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源義経一党・修験黒幕説

悲劇の武将、源義経に従うのは、修験山伏組織のエリート集団だった。

源義経が平家の目を逃れて奥州・藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば「金売吉次と言う金商人の手配によった」と言うが、この人物の実在性は今日疑われていて、実際には「名も無い影の働きに拠る、または、金売吉次と名乗った影がいた」と見るべきで、少年義経(遮那王)は、何者かの将来の備えの思惑で、軍事顧問まで付けて育成されていたのかも知れないが、裏陰陽組織・勘解由小路の仕事に、確たる証拠は残らない。

実はこの修験黒幕・勘解由小路(かでのこうじ)党の影には、表ざたには出来ない或る「やんごとなきお方」の御意志が働いていた。

読み物や劇作にするには、筋書きがドラマチックな方が楽しめる。

それで物語は史実に脚色が付け加えられて時を経ると、やがてその脚色の方が世に常識として認識される誤解が生じる。

例えば、牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いが「京・五条橋」と言うのは後の作家の創作で、高貴な方の謀略に拠る出遭いの方が遥かに信憑性が高いのである。

義経の卓越した戦闘術の謎が明らかに・・・・・源義経(牛若丸)が、いかに源氏の血統を有していても、それを担ぎ出す者達が居ないと、妾腹で九男坊の彼は、歴史の表舞台には踊り出る事は無かった筈である。

源義経の生涯は、帝の思いに翻弄された不条理なものだった。

それでも、短いが確かな愛の時間にも、源義経はめぐり合っていた。

詳しくは小論・【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:23 | Comments(0)  

源範頼(みなもとのりより)

源範頼(みなもとのりより)は、源頼朝(みなもとよりとも) の同腹の兄弟で、腹違いの弟・源義経の兄である。

幼少の頃の名を、蒲冠者(かばのかんじや)と言う。

源氏の棟梁としてトップに在った源頼朝と、腹違いながら末っ子で派手な戦(いくさ)ぶりの義経の陰に隠れて、世間では存在が薄いが、実は中々の人物である。

父・源義朝平治の乱敗戦のおり、幼かった為に助命された蒲冠者は、身の置き所を求めて監視の目を盗み、遠州(今の静岡県西部)から源家の昔からの地盤、関東に脱出する。武蔵の国石戸(今の埼玉県・北本市付近)辿り着き、秘密裏に源氏に味方する人々に出会ってそこに安住する。

この時に集って来た家臣郎党の中に、義経と同様に勘解由小路党の手の者が、密かに紛れ込んでいた。

彼らの目的は、義経とほとんど変わらなかったが、義経ほど大物は派遣されなかった。

二十年の歳月が流れ、兄・頼朝が挙兵、範頼は呼応して頼朝軍に鎌倉の地で合流する。

頼朝にすれば、範頼は同父母の弟で、異母弟の義経拠り遥かに信頼が置ける。

範頼は、頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任され、次々に呼応してくる各武士団をよく掌握し、義経の強力な前線部隊と力を合わせて、勝ち進む。

その手腕は、義経のはなばなしい戦闘の影に隠れてはいるが、けして弟には引けは取らない。

それ処か、大軍の統率力は義経より遥かに秀でている。

当然だが、勘解由小路党の軍事顧問団が機能していたのだ。

その信頼が置ける筈の実弟すら、小心者の頼朝は信じられない。

勘解由小路党の影が、油断ならぬ相手として見え隠れしていたからで有る。

範頼を追い落とすきっかけは、ある「大事件」が引金と成った。

それは、頼朝が征夷大将軍に就任して、一年たった頃の事だ。

当時の鎌倉幕府の重臣を集めたレクレーションを兼ねた戦闘訓練「富士の巻き狩り」で勃発した仇討ち事件、曽我兄弟による日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)襲撃事件である。

