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曲亭馬琴(きょくていばきん)

千九百六十七年(明和四年)、滝沢(曲亭)馬琴は、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。

馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、七歳で発句を詠んだと言う。


千七百七十五年(安永四年)馬琴九歳の時に父・滝沢運兵衛興義が亡くなり、長兄の興旨が十七歳で家督を継いだ。

しかし、主家は俸禄を半減させた為、翌千七百七十六年(安永五年)に興旨は家督を十歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。

この時既に、次兄の興春は他家に養子に出ていた。

母と妹も興旨とともに戸田家に移った為、松平家には馬琴一人が残る事になった。

馬琴は主君の孫・八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、千七百八十年(安永九年)、十四歳の時に松平家を出て母や長兄と同居する。

翌千七百八十一年(天明元年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。

馬琴は、俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深める。

二年後の十七歳で、馬琴は吾山撰の句集・「東海藻」に三句を収録しており、この時はじめて馬琴の号を用いている。

その後の二十一歳の時には、馬琴は俳文集・「俳諧古文庫」を編集する。

また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。

馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とする。

馬琴はこの時期、放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」と回想している。

千七百八十五年(天明五年)母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合う。

そして次兄が貧困の中で急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。


千七百九十六年(寛政八年)、三十歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。

この年に耕書堂から刊行された読本・「高尾船字文」は馬琴の出世作となった。

また、生活の為により通俗的で発行部数の多い黄表紙や合巻などの草双紙も多く書いた。

千八百四年(文化元年)に刊行された読本・「月氷奇縁」は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗する事となった。

千八百十四年(文化十一年)に、大長編読本・「南総里見八犬伝」が刊行を開始された。

「南総里見八犬伝」の執筆には、千八百十四年(文化十一年)から千八百四十二年(天保十三年)までの二十八年を費やし、馬琴のライフワークとなった。

その間に、一人息子で医術を修めた興継が宗伯と名乗りを許され陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となるも、千八百三十五年(天保六年)に死去する。


馬琴は、千八百三十三年(天保四年)頃から異常を覚えていた眼病が悪化し、千八百三十九年(天保十年)の時には失明する。

執筆が不可能となった為、息子・宗伯の妻・お路が口述筆記をする事となった。

馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対し、妻のお百が嫉妬して家庭内の波風は絶えなかった。

そのお百も、千八百四十一年(天保十二年)に没した。

同千八百四十一年(天保十二年)八月、大長編読本・「南総里見八犬伝」の執筆が完結し、千八百四十二年(天保十三年)正月に刊行される。

馬琴は千八百四十八年(嘉永元年)、お路を代筆記者として、「傾城水滸伝」や「近世説美少年録」の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、八十二歳で死去した。


馬琴は、ほとんど原稿料のみで生計を営む事のできた日本で最初の著述家で、代表作は「椿説弓張月」と「南総里見八犬伝」である。


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by mmcjiyodan | 2016-04-26 16:16 | Comments(0)  

琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)

千八百五十三年(琉球暦:咸豊三年、和暦:嘉永六年)五月、薩摩藩の付庸国・琉球へ黒船が来航する。

アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。

黒船は翌千八百五十四年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。

ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。


千八百六十七年(慶応三年)、日本列島では薩長土肥四藩を主体とする軍事クーデターが起きて大政奉還、王政復古と進み、江戸・徳川幕府を倒し明治維新が成立する。

千八百七十一年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、千八百七十二年には琉球藩を設置し、琉球国王・尚泰を琉球藩王に「陞爵(しょうしゃく/昇格)」して華族に列した。

明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京する事などを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。

そのため千八百七十九年三月、処分官・松田道之が随員・警官・兵あわせて約六百人を従えて来琉する。

武力的威圧のもとで三月二十七日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、四月四日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされる。

