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文観弘真(もんかんこうしん)

鎌倉末期から建武親政期室町初期にかけて、京都醍醐寺に文観弘真(もんかんこうしん)と言う僧侶がいた。

彼は先人で有る仁寛(にんかん)僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮(もくれん)真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。

後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。

文観は、僧侶にしては恐ろしく身軽で、何やら武術の心得もあり、得体の知れない所があったが、如何(どお)やら奈良西大寺の真言僧の若い頃に修験武術を会得しているらしかった。

実は出自不明と言われる文観弘真は、一説に拠ると、勘解由小路吉次の三男、伊勢(三郎)義盛の忘れ形見で、後に伊勢国(三重県亀山市 関町小野・旧鈴鹿郡関町小野)の国人武将となった小野(伊勢)義真の末裔・小野(伊勢)弘真だったので有る。

文観弘真僧正は、小野文観(おののもんかん)とも名乗っている。

伊勢の国(三重県)関町は戦国から江戸期にかけて火縄の産地として有名だった。

正式には定説は無く文観の出自は不明だが、過去が見えない事から勘解由小路党の草で有る事はどうやら間違いなさそうで有る。

建武の新政(親政/けんむのしんせい)と南北朝並立】に飛ぶ。
真言密教立川流と後醍醐天皇の子沢山】に飛ぶ。
真言密教立川流の解説】に飛ぶ。

文観弘真僧正については第二巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第二巻をお読み下さい。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:57 | Comments(0)  

大塔宮(おおとうのみや)/護良親王(もりながしんのう)

後醍醐天皇の即位六年目、千三百二十四年、後伏見上皇が幕府の後援を受けて一方的に皇子量仁(かずひと)親王の立太子を企てた為、業をにやした後醍醐天皇は、鎌倉幕府からの政権奪取を画策する。

後醍醐天皇は側近の日野資朝(ひのすけとも)日野俊基(ひのとしとも)らと共に倒幕の謀議を交わし始めたが、この謀議を知った土岐頼員(ときよりかず)が六波羅探題の斎藤利幸に密告した事によりこれが露顕してしまう。

この時の謀議は発覚し、中納言・日野資朝(すけとも)が後醍醐帝を庇って罪を被り、首謀者とされ、佐渡国(佐渡ヶ島)に流される。

美濃国に在った後醍醐帝勤皇の士・多治見国長や土岐頼兼らは、追い詰められて自刃した。

これを「正中の変」と言う。

日野(ひの)家は、藤原氏北家流の名家の家格を有した公家で、儒道や歌道の面で代々朝廷に仕えた。

勘解由小路(かでのこうじ)家は、日野家の流れでも有る。

そして、その本質は、賀茂家の影人の血筋だった。

つまり、日野家も影の血を引いていたのので、それ故今度の事には後醍醐天皇に味方した。

画策した後醍醐天皇や醍醐寺僧侶文観は、この時はうまく難を逃れている。

だが、この時既に鎌倉方の要注意人物に成って、その動静は京都の六波羅探題に警戒されていた。

日野資朝が一身に罪を被って佐渡国(佐渡ヶ島)に流された為、事無を得た後醍醐天皇は、十一歳で比叡山延暦寺に入山した皇子の護良(もりなが)親王を二十歳で最高位の天台宗の座主(ざす)に就任させる事により、寺院勢力を反幕府勢力として結集させた。

護良親王(もりながしんのう)は天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に尊雲法親王として入っている。

この時に門室を置いたのが東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺だった事から、大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれた。

その後門跡を継承して門主となり、後醍醐天皇の画策で天台座主となって居るが、護良親王(もりながしんのう)は武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積む「極めて例が無い座主であった」と言われている。

後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕運動に明け暮れている頃、護良(もりなが親王)は荒法師達を相手に武芸の訓練に励みつつ、比叡山で倒幕の準備を着々と進め、また幕府調伏の祈祷をも行っていた。

比叡山延暦寺は天台宗の総本山で、僧兵達を多く抱えた要塞として、台密山伏の本拠地として名高い。

元々日本の武術は、修験道の荒法師から発生して体系付けられたもので、護良(もりなが)親王が修行をしても不思議はない。

覇王を目指した男を父に持つ護良(もりなが)親王が生まれて来た時は、永く続いた平穏の時が終わりつつある鎌倉末期である。

天下大乱の予兆はあった。生まれてくる皇子は、背負い切れない運命を背負っていた。

我輩が魅力を感じるのは、権力に固執せず、クールな熱血漢の美学に生きる男達で、この時代に我輩にとって魅力的で純粋な信念ある生き方をしたのがこの男、後醍醐天皇・第一皇子(だいいちみこ)・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが)親王である。

河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)も捨て難いが、悲劇的な護良(もりなが)親王の生涯には及ばない。

一方、千三百三十二年に「隠岐(おき)の島」に流された後醍醐天皇の流刑中に、息子(第一皇子)の天台宗座主(ざす)尊雲法親王(護良親王)が還俗し、大塔宮(おおとうのみや)として臣民の支持を一身に集めた。

護良親王を産んだ源親子(みなもとのちかこ)は、権大納言・源師親(みなもともろちか・村上源氏北畠家)の娘である。

尊良(たかなが)親王を「第一皇子」とするものも世間に見受けられるが、これは第一皇子の大塔宮(おおとうのみや)護良(もりなが)親王が仏門(天台宗)にあって、世俗の舞台へのデビューが、尊良(たかなが)親王より遅れた事による間違いである。

