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ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう/ABCD encirclement)とは、事実上の対日経済制裁の日本側からの別称である。

千九百三十三年(昭和八)三月、日本はリットン報告書の採択に反対して、国際連盟(こくさいれんめい)を脱退する。

千九百三十年代後半、日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)を契機として、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の各国が経済制裁及び経済封鎖と言う強制外交手段を始める。

この四ヵ国の強制外交手段で危機に立たされた日本側は、ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)と呼んで反発する。

日本に対して行ったこの貿易制限の総体に、当時の日本の新聞が付けた名称がABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)であるが、正確な初出については良く分かっていない。

ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれるこの対日政策が経済制裁か経済封鎖かについては研究者間でも一定していない。


よく、日本軍が先の大戦で太平洋や東南アジアに進行した事実を、「他国が仕掛けた事」として正当化しようと試みる連中がいる。

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)で、日本が一方的に経済的窮地に立たされたから「やむおえなく開戦した」と、都合が良い解釈を主張するノー天気な歴史観を持つ者だ。

その彼らが、現代のロシアや中国の強引な領土拡大主義には「とんでもない悪行」と批判的で、日本政府は欧米の対抗処置に理解を示している。

だが、戦前引き起こした「満州事変」こそ当時の日本の領土拡大主義で、それを強制手段「ABCD包囲網」で抑制しようとした結果の、破れかぶれの対米開戦が真珠湾攻撃である。

つまり戦前日本の領土拡大主義と、現代のロシアや中国の領土拡大主義と「どこが違う」と言うのか?

簡単に言ってしまえば、日本の中国侵略行為に歯止めを掛けようと欧米が介入して包囲網を引かれたのに、「理不尽に包囲された」と言う一方的な言い分で国民を扇動し対米開戦をした。

欧米列強のアジア侵略意志も在る中での日本の中国侵攻で、「欧米諸国の策略にハメられた」とかの説を述べる輩もいる。

勿論、深く国際情勢を掘り下げれば、日本だけが悪い訳では無いかも知れない。

だが、侵攻先の相手国(中国)の了解を得ずして「大東亜共栄圏を形成する目的だった」と言っても言い訳で、説得も説明も着かない。

外国脅威論を国防論議に広げ、イキがって「威勢が良い軍事的な主張」を無責任に吐くのは簡単である。

しかし「その威勢が良い言動に責任が持てるか?」と言うと、その問いかけに応える方は殆ど無く、言わば自己陶酔的にイキがっているだけである。

敢(あ)えて言えば、稚拙に間違ったナショナリズム(民族主義)に陶酔して、民族同胞を危機に導くのが、このイキがりの落ちである。

理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)の考え方からすると、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は、正に勝算を度外視した「尊皇攘夷論と言う右脳域の観念」のみで開戦してしまった長州勤皇派の愚行だった。

つまりイキがっているだけの感情で、勝算無き軍事行動を「やっちゃえ」と言う無責任な主張なのだ。

反戦を信念とする事は「人命の尊重」であり、先の大戦でユダヤ人の人命を救った外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)の「まともな人間性」である。

この、世界から称賛される「杉原千畝(すぎはらちうね)の、まともな人間性」が無い方こそ、イキがったナショナリズム(民族主義)に陥(おちいれ)りかねない。

何故(なぜ)ならば、「自分達のナショナリズム(民族主義)に合わない人種は排斥(はいせき)されるべき」と主張するからである。

この論から言えば、「金儲けの為に武器を輸出する」発想など、「まともな人間性」の持ち主だとは思えない。

しかし安倍晋三氏の政権は、これとは正反対の「金儲けの為に、殺人の道具である武器を輸出する事」を合法化した。


ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)の誘発は、日本の国際連盟脱退が契機であり、脱退の引き金になったのは、日本軍の中国侵攻に対するリットン報告書が中国側の言い分を支持した事からである。

間違ったナショナリズム(民族主義)は、間違った歴史認識を創りだし、国際紛争の種に成る。

それは、歴史的日本領(歯舞諸島、 色丹島、択捉島、国後島の北方四島や尖閣諸島に竹島)を「自国領」と主張する近隣諸国の間違ったナショナリズム(民族主義)も同様である。

詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2015-12-10 23:31 | Comments(0)  

国家総動員法(こっかそうどういんほう)

国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、日中戦争の拡大が発展し第二次世界大戦中に行われた軍事国家としての要(かなめ)となる網羅的動員統制法である。

千九百三十八年 (昭和十三年)に制定された国家総動員法(こっかそうどういんほう)は戦時法規で、四月一日公布、五月五日施行となる。


第二次世界大戦期の日本の総力戦体制の根幹となった戦時法規で、千九百三十八年(昭和十三年)に第一次近衛文麿内閣の下(もと)で制定された。

この法律は、戦時に際し「国防目的達成」の為にあらゆる「人的」及び「物的資源」を「統制運用スル」大幅な権限を政府に与えたもので、一種の白紙委任状にも等しい授権法である。

その各条は、戦争遂行(せんそうすいこう)のため労務・資金・物資・物価・企業・動力・運輸・貿易・言論など国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えた授権法である。

日中戦争中に、同法に基づく勅令として、国民徴用令、国民職業能力申告令、価格等統制令、生活必需物資統制令、新聞紙等掲載制限令その他の統制法規がつくられる。

千九百四十一年(昭和十六年)三月、日中戦争が拡大すると国家総動員法(こっかそうどういんほう)は大幅な改正が行われて罰則なども強化された。

戦時国家総動員は、すなわち「戦時(戦争に準ずる事変を含む)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」とされる広範な権限を政府に与えた。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月、太平洋戦争に突入すると、その戦時法規の適用は拡大され、誰も異を唱えられない効力で国民生活を全面的に拘束した。

つまり、「戦争遂行(せんそうすいこう)の為が全てに優先する国家体制」が、この国家総動員法(こっかそうどういんほう)の大幅な改正に依って成立して非常に悲惨な戦争への道程を、国民は歩んでいた。

詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2015-12-09 19:13 | Comments(0)  

国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)

国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)とは、千九百三十三年(昭和八)三月二十七日、リットン報告書の採択に反対して、日本が正式に国際連盟脱退を通告した事を言う。

国際連盟創立以来の原加盟国、常任理事国として重きを占めてきた日本は、満州事変を契機にその地位が一転し、事件が中国によって連盟に提訴された。


当時の日本とっては「ソ連の南下脅威論」が主流であり、ソ連の南下を封じるには日本の防衛線を朝鮮半島から満州まで拡大するする事が急務と論じられていた。

つまり「ソ連の南下脅威論」を正当な理由に、軍事力を背景にして無理やり満州国の成立を図った。

しかし国際間常識では、満州国は日本の侵略行為にしか見えず、「ソ連の南下脅威論」は正当な理由にはならなかった。

結果、列国から、満州事変に関する日本の行動を問責非難される立場に立たされる。

きっかけとなったリットン調査団報告は、満州(当時)での日本の権益にも一定の理解を示したが、満州国を不承認とした事に日本は反発する。


千九百三十一年(昭和六)の満州事変に際し、国際連盟はリットン調査団を現地に派遣、その報告書は翌三十二年十月公表された。

内容は日本に対し妥協的なものであったが、日本の軍事行動を正当と認めず、また満州国が傀儡(かいらい)国家である事を事実上認めるものであった。

そのため日本側の強い反発を招き、国内でも陸軍や右翼を中心に連盟脱退論が興(おこ)り、財界の一部もこれに同調した。


同千九百三十二年十二月の連盟総会では日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託された。

同委員会の報告書は、リットン報告書の採択と満州国不承認を盛り込んだものであり、千九百三十三年(昭和八)二月二十四日の連盟総会は四十四ヵ国中四十二ヵ国の賛成(日本反対、シャム棄権)でそれを採択した。