工藤氏は、「藤原南家」を祖とする伊豆の国辺りの小領主だった。

伊豆半島中央を流れる狩野川の由来と成った狩野氏も、同じ一族である。工藤氏は、伊豆の国三島神社(大社)で、妻方の北條氏の支援を受け挙兵した源氏の棟梁、源頼朝(みなもとよりとも)に従い、鎌倉幕府成立に助力した。

その功績により頼朝の信任を得、日向の国の地頭職など二十四ヵ所に所領を得た。

つまり、工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)は、鎌倉幕府の重臣(有力御家人)の一人である。

その絶頂期に、所領紛争の恨みで同じ祖をいただく伊豆の国の伊東氏の息子二人(曽我兄弟母親の再婚で姓が曽我に変わっている)に討たれてしまった。

あくまでも、私闘である。

しかしこの「あだ討ち」は、将軍の仮陣屋で起こっている。

場合によっては、警備の不手際、或いは易々と地頭職が討たれた事で、幕府の権威を失墜し兼ねない大事件であった。

この襲撃事件が、遠い鎌倉に伝えられた時情報が錯綜した。

兄・曽我十朗祐成(そがのじゅうろうすけなり)はその場ですぐに討たれた。

しかし、弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)が頼朝にあだ討ちの趣旨を訴えるべく、抜刀のまま頼朝の元(幕営)に向かった事が、「頼朝が討たれた」と言う誤報となり、鎌倉の北条政子と源範頼に伝わった。

ここで範頼が政子を「万が一の事が有ってもこの範頼が付いています」と慰めた事を逆手に取って、「範頼逆心の疑いを掛けた」と言う。

酷い「難癖」である。

範頼は、弁明したが聞き入れられず、伊豆国・修禅寺に流された後、頼朝の命で北条家の刺客団に襲われ自害している。

最初から殺す気でいたのだから、弁明など聞く訳がない。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:16 | Comments(0)  

三方ヶ原合戦(みかたがはらかっせん)

千五百七十二年 、武田信玄は将軍・足利義昭の命を受け、大軍を率いて京都への上洛(京都への進軍)の準備に取り掛かる。

北条氏との同盟締結により背後を衝かれる心配のなくなった信玄は、手始めに、予(か)ねてよりの念願だった遠江を手中にすべく千五百七十二年(元亀三年)十月、甲府を出発した。

この時武田信玄が率いた軍勢は二万五千騎と言われる。

この大軍が信濃国の高遠から飯田、さらに青崩峠および兵越峠を越えて遠江国に侵入した。

武田信玄が、遠州(遠江国)と信州(信濃国)の国境を、二万五千騎の軍勢を率いて越境を開始した。

行く手には織田・徳川連合軍の領土と軍勢が待ち受けている。

今度は、明らかに上洛を狙っていた。

今川家亡き後、甲斐源氏・武田家は、征夷大将軍に最も近い男の筈だった。

何としても、それを掴み取らねばならない。

彼が動いたのは、患っている持病が悪化しつつあり、時間が無かったからである。

対峙する徳川家康は、武田信玄にとって見れば、上杉北条と比べ造作もない相手の筈である。

三河、遠江二ヵ国の太守に成ったとは言え、長い事今川家の人質上がりの属国の将だった男である。

今また徳川家康は、織田信長の属国の将もどきに従って、三河、遠江二ヵ国の太守に成りあがっただけで、百戦錬磨の自分に取っては、戦国を生き抜いて来たキャリアが違う。

前々年の千五百七十年(元亀元年)に漸く浜松引馬城を居城とした徳川家康の勢力は、最大動員してもせいぜいが八千騎であった。

家康は信玄の出陣を知るとすぐに同盟者の織田信長(おだのぶなが)より援兵を派遣してもらったが、その兵も三千騎ほどで、徳川・織田両軍の兵をもってしても武田方の半分にも満たない兵力であった。

信長の方でもあちこちに出兵しており、その状況下では三千騎を捻出するのが精一杯だったのである。

武士道の精神】へ続く。

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:59 | Comments(0)  

