タグ:未来狂冗談 ( 1455 ) タグの人気記事

 

武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)

小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)は、仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)と雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一代天皇)の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を父母に持ちこの世に生を為したとされる。

仁賢七年正月三日に、小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)は立太子する。

仁賢十一年年八月八日に仁賢大王(にんけんおおきみ)が崩御した後、大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が国政をほしいままにした。

重臣・大伴金村(おおとものかなむら)などは、それを苦々しく思っていた。


小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)は、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘・影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛(かげひめ)は既に大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)の子・平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。

海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣(うたがき)に於いて鮪(しび)との歌合戦に敗れた太子は怒り、重臣・大伴金村をして鮪(しび)を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させる。

太子は、武烈一年十一月には大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)をも討伐させた。

その後太子は、武烈一年十二月に即位して、武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)を名乗る。

武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)は、泊瀬列城(はつせのなみき)に都を定め、大伴金村(おおとものかなむら)を大連(おおむらじ)とした。

武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)には子がなかった為、御子代として小長谷部(おはせべうじ/小泊瀬舎人)を置いたという。

武烈八年十二月八日に、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)は後嗣なく崩御した。


なお、「日本書紀」は、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)の異常な行為を記して居るが、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)による悪逆非道の記述は、「古事記」には一切見られない。

「日本書紀」には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる大王(おおきみ/天皇)として描かれている。

その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が併存する。

この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の即位を正当化する意図が「日本書紀」側にあり、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)を暴君に仕立てたとする説が一般的である。

事実「古事記」には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体大王・天皇)が皇位継承者として招かれた事しか記述されていない。

また、大王(おおきみ)の御名・小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)は、仁徳大王(にんとくおおきみ/天皇)の御名(大鷦鷯尊)と雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/天皇の御名(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したとする説がある。

この辺りに、継体大王の皇統を正当化する意図があり、聖帝・仁徳によって開かれた王朝が、雄略の時代を経て悪逆非道の武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替の歴史観が現れているとの説もある。


「日本書紀」には、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の娘の影媛(かげひめ)をめぐって、平群臣鮪(へぐりのおみしび)と歌垣(うたがき)で争った事が記され、それに敗れた太子は重臣・大伴金村に命じて鮪(しび)を討ち取らせたと言う。

ところが、この歌垣の場面は「古事記」に、袁祁王(をけのみこ、後の顕宗天皇)が菟田首(うだのおびと)の娘の大魚(おうお)をめぐって、志毘臣(しびのおみ、「日本書紀の平群鮪(へぐりのしび)に相当)と争った事として記されている。

つまり、歌垣事件に出てくる皇子も女も、全く別の設定になっている。

何れが原伝承かの判断は分かれるが、少なくとも「古事記」と「日本書紀」とでは、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)の伝承にかなりの食い違いが見られ、武烈大王(ぶれつおおきみ/天皇)自身が実在したかどうかについても疑問が残る。

大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。
継体大王(けいたいおおきみ・天皇)と大連(おおむらじ)大伴金村】に飛ぶ。

第一巻第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-07-28 08:21 | Comments(0)  

舒明大王(じょめいおおきみ)

先代の推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)は、六百二十八年四月十五日(在位三十六年余り)に崩御した時、継嗣(けいし=あとつぎ)を定めていなかった。

重臣・蘇我蝦夷(そがのえみし)は群臣に諮(はか=意見を尋ね)ってその意見が田村皇子(たむらのみこ)と山背大兄王(やましろのおおえのおう)に分かれている事を知り、田村皇子を立てて大王(おおきみ/天皇)にした。

これが舒明大王(じょめいおおきみ/第三十四代天皇)である。

これには蘇我蝦夷(そがのえみし)が権勢を振るう為の傀儡(かいらい=あやつり人形)にしようとしたという説と他の有力豪族との摩擦を避ける為に蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。

また近年では、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の嫡男である敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の直系・田村皇子(たむらのみこ)と、庶子である用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)の直系・山背大兄皇子(やましろのおおえのおう)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れた為に、蘇我蝦夷(そがのえみし)はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。


舒明大王(じょめいおおきみ/天皇)の后妃は、後に皇極大王(こうぎょくおおきみ/第三十五代女帝)として即位し、後に重祚して斉明大王(さいめいおおきみ第三十七代女帝)として即位する宝姫王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)である。