沖縄県令として前肥鹿島藩(佐賀藩の支藩)前主の鍋島直彬が赴任するに至り、第二尚氏王統の琉球支配は終わった。

旧琉球國(ルーチュークク)の王族は、日本の華族とされた。

しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。

外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展した。

だが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。


なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張する中国の人物も存在している。

しかし、過去の冊封関係を持って領有権主張の根拠とするなら、朝鮮半島も、現在独立している周辺国もその冊封関係国の範疇にはいる。

つまり、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、また琉球処分が無効である根拠も明らかではない。

そして、現・中華人民共和国が台湾や沖縄尖閣諸島などの領有を主張するも、歴史的検証では明帝国に至るまでの各中華帝国は台湾島を含め沖縄諸島などに然したる関心や領有意欲は無かった。

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)】に戻る。

詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-04-03 00:27 | Comments(0)  

薩摩藩の琉球侵攻(さつまはんのりゅうきゅうしんこう)

十六世紀後半(千五百九十年代)、豊臣秀吉が明国とその進路にある李氏朝鮮国を征服しようとして琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国で在った為に琉球国王は一旦拒否する。

千五百九十二年(文禄元年年)、秀吉は子飼いの大名・加藤清正福島正則小西行長黒田長政浅野幸長らを主力に、十六万の大軍勢を編成して朝鮮半島に送り出す。

一旦拒否した琉球王国は、文禄・慶長の役で日本が実際に朝鮮半島に攻め込んだ時には、日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担っている。

その後豊臣秀吉の死去により、関ヶ原合戦を経て日本の支配者は徳川家康に移る過程を辿る。

千六百二年、仙台藩伊達氏領内に琉球船が漂着したが、徳川家康の命令により、千六百三年に琉球に送還される。

以後、薩摩藩島津氏を介して家康への謝恩使の派遣が繰り返し要求されたが、琉球王国は最後までこれに応じなかった。

この背景には、戦国大名として領国支配の強化を目指していた島津氏は、琉球に対して島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りを要求していた。

しかし琉球側が、これを拒否するなど従来の善隣友好関係が崩れて敵対関係へと傾斜しつつ在ったからである。

こうした両者の、元々在った緊張関係が琉球征伐に至る過程に大きく影響したと考えられている。

千六百八年九月には、家康と徳川秀忠が舟師(しゅうし/水軍)を起こそうとしていると聞いた島津家久が、改めて僧・大慈寺龍雲らを遣わす。

僧・大慈寺龍雲は、琉球王国・尚寧王(しょうねいおう)及び三司官(宰相)に対し、家康に必ず朝聘するよう諭した。

三司官(宰相)の 一人で久米三十六姓の末裔の政治家・謝名利山(じゃなりざん)は聴従せず、かえって侮罵(ぶば/あなどりののしる)に至り、大いに使僧を辱めた。

こうして遂に、徳川家が江戸幕府開府した千六百三年(慶長八年)から六年後、徳川幕府から琉球征伐の御朱印が、薩摩藩島津氏に下る事となった。


千六百九年(琉球暦万暦三十七年・和暦慶長十四年)薩摩藩島津氏は三千の兵を率いて三月四日に薩摩を出発し、三月八日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍する。

三月二十六日には沖縄本島に上陸し、四月一日には首里城にまで進軍する。

島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い四千の兵士を集めて対抗したが四月五日には敗れ、薩摩藩軍が首里城を陥し、和睦を申し入れた琉球国王・尚寧を捕らえ首里城は開城した。

これ以降、薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、また徳川幕府に使節を派遣し江戸へ上った。

その後琉球王国は、明国に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清国にも朝貢を続ける。

つまり琉球王国は、薩摩藩と清国への両属という体制をとりながらも、独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。

琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離された。

だが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。

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詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-04-02 21:25 | Comments(0)  

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)

「琉球・沖縄古代史」としては、大分県に伝わる古文書・「上記(ウエツフミ)」には、弥生時代に本土から渡った日本人が沖縄を開拓し、「フタナギの国」と名付けたと言う記述がある。