第一皇子の護良(もりなが)親王は千三百八年生まれ、尊良(たかなが)親王は千三百十一年生まれで、護良(もりなが)親王の三歳年下の第二皇子に成る。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良親王(もりながしんのう)は征夷大将軍、兵部卿に任じられて上洛し、足利尊氏は鎮守府将軍となった。

護良(もりなが)親王は建武政権においても足利尊氏らを警戒していたとされ、縁戚関係にある北畠親房とともに、東北地方支配を目的に義良親王(後村上天皇)を長とし、親房の子の北畠顕家を陸奥守に任じて補佐させる形の陸奥将軍府設置を進言して実現させる。

しかし、足利尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫・阿野廉子と反目し、尊氏暗殺のため兵を集めたりしたため、征夷大将軍を解任される。

千三百三十四年(建武元年)冬、皇位簒奪を企てたとして、後醍醐の意を受けた名和長年、結城親光らに捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟足利直義の監視下に置かれる。

大塔宮護良親王は、父(後醍醐帝)に愛されなかった人物である。

人間何かを背負って生きる者で、何事にも代償は必要である。

高貴な生まれだからと言って、人生何もかも上手く行ってはバランスは取れないものであるから、背負った不幸を不服に思ったら負けである。

親王は、心を開かない父帝に生涯心痛めながらも、純粋に父帝を慕っていた。

それは、後醍醐帝の第一皇子として育てられた無償の愛だった。

護良親王は、武をもって、鎌倉幕府から父(後醍醐帝)が権力奪取する事に尽くし、帝の「建武親政」を成立されながら、父(後醍醐帝)に疎(うと)まれて足利方・鎌倉に入牢、惨殺されている。

詳細は【元弘の乱(げんこうのらん)と鎌倉幕府滅亡】に飛ぶ。

大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりながしんのう)については第二巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第二巻をお読み下さい。

参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。

詳しくは、関連小論・【真言密教立川流の解説】に参照下さい。
詳しくは、関連小説・【異聞・隠された明治維新】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:53 | Comments(1)  

森(成利)欄丸(もりらんまる)

森(成利)欄丸は稚児小姓上がりの織田信長側近である。

稚児小姓とは閨(ねや)で夜伽の相手(男色)をした小姓を言い、森欄丸の前は若い頃の前田利家が稚児小姓を務めていた。

森成利(もりなりとし/蘭丸)の森氏(もりうじ)は、清和源氏の一家系・河内源氏の棟梁である、八幡太郎・源義家の七男(六男説あり)・源義隆(みなもとのよしたか)を祖とする。

成利(なりとし/蘭丸)の父は、美濃・斉藤家の家臣から織田家の客将・家臣に納まり、近江・坂本城で討ち死にした知将・森可成(もりよしなり)である。

森可成(もりよしなり)の三男・成利(なりとし/蘭丸)は、織田信長の稚児小姓から岩村城五万石の大名にまで取り立てられ、本能寺で最後まで信長の傍近くにいた。

信長の男色寵愛を受け、織田・家臣団の第二世代トップの位置に居た人物が成利(なりとし/蘭丸)だった。

兄に猛将と謳われた森長可(もりながよし)が居る。

兄・森長可(もりながよし)も戦国時代から安土桃山時代の初期にか掛けて活躍し、一時は二十万石の太守に成った人物である。

森成利(もりなりとし/蘭丸)は、十二歳で織田信長の小姓(近江国に五百石の知行)として召抱えられ、「本能寺の変」当時はまだ十六歳だった。

戦国期は、親兄弟息子に到るまで油断がならない。

増してや部下などは、下克上を虎視眈々と伺っているやも知れない。

大方が自分もそうして来たから、それが世の習いだった。

それ故この時代、大名は稚児小姓を愛でる習慣があったが、それは、硬い絆の元に安心できる部下の確保育成を目的とする一面を持っていた。

稚児小姓になる方も、主君の信頼を獲得し出世が保障される所から、世間でもこの関係を、「さして異様なもの」とは扱われていなかった。

余談だが、こうした形態の信頼構築の心理は、何も戦国時代の主従関係における特殊な事例ではない。

もっとも同性同士はめずらしいだろうが、異性同士なら、実は現代の上司と部下の場合でも「職場不倫」と言う形で存在し、珍しいものではない。

けして職場不倫をお薦めしたり肯定する訳ではなく、ただの心理分析であるが、職場不倫には、互いに不安を打ち消す手段として、奇妙な「刹那的(せつなてき)安心心理」が介在している。

つまり、古代から脈々と流れている性交を交えて信頼関係を築く「誓約(うけい)心理」が、変形して具現化されたものである。

腹心の部下を「懐刀(ふところかたな)」と言う。

職場不倫にも、ある種そうした要求が働く。

基本的に「誓約(うけい)心理」が働いて関係が形成されるものであるから、ドロドロの関係になる危険を孕むにも関わらず、発生する不倫には、ただの肉体的快楽目的だけではなく、相応の安心の合意に拠る人間的心理が働く。

弱肉強食のコンクリートジャングルの職場社会にあって、上司が本当に気を赦せ信頼できる異性は肉体(性交)を赦す相手である。

部下の方も、上司が愛人なら、職場として安心できる環境が整う事になる。

そうした人間心理「誓約(うけい)」は、何千年も変わらない事を意味している。

困った事に、こうした安心心理の介在を「愛」と誤解するからドロドロの仲になる。

覚めてみると、「愛なんかじゃない」と言う事に気付くのが一般的である。

関連小論・【日本の、秘められた武門の絆・稚児小姓】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:45 | Comments(0)  

山伏(やまぶし)

