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真珠湾攻撃(日米開戦)の(三)

真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)に戻る。

鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、十一月十八日に択捉島の単冠湾へと向かった。

真珠湾攻撃は、周到精密な計画と多大な成果を得るべく攻撃訓練を繰り返した航空隊と水雷隊の精鋭兵をもって敢行された作戦である。

なお、ワイキキやダウンタウンなどの市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が厳重に言い渡されていた。


十二月七日、伊号潜水艦隊から甲標的(特殊潜航艇)が発進した。

十二月八日午前一時三十分(日本時間)ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦四十三機、艦爆五十一機、艦攻八十九機、計百八十三機が発進。

第一航空艦隊参謀長・草鹿大佐は百八十三機が発進したとしているが、爆装の艦攻五十機が戦艦を、雷装の四十機が戦艦および空母を目標とした。

艦爆五十四機は航空基地を、艦戦四十五機は空中および地上の敵機を目標と定めていたという。


午前二時四十五分、第二波空中攻撃隊として艦戦三十六機、艦爆八十一機、艦攻五十四機、計百七十一機が発進した。

草鹿大佐によれば、五十四機の艦攻は航空基地を、八十一機の艦爆は空母および巡洋艦を、三十六機の艦戦はやはり敵機を目標と定めていた。

なお敵空母の動勢は不明であったが、付近を索敵するなどの案は排され、真珠湾攻撃に全力が向けられた。

また、攻撃隊を二派に分けているのは航空母艦の飛行甲板の広さや滑走距離による制限だった。

当時の日本の航空母艦は、搭載する全航空機を全て甲板に並べ、一斉に発進させる事はできなかった。

なお、この攻撃に先立ち陸軍は、イギリスの植民地のマレー半島コタバルで奇襲上陸作戦を行っていた。

真珠湾とマレーで一方が先行すれば、その情報が直ちにイギリスからアメリカに伝えられる事となり、他方の奇襲が成り立たなくなる。

しかし源田中佐の案により、暗闇での発艦を回避する為、攻撃隊の発進は当初の予定より二時間遅れとなった。

この決定を軍令部が把握した時には命令変更の時間がなかった為、三代辰吉中佐がコタバル攻撃部隊へ伝達しない事にした。

これにより真珠湾攻撃は、コタバル奇襲上陸作戦の二時間遅れとなった。

しかし、結果的にマレー上陸の報がアメリカ軍の迎撃体制のゆるみに影響する事はなかった。


ハワイは、現地時間十二月七日日曜日の朝だった。

七時十分(日本時間八日午前二時四十分)に、アメリカ海軍の駆逐艦DD-139「ワード(ウォード)」がアメリカ領海内において国籍不明の小型潜水艦を発見する。

駆逐艦「ワード(ウォード)」の砲撃により、国籍不明の小型潜水艦は撃沈された。

この小型潜水艦が、日本軍の甲標的(特殊潜航艇)で在った。

ワード号は直後に「未識別の小型潜水艦」を撃沈した旨を太平洋艦隊司令部へ打電した。

しかし、ハワイ周辺海域では漁船などに対する誤射がしばしば在り、その重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸した。


七時三十五分(日本時間三時五分)に、海軍航空隊はオアフ島北端カフク岬を雲の切れ目に発見する。

そして七時四十分(同三時十分)に「突撃準備隊形作れ」を意味する「トツレ」が発信され、信号弾が発射された。

この際、奇襲の場合には合図が信号弾1発で火災による煙に妨げられる事ない状況で対艦攻撃を実施させるべく艦攻による攻撃を先行させる。

強襲の場合には、合図が信号弾二発で艦爆による対空防御制圧が先行させる作戦計画になっていた。

だが、信号弾一発で雷撃専門家・村田重治少佐率いる雷撃隊が展開行動を起こさないのを見て空中指揮官・淵田美津雄中佐は、村田少佐が「合図を見逃した」と誤解する。

それでもう一発信号弾を発射、艦爆隊指揮官である翔鶴飛行隊長・高橋赫一海軍少佐はこれを合わせて信号弾二発と誤解し先行した。

間もなく「重巡筑摩」の偵察機から「在泊艦は戦艦一〇、甲巡一、乙巡一〇」との報告がある。

それと前後してラハイナ泊地に向かった重巡利根の偵察機からは「敵艦隊はラハイナ泊地にはあらず」との報告が入った。

草鹿大佐によれば、「重巡筑摩」より、三時十分に入った報告とされている。

七時四十分(同三時十九分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命した。

七時五十二分(同三時二十二分)、淵田中佐は旗艦赤城に対してトラ連送「トラ・トラ・トラ」を打電した。

これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号である。

この電波は赤城で中継したが、中継を待つまでもなく広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営でも指揮官機の電波を直接受信した。

七時五十三分(同三時二十三分)に旗艦・空母赤城から「隊長、先の発信、赤城了解」と返信があった。

奇襲に成功した事を知った草鹿大佐は、南雲機動部隊司令・南雲忠一中将の手を固く握り落涙したと伝えられる。


航空機による攻撃は、八時零分(同三時三十分)に雷撃により開始される予定だった。

だが、これより五分早い七時五十五分(同三時二十五分)に急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ二百五十kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となった。

続いてヒッカム飛行場からも爆煙が上がった。

雷撃隊を率いていた村田重治少佐は正しく奇襲と理解し予定通りヒッカム飛行場上空を通る雷撃コースに入ろうとしていた。

だが村田少佐は、ヒッカム飛行場からの爆煙に驚き、目標が見えなくなっては一大事と近道を取り、七時五十七分(同三時二十七分)に雷撃を開始した。

つまり淵田中佐は、飛行場攻撃の爆煙があまり激しくならないうちに水平爆撃を開始する旨を決意し、水平爆撃隊に「突撃」(ツ・ツ・ツ・・・のツ連送)を下命した。

七時五十五分頃に戦艦「アリゾナ」で空襲警報が発令される。

七時五十八分(同三時二十八分)、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。

八時零分(同三時三十分)、戦闘機隊による地上銃撃が開始され、八時五分(同三時三十五分)、水平爆撃隊による戦艦爆撃が開始された。

八時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した八百kg爆弾が戦艦「アリゾナ」の四番砲塔側面に命中。

次いで八時六分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。

八時十分、戦艦「アリゾナ」の前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は千百七十七名の将兵とともに大破沈没した。

戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。

オクラホマは転覆沈没し将兵四百十五名が死亡または行方不明となった。

なお第一波の攻撃の最中に、アメリカ本土から回航されて来たボーイングB-17が五機ヒッカム基地に着陸しようとした。

だが、地上からの連絡を受けて一機は日本軍機の攻撃をよける為にベローズ基地に向かい、残りの四機は無事着陸したものの、瞬く間に攻撃を受けて一機が大破炎上した。


アメリカ東部時間午後二時二十分(ハワイ時間午前八時五十分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」を手渡す。

