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琉球王国(りゅうきゅうおうこく)

「琉球・沖縄古代史」としては、大分県に伝わる古文書・「上記(ウエツフミ)」には、弥生時代に本土から渡った日本人が沖縄を開拓し、「フタナギの国」と名付けたと言う記述がある。

この日本人は「葦原神(あしはらがみ)」と呼ばれ、南風原(はえはら)の鶴野(つるの)に祀られたと書かれている。

その後、漢の時代になって中国が「琉球」という名前に変えたとあるも、真偽のほどは証明されていない。

十三世紀までは台湾・先島諸島・沖縄・奄美のいずれの地域も群れ部落的な小勢力の割拠状態が続き、中国大陸や日本列島の中央政権からは認識が薄い状態であった。


十三世紀までは台湾・先島諸島・沖縄・奄美のいずれの地域も群れ部落的な小勢力の割拠状態が続き、中国大陸や日本列島の中央政権からは認識が薄い状態であった。

当時、中華帝国(ツォンファティゴウ)側は、朝鮮半島も日本列島も琉球国や台湾島も「倭の国々(倭人の国)」と呼んでいた。

しかし「倭の国々(倭人)」と言う呼称は、中華文明から遠く離れた「辺境の地の国々」の総称だった。

その意味では、当時の日本はけして、「倭国」では無く「大和の国」を自称していた。

だから琉球國(ルーチュークク)は、自らを「沖縄人」を指すウチナンチューと呼び、当時から日本や日本人の事を大和国(ヤマトンクク)・大和人(ヤマトンチュー)と呼んでいた。


十四世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢した事で認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。

千三百三十六年には、大陸の明帝国・福建出身の客家(ハッカ)族から琉球へ渡来した職能集団・久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)が琉球に渡っている。


琉球國(ルーチュークク)の正史・「中山世鑑」や「おもろさうし」などでは、千百五十六年、保元の乱崇徳上皇方に属し奮戦して敗れた源為朝(みなもとのためとも/鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖・舜天(しゅんてん)になったとされる。

舜天(しゅんてん)は、舜天王統の開祖とされる琉球国王とされている。

沖縄本島には天帝の遣いとして下界に下った神・アマミキヨの子に始まる天孫氏と呼ばれる王統が二十五代続いた。

この後、臣下によって天孫氏が滅ぼされ、国が乱れていたときに善政を敷き、天下を統一したのが浦添の按司(あじ)であった舜天(しゅんてん)とされている。

按司(あじ)の称号は、琉球王国の称号および位階の一つで国王家の分家にあたり、古くは地方の支配の王号の代わりだった。

舜天(しゅんてん)伝承の真偽は不明だが、正史として扱われており、この話が後に江戸時代後期の読本作者・曲亭(滝沢)馬琴(きょくてい ばきん)の「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」を産んだ。

この曲亭(滝沢)馬琴(きょくていばきん)のもう一つの代表作が、房総地方を領する戦国 大名・安房里見氏を題材とした「南総里見八犬伝」である。

なお、千八百七年(文化四年)から千八百十一年(文化八年)にかけて、全五篇・二十九冊シリーズで発行された「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」の挿絵は、葛飾北斎(かつしかほくさい)の画作である。


琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、千四百二十九年から千八百七十九年の四百五十年間、沖縄本島を中心に存在した尚氏(しょうし)王統の王国である。

千四百二十九年に、南山の佐敷按司(さしきあじ)を出自とする第一尚氏王統の尚巴志(しょうはし)王の三山統一によって琉球王国が成立したと見なされている。


三山統一によって成立した第一尚氏王統は、大和(日本本土)や中国・朝鮮半島はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。

しかし、統一後も依然として地方の諸按司(しょあじ)の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施する事はなかった。

その為、王位継承権争いなどといった内乱が絶えず、さらに喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては六十三年間で瓦解した。


千四百六十二年、尚泰久王(第六代)の重臣であった金丸(尚円王)が、尚泰久王(第六代)世子・尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。

第二尚氏王統初代国王・尚円(しょうえん)は、元々の名を金丸(かなまる)と言い、伊是名島の百姓の出自である。


尚円(しょうえん)の王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もある。

その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司(しょあじ)を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功する。

彼の治世において、対外的には千五百年には石垣島にてオヤケアカハチの乱を平定し、さらに千五百二十二年には与那国島を制圧して、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。

第二尚氏王統は、千五百七十一年には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築いた。

琉球王は、明国に対しては朝貢国として、形式上その臣下となる事を強いられた。

だが、一方で国内では時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せたとされる。


当時の琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。

琉球國(ルーチュークク)は、最盛期には奄美群島と沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。

この統治範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。

王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。

琉球國(ルーチュークク)は小さな離島の集合が勢力圏で、総人口十七万に満たない小さな王国ではあった。

だが、隣接する大国明・清の海禁や日本の鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。

その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家・マラッカ王国との深い結び付きが知られる。


琉球國(ルーチュークク)は、外交的に貿易上の理由から、明国及びその領土を継承した清国の冊封を受けたりしていたが、千六百九年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入る。

ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。

薩摩藩の琉球侵攻(さつまはんのりゅうきゅうしんこう)】へ飛ぶ。

千八百六十七年(慶応三年)、日本列島では薩長土肥四藩を主体とする軍事クーデターが起きて大政奉還、王政復古と進み、江戸・徳川幕府を倒し明治維新が成立する。

千八百七十一年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、千八百七十二年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。

琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)】へ飛ぶ。

琉球國(ルーチュークク)の沖縄県としての日本統合は清帝国からの異論が提示されたが、その後勃発した日清戦争後の戦後処理で琉球(沖縄)の日本帰属が確定した。

日清戦争・琉球処分と分島改約案】へ飛ぶ。


詳しくは・小論【琉球(沖縄)史概略】を参照下さい。


第六巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-03-31 16:30 | Comments(0)  

川中島合戦(かわなかじまかっせん)

川中島合戦(かわなかじまかっせん)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いを指して言う。


信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地が川中島である。

川中島の地は、信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。

当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。

鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。

また、古来川中島は交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。

武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地だった。


この武田信玄(武田晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との合戦(かっせん)で最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われた。

その事から、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島合戦(かわなかじまかっせん)と呼ばれる。

戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とし、その戦いの度に武田氏の支配地は着実に北上している。

主な戦闘は、千五百五十三年(天文二十二年)の第一次合戦から千五百六十四年(永禄七年)の第五次合戦まで計五回、十二年余りに及ぶ。

だが、実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、千五百五十五年(天文二十四年)の第二次犀川の戦いと千五百六十一年(永禄四年)の第四次みである。

一般に「川中島合戦(かわなかじまかっせん)」と言った場合、最大の激戦であった千五百六十一年(永禄四年)の第四次合戦(旧暦九月九日/西暦十月十七日)から三日間を指す事が多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある。

また、五回に及ぶ出陣の中には出兵対峙のみで双方が交戦を避けた場合も在り、本格的な合戦は二回だったとも言われている。

いずれにしても、川中島合戦(かわなかじまかっせん)は雪解けと種まきの間の空き期間や収穫後の積雪前の時期を主に行われ、農作業の時期が来ると互いに兵を帰している事実がある。


第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-02-24 13:35 | Comments(0)  

井伊直虎(いいなおとら)

井伊直虎(いいなおとら)は、戦国時代(せんごくじだい/室町末期)の女性領主にして女性武将である。

遠江国井伊谷(いいのや/静岡県浜松市北区(旧・引佐郡)引佐町)の国人・井伊氏の当主を務め、井伊谷(いいのや)徳政令など内政手腕に優れ「女地頭」と呼ばれた。

直虎(なおとら)は、父・直盛の従兄弟・井伊直親と婚約したが、運命に翻弄されて生涯を未婚で通した。

直虎(なおとら)は、後に井伊家の中興を果たす井伊直政の「はとこ」であり、養母として直政を育てている。


直虎(なおとら)は、遠江国・井伊谷城主(国人)の井伊直盛を父に、母は新野親矩(今川氏一族/舟ケ谷城主)の妹(祐椿尼/ゆうしゅんに)の娘として誕生する。

直虎(なおとら)は、父・直盛に男子がいなかった為、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。

ところが、千五百四十四年(天文十三年)に今川氏与力の小野道高(政直)の讒言(ざんげん)により、井伊直親の父・直満がその弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられる。

井伊直満は今川義元に自害させられ、婿養子に迎える予定の直親も井伊家の領地から脱出、信濃に逃亡する。

この逃亡、井伊家では直親の命を守るため所在も生死も秘密となっていた。

許嫁(いいなずけ)であった直虎は失意のまま出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)という出家名を名乗った。

直親は、後の千五百五十五年(弘治元年)に今川氏に復帰するが、信濃にいる間に奥山親朝の娘を正室に迎えていた為、直虎は婚期を逸する事になったとされる。

その後、井伊氏には不運が続き、千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死し、その跡を継いだ直親は千五百六十二年(永禄五年)に小野道好(井伊家家老/道高の子)の讒言によって今川氏真に殺された。

直虎(なおとら)ら一族に累が及びかけたところを母・祐椿尼(ゆうしゅんに)の兄で伯父にあたる新野親矩(今川氏一族/舟ケ谷城主)の擁護により救われた。

千五百六十三年(永禄六年)、直虎(なおとら)・曽祖父の井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死する。

千五百六十三年(永禄七年)には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩や重臣の中野直由らが討死し、井伊氏家中を支えていた者たちも失った。

そのため、龍潭寺の住職であった叔父の南渓瑞聞により、幼年であった直親の子・虎松(後の井伊直政)は鳳来寺に移された。

こうした経緯を経て、千五百六十五年(永禄八年)、出家し次郎法師を名乗っていた直虎(なおとら)は、この時名を直虎(なおとら)に変えて井伊氏の当主となった。

井伊直虎(いいなおとら)は女性であるから、現実には女武将と言っても一族の象徴的な当主で在って、兵を引き連れて戦闘に加わった訳では無い。

例え戦に出たとしても、あくまでも周囲に守られて兵の指揮を執った程度の事であるが、それでも武門の棟梁であるから武将である。

もっとも男性の武将でも、やむ負えない場面に遭遇しなければ、豊臣秀吉のように生涯自らは武器を取らなかった武将の方が圧倒的に多かった。

不思議な事に、井伊家の方針に悉(ことごと)く反対していた井伊家家老・小野道好は、何故か次郎法師(直虎)の当主就任には異論を唱えなかった。

家老・小野道好にしてみれば、女当主ならば他の選択肢よりも扱いが容易と判断したのかも知れない。

それだけに、家老・小野道好の専横は続き、千五百六十八年(永禄十一年)には居城・井伊谷城を奪われてしまう。

しかし小野の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に三河国の徳川家康が加担し、家康の力により実権を回復する。