日本全権・松岡洋右(まつおかようすけ)はこれに抗議して直後に議場を退場、翌月、連盟脱退を通告する。

連盟脱退により日本は、孤立の道を歩む事になった。


この連盟脱退を解説するなら、当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

この事が、千九百三十三年(昭和八年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

千九百三十三年三月二十七日、国際連盟総会に於いてリットン調査書による報告に基づいて満州国に対する決議が行なわれる。

日本が設立した実質上の傀儡国であった満州国を、国際連盟は「満州国は地元住民の自発的な独立ではない」と結論づけた総会決議を行った。

その結果、総会決議は賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(タイ=シャム)となり、二月二十四日、国際連盟は満州国を否認した。

この時の全権代表・松岡洋右(後の外相)は、「日本は、国際連盟総会の勧告を断じて受け入れる事は出来ない」と演説し、そのまま退席する。

千九百三十三年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退を宣言し、以後孤立の道を深めて行く事になる。

千九百三十年代後半、日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)を契機として、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の各国が経済制裁及び経済封鎖と言う強制外交手段を始める。

この四ヵ国の強制外交手段で危機に立たされた日本側は、ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)と呼んで反発する。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ(シャム)王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどのその後の第二次世界大戦に於ける枢軸寄り中立国も満州国を承認する。

そして、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の三分の一以上と国交を結んで安定した状態に置かれた。

またアメリカやイギリスなど国交を結んでいなかった国も大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易を行っていた。

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by mmcjiyodan | 2015-12-09 19:10 | Comments(0)  

ヤルタ会談(ヤルタ密約)

第二次世界大戦と大東亜戦争の勝敗が明らかになりつつあった千九百四十五年(昭和二十年)二月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンがソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行った。

ここでルーズベルトはスターリンに、ドイツ降伏の三ヵ月後に日ソ中立条約を侵犯して対日参戦するよう要請する。

ルーズベルトはその対日参戦の見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する諸々の権益をソ連に与えるという密約を交わす。

その中には、日露戦争後のポーツマス条約により日本が得た旅順港や南満洲鉄道といった日本の権益も含まれていた。

日本には認めないとあれほど言い張ってきたアメリカが、満洲の権益を共産主義のソ連には認めた訳である。

アメリカの提唱してきた「門戸開放」なるものは、これで単なるまやかしにすぎなかった事が露呈される。

ルーズベルトは、日本に対するアメリカの勝利をさらに確実にするためにはいかなる事をしてでもソ連に参戦してもらいたかったのである。

ソ連はこの密約を根拠に、千九百四十五年(昭和二十年)八月の終戦間際に、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、千島列島、樺太に侵攻を開始する。

これが、ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)の開戦経緯である。

そしてこのヤルタ密約こそが、その後の日本とソ連(ロシア)の間の「北方領土問題」の原因となっている。

このヤルタ会談の結果、第二次世界大戦後の処理について、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の四ヵ国はヤルタ協定を結ぶ。

ドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。

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by mmcjiyodan | 2015-12-01 16:15 | Comments(0)  

ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)

ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、太平洋戦争末期にソビエト連邦軍が日ソ中立条約(千九百四十一年/昭和十六年締結)を一方的に破棄して満州に攻め込んで来た一連の奇襲攻撃の作戦・戦闘を指す。

このソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、千九百四十五年八月九日未明に開始された。

日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島に於ける一連の作戦・戦闘である。

日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。


ロシア革命後のソ連は、世界を共産主義化する事を至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。

極東に於いては、朝鮮半島から満州地方に勢力を延ばしつつ在った日本との日ソの軍拡競争は千九百三十三年(昭和八年)からすでに始まっていた。

当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進した。

しかし千九百三十六年(昭和十一年)頃には、日ソ間に戦備に決定的な開きが現れていた。

師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站に渡って極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを「大きく凌いでいた」と言われる。

張鼓峰事件やノモンハン事件に於いて日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識した。

しかしながら、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争(大東亜戦争)勃発で南方へと移行し、対ソへの備えに手が回らない事となる。

千九百四十三年後半以降の南方に於ける戦局の悪化は、関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらせ弱体化が進んだ。

満洲に於ける日本の軍事力が急速に低下する一方で、これに先立ちドイツ軍は敗退を続け、終(つい)に千九百四十五年五月に敗北した。

この日ソ中立条約、元々国家間に誠意が在っての条約ではない。

ただ単に、米英中と言った相手と戦争する日本に、「背後からソ連に攻められない為」とドイツと戦うソ連が、「背後から日本に攻められない為」と言う互いの利が一致したからである。

