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政治家(為政者)は嘘つきの始まり

歴史を遡(さかのぼ)ると、「民衆を欺(あざむ)き、事実と違う情報操作する事が政治である。」と考え、国民に対して粉飾された情報操作を実行する政治家(為政者)が多過ぎる。

そしてかれらは、「開き直って言い張れば、情報操作は国民を操る事実として通用する。」と考えている。

例えば選挙公約であるが、出来もしない公約を無責任に言い立て、選挙が終われば当選してもコロリと公約を忘れるのが政治家の特技である。


古事記・日本書紀」の歴史捏造(れきしねつぞう)が、「政治家(為政者)は嘘つき」の原点である。

古事記・日本書紀は、皇統の正統性を喧伝する為に第五十代・桓武天皇(かんむてんのう)の頃に編纂された。

桓武大王(かんむおおきみ・第五十代天皇)の御代に、時の大和朝廷(やまとちょうてい)が、統治の為に画策した記紀神話(古事記日本書紀)と言うフエィクニュース(嘘ニュース)を 、日本全国に拡散させた組織がある。

その組織こそが、十代前の天武大王(てんむおおきみ・第四十代天皇)より密命を帯びた役小角(えんのおずぬ)を始祖とする陰陽修験者組織で、いわゆる説法を持って列島の隅々の民にまで皇統の正統性を神話を持って知らしめる目的を持っていた。

明快に言ってしまえば、記紀神話(古事記・日本書紀)の伝説は「渡来氏族に依る日本列島経営の為の陰謀」なのである。

余談だが、この「政治家(為政者)は嘘つき」の原点である「古事記・日本書紀」の捏造(ねつぞう)記事を正しい歴史とし、それを根拠にコメントする不勉強なコメンテーターに解説する資格はない。

参考小論、【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。


戦時中の、「国民の士気を落とさない為の嘘」と正当性を言い張る「大本営発表」なども国民を操る情報操作の代表である。

そしてそれに近い嘘は、近現代の政権にも「政府発表」として日常のごとく存在する。


本来、リーダーならば思いやりを持って他人の為に泣き哀しみ、他人の為に笑い、他人の為に働かねば成らない。

それが無いから、「政治家(為政者)の全てが嘘に見える」のである。

正直言って、善人が権力者にのし上がる事など有り得ない。

つまり、元々そうした真摯な心情を持ち合わせない人間が、策略だけでのし上がって政治や企業を動かして居るからではないのだろうか?

まぁ権力者の虚像など人為的につくられた幻想で、事実は「生々しいもの」と相場は決まっている。

しかし、どうも虚飾で飾られた方が大衆受けするらしく、ウッカリとフアクト(真実)を言おうものなら、「夢を壊す」などと批難される。

それで歴史人物は、後世では功績ばかり取り上げられるが、権力者が多くの人権を無視している事に庶民自身が意識的に「気が付きたくない」のだから仕方が無い。


第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2017-02-15 17:57 | Comments(0)  

大本営発表(だいほんえいはっぴょう)

本来の大本営(だいほんえい)は、軍部の連合大演習及び特別大演習に於いて、天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した。

但しここで言う大本営(だいほんえい)は、日清戦争から太平洋戦争(大東亜戦争)までの戦時中に設置された日本軍(陸海軍)の最高統帥機関を指す名称である。

大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて、大日本帝国の大本営が行った戦況などに関する公式発表を言う。

当初は、おおよそ現実に即していた発表を行っていた。

所が、ミッドウェー海戦の頃から海軍による損害矮小化・戦果過大化の発表が目立ちはじめ、勝敗が正反対の発表すら恒常的に行った。

「民衆を欺(あざむ)き、事実と違う情報操作する事が政治である。」と考え、国民に対して情報操作実行する政治家(為政者)が多過ぎる。

そうした事から、現在では「内容を全く信用できない虚飾的な公式発表」の代名詞になっている。


第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2017-02-15 15:02 | Comments(0)  