水戸黄門の真実

水戸光圀大日本史編纂には、影の目的があった。

それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

江戸幕府において水戸藩主は御三家の内、唯一江戸定府(常駐)の将軍補佐役(注、副将軍と言う役職は正式には無い)である。

そして幕府・幕閣に於いては老中職(特設・大老職有り)などの協議を将軍が裁可するので、水戸藩主・江戸定府(常駐)の職務上の真の役割が判らない。

そして「近代兵器である鉄砲・大砲の扱いと諜報能力に優れていた」とする雑賀党を召抱えの上、更に藩主の異母弟を婿に入れて雑賀党の統領に据えている。

ヒヨットすると公には出来ないが、水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。

水戸藩重臣・雑賀(鈴木)家の謎】へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

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常陸国水戸藩・徳川頼房(とくがわよりふさ)】に飛ぶ。

水戸(光圀)黄門(みと(みつくに)こうもん)については第四巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第四巻をお読み下さい。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:52 | Comments(0)  

水戸藩(みとはん/水戸徳川家)

大日本史編纂には隠された真実があった。

徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り水戸藩とし、御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

水戸光圀の大日本史編纂には、影の目的があった。

それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

徳川家康の十一男・徳川頼房が家康の命により常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立する。

御三家に数えられる水戸家は、家康十一男・頼房が二代将軍・徳川秀忠の三男・徳川忠長を家祖とする駿河徳川(松平)家・(五十五万石)の断絶後、千六百三十六年(寛永十三年)に徳川を賜姓された家である。

つまり本来は別の立藩目的が在った水戸家だが、前後の事情から水戸家は補欠から御三家に繰り上げられた経緯が伺えるのである。

水戸藩は将軍の補佐を務める事を任とし、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)であった。

しかし、そもそも表向きを老中・大老が合議決定する幕閤に在って、水戸藩々主の江戸定府の役割は何だったのか?

その辺りに、水戸藩(みとはん)が徳川本宗家を補佐する隠された密命がなければ、ここは説明が着かないのである。

水戸黄門の真実】へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

注意)、 本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:44 | Comments(0)  

水戸(光圀)黄門(みと(みつくに)こうもん)

水戸黄門(みとこうもん)=徳川光圀(とくがわみつくに)は、徳川家康の十一男・徳川頼房の三男である。

父・徳川頼房が常陸国(茨城県)に二十六万石を与えられて御三家の一つ水戸藩を起こした事に始まる水戸徳川家の第二代藩主を勤め、隠居後に藩校・彰考館に安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)、佐々宗淳(さっさむねあつ・介三郎)らを登用、「大日本史」の編纂に取り掛かる。

公表では、史書編纂を志した光圀は水戸藩世子時代の千六百五十七年(明暦三年)には、明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移った事を期にここで史局を開発し編纂事業を開始する。

千六百七十二年には、光圀は編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転して「彰考館」と改め、史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、表向き特に南朝関係の史料を広く収集している。

実は南朝関係の史料は全国に分布し、その資料編纂を目的とした調査が理由となると何処の藩も水戸藩々士の藩領入国を断れない。

尚、「大日本史」は光圀死後の千七百十五年(正徳五年)に第三代水戸藩主・徳川綱條(とくがわつなえだ/光圀養子)による命名で、光圀時代には「本朝史記」や「国史(倭史)」と呼ばれている。

光圀が第二代藩主に収まるには頼房・長男と言われる松平頼重(まつだいらよりしげ)との奇妙な経緯があり、第三代藩主には松平頼重(まつだいらよりしげ)の長男・綱條(つなえだ)を養子に迎えている。

水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、藩領内からほとんど出る事が無かったのだが、漫遊記では水戸光圀公が全国を歩いて悪役人を懲らしめ、世直しをして居る事に成っている。

これは架空(フィクション)の物語で、幕末になって、「講談師(氏名は不明)が創作した」とされている。

この水戸黄門漫遊記に登場する「助さん格さんに忍者役のサポートの一団」のモデルが、驚く事に「全て雑賀衆だ」と言ったら、どうだろうか?