表向きの山伏(やまぶし)の概念は、山の中をひたすら歩き、修行をする修験道の行者の事であり、「修験者」(しゅげんじゃ)とも言い、奥深い山中で、踏破や懺悔などの厳しい艱難苦行を行なって、山岳が持つ自然の霊力を身に付ける事を目的とする。

この修験道の「密教・山岳信仰」のルーツこそ、中華帝国を経由し仏教と習合して伝わった遥かヒマラヤ山脈の「夜這いの国々のヒンズー教起源」である事は間違いない。

元々弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典を現代の先入観に当て嵌めて真言密教を理解しようとする所に無理がある。

弘法大師(こうぼうだいし/空海)が中国から持ち帰った経典には、ヒンドゥー教の経典も多数含まれていた事から、真言密教が生まれた。

だからこそヒマラヤ原産の桜木も日本に伝わり、吉野に代表する山岳信仰と桜木は日本でも一体のものと成った。


山伏は「やまぶせ」とも読め、恐らくは身を隠す仕事(影の仕事)を意味している。

大和朝廷の幕開けの頃、「恐怖の支配」を実践したのは、初期修験道師達である。

初期修験道師は、果たして民間の自然発生的なものだったのか?

疑うべき最大の疑問は資金と組織力で、表向きの個人的な宗教への情熱などが理由では余りにも話が綺麗過ぎる。

つまり、行動範囲と人数の規模が、不自然に大掛かりに過ぎるのだ。

それに修験者のあのお馴染の「行者服」の出(い)で立ち、中々凝っていて高価そうである。

山中でも一目で識別が可能なしろものであるが、活動費や行者服(ぎょうじゃふく)の資金はいったい何処から出ていたのか?

あれは常識的に考えて「軍事組織か警察組織の制服にしか見えない」が、如何か?
昔は武人の装備を「出(い)で立ち」と言った。

これには、機能性以外に相手を威圧したり心服させる為のアピール効果の目的が込められている。

いずれにしても、残念ながら人間の見かけなどそう差が有る訳ではないから、衣装や住居など現代にも通じる「こけおどし」が無ければ相手には中々認めては貰えない。

修験者の「行者服」の出(い)で立ちの裏に、「表沙汰にし難い理由」があり、宗教(信仰)でカモフラージュして民間の体裁を整えた「公的な秘密組織ではないか」と、我輩は疑ってみた。

元々衣装や装飾は、身分を現す為の言わば「分別標識」である。

童話ではないが、王子と乞食が衣装や装飾を取り替えれば、だれも乞食が「本物の王子だ」とは気が付かない。

わが国でも「馬子にも衣装」と言う諺(ことわざ)がある。
裏返すと、元々大差がないものをそれらしく見せる為に衣装や装飾は存在し、時代に拠っては身分の違うものに、その衣装や装飾の使用は制限されていた。

国家を形成する重要要件の一つが帰属意識(きぞくいしき)である。

人間には帰属意識(きぞくいしき)があり、その帰属意識(きぞくいしき)は人種(民族意識)だったり国(国民意識)だったり、同一宗教や勤務先企業だったりするのだが、その根底に在るのは「人間が群れ社会の生き物である」と言う極原始的な本能にある。

また、その帰属意識(きぞくいしき)の形成過程に影響を与えるのが、この「群れ社会の生き物」と言う原始的な帰属本能と「集団同調性(多数派同調)バイアス」と言う心理効果の利用である。

この集団同調性(多数派同調)バイアスに関してだが、多くの場合は宗教指導者や為政者、またはその両者が協力して「信仰心や民話の刷り込み」が応用され帰属意識(きぞくいしき)を醸成して行く事になる。

天武帝桓武帝が進めた古事記日本書紀の編纂とそれを広める陰陽修験道師の活動は、正に帝の下に国家を統一させる為の国策だった訳である。

そして異説だが、縄文期に古代イスラエルの失われた十支族の一部が列島に移り住んで原住民と民族的に和合し、縄文人を形成した痕跡が存在する。

その縄文人が「ヘブライ文化の一部を定着させた」と言う、未だ解明されない「古代ヘブライ(ユダヤ)伝説」がある。

実はこのヘブライ文化が、六百九十九(文武天皇三年)に役小角(えんのおずぬ)が成立させたの陰陽道に、日本列島の原信仰として取り入れられた形跡がある。


そしてかなり時代が下ってからだが、神前祭祀(しんぜんさいし)に於ける邪気払いの大麻(おおぬさ)は、修験道の「祈願・焚(た)き行」でも使われていた。

大麻草(マリファナ)は、真言密教の遠祖・チベット仏教(ラマ教)の地であるヒマラヤ高地一帯で自然に自生していた薬草である。

当然ながら密教・修験道師(山伏)は、大麻草(マリファナ)を焼(く)べればその煙を吸引した人が陶酔作用を引き起こす事をしばしば信者獲得に利用した。

大麻草(マリファナ)で陶酔すれば幻覚も見、それを素直で真面目な人物ほど「信仰の奇跡」と捉えるのは自明の理である。

つまり密室での「焚(た)き行」の陶酔の中で、願主と修験道師(山伏)が如何なる加持祈祷儀式を為して居たかは当事者しか知らない。

陰陽師起源の詳しくは、小論【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:39 | Comments(0)  

邪馬台国(ヤマタイコク)

邪馬台国が何処(どこ)に在ったのか、それはまだ特定されていない。

それも、永い間多くの学者が挑戦しての結果である。

邪馬台国(やまたいこく)は、わが国の古事記日本書紀に記述がなく、中国の「魏志倭人伝に記述が在る」と言う謎の国である。

魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているのは、卑弥呼の邪馬台国・スサノウ狗奴国葛城氏伊都国の三っの国だけで、つまりこの三っの国が当時の日本列島に於いて広域・有力な王国である可能性が強い。