今川氏真(いまがわうじざね)

今川氏真(いまがわうじざね)の父は今川氏の最大所領を領する繁栄を築いた今川義元で、母は甲斐国主・武田信虎の娘 定恵院である。

氏真(うじざね)は、桶狭間の戦い織田信長によって討たれた父・義元の駿河・遠江・三河の三ヶ国を受け継いだ戦国大名であり 、第十一代の今川家当主である。

但しこの代数には諸説あり初めて駿河守護となった今川範国から数えた代数では第十代、家祖・今川国氏から数えると氏真(うじざね)は第十二代目になる。

千五百三十八年(天文七年)、父・義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれ、幼名は龍王丸(りゅうおうまる)で ある。

千五百五十四年(天文二十三年)氏真(うじざね)十六歳の時、相模の国主・北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。

千五百五十八年(永禄元年)、氏真(うじざね)は父・義元から家督を譲られ駿河や遠江国に文書を発給し始めている。

但しこの時期、三河国への文書発給は義元の名で行われている。

つまり義元は、安定した駿河国と遠江国を二十歳に成った氏真(うじざね)に任せ、三河国の安定及び尾張国・美濃国の領有に専念を画したと見解されている。

ところが、義元は千五百六十年(永禄三年)五月に尾張に侵攻した義元が、桶狭間の戦いで織田信長に討たれてしまう。

桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信・一宮宗是など)や国人(松井宗信・井伊直盛など)が多く討死した。

三河・遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなった。

西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康(千五百六十三年に家康に改名)の勢力下に入った。

松平元康は今川家と断交し、信長と結ぶ事を選ぶ。

東三河でも、国人領主らは氏真(うじざね)が新たな人質を要求した事により不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間で「三州錯乱」と呼ばれる抗争が広がる。

千五百六十二年(永禄五年)旧領三河・岡崎城に入った松平元康は、尾張国主・織田信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。

氏真(うじざね)は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。

遠江国に於いても家臣団・国人の混乱が広がり、井伊谷城主の井伊直親、曳馬城主・飯尾連竜、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰らによる離反の動きが広がって行く。

謀反が疑われた井伊谷城主・井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。

ついで千五百六十四年(永禄七年)には曳馬城主・飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。

氏真(うじざね)は、重臣・側近・三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させる事ができず、逆に正俊が戦死してしまう。

その後、和議に応じて降った飯尾連竜を氏真(うじざね)は千五百六十五年(永禄八年)十二月に謀殺した。


今川氏と同盟を結ぶ甲斐国の武田信玄は、千五百六十一年(永禄四年)の川中島の戦いを契機に北信地域における越後上杉氏との抗争を収束させると外交方針を転換した。

桶狭間の後に氏真は駿河に隣接する甲斐河内領主の穴山信友を介して甲駿同盟の確認を行なっている。

同千五百六十五年十一月に、嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においての婚姻が解消された。

同時期に武田家では、世子・諏訪勝頼の正室に信長養女・龍勝院を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。

これにより甲駿関係は緊迫し、氏真(うじざね)は越後国の上杉謙信と和睦し、相模国の北条氏康と共に甲斐への塩止めを行った。

武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗した為、これは決定的なものにはならなかった。

千五百六十八年(永禄十一年)末に甲駿同盟は手切に至り、十二月六日に甲斐国国主・武田信玄は甲府を発して駿河国への侵攻を開始する。

十二月十二日、薩埵(さった)峠で武田軍を迎撃するため氏真(うじざね)も、駿河国・興津の清見寺に出陣した。

だが、瀬名信輝や葛山氏元・朝比奈政貞・三浦義鏡など駿河の有力国人二十一人が信玄に通じた為、十二月十三日に今川軍は潰走し、駿府も占領された。

氏真(うじざね)は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。

北条氏康の娘・早川殿(氏真正室)の為の乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失すると言う逃亡で在った。

