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東大寺(とうだいじ)と大仏殿(だいぶつでん)

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。

東大寺(とうだいじ)は、金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(八世紀頃)聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が国力を尽くして建立した寺である。

「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当/住職)は僧正・良弁(ろうべん)である。


創建当初の奈良時代には、東大寺(とうだいじ)は中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西二つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、二度の兵火で多くの建物を焼失した。

創建当初からの大仏で、現存するのは台座(蓮華座)などの一部に創建当初の部分を残すのみである。

現在の大仏殿は江戸時代・元禄期の十八世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が三分の二に縮小されている。

「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院である。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が当時の日本の六十余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。


東大寺の記録である「東大寺要録」によれば、八世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身の寺院が建てられていた。

七百三十三年(天平五年)若草山麓に創建された金鐘寺(こんしょうじ)または金鍾寺(こんしゅじ)が東大寺の起源であるとされる。

正史「続日本紀」によれば、七百二十八年(神亀五年)、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)と光明皇后(こうみょうこうごう)が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、九人の僧を住まわせた事が知られ、これが金鐘寺(こんしょうじ)の前身と見られる。

記録によれば、八世紀半ばの金鐘寺(こんしょうじ)には、羂索堂、千手堂が存在した事がから知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。


七百四十一年(天平十三年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌七百四十二年(天平十四年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは七百四十七年(天平十九年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられる様になったと思われる。

また、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは七百四十八年(天平二十年)が最初である。


聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の七百四十三年(天平十五年)である。

当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は短期間に遷都を繰り返したが、二年後の七百四十五年(天平十七年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われる事になった。

この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であった為、朝廷から弾圧されていた大乗仏教僧・行基(ぎょうき)を大僧正として迎え、協力を得た。


難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは七百五十二年(天平勝宝四年)の事であった。

大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは七百五十八年(天平宝字二年)の事である。

東大寺では大仏創建に力のあった華厳宗僧・良弁(ろうべん)、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。


大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させたという、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の思惑とは程遠い事実を突き付ける。

貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調(そようちょう)の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。


七百五十六年(天平勝宝八年五月二日)、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代)に攘位して太上天皇(上皇)になっていた聖武太上天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が崩御する。

この崩御の年の七月に起こったのが、橘奈良麻呂(たちばなのならはしまろ)の乱である。

七月四日に逮捕された橘奈良麻呂(たちばなのならはしまろ)は、藤原永手(ふじわらのながて)の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。

ここで永手(ながて)は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父・橘諸兄(たちばなのもろえ)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論した為、奈良麻呂(ならはしまろ)は返答に詰まったという。


奈良時代の東大寺(とうだいじ)の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並ぶ。

講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)がある。

南大門と中門の間の左右には高さ約七十メートル以上と推定される東西二基の七重塔が回廊に囲まれて建っていた。

東大寺(とうだいじ)は、七百四十五年(天平十七年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには四十年近い時間を要している。


奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後の事である。

その為、寺院では複数の宗派を兼学する事が普通であった。

東大寺(とうだいじ)の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。


平安時代には空海(くうかい/弘法大師)によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄(さいちょう/伝教大師)が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。


平安時代に入ると、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受ける。

東大寺(とうだいじ)は講堂と三面僧房が失火で、七重塔・西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こる。

そうした背景から、東大寺(とうだいじ)は多数の僧兵を抱え、隣接する興福寺(こうふくじ)などと度々強訴を行っている。

興福寺(こうふくじ)は、六百六十九年創建の法相宗大本山で、藤原氏の祖・ 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とその子息・藤原不比等(ふじわらのふひと)ゆかりの氏寺である。


東大寺(とうだいじ)は、近隣の興福寺(こうふくじ)と共に千百八十一年一月十五日(治承四年十二月二十八日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。

この時、大勧進職(浄財の寄付を集める)に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時六十一歳の僧・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)であった。

平安末期、重源(ちょうげん)の精力的な活動により、千百八十五年(文治元年)には後白河法皇(ごしらかわほうおう/第七十七代天皇)らの列席の下、大仏開眼法要が、そして千百九十年(建久元年)には上棟式が行われた。

千百九十五年(建久六年)には再建大仏殿が完成、初代鎌倉幕府将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)らの列席の下、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代初期の千五百六十七年十一月十日(永禄十年十月十日)、三好・松永の東大寺(とうだいじ)大仏殿の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺(とうだいじ)の主要堂塔はまたも焼失した。


千五百七十三年(天正元年九月)東大寺(とうだいじ)を戦乱に巻き込む事と乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。

大仏殿の仮堂が建てられたが、千六百十九年(慶長十五年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。

その後の大仏の修理は千六百九十一年(元禄四年)に完成する。

大仏殿の再建は、全国行脚の勧進で修理代を集めた僧・公慶(こうけい)の尽力や、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)や母の桂昌院(けいしょういん)を初め多くの人々による寄進が行われた結果千七百九年(宝永六年)に完成した。

この三代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の十一間からおよそ三分の二の七間に縮小されている。

講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建される事はなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。


千九百九十八年、東大寺(とうだいじ)と興福寺(こうふくじ)は古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録された。


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by mmcjiyodan | 2016-10-06 18:29 | Comments(0)  

行基(ぎょうき)・大僧正

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)は奈良時代の日本の僧で、六百六十八年河内国大鳥郡、現在の大阪府堺市西区家原寺町)に生まれる。

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)の生年については六百六十八年説と、異説の六百七十七年説が在る。

六百八十二年(天武天皇十一年)に十五歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗(ほっそうしゅう)などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。


僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、行基(ぎょうき)は禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。

また、行基(ぎょうき)は道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池十五窪、溝と堀九筋、架橋六所、困窮者の為の布施屋九所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。

朝廷が僧侶を国家機関と定めたのは、仏教を統治に利用する目的が在ったからである。

行基(ぎょうき)は、民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われた事、また寺の外での活動が僧尼令に違反するとされた事から、七百十七年(養老元年四月二十三日)詔(みことのり)をもって糾弾されて弾圧を受ける。

だが、行基(ぎょうき)の指導により墾田開発や社会事業が進展した事、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかった事、行基(ぎょうき)の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断した。

この事から、七百三十一年(天平三年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基(ぎょうき)の技術力や農民動員の力量を利用した。