つまりどちらの国も、前面の敵が無く成れば条約を破棄して開戦に到る可能性は充分に在った。

ドイツ軍が敗北した事でソ連側に余力が生じ、ソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。


クルスクの戦いで対ドイツ戦で優勢に転じたソ連に対し、同じ頃対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のためにソ連への対日参戦を画策していた。

千九百四十三年十月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。

この時ソ連は「ドイツを破ったのちに参戦する方針」と回答する。

千九百四十五年二月のヤルタ会談(ヤルタ密約)では対日参戦要請を具体化し、ドイツ降伏後三ヶ月での対日参戦を約束する。

ソ連は千九百四十五年四月には、千九百四十一年に締結された五年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めない事を、日本政府に通告する。

ドイツ降伏後のソ連は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。

日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとする。

しかし日本政府では、ソ連が中立条約の不延長を宣言した事やソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議に於いて総合的な国際情勢について議論がなされる。

ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(千九百四十五年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。


この頃の関東軍首脳部は、日本政府よりもソ連参戦事態の可能性を重大な警戒感に見ていなかった。

総司令官は千九百四十五年(昭和二十年)八月八日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していた事からもそれが観てとれる。

時の山田総司令官は戦後に、「ソ軍の侵攻はまだ先の事であろうとの気持ちであった」と語っている。

関東軍第一課(作戦課)に於いては、関東軍参謀本部の情勢認識よりもはるかに楽観視していた。

この原因は作戦準備がまったく整っておらず、戦時においては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした希望的観測が大きく影響した。

当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていた。

それでもソ連軍の侵攻が「冬まで持ち越してもらいたい」と言う願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は十月に及ぶ」との推測になっていた。

つまり関東軍作戦課に於いて、千九百四十五年の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は早くとも九月以降、さらには翌年に持ち越す事もありうると判断していたのだ。

この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。


関東軍の前線部隊に於いては、ソ連軍の動きについて情報を得ていた。

第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面に於いて兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われている事を察知している。

特に東方面に於いては火砲少なくとも二百門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。

そのため八月三日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長・草地貞吾参謀に情勢判断を求めた。

しかし草地貞吾参謀からは、「関東軍に於いてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は九月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。

その旨は関東軍全体に明示されたが、八月九日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。


さらに第四軍司令官・上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、七月頃から絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究した。

上村幹男中将の判断では、八月三日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。

また上村幹男中将は、八月四日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えた。

しかし、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。

そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。


ソ連からの宣戦布告は、千九百四十五年八月八日(モスクワ時間午後五時、日本時間午後十一時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。

八月九日午前一時(ハバロフスク時間)に、ソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。

同じ頃、関東軍総司令部は第五軍司令部からの緊急電話により、「敵が攻撃を開始した」との報告を受けた。

さらに「牡丹江市街が敵の空爆を受けている」と報告を受け、その後午前一時時三十分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。

関東軍総司令部は急遽対応に追われる。

当時出張中であった総司令官・山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり」と伝える。

さらに「各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。

また、中央部の命令を待たず、午前六時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。

この攻撃は、関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなる。

前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つ事となったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。

つまり関東軍の実情も、敗退し続けている南方戦線同様に、御多分に漏れずソ連軍を迎撃できる能力など無かった。

総司令官・山田乙三朗大将は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後一時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。

さらに総司令官・山田乙三朗大将は、宮内府に赴いて満州国・溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都する事を勧めた。

皇帝溥儀は、満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた。

この満州国政府を臨江に遷都する事は、つまり関東軍が後退戦術を採る事を意味し、「開拓団の居留民(老幼婦女)を避難させずに置き去りにする無情な決断」だった。

軍が関与して最初に避難した三万八千人は、軍人関係家族、大使館関係家族、満鉄関係者などとなり、列車も飛行機も動員されて日本本土への帰国を果たしている。

比べるに、残り十一万二千人の一般居留民(老幼婦女)は暗黙として置き去りにされ、悲惨な逃避行を強いられた。

この一般居留民(老幼婦女)を守れなかった関東軍は、満蒙開拓団にとっていったい何だったのだろうか?