しかし、遠江にも今川領分割を信玄と約していた三河国主・徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。

十二月二十七日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、朝比奈泰朝を初めとした今川家臣らの抵抗で半年近くの籠城戦となった。

早川殿の父・北条氏康は救援軍を差し向け、薩埵峠に布陣する。

戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。

徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、甲斐国主・武田信玄が約定を破って遠江への圧迫を強めた為、徳川家康は氏真(うじざね)との和睦を模索する。

千五百六十九年(永禄十二年)五月十七日、氏真(うじざね)は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。

この時に今川氏真(うじざね)・徳川家康・北条氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真(うじざね)を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。

しかし、この盟約は結果的に履行される事はなく、氏真(うじざね)及びその子孫が領主の座に戻らなかった。

この朝比奈泰朝の掛川城の開城を以て、後世に戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。

掛川城の開城後、氏真(うじざね)は妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った。

後、氏真(うじざね)は小田原に移り、早川に屋敷を与えられる。

千五百六十九年(永禄十二年)五月二十三日、氏真(うじざね)は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河を譲る事を約した。

また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信に使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ。

駿河では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真(うじざね)を後援する北条氏による出兵も行われた。

抗争中の駿河に対して氏真(うじざね)は、多くの安堵状や感状を発給している。

これには、氏真(うじざね)が駿河に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある。

その後、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、千五百七十一年(元亀二年)頃には大勢が決した。

氏真(うじざね)は駿河の終(つい)に支配を回復する事はできなかった。

同千五百七十一年(元亀二年)十月に北条氏康が没すると、後を継いだ北条氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した。

同年十二月に氏真(うじざね)は相模を離れ、家康の庇護下に入った。

掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。

千五百九十一年(天正十九年)九月、山科言経の日記「言経卿記」に氏真(うじざね)は姿を現す。

この頃までに氏真(うじざね)は、京都に移り住んだと推測される。

仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真(うじざね)は、言経初め冷泉為満・冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来していた。

冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていた事が記されている。

京都在住時代の氏真(うじざね)は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている。

「言経卿記」の氏真(うじざね)記事は、千六百十二年(慶長十七年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。

やがて天下を取った徳川家康に召し出されて、氏真(うじざね)は五百石の旗本に抱えられる。

その後氏真(うじざね)は、五百石を加増されて都合千石の高家旗本(こうけはたもと)に処遇されて家名は残った。

氏真(うじざね)はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、千六百十三年(慶長十八年)に長年連れ添った早川殿と死別した。

千六百十五年(慶長十九年)十二月二八日、今川氏真(いまがわうじざね)は七十七歳の高齢を持って、江戸で死去した。

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by mmcjiyodan | 2017-01-31 00:45 | Comments(0)  

生贄(いけにえ)

贄(にえ)と言う文字は、「神に対する捧げ物」と言う意味が在る。

そして熟語に、生贄(いけにえ)と言う言葉がある。

つまり生贄(いけにえ)とは、「生きたままの、神に対する捧げ物」と言う意味である。

そして一方では、渡来部族が現住民族の蝦夷(えみし)を制圧して、統治の為に壮大な天孫降臨伝説をでっち上げて、支配階級(渡来部族)は「氏神(氏上)」と成った。

今までの日本史は、集団または特定の個人の利益の為に人身を犠牲にする事で、神の支援を願う概念で生きたままの贄(にえ)を捧げ、その命を絶つ事で捧げの完結と解釈されていた。

しかし氏神が地方行政官やその末裔の権力者・氏上であれば、生贄(いけにえ)の意味はセクシャルなものに変わって来る。

これを「人身供犠(じんしんくぎ)」または「人身御供(ひとみごくう)」と称して人間を神(氏上人)への生贄(いけにえ)とする礼式を言う。


古代、大和国の吉野川上流の山地に在ったと言う村落とその住民を、国栖(くず/国巣/国樔/Kunisuの音変化)と呼ぶ。

その人々を国栖人(くずびと)と呼び、宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌(ふぞくうた/地方伝承歌)を奏した。