行基(ぎょうき)は朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。

その後、行基(ぎょうき)は日本で最初の最高位・大僧正として聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘(しょうへい/礼を尽くして招く)された。

この大仏造立の功績により、行基(ぎょうき)は東大寺(とうだいじ)の「四聖(ししょう)」の一人に数えられている。

東大寺の「四聖(ししょう)」とは、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、華厳宗僧・良弁(ろうべん)、を指す。


七百四年(大宝四年)に、行基(ぎょうき)は生家を家原寺(えばらじ)としてそこに居住した。

行基(ぎょうき)の師とされる道昭(どうしょう)は、入唐して玄奘(げんじょう/三蔵法師)の教えを受けた事で有名である。


七百三十六年(天平八年)に、インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)がチャンパ王国(ベトナム)出身の僧・仏哲、唐の僧・道セン(どうせん)とともに来日した。

彼らは九州の大宰府に赴き、行基(ぎょうき)に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。

七百三十八年(天平十年)に、日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されて朝廷より「行基大徳」の諡号(しごう)が授けられた。


民衆の為に活躍していた行基(ぎょうき)は七百四十年(天平十二年)から大仏建立に協力する。

この為、民衆の為活動した行基(ぎょうき)が「朝廷側の僧侶になった」とする説・「行基転向論」がある。

だが、一般的には権力側が行基(ぎょうき)の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基(ぎょうき)が権力者の側についたのではないと考えられている。

七百四十一年(天平十三年)三月に聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が恭仁京(くにきょう)郊外の泉橋院で行基(ぎょうき)と会見し、七百四十三年(天平十五年)東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。

勧進の効果は大きく、続日本紀に依ると七百四十五年(天平十七年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。

行基(ぎょうき)の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代に於いて具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと言われている。

その為、それぞれに対して、同時代の中国で席捲していた三階教教団の活動と唐朝の弾圧との関連や影響関係が指摘されている。


行基(ぎょうき)は日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基(ぎょうき)が開基したとされる寺院なども多く存在する。

三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、前述の東大寺大仏造立にも関わっている。

行基(ぎょうき)はまた、朝廷より菩薩の諡号(しごう)を授けられ「行基菩薩」と言われる。

その時代から行基(ぎょうき)は「文殊菩薩の化身」とも言われている。

なお、行基(ぎょうき)が迎えたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)は七百五十二年、聖武太上天皇(七比約四十九年に退位し上皇・太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。


この他、行基(ぎょうき)は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされる。

大仏造営中の七百四十九年(天平二十一年)、行基(ぎょうき)は喜光寺(菅原寺)で八十一歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納された。

また、喜光寺(菅原寺)から往生院までの道則を行基(ぎょうき)の弟子が彼の輿(こし)をかついで運搬した事から、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山(こしやま)とも呼ばれている。


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by mmcjiyodan | 2016-10-05 19:41 | Comments(0)  

鑑真(がんじん/鑑真和上)と唐招提寺(とうしょうだいじ)

鑑真(がんじん)は六百八十八年、唐の国(中国)・揚州江陽県に生まれ、奈良時代の日本に渡来して帰化した僧である。

鑑真(がんじん)は七百一年、十四歳で中国仏教の僧・智満について得度し大雲寺に住む後、十八歳で僧・道岸から菩薩戒を受け、二十歳で長安に入る。

七百七年、鑑真(がんじん)は中国仏教の僧・弘景について登壇受具し律宗・天台宗を学ぶ。

律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派である。

鑑真(がんじん)は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、四万人以上の人々に授戒を行ったとされている。


一方日本では、六百年~七百四十年当時、奈良一帯には無資格で勝手に僧を宣言する私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった。

その為、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させよう聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は適当な僧侶を捜していた。

本来仏教では、新たに僧尼となる者は戒律を遵守する事を誓う儀式を必要とする。

戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。

戒を誓う為に、十人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。


日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。

しかし、平城京(へいじょうきょう)奈良時代に入ると自誓授戒を蔑(ないがし)ろにする者たちが徐々に幅を利かる。

この無秩序を制する為に、十人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の意向を受け授戒の制度化の為に唐(中国)へ向かう使者として、興福寺の僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう) の二人が選ばれる。

二人は、貴族・右大臣・多治比嶋(たじひのしま)の五男・多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする遣唐使に加わって渡海する。

僧・栄叡(ようえい)と普照普照(ふしょう)は、授戒できる僧十人を招請する為に中国へ渡海し、戒律の僧として高名だった鑑真(がんじん)の下を訪れた。


この先の名僧・鑑真(がんじん)渡日への経緯記述は、「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)」及び「続日本紀」を根拠とする。

名僧・鑑真(がんじん)が中国(唐)揚州の大明寺の住職であった七百四十二年、日本から唐に渡った僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)らから戒律を日本へ伝えるよう懇請される。

僧・栄叡と普照の要請を受けた鑑真(がんじん)は、「渡日したい者はいないか」と弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。

そこで鑑真(がんじん)自ら渡日する事を決意し、それを聞いた弟子二十一人も随行する事となった。

つまり鑑真(がんじん)が、弟子の僧を十人以上引き連れて来日すれば、授戒の制度化の要件を満たす事に成る。

その後、自ら渡日を決意した鑑真(がんじん)は、日本への渡海を五回にわたり試みたがことごとく失敗する。


最初の渡海企図は、七百四十三年夏の事である。

この時は、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をした為、日本僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)らは追放された。

鑑真(がんじん)は港へ留め置かれ、大明寺に帰った。


二回目の試みは七百四十四年一月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚(よよう)へ戻らざるを得なくなってしまった。

再度、出航を企てたが、鑑真(がんじん)の渡日を惜しむ者の密告により僧・栄叡(ようえい)が逮捕・投獄をされ、三回目も失敗に終わる。


その後、栄叡(ようえい)は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真(がんじん)一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。

しかしこの時も、鑑真弟子・霊佑(れいゆう)が鑑真(がんじん)の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。

その為、官吏に出航を差し止めされ、四回目の渡日も失敗する。


七百四十八年、日本僧・栄叡(ようえい)が再び大明寺の鑑真(がんじん)を訪れた。

栄叡(ようえい)が懇願すると、鑑真(がんじん)は五回目の渡日を決意する。

鑑真(がんじん)は七百四十八年六月に出航し、舟山諸島(東シナ海海上に浮かぶ群島)で数ヶ月風待ちした後、十一月に日本へ向かい出航した。

たが、鑑真(がんじん)一行は激しい暴風に遭い、十四日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着する。