他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大した事から、同地域に於ける対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。

千九百四十五年五月九日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、第五方面軍は再び対ソ作戦に転換する。

このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識される。

しかし、兵力が限られていた事から、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しない事とした。

上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。


千島に於いては既に制海権が危機に瀕している事から、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。

樺太に於いて陸軍の部隊の主力となっていたのは第八十八師団であった。

同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から八月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、「現体勢に変化なし」という方面軍の回答を得たのみだった。

対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは八月六~七日、豊原での会議に於いてった。

千島に於いては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更はそれほど大きな影響を与えなかった。

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by mmcjiyodan | 2015-11-30 23:37 | Comments(0)  

鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)

鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと、かもたけつのみのみこと)は、神魂命(かみむすびのみこと)の孫として日本神話に登場する神である。

賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)とも呼ばれ、山城国の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。

奈良県宇陀市榛原区の八咫烏(やたがらす、やたのからす)神社は鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)を祭神としている。

鴨県主(かものあがたぬし)は大化年間以前から京都の賀茂神社の祠官であった。

日本全国でよく呼称される「氏神神社」の由来は、初期の神社がその土地の支配者(氏/うじ)の神格化を狙った政治的なものだからである。

県主(あがたぬし)は,古くはその地方の豪族が治めていた「小国家群の範囲で在った」と考えられ、「古くは国と県を同列に扱っていた」とする説もある。

つまり、前身は日本列島への渡来部族が勝手に創った小国家群・倭の国々で、その大和朝廷(ヤマト王権)統合過程で県主(あがたのぬし)や国造(くにのみやつこ)を称した。

賀茂神社の上社(上賀茂神社)の祠官の流れは賀茂氏を名乗り、岡本氏・松下氏・林氏・座田氏・梅辻氏・鳥居氏・小路氏・森氏の諸家を分出した。

賀茂神社の下社(下賀茂神社)の祠官の流れは鴨氏を称し、泉亭氏・梨木氏・鴨脚氏・滋岡氏・下田氏・南大路氏の諸家を出している。

平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍・「方杖記」を著わした鴨長明(かものちょうめい)もこの鴨氏の氏人だ。

賀茂社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は「宮崎県の日向から大和の葛城山に降りた」とされている。

従って、伊豆半島を発祥とし大和葛城に本拠を移した葛城氏と大和の賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)が同族で在った方が説明が着き易い。


参考小論【葛城ミステリーと伊豆の国=伊都国(いとこく)説】を参照ください。
関連小論・【神武東遷物語・神話顛末記】を参照下さい。

第一巻・第二話】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2015-10-18 10:31 | Comments(1)  

徳川秀忠関ヶ原遅参・上田合戦

信州で生き延びた真田昌幸は、やがて豊臣秀吉が天下を取るとその臣下に入り、秀吉の命で徳川家康と和解する。

和解の後、徳川氏の与力大名とされた事から、嫡男・真田信幸(さなだのぶゆき)と家康養女・小松姫(実父は本多忠勝)との婚姻が行われた。

これらの過程で真田宗家は、名目上は徳川氏の与力大名だが実際は豊臣の家臣である真田昌幸と次男・信繁(上田城)と、名目上は昌幸領の一部だが実際は徳川の与力大名である真田信幸(沼田城)のニ家が夫々に主を頂く二家体制となる。

この二家体制が、後に真田氏を二分させて戦う事態となる。

五奉行の石田三成らが五大老の徳川家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、長男信幸(信之)は東軍に分かれる。

真田昌幸と次男・信繁(幸村)は信州・上田城にて二代将軍・徳川秀忠率いる約三万の軍勢を僅か数千で迎え撃ち秀忠軍の足止めに成功、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかった原因と言われた。