千五百七十年(元亀元年)には、井伊直虎(いいなおとら)は家康に嘆願し、小野道好の直親への讒言を咎め道好を処刑する。

道好の処刑により、井伊家は安定するかに思えた。

しかし、千五百七十二年(元亀三年)秋、信濃から武田氏が侵攻し、居城・井伊谷(いいのや)城は武田家臣・山県昌景に明け渡す。

井平城の井伊直成も仏坂の戦いで敗死すると、直虎(なおとら)は徳川氏の浜松城に逃れた。

その後、武田氏と対した徳川・織田連合軍は三方ヶ原の戦いや野田城の戦いまで敗戦を重ねた。

しかし武田勢は、当主・武田信玄が病に倒れたため、千五百七十三年(元亀四年)四月にようやく撤退し、直虎(なおとら)は三度も井伊谷(いいのや)城を奪還した。

その間、直虎は許嫁(いいなずけ)の直親の遺児・虎松(直政)を養子として育て、千五百七十五年(天正三年)、三百石で徳川氏に出仕させる。

つまり井伊直虎は、昔添えなかった許嫁(いいなずけ)の忘れ形見・虎松(直政)を引き取って後継ぎとして扶養して井伊家の当主に据えた。

虎松(直政/なおまさ)は家康に気に入られ、虎松(直政/なおまさ)を万千代と改めて名乗らせ、小姓(稚児小姓)として手元に置き寵愛するようになる。

六月に明智光秀織田信長を討ち取った「本能寺の変」が起こった千五百八十二年(天正十年)八月二十六日、直虎(なおとら)は死去する。

井伊氏の家督は、直政が継いだ。

井伊直政に続く。

直虎(なおとら)男性説など、直虎関連の詳しくは、関連小論【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2016-02-08 20:21 | Comments(0)  

井伊氏(いいうじ)

井伊氏は藤原北家流・藤原利世の後裔を称すも、継体天皇の後裔・三国姓ともされ、いずれが正しいかは明確ではない。

藤原後裔説の藤原北家の藤原良門(ふじわらのよしかど)は、左大臣・藤原冬嗣の六男で、藤原利世は良門(よしかど)の息子と伝えられている。

継体天皇後裔説の三国姓は、継体天皇の子・椀子皇子の後裔にして 、天武天皇十三年(六百三十四年)に三国真人(みくにのまひと)姓を賜姓(たまわりな)する。

為に 旧説で藤原氏良門流と称する二家の大名・井伊家 は三国真人(みくにのまひと)の末裔とされる系譜が有力とされている。

井伊氏は、中世に約五百年間、遠江国井伊谷(いいのや)の庄を本貫として治めた国人領主とされる。

であれば、井伊氏は平氏源氏と同等の後胤貴族の末裔に名を連ねる荘園領主が、平安期鎌倉期室町期を生き抜いて江戸期に至った事になる。


南朝・後醍醐帝と北朝を旗印とした足利尊氏が覇権を争った南北朝時代、井伊谷(いいのや)の豪族であった井伊道政は遠江介であるゆえに井伊介とも称した。

道政は比叡山延暦寺座主である宗良親王(むねながしんのう)の元に参じて南朝方として挙兵、遠江国の居城・井伊城に招いて保護した。

また宗良親王(むねながしんのう)の子・尹良親王(ゆきよししんのう)も井伊城に生まれている。

しかし、北朝方の高師泰(こうもろやす)・仁木義長らに攻められて井伊城は落城する。

井伊氏は、北朝方・駿河守護・今川氏と対立していたが、やがて今川氏が駿河に加え遠江の守護職を得るとその支配下に置かれる。

しかし、戦国期を通して、守護である今川氏とは微妙な関係在った。

今川義元が尾張国の織田信長に敗れた桶狭間の戦いの際に、井伊直盛は今川氏に従い討ち死にしたが、戦後まもなく謀反を企てたとして井伊直親は今川氏真に討たれている。

この、一族を多く失った「遠州錯乱」時期に、直盛の娘の井伊直虎が家督を継いだ。

しかし井伊氏の勢力は大きく衰退し、井伊谷(いいのや)の城と所領は家臣の横領や武田信玄の侵攻により数度失われている。


千五百七十五年(天正三年)、直親の遺児の井伊直政(後に徳川四天王の一人となる)は今川氏を滅ぼした徳川家康を頼り、稚児小姓として寵愛を得る。

多くの武功をたて、千五百九十年(天正十八年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪十二万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に十八万石を与えられる。