鑑真(がんじん)は当地・海南島の大雲寺に一年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。

そのため海南島には、現代でも鑑真(がんじん)を顕彰する遺跡が残されている。


七百五十一年、鑑真(がんじん)は揚州に戻るため海南島を離れるも、その途上に、端州の地で日本僧・栄叡(ようえい)が死去する。

動揺した鑑真(がんじん)は広州から天竺(てんじく/インド)へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。

この揚州までの帰上の間、鑑真(がんじん)は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。


七百五十三年、廷臣・藤原房前 (ふじわらのふささき) の四男・遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)らが鑑真(がんじん)の下に訪れ、鑑真(がんじん)は渡日を約束した。

しかし、明州当局の知るところとなり、遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)は鑑真(がんじん)の同乗を拒否する。

それを聞いた遣唐副使の貴族・大伴古麻呂(おおとものこまろ)は清河に内密に第二船に鑑真(がんじん)一行を乗船させた。


七百五十三年十二月十五日(日本歴・天平勝宝五年十一月十六日)に四艘(舟)が同時にが出航する。

その帰還船団の、第一船と第二船は十二月二十一日に阿児奈波嶋(あこなはじま/沖縄)到着、第三船はすでに前日二十日に到着していた。

その内の第三船は約半月間、沖縄に滞在する。

七百五十四年一月三日に、南風を得て、第一船・第二船・第三船は同時に沖縄を発して多禰国(たねのくに/多禰嶋)、現在の種子島・屋久島に向けて就航する。

出港直後に大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の乗った第一船は岩に乗り上げ座礁する。

それでも、第二船・第三船はそのまま日本(多禰嶋)を目指した。

後に、座礁した大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)等の第一船はベトナム北部に漂着し、その一行は唐に戻る事となる。


第二船・第三船は、七日後の七百五十四年一月九日に多禰国(たねのくに)の益救嶋(現在の屋久島)に到着する。

一行は、朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つ事六日後の十二月十八日に大宰府を目指し出港する。

翌十九日に遭難するも古麻呂(こまろ)と鑑真(がんじん)の乗った第二船は七百五十四年一月十七日に秋目(秋妻屋浦・鹿児島県坊津)に漂着する。

その後、七百五十四年一月二十三日(日瀝・天平勝宝五年十二月二十六日)に、大安寺の僧・延慶(えんけい)に迎えられながら大宰府に到着する。


鑑真(がんじん)一行は七百五十四年一月二十三日(日瀝・天平勝宝五年十二月二十六日)大宰府に到着、鑑真(がんじん)は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行う。

七百五十四年三月二日(天平勝宝六年二月四日)、鑑真(がんじん)一行は奈良平城京の朝廷への到着する。

鑑真(がんじん)一行は、譲位(じょうい)して上皇となった聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代)の勅(みことのり)により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する事となった。

聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん/鑑真和上)から戒を 授かり、翌年、日本初の正式な授戒(戒名を授かる)の場として戒壇院を建立した。

七百五十四年四月、鑑真(がんじん)は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇から僧尼まで四百名に菩薩戒を授けた。

これが日本の登壇授戒の嚆矢(こうし/はじまり)である。

併せて、常設の東大寺(とうだいじ)戒壇院が建立され、その後、天平宝字五年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺及び下野国薬師寺に戒壇が設置される。

これを機に、仏教界に於ける戒律制度が急速に整備されて行った。

ここに戒壇院制度が成立して、後の名僧・空海(くうかい/弘法大師)最澄(さいちょう/伝教大師)も東大寺・戒壇堂(かいだんどう)で、正式に僧侶として認定され資格を得た。


七百五十八年(天平宝字二年)、鑑真(がんじん)は淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の勅(みことのり)により大和上(だいわじょう/大和尚)に任じられる。

勅(みことのり)により、大和上・鑑真(がんじん)を政治にとらわれる労苦から解放する為、僧官の職・僧綱(そうごう)の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。


七百五十九年(天平宝字三年)、鑑真(がんじん)は天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の第十皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建し、戒壇を設置した。


大和上・鑑真(がんじん)は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、これらの知識も日本に伝えた。

また、鑑真(がんじん)は悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

七百六十三年(天平宝字七年)、大和上・鑑真(がんじん)は唐招提寺に於いて七十六歳で死去(遷化)した。


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by mmcjiyodan | 2016-10-05 12:31 | Comments(0)  

日蓮(にちれん)と日蓮宗(法華宗)

鎌倉時代中期、仏教の大宗派となる日蓮宗 (法華宗)が登場する。

鎌倉時代の仏教の僧日蓮(にちれん)は、鎌倉仏教の十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖である。

幼名を善日麿(ぜんにちまろ)と名付けられた日蓮(にちれん)は、千二百二十二年(貞応元年)二月十六日に安房国長狭郡東条郷片海(現・千葉県鴨川市)の小湊で誕生する。

父は現・静岡県袋井市に在する貫名一族出自・三国大夫(貫名次郎/ぬきなじろう)、母は梅菊(うめぎく)とされている。

日蓮は、その書「本尊問答抄」、「佐渡御勘気抄」、「善無畏三蔵抄」、「種種御振舞御書」等に於いて、「海人が子なり」、「海辺の施陀羅が子なり」、「片海の石中の賎民が子なり」、「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。


千二百三十三年(天福元年)十歳になった善日麿(ぜんにちまろ)は、安房国(あわのくに/現・千葉県 )清澄寺(せいちょうじ)の道善房(どうぜんぼう)に入門する。

千二百三十五年(天福三年)、十二歳の善日麿(ぜんにちまろ)は師・道善房(どうぜんぼう)より薬王丸(やくおうまる)の名をいただく。

千二百三十八年(暦仁元年)、薬王丸(やくおうまる)は出家し「是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」の名を与えられる。

修行僧・是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は、千二百四十五年(寛元三年)遊学に旅立ち、比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学する。

翌千二百四十六年(寛元四年)三井寺をかわきりに八年間、薬師寺、仁和寺、高野山・五坊寂静院、天王寺、東寺を遊学する。


千二百五十三年(建長五年)、遊学の度を終えた修行僧・是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は、清澄寺(せいちょうじ)に帰山する。