この日本人は「葦原神(あしはらがみ)」と呼ばれ、南風原(はえはら)の鶴野(つるの)に祀られたと書かれている。

その後、漢の時代になって中国が「琉球」という名前に変えたとあるも、真偽のほどは証明されていない。

十三世紀までは台湾・先島諸島・沖縄・奄美のいずれの地域も群れ部落的な小勢力の割拠状態が続き、中国大陸や日本列島の中央政権からは認識が薄い状態であった。


十三世紀までは台湾・先島諸島・沖縄・奄美のいずれの地域も群れ部落的な小勢力の割拠状態が続き、中国大陸や日本列島の中央政権からは認識が薄い状態であった。

当時、中華帝国(ツォンファティゴウ)側は、朝鮮半島も日本列島も琉球国や台湾島も「倭の国々(倭人の国)」と呼んでいた。

しかし「倭の国々(倭人)」と言う呼称は、中華文明から遠く離れた「辺境の地の国々」の総称だった。

その意味では、当時の日本はけして、「倭国」では無く「大和の国」を自称していた。

だから琉球國(ルーチュークク)は、自らを「沖縄人」を指すウチナンチューと呼び、当時から日本や日本人の事を大和国(ヤマトンクク)・大和人(ヤマトンチュー)と呼んでいた。


十四世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢した事で認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。

千三百三十六年には、大陸の明帝国・福建出身の客家(ハッカ)族から琉球へ渡来した職能集団・久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)が琉球に渡っている。


琉球國(ルーチュークク)の正史・「中山世鑑」や「おもろさうし」などでは、千百五十六年、保元の乱崇徳上皇方に属し奮戦して敗れた源為朝(みなもとのためとも/鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖・舜天(しゅんてん)になったとされる。

舜天(しゅんてん)は、舜天王統の開祖とされる琉球国王とされている。

沖縄本島には天帝の遣いとして下界に下った神・アマミキヨの子に始まる天孫氏と呼ばれる王統が二十五代続いた。

この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが浦添の按司(あじ)であった舜天(しゅんてん)とされている。

按司(あじ)の称号は、琉球王国の称号および位階の一つで国王家の分家にあたり、古くは地方の支配の王号の代わりだった。

舜天(しゅんてん)伝承の真偽は不明だが、正史として扱われており、この話が後に江戸時代後期の読本作者・曲亭(滝沢)馬琴(きょくてい ばきん)の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」を産んだ。

この曲亭(滝沢)馬琴(きょくていばきん)のもう一つの代表作が、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏を題材とした「南総里見八犬伝」である。

なお、千八百七年(文化四年)から千八百十一年(文化八年)にかけて、全五篇・二十九冊シリーズで発行された「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」の挿絵は、葛飾北斎(かつしかほくさい)の画作である。


琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、千四百二十九年から千八百七十九年の四百五十年間、沖縄本島を中心に存在した尚氏(しょうし)王統の王国である。

千四百二十九年に、南山の佐敷按司(さしきあじ)を出自とする第一尚氏王統の尚巴志(しょうはし)王の三山統一によって琉球王国が成立したと見なされている。


三山統一によって成立した第一尚氏王統は、大和(日本本土)や中国・朝鮮半島はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。

しかし、統一後も依然として地方の諸按司(しょあじ)の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施する事はなかった。

その為、王位継承権争いなどといった内乱が絶えず、さらに喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては六十三年間で瓦解した。


千四百六十二年、尚泰久王(第六代)の重臣であった金丸(尚円王)が、尚泰久王(第六代)世子・尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。

第二尚氏王統初代国王・尚円(しょうえん)は、元々の名を金丸(かなまる)と言い、伊是名島の百姓の出自である。


尚円(しょうえん)の王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もある。

その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司(しょあじ)を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功する。

彼の治世において、対外的には千五百年には石垣島にてオヤケアカハチの乱を平定し、さらに千五百二十二年には与那国島を制圧して、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。