日本は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を発して、先に戦線が開かれていたイギリスと並びアメリカに宣戦を布告した。

この文書は、本来なら攻撃開始の三十分前であるアメリカ東部時間の午後一時に面会し、その際にハル国務長官へ手渡す予定であった。

この「宣戦ノ詔書」を手渡す面会、一旦は「昼食の予定がある」としてハル国務長官に断られていた。

だが、駐ワシントンD.C.日本大使館員の不手際によって結果的には攻撃開始の約一時間後となってしまった。

その為「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」と、アメリカから批判を受ける事となった。

この原因について、駐アメリカ日本大使館の井口貞夫事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取った事が要因と言う説明が極東軍事裁判でなされた。

この戦後の極東国際軍事裁判における弁護側のこの弁明以降、日本側の「駐アメリカ大使館の不手際」と言う説明が通説とされて来た。

重要な内容で在った事は、翻訳時に解っていた事である。

ならば、面会に遅延する事を避けるべく、タイピングが終わった部分だけでも予定通りの面会時間に届けると言う判断をしなかった野村や来栖の責任を問う意見も在った。

ハル国務長官も、「そのようにすべきであった」と指摘している。

これに対して、井口貞夫事官の子息で元外交官の井口武夫は、日本側「駐アメリカ大使館の不手際説」に反論している。

まず、「対米覚書」全十四部の中で第十三部ならびに最後の十四部までの訂正電がそれ以前の部よりも十五時間も遅く発信された

また、規定の「至急」と言う指定を公電の冒頭に入れていなかった事を指摘し、軍(陸軍参謀本部)による工作(意図的な遅延)の可能性を示唆している。


真珠湾攻撃(日米開戦)の(四)に続く。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


第六巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:09 | Comments(0)  

真珠湾攻撃(日米開戦)の(四)

真珠湾攻撃(日米開戦)の(三)に戻る。

ハワイ時間午前八時五十四分(日本時間四時二十四分)、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。

第二波攻撃隊は、アメリカ軍の防御砲火を突破する強襲を行い、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行いこれを成功させた。

また、戦艦「ペンシルバニア」が収容されていた乾ドッグへの攻撃を行った。

これに対して、一息ついて反撃の余裕ができたアメリカ軍は各陣地から対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとした。

しかしこの時点でフォード島のアメリカ海軍機は全滅し、飛行可能な飛行機は1機もなくなっているなど甚大な被害を受けていた。

そのため、百七十機の急降下爆撃機や戦闘機を抱える圧倒的な数量の日本軍に効果的な損害を与えることは不可能であった。

この頃、ようやくワイキキのラジオ局のKGMBが真珠湾への日本軍の攻撃を伝え始めた。

しかし、オアフ島内は情報が混乱し、真珠湾上空を飛び回る飛行機による爆音や、爆弾の爆発音を、日本軍による攻撃ではなく演習によるものと誤認するものも多かった。

なお、ハワイ庁のジョゼフ・ポインデクスター庁長ですらこの時点で真珠湾への日本軍の攻撃を知らないままで居た。

上記のラジオ局からの電話による問い合わせで「初めて攻撃を知る」と言う有様であった。


第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きかったが、「加賀」攻撃隊(零戦九機、艦爆二十六機)において零戦二機、艦爆六機を失い、十九機が被弾したのみであった。

また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳 一飛曹)はニイハウ島に不時着、十二月十三日のニイハウ島事件で死亡した。

なお第二波の攻撃の最中に、アメリカ本土から回航されてきたボーイングB-17の第二陣六機がヒッカム基地に着陸しようとした。

しかし、日本軍機による強行着陸と誤認した地上兵に対空砲火を受けた為、三機は無事着陸したものの、二機はハレイワ基地に向かい、残りの一機はカフクにあるゴルフコースに不時着した。

なお、これらの攻撃隊に対して、市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が事前に厳重に言い渡されていた。

実際に日本軍機とオアフ島上空で遭遇した小型機は、日本軍機に視認されていたにも拘らず攻撃を受けないでいた。

しかし基地が攻撃を受けた結果、基地内に勤務する軍属や基地内に居住する軍人の家族、基地周辺の在住する民間人など合計五十七人が死亡している。


機動部隊とは別に甲標的(特殊潜航艇)を搭載した伊号潜水艦五隻は下記の編成で十一月十八~十九日にかけて呉沖倉橋島の亀ヶ首を出撃する。

十二月七日オアフ島沖五・三~十二・六海里まで接近した。

甲標的(特殊潜航艇)はハワイ時間午前零時四十二分(日本時間二十時十二分)から約三十分間隔で順次真珠湾に向かって出撃した。

湾入り口の対潜水艦防御門が空いていた事もあり、攻撃は五隻全艇が湾内に潜入する事に成功し、三隻が魚雷攻撃を行った。

しかし四隻が撃沈、出航時からジャイロコンパスが不具合を起こしていたものの、艦長の判断で出港した1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わった。

その後、行方不明であった甲標的(特殊潜航艇)が発見され、魚雷は未発射であった事から魚雷攻撃を行ったのは二隻とされている。


近年までは、軍事史家・中村秀樹(元海上自衛官二等海佐)氏のように「成果なし」と評価する者が在った。

甲標的(特殊潜航艇)によって戦艦・ウェストバージニアと戦艦・オクラホマへの雷撃が行われている。

このうち戦艦・オクラホマは甲標的(特殊潜航艇)による雷撃が転覆をもたらしたとするアメリカ側からの評価がなされている。

日本では、撃沈された四隻(雷撃に成功した一隻は自沈)の乗組員八名と、座礁した艇から脱出して水死した一名を加えた九名が二階級特進し、「九軍神」として顕彰された。

座礁した艇から、艇長の酒巻和男海軍少尉が脱出して漂流中に捕虜となったが公表されなかった。

また、九軍神とされた将兵を顕彰する配慮から、撃沈ではなく自沈であり、空中攻撃隊の八百kg爆弾で撃沈された戦艦・アリゾナは甲標的(特殊潜航艇)による撃沈と言う発表が大本営から行われた。