同千二百五十三年(建長五年)四月二十八日朝、是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、「立教開宗」して正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。

是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は「立教開宗」を期に名を日蓮(にちれん)と改める。

日蓮(にちれん)は、川越の天台宗寺院・中院(なかいん)・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂(でんぼうかんじょう/指導者の位・阿闍梨)を受け正式な僧侶となる。


千二百五十四年(建長六年)、日蓮(にちれん)は清澄寺(せいちょうじ)を退出し、当時幕府所在地である鎌倉にて辻説法を開始する。

独自の立教開宗を始めた日蓮(にちれん)は、千二百五十七年(正嘉元年)に村山修験の中心地・富士山興法寺(ふじさんこうぼうじ)大鏡坊に法華経を奉納する。

所伝によれば、千二百五十八年(正嘉二年)に日蓮(にちれん)は、日蓮宗の本山(霊蹟 寺院)となる実相寺にて一切経を閲読(調べながら読む)とある。

この頃日蓮(にちれん)は、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房(ほうきぼう)としている。


千二百六十年(文応元年)七月十六日、日蓮(にちれん)は立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。

安国論建白の四十日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の日蓮(にちれん)の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。

千二百六十一年(弘長元年)五月十二日、日蓮(にちれん)は鎌倉幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流され、後に「伊豆法難」とされる。

その後解放されるが、千二百六十四年(文永元年)に、後に「小松原法難」とされる事件が起きる。

日蓮(にちれん)は安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で、念仏信仰者の幕府御家人地頭・東条景信(とうじょうかげのぶ)に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失った。


千二百六十八年(文永五年)蒙古から幕府へ国書が届き、日蓮(にちれん)が他国からの警鐘を鳴らしていた侵略の危機が現実となる。

日蓮は幕府第八代執権・北条時宗北条得宗家執事・平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。

千二百六十九年(文永六年)、日蓮(にちれん)は富士山に経塚を築く。

千二百七十一年(文永八年)七月、日蓮(にちれん)が真言律宗の僧・極楽寺良観(忍性/にんしょう)の祈雨対決の敗北を指摘する。

勿論この祈雨対決は、あくまでも現代科学では立証が難しい信仰上の結論である。

同千二百七十一年九月、極楽寺良観、法性寺念阿弥陀仏(空阿/くうあ)等が連名で幕府に日蓮(にちれん)を訴える。


北条氏得宗家の御内人・平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして日蓮(にちれん)は佐渡流罪の名目で捕らえられる。

日蓮(にちれん)は腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる。

このとき左衛門尉・四条金吾/頼基(しじょうきんご/よりもと)がお供をし、日蓮(にちれん)の刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。

処刑を免れた日蓮(にちれん)は十月、評定の結果佐渡へ流罪と決する。

日蓮(にちれん)は流罪中の三年間に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、法華曼荼羅を完成させた。


日蓮(にちれん)の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わる。

その事から、日蓮(にちれん)の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考える事が一般的である。


千二百七十四年(文永十一年)春に、日蓮(にちれん)は赦免となり、幕府評定所へ呼び出される。

「撰時抄」に依ると、北条宗家執事・平頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮(にちれん)は「よも今年はすごし候はじ」と答える。

同時に日蓮(にちれん)は、「法華経を立てよ」という幕府に対する三度目の諌暁(かんぎょう/いさめさとす)をおこなう。

その後日蓮(にちれん)は、幕府御家人で身延一帯の地頭である南部(波木井)実長(なんぶ/はきいさねなが)の招きに応じて身延入山し、身延山を寄進され身延山久遠寺を開山する。

千二百七十四年(文永十一年)、日蓮(にちれん)が予言してから五か月後に「文永の役」と名付けられる蒙古襲来が起こる。


あくまでも信仰に有り勝ちな伝承が、ここに在る。

千二百七十七年(建治三年)九月、身延山山頂からの下山中、日蓮(にちれん)がお弟子一同に説法をしていた所、それを聞いていた七面天女が現れる。

七面天女は、その場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし感激させたと伝えられている。

つまり、疑惑の聖徳太子実在説と同様に、宗教的伝承に過ぎないのだ。


千二百七十九年(弘安二年)九月二十一日、日蓮宗信者内で内紛が起こる。

日弁・日秀派の駿河・熱原神四郎(あつはらのしんしろう)等二十人が、滝泉寺院主代・行智等に讒(ざん/陥れる為の告げ口)せられ鎌倉に送らる。


千二百八十一年(弘安四年)、弘安の役と呼ばれる蒙古軍の再襲来が起こる。


日蓮宗の一部では、日蓮上人が「蒙古襲来(元寇)を言い当てた」や「上人の法力で神風を吹かせ蒙古軍をせん滅させた」と言う信仰上の言い伝えも存在する。

しかし日蓮上人が、蒙古襲来(元寇)を言い当てたのだって、なにも上人の法力の為せる技では無い。

当時の東アジア情勢と鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)が、蒙古への服属を求める内容のフビライ・ハーンの国書を拒否(きょひ)していたのだから、憶測は着く。

そして勿論、蒙古襲来(元寇)時に蒙古軍がシケ(暴風)に拠って大打撃を受けた神風(かみかぜ)だって自然現象で、日蓮上人の法力ではない。


千二百八十二年(弘安五年) 九月八日、日蓮(にちれん)は病を得、庇護者である地頭・南部(波木井)実長(なんぶ/はきいさねなが)の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山する。

身延下山から十日後の九月十八日、日蓮(にちれん)は武蔵国・池上宗仲(いけがみむねなか)邸(現在の本行寺)へ到着する。

日蓮(にちれん)は池上氏の館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名する。

十月八日、日蓮(にちれん)は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。

この後継者と定めた弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。

十月十三日辰の刻(午前八時頃)、日蓮(にちれん)は池上宗仲邸にて六十一歳で死去する。

日蓮(にちれん)終焉の地・池上宗仲邸は現在、大本山池上本門寺となっている。


第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-10-01 14:01 | Comments(0)  

租庸調(そようちょう)