直政の死後、直政の子の井伊直勝は千六百四年(慶長九年)に近江国彦根に築城したが、千六百十五年(元和元年)幕命により弟の掃部頭(かもんがしら/官名)・井伊直孝に彦根藩主の座を譲った。

井伊氏は、直孝の代には三十万石の譜代大名となる。

なお直勝は亡父の官名・兵部少輔を世襲、三万石として安中藩藩主となった。


この井伊直正の子孫に、江戸幕府幕末の悲劇の大老・井伊直弼(いいなおすけ/近江彦根藩の第十三代藩主)が居て、徹底した反幕府思想勢力の弾圧を行い尊王志士達から憎まれ、ご存知「桜田門外の変」で尊王志士のテロに合い、命を落としている。

江戸時代には、譜代大々名の筆頭として江戸幕府を支えた近江国・彦根藩の藩祖と成り井伊家は明治維新まで存続している。

詳しくは、関連小論【井伊氏と女性戦国武将・井伊直虎(いいなおとら)】を参照下さい。

名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。

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by mmcjiyodan | 2016-02-08 20:04 | Comments(0)  

真田丸(さなだまる)

真田丸(さなだまる)は、千六百十四年(慶長十九年)大坂の陣(冬の陣)に於いて、豊臣方武将・真田信繁(幸村)が、籠城戦に弱点と読んだ大坂城平野口の南に構築した曲輪(出丸)である。


織田家相続会議である清洲会議(きようすかいぎ)賤ヶ岳の合戦(しずがたけのかっせん)小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦いを経て、豊臣秀吉織田信長の勢力を引き継ぐ事に成る。

その後秀吉は、紀州征伐(根来衆・雑賀衆征伐)四国攻めそして九州征伐小田原平定の統一戦に勝利して天下を手中にする。

天下を手中にした豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られた堅城であった。

しかし、地続きとなる南方だけは空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

この南惣構堀である空堀の東部に設けられた虎口が、真田信繁(幸村)が防御を危惧した平野口である。


千六百十四年(慶長十九年)、豊臣秀頼を盟主に据えた豊臣方と徳川家康率いる徳川方が一触即発状態となり、豊臣方(大坂方)は諸国から浪人衆を集める。

以前の上田合戦(第二次)の処分で徳川方に依って幽閉中の真田信繁(幸村)は、高野山から脱出して大坂城に入城する。

大坂城に入城した真田信繁(幸村)は、積極的な出撃を主張するが、豊臣方(大坂方)は篭城策を採る。

致し方なく籠城に応じた真田信繁(幸村)は、大阪城の弱点と見て平野口に南からの攻勢を想定して独立した出城を築き、自らが守備につく事により徳川方の攻撃を食い止めようとした。

千六百十五年十二月四日(新暦一月三日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。

ここで真田信繁(幸村)は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破る事に成功する。


戦功を上げた真田信繁(幸村)の真田丸だが、冬の陣の終了後、和議の条件により破壊された。

夏の陣の終了後に造成された小橋寺町を境に、その西側が真田山、東側が宰相山と呼ばれるようになった。

詳しくは、参考小論・【天下の知将・真田信繁(幸村)と真田丸】を参照下さい。

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真田昌幸(まさゆき)と真田信繁(のぶしげ/真田幸村・さなだゆきむら)
真田昌幸(さなだまさゆき)・上田神川の合戦
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大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(一)開戦経緯
大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(二)大阪野外戦
大坂の役(おおざかのえき、大阪の陣)・夏の陣(三)大阪城落城

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by mmcjiyodan | 2016-01-13 22:14 | Comments(0)  

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう/ABCD encirclement)とは、事実上の対日経済制裁の日本側からの別称である。

千九百三十三年(昭和八)三月、日本はリットン報告書の採択に反対して、国際連盟(こくさいれんめい)を脱退する。

千九百三十年代後半、日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)を契機として、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の各国が経済制裁及び経済封鎖と言う強制外交手段を始める。

この四ヵ国の強制外交手段で危機に立たされた日本側は、ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)と呼んで反発する。

日本に対して行ったこの貿易制限の総体に、当時の日本の新聞が付けた名称がABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)であるが、正確な初出については良く分かっていない。

ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインとも呼ばれるこの対日政策が経済制裁か経済封鎖かについては研究者間でも一定していない。


よく、日本軍が先の大戦で太平洋や東南アジアに進行した事実を、「他国が仕掛けた事」として正当化しようと試みる連中がいる。

ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)で、日本が一方的に経済的窮地に立たされたから「やむおえなく開戦した」と、都合が良い解釈を主張するノー天気な歴史観を持つ者だ。

その彼らが、現代のロシアや中国の強引な領土拡大主義には「とんでもない悪行」と批判的で、日本政府は欧米の対抗処置に理解を示している。

だが、戦前引き起こした「満州事変」こそ当時の日本の領土拡大主義で、それを強制手段「ABCD包囲網」で抑制しようとした結果の、破れかぶれの対米開戦が真珠湾攻撃である。

つまり戦前日本の領土拡大主義と、現代のロシアや中国の領土拡大主義と「どこが違う」と言うのか?