南雲中将の空母機動部隊は、出動した攻撃隊の収容に備え真珠湾北方百九十裡にまで南下していた。

攻撃後は次席指揮官の第三戦隊司令官・三川軍一少将から再攻撃の意見具申があったが、一航艦長官・南雲忠一は参謀長・草鹿龍之介の進言もあり、予定通り離脱した。

山口多聞少将は「第二撃準備完了」とそれとなく催促はしたが、搭乗員や参謀からの再攻撃を意見具申する要望に「南雲さんはやらないよ」と意見具申まではしなかった。

連合艦隊司令部では連合艦隊長官・山本五十六に参謀の数名が「再度の攻撃を第一航空艦隊司令部に催促するべし」と進言した。

だが、山本長官は「南雲はやらんだろう」「機動部隊指揮官(南雲)に任せよう」と答え、再度の攻撃命令は発しなかった。


日本時間午前八時三十分頃、空中攻撃隊は順次母艦へ帰投した。

午前九時頃、南雲中将率いる日本海軍空母機動部隊は北北西に変針し日本への帰路についた。


軍令部は、南方資源要域攻略作戦を終えて迎撃作戦の準備が整うまで米艦隊主力を抑え、かつ敵減殺を本作戦の主目的として居た。

その為、一撃のみで損害を避けた見事な作戦指導と評価した。

一方、連合艦隊長官・山本五十六は空母の喪失を引き換えにしても戦争を終わらせるダメージを与えたいと言う考えだった。

だが、草鹿大佐によれば南雲中将には「その真意が知らされていなかった」と言う。

また、アメリカ側ではヘンリー・スティムソン陸軍長官が真珠湾攻撃について次のように評している。

当初、スティムソンはハワイの部隊が反撃して、日本の攻撃部隊に大損害を与え得るだろうと考えていた。

それが間違いで、「日本が戦略的には馬鹿気た行為で在ったが戦術的には大成功をおさめた事を私が知った」のは、その日の夕方になってからであった。

つまり、「日本軍部は唯一の終局の結果しかない馬鹿気た戦争を始めたのであるが、日本のすべり出しは明らかに素晴らしい立派なものであった。」と評された。


十二月八日、山本五十六連合艦隊司令長官は第一艦隊の戦艦長門、陸奥、伊勢、日向、扶桑、山城及び第三航空戦隊空母瑞鳳、空母鳳翔、駆逐艦三日月、駆逐艦夕風と護衛駆逐艦若葉、子日、初春、初霜、有明、夕暮、白露、時雨等を率いて瀬戸内海を出撃した。

その際、司令部付・長官専属従兵だった近江兵次郎は藤井茂参謀に「野村大使の書類は間に合ったか?」と尋ねる山本連合艦隊司令長官を目撃している。

なお同日、瀬戸内海では大和型戦艦・大和が試験航海を終えて呉へ帰港中であり、第三航空戦隊主力は豊後水道で戦艦長門らとすれ違っている。

南雲機動部隊収容の為と言う名目だったが、特に何もせず、対潜哨戒を実施しつつ小笠原諸島附近で反転した。

十二月十日、空母鳳翔は哨戒機収容の為戦艦部隊から分離して風上へ向かい、駆逐艦三隻と共にそのまま行方不明となった。

翌日になっても空母鳳翔との連絡はつかず、長門乗艦の宇垣纏連合艦隊参謀長は「そんな馬鹿げた事があるものか」と呆れている。

この時の空母鳳翔は小笠原諸島東(戦艦部隊から五百浬)の地点まで離れており、鳳翔舷側の起倒式アンテナは波浪でもぎとられていた。

十二月十三日、空母鳳翔は豊後水道を通過。

ところが、空母鳳翔入泊を護衛していた駆逐艦早苗が米潜水艦(実際には存在せず)を発見して爆雷攻撃を開始する。

呉では鳳翔沈没の噂が流れており、鳳翔艦長・梅谷薫大佐は山本五十六連合艦隊司令長官から「水戦司令官となった気分だどうだった」と笑顔で迎えられたと言う。


十二月十六日、第二航空戦隊司令・山口多聞少将の指揮下、「飛龍」「蒼龍」と護衛の「利根」「筑摩」及び駆逐艦「谷風」「浦風」がウェーク島攻略支援に転戦する。

十二月二十三日、南雲機動部隊本隊は瀬戸内海に位置する柱島泊地に帰還し、作戦は終了した。

十二月二十六日、異例ながら佐官級による昭和天皇への真珠湾攻撃の軍状奏上が行われる。

第一波空中攻撃隊隊長の淵田美津雄中佐は艦船攻撃について、第二波空中攻撃隊隊長の嶋崎重和少佐は航空基地攻撃について奏上した。

続く海軍大臣官邸での祝賀会では、海軍軍事参議官が参集したり、翌二十七日に霞ヶ関離宮で成人皇族達と面会するなど真珠湾攻撃の影響の大きさがうかがえる。


日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦八隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげた。

アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより南方作戦を成功裏に終えた。

真珠湾攻撃の直前にイギリスの植民地であるマレー半島での上陸作戦が開始されていることで、日本とイギリスおよびイギリス連邦諸国との戦争が開始された事に続いて、真珠湾攻撃でアメリカとの間にも戦争が開始された。

真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会はアメリカと日本は開戦したと宣言した。

当時モンロー主義を色濃く残していたアメリカは、ヨーロッパでの戦争にも日中戦争(支那事変)にも介入には消極的であった。

連合国に対する支援はレンドリース法による武器援助に止まっていたが、真珠湾攻撃を受けてアメリカの世論は一気に参戦へと傾いた。

さらに、駐アメリカ日本大使館員の不手際により、日本政府の意思に反して日米交渉打ち切りの文書を渡す前に攻撃が始まる不手際がアメリカ世論に影響した。

真珠湾攻撃が真実とは反して「日本人による卑劣な騙し討ち」として、主としてアメリカ政府により宣伝される事となり、アメリカおよび連合国の世論に影響した。

イギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「真珠湾攻撃のニュースを聞いて戦争の勝利を確信した」と回想している。


真珠湾攻撃おけるアメリカ側の死者は約二千四百名で、その内「四十八名~五十七名は民間人だ」とされている。

この死者の約半数は、撃沈された「戦艦アリゾナの乗組員だ」とされている。

また、日本側の戦死者は、飛行機搭乗員の五十五名、 特殊潜航艇搭乗員九名、合計六十四名、捕虜が一名だった。

アメリカ側を死者、日本側を戦死者としたのは、この攻撃で死んだアメリカ側の兵士が「戦闘行為の末になくなった」とは言い切れないからである。


この真珠湾攻撃(日米開戦)の異説として、アメリカ政府は日本軍の真珠湾攻撃察知していたが、他民族集合国家の人心を開戦に傾倒させる為に「わざと攻撃を許した」と言う説もあるが闇の中である。

この異説の根拠だが、当時アメリカが全ての空母を真珠湾から移動させていた事がその憶測を呼んでいる。

そして偶然か計画かは不明ながら、アメリカ海軍の空母が温存された事で、後のミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)における日本海軍機動部隊の大敗に結びつき、この戦争における主導権を失った。


