら、その思いは通じる事が無かったのである。

義経人気が兄(源頼朝)に危険視された事と、傍(そば)に仕える者達が、「或る組織の者」だったが為に、疑り深い兄(源頼朝)とその嫁(北条政子)の猜疑心の的に成ったのである。

源義経は、歴史に現れる義朝の息子としては一番下(第九男)の息子である。

源頼朝の腹違いの弟にあたり、若い頃は「牛若丸」と言った。

兄二人と同様に、幼かったので父の敗戦にも関わらず、死罪を免れた。

鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、僧にさせられかけたのは有名な話である。

運命の子、牛若丸(源義経)が生まれて来た時は、一連の大乱、「保元の乱」の只中だった。

本来なら、九男坊の牛若は気楽な人生が待っていたのかも知れない。

しかし父義朝は、牛若丸(義経)がまだ歩けないうちに父・義朝が起こした平治の乱で平清盛に破れ、非業の最期を迎えている。

牛若丸(義経)は、実母・常盤御前が敵将・平清盛の妾(側室)になると言う体を張った助命嘆願で兄二人今若丸、乙若丸と共に助命され、鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、そこで「或る組織の者」達に囲まれて育てられ、五年後の義経十六歳の時に奥州藤原氏の藤原秀衛(ふじわらひでひら)の下を頼って立派な武将に成長するまで保護されている。

藤原秀衛の下で兄・頼朝の挙兵を聞き、奥州からはせ参じて富士川の戦いに勝利し凱旋して来た頼朝と伊豆国・で対面を果たし、頼朝の指揮下に入って兄・源範頼(みなもとのりより)と共に平家討伐に京へ攻め上る。

そこで範頼と義経の軍勢は、いち早く平家討伐に立ち上がって京の都から平家を追い払った従兄弟の木曽義仲(きそよしなか/源義仲)の軍勢と義仲を兄・頼朝の命で討ち取る。

木曽義仲を討ち取った義経は平家追討に取り掛かり一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」で奇襲に成功すると、屋島の戦い壇ノ浦の戦いと平家を九州の地まで追い詰めて平清盛の血(孫)を引く幼帝安徳天皇(八歳)を二位の尼(祖母で、清盛の妻)もろとも入水、崩御(ほうぎょ)させ、事実上平家を滅ぼしている。

意気揚々と京の都に凱旋した義経に待っていたのは、後白河上皇や兄・頼朝の熾烈な権力闘争だった。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:28 | Comments(0)