つまり歌舞音曲と贄(にえ)と礼式(神式)は中央の宮廷や貴族社会に発祥して、地方行政官やその末裔が自らの支配地域の神社に、「神楽舞」や「人身御供(ひとみごくう)様式」として伝播実践された。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2017-01-15 18:05 | Comments(0)  

興福寺(こうふくじ)

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。

六百六十九年(天智天皇八年)、藤原鎌足夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・鎌足の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国(やましろのくに)山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が興福寺(こうふくじ)の起源である。

壬申の乱(じんしんのらん)が在った六百七十二年(天武天皇元年)、山階寺(やましなでら)は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

七百十年(和銅三年)の平城遷都に際し、鎌足の子・藤原不比等は厩坂寺(うまやさかでら)を平城京左京の現在地に移転し「興福寺(こうふくじ)」と名付け実質的な興福寺の創建となった。

つまり興福寺(こうふくじ)は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。

中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られその後も、大王(おおきみ/天皇)や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。

不比等が没した七百二十年(養老四年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。


興福寺(こうふくじ)は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かった為に手厚く保護された。

平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。

その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。

寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも八百七十年(天禄元年)に真言宗の僧・定昭(じょうしょう)の創立した一乗院と千八十七年(寛治元年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。


鎌倉時代室町時代の武士の時代になっても大和武士(大和四家と言う武士集団)と僧兵等を擁し強大な力を持っていた為、幕府は守護を置くことができなかった。

よって大和国は実質的に興福寺(こうふくじ)の支配下にあり続けた。

安土桃山時代に至って織田・豊臣政権に屈し、千五百九十四年(文禄四年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として二万千余石とされた。


興福寺(こうふくじ)は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。

中でも千百八十年(治承四年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平清盛の五男・平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。

この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走、朝廷や藤原氏との交渉をする。

結果、平氏流(へいしりゅう) が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺(こうふくじ)側へ返却される。

消失建物の再建には、朝廷・氏長者(藤原氏)・興福寺の三者で費用を分担して復興事業が実施される事となった。

現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。

なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失した為、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。

興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

千七百十七年(享保二年)江戸時代の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。


千八百六十八年(慶応四年)に明治政府から出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺(こうふくじ)は大きな打撃をこうむった。

江戸時代は二万千石の朱印を与えられ保護された興福寺(こうふくじ)が、この廃仏毀釈で消滅の危機に立たされのだ。

子院はすべて廃止、寺領は千八百七十一年(明治四年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。

興福寺(こうふくじ)境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。

一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。

興福寺(こうふくじ)は、一時廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。

五重塔は値段には諸説あるが、二百五十円で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったと伝えられる。

ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。


興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗って華族に列し「奈良華族」と呼ばれた。

行き過ぎた廃仏政策が反省され出した千八百八十一年(明治十四年)、ようやく興福寺の再興が許可された。

千八百九十七年(明治三十年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。


興福寺(こうふくじ)は、南都七大寺の一つに数えられ、南円堂は西国三十三所第九番札所である。

現在は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。


参考小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2016-12-30 09:23 | Comments(0)  

北条泰時(ほうじょうやすとき)〔一〕

北条泰時(ほうじょうやすとき)は、鎌倉幕府執権得宗家北条氏の二代・北条義時(ほうじょうよしとき)の長男(庶長子)として、千百八十三年(寿永二年)に誕生した。

幼名は金剛と名付けられ、母は義時側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明である。

泰時(やすとき)が誕生した頃、父の義時は二十一歳で、祖父の北条時政ら北条一族と共に源氏の頭領・源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして三年目の頃の事である。

金剛(泰時)が十歳の頃、御家人・多賀重行が金剛(泰時)と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取らなかった事を征夷大将軍・源頼朝(鎌倉殿)に咎められた。