第二尚氏王統は、千五百七十一年には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築いた。

琉球王は、明国に対しては朝貢国として、形式上その臣下となる事を強いられた。

だが、一方で国内では時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せたとされる。


当時の琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。

琉球國(ルーチュークク)は、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。

この統治範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。

王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。

琉球國(ルーチュークク)は小さな離島の集合が勢力圏で、総人口十七万に満たない小さな王国ではあった。

だが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。

その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家・マラッカ王国との深い結び付きが知られる。


琉球國(ルーチュークク)は、外交的に貿易上の理由から、明国及びその領土を継承した清国の冊封を受けたりしていたが、千六百九年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入る。

ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。

薩摩藩の琉球侵攻(さつまはんのりゅうきゅうしんこう)】へ飛ぶ。

千八百六十七年(慶応三年)、日本列島では薩長土肥四藩を主体とする軍事クーデターが起きて大政奉還、王政復古と進み、江戸・徳川幕府を倒し明治維新が成立する。

千八百七十一年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、千八百七十二年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。

琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)】へ飛ぶ。

琉球國(ルーチュークク)の沖縄県としての日本統合は清帝国からの異論が提示されたが、その後勃発した日清戦争後の戦後処理で琉球(沖縄)の日本帰属が確定した。

日清戦争・琉球処分と分島改約案】へ飛ぶ。


詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-03-31 16:30 | Comments(0)  

川中島合戦(かわなかじまかっせん)

川中島合戦(かわなかじまかっせん)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いを指して言う。


信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地が川中島である。

川中島の地は、信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。

当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。

鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。

また、古来川中島は交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。

武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地だった。


この武田信玄(武田晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との合戦(かっせん)で最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われた。

その事から、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島合戦(かわなかじまかっせん)と呼ばれる。

戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とし、その戦いの度に武田氏の支配地は着実に北上している。

主な戦闘は、千五百五十三年(天文二十二年)の第一次合戦から千五百六十四年(永禄七年)の第五次合戦まで計五回、十二年余りに及ぶ。

だが、実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、千五百五十五年(天文二十四年)の第二次犀川の戦いと千五百六十一年(永禄四年)の第四次みである。

一般に「川中島合戦(かわなかじまかっせん)」と言った場合、最大の激戦であった千五百六十一年(永禄四年)の第四次合戦(旧暦九月九日/西暦十月十七日)から三日間を指す事が多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある。

また、五回に及ぶ出陣の中には出兵対峙のみで双方が交戦を避けた場合も在り、本格的な合戦は二回だったとも言われている。

いずれにしても、川中島合戦(かわなかじまかっせん)は雪解けと種まきの間の空き期間や収穫後の積雪前の時期を主に行われ、農作業の時期が来ると互いに兵を帰している事実がある。


第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-02-24 13:35 | Comments(0)  

井伊直虎(いいなおとら)

井伊直虎(いいなおとら)は、戦国時代(せんごくじだい/室町末期)の女性領主にして女性武将である。

遠江国井伊谷(いいのや/静岡県浜松市北区(旧・引佐郡)引佐町)の国人・井伊氏の当主を務め、井伊谷(いいのや)徳政令など内政手腕に優れ「女地頭」と呼ばれた。

直虎(なおとら)は、父・直盛の従兄弟・井伊直親と婚約したが、運命に翻弄されて生涯を未婚で通した。

直虎(なおとら)は、後に井伊家の中興を果たす井伊直政の「はとこ」であり、養母として直政を育てている。


直虎(なおとら)は、遠江国・井伊谷城主(国人)の井伊直盛を父に、母は新野親矩(今川氏一族/舟ケ谷城主)の妹(祐椿尼/ゆうしゅんに)の娘として誕生する。

直虎(なおとら)は、父・直盛に男子がいなかった為、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。

ところが、千五百四十四年(天文十三年)に今川氏与力の小野道高(政直)の讒言(ざんげん)により、井伊直親の父・直満がその弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられる。