簡単に言ってしまえば、日本の中国侵略行為に歯止めを掛けようと欧米が介入して包囲網を引かれたのに、「理不尽に包囲された」と言う一方的な言い分で国民を扇動し対米開戦をした。

欧米列強のアジア侵略意志も在る中での日本の中国侵攻で、「欧米諸国の策略にハメられた」とかの説を述べる輩もいる。

勿論、深く国際情勢を掘り下げれば、日本だけが悪い訳では無いかも知れない。

だが、侵攻先の相手国(中国)の了解を得ずして「大東亜共栄圏を形成する目的だった」と言っても言い訳で、説得も説明も着かない。

外国脅威論を国防論議に広げ、イキがって「威勢が良い軍事的な主張」を無責任に吐くのは簡単である。

しかし「その威勢が良い言動に責任が持てるか?」と言うと、その問いかけに応える方は殆ど無く、言わば自己陶酔的にイキがっているだけである。

敢(あ)えて言えば、稚拙に間違ったナショナリズム(民族主義)に陶酔して、民族同胞を危機に導くのが、このイキがりの落ちである。

理性(左脳域/計算)と感性(右脳域/感情)の考え方からすると、下関戦争(馬関戦争/ばかんせんそう)は、正に勝算を度外視した「尊皇攘夷論と言う右脳域の観念」のみで開戦してしまった長州勤皇派の愚行だった。

つまりイキがっているだけの感情で、勝算無き軍事行動を「やっちゃえ」と言う無責任な主張なのだ。

反戦を信念とする事は「人命の尊重」であり、先の大戦でユダヤ人の人命を救った外交官・杉原千畝(すぎはらちうね)の「まともな人間性」である。

この、世界から称賛される「杉原千畝(すぎはらちうね)の、まともな人間性」が無い方こそ、イキがったナショナリズム(民族主義)に陥(おちいれ)りかねない。

何故(なぜ)ならば、「自分達のナショナリズム(民族主義)に合わない人種は排斥(はいせき)されるべき」と主張するからである。

この論から言えば、「金儲けの為に武器を輸出する」発想など、「まともな人間性」の持ち主だとは思えない。

しかし安倍晋三氏の政権は、これとは正反対の「金儲けの為に、殺人の道具である武器を輸出する事」を合法化した。


ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)の誘発は、日本の国際連盟脱退が契機であり、脱退の引き金になったのは、日本軍の中国侵攻に対するリットン報告書が中国側の言い分を支持した事からである。

間違ったナショナリズム(民族主義)は、間違った歴史認識を創りだし、国際紛争の種に成る。

それは、歴史的日本領(歯舞諸島、 色丹島、択捉島、国後島の北方四島や尖閣諸島に竹島)を「自国領」と主張する近隣諸国の間違ったナショナリズム(民族主義)も同様である。

詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2015-12-10 23:31 | Comments(0)  

国家総動員法(こっかそうどういんほう)

国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、日中戦争の拡大が発展し第二次世界大戦中に行われた軍事国家としての要(かなめ)となる網羅的動員統制法である。

千九百三十八年 (昭和十三年)に制定された国家総動員法(こっかそうどういんほう)は戦時法規で、四月一日公布、五月五日施行となる。


第二次世界大戦期の日本の総力戦体制の根幹となった戦時法規で、千九百三十八年(昭和十三年)に第一次近衛文麿内閣の下(もと)で制定された。

この法律は、戦時に際し「国防目的達成」の為にあらゆる「人的」及び「物的資源」を「統制運用スル」大幅な権限を政府に与えたもので、一種の白紙委任状にも等しい授権法である。

その各条は、戦争遂行(せんそうすいこう)のため労務・資金・物資・物価・企業・動力・運輸・貿易・言論など国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えた授権法である。

日中戦争中に、同法に基づく勅令として、国民徴用令、国民職業能力申告令、価格等統制令、生活必需物資統制令、新聞紙等掲載制限令その他の統制法規がつくられる。

千九百四十一年(昭和十六年)三月、日中戦争が拡大すると国家総動員法(こっかそうどういんほう)は大幅な改正が行われて罰則なども強化された。

戦時国家総動員は、すなわち「戦時(戦争に準ずる事変を含む)に際し国防目的達成の為国の全力を最も有効に発揮せしむる様人的及物的資源を統制運用する」とされる広範な権限を政府に与えた。

千九百四十一年(昭和十六年)十二月、太平洋戦争に突入すると、その戦時法規の適用は拡大され、誰も異を唱えられない効力で国民生活を全面的に拘束した。

つまり、「戦争遂行(せんそうすいこう)の為が全てに優先する国家体制」が、この国家総動員法(こっかそうどういんほう)の大幅な改正に依って成立して非常に悲惨な戦争への道程を、国民は歩んでいた。

詳しくは、関連小論【太平洋戦争の遠因(張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2015-12-09 19:13 | Comments(0)  

国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)

国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)とは、千九百三十三年(昭和八)三月二十七日、リットン報告書の採択に反対して、日本が正式に国際連盟脱退を通告した事を言う。