金剛(泰時)は征夷大将軍・源頼朝(鎌倉殿)の外戚であり、幕政中枢で高い地位・執権を持っていた北条氏は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。

頼朝の譴責(けんせき)に対して重行は、「自分は非礼とみなされるような行動はしていない、金剛(泰時)も非礼だとは思っていない」と弁明し、金剛(泰時)に問い質すよう頼朝に促した。

そこで頼朝が金剛(泰時)に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。

しかし頼朝は、重行は言い逃れの為に嘘をつき、金剛(泰時)は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、金剛(泰時)には褒美として剣を与えたと、「吾妻鏡」に収録されている。

この逸話は、泰時(やすとき)の高邁な人柄と、頼朝の泰時(やすとき)に対する寵愛を端的に表した話と評されている。

但し肉親の情に薄い頼朝(鎌倉殿)の真意は、頼朝の泰時(やすとき)に対する寵愛よりも「御家人・多賀重行を排除する意向が先に在った」と観るべきかも知れない。

「吾妻鏡」によれば、泰時(やすとき)は千百九十四年(建久五年)二月二日に十三歳で元服、幕府にて元服の儀が執り行われ、烏帽子親となった初代将軍・源頼朝(鎌倉殿)から「頼」の一字を賜って偏諱(へんき)として頼時(よりとき/泰時)と名乗る。

頼時(よりとき)が後に泰時(やすとき)と改名した時期については不明とされている。

改名時期に関しては、千百九十九年(正治元年)、頼時(よりとき/泰時)の烏帽子親である頼朝が亡くなった直後にあたる時期が推測できる。

「吾妻鏡」を見ると千二百年(正治二年)二月に「江間大郎頼時」、千二百一年(建仁元年)九月には「江馬太郎殿泰時」と表記され、凡その改名時期が推測できる。

また、頼時(よりとき/泰時)元服の際には、頼朝の命によって元服と同時に御家人・三浦義澄の孫娘との婚約が決められていた。

泰時(やすとき)は、改名後の千二百二年(建仁二年)八月には三浦義村(義澄の子)の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。

翌千二百三年(建仁三年)に嫡男・時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。

その年の九月、泰時(やすとき)は比企能員(ひきよしかず)の変で比企討伐軍に加わっている。


千二百十一年(建暦元年)、泰時(やすとき)は令外官・修理亮(しゅりのすけ)に補任される。

翌千二百十二年(建暦二年)五月、泰時(やすとき)異母弟で正室の子であった次郎朝時(じろうともとき)が第三代将軍・源実朝の怒りを買って父・義時に義絶され、失脚している。

千二百十三年(建暦三年)の和田合戦では、泰時(やすとき)は父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。

泰時(やすとき)は、千二百十八年(建保六年)に父・義時から侍所の別当に任じられ、翌、千二百十九年(承久元年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。

千二百二十一年(承久三年)の承久の乱では、三十九歳の泰時(やすとき)は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。

承久の乱後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。

泰時(やすとき)は、以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。


千二百二十四年(貞応三年)六月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。

伯母である尼御台・北条政子は泰時(やすとき)と時房を御所に呼んで執権と連署に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。

泰時(やすとき)は政子の後見の元、家督を相続して四十二歳で第三代執権となる。

伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀光宗も間もなく許されて復帰している。

父・義時の遺領配分に際して泰時(やすとき)は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。

政子はこれに反対して取り分を多くし、弟たちを統制させようとしたが、泰時(やすとき)は「自分は執権の身ですから」として辞退した。

伊賀事件の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時(やすとき)の立場の弱さ、家督相続人ではなかったのに突然家督を相続したことによる自身の政治基盤の脆弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。

泰時(やすとき)は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。

これが後の得宗・内管領の前身となる。


北条泰時(ほうじょうやすとき)〔二〕】に続く。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-12-28 15:11 | Comments(0)  