井伊直満は今川義元に自害させられ、婿養子に迎える予定の直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡する。

この逃亡、井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。

許嫁(いいなずけ)であった直虎は失意のまま出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)という出家名を名乗った。

直親は、後の千五百五十五年(弘治元年)に今川氏に復帰するが、信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていた為、直虎は婚期を逸する事になったとされる。

その後、井伊氏には不運が続き、千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親は千五百六十二年(永禄五年)に小野道好(井伊家家老/道高の子)の讒言によって今川氏真に殺された。

直虎(なおとら)ら一族に累が及びかけたところを母・祐椿尼(ゆうしゅんに)の兄で伯父にあたる新野親矩(今川氏一族/舟ケ谷城主)の擁護により救われた。

千五百六十三年(永禄六年)、直虎(なおとら)・曽祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死する。

千五百六十三年(永禄七年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死し、井伊氏家中を支えていた者たちも失った。

そのため、龍潭寺の住職であった叔父の南渓瑞聞により、幼年であった直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。

こうした経緯を経て、千五百六十五年(永禄八年)、出家し次郎法師を名乗っていた直虎(なおとら)は、この時名を直虎(なおとら)に変えて井伊氏の当主となった。

井伊直虎(いいなおとら)は女性であるから、現実には女武将と言っても一族の象徴的な当主で在って、兵を引き連れて戦闘に加わった訳では無い。

例え戦に出たとしても、あくまでも周囲に守られて兵の指揮を執った程度の事であるが、それでも武門の棟梁であるから武将である。

もっとも男性の武将でも、やむ負えない場面に遭遇しなければ、豊臣秀吉のように生涯自らは武器を取らなかった武将の方が圧倒的に多かった。

不思議な事に、井伊家の方針に悉(ことごと)く反対していた井伊家家老・小野道好は、何故か次郎法師(直虎)の当主就任には異論を唱えなかった。

家老・小野道好にしてみれば、女当主ならば他の選択肢よりも扱いが容易と判断したのかも知れない。

それだけに、家老・小野道好の専横は続き、千五百六十八年(永禄十一年)には居城・井伊谷城を奪われてしまう。

しかし小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復する。

千五百七十年(元亀元年)には、井伊直虎(いいなおとら)は家康に嘆願し、小野道好の直親への讒言を咎め道好を処刑する。

道好の処刑により、井伊家は安定するかに思えた。

しかし、千五百七十二年(元亀三年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷(いいのや)城は武田家臣・山県昌景に明け渡す。

井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、直虎(なおとら)は徳川氏の浜松城に逃れた。

その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねた。

しかし武田勢は、当主・武田信玄が病に倒れたため、千五百七十三年(元亀四年)四月にようやく撤退し、直虎(なおとら)は三度も井伊谷(いいのや)城を奪還した。

その間、直虎は許嫁(いいなずけ)の直親の遺児・虎松(直政)を養子として育て、千五百七十五年(天正三年)、三百石で徳川氏に出仕させる。

つまり井伊直虎は、昔添えなかった許嫁(いいなずけ)の忘れ形見・虎松(直政)を引き取って後継ぎとして扶養して井伊家の当主に据えた。

虎松(直政/なおまさ)は家康に気に入られ、虎松(直政/なおまさ)を万千代と改めて名乗らせ、小姓(稚児小姓)として手元に置き寵愛するようになる。

六月に明智光秀織田信長を討ち取った「本能寺の変」が起こった千五百八十二年(天正十年)八月二十六日、直虎(なおとら)は死去する。

井伊氏の家督は、直政が継いだ。

井伊直政に続く。

直虎(なおとら)男性説など、直虎関連の詳しくは、関連小論【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2016-02-08 20:21 | Comments(0)  

井伊氏(いいうじ)