租庸調(そようちょう)は、日本の律令制下での租税制度である。

この租税制度・租庸調(そようちょう)は中国の唐帝国で発祥し、中国及び朝鮮で永く採用されていた。

但し唐帝国の律令では、丁(一区画)の人数を基準とした丁租(ちょうそ)であるのに対して、日本の律令では田の面積を基準とした田租(たそ)となっている。

この為、日本に於ける租(そ)は律令以前の初穂儀礼に由来するのではないか、とする説もある。

この田租(たそ)制度は、永く日本の税制の基本となり多少の変化を見ながらも明治維新まで続いた。


日本では、六百四十六年の大化の改新に於いて、新たな施政方針を示した改新の詔(みことのり)のひとつに「罷旧賦役而行田之調」とあり、これが租税の改定を示す条文とされる。

ここに示された田之調は田地面積に応じて賦課される租税であり、後の田租(たそ)の前身に当たるものと見られている。

日本の租庸調制度は、中国・唐帝国の制度を元としているが、日本の国情を考え合わせ、日本風に改定して導入したものだった。


租(そ)は各地の国衙(こくが/地方政治役所)の正倉に蓄えられて地方の財源にあてられ、庸調(ようちょう)は都に運ばれ中央政府の財源となった。

庸(よう)と調(ちょう)を都に運ぶのは生産した農民自身で、運脚夫といい、国司(官人・役人)に引率されて運んだ。


現物を納める税は、八月から徴収作業を始め、郡家さらに国庁の倉庫に集められ、木簡が付けられ、十一月末までに都の大蔵省に納められた。

奈良時代は原則として車船の輸送が認められなかったので、民衆の中から運脚が指名され、都まで担いでいった。

往復の運搬の度の食料は自弁で在った為に餓死する者も出たほど酷い徴税制度だった。運脚たちが歩いた道は国府と都を直線で結ぶ日本の古代民衆交通路・官道(駅路)七道であった。


地震や土砂災害などの天変地異が発生した場合には地域的に免除される事があって、実際に災害の記述とともに免除の記録がある。


租(そ)は、収穫量の三%~十%に当たる田一段につき二束二把とされた。

原則として九月中旬から十一月三十日までに国へ納入され、災害時用の備蓄米(不動穀)を差し引いた残りが国衙の主要財源とされた。

しかし、歳入としては極めて不安定であった為、律令施行よりまもなく、これを種籾(たねもみ)として生産農民に貸し付けた(出挙)利子を主要財源とするようになった。

一部は舂米(臼で搗いて脱穀した米)として、一月から八月三十日までの間に、年料舂米として京へ運上(うんじょう)された。


生産農戸ごとに五分以上の減収があった場合には租(そ)が全免される規定・賦役令水旱虫霜条があった。

そこまでの被害が無い場合でも「半輸」と呼ばれる比例免の措置が取られるケースがあり、当時の農業技術では全免・比例免を避ける事は困難であった。

そこで、一つの令制国内に於いて定められた租の総額に対し七割の租収入を確保する事を目標として定めた「不三得七法」と呼ばれる規定が導入された。

しかし、これを達成する事も困難であった為、八百六年(大同元年)に旧例として原則化されるまでしばしば数字の変更が行われた。


庸(よう)は、衛士(えいし/宮中護衛兵士)や采女(うねめ/宮廷雑事女官)の食糧や公共事業の雇役民への賃金・食糧に用いる財源となった。

庸(よう)は、二十一歳~六十歳の男性を「正丁(しょうてい)」とし、六十一歳以上の男性を「次丁(じちょう)」として年齢を分けて賦課された。

元来は「歳役(さいえき)」といい、京へ上って労役が課せられるとされていたが、その代納物として布・米・塩などを京へ納入したものを庸(よう)といった。

庸(よう)を米で納める場合は庸米(ようまい)、布で納める場合は庸布(ようふ)と称した。

改新の詔(みことのり)では、一戸あたり庸布一丈二尺あるいは庸米五斗を徴収する規定があり、それが律令制下でも引き継がれたと考えられている。

京や畿内・飛騨国に対して庸(よう)は賦課されなかった。

この制度、現代の租税制度になぞらえれば、納税能力に関係なく全ての国民一人につき一定額を課す人頭税の一種といえる。


調(ちょう)は、中男(十七歳~二十歳の男性)・正丁(二十一歳~六十歳の男性)・次丁(六十一歳以上の男性)へ賦課された。

調(ちょう)は京へ納入され、中央政府の主要財源として官人の給与(位禄・季禄)などに充てられた。

繊維製品の納入(正調)が基本であるが、代わりに地方特産品三十四品目または貨幣(調銭)による納入(調雑物)も認められていた。

これは、中国の制度との大きな違いである。

調(ちょう)も、京や畿内では軽減、飛騨では免除された。


飛騨国についての庸調(ようちょう)免除には、別枠の使役割り当てが在る。

飛騨の民は、庸調(ようちょう)を免除される替わりに匠丁(しょうてい、たくみのよほろ)を里ごと十人一年交替で徴発され、平安時代には総勢百名とされた。

いわゆる飛騨工(ひだのたくみ)である。

匠丁(しょうてい)は、木工寮や修理職に所属して工事を行った。


第一巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-09-29 14:30 | Comments(0)  

枢軸国(すうじくこく)(一)

枢軸国(すうじくこく)とは、第二次世界大戦時に連合国と戦った諸国を指す言葉である。

ドイツ、日本、イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイなどソビエトを脅威と捉えていた反共主義国家が多い。

また、連合国が承認していない国家としては、フィリピン第二共和国、ビルマ国、スロバキア共和国、クロアチア独立国、満洲国、中華民国南京政府などがある。

そして枢軸国(すうじくこく)は、ドイツのアドルフ・ヒトラー率いるナチ党政権がその中心を為していた。

ヒトラー率いるナチ党政権下のドイツと、ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世国王の元、ベニート・ムッソリーニ率いるファシズム体制下のイタリア王国はどちらも類似した権威主義的体制で、思想的に近いものがあった。