千六百年(慶長五年)の徳川秀忠関ヶ原合戦の遅参の因となった上田城の戦いを第二次上田戦とする。

上田は東信濃の小県郡にあり、この付近は上田城築城以前から武田氏上杉氏後北条氏の国境として不安定な地域であった。

そこを真田昌幸が武田氏の下で上野国吾妻郡・沼田を平定後、小県郡を平定し、上田城を築城した。

そこに石田三成http://jiyodan.exblog.jp/7956768/率いる豊臣方西軍と徳川家康率いる東軍で、東西を二分する関ヶ原の戦いが起きる。

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知り、東北上杉勢討伐に向かっていた軍を西に返した。

この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる三万八千人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。

そしてその進路に、真田父子が立て篭もる上田城があった。

小諸に到着した秀忠は、昌幸の嫡男・信之と本多忠政(信幸の正室・小松姫の弟)に命じて、昌幸に対して無難に開城を求める。

老練な昌幸はのらりくらりと返事を先延ばしにして、時間稼ぎに徹する。

数日の後、昌幸から届いた返答は「返答を延ばしていたのは篭城の準備の為でござった。

充分に仕度は出来たので、一合戦つかまつろう」と言うものだった。

あまりに大胆不敵な宣戦布告に、秀忠は怒って上田城攻略を決意したとされる。

この時本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政などは寡兵の真田氏を侮る事はせず、上田城を黙殺して西軍との主戦場(関ヶ原)に急ぐべきだと進言する。

だが、兵力差が圧倒的だった事、土井利勝を始めとする戦場に疎い将が多かった事、さらに前述の第一次上田合戦で真田軍に煮え湯を飲まされた事を恨む者が多かった事もあり、秀忠の決断を覆す事は出来なかった。

これこそまさに昌幸の思う壺だった。

昌幸の目的はあくまでも時間稼ぎで、この時点ですでに戦わずして秀忠隊を三日間足止めしており、さらにあからさまな挑発を加える事によって徳川方に揺さぶりをかけた。

仮に徳川勢が挑発に乗らず、上田城を素通りしたとしても、既に三日の足止めに成功し、役目は充分に果たしている。

逆に挑発に乗って攻め来れば、城に籠もって持久戦に徹し、さらに余分な時間が稼げるわけである。

家康隊との合流を急ぎたい秀忠隊の事情を考えれば長期戦が行えない事は明らかである。

兵力で圧倒されていようとも、城に籠もって数日間持ち堪えれば徳川勢は引き上げるだろう、と昌幸は踏んでいた。

短期決戦を行うしかない徳川勢の採れる戦術は自ずと限られ、その分読み易く御し易すい。しかも総大将の秀忠はこれが初陣であった。

徳川勢が挑発に乗らなければ良し、乗ればなお良しの二段構えで、狡猾な昌幸の策に陥った徳川勢は戦わずして苦しい状況に陥れられた。

秀忠軍は小諸から上田城の東にある染谷台に陣を移し、真田信繁(幸村)の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁(幸村)の兄である真田信之の軍勢を差し向ける。

徳川首脳陣には真田一族である真田信幸に疑念を覚える者が多く、あえて実弟と戦わせる事によって信之の心中を試すと同時に万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われている。

迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁(幸村)は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げる。

信之軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨(かちどき/ときの声)を上げる。

これは、信繁(幸村)が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信之に手柄を上げさせ、信之に対する秀忠の信用を高めようとした為と推測が出来る。

また、信之軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信之を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。

事実、信繁が戦わずして戸石城を信幸に明け渡した事により、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。

戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。

短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、九月八日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。

徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から飛び出して来た。

そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢はあっさりと敗れ、上田城へと逃走する。

それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、一気に上田城の大手門前まで迫った。

それらの流れは全て昌幸の作戦であった。

徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、突如として門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が一斉射撃を浴びせた。

さらに城内からも銃矢が降り注ぎ、徳川方の先鋒は大混乱に陥った。

功を焦った徳川勢は逃走する真田勢を遮二無二追撃していた為、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。

このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、勢いのままに前進してきた後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を散々に打ち破った。

さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。

前日の夜に密かに上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁(幸村)隊二百が秀忠本陣に奇襲をかけた。