井伊氏は藤原北家流・藤原利世の後裔を称すも、継体天皇の後裔・三国姓ともされ、いずれが正しいかは明確ではない。

藤原後裔説の藤原北家の藤原良門(ふじわらのよしかど)は、左大臣・藤原冬嗣の六男で、藤原利世は良門(よしかど)の息子と伝えられている。

継体天皇後裔説の三国姓は、継体天皇の子・椀子皇子の後裔にして 、天武天皇十三年(六百三十四年)に三国真人(みくにのまひと)姓を賜姓(たまわりな)する。

為に 旧説で藤原氏良門流と称する二家の大名・井伊家 は三国真人(みくにのまひと)の末裔とされる系譜が有力とされている。

井伊氏は、中世に約五百年間、遠江国井伊谷(いいのや)の庄を本貫として治めた国人領主とされる。

であれば、井伊氏は平氏源氏と同等の後胤貴族の末裔に名を連ねる荘園領主が、平安期鎌倉期室町期を生き抜いて江戸期に至った事になる。


南朝・後醍醐帝と北朝を旗印とした足利尊氏が覇権を争った南北朝時代、井伊谷(いいのや)の豪族であった井伊道政は遠江介であるゆえに井伊介とも称した。

道政は比叡山延暦寺座主である宗良親王(むねながしんのう)の元に参じて南朝方として挙兵、遠江国の居城・井伊城に招いて保護した。

また宗良親王(むねながしんのう)の子・尹良親王(ゆきよししんのう)も井伊城に生まれている。

しかし、北朝方の高師泰(こうもろやす)・仁木義長らに攻められて井伊城は落城する。

井伊氏は、北朝方・駿河守護・今川氏と対立していたが、やがて今川氏が駿河に加え遠江の守護職を得るとその支配下に置かれる。

しかし、戦国期を通して、守護である今川氏とは微妙な関係在った。

今川義元が尾張国の織田信長に敗れた桶狭間の戦いの際に、井伊直盛は今川氏に従い討ち死にしたが、戦後まもなく謀反を企てたとして井伊直親は今川氏真に討たれている。

この、一族を多く失った「遠州錯乱」時期に、直盛の娘の井伊直虎が家督を継いだ。

しかし井伊氏の勢力は大きく衰退し、井伊谷(いいのや)の城と所領は家臣の横領や武田信玄の侵攻により数度失われている。


千五百七十五年(天正三年)、直親の遺児の井伊直政(後に徳川四天王の一人となる)は今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、稚児小姓として寵愛を得る。

多くの武功をたて、千五百九十年(天正十八年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪十二万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に十八万石を与えられる。

直政の死後、直政の子の井伊直勝は千六百四年(慶長九年)に近江国彦根に築城したが、千六百十五年(元和元年)幕命により弟の掃部頭(かもんがしら/官名)・井伊直孝に彦根藩主の座を譲った。

井伊氏は、直孝の代には三十万石の譜代大名となる。

なお直勝は亡父の官名・兵部少輔を世襲、三万石として安中藩藩主となった。


この井伊直正の子孫に、江戸幕府幕末の悲劇の大老・井伊直弼(いいなおすけ/近江彦根藩の第十三代藩主)が居て、徹底した反幕府思想勢力の弾圧を行い尊王志士達から憎まれ、ご存知「桜田門外の変」で尊王志士のテロに合い、命を落としている。

江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り井伊家は明治維新まで存続している。

詳しくは、関連小論【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2016-02-08 20:04 | Comments(0)  

真田丸(さなだまる)

真田丸(さなだまる)は、千六百十四年(慶長十九年)大坂の陣(冬の陣)に於いて、豊臣方武将・真田信繁(幸村)が、籠城戦に弱点と読んだ大坂城平野口の南に構築した曲輪(出丸)である。


織田家相続会議である清洲会議(きようすかいぎ)賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いを経て、豊臣秀吉織田信長の勢力を引き継ぐ事に成る。