しかし両国の関係は当初必ずしも良好ではなく、千九百三十四年にヒトラーとムッソリーニの初会談が行われた時も特に会談の成果は生まれなかった。

第二次世界大戦に於ける枢軸国は連合国と戦闘した国々であるが、枢軸国全体で統合された戦争指導は最後まで行われなかった。

このためドイツの対ソ開戦や日本の対米開戦は事前に通知されておらず、交戦相手も統一されていないなど、枢軸国の足並みは揃わなかった。

その為、千九百三十九年に勃発したポーランド侵攻に参加した枢軸国は、ドイツとその影響下で独立したスロバキア共和国のみであった。


千九百四十年五月に行われたドイツによるフランス進攻が、枢軸軍電撃戦として成功し、フランスはドイツの占領下で親ドイツ政権が成立する。

この成功に依り、イタリアと、前年にイタリアの侵攻を受けて同君連合を形成していたアルバニア王国も枢軸国に加わり、連合国に宣戦布告した。

八月十六日に行われた第二次ウィーン裁定によって、ドイツはルーマニア王国への駐屯権を獲得し、ルーマニアを枢軸国の影響下においた。


千九百四十年九月には「日独伊三国条約(三国同盟)」が結ばれ、以降、「枢軸条約」と表記される。

ただしこの時点では、この条約に日本が加入する事は枢軸国として参戦する事ではなかった。

この年の十一月にはハンガリー王国、ルーマニアが「枢軸条約」に加入する。

千九百四十一年三月一日ドイツ軍はブルガリア王国に進駐して「枢軸条約」に参加させる。

同年三月二十五日、ユーゴスラビア王国も「枢軸条約」に参加したが、二日後の三月二十七日にはクーデターが発生している。

クーデター後のユーゴスラビア新政府はドイツとの協調関係を維持すると声明したが、ヒトラーは許さずユーゴスラビア侵攻に踏み切った。

戦後、ユーゴスラビアはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、アルバニア、そして独立したクロアチア独立国とセルビア救国政府、モンテネグロ王国によって占領される。

同千九百四十一年六月二十二日、ヒトラーの号令で独ソ戦が始まった。

ハンガリー、ルーマニア、クロアチアも独ソ戦に参戦し、さらに「冬戦争」でソ連の侵略を受けていたフィンランドも継続戦争状態のまま七月十日に参戦した。

独ソ戦開始の際にヒトラーはフィンランドを同盟国と呼んだが、実際にはフィンランドはドイツと同盟を結んでおらず、あくまで共同参戦国(英語版)であるという主張を行っている。

しかしフィンランド領内にはドイツ軍が駐屯しており、同年十一月二十五日に防共協定に参加している。

フィンランドがソ連側からの講和交渉を拒絶した為、イギリスによる宣戦を受けている。

千九百四十年十一月二十一日、北アフリカの植民地を失ったフランス・ヴィシー政権(ドイツ占領下の傀儡政権)に業を煮やしたドイツはアントン作戦を敢行、フランス全土を占領した。


千九百四十一年十二月八日、日本はコタバル上陸及び真珠湾攻撃を行い、アメリカ合衆国とイギリスに宣戦布告した。

オランダ政府は同年十二月十日に日本政府に対して「日本がオランダと密接不可分の関係にある米英両国に対し戦端を開いたので、日蘭間に戦争状態が存在するに至った」と通告した。

同年十二月十一日ドイツは条約上の参戦義務は無かったがアメリカに宣戦布告し、他の条約参加国も追随する。

この時点で、日本はソ連との間に日ソ中立条約を結んでいた為、日本はソ連に宣戦することはなかった。

しかし、日中戦争で日本と交戦中であった中華民国は日本とドイツ、イタリアに対して正式に宣戦布告を行い、連合国に加入する。

この十二月十一日には日独伊単独不講和協定が結ばれ、枢軸国陣営が成立した。

また同日、日本とタイ王国の間で日泰攻守同盟条約が結ばれ、翌千九百四十二年一月八日、条約締結に反応したイギリス軍とアメリカ軍がタイに対して攻撃を行った。

この為、一月二十五日にタイ王国はアメリカ・イギリスに対して宣戦布告した。


枢軸国(すうじくこく)(二)】に続く。

第六巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-08-06 08:54 | Comments(0)  

枢軸国(すうじくこく)(二)

枢軸国(すうじくこく)(一)】に戻る。

千九百四十二年六月二十六日からのスターリングラード攻防戦はドイツの敗北に終わり、枢軸国にとって戦局は悪化の一途をたどるようになった。

戦局利あらずと観たフィンランドはこの時期からアメリカを仲介としてソ連と休戦交渉を行っている。

千九百四十三年七月二十四日、イタリア王国でクーデターが発生し、ムッソリーニは逮捕・監禁されたがドイツによって救出された。

九月八日イタリア王国は連合国に降伏したが、九月二十三日にはドイツによってムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国がイタリア北部に成立し、枢軸国として戦闘を続けた。

またアルバニアはドイツの占領下に置かれ、ドイツ主導による傀儡政権の統治下に置かれた。

千九百四十三年十月三日、ムッソリーニのイタリア社会共和国と別に存在したイタリア王国はドイツに宣戦布告した。


同千九百四十三年十月二十一日、日本の支援の下自由インド仮政府が成立する。

自由インド仮政府軍はインドの宗主国であるイギリスに対して戦闘を行った。

同十一月十六日、大東亜会議において大東亜共同宣言が宣言された。

この宣言は「大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ」とあるように、日本と同盟しアメリカ・イギリスと戦うという内容であった。

この際、日本は会議参加国に対して米英への宣戦布告を要求した。

ビルマはイギリス・アメリカに宣戦布告したものの、フィリピン第二共和国は宣戦を拒絶した。


同千九百四十三年の後半になると、欧州に於ける東部戦線は崩壊し始める。

八月二十四日、ルーマニアはクーデターによって連合国側につき、ドイツに対して宣戦布告を行った。

同九月九日にはブルガリアでもクーデターが発生し、連合国側について枢軸国に宣戦した。

その十日後の九月十九日、継続戦争を戦っていたフィンランドはソ連と休戦条約を結んだ。

その後フィンランドは駐留ドイツ軍とラップランド戦争と称される交戦を行う。

同十月十五日にはハンガリーも対ソ休戦を発表しようとしたが、ドイツ軍のクーデターによって親独派の矢十字党政権のハンガリー国が成立し、枢軸国側に留まった。

西部戦線でも八月二十六日にパリが連合軍によって奪回されるなど、ヴィシー政権とドイツのフランス支配は終焉した。


千九百四十五年三月、日本は支配下に置いていた仏領インドシナからベトナム帝国、ラオス王国、カンボジア王国を独立させ、傀儡政権を樹立する。

そんな中、ヨーロッパは完全に連合国側の手に落ち、欧州の枢軸国は次々と脱落・消滅していった。

同年四月二十五日にはイタリア社会共和国が降伏、五月八日にはドイツが降伏した。最後に残った日本も、広島・長崎への原爆投下の甚大な被爆被害を受け、八月十五日に降伏受け入れを表明し、九月二日には正式な降伏文書調印を行った。