国際連盟創立以来の原加盟国、常任理事国として重きを占めてきた日本は、満州事変を契機にその地位が一転し、事件が中国によって連盟に提訴された。


当時の日本とっては「ソ連の南下脅威論」が主流であり、ソ連の南下を封じるには日本の防衛線を朝鮮半島から満州まで拡大するする事が急務と論じられていた。

つまり「ソ連の南下脅威論」を正当な理由に、軍事力を背景にして無理やり満州国の成立を図った。

しかし国際間常識では、満州国は日本の侵略行為にしか見えず、「ソ連の南下脅威論」は正当な理由にはならなかった。

結果、列国から、満州事変に関する日本の行動を問責非難される立場に立たされる。

きっかけとなったリットン調査団報告は、満州(当時)での日本の権益にも一定の理解を示したが、満州国を不承認とした事に日本は反発する。


千九百三十一年(昭和六)の満州事変に際し、国際連盟はリットン調査団を現地に派遣、その報告書は翌三十二年十月公表された。

内容は日本に対し妥協的なものであったが、日本の軍事行動を正当と認めず、また満州国が傀儡(かいらい)国家である事を事実上認めるものであった。

そのため日本側の強い反発を招き、国内でも陸軍や右翼を中心に連盟脱退論が興(おこ)り、財界の一部もこれに同調した。


同千九百三十二年十二月の連盟総会では日中両国の意見が激しく対立し、両国を除く十九人委員会に問題が付託された。

同委員会の報告書は、リットン報告書の採択と満州国不承認を盛り込んだものであり、千九百三十三年(昭和八)二月二十四日の連盟総会は四十四ヵ国中四十二ヵ国の賛成(日本反対、シャム棄権)でそれを採択した。

日本全権・松岡洋右(まつおかようすけ)はこれに抗議して直後に議場を退場、翌月、連盟脱退を通告する。

連盟脱退により日本は、孤立の道を歩む事になった。


この連盟脱退を解説するなら、当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。

この事が、千九百三十三年(昭和八年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となった。

千九百三十三年三月二十七日、国際連盟総会に於いてリットン調査書による報告に基づいて満州国に対する決議が行なわれる。

日本が設立した実質上の傀儡国であった満州国を、国際連盟は「満州国は地元住民の自発的な独立ではない」と結論づけた総会決議を行った。

その結果、総会決議は賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(タイ=シャム)となり、二月二十四日、国際連盟は満州国を否認した。

この時の全権代表・松岡洋右(後の外相)は、「日本は、国際連盟総会の勧告を断じて受け入れる事は出来ない」と演説し、そのまま退席する。

千九百三十三年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退を宣言し、以後孤立の道を深めて行く事になる。

千九百三十年代後半、日本の国際連盟脱退(こくさいれんめいだったい)を契機として、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の各国が経済制裁及び経済封鎖と言う強制外交手段を始める。

この四ヵ国の強制外交手段で危機に立たされた日本側は、ABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)と呼んで反発する。

しかしその後、ドイツやイタリア、タイ(シャム)王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどのその後の第二次世界大戦に於ける枢軸寄り中立国も満州国を承認する。

そして、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦も領土不可侵を約束して公館を設置するに至り、当時の独立国の三分の一以上と国交を結んで安定した状態に置かれた。

またアメリカやイギリスなど国交を結んでいなかった国も大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易を行っていた。

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by mmcjiyodan | 2015-12-09 19:10 | Comments(0)  

ヤルタ会談(ヤルタ密約)

第二次世界大戦と大東亜戦争の勝敗が明らかになりつつあった千九百四十五年(昭和二十年)二月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンがソ連領クリミア半島のヤルタで協議を行った。

ここでルーズベルトはスターリンに、ドイツ降伏の三ヵ月後に日ソ中立条約を侵犯して対日参戦するよう要請する。

ルーズベルトはその対日参戦の見返りとして、日本の領土である千島列島、南樺太、そして満州に日本が有する諸々の権益をソ連に与えるという密約を交わす。

その中には、日露戦争後のポーツマス条約により日本が得た旅順港や南満洲鉄道といった日本の権益も含まれていた。

日本には認めないとあれほど言い張ってきたアメリカが、満洲の権益を共産主義のソ連には認めた訳である。

アメリカの提唱してきた「門戸開放」なるものは、これで単なるまやかしにすぎなかった事が露呈される。

ルーズベルトは、日本に対するアメリカの勝利をさらに確実にするためにはいかなる事をしてでもソ連に参戦してもらいたかったのである。

ソ連はこの密約を根拠に、千九百四十五年(昭和二十年)八月の終戦間際に、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、千島列島、樺太に侵攻を開始する。

これが、ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)の開戦経緯である。

そしてこのヤルタ密約こそが、その後の日本とソ連(ロシア)の間の「北方領土問題」の原因となっている。

このヤルタ会談の結果、第二次世界大戦後の処理について、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の四ヵ国はヤルタ協定を結ぶ。

ドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。

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by mmcjiyodan | 2015-12-01 16:15 | Comments(0)  

ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)

ソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、太平洋戦争末期にソビエト連邦軍が日ソ中立条約(千九百四十一年/昭和十六年締結)を一方的に破棄して満州に攻め込んで来た一連の奇襲攻撃の作戦・戦闘を指す。

このソ連対日違約参戦(それんたいにちいやくさんせん)は、千九百四十五年八月九日未明に開始された。

日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、日本の第五方面軍とソ連の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島に於ける一連の作戦・戦闘である。