ともあれ、舒明大王(じょめいおおきみ/天皇)の時代、政治の実権は蘇我蝦夷(そがのえみし)にあった。


舒明大王(じょめいおおきみ)は在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。

唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、高向玄理と僧侶の霊雲、旻、清安が帰国した。

舒明大王(じょめいおおきみ/天皇)在位中は、百済と新羅からの使節も訪れている。

舒明大王(じょめいおおきみ/天皇)は、四十九歳で崩御と伝えられている(本朝皇胤紹運録・一代要記)が、古い史料による確認は困難である。


関連記事
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。

第一巻第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-06-30 18:48 | Comments(0)  

蘇我蝦夷(そがのえみし)

蘇我蝦夷(そがのえみし)は蘇我馬子(そがのうまこ)の子で、母は物部守屋(もののべのもりや)の妹・太媛(ふとひめ)である。

蘇我蝦夷(そがのえみし)は、飛鳥時代の有力豪族・貴族・大臣として、推古大王(すいこおおきみ/第三十三代天皇・女帝)末年から皇極大王(こうぎょくおおきみ/第三十五代女帝)の御代にかけて権勢を振るう。

侮蔑(ぶべつ)蛮族扱いだった蝦夷(えみし)を、わざわざ名に用いるのは、蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である。

推古大王(すいこおおきみ)の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、推古大王(すいこおおきみ)の遺勅として田村皇子を舒明大王(じょめいおおきみ/第三十四代天皇)として即位させた。

有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と山背大兄王(やましろのおおえのおう)がいたが、蘇我蝦夷(そがのえみし)は山背大兄王を推薦した叔父の境部摩理勢(さかいべのまりせ)を殺害した。

舒明大王(じょめいおおきみ)の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。

また蘇我蝦夷(そがのえみし)の子・蘇我入鹿(そがのいるか)に紫冠(冠位十二階最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授けて大臣と為す。

子で入鹿(いるか)の弟を物部大臣(もののべおおおみ)とし、屋敷を宮上の門(みやかみのみかど)と呼ばせるなど、蘇我蝦夷(そがのえみし)自らを大王(おおきみ)に擬する行為があった。

一方で子の入鹿(いるか)は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自殺に追いこんだ。

六百四十三年入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極大王(こうぎょくおおきみ)の次期大王(おおきみ/天皇)に擁立しようと望んだ。

その為には有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考え、巨勢徳多(こせのとこた)、土師娑婆連(はじのさばのむらじ)の軍勢をさしむけ、山背大兄王の住む斑鳩宮(いかるがのみや)を攻めさせた。

山背大兄王は王子と共に自殺、上宮王家は滅亡した。

六百四十五年、「乙巳の変(いっしのへん)」で皇極大王(こうぎょくおおきみ/第三十五代女帝)の御前で入鹿(いるか)が殺害されると、蘇我蝦夷(そがのえみし)のもとに与する者が集まった。

だが翌日、蘇我蝦夷(そがのえみし)は、入鹿(いるか)の屍(むくろ)を前にして、邸宅に火をかけ、五十九歳で自害した。


関連記事
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。

第一巻第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-06-30 18:45 | Comments(0)  

皇統と鵺(ぬえ)の影人

本来、伝説上の「鵺(ぬえ)」は、土蜘蛛(つちぐも)や鬼(おに)と同様に大陸から先進文明を携えて渡来した部族で成立した大和政権が、ネイテブジャパニーズ(先住民)蝦夷族(えみしぞく)を、蛮人として扱った呼称である。

それ故、当初の「鵺(ぬえ)」は、皇統(大和朝廷)に仇(あだ)なす妖怪として伝承された存在だった。

しかし時代が下がると、蝦夷族(えみしぞく)の抵抗は少なく成り、それよりも皇統(大和朝廷)を利用して権力を得ようと言う者が渡来した部族の内より現れる。

最初は虎の威を借りる為だったかも知れないが、やがては皇統をも利用して権勢を振るう者が新しい「鵺(ぬえ)」として出現する。

その「鵺(ぬえ)」こそ、天皇を操(あやつ)り、又は蔑(ないがし)ろにして権力を欲しいままにする歴史の妖怪達である。

小説・皇統と鵺の影人」は、皇統を蔑(ないがし)ろにして権勢を振るう「鵺(ぬえ)」とそれと戦う皇統の「影人(かげひと)」との物語である。

ただ、「鵺(ぬえ)」に戦い勝った「影人(かげひと)」が、次の「鵺(ぬえ)」となる歴史を繰り返す永い永い物語が、「皇統と鵺の影人」である。

この「鵺(ぬえ)」の事は、各時代の太閤や将軍などの権力掌握者から、太平洋戦争の戦前・戦中の内閣、ヒヨットすると戦後の政治家にも当て嵌(は)まるのかも知れない。

お勧め関連小論
日本人の祖先は何処から来たのか?
鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)
ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族