その後秀吉は、紀州征伐(根来衆・雑賀衆征伐)四国攻めそして九州征伐小田原平定の統一戦に勝利して天下を手中にする。

天下を手中にした豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られた堅城であった。

しかし、地続きとなる南方だけは空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

この南惣構堀である空堀の東部に設けられた虎口が、真田信繁(幸村)が防御を危惧した平野口である。


千六百十四年(慶長十九年)、豊臣秀頼を盟主に据えた豊臣方と徳川家康率いる徳川方が一触即発状態となり、豊臣方(大坂方)は諸国から浪人衆を集める。

以前の上田合戦(第二次)の処分で徳川方に依って幽閉中の真田信繁(幸村)は、高野山から脱出して大坂城に入城する。

大坂城に入城した真田信繁(幸村)は、積極的な出撃を主張するが、豊臣方(大坂方)は篭城策を採る。

致し方なく籠城に応じた真田信繁(幸村)は、大阪城の弱点と見て平野口に南からの攻勢を想定して独立した出城を築き、自らが守備につく事により徳川方の攻撃を食い止めようとした。

千六百十五年十二月四日(新暦一月三日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。

ここで真田信繁(幸村)は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破る事に成功する。


戦功を上げた真田信繁(幸村)の真田丸だが、冬の陣の終了後、和議の条件により破壊された。

夏の陣の終了後に造成された小橋寺町を境に、その西側が真田山、東側が宰相山と呼ばれるようになった。

詳しくは、参考小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

真田家関連記事
真田昌幸(まさゆき)と真田信繁(のぶしげ/真田幸村・さなだゆきむら)
真田昌幸(さなだまさゆき)・上田神川の合戦
真田信之(さなだのぶゆき/信幸)
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大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(二)戦闘
大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(三)和議
大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(一)開戦経緯
大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(二)大阪野外戦
大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(三)大阪城落城

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by mmcjiyodan | 2016-01-13 22:14 | Comments(0)  

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう/ABCD encirclement)とは、事実上の対日経済制裁の日本側からの別称である。

千九百三十三年(昭和八)三月、日本はリットン報告書の採択に反対して、国際連盟(こくさいれんめい)を脱退する。

千九百三十年代後半、日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)を契機として、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の各国が経済制裁及び経済封鎖と言う強制外交手段を始める。

この四ヵ国の強制外交手段で危機に立たされた日本側は、ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)と呼んで反発する。

日本に対して行ったこの貿易制限の総体に、当時の日本の新聞が付けた名称がABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)であるが、正確な初出については良く分かっていない。

ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれるこの対日政策が経済制裁か経済封鎖かについては研究者間でも一定していない。


よく、日本軍が先の大戦で太平洋や東南アジアに進行した事実を、「他国が仕掛けた事」として正当化しようと試みる連中がいる。

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)で、日本が一方的に経済的窮地に立たされたから「やむおえなく開戦した」と、都合が良い解釈を主張するノー天気な歴史観を持つ者だ。

その彼らが、現代のロシアや中国の強引な領土拡大主義には「とんでもない悪行」と批判的で、日本政府は欧米の対抗処置に理解を示している。

だが、戦前引き起こした「満州事変」こそ当時の日本の領土拡大主義で、それを強制手段「ABCD包囲網」で抑制しようとした結果の、破れかぶれの対米開戦が真珠湾攻撃である。

つまり戦前日本の領土拡大主義と、現代のロシアや中国の領土拡大主義と「どこが違う」と言うのか?

簡単に言ってしまえば、日本の中国侵略行為に歯止めを掛けようと欧米が介入して包囲網を引かれたのに、「理不尽に包囲された」と言う一方的な言い分で国民を扇動し対米開戦をした。