北条泰時(ほうじょうやすとき)〔二〕

北条泰時(ほうじょうやすとき)〔一〕】に戻る。

千二百二十五年(嘉禄元年)六月に有力幕臣・大江広元が没し、七月には尼将軍・政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。

後ろ盾となり、泰時(やすとき)を補佐してくれた政子の死は痛手であったが、同時に政子の干渉という束縛から解放され、泰時(やすとき)は独自の方針で政治家としての力を発揮できるようになる。

泰時(やすとき)は難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出す。

叔父の六波羅探題・北条時房を京都から呼び戻し、泰時(やすとき)と並ぶ執権の地位に迎える。

「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。

泰時(やすとき)は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計十一人の評定衆を選んで政所に出仕させる。

これに執権二人を加えた十三人の「評定会議」を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。


三代将軍・源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、八歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせる。

実朝暗殺以降六年余、幕府は征夷大将軍不在であったが、千二百二十六年(嘉禄二年)頼経が正式に征夷大将軍となる。

泰時(やすとき)は、初代将軍・頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。

頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時(やすとき)自身で決定する旨を宣言した。

この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事だった。

また、鎌倉の海岸に宋船も入港した和賀江島の港を援助して完成させたのも泰時(やすとき)だった。


千二百二十七年(嘉禄三年)六月十八日、泰時(やすとき)次男・時実(ときざね)が家臣に十六歳で殺害された。

次男・時実(ときざね)殺害の三年後の千二百三十年(寛喜二年)六月十八日には長男の時氏(ときうじ)が病のため二十八歳で死去する。

その一か月後の七月、三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は十日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く八月四日に二十五歳で死去するなど、泰時(やすとき)は立て続けに不幸に見舞われた。


泰時(やすとき)には、歴史的に賞賛すべき功績がある。

御成敗式目」である。

承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となった。

幕府評定衆は、紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していた。

泰時(やすとき)は京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に勉強した。

泰時(やすとき)は「道理(武士社会の健全な常識)」を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、評定衆の意見も同様であった。

泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、千二百三十二年(貞永元年)八月、全五十一ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。

初めはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、後に裁判の基準としての意味で「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれるようになる。

完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に送った二通の手紙の中で、式目の目的について書き送っている。

「御成敗式目」は日本における最初の武家法典である。

数年前から天候不順によって国中が疲弊していたが、千二百三十一年(寛喜三年)には寛喜の飢饉が最悪の猛威となり、それへの対応に追われた。

「御成敗式目」制定の背景にはこの社会不安もある。

それ以前の律令が中国法、明治以降現代までの各種法律法令が欧米法の法学を基礎として制定された継承法である。

対し、式目はもっぱら日本社会の慣習や倫理観に則って独自に創設された法令という点で日本法制史上特殊な地位を占める。


千二百三十五年(嘉禎元年)、石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こると、泰時(やすとき)は強権を発して寺社勢力を押さえつけた。

興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、院政期以来朝廷が対策に苦しんだところであったが、幕府が全面に乗り出して僧兵の不当な要求には断固武力で鎮圧するという方針がとられた。


千二百四十二年(仁治三年)に四条天皇が崩御した為に、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていた。

泰時(やすとき)は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対する。

忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を推戴、新たな天皇として即位させた。

この強引な措置により、九条道家(くじょうみちいえ)や西園寺公経(さいおんじきんつね)ら、京都の公家衆の一部から反感を抱かれ、彼らとの関係が後々悪化した。

新天皇の外戚(叔父)である土御門定通(つちみかどさだみち)は泰時(やすとき)の妹である竹殿を妻としていた為、以後泰時(やすとき)は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させて行く事になる。


「吾妻鏡」に依れば、千二百四十一年(仁治二年)六月二十七日、泰時(やすとき)は体調を崩しており騒ぎになったが、この時は七月二十日に回復している。

「鎌倉年代記・裏書」に依ると、千二百四十二年(仁治三年)五月九日、泰時(やすとき)は出家して上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)と号した。