事実の方が、講談師の創作より意表をついている事になる。

水戸黄門の真実】 へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

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詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

水戸(光圀)黄門(みと(みつくに)こうもん)については第四巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第四巻をお読み下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:41 | Comments(0)  

水揚げ・〔一〕村落の水揚げ親

戦前の日本社会では、男女共に大人として扱われる年齢が現在より若かった。

女性の場合は初潮、或いは数え年の十三歳を節目として成人と見做され、「おはぐろ(お歯黒)祝い、またはコシマキ(腰巻)祝い」が開かれ、暫くすると「水揚げ」となる。

この「水揚げ」、成人する女性に性行為を実地して習得させる事である。

親がその相手を探し、依頼する事が多かった。

「水揚げ」の相手は、村の年長者で性行為の経験が豊富な事には勿論の事、人柄が良く水揚げ後も娘の相談相手になれる後見人として、村長・村主・庄屋・名主や村役と言った資産も政治力も在る村の実力者の男性が選ばれた。

娘は、水揚げ親に女性としての性交術を実践伝授される訳で、特別な縁(えにし)が成立し、つまり「水揚げ親制度」は、娘の将来に渡る後見人を獲得する事である。

そして後見人を獲得する事は勿論の事、同時に日頃のお礼の意を示す事や一家のその後をその実力者に託す為の人身御供伝説を彷彿させる「貢(みつぎ)の正当化」ではなかったのか?

その水揚げを経る事によって、その娘に対する「夜這い」が解禁となる。

これらは、信仰深い人々にとって「神の計(はか)らい」だったので有る。

現代の感覚では、古(いにしえ)の水揚げ年齢が十三歳・十四歳では酷く早い様に感じるだろうが、当時の習俗的認識では普通の感覚で在った。

そしてその水揚げ年齢の感覚は、けして古いものでは無く、第二次世界大戦後の暫くまでは続いて居た。

水揚げ・〔二〕芸妓の水揚げ】に続く。

詳しくは、小論【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:37 | Comments(0)  

無鹿(むしか)

延岡市の中心部を流れる五ヶ瀬川の州にある「無鹿」の町から川沿いの道を遡ると、天孫降臨伝説の地「高千穂(たかちほ)」に至る。

現在の無鹿は、延岡市の郊外に在る何の変哲も無いひなびた住宅街だが、数奇な運命を持ってこの作品に何度か顔を出す不思議な地名で有る。

無鹿(むしか)から海、或いは海岸線を行けば、北浦の地に達する。

北川の地と高千穂の地は、無鹿(むしか)からそれぞれの川ぞいを行けば達する。

つまり無鹿(むしか)の地が、古代からの交通の要衝で在った事は容易に想像できる。

だがつい近世の大友宗麟の時代まで、大きな集落を形成した事実はなさそうだ。

それ故、無鹿(むしか)以前の古い地名はない。

しかしこの地が、営々と続いた「天孫降臨伝説」の氏族の発祥とその二千年余り後に、最後の氏族が終焉を迎えた因縁の地なのである。

無鹿(むしか)は、西郷隆盛率いる薩摩軍が起こした氏族(武士)最後の戦いと成る「西南戦争/西南の役」の反撃を試みた激戦の地で、この地で敗れた薩摩軍は、可愛岳(えのだけ)を越えて薩摩城山に立て篭もり最期を迎える。

この無鹿(むしか)の名前は、戦国武将・大友宗麟が名付けたそうだが、その話は後の章に譲る。

大友宗麟】へ続く

関連記事
高千穂(たかちほ)】へ飛ぶ。

第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:32 | Comments(0)  

村岡良文(むらおかよしふみ)=平良文(たいらのよしふみ)

第五十代桓武天皇の皇子であった葛原(かずはら)親王(臣籍降下して平性を賜る)から五代目に、桓武平氏として平良文(たいらのよしふみ)がいる。

平良文(たいらのよしふみ)は下総国の豪族として武蔵国・下総国などを開発して勢力を確立し、相模国村岡にその住居を定めて村岡姓を名乗り、村岡(平)良文として関東鎮守府将軍となる。