欧米列強のアジア侵略意志も在る中での日本の中国侵攻で、「欧米諸国の策略にハメられた」とかの説を述べる輩もいる。

勿論、深く国際情勢を掘り下げれば、日本だけが悪い訳では無いかも知れない。

だが、侵攻先の相手国(中国)の了解を得ずして「大東亜共栄圏を形成する目的だった」と言っても言い訳で、説得も説明も着かない。

外国脅威論を国防論議に広げ、イキがって「威勢が良い軍事的な主張」を無責任に吐くのは簡単である。

しかし「その威勢が良い言動に責任が持てるか?」と言うと、その問いかけに応える方は殆ど無く、言わば自己陶酔的にイキがっているだけである。

敢(あ)えて言えば、稚拙に間違ったナショナリズム(民族主義)に陶酔して、民族同胞を危機に導くのが、このイキがりの落ちである。

理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)の考え方からすると、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は、正に勝算を度外視した「尊皇攘夷論と言う右脳域の観念」のみで開戦してしまった長州勤皇派の愚行だった。

つまりイキがっているだけの感情で、勝算無き軍事行動を「やっちゃえ」と言う無責任な主張なのだ。

反戦を信念とする事は「人命の尊重」であり、先の大戦でユダヤ人の人命を救った外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)の「まともな人間性」である。

この、世界から称賛される「杉原千畝(すぎはらちうね)の、まともな人間性」が無い方こそ、イキがったナショナリズム(民族主義)に陥(おちいれ)りかねない。

何故(なぜ)ならば、「自分達のナショナリズム(民族主義)に合わない人種は排斥(はいせき)されるべき」と主張するからである。

この論から言えば、「金儲けの為に武器を輸出する」発想など、「まともな人間性」の持ち主だとは思えない。

しかし安倍晋三氏の政権は、これとは正反対の「金儲けの為に、殺人の道具である武器を輸出する事」を合法化した。


ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)の誘発は、日本の国際連盟脱退が契機であり、脱退の引き金になったのは、日本軍の中国侵攻に対するリットン報告書が中国側の言い分を支持した事からである。

間違ったナショナリズム(民族主義)は、間違った歴史認識を創りだし、国際紛争の種に成る。

それは、歴史的日本領(歯舞諸島、 色丹島、択捉島、国後島の北方四島や尖閣諸島に竹島)を「自国領」と主張する近隣諸国の間違ったナショナリズム(民族主義)も同様である。

詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2015-12-10 23:31 | Comments(0)  

国家総動員法(こっかそうどういんほう)

国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、日中戦争の拡大が発展し第二次世界大戦中に行われた軍事国家としての要(かなめ)となる網羅的動員統制法である。

千九百三十八年 (昭和十三年)に制定された国家総動員法(こっかそうどういんほう)は戦時法規で、四月一日公布、五月五日施行となる。


第二次世界大戦期の日本の総力戦体制の根幹となった戦時法規で、千九百三十八年(昭和十三年)に第一次近衛文麿内閣の下(もと)で制定された。

この法律は、戦時に際し「国防目的達成」の為にあらゆる「人的」及び「物的資源」を「統制運用スル」大幅な権限を政府に与えたもので、一種の白紙委任状にも等しい授権法である。

その各条は、戦争遂行(せんそうすいこう)のため労務・資金・物資・物価・企業・動力・運輸・貿易・言論など国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えた授権法である。

日中戦争中に、同法に基づく勅令として、国民徴用令、国民職業能力申告令、価格等統制令、生活必需物資統制令、新聞紙等掲載制限令その他の統制法規がつくられる。

千九百四十一年(昭和十六年)三月、日中戦争が拡大すると国家総動員法(こっかそうどういんほう)は大幅な改正が行われて罰則なども強化された。

戦時国家総動員は、すなわち「戦時(戦争に準ずる事変を含む)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」とされる広範な権限を政府に与えた。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月、太平洋戦争に突入すると、その戦時法規の適用は拡大され、誰も異を唱えられない効力で国民生活を全面的に拘束した。

つまり、「戦争遂行(せんそうすいこう)の為が全てに優先する国家体制」が、この国家総動員法(こっかそうどういんほう)の大幅な改正に依って成立して非常に悲惨な戦争への道程を、国民は歩んでいた。

詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2015-12-09 19:13 | Comments(0)