そして広域倭国論を念頭に考えると、邪馬台国(やまたいこく)の所在が必ずしも日本列島に限定するものではない事も事実である。

それでもあえて日本列島で考えるなら、あくまでも推論だが、もしそれが天孫降(光)臨伝説に矛盾する事を塗布する為の「簡単なトリックだ」としたら、歴史学者はそのトリックを基にそれこそ「幻の邪馬台国」を追い続けて居る事になる。

邪馬台国の存在が「簡単なトリックだ」とすると、シンプルなアプローチも出来なくはない。

「大和の国」の音も、正しく「邪馬台国」の音に似ているのだ。

このヤマトの音であるが、中国式の発音で邪(ヤー)馬(マー)台(トゥ)と発音が合うので、大和はその充て読みと、我輩は考えている。

何故なら、通常使用するに大和の文字は、タイワ・ダイワとしか読めない。

中国式の発音でも大(タァー)和(ホォ)である。

それを、ダイワ(大和)に「国または朝廷」をつけて初めて、「ヤマトノクニや、ヤマトチョウテイ」と読ませる。


被征服者(民人・蝦夷)にとって、渡来系征服部族(後の皇統と貴族)は当初「恐怖の大王達」だった。

とにかく突然やって来て武力で土地を作物を強奪し、隷属を要求して支配者に治まる。

それらが土地の豪族(氏上)と成り、やがて勢力を拡大して小国家(王・臣王・国主)を作る。

その小国家群が連立して統一国家を形成、大和大国(やまとのおおくに)が成立して大王(おおきみ・大国主/おおくにぬし)を選出する道を辿るのである。

大和大国(やまとのおおくに)の大和(やまと)は大和合(だいわごう)で、大和合の大国(おおくに)と実に判り易い。

判り易いのに神話の天孫光臨伝説には符合しないから、「大和合大国(だいわごうのおおくに)では都合が悪い」と言う矛盾を抱えた名前が大和大国(やまとのおおくに)の名称である。

ちなみに、大和合(だいわごう)の大和(だいわ)を、邪馬台国(やまたいこく)の邪馬台(やまたい/ヤマタイの文字も音表記の充て字)に充ててヤマトと読ませ、「大和=やまと」ならシンプルで良いのだが・・・

特別記事・【日本人の祖先は何処から来たのか?(四)邪馬台国と狗奴国】に飛ぶ。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:34 | Comments(0)  

大和朝廷(やまとちょうてい)

大和大国(やまとのおおくに)の大和(やまと)は大和合(だいわごう)で、大和合の大国(おおくに)と実に判り易い。

黎明期の日本列島は都市国家もどきの倭の国々で、国主(くにぬし/国造・くにのみやっこ)も県主(あがたのぬし)も、大和合する以前は基本的に部族国家の王である。

判り易いのに神話の天孫降(光)臨伝説には符合しないから、「大和合大国(だいわごうのおおくに)では都合が悪い」と言う矛盾を抱えた名前が大和大国(やまとのおおくに)の名称である。

ちなみに、大和合(だいわごう)の大和(だいわ)を、邪馬台国(やまたいこく)の邪馬台(やまたい/ヤマタイの文字も音表記の充て字)に充ててヤマトと読ませ、「大和=やまと」ならシンプルで良いのだが・・・・。


弥生時代、日本列島は様々な異民族(異部族)が小国を創って割拠する人種の坩堝(るつぼ)で争いの地だった。

元々「日本の神話信仰」の根幹を為すのは異民族(異部族)同士の性交に拠る平和的和合(統合)であり、出来た子の代は異民族(異部族)混血の同一族である。

つまり、祭り(祀り)事は政(マツリゴト・政治)であると同時に政治は性事で、誓約(うけい)の性交は神聖な神事(マツリゴト・政治)である。

従って初期の神殿(神社)で執り行われた神事が性交そのもので在っても不思議は無く、その痕跡が現代でも垣間見られて当たり前で在る。

為に神殿(神社)性交は異民族(異部族)和合の神事で、これを「現代の性規範で否定しよう」とするから理解がされないのである。

この事は、単一日本民族の成立過程で起こった渡来系の加羅族(からぞく/農耕山岳民族)呉族(ごぞく/海洋民族)現住縄文人(蝦夷/えみし)三つ巴の多民族の地だった事に拠る部族対立回避の知恵が大和合である。

それでも大和合の大和国(ヤマトの国)を認めないのは、古事記日本書紀天孫降臨伝説から皇国史観(こうこくしかん)に到る国家観と民族観に反する事実だからである。


日本の調理方法には「和(あ)える」と言う言葉がある。

「和(あ)える」は「ごま和(あ)え」などと使う食品の調理方法で、調和或いは和合であり、言わば食材のベストミックスの事を言う。

調理方法の「和(あ)える」は調和の事だが、このベストミックスの精神こそ三千年から二千年に到る時期の、人種の坩堝(るつぼ)だった日本が大和合した事と「同じ意味を持ち合わせている」と想われる。

また、気持ちなどがやわらぐの意味で使う「和(なご)む」についても、争(あらそ)うとは対極の意味合いがある言葉である。


そもそも大和朝廷(ヤマト王権)によって、日本列島の西日本統一が実現された時、征服(侵略)部族の王達が神格化された事もあって、「神の威光で統治する」と言う呪術的発想から、「軍事力ないし警察力の行使」と言う汚れた仕事は、国家の制度の内に「公式のものとしての存在を認めない」と言う世界でも類の少ない建前の「特異な制度」が採用された。