やがて、村岡五郎(平)良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」を起こし、平忠常(上総介)は清和源氏の源頼信(みなもとよりのぶ)に討ち取られている。

伊勢平氏の平直方は、関東で発生した「鎮守府将軍・村岡五郎(平)良文の乱」の鎮圧に追討使として失敗してしまい、役を解かれて伊豆の国に在住する。

この直方の流れが後に北条家となる。

清和源氏の源頼信(みなもとよりのぶ)が、関東での平忠常(上総介)の「長元の乱」鎮圧に成功し、関東では源氏の勢力が強まり、鎮守府将軍などの現地武門トップの地位は源氏へと移ってしまうのである。

この村岡良文(平良文)の子孫が、源義家(八幡太郎)に従って奥州(東北)と坂東(関東)の治安にあたる縁を持ち、坂東(関東)各地に土着して土豪武士となり、その諸氏が八つの氏族に大別されていた為に「坂東八平氏」と呼ばれる。

関連記事
平安群盗と原初の武士達(自衛武力)】に飛ぶ。
平将門(たいらのまさかど)】に戻る。
坂東八平氏(ばんどうはちへいし)】に続く。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:29 | Comments(0)  

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)

武蔵坊弁慶は、源義経に付き従う怪力無双の僧兵として広く知られている。

兵法に優れ、武術の達人だった武蔵坊弁慶が、幾ら源氏の血筋とは言え自発的に義経に臣従するのは如何にも不自然である。

武蔵坊弁慶に付いては、当時平清盛と対立していた比叡山から派遣され、源氏再興を謀った「義経付軍事教育顧問」説も浮かんでいる。

つまり武蔵坊弁慶は、最澄が興した天台宗の総本山・比叡山延暦寺の「修験者(山伏)だ」と言われている。

これが事実であるなら、当然義経の影には「修験者(台蜜山伏)」のネットワークがあり、奇跡的な義経の戦闘方法を、彼らが影で支えていたのではないだろうか。

智謀と怪力で「主・源義経を助けた」と言われる武蔵坊弁慶には詳しい経歴が不明で、比叡山に入山したが乱暴が過ぎて追い出された事に成っている。

牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いの場とされる京・五条橋は、当時まだ存在しなかった。

従って、出会いシーン「京・五条橋の下り」は後世の創作である。

牛若丸(源義経)と弁慶の「五条橋に於ける出会い」の下り以外の有名な脚色・創作例は、日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六(正勝)の「矢作橋の出会い」、宮本武蔵と岩流(佐々木小次郎)の「舟島(巌流島)の決闘の詳細」などが挙げられる。

弁慶については後の創作が多く、手の付けられない乱暴者が義経に強者の鼻をへし折られて臣従した事に成っているが、そんな愚かな乱暴者が突然悟って知将に成るなどおよそ創作劇的である。

また、義経主従都落ちの後、畿内周辺に潜伏する義経一行を比叡山の僧兵らが庇護しており、義経と比叡山の僧兵の関係を伺わせるが、史実の弁慶については都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名がある以外は、ほとんど明らかではない。

本来弁慶の詳しい経歴が不明なのは、それこそ「密命を帯びた工作員だったから」と考えるのが順当である。


源義経(みなもとよしつね)】に飛ぶ。
源義経一党・修験黒幕説】に飛ぶ。
源義経・一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」】に飛ぶ。
屋島の戦い(やしまのたたかい)】に飛ぶ。
壇ノ浦の戦いと松浦(まつら)水軍】に飛ぶ。
平泉・高館(たかだち)/衣川館の襲撃】に飛ぶ。
源義経については記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第二巻をお読み下さい。

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義経郎党関係記事
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鈴木重家(しげいえ)・亀井六郎兄弟、】に飛ぶ。

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創られた歴史のミステリー】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:25 | Comments(0)