この時、泰時(やすとき)の異母弟の朝時(ともとき)をはじめ、泰時の家来五十人ほども後を追って出家する。

出家から一ヵ月半後の六月十五日、泰時(やすとき)は六十歳で死去した。

「皇位継承問題が大きな心労になった」ともされて、公家の日記である「経光卿記抄」の六月二十日条よると、日頃の過労に加えて赤痢を併発させ高熱に苦しみ没したとされている。

北条泰時(ほうじょうやすとき)〔一〕】に戻る。

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by mmcjiyodan | 2016-12-28 15:09 | Comments(0)  

気受け(きうけ)

「気受け(きうけ)」とは、その人物に対して持つ世間に於ける好悪の感情評判の事を指し、「この人は世間の気受けが良い」と言うような用法で用いる。

一般的に人間には「良い人と評価されたい」と言う感情が在り、この「気受け(きうけ)」で悪評が広まると恥をかく事に成る。

だからこそ庶民から為政者に至るまで、人々は「気受け(きうけ)」を気にするところである。


余談だが時の為政者は、この「気受け(きうけ)」を大きなスケールで気にする。

為政者は、自らの権力維持の為に世間からの「気受け(きうけ)」に迎合する。

例えば、本来なら隣国同士で永々と憎しみ合う事は不利益も大きいのに、為政者が国民感情の「気受け(きうけ)」に腐心するばかりにいつまでも憎しみの歴史から抜けられない。

逆に、強い為政者を演出する為には、「ナショナリズムを基本とした強硬な発言」を連発し、国民を煽(あお)る手法が幅を利かす。

つまり、この「気受け(きうけ)」を弁舌巧みに利用し、権力を握って国民をミスリードするヒトラー東条英機のごとき人物が現れる危険は、いつの時代でも存在する


江戸時代の歴代の将軍の老中・大老などの幕閣官僚も、この「気受け(きうけ)」は大いに気にしていた。

それは、当代将軍の世間の「気受け(きうけ)」は幕閣官僚の働き次第だからで、将軍に恥じをかかせられないからだ。

そして「気受け(きうけ)」の最大要件は、景気対策・経済政策の成否である。

それで、「田沼意次の政治」、「新井白石と正徳の治」、「享保の改革」、「寛政の改革と天保の改革」等々の経済政策(気受けたいさく)が数えられる。

その経済政策の一つが、貨幣改鋳(かへいかいちゅう)である。

関連記事
新井白石と正徳の治】に戻る。
享保の改革(きょうほうのかいかく)】に戻る。
田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治】に戻る。
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貨幣改鋳(かへいかいちゅう)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2016-12-13 18:17 | Comments(0)  

貨幣改鋳(かへいかいちゅう)

貨幣改鋳(かへいかいちゅう)とは、市場(しじょう)に流通している貨幣を回収してそれらを鋳潰し、金や銀の含有率や形を改訂した新たな貨幣を鋳造し、それらを改めて市場に流通させる事である。

目的の一つは財政政策で、支出の増加により悪化した財政の補填、大火や地震などの災害復興の為の費用、戦費や隊の維持費などを捻出する為に行われた。

改鋳によって貴金属の含有量を減らして以前より貨幣量を増やし、増えた分を益金(シニョリッジ)として得る事を目的として行われるものが多かった。

もう一つの目的は「気受け(きうけ)」に対する施策で、金銀不融通(きんぎんふゆうずう/資金の集中滞留)状況に対する対策である。

つまり大商人の倉に通貨が滞留して市中経済の活発を阻害した場合に、新通貨の貴金属の含有量を減らし価値を落とす事で、商人の手持ち旧通貨が差損を出す方策で強引に商人の消費を促す施策を採用した。