そしてその事が、常に有力な武力を持つ大豪族(御門・臣王)勢力の傀儡(かいらい)的な立場に大王(おおきみ/後の天皇)を置く事に成った。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:30 | Comments(0)  

両班(ヤンバン・特権貴族階級)

清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高き朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は、間違い無く存在していた。

朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。

最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。

つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。

処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に性の愛玩物にされても仕方が無い。

この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いである。

貴族特権とは王権に対抗し得る有力者の懐柔目的も在るから、如何に儒教の国とは言え王権維持の為の実利的例外に性奴隷としての奴婢身分は、法の抜け道として必要だったのだろう。

都合が良い事に、人に非(あら)ずの家畜である「奴婢(ヌヒ)身分」には儒教の精神思想は除外で、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外の扱いだったのである。

また宮廷の医女(イニョ)も身分は家畜扱いの公奴婢(くぬひ)であり、遊技の妓生(キーセン)同様に女医と言うよりも両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。

身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」であったから、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。

旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。

奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。

女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。

その点では日本の江戸期までの女性に対する奴刑(しゃつけい)と扱いが共通する。

この文章は、小論・【遊女(女郎)の歴史】の一部として記載されています。

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第五巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:26 | Comments(0)  

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)

平安初期、八百年代に起きた称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に天皇位を譲ろうとした事件でも、和気清麻呂(わけのきよまろ)は、近くの伊勢神宮ではなく、わざわざ宇佐神宮の御神託を仰ぎに、遠方の九州まで出向いている。

朝廷の一大事に、アドバイス(助言)したのが、他でも無い宇佐神宮なのだ。
宇佐神宮御神託事件」である。

弓削氏(ゆげうじ)は、古代の日本で弓を製作する弓削部(ゆげべ)を統率した氏族で、武器を扱う事を職掌とする物部氏(もののべうじ)と関係が深く、一部の系統はその傍系とも称した。

但し弓削氏(ゆげうじ)には、祖先伝承や根拠地域が異なる複数系統があり、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の弓削氏(ゆげうじ)は、物部尾輿(もののべおこし)の子・物部守屋(もののべのもりや)の母姓「弓削」に因み後裔は弓削を称して河内国若江郡弓削郷を本貫とする。

この「御神託事件」だが、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、若年の頃、法相宗の高僧義淵(ぎえん)の弟子となり、良弁(ろうべん)から梵語(サンスクリット語)を学ぶ。

また大和国(奈良県)の葛城山に篭り「密教の宿曜秘法を習得した」とも言われる。

七百六十二年(天平宝字五年)孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)は病に伏せ、近江保良宮で看病に当たった弓削氏の僧・道鏡(どうきょう)は上皇の病を癒して寵を受け、孝謙上皇は道鏡(どうきょう)を寵愛するようになり、それを批判した淳仁大王(じゅんにんおおきみ/第四十七代天皇)と対立する。

この対立が引き金となり、七百六十二年(天平宝字六年)に孝謙上皇は近江保良宮より平城京に帰還し、出家して尼になる。

孝謙上皇は尼僧姿で重臣の前に現れ、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)から天皇としての権限を取り上げる為「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。

国家の大事と賞罰は自分が行う」と宣言する。

後ろ盾の光明皇太后を失い、淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の権限を狭められた藤原仲麻呂は軍事力により孝謙上皇と弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に対抗しようと挙兵を企てる(藤原仲麻呂の乱)も敗れ、孝謙上皇は淳仁大王(じゅんにんおおきみ/第四十七代天皇)を追放する。

この孝謙上皇の、強気の振る舞いの裏で後押しをしていたのが野望を抱いた弓削道鏡(ゆげのどうきょう)で在った事は想像に難くない。

孝謙上皇は重祚(再即位)し、称徳天皇(しょうとくてんのう・/第三十八代女帝)となって再即位し、即位後は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を太政大臣禅師とするなど重用し、天皇位の譲位を目論む「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)御神託事件」を起こす。

大宰府の主神(かんづかさ)・中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が「道鏡が皇位に就くべし」との宇佐八幡神社の託宣を報じる。

この御神託事件は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が共謀して「でっち上げた」と見られ和気清麻呂(わけのきよまろ)が勅使として宇佐八幡に送られたが、「この託宣は虚偽である」と御神託が下り、以前の神託を否定し復命され、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の即位計画は破綻した。

これに怒った太政大臣・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は和気清麻呂(わけのきよまろ)を因幡員外介(いなばのいんがいのげ)として左遷し、さらに称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)は清麻呂(きよまろ)を除名し大隅国(鹿児島県)へ配流する。

しかしこの宇佐八幡神社御神託事件の翌年、称徳天皇(しょうとくてんのう・女帝)は病につき僅か百日余りで崩御する。

女帝の為に生涯独身を通した淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)に子は無く、他に適当な天武天皇の子孫たる親王、王が無かったため、藤原永手や藤原百川の推挙によって天智天皇系の白壁王(光仁第四十九代天皇)が即位し、太政大臣・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は失脚して下野国・薬師寺別当に配流された。

女帝に成る定めを負って生まれた淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)は、孤独の中で権力闘争の生涯を送り、只一度の心許す男が弓削道鏡(ゆげのどうきょう)だったのかも知れない。

この淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)以降は、江戸時代の明正天皇(めいしょうてんのう・女帝)に至るまで、実に八百五十余年間女帝が立てられる事はなかった。

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第一巻の二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:14 | Comments(0)  