いずれにしても、この真珠湾攻撃(日米開戦)が、戦場に赴いた兵士の九割が戦闘によらない餓死と病死と言う無残な戦いを強いられる端緒だった。

そして、日本中の都市部が空襲爆撃で死者多数の焼け野原にされると言う無謀な戦争の端緒だったのである。


真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)に戻る。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:06 | Comments(0)  

ミッドウェー海戦

ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の千九百四十二年(昭和十七年)六月五日(アメリカ標準時では六月四日)から七日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた海戦である。

ミッドウェイ島は、北太平洋のハワイ諸島北西にある火山島に珊瑚礁が発達した数個の環礁からなり、ミッドウェー諸島とも言う。


日本海軍は当初から、ミッドウェー島を「占領してからの維持は、極めて困難である」と考えていた。

あくまでこの作戦は、米空母群を誘い出して撃滅する事を作戦目的としていた。

さらに占領後には他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ十月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていた。

ミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略する事により、アメリカ艦隊、特にエンタープライズとホーネットを主力とする空母機動部隊を誘い出して捕捉撃滅する事に主眼が置かれた。

日本軍がアメリカ軍の要点であるミッドウェー島を占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍はこれを全力で奪回しようとする事は明白だった。

現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と日本海軍は計算していた。


千九百四十二年(昭和十七年)五月二十七日(海軍記念日)、南雲忠一海軍中将率いる第一航空戦隊(赤城、加賀)、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)を中心とする第一航空艦隊(通称、南雲機動艦隊)が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した。


この海戦、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍の侵攻を、アメリカ海軍が迎え撃つ形で発生した。

フランク・J・フレッチャー少将の第十七任務部隊と、レイモンド・スプルーアンス少将の第十六任務部隊がミッドウェー島の北東で合流してフレッチャー機動部隊が編制される。

南雲中将率いる機動艦隊は、ミッドウェー島の航空機部隊の集中雷撃とアメリカ軍艦載機の集中雷撃を浴びる。

アメリカ軍は救助したゲイ少尉の証言から日本軍空母二隻の沈没を確認し、漂流していた飛龍機関科兵の聴取から飛龍の沈没を知り、計三隻の撃沈を確信していた。

赤城については暗号解読から沈没推定としていたが、確信するのは日本軍捕虜の情報を分析した後の事である。

六月十三日、第十六任務部隊のエンタープライズ、ホーネットは艦載機に損失を出しながらも無事に真珠湾に帰港した。


日本海軍の南雲機動部隊とアメリカのフレッチャー機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果は決定的だった。

日本海軍は、機動部隊の空母加賀 空母蒼龍、空母赤城、空母飛龍と言う航空母艦四隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。

日本軍は、ミッドウェー島基地部隊を「飛行艇二十四機、戦闘機十一、爆撃機十二、海兵隊七百五十名、砲台二十前後」または「哨戒飛行艇二個中隊、陸軍爆撃機一乃至二中隊、戦闘機二個中隊」と過小評価評価していた。

海兵隊三千名、航空機百五十機と言うミッドウェー島の本当の戦力を日本軍が知るのは、空母部隊が全滅した後の捕虜の尋問結果からだった。

この時すでに、日本の軍令部も山本五十六連合艦隊司令長官も、アメリカの強大な軍備生産力が軌道に乗りつつある事を想像して居なかった。

日本とアメリカの軍備の差は現実の国力の差で、幼児が大人と戦うほど開いていたのだ。


軍令部はミッドウェー作戦と並行して同時にアリューシャン攻略作戦(AL作戦)を行う案を加えた。

AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害しシベリアにアメリカの航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。

ミッドウェー海戦はミッドウェー作戦(MI作戦)の前哨戦であり、この敗北で同作戦は中止された。

しかもこの海戦の敗北を「大本営発表(だいほんえいはっぴょう)」で勝利と情報操作し、以後負け戦を国民に隠し続けた。


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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:06 | Comments(0)  

正々堂々尋常(じんじょう)勝負は戦国時代の利権で生まれた

本来、決闘や戦と言う殺し合いに卑怯(ひきょう)もくそも無い、殺すか殺されるかだからである。

それを、正々堂々勝負や尋常勝負(じんじょうしょうぶ)と言う綺麗事の建前をかざすように成った裏には戦国時代の利権習慣が原因として在る。

本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせる為に始めた「名乗ってから切り合う」は当時の武士の暗黙の了解で、相手の首が「恩賞の決め手」と言う常識なのだ。

正々堂々や尋常勝負(じんじょうしょうぶ)の裏に在ったのは、主に乱戦である戦で誰が誰の首を取ったと言う「手柄利権の確定」だった。

けして「武士道の精神」で尋常勝負(じんじょうしょうぶ)をした訳ではない。

それを、織田信長流に団体戦にされると手柄を雑兵に持って行かれる。

つまり合理性を主にした織田信長が歴史の表舞台に登場するまでは、戦が「名乗ってから切り合う」と言う個人戦の集積型だった。

織田信長の提案した団体戦は上級武士の手柄利権がらみなのであるから、それで事の是非ではなく旧勢力は頭から抵抗する。

それで守旧派の武士達は、織田信長を「虚(うつ)け者」呼ばわりしたのだ。


詳しくは小論・【織田信長の「大虚(おおうつ)け」を解説する】を参照下さい。

詳しくは小論・【宮本武蔵(みやもとむさし)伝説の真実】を参照下さい。

関連記事
創られた歴史のミステリー】に飛ぶ。

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-06-10 17:14 | Comments(0)  

巌流・佐々木小次郎(ささきこじろう)

佐々木小次郎(ささきこじろう)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての著名な剣術家である。

越前・朝倉領内の道場主・富田勢源 (とだせいげん) 門下として剣術を学び、十六歳頃に一流を立て巌流 (岸流) と称した。

諸国を巡歴し「燕返し (つばめがえし) 」の剣法を創案し後、当時小倉藩主だった細川忠興(ほそかわただおき)に仕えたとされている。


佐々木小次郎(ささきこじろう)は、宮本武蔵の自慢気(じまんげ)な自己紹介自伝で始まる「兵法書・五輪書(ごりんのしょ)」には、何故かライバルとして登場しない剣豪である。