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by mmcjiyodan | 2016-08-06 08:51 | Comments(0)  

戦前・戦中の言論弾圧

実は、日本軍の真珠湾攻撃と時を同じくして、千九百二十五年に制定・施行された「治安維持法」が全部改訂され、言論統制による戦時体制を確立させた歴史がある。


戦前・戦中の言論弾圧とは、戦前の日本に於ける左翼勢力・自由主義者・宗教団体に対する言論弾圧・粛清を治安当局(特別高等警察)が行った事件の事を指す。

この中で弾圧立法として大きな役割を果たしたのが、千九百二十五年制定・施行され、千九百四十一年に全部改訂された「治安維持法」である。

「治安維持法」は、幾度かの改正を経て本来の立法意図をすら逸脱し、広い意味での体制批判者を取り締まる法へと拡大解釈されて行った。

その「特別高等警察」のターケット(標的)にされたのが、非合法的左翼勢力(すなわち日本共産党・共産主義者)およびその関連団体(大衆運動組織)などである。

それに加え、合法的左翼勢力(すなわち一部の急進的社会民主主義者)および自由主義的知識人、体制内の非主流派・批判的グループや一部の宗教団体などの政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となって行った。

千九百四十五年(昭和二十年)の太平洋戦争敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処する為、被占領下の日本政府は断固適用する方針を取り続けた。

しかし敗戦から凡(およ)そ三ヵ月後の十月初旬、GHQの政策・人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により治安維持法体制は一転して解体に向かった。


第六巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-07-27 14:50 | Comments(0)  

真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)は、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾に在ったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である。

真珠湾への雷撃攻撃は、日本時間千九百四十一年十二月八日未明、ハワイ時間十二月七日に実行された。

この攻撃を、「奇襲攻撃」と言えるかどうかで日米の認識には現在でも主張に異論がある。


千九百三十九年から千九百四十一年々頭に至る頃、日本政府及び日本海軍はABCD包囲網(エィビイシィディほういもう)を実力で打破すべく検討を繰り返していた。

当初の日本海軍は、対米戦争の基本戦略として漸減邀撃(迎え撃ってしだいに減らせる)作戦を有していた。

これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて迎え撃ち、しだいに減らさせた上で日本近海に於いて艦隊決戦を行うというものであった。

その戦略が変ったのは、千九百三十九年に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将が異なる構想を持っていたからである。

アメリカに長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本長官は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えていた。

為に山本長官は、遥かに若かった十一年前の千九百二十八年(昭和三年)の時点で、既にハワイ攻撃を提唱していた。


千九百四十一年一月十四日頃、連合艦隊司令長官・山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎中将 に「会いたい」と手紙が在った。

大西航空艦隊参謀長は、一月二十六日ないし二十七日頃、連合艦隊旗艦・長門(戦艦)を訪ね、山本長官からハワイ奇襲作戦の立案を依頼される。

山本長官は、日米開戦の已(やむ)むなきに至った場合、「わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ対米戦に勝ちを制する事はできない」と大西航空艦隊参謀長に切り出す。

その「余程思い切った戦法」の目標は、太平洋に配備された米国戦艦群である。

攻撃は雷撃隊による片道攻撃とし、開戦劈頭(へきとう/開戦冒頭)にハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し痛撃を与え、「当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す」と続けた。

山本長官は、第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもってこの目標を達成する為の作戦研究を大西航空艦隊参謀長に依頼したのだ。


鹿児島・鹿屋(かのや)司令部に戻った大西参謀長は、幕僚である前田孝成大佐に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談する。

前田大佐からの回答は、真珠湾は水深が浅い為に技術的に「雷撃攻撃は不可能」と言うものだった。

大西参謀長は二月初旬、今度は第一航空戦隊参謀・源田実中佐を呼びつけ、二月中旬に訪れた源田参謀に大西参謀長は同様の質問をした。

源田参謀からは、「雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではない」と言う回答が在った。

大西参謀長は源田参謀に「作戦計画案を早急に作るように」と依頼する。

源田参謀は二週間ほどで計画案を仕上げて大西参謀長に提出、それに大西参謀長が手を加えて作案し、三月初旬頃、山本長官に提出した。

山本長官は、真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ期待する所期効果を得ないので空襲作戦は断念するつもりであった。

しかし大西参謀長、源田参謀案で「不可能ではない」と判断された為、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった。


攻撃順序の主目的は戦艦・空母、副目的は航空基地・敵飛行機とした。

敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪う為には、水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えた。

戦力を二分しては、敵艦隊と工廠、油槽等施設を攻撃していずれも不徹底に終わる事を懸念しての方針立案だった。

水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断して居たのである。


第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎中将と第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介大佐は、ハワイ奇襲作戦に反対した。

大西中将と草鹿大佐の意見は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得の為に、アメリカの植民地のフィリピン方面に集中するべきとしていたのだ。

だが、山本長官の意見は頑(かたく)なだった。

大西と草鹿の両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだと言う積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べる。

さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからと言って、そう投機的だ、投機的だと言うなよ。君達の言う事も一理あるが、僕の言う事も良く研究してくれ」と話して説得した。

十月十九日、連合艦隊参謀・黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰(おっしゃ)っている」と軍令部次長・伊藤整一中将に伝える。

この山本長官の意向を伊藤中将から伝え聞いて驚いた軍令部総長・永野修身大将は作戦実施を認めた。


つまり真珠湾攻撃作戦は、直前に「宣戦布告をする予定」とは言え、勝つ為に何ヵ月も前から「先制攻撃」が計画されていた。

そしてこれがフィクション(架空の創作)ならば、血沸き肉躍る男のアクションドラマかも知れない。

しかしリアルな戦争であれば、手段を選ばない破壊や殺戮(さつりく)の非人道的な行為そのもので、これをワクワク楽しむ感性を持つ人は危険である。

男性の闘争本能を「自らの感性」と主張するに自己陶酔に、人間としての欠陥を理解すべきではないのか?