夜這(よば)い

妻問婚(つまどいこん)」とは、男が女性の下へ通う婚姻形を指している。

中国・雲南省の水耕稲作発祥の地は、未だにこの「妻問婚(つまどいこん)」が行われて居る地である。

この雲南省の地が、正月の風習などわが国の習慣に共通点が多いので、昔から初期日本民族(統一大和族)に於ける「習慣の遠いルーツでは無いか」と指摘されている。

ただし、言っておくが、記録に残っているのは相応の家柄を有する征服部族の末裔だけで、底辺の庶民の記録には残らない。

この「妻問婚(つまどいこん)」の呼び名が、「夜這い」の語源で、動詞「呼ばふ」の連用形「呼ばひ、が名詞化した語」と言うのが定説で、「夜這い」と書くのは当て字である。


基本的に、女性が「性に消極的」と言うのは幻想の綺麗事である。

もし、本当に「性に消極的」だったら、古墳時代から奈良時代平安時代中期くらいにかけての「貴族の夜這い(呼ばひ)文化」で子孫は絶えていた筈である。

「呼ばひ」は上代から見られる語で、本来、男性が女性の許に通い、求婚の呼びかけをする「妻問婚(つまどいこん)事」を意味した。

「夜這い(呼ばひ)文化」は文字の通り、当時は女性が気に入った殿方を家に招き入れて行為に及ぶもので、選択権は女性側に在った。

そして「呼ばう相手」の殿方を家に招き入れるのは女性の気分次第なので、一人に限定されたものでは無く、数人が通っていた場合も在った。

つまり霊長類の基本的な生殖行動は「群れ婚」で、女系主体の子孫継続の形態である。

これはその時代の合意であり、現在の倫理観とは大きく違うが、現在の考え方はその形式の一つに過ぎず、絶対的なものではない。

貴族・氏族社会では、家長が女性で「呼ばう形」で男性を寝屋に引き入れる習慣・「よばひ(夜這い)制度」は、虚弱精子劣性遺伝に苦しめられていた古墳時代から平安初期の貴族・氏族社会では、家系を後世に繋ぐ手段として有効だった。

そしてこの妻問婚(つまどいこん)の「よばう形」が無くなり、女性が家に嫁ぐ形に成った平安中期くらいから、今まで「よばひ(夜這い)制度」が塗布していた問題が噴出し、貴族・氏族社会で「養子のやり取り」が頻繁に行われる様に成ったのは皮肉である。

その後この問題の合理的な解決として考えられたのは、祭りの晩の神からの授かりもので、よそ様の種を頂いて自分の子として育てるには、性交相手は顔も判らぬ見ず知らずで性交場所は暗闇が良い。

やがて、後発で入って来た渡来人や経典の影響で、父系の血筋を繋ぐ貴族社会から、徐々に「嫁入り婚」が支配的になり「妻問婚が、不道徳なもの」と考えられる様になった。

当時は照明が発達していないから昼間働き、「夜、性行為をする」イメージが定着していた為、「夜這い」の文字が当てられた。

時代が下がり、「夜這い」の字が当てられて以降、求婚の呼びかけの意味は忘れられ、「男が女の寝床に忍び込む意味」として用いられる様になった。


この一夜限りの求婚の呼びかけ、今ほど厳密なものでなく、「唯の口説き」と区別は付き難い。

何故ならば、当時は男性側に、「多妻・重婚」が多かった。

つまり一夫一婦制は、明治維新後のキリスト教倫理が影響した結果で、それまでは結構緩(ゆる)い性規範が日本国内で通用していた。

だから当時の女性が「性に消極的」だったら、子を為(な)すなど無い話で、女性の本性が「好き者」だからこそ現在まで子孫が続いている。

これは庶民間の、特に農村部や漁村部の「夜這い文化」も同様で選択権は女性側に在り、嫌なら受け入れなければ良いのに、暗黙の合意が永々と続いたのである。

この永々と続いた現実こそ一般的な女性のまともな性本能で、そこに抵抗が生じたのは現在の社会構造が女性を消極的にしているからに過ぎない。

だから現代女性でも、安心・安全が担保されれば、「性癖を満足させてくれる冒険をしてみようか?」とフレキシブル(柔軟性・順応性)に行動しても不思議はない。


まず、農漁村部における「夜這い」の前提をはっきりさせておきたい。

元々の百姓、漁師などの身分と生活環境を考えてみよう。

百姓や漁師の生活環境は村里集落であり、身分はその地名に住む誰々(山里村のゴンベイ)で苗字に当るものは無いので有る。

つまり公家や神官、武士、僧侶などの氏族階級の家系単位と違い、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の存在である。

村人は村の所属であり、村の名が一体化した村人の苗字(みょうじ)の代わりだった。

つまり、民は領地を有した領主の所属で有り、村名は領主の名(地名)苗字(なえあざ・みょうじ)を使用した所属制度である。

従って所有する方とされる方では、明らかな利害関係が成立していた。


そこで村人は、生きる為に組織化する。

権力者の搾取、或いは隣村との土地や水利権の争いなどから彼らを守る「自治組織」としての村には、村人の団結が唯一の手段で有る。

村人は生き残る為に「村落共生社会(村社会)」を形成し、ある種の「群れ婚」状態に在った。

従って村の団結を壊すルール違反があれば「村八分」と言う形で制裁を受けた。

と成ると、「夜這い」はルール違反ではなく、帰属意識を前提とする「積極的公認の事」と解釈するべきである。

これは、「集団婚(群れ婚)、妻問婚」の名残とみる説が定説で有るが、陰陽修験の影響が根底にある事を考慮してはいない。

この夜這いの習慣が、日本の村落地区から完全に無く成ったのは、欧米化が進んだ戦後の集団就職(しゅうだんしゅうしょく)に起因する地方の若者の減少が止めを刺した事になる。

蛇足だが、村落地区から夜這い習慣が失われた事で、蛇足だが、村落地区から夜這い習慣が失われた事で、村落に於ける「シェア(分かち合い)の精神」 で満たしていた性交相手のシェア(分配)が途絶えてしまった。

結果、村落に魅力が無く成り「限界集落に拍車をかけた」と言うのは言い過ぎだろうか?