日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。


ロシア革命後のソ連は、世界を共産主義化する事を至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。

極東に於いては、朝鮮半島から満州地方に勢力を延ばしつつ在った日本との日ソの軍拡競争は千九百三十三年(昭和八年)からすでに始まっていた。

当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のために、本国と現地が連携し、関東軍がその中核となって軍事力の育成を非常に積極的に推進した。

しかし千九百三十六年(昭和十一年)頃には、日ソ間に戦備に決定的な開きが現れていた。

師団数、装備の性能、陣地・飛行場・掩蔽施設の規模内容、兵站に渡って極東ソ連軍の戦力は関東軍のそれを「大きく凌いでいた」と言われる。

張鼓峰事件やノモンハン事件に於いて日ソ両軍は戦闘を行い、関東軍はその作戦上の戦力差などを認識した。

しかしながら、陸軍省の関心は南進論が力を得る中、東南アジアへと急速に移っており、軍備の重点も太平洋戦争(大東亜戦争)勃発で南方へと移行し、対ソへの備えに手が回らない事となる。

千九百四十三年後半以降の南方に於ける戦局の悪化は、関東軍戦力の南方戦線への抽出をもたらせ弱体化が進んだ。

満洲に於ける日本の軍事力が急速に低下する一方で、これに先立ちドイツ軍は敗退を続け、終(つい)に千九百四十五年五月に敗北した。

この日ソ中立条約、元々国家間に誠意が在っての条約ではない。

ただ単に、米英中と言った相手と戦争する日本に、「背後からソ連に攻められない為」とドイツと戦うソ連が、「背後から日本に攻められない為」と言う互いの利が一致したからである。

つまりどちらの国も、前面の敵が無く成れば条約を破棄して開戦に到る可能性は充分に在った。

ドイツ軍が敗北した事でソ連側に余力が生じ、ソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。


クルスクの戦いで対ドイツ戦で優勢に転じたソ連に対し、同じ頃対日戦で南洋諸島を中心に攻勢を強めていたアメリカは、戦争の早期終結のためにソ連への対日参戦を画策していた。

千九百四十三年十月、連合国のソ連、イギリス、アメリカはモスクワで外相会談を持ち、コーデル・ハル国務長官からモロトフ外相にルーズベルトの意向として、千島列島と樺太をソ連領として容認することを条件に参戦を要請した。

この時ソ連は「ドイツを破ったのちに参戦する方針」と回答する。

千九百四十五年二月のヤルタ会談(ヤルタ密約)では対日参戦要請を具体化し、ドイツ降伏後三ヶ月での対日参戦を約束する。

ソ連は千九百四十五年四月には、千九百四十一年に締結された五年間の有効期間をもつ日ソ中立条約の延長を求めない事を、日本政府に通告する。

ドイツ降伏後のソ連は、シベリア鉄道をフル稼働させて、満州国境に、巨大な軍事力の集積を行った。

日本政府はソ連との日ソ中立条約を頼みにソ連を仲介した連合国との外交交渉に働きかけを強めて、絶対無条件降伏ではなく国体保護や国土保衛を条件とした有条件降伏に何とか持ち込もうとする。

しかし日本政府では、ソ連が中立条約の不延長を宣言した事やソ連軍の動向などから、ドイツの降伏一ヵ月後に戦争指導会議に於いて総合的な国際情勢について議論がなされる。

ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(千九百四十五年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。


この頃の関東軍首脳部は、日本政府よりもソ連参戦事態の可能性を重大な警戒感に見ていなかった。

総司令官は千九百四十五年(昭和二十年)八月八日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していた事からもそれが観てとれる。

時の山田総司令官は戦後に、「ソ軍の侵攻はまだ先の事であろうとの気持ちであった」と語っている。

関東軍第一課(作戦課)に於いては、関東軍参謀本部の情勢認識よりもはるかに楽観視していた。

この原因は作戦準備がまったく整っておらず、戦時においては任務の達成がほぼ不可能であるという状況がもたらした希望的観測が大きく影響した。

当時の関東軍は少しでも戦力の差を埋めるために、陣地の増設と武器資材の蓄積を急ぎ、基礎訓練を続けていた。

それでもソ連軍の侵攻が「冬まで持ち越してもらいたい」と言う願望が、「極東ソ連軍の後方補給の準備は十月に及ぶ」との推測になっていた。

つまり関東軍作戦課に於いて、千九百四十五年の夏に厳戒態勢で望むものの、ドイツとの戦いで受けた損害の補填を行うソ連軍は早くとも九月以降、さらには翌年に持ち越す事もありうると判断していたのだ。

この作戦課の判断に基づいて作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。


関東軍の前線部隊に於いては、ソ連軍の動きについて情報を得ていた。

第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面に於いて兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われている事を察知している。

特に東方面に於いては火砲少なくとも二百門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。

そのため八月三日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長・草地貞吾参謀に情勢判断を求めた。

しかし草地貞吾参謀からは、「関東軍に於いてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は九月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。

その旨は関東軍全体に明示されたが、八月九日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。


さらに第四軍司令官・上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、七月頃から絶えず北および西方面における情報を収集し、独自に総合研究した。