しかし佐々木小次郎(ささきこじろう)は、世に「巌流島の決闘」とされる「船島=巌流島」で武蔵に敗れた剣豪として伝えられている。

しかしながら、「巌流島の決闘」には多くの疑問が呈されている。

その一つとして、小倉藩門司城代だった沼田延元の子孫が先代の書いたものを編集した書に、「武蔵は、隠して弟子たちを島へ連れて来ていた」と言う記述が在る。

武蔵の速い一撃で倒れた小次郎は、気絶から回復し起き上がろうとするも、隠して連れて来ていた武蔵の弟子たちに「袋叩きにされ撃ち殺された」とある。

勿論のこの弟子の助っ人は、「一対一の勝負」の約を武蔵が破った事が明白だった。

同じく細川氏家臣の沼田氏が千六百七十二年(寛文十二年)に編集した文書・「沼田家記」には、巌流島決闘で武蔵側が一対一の約定を違え、武蔵の弟子達が巌流島で小次郎を撲殺とある。

このアンフェアな決闘に怒った小次郎の弟子達の追撃から武蔵が遁走する。

当時門司城代を勤めた沼田延元に保護を願い、延元は武蔵を城内に保護した後、鉄砲隊で警護し、「豊後国に居住する養父・無二のところまで送った」との記述である。

つまりこの二家の古文書では、宮本武蔵とその弟子たちに「卑怯な振る舞いが在った」とする記述が残っている。


そしてもう一つ、巌流島決闘で佐々木小次郎(ささきこじろう)は、「武蔵の一撃で気絶した」とする記述の裏側には大きな年齢差が在る。

記録によると、佐々木小次郎が最初に学んだとされる朝倉領内の道場入門は千五百六十年代前半とされ、千五百八十四年生まれの武蔵とは四十歳前後の年齢差である。

つまり巌流島決闘時、名声を博しつつある武蔵が対峙した相手・佐々木小次郎は盛りを過ぎた初老の剣豪だった相手を多人数で仕留めた事になる。

ただし、宮本武蔵を剣豪とみるからその所業がアンフェアなので在って、本人自称のごとく「兵法書・五輪書(ごりんのしょ)」に在る通り武蔵は兵法者である。

「兵法者」であれば勝つ為に伏兵を用意しようが、上から石を投げ落とそうが煮えたぎった油を撒き落そうが立派な兵法である。


武蔵は、兵法書・「五輪書」に佐々木小次郎を書き記せない程、「巌流島決闘」は後ろ暗い記憶だった。

為に、「巌流島の戦いは、後の創作であり、そもそも佐々木小次郎という人物は存在しない」とする説まである。

しかし大藩の重役級の家二家に伝承される古文書が在る為、佐々木小次郎は存在した」と観るのが必然的である。

詳しくは小論・【宮本武蔵(みやもとむさし)伝説の真実】を参照下さい。


第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-06-07 21:27 | Comments(0)  

歴史の闇に埋もれた「戦中戦後の四大地震」

「戦中戦後の四大地震」と言われている千九百四十三年の鳥取地震、千九百四十四年の昭和東南海地震、千九百四十五年の三河地震、千九百四十六年の南海地震は、四年連続で千名を超える死者を出した昭和の四大地震と称せられている。

これらの地震は戦火と戦後の混乱に埋もれ、震災そのものが十分に伝えられているとは言いがたい。

特に千九百四十四年十二月七日の太平洋戦争末期に起こった「昭和東南海地震」は、海洋プレートの沈み込みに伴い発生した広域巨大地震だった。

その被災記録は戦時中の報道管制でほとんど残っておらず、被害詳細ははっきりしていない。

その「昭和東南海地震」からわずか三十七日後の千九百四十五年一月十三日の内陸直下型最大震度七の局地的な大被害をもたらした大規模な深溝断層型の「三河地震」が発生する。

その「三河地震」も、戦時中の報道管制で被災記録が残らず歴史の闇に埋もれた地震だった。

この内陸直下・深溝断層型「三河地震」は隣接する静岡県の西部(遠江/とおとうみ)の内陸部にも甚大な被害をもたらせている。

特筆すべきは、その被災範囲に現在では浜岡原子炉が立地している事である。

記載リスト【巨大地震記録・年表】を紹介します。

第六巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-05-12 17:28 | Comments(0)  

南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)

江戸時代後期の読本作者・曲亭(滝沢)馬琴(きょくていばきん)の代表作は、「南総里見八犬伝」と「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」である。

読み本作者・滝沢(曲亭)馬琴の南総里見八犬伝は、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏と妙見北辰信仰真言密教を題材に、弁天様(伏姫)と犬(八房)の畜生道(獣姦)が発端の物語である。

古代インダス文明は、東方の国々に多くの影響を与えた。

インド・ヒンドゥー教の神や祭祀は、一部形を変えながらも日本の仏教や神仏習合修験信仰に影響を与えている。

弘法大師・空海伝教大師・最澄が日本に持ち帰った経典の中にも、ヒンドゥー教の教義や祭祀の信仰は含まれていた。

従って桓武天皇が設けた中務省・陰陽寮に於いても、ヒンドゥー教の統治に都合の良い部分は組み入れられていても不思議ではない。

実は北辰妙見信仰に於ける天地開開(てんちかいびゃく)神話に於ける世の最高神・天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)=陀羅尼神(だらにしん/全ての祈り神)もヒンドゥー教の三最高神の一柱・ヴィシュヌ神(天地創造神/見渡せる神)が妙見(見通す)に通じる所から、「同一の神である」と考えられるのだ。

神は恋人、神に捧げる踊りの原点は、インド・ヒンドゥー教のシヴァ神(破壊神)に在り、ヒンドゥー教は正直な神で、ヒンドゥー教の三最高神の一柱のシヴァ神(破壊神)の象徴はリンガ(男根)である。

つまりインドは、古代から人生の三大目的としてカーマ(性愛)、ダルマ(聖法)、アルタ(実利)が挙げられる国で、三大性典とされる「カーマ・スートラ」、「アナンガ・ランガ」、「ラティラハスヤ」と言った性典を生み出した愛と性技巧の国で、このヒンドゥー教の影響こそが、おおらかだった日本の性習俗の原点かも知れない。

例えばインドの土着信仰から始まったヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーが、中国経由で日本に渡来した弁財天の原型である。

弁財天は原型であるインド土着の女神・サラスヴァティーの頃から、性の女神としての側面をもっていた様で、そのイメージは日本に入って来てからも健在だった。

女神・サラスヴァティーはヒンドゥー教の創造の神ブラフマーの妻(配偶神)であり、サンスクリット語(梵語)でサラスヴァティーとは水(湖)を持つものの意であり、水と豊穣の女神としてインドのもっとも古い聖典リグ・ベーダに於いて、始めは聖なる川、サラスヴァティー川(その実体については諸説ある)の神話である。

仏教に於ける婆達多品(デーヴァダッタボン、或いはダイバダッタ品)の観世音菩薩について、この両者(弁才天と観世音)は、「自らを犠牲に供する事によって男を救済する存在」と言う共通性を持っていて、日本の民衆の間では女性の事を指して「弁天様」或いは「観音様」と表現する所から弁財天が「観世音菩薩の応変」と見なされて居る。


真言宗の空海・天台宗の円珍の行く所には多く弁才天の伝承が残っているそうだ。

言わば、修行を積んだ徳の或る僧も、人の子で、尊い高僧が説法の道すがら接した娘達は、生身の人間(女性)ではなく「神仏と接した」とする立場上の便宜性だったのか?