遥か世界の屋根に見る「夜這いのルーツ」】に続く。

夜這いは、愛すべき日本人の知恵だった【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。
民族性・・「個の性規範」と「集団の性規範」の違い】に飛ぶ。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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春画・浮世絵(しゅんが・うきよえ)】に飛ぶ。

第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:10 | Comments(0)  

吉田松陰(よしだしょういん)

マシュー・ペリーの黒船来航に依る開港外圧に危機感を持つ孝明天皇(こうめいてんのう)の攘夷思想・・・その気持ちを無視して幕府は勅許を得ずに諸外国と条約を結んだ。

天皇の意向に反する幕府の開国方針に憤(いきどお)った勤皇の志士の中心となったのが、長州・毛利藩(萩藩)薩摩・島津藩だった。

勿論両藩には、永年の外様の悲哀を感じていた大藩故の条件環境の整いが、藩論を倒幕に到らしめる要素ではあった。

中でも特筆すべきは、長州藩には吉田松陰が見出して育んでいた陰謀とも言うべき恐るべき隠し玉が存在していた。

幕末(江戸時代末期)には、長州藩はその隠し玉故に「公武合体論や尊皇攘夷」を主張して京都の政局へ積極的に関わり、詰まる所は倒幕に持ち込んだ。


明治維新史に燦然と輝く吉田松陰/吉田矩方(よしだしょういん/よしだのりかた)の幼名は、杉虎之助または杉大次郎と言い、杉家は「大内家の傍流」と言われて居る。

つまり事の真贋はともかく、言い伝えに拠れば杉家は百済国・聖明(さいめい)王の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔と言う事に成る。


吉田松陰(よしだしょういん)の実家は「杉(すぎ)」と言う一文字名字の家禄二十六石の萩藩士の家で、松陰(ょういん)は、その杉家の次男として生まれた。

父は杉百合之助・常道(すぎゆりのすけ・つねみち)で長州藩士ではあるが家格は無給通組(下級武士上等)、石高二十六石の貧乏武士で農業で家計を補(おぎな)っていた。

母は村田瀧と言ったが、杉家に嫁入りするに当たって行儀見習い先の萩(長州)藩家老・児玉家の児玉太兵衛・養女として家格を合わせたので、児玉瀧とも称する。

次男だったので生まれて四年後、杉寅之助四歳の時に父・百合之助の弟である家禄五十七石余、毛利氏に山鹿流兵学師範として仕える吉田家の養子となり、吉田姓を名乗る。

吉田寅之助(松陰)九歳の時、後に友人・小田村伊之助の妻になる妹・杉寿(すぎひさ)が生まれる。

そのその三年後の吉田寅之助(松陰)十二歳の時には、後に松陰門下となる久坂玄瑞(くさかげんずい)の妻となる末の妹・杉文(すぎあや・すぎふみ)が生まれている。

倒幕のリーダー的役わりを担ったのが、長州藩士、藤原氏の末裔を称する吉田松陰の私塾・松下村塾(しょうかそんじゅく)である。

元々松下村塾(しょうかそんじゅく)は松陰の叔父である玉木文之進が長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に設立したもので、若き吉田虎之助(松陰)もそこで学んだ。

頭脳明せきだった吉田虎之助(松陰)は直ぐに頭角を現し、十歳の時には既に藩主・毛利敬親の御前で「武教全書/戦法篇」を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。

そんな吉田虎之助(松陰)に転機が訪れる。

折から西欧植民地主義が直ぐ近くまでヒタヒタと迫っていて、松陰は隣国の大国・清がアヘン戦争で大敗した事を伝え知って、己が学んだ山鹿流兵学が世界列強相手に通用しない事を知った。

松陰は西洋兵学を学ぶ志を立て、千八百五十年(嘉永三年)に当時唯一窓口(長崎出島)の在る九州に遊学、その後江戸に出て佐久間象山に師事をして蘭学を学んだ。

この吉田虎之助(松陰)、頭は良かったが「こうする」と決めたら後先を考えないで突き進む頑固な所が在り、身内はその度に振り回されている。

つまり自分が「こうする」と決めたら、後先や親族の迷惑など考えず無鉄砲に突き進む一族の困り者が吉田虎之助(松陰)だった。

吉田松陰の生き方は織田信長と一緒で、その時代の武士としての常識や藩士としての常識を遥かに超えた発想で行動する為、周囲は困惑していた。

もっとも「常識」と言う文言自体が維新後の造語で、言わばパラダイム(当時の支配的な物の考え方)であるから、そこから逸脱した発想や行動は理解され難いのだ。

当時に常識と言う言葉がなければ非常識も無く、松陰の行動を表現するなら「型破り」と言う事になる。

だが、松陰の場合は只の型破りとはスケールが違い、軽輩と言う身分もお構いなしに藩主にまで建白(意見を奏上)するのだから周囲が振り回される。

しかしその松陰だからこそ、欧米による大植民地時代に日本の活路を創造し得た思想の「範たり得た」のである。

その吉田虎之助(松陰)が、江戸遊学中の千八百五十二年(嘉永五年)に最初の事件を仕出かす。

友人・尊皇攘夷派の熊本藩士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)らと藩(長州藩)の許可を得る事無く東北の会津藩などを旅行した為、これを脱藩行為とされ藩(長州藩)から罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