信繁(幸村)隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、浮き足立った秀忠本陣になだれ込んだ。

秀忠自身は家臣に馬を与えられ、辛うじて小諸へと逃れた。

また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せる。

真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦はわずか一日で真田方の大勝に終わった。

名将・昌幸(まさゆき)と次男・信繁(のぶしげ/幸村)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、再び数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。

しかし戦いそのものは東軍・徳川方の勝利となり、戦後に昌幸と次男・信繁(幸村)は紀伊の九度山に蟄居となり、代わって嫡男・真田信之(信幸改め)が上田領を引き継いでいる。


大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・冬の陣(一)発端】に続く。

詳しくは、関連小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

戦国時代(せんごくじだい/室町末期)

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by mmcjiyodan | 2015-10-09 20:59 | Comments(0)  

真田昌幸(さなだまさゆき)・上田神川の合戦

戦国期になると、真田氏は甲斐国守護・武田家臣として武田晴信(武田信玄)に仕え、所領を安堵されて勢力基盤を築き、武田家中に於いて信濃先方衆の有力武将として重用される。

しかし、織田信長の軍勢と対峙した長篠の戦いで武田方軍勢として参戦した真田家当主・信綱と次男・昌輝が討死する。

すると、武藤喜兵衛と称していた三男・昌幸が真田姓に復して家督を相続し、武田氏が滅んだ後には真田昌幸(さなだまさゆき)は織田信長に恭順した。

つまり、真田信繁(幸村)の祖父にあたる幸隆や叔父達、父・昌幸も、上杉謙信や 武田信玄が一目置く武将だった。

その後、本能寺の変明智光秀に反逆された織田信長が横死する。

父・真田昌幸は本拠地として上田城の築城に着手しながら、混乱する信濃に在って主家を転々と変え真田家の勢力維持に奔走する。

名将・真田昌幸が最初に天下に名を轟かせたのは、徳川氏と後北条氏が甲信を巡って対陣したその後の和平に於いて代替の領地は徳川で用意する条件で真田領の北条氏へ明け渡しが決定された事に果敢抵抗した事である。

昌幸(まさゆき)は徳川軍兵七千の攻撃を受けるも僅か二千余りの城兵で上田城を守り切り、独立した大名として世に認識される。

真田家の得意技は篭城戦で、その戦法は元弘の乱(げんこうのらん)当時の名将・楠木正成(くすのきまさしげ)の千早城篭城戦と良く似ている。

つまり最小の軍勢で大軍を破るのに適して居るのが篭城戦であるが、攻め手が大軍で先を急いでいるほどその戦法は効果的である。

昌幸(まさゆき)は「敵をおびき寄せて叩く」作戦で、数に勝る徳川軍を相手に見事な勝利を収めたのである。


最初の徳川対真田の戦いは、徳川軍敗戦と成った【上田・神川の合戦】である。

千五百八十二年(天正十年)六月に京都で織田信長本能寺の変で横死し、織田家と友好関係だった北条家が、北条氏直率いる五万六千の兵で織田領上野に侵攻する。

織田政権の関東管領と目される滝川一益率いる二万を神流川の戦いで撃破し、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走する。

これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、北信濃の森長可(もりながよし)も旧領の美濃に撤退し、南信濃の毛利秀頼も尾張へと撤退する。

その為、織田領である信濃、甲斐、上野が一気に空白状態となり、越後の上杉景勝や相模の北条氏直、三河の徳川家康など近隣勢力が侵攻し、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起こる。


甲斐を制圧した徳川家康が南信濃へ、上杉氏は北信濃へ、そして北条氏は上野国から碓氷峠を越えて東信濃へと侵攻した。

このとき東信濃から西上野に勢力を保っていた真田昌幸は北条方に属していたが、徳川方の依田氏の工作により離反する。


千五百八十二年(天正十年)十月には徳川・北条の間で和睦が成立するが、その和睦条件として徳川傘下となっていた真田氏の上野沼田領と北条氏が制圧した信濃佐久郡を交換する事とした。

翌千五百八十三年(天正十一年)から昌幸は上田城の築城に着手しており、沼田領や吾妻領を巡り北条氏と争っていた。


千五百八十五年(天正十三年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではない事を理由にして拒否する。