それとも、彼らは特別な秘法(呪詛)によって、村娘や町娘を浄化し、その土地の為に、新たに「生きた弁天菩薩」を作り出したのかも知れないが、真相は判らない。

元々インド・ヒンドゥー教の神や祭祀にはカーマ(性愛)を生活の糧とする思想が在り、シヴァ神(破壊神)やダキニ天(荼枳尼天)、カーマ・スートラ(インド三大性典のひとつ)などを生み出した思想の国だったから、日本に持ち込まれた仏教や神仏習合の修験信仰にその影響を与えている。

なかでも江の島・弁財天は裸形弁財天で有名で、江の島の本宮とされる洞窟は弁財天信仰が持ち込まれる以前から、女性の性器や子宮に見たてられ「女陰信仰が盛んだった」と言う。

この辺りの下地が、「交わりによって相手を浄化する」と言うイメージを喚起したのかも知れない。

その根底にあったのが、「民族の血の同化」と言う国家プロジェクトと言う事になる。

インドの土着神話で、八歳の王の娘・娑竭羅龍(サラスヴァティー)が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い。

その土着神話で、八歳の娑竭羅龍(サラスヴァティー)王の娘が「男子に変じて成仏した」と言う内容の「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」が〈つまり女でも、子供(八歳)でも獣(竜)でも成仏できる事を説いた経文〉として論じられる事が多い事からして、竜は獣と言う扱いらしい。

獣も仏法諸天の仲間で有り、獣(竜)でも成仏できるのなら、畜生道(獣姦)に落ちても成仏できる理屈である。

となると、「陰陽修験導師が暗躍した」と思われる人身御供伝説の原点がこのインド・ヒンドゥー教の女神・サラスヴァティーと仏法諸天の仲間・獣(竜)の畜生道(獣姦)の物語「提婆達多品(デーヴァダッタボン)」の竜を、犬や猿などに加工して応用したのではないかと推測されるのである。


ここに、象徴的な小説・「南総里見八犬伝」がある。

里見氏(さとみうじ)の本姓は清和源氏(河内源氏)源義国(みなもとのよしくに)流の源(新田)義重の三男・義俊を祖とする後裔の氏族で、新田氏の庶宗家である。

新田義俊が上野国碓氷郡里見郷に住み初めて里見氏を称したが、後に里見家基が鎌倉公方・足利持氏に仕え、持氏が「永享の乱」で敗死した後、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁して幕府に敵対し「結城合戦」で家基が戦死する。

里見家基が嫡子・義実は、父を失って城を逃れて落ち延び、相模の三浦から海上を安房の白浜に渡り安房の国に落ち着き房総里見氏の祖となる。

詳細は不明だが安房国に移った新田(源)家基の子息、里見義実が土地の領主・安西氏を追放し安房国(今の千葉県の一部)の領主となる。

折りしも安房国は、室町時代中期の惣領制の崩壊によって旧来の豪族による支配が崩れ、鎌倉時代以来の豪族である安西・神余・丸・東条の各氏が互いに隙を伺って睨み合い、戦乱がうずまいていた。

そうした戦乱の隙を突いて安房・里見氏を始め上総武田氏・正木氏・酒井氏・土岐氏などの諸将が、各々他国から入って来て戦国時代に安房に勢力を築き上げるもこれに勝ち抜いた安房・里見氏が房総地方を領する戦国大名にまで成長した。

戦国時代末期には関東一円に勢力を拡大した後北条氏と敵対していたが、中央でほぼ天下を掌握しつつ在った羽柴秀吉(羽柴豊臣)小田原平定戦に参軍するも、独自の動きをして秀吉の怒りを買う不祥事を引き起こす。

その場は徳川家康の取り成しで切り抜け、秀吉に所領の一部は取り上げられたが安房一ヵ国は安堵されて生き残った。

千六百九十九年(慶長五年)の関ヶ原の合戦に際して、里見氏は家康の継嗣・徳川秀忠の要請に応じて宇都宮方面に参陣し、戦勝後には恩賞として常陸国鹿島郡に三万石の加増を受け十二万石の大名となった。

千六百十四年(慶長十九年)、里見忠義が舅である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆国倉吉三万石に転封となったが、実態は配流と同じ扱いであった。

そして千六百二十二年(元和八年)、当主・里見忠義が病死すると、「跡継ぎが居ない」として里見氏は改易された。

滝沢(曲亭)馬琴(本名:滝沢興邦)の「南総里見八犬伝」はこの里見氏の遺臣達が活躍する「架空の物語」である。


滝沢(曲亭)馬琴の筆に拠って八房(犬)と里見家の伏姫を主人公とし、伏姫(里見伏)は自ら八房の妻となる事で八房の怒りを鎮め、やがては菩提心へと導く物語である。

当初、八房と父の犬との戯れの約束、「敵将の安西の首を持ち帰れば伏姫をやる。」との約束に、八房が見事敵将・安西の首を持ち帰る。

所が、伏姫の父は「たかが犬との約束」とないがしろにし、約を破って八房の恨みを買い、里美家は次々に不幸に見舞われる。

伏せ姫が、父の落ち度に心を痛め、約束を果たして八房の怒りを静める為に「八房の妻」となる決意をする。

それで、安西との戦の功により、八房は伏姫と富山の祠(ほこら)で同棲するに至る。実は、八房には伏せ姫のあずかり知らない過去の恨みによる陰謀が、怨念として付いていた。

それ故、伏せ姫を畜生道(獣姦)に導きて、この世からなる「煩悩の犬」となさんと、最初からの企みが背景にあった。

元々伏姫一人を畜生道(獣姦)に落とすのみならず、伏姫に「八房の子を孕ませよう。」と言う心づもりがあったのだ。

富山の祠(ほこら)で同棲した伏せ姫は、やがて懐妊し、八つの玉を産み落とす。

滝沢(曲亭)馬琴は情交なしの懐妊を書いているが、情欲によって伏姫を身ごもらせたなら、それはやはり畜生道(獣姦)の交わりなのではあるまいか。

「自らを犠牲に供する事によって男を救済する菩薩(弁才天)の慈悲」を、馬琴の筆により伏姫は、その物語において体現している。

八房の情欲を転化させるアイテムとして、「法華経」の獣姦の過ちをも赦す「提婆達多品」が登場する事となる。

馬琴にも、流石に人間、それも清浄の姫君と獣の交わりを書くのは多いに抵抗があったのだろう。

滝沢(曲亭)馬琴(本名:滝沢興邦)のこの筆の舞台が、妙見信仰の地を選んだ事、中にダキニ天(稲荷様・稲成り)と思われる狐の化身や北辰信仰(天一星信仰、北斗信仰、北極星信仰)など、明らかに密教から題材をとっているのだ。