所が、ここからが吉田松蔭の真骨頂で、翌年(嘉永六年)に米国のマシュー・ペリーが艦隊を率いて浦賀に来航すると、師の佐久間象山と浦賀に同行して黒船を視察し、その西洋の先進文明に心を打たれる。

翌千八百五十四年、再来日したペリーの艦隊に対して米国密航を望んで、直接交渉すべく小船で近寄りその密航を拒絶されて送還された。

松蔭は米国蜜航の夢破れると奉行所に自首して伝馬町の牢屋敷に送られ、師匠の佐久間象山もこの密航事件に連座して入牢されている。

この密航事件の仕置き、幕府の一部には死罪の意見もあったが、時の老中首座の阿部正弘が反対して助命され、松蔭は藩(長州藩)に送られ長州の野山獄に繋がれる。

翌千八百五十五年(安政二年)、吉田松蔭は杉家に幽閉の身分に処され蟄居する事で出獄を許された。

その二年後の千八百五十七年(安政四年)叔父・玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾する。

吉田松陰は、松下村塾を叔父である玉木文之進から引継ぎ、僅か三年の間に桂小五郎(木戸孝允)高杉晋作久坂玄瑞伊藤俊輔(博文)井上馨(いのうえかおる/井上聞多)山県有朋吉田稔麿前原一誠など維新の指導者となる人材を教えてる。

なかでも、高杉晋作と並び称された久坂玄瑞には、末の妹・杉文(すぎあや)を娶(めと)らせている。

前述のごとく、吉田松陰 (よしだしょういん)が、叔父・玉木文之進の松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に母屋を増築して松下村塾を開塾したのは千八百五十七年(安政四年)である。

松陰 (しょういん)が「安政の大獄」に連座して斬刑に処されのは、千九百五十九年(安政六年)の十月だから、実は多くの有意の門弟を教えたのは僅か三年の間だけである。

だが、松陰 (しょういん)の講義は一方的に弟子に事を教えるのではなく、師弟の間でも論議を交わす有意義なもので、「門弟同士も互いに議論を交わしながら育った」と言える。


実は、吉田松陰の生家である杉家には代々語り継がれている南朝・後醍醐帝の孫皇子・良光(ながみつ)親王懐良(かねなが)親王の子)の末裔の容易ならぬ言い伝えがあった。

在る日松陰は、周防国佐波郡相畑から学びにやって来た長州藩の下級武士である伊藤直右衛門(伊藤博文)と意見を交わしていて伊藤からその南朝・後醍醐帝の皇子末裔の事を確かめた。

すると伊藤から、「確かにそう言う家が存在する」と回答が得られた。

伊藤直右衛門(伊藤博文)の父・十蔵が水井家に養子に入り、その水井家当主・武兵衛(義理の祖父)が長州藩士・伊藤家に養子に入ると言う三段跳びで士分になる前は周防国熊毛郡束荷村字野尻で農家を営んでいた。

その周防国熊毛郡・田布施町(たぶせちょう)に南朝の親王の血筋を引く者が居て、永い事長州藩の秘せる隠し玉として「当地の士分の者(佐藤家)」が、藩命を得て「代々養育している」と言うのである。

杉家の言い伝えに符合するこの話し、松陰には脳に灯明が灯るほどの案が浮かんだ。

長門国萩から周防国熊毛までは二十里ほどの距離だが、吉田松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤俊輔(博文)、等を引き連れて会いに行く。

松陰一行が誰と会い、どんな話をしたのかは定かでないが、尊王思想家の松陰にはある計画が浮かんでいた。

「これなら、上手く行くだろう。」

そして松陰は、井上馨、伊藤俊輔(博文)の両君にこの良光(ながみつ)親王の末裔の世話を頼むとともに、久坂玄瑞、高杉晋作、等にある構想を伝えている。

千八百五十八年(安政五年)、尊王思想だった吉田松陰は幕府が朝廷の勅許を受けずに日米修好通商条約を締結した事を知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝(まなべあきふさ) の暗殺を計画する。

所が、西洋文明を受け入れたい開国思想を持つ弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかった為に倒幕計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、また野山獄に送られた。

翌千九百五十九年(安政六年)、幕府の体制が変わり大老に井伊直弼(いいなおすけ)が就任して「安政の大獄」を始め、野山獄に在った松陰も江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。

井伊直弼(いいなおすけ)は権威を失いつつある幕府を立て直す為に躍起で、幕閣の大半が妥当と考えていた「遠島」を翻して「死罪」を命じた為、この年(千九百五十九年/安政六年)の十月に斬刑に処されている。

師と言う者は、良くも悪くも教え子に一生に影響を与えるものである。

松下村塾の吉田松陰は教え子から多くの明治維新の英雄を輩出させたが、反体制思想を教えたのであるから事の是非を勘案しなければ体制側の江戸徳川幕府から見れば体制崩壊の危険思想を植え付けた事になる。

当然ながら、危険分子を育成する吉田松陰は粛清しなければ成らない。

吉田松陰自身は、安政の大獄に連座して刑死するが、この松下村塾出身の藩士の多くは、尊皇攘夷を掲げて倒幕運動を主導し、明治維新の原動力となった。

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第五巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 16:04 | Comments(0)