第一巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-06-02 12:11 | Comments(0)  

欽明大王(きんめいおおきみ/天皇)

欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)は、応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)から分かれた皇統傍系出自の父・継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の子である。

継体大王(けいたいおおきみ)と仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)との子である。

欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)は、母に仁賢大王(にんけんおおきみ)の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を持つ血筋として父・継体大王の皇統の歪みを解消した。

大王(天皇)が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化大王(せんかおおきみ)、安閑大王(あんかんおおきみ)でも、それぞれ手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れている。

さらに欽明自身も、宣化大王の皇女・石姫皇女(いしひめのひめみこ)を皇后に迎えており、何重にも皇統が維持されている。

仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。


この欽明大王(きんめいおおきみ)の御世、大伴金村(おおとものかなむら)物部尾輿(もののべのおこし)を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰(そがのいなめすくね)を大臣(おおおみ)とした。

大連(おおむらじ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏(兵力)と物部氏(兵器)が大連となった。

大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の一つで、王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任し執政を行った。

しかし大伴金村は、大連(おおむらじ)就任直後の五百四十年(欽明天皇元年)に失脚し、物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがる。

その翌年、五百四十一年(欽明天皇二年)に、欽明大王は大連(おおむらじ)・蘇我稲目(そがのいなめ)の娘である堅塩媛(きたしひめ)や小姉君(おあねのきみ)を妃とする。

この蘇我氏の娘達が生んだ三人の弟・妹(用明推古崇峻)が、計四十年間も大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれた。


詳しくは小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。

関連記事
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。

第一巻第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-05-17 16:27 | Comments(0)  

仁賢大王(にんけんおおきみ・天皇)

仁賢大王(にんけんおおきみ・第二十四代天皇)の即位には、流浪と復権と言うドラマチックな物語が伝えられている。

仁賢大王(にんけんおおきみ/天皇)は、古墳時代大王(天皇)で履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)の孫、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子・億計王(おけのおう)である。

父の市辺押磐皇子が、雄略大王(ゆうりゃくおおきみ/第二十一第天皇)に殺されると、弟の弘計王(こうけいのおう/後の顕宗大王/けんぞう・天皇)と共に逃亡して身を隠した。

まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。

兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。

縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇二年に、弟王・弘計が宴の席で王族の身分を明かした。

それを伝え聞いた清寧大王(せいねいおおきみ/第二十二代天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に二王を宮中に迎え入れ、四月に兄王・億計王(おけのおう)が皇太子となった。

清寧天皇五年に清寧大王(天皇)が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が執政した。

結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗大王(けんぞうおおきみ/天皇として即位する。

引き続き億計王(おけのおう)が皇太子を務めたが、天皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。

その後、即位した弟王・弘計の顕宗大王(けんぞうおおきみ)が、わずか在位三年で崩御した為、億計王が仁賢天皇元年一月に大王(おおきみ/天皇)に即位した。

仁賢大王(にんけんおおきみ)は、父を殺した雄略大王(おおきみ/天皇)の皇女・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を皇后に迎え入れる。

理由として、仁賢大王(にんけんおおきみ)自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。


関連記事
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
古墳時代(こふんじだい)】に飛ぶ。

第一巻第二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-05-17 16:24 | Comments(0)  

非人穢多(ひにんえた)・部落差別

日本には、山窩(サンカ・サンガ)と源流を同じくする非人穢多(ひにんえた)と言う被差別階級が永い間存在した。

被差別階級・非人穢多(ひにんえた)の長である穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許されたていた。

江戸期の非人穢多(ひにんえた)差別制度は、明治維新後の部落民差別として残って行く。


狩猟の民である先住民(蝦夷族/エミシ族)山窩(サンカ・サンガ)は、仏教の教えである「殺生の禁止」を生業としていた。

しかし大和朝廷では、仏教を国家統一の為に採用して啓蒙していたので、「殺生の禁止」を生業としていた山窩(サンカ・サンガ)は、永く非主流の狩猟遊民として定住もままならない存在だった。