真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)に続く。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:14 | Comments(0)  

真珠湾攻撃(日米開戦)の(二)

真珠湾攻撃(日米開戦)の(一)に戻る。

第一航空戦隊参謀・源田中佐の真珠湾攻撃案は、出発基地を小笠原父島か北海道厚岸(あっけし)とし、空母を真珠湾二百海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。

一つ目の父島案では、雷撃可能な時は艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案である。

二つ目の厚岸(あっけし)案は、雷撃不可能な時には艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。

戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。

航路は機密保持の為に北方から進攻して急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。

本来の軍事作戦では、水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になる為に計算に入れなかった。

これに対して大西参謀長は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行う事、出発を単冠湾(択捉島)として作案した。

九月頃、大西参謀長から源田参謀が「これで行く様に」と厳命が手渡された。

手渡された厳命には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、「戦艦に致命傷がなくても行動できなくする事」になっていた。


真珠湾航空奇襲の訓練は、鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。

従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていた。

しかし真珠湾航空奇襲を目的とする第一航空艦隊の航空訓練は、機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた。

また、この作戦の為に空中指揮官・淵田美津雄中佐と雷撃専門家・村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した。

この作戦では、海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とする為、空母の集中配備が採用された。


攻撃案は当初、真珠湾の北二百海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ三百海里圏外に脱出する案だった。

だが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田参謀から反対が在った。

それでフォード北二百三十海里で一次攻撃、南下して二百海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された。

技術的な課題は、水深十二mと言う浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、次に戦艦の装甲をどうやって貫通させるかの二点であった。

水深十二mと言う浅瀬に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた愛甲魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑える事に成功した。

また、鴨池航空隊(鹿児島鴨池航空基地所属)による超低空飛行訓練により、最低六十mの水深が必要だったものを十m以下に引き下げる事に成功した。

事実、実際の攻撃では投下された魚雷四十本のうち、射点沈下が認められたのは一本のみの大成果で在った。

戦艦の装甲をどうやって貫通させるかに対しては、戦艦の装甲を貫徹する為に水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施された。

模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通する為の運動量の計測などが行われた。


作戦使用航空母艦は、当初第一、第二航空戦隊の四隻を胸算していた。

だが、九月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母二隻となる。

連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にする事、山本長官の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成する事が重要課題である。

その課題達成の為には、「搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したい」と考えた。

山本長官は、かねがね日露戦争劈頭(へきとう/冒頭)の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。

しかし、軍令部総長・永野修身大将は四隻案で考えていた。

千九百四十一年十月九日~十三日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。

軍令部航空部員・三代辰吉中佐はこの研究会出席の為出張して来たが、研究会に間に合わず終了後来艦し、六隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った。


航空攻撃と併用して、五隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。

この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであった。

これは、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想が在った事を示している。

魚雷二本を艦首に装備した「甲標的(こうひょうてき/特殊 潜航艇)」は千九百四十年九月に正式採用され、三十四基の建造が命令された。

千九百四十一年一月中旬から訓練が開始され、八月二十日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。

訓練により戦力化に目処が立つと伴に日米関係が益々悪化する。

そうした状況に、搭乗員から開戦時に「甲標的(こうひょうてき)を使って港湾奇襲を行うべきである」との意見が盛り上がった。

先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。

この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員・有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束する。

九月初旬に、甲標的(特殊潜航艇)母艦・千代田の原田覚艦長と岩佐中尉が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが搭乗員の生還が難しい事から却下された。

司令部を納得させる為、甲標的(特殊潜航艇)から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行った。

だが、「搭乗員の収容に確実性がない」との山本長官の判断で再度却下された。

部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長する等の研究を行い、十月初旬に三度の具申を行った。

この具申の結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、終(つ)いに計画が採用された。

十月十一~十三日に長門で行われた図上演習には甲標的(特殊潜航艇)を搭載した潜水艦五隻による特別攻撃隊が使用された。

特別攻撃隊の甲標的(特殊潜航艇)五隻には、岩佐大尉ら十名の搭乗員が選抜される。

作戦に使う潜水艦として甲標的(特殊潜航艇)を後甲板に搭載可能な伊一六、伊一八、伊二〇、伊二二、伊二四が選ばれた。


千九百四十一年十一月一日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は十一月五日の昭和天皇の御前会議で承認された。

以降陸海軍は十二月八日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。

十一月十三日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。

山本長官は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。

この「日米交渉の妥結時帰投命令」に二、三の指揮官が不服を唱えた。

だが、山本長官は「百年兵を養うは、ただ平和を護る為である。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、只今から出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったと伝えられる。


十一月十七日、山本長官は佐伯湾に在った空母赤城を訪れる。

機動部隊将兵を激励するとももに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している。

十一月二十二日、南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾に集結。

出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲中将が米太平洋艦隊を攻撃する事を告げた。

赤城艦長・長谷川喜一大佐は、山本長官の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している。


艦隊航路の選定には、奇襲成立のため隠密行動が必要であった。

連合艦隊参謀の雀部利三郎(ささべりさぶろう)中佐が過去十年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べる。

その結果十一月から十二月にかけては北緯四十度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し、困難な北方航路が採用された。

なお、当時第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。

ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったと伝えられている。

十一月二十六日八時、旗艦「赤城」以下の南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾(択捉島)を出港した。


十二月一日、昭和天皇の御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の三十分以上前に行うべき事が決定された。

勿論、「攻撃三十分以上前宣戦布告」は、相手に応戦準備をさせない奇襲をギリギリのアリバイとして主張できる「違法ではないが限りなく不適切」な戦法である。

十二月二日十七時三十分、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」の暗号電文が発信された。

ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で、当時の日本の最高峰ある。

一二〇八とは十二月八日の事で、「X日(エックス・ディ)を十二月八日(日本時間)と定める」の意の符丁であった。

ちなみに、戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」であった。

重責を背負った空母機動部隊・南雲中将は航海中、「えらい事を引き受けてしまった。断ればよかった。上手く行くかしら?」と草鹿大佐に語りかけたと言う。


真珠湾攻撃(日米開戦)の(三)に続く。

詳しくは小論【真珠湾攻撃(日米開戦)】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2016-06-20 14:11 | Comments(0)