この物語、近世(江戸期・文化・文政時代)に入ってから書かれているが、その原点は「昔話の伝承にあった」と見る。

馬琴が付けた「伏姫(ふせひめ)」の意味は、明らかに「山伏(修験者)の(所有する)姫」を意味している。

伏せ姫にあたる女性が何者かは思い至らなくても、八房はまさしく陰陽師勘解由小路党の「大神(おおかみ/狼)」であり、八つの玉(八人の子)は皇統・葛城氏族(賀茂氏)の血統を持つ「優秀な存在」と位置就けられていたのである。


北辰北斗星信仰が所謂妙見さんだけれど、その使いの神が居る。「使い」と言っても甘く見てはいけない。

妙見菩薩は宇宙を支配する最高神だ。

その使い神だから霊力が格段に強い。

それで、「狼(オオカミ)がその使い神だ」と言われている。

明治維新前は全国的に妙見宮と言う神社があったが、それが、夜との関わりが強い。

つまり「種の保存本能」を祈りの基本にした信仰だ。

その使いが、狼と梟(フクロウ)で、狼の方には「夜夫座神社」と言う意味深な名前が付いている。

狼神社として知られていた兵庫の養父神社筆頭に「夜夫座神社」が、その名もズバリ妙見山と言う山の麓にある。

所謂、山犬(狼)神社である。

この神社の狼は「北斗(妙見)の使い」と言う事になっている。

これが北辰信仰の中にあるヤマイヌ信仰である。

梟(フクロウ)の方は秩父神社で、創建は古く、知々夫国造・知々夫彦命が先祖の八意思兼命を祭ったのが始まりで、関東でも屈指の古社である。

「秩父妙見宮、妙見社」などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に、名称が秩父神社と定められ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神(あめのみなかみぬしかみ)に改称された。

秩父神社の使いは「北辰の梟(ふくろう)」である。

フクロウが一晩中目を見開く姿を形取り、夜を制する「神の使い」である。

関東の狼神社を代表とするは、秩父三大神社のひとつ「三峯神社」である。

狼神社に於いて狼が「神の使い」であると言う思想はどこから来たか、どうも密教・修験道にその源が有る。

つまり伏姫を抱き、孕ましたのは妙見神の使い犬神(大神=狼)なのである。


八犬伝の里見家に戻る。

千葉県館山市上真倉に妙音院(安房高野山妙音院)がある。

天正年間に、安房の国の大名、里見義康公の発願により、紀州高野山の直轄別院・里見家の祈願寺として開山された南房総唯一の古義(高野山)真言宗の寺である。

つまり、里見家は真言宗との縁が強い。

妙音院も、紀州根来寺内の密教修験院の名を取った妙見信仰の証で、その妙音院からちょうど北東(鬼門)の方角に意味深な地名がある。

南房総市の一角に旧安房郡富山町があり、その富山町の平群地区にある地名が、「犬掛」と言う、まるで八犬伝が実際にあったがごとき地名である。

【掛ける】は、古来より性交を意味する言葉である。

我が国では、四足動物を人為的に交尾繁殖させる行為を【掛ける】と言う。

この【掛ける】の語源であるが、歌垣の語源は「歌掛け」であり、夜這いも「呼ばう(声掛け)」である。

また異説では、交尾を意味する「掛ける」の語源は、神懸(かみがか)りの「懸ける」から来ていると言う説もある。

つまり陰陽呪詛の信仰に於いて交尾や性交は生命を宿る為の呪詛儀式と捉えていて、その行為は「女性を神懸(かみがか)らせる事」と言う認識である。


こちらは滝沢(曲亭)馬琴の「南総里見八犬伝」の話であるが、「走る」の意味も「駆ける」であるが、当てる字が違う。

伏姫はフィクションで実在しないので、誰か女性が、忌み祓いの為に、犬を「掛けられた」と言う「昔話(伝承)が存在した」と解釈するのが妥当であり、そうなると昔話の方は修験山伏の仕事と解釈するのが妥当なのだ。

勿論「南総里見八犬伝」は滝沢馬琴の創作小説であるが、その題材の基に成った妙見信仰の伝承が在り、その伝承の地が安房の「犬掛」だったのでは無いだろうか?

しかしこの獣姦、現代の感覚で考えてはいけない。

山犬は大神(狼)であり、犬公方と言われた五代将軍・徳川綱吉により、「生類哀れみの令」が発布される時代だった。

つまり、神の子を宿す神聖な呪詛である。

しかも「八っ房」と「伏姫」との「犬掛け」はあくまでも伝承であり、現実には天狗伝説に在るように天の狗(てんのこう/てんのいぬ)=修験山伏の行者の仕業なのである。

下総国(千葉県)に在る地名「犬掛」は当主・里見義豊が叔父(父の弟実堯)の長男里見義堯との家督相続の戦いに破れ、自刃した不吉な古戦場跡で、鬼門の方角に当る。

今以上に信心深い時代の事で、鬼門封じの呪詛を里見家が修験道に命じて、密かに執り行った可能性は棄て切れない。

或いは滝沢(曲亭)馬琴が、その土地に密かに伝わる「人身御供伝説の噂」を参考に、作品に取り入れた可能性も棄て切れないのである。

つまり、滝沢(曲亭)馬琴の南総里見八犬伝は、山犬(狼=大神)信仰と人身御供伝説を江戸時代の当世風にアレンジした小説である。

里見八犬伝のベースが陰陽修験道をモチーフにしているなら、主要登場人者・伏姫(ふせひめ)の名称にしても修験道師の別称・山伏(やまぶし)から取った山伏姫なのかも知れない。

この江戸時代後期の読本作者・滝沢(曲亭)馬琴のもう一つの代表作が、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏を題材とした「南総里見八犬伝」である。

滝沢(曲亭)馬琴の里見八犬伝の「八」は、日本古来の信仰から「八」を導いている。

八犬伝(八剣士)であり、犬の名は八房である。

日本の神話のキーワードは「八」と言う数字である。

また、犬に関わる人身御供伝説は、日本全国に数多く存在する。


第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-04-26 16:20 | Comments(0)  

曲亭馬琴(きょくていばきん)