さらに昌幸は、敵対関係にあった上杉氏と通じた。

同千五百八十五年(天正十三年)七月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知る。

家康は八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約七千の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣し、「上田神川の合戦」が勃発する。


徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地の信濃国分寺付近に兵を展開する。

これに対して真田方は約千二百人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。

また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟・矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。

千五百八十五年(天正十三年)閏八月二日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。

さらに後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。

この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は千三百人もの戦死者を出したと言われる。

一方、真田軍は四十人ほどの犠牲ですんだと伝えられる。

翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後二十日日間程対陣を続ける。

この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政/一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高、松平康重の五千)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は二十八日に上田より撤退した。

その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、十一月には譜代の重臣・石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退する事になる。


徳川秀忠関ヶ原遅参・上田合戦】に続く。

詳しくは、関連小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

戦国時代(せんごくじだい/室町末期)

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by mmcjiyodan | 2015-10-09 20:54 | Comments(0)  

ブータン王国

幸せの国・ブータン王国の話を取り上げる。

西暦二千十年を過ぎた現代、ブータン王国の提唱する幸福量(こくみんそうこうふくりょう・GNH/または国民総幸福感・こくみんそうこうふくかん)が世界の関心を集めている。

ブータン王国を最新文明機器の普及率や物質的に他国と比較すれば、評価は後進国かも知れない。

そのけして豊かとは言えない素朴な農業国(国内総生産 /GDP・が日本の二十分の一)でありながら国民の九十五パーセントが「幸せ」と感じている。

つまり現代の文明社会から一歩遅れた社会に在りながら、国民の「幸福量」は先進国と言われる物質文明社会よりも高水準だと言うのである。


ブータン王国は一妻多夫の国で夫が何人も居るから、それぞれの夫の子が一家に居ても珍しくない。

そしてブータン王国では、第二夫は第一夫の弟である事も珍しくはなく、つまり兄弟で一人の妻を共有している事に成る。

つまりブータン王国は、性に関して独自のモラルを持ち、キリスト文明の価値観とは一線を隔して人生を愉しんでいる。

量る尺度が変われば「貧しくても幸せ」と感じる。

いずれにしても、穏やかで陽気で日々をポジティブに生きているブータン国民ならではの幸せなので、資本主義の物欲文明社会のクヨクヨ場面とは無縁なのだろう。

このブータン王国々民の性に関する独自モラルが、文明開化以前の日本に溢れていた日本国民の「性に関するおおらかさ」が屈託無い笑顔がこぼれる日本人の暮らし方だった。

それにしても、「日本の性に関するおおらかさ」は、戦後復興の掛け声とともに失われて行った。

日本の山間部の過疎化が限界集落まで進んだのは、集団就職で若者が多数都会に出、寝宿制度夜這いの風習が無くなり、若者が田舎に定着する魅力が壊滅したからである。

詳しくは、関連小論・【幸せの国・ブータン王国・・・日本人は幸せですか?】を参照下さい。

第五巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2015-09-05 10:37 | Comments(0)  

ポツダム宣言

千九百四十五年(昭和二十年)七月二十六日に発された、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた全十三ヵ条から成る宣言が、ポツダム宣言(ポツダムせんげん)である。

ポツダム宣言(ポツダムせんげん)の、正式名称は「日本への降伏要求の最終宣言」と言う。

ナチス・ドイツ降伏後の千九百四十五年(昭和二十年)七月十七日から八月二日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の三ヵ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた。

三ヵ国の首脳は、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリンだった。

ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石(しょうかいせき)国民政府主席の共同声明として発表されたものである。

このポツダム宣言は、宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。

英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかった為、トルーマンが自身を含めた三人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得た)。

宣言を発した各国の名をとって、「米英中三国共同宣言」とも言う。

ソビエト連邦は後から加わり追認した。

他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本はこのポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結した。


千九百四十五年(昭和二十年)八月十四日、日本政府はポツダム宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告する。

翌八月十五日に、「玉音放送」をもって国民に発表された。

正式な降伏調印は九月二日で、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で行われた。

日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。

これにより、宣言は始めて外交文書として固定された。

詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2015-09-05 10:31 | Comments(0)