この貨幣改鋳に依る経済政策には、正反対の二つの意見がある。

正徳年間に貨幣改鋳を行なった新井白石は、貨幣数量説に基づいて「貨幣量が増加した事が物価の上昇をもたらした」と主張した。

弘化年間に町奉行に再任した遠山景元は、文政から天保期の物価上昇は「貨幣改鋳が原因の一つ」と主張している。

改鋳によるインフレーションは、貨幣価値の下落=貨幣の購買力の低下=平価切り下げとも言われている。

その一方で、改鋳による貨幣量の増加は貨幣の流通を後押しし、市場経済の活性化や拡大を促すとも言われている。

まぁ、この通貨量を増やす政策、現代の日本銀行がマイナス金利政策まで踏み込んだが、時の総裁がほぼ太平洋戦争と同じ期間の三年八カ月経過して「もう任期中には目標を達成できない」と匙を投げたほど理屈通りには行かないものである。


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by mmcjiyodan | 2016-12-13 18:09 | Comments(0)  

敏達大王(びたつおおきみ/天皇)

敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の第二皇子として生まれた。

父・欽明大王(きんめいおおきみ)は、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の息子であり第十五代・応神大王(おおきみ/天皇)から分かれた傍系の出自であった。

このため、先々代の仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香(たしらか)を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった。

皇統のこの複雑な系流が、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)が「即位の為に任那(みまな)からやって来た任那の王族説」を否定できない理由に成っている。

この疑惑の詳しくは、小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。

つまり敏達大王(びたつおおきみ)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)と仁賢大王(にんけんおおきみ)の間に為された皇子だった。

欽明大王(きんめいおおきみ)は継体大王(けいたいおおきみ)と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)の皇女の間の息子である。

そして、母・石姫皇女(いしひめ)は宣化大王(せんかおおきみ/天皇・継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、敏達大王(びたつおおきみ)は父方・母方の双方からそれぞれ継体大王・仁賢大王・雄略大王(ゆうらくおおきみ/第二十一代天皇)の血を引いている。


五百七十一年五月二十四日(欽明三十二年四月三十日に、父・欽明大王(きんめいおおきみ)が崩御したことを受け、敏達大王(びたつおおきみ)は五百七十二年四月三十日に即位する。

敏達大王(びたつおおきみ)は、五百七十五年二月四日(敏達四年一月九日)に息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の女、広姫(ひろひめ)を皇后としたが、同年十一月に妃・広姫(ひろひめ)は崩御する。

翌五百七十六年四月二十三日(敏達五年三月十日)、十六歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后に立てた。

ここに一つ謎が在るのだが、実は敏達大王(びたつおおきみ)即位前の五百七十一年に額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を既に妃としていた。

額田部皇女(ぬかたべのひめみこ/後の推古大王)が皇女にもかかわらずそうでない広姫(ひろひめ)が何故当初皇后となったのかは不明である。


この敏達大王(びたつおおきみ)が、蘇我馬子(そがのうまこ)物部守屋(もののべのもりや)が争った宗教戦争の内乱、一方で、信仰に名を借りた権力闘争ともされる丁未の乱(ていびのらん)に巻き込まれる。

敏達大王(びたつおおきみ)は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が対立するという構図になっていた。

崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、五百八十五年(敏達十四年)に物部守屋(もののべのもりや)が敏達大王(びたつおおきみ)に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。

尼僧・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、晒し者にして連行し、群衆の目前で鞭打っ暴挙に出る。


五百八十五年九月十四日(敏達十四年八月十五日)敏達大王(びたつおおきみ)の病が重くなり崩御に到る。

敏達大王(びたつおおきみ)に皇太子はおらず、崩御の翌月の五百八十五年十月三日(敏達十四年九月五日)、日本書紀に依ると異母兄弟の大兄皇子が用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)として即位した。

この代替わりの結果、仏教を巡る争いは次世代に持ち越された。


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by mmcjiyodan | 2016-12-05 17:07 | Comments(0)