千九百六十七年(明和四年)、滝沢(曲亭)馬琴は、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。

馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだと言う。


千七百七十五年(安永四年)馬琴九歳の時に父・滝沢運兵衛興義が亡くなり、長兄の興旨が十七歳で家督を継いだ。

しかし、主家は俸禄を半減させた為、翌千七百七十六年(安永五年)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。

この時既に、次兄の興春は他家に養子に出ていた。

母と妹も興旨とともに戸田家に移った為、松平家には馬琴一人が残る事になった。

馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、千七百八十年(安永九年)、十四歳の時に松平家を出て母や長兄と同居する。

翌千七百八十一年(天明元年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。

馬琴は、俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深める。

二年後の十七歳で、馬琴は吾山撰の句集・「東海藻」に三句を収録しており、この時はじめて馬琴の号を用いている。

その後の二十一歳の時には、馬琴は俳文集・「俳諧古文庫」を編集する。

また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。

馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とする。

馬琴はこの時期、放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。

千七百八十五年(天明五年)母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合う。

そして次兄が貧困の中で急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。


千七百九十六年(寛政八年)、三十歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。

この年に耕書堂から刊行された読本・「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。

また、生活の為により通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。

千八百四年(文化元年)に刊行された読本・「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗する事となった。

千八百十四年(文化十一年)に、大長編読本・「南総里見八犬伝」が刊行を開始された。

「南総里見八犬伝」の執筆には、千八百十四年(文化十一年)から千八百四十二年(天保十三年)までの二十八年を費やし、馬琴のライフワークとなった。

その間に、一人息子で医術を修めた興継が宗伯と名乗りを許され陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となるも、千八百三十五年(天保六年)に死去する。


馬琴は、千八百三十三年(天保四年)頃から異常を覚えていた眼病が悪化し、千八百三十九年(天保十年)の時には失明する。

執筆が不可能となった為、息子・宗伯の妻・お路が口述筆記をする事となった。

馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対し、妻のお百が嫉妬して家庭内の波風は絶えなかった。

そのお百も、千八百四十一年(天保十二年)に没した。

同千八百四十一年(天保十二年)八月、大長編読本・「南総里見八犬伝」の執筆が完結し、千八百四十二年(天保十三年)正月に刊行される。

馬琴は千八百四十八年(嘉永元年)、お路を代筆記者として、「傾城水滸伝」や「近世説美少年録」の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、八十二歳で死去した。


馬琴は、ほとんど原稿料のみで生計を営む事のできた日本で最初の著述家で、代表作は「椿説弓張月」と「南総里見八犬伝」である。


第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-04-26 16:16 | Comments(0)  

琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)

千八百五十三年(琉球暦:咸豊三年、和暦:嘉永六年)五月、薩摩藩の付庸国・琉球へ黒船が来航する。

アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。

黒船は翌千八百五十四年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。

ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。


千八百六十七年(慶応三年)、日本列島では薩長土肥四藩を主体とする軍事クーデターが起きて大政奉還、王政復古と進み、江戸・徳川幕府を倒し明治維新が成立する。

千八百七十一年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、千八百七十二年には琉球藩を設置し、琉球国王・尚泰を琉球藩王に「陞爵(しょうしゃく/昇格)」して華族に列した。

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京する事などを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。

そのため千八百七十九年三月、処分官・松田道之が随員・警官・兵あわせて約六百人を従えて来琉する。

武力的威圧のもとで三月二十七日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、四月四日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされる。

沖縄県令として前肥鹿島藩(佐賀藩の支藩)前主の鍋島直彬が赴任するに至り、第二尚氏王統の琉球支配は終わった。

旧琉球國(ルーチュークク)の王族は、日本の華族とされた。

しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。

外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展した。

だが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。


なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張する中国の人物も存在している。

しかし、過去の冊封関係を持って領有権主張の根拠とするなら、朝鮮半島も、現在独立している周辺国もその冊封関係国の範疇にはいる。

つまり、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、また琉球処分が無効である根拠も明らかではない。

そして、現・中華人民共和国が台湾や沖縄尖閣諸島などの領有を主張するも、歴史的検証では明帝国に至るまでの各中華帝国は台湾島を含め沖縄諸島などに然したる関心や領有意欲は無かった。

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)】に戻る。

詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-04-03 00:27 | Comments(0)  

薩摩藩の琉球侵攻(さつまはんのりゅうきゅうしんこう)

十六世紀後半(千五百九十年代)、豊臣秀吉が明国とその進路にある李氏朝鮮国を征服しようとして琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国で在った為に琉球国王は一旦拒否する。

千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正福島正則小西行長黒田長政浅野幸長らを主力に、十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出す。

一旦拒否した琉球王国は、文禄・慶長の役で日本が実際に朝鮮半島に攻め込んだ時には、日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担っている。

その後豊臣秀吉の死去により、関ヶ原合戦を経て日本の支配者は徳川家康に移る過程を辿る。

千六百二年、仙台藩伊達氏領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、千六百三年に琉球に送還される。

以後、薩摩藩島津氏を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、琉球王国は最後までこれに応じなかった。

この背景には、戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求していた。

しかし琉球側が、これを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつ在ったからである。

こうした両者の、元々在った緊張関係が琉球征伐に至る過程に大きく影響したと考えられている。

千六百八年九月には、家康と徳川秀忠が舟師(しゅうし/水軍)を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて僧・大慈寺龍雲らを遣わす。

僧・大慈寺龍雲は、琉球王国・尚寧王(しょうねいおう)及び三司官(宰相)に対し、家康に必ず朝聘するよう諭した。

三司官(宰相)の 一人で久米三十六姓の末裔の政治家・謝名利山(じゃなりざん)は聴従せず、かえって侮罵(ぶば/あなどりののしる)に至り、大いに使僧を辱めた。

こうして遂に、徳川家が江戸幕府開府した千六百三年(慶長八年)から六年後、徳川幕府から琉球征伐の御朱印が、薩摩藩島津氏に下る事となった。


千六百九年(琉球暦万暦三十七年・和暦慶長十四年)薩摩藩島津氏は三千の兵を率いて三月四日に薩摩を出発し、三月八日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍する。

三月二十六日には沖縄本島に上陸し、四月一日には首里城にまで進軍する。

島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い四千の兵士を集めて対抗したが四月五日には敗れ、薩摩藩軍が首里城を陥し、和睦を申し入れた琉球国王・尚寧を捕らえ首里城は開城した。

これ以降、薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、また徳川幕府に使節を派遣し江戸へ上った。

その後琉球王国は、明国に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清国にも朝貢を続ける。

つまり琉球王国は、薩摩藩と清国への両属という体制をとりながらも、独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。

琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離された。

だが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。

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by mmcjiyodan | 2016-04-02 21:25 | Comments(0)