この歴史現象を公平に判断すると、この仏教の教えである「殺生」を禁じた教えを渡来民族政府だった大和朝廷が採った事は、日本列島運営の政治的な計算も在った筈である。

正直大和朝廷政府は、原住民族である先住民(蝦夷族/エミシ族)の抵抗には平安末期まで苦労していた。

それでも時を費やしながら、先住民(蝦夷族/エミシ族)の末裔である賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)を含む平民にも、仏教の教えは徐々に定着して行った。

現にこの「仏教化政策」は成功し、四足動物の建前上での食肉禁止は明治維新までほぼ国民の多数合意されていた。

その食肉禁止の文化も、明治維新の文明開化で薄れて行った。

基を正すと歴史経過の中で取り残されたに過ぎない一部の部族文化を、「自分達と価値観が違うから」と差別するは、最初から間違っていたのだ。

但し一部の賤民(せんみん)部落に残った四足動物処理技術文化への差別は、一部の心無い人々の意識の中に現在でも残っているのは残念である。


蝦夷(エミシ)関連小論・【鬼伝説に隠された先住民(蝦夷族/エミシ族)】を参照下さい。
蝦夷(エミシ)関連小論・【ネイティブジャパニーズ・日本列島固有の原住民族】を参照下さい。

関連記事
山窩(サンカ・サンガ)】に飛ぶ。
賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)】に飛ぶ。
閏刑(じゅんけい)としての奴刑(しゃつけい)】に飛ぶ。
江戸町方人別帳(えどまちかたにんべつちょう)】に飛ぶ。
巫女(みこ)と遊女(ゆうじょ)】に飛ぶ。
遊郭(ゆうかく)と遊女(ゆうじょ)】に飛ぶ。
吉原遊廓(よしわらゆうかく)と廓内女郎折檻(くるわうちじょろうせっかん)】に飛ぶ。
女衒(ぜげん)】に飛ぶ。
市中引き廻し(しちゅうひきまわし)】に飛ぶ。
八百屋お七と天和の大火(てんなのたいか)】に飛ぶ。
両班(ヤンバン・特権貴族階級)】に飛ぶ。
切捨て御免のルーツ】に飛ぶ。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-04-23 19:45 | Comments(0)  

光明皇后(こうみょうこうごう)

光明皇后(こうみょうこうごう)は、奈良時代聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の皇后として、他に類を見ない程の大きな足跡を残している。

藤原不比等県犬養橘三千代(あがたいぬかいのみちよ)の女子で、光明皇后(こうみょうこうごう/光明子)は聖武天皇(しょうむてんのう)の母である文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人の藤原宮子とは異母妹である。

つまり聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の母親の妹である光明子(光明皇后)が、異母姉の子と結婚した事に成る。

諱は安宿媛(あすかべひめ)とされた。

通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とうさんじょう)で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)である。

光明皇后(こうみょうこうごう)は、皇族以外から立后する先例を開いた后妃である。


光明皇后(こうみょうこうごう)は、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代/首皇子/おびとのみこ)の皇太子時代に結婚し、七百十八年(養老二年)、阿倍内親王(後の女帝孝謙天皇・称徳天皇)を出産する。

七百二十四年(神亀元年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。

七百二十七年(神亀四年)、皇子・基王(もといおう)を生んだ。


七百二十八年(神亀五年)、皇太子に立てられた基王(もといおう)又は基皇子(もといのみこ)が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。

長屋王の変後、七百二十九年(天平元年)に皇后にするとの詔(みことのり)が発せられた。

この詔(みことのり)は、王族以外から立后された初例で、以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。


光明皇后は、仏教を篤く信じ、貧しい人に施しをするための施設・悲田院と 医療施設である施薬院を設け、慈善を行った。

聖武天皇の遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設された。

さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わり、東大寺大仏、国分寺、国分尼寺の造立に深いつながりをもつ。


娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。

七百五十六年(天平勝宝八年)、夫の聖武太上天皇が崩御する。

その二年後に、光明皇后は皇太后号が贈られた。


聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、その娘・孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代女帝)が仏教に熱心に帰依して仏教を国家統治の中心に置いていた。