上村幹男中将の判断では、八月三日にソ連軍の対日作戦の準備は終了し、その数日中に侵攻する可能性が高いと判断したため、第四軍は直ちに対応戦備を整え始めた。

また上村幹男中将は、八月四日に関東軍総参謀長がハイラル方面に出張中と知り、帰還途上のチチハル飛行場に着陸を要請し、直接面談することを申し入れて見解を伝えた。

しかし、総参謀長は第四軍としての独自の対応については賛同したが、関東軍全体としての対応は考えていないと伝えた。

そこで上村軍司令官は部下の軍参謀長を西(ハイラル)方面、作戦主任参謀を北方面に急派してソ連軍の侵攻について警告し、侵攻が始まったら計画通りに敵を拒止するように伝えた。


ソ連からの宣戦布告は、千九百四十五年八月八日(モスクワ時間午後五時、日本時間午後十一時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。

八月九日午前一時(ハバロフスク時間)に、ソ連軍は対日攻勢作戦を発動した。

同じ頃、関東軍総司令部は第五軍司令部からの緊急電話により、「敵が攻撃を開始した」との報告を受けた。

さらに「牡丹江市街が敵の空爆を受けている」と報告を受け、その後午前一時時三十分ごろに新京郊外の寛城子が空爆を受けた。

関東軍総司令部は急遽対応に追われる。

当時出張中であった総司令官・山田乙三朗大将に変わり、総参謀長が大本営の意図に基づいて作成していた作戦命令を発令、「東正面の敵は攻撃を開始せり」と伝える。

さらに「各方面軍・各軍並びに直轄部隊は進入する敵の攻撃を排除しつつ速やかに前面開戦を準備すべし」と伝えた。

また、中央部の命令を待たず、午前六時に「戦時防衛規定」「満州国防衛法」を発動し、「関東軍満ソ蒙国境警備要綱」を破棄した。

この攻撃は、関東軍首脳部と作戦課の楽観的観測を裏切るものとなる。

前線では準備不十分な状況で敵部隊を迎え撃つ事となったため、積極的反撃ができない状況での戦闘となった。

つまり関東軍の実情も、敗退し続けている南方戦線同様に、御多分に漏れずソ連軍を迎撃できる能力など無かった。

総司令官・山田乙三朗大将は出張先の大連でソ連軍進行の報告に接し、急遽司令部付偵察機で帰還して午後一時に司令部に入って、総参謀長が代行した措置を容認した。

さらに総司令官・山田乙三朗大将は、宮内府に赴いて満州国・溥儀皇帝に状況を説明し、満州国政府を臨江に遷都する事を勧めた。

皇帝溥儀は、満州国閣僚らに日本軍への支援を自発的に命じた。

この満州国政府を臨江に遷都する事は、つまり関東軍が後退戦術を採る事を意味し、「開拓団の居留民(老幼婦女)を避難させずに置き去りにする無情な決断」だった。

軍が関与して最初に避難した三万八千人は、軍人関係家族、大使館関係家族、満鉄関係者などとなり、列車も飛行機も動員されて日本本土への帰国を果たしている。

比べるに、残り十一万二千人の一般居留民(老幼婦女)は暗黙として置き去りにされ、悲惨な逃避行を強いられた。

この一般居留民(老幼婦女)を守れなかった関東軍は、満蒙開拓団にとっていったい何だったのだろうか?


他方、北海道・樺太・千島方面を管轄していた第五方面軍は、アッツ島玉砕やキスカ撤退により千島への圧力が増大した事から、同地域に於ける対米戦備の充実を志向、樺太においても国境付近より南部の要地の防備を勧めていた。

千九百四十五年五月九日、大本営から「対米作戦中蘇国参戦セル場合ニ於ケル北東方面対蘇作戦計画要領」で対ソ作戦準備を指示され、第五方面軍は再び対ソ作戦に転換する。

このため、陸上国境を接する樺太の重要性が認識される。

しかし、兵力が限られていた事から、北海道本島を優先、たとえソ連軍が侵攻してきたとしても兵力は増強しない事とした。

上記のような戦略転換にもかかわらず、国境方面へ充当する兵力量が定まらないなど、実際の施策は停滞していた。


千島に於いては既に制海権が危機に瀕している事から、北千島では現状の兵力を維持、中千島兵力は南千島への抽出が図られた。

樺太に於いて陸軍の部隊の主力となっていたのは第八十八師団であった。

同師団は偵察等での状況把握や、ソ連軍東送の情報から八月攻勢は必至と判断、方面軍に報告すると共に師団の対ソ転換を上申したが、「現体勢に変化なし」という方面軍の回答を得たのみだった。

対ソ作戦計画が整えられ、各連隊長以下島内の主要幹部に対ソ転換が告げられたのは八月六~七日、豊原での会議に於いてった。

千島に於いては、前記の大本営からの要領でも、地理的な関係もあり対米戦が重視されていたが、島嶼戦を前提とした陣地構築がなされていたため、仮想敵の変更はそれほど大きな影響を与えなかった。

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by mmcjiyodan | 2015-11-30 23:37 | Comments(0)