七百六十年(天平宝字四年)に光明皇太后は崩御し、佐保山東陵に葬られた。


関連記事
大王(おおきみ/天皇)】に飛ぶ。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱】に飛ぶ。
大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑】に飛ぶ。
中臣氏(なかとみうじ)と藤原氏(ふじわらうじ)】に飛ぶ。
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
平城京(へいじょうきょう)】に飛ぶ。
藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)】に飛ぶ。
律令制に於ける官職】に飛ぶ。
律令制に於ける位階】に飛ぶ。
皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)】に飛ぶ。
興福寺(こうふくじ)】に飛ぶ。

第一巻の二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-04-03 03:11 | Comments(0)  

藤原宮子(ふじわらのみやこ)

藤原宮子(ふじわらのみやこ)は、文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人である。

宮子(みやこ)は、藤原不比等の長女として藤原を名乗るも異説が在る。

文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)が紀州御坊へ療養の旅をしていた時、美しい海女を見初め、手元に置くことを欲したが、身分の問題が在る。

その対処として権力者・藤原不比等の養女に一旦し、藤原の貴種として嫁入りさせたと言う説が存在する。

その異説を黙殺し不比等の実娘とすれば、母は賀茂比売(かものひめ)である。

異母妹で聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の皇后・光明皇后とは義理の親子関係にも当たる。


六百九十七年(文武天皇元年)八月、持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の譲位により即位直後の文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の夫人となる。

なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘二人も嬪(ひん/寝所に侍する女官)となっている。

宮子(みやこ)が文武帝夫人となった背景には、阿閉皇女(あへのひめみこ/女帝・元明天皇)付き女官の県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の存在が在った。

県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)は、持統帝の末頃に藤原不比等と婚姻関係になったと考えられ、その後押しで宮子(みやこ)が内裏に入ったと推測されている。

それまで少壮官僚であった藤原不比等は、草壁皇子の第一皇子で母は元明天皇の文武帝が即位するに伴い中央政界に台頭している。

ただし、夫人や嬪(ひん/寝所に侍する女官)の制度化は大宝令であったとする説では、宮子(みやこ)の夫人号は後世の脚色だったとされる説が存在する。

つまり藤原氏(宮子)・紀氏・石川氏は当初は「妃」で令制導入に基づいて嬪(ひん/寝所に侍する女官)とされ、後に皇子を生んだ宮子(みやこ)が夫人とされたと解する見方もある。


七百一年(大宝元年)、宮子(みやこ)は首皇子(おびとのみこ/後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥り、その後は長く皇子に会う事はなかった。

文武帝や父・藤原不比等等肉親の死を経て、七百二十三年に従二位に叙される。

首皇子(おびとのみこ)が即位した翌年(七百二十四年)に宮子(みやこ)は正一位、大御祖(文書では皇太夫人)の称号を受けたが病は癒えず、七百三十七年にやっと平癒する。

なお、宮子(みやこ)の病気回復の時に関わった僧侶が玄昉であり、橘諸兄のもとで玄昉(げんぼう)が権力を振るったのはこの功績によるものと考えられる。


宮子(みやこ)は、息子・文武帝と三十六年ぶりに対面した。

そして、孫・阿倍内親王(孝謙天皇)が即位した七百四十九年には、宮子(みやこ)は太皇太后の称号を受け、七百五十四年に推定七十歳前後で崩御した。

宮子(みやこ)は、長期の病気にかかりながらも跡継ぎを生み、天皇の后としての最低限の役割は果たした。

しかし跡継ぎの聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)には、第二皇子安積親王(あさかしんのう)薨去後はついに男子の跡継ぎに恵まれなかった。

一族である藤原氏と他氏貴族との権力闘争などもあいまって、宮子(みやこ)崩御後二十年も経たないうちに天武皇統は事実上断絶してしまう事となった。


関連記事
大王(おおきみ/天皇)】に飛ぶ。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱】に飛ぶ。
大海人皇子(おおあまのみこ)の疑惑】に飛ぶ。
中臣氏(なかとみうじ)と藤原氏(ふじわらうじ)】に飛ぶ。
大王(おおきみ)=天皇(てんのう)】に飛ぶ。
平城京(へいじょうきょう)】に飛ぶ。
藤原南家流(ふじわらなんけりゅう)】に飛ぶ。
律令制に於ける官職】に飛ぶ。
律令制に於ける位階】に飛ぶ。
皇居内裏女官(こうきょだいりにょかん)】に飛ぶ。
興福寺(こうふくじ)】に飛ぶ。

第一巻の二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。

[PR]

by mmcjiyodan | 2017-04-03 03:07 | Comments(0)  

文武大王(もんむおおきみ/天皇)

文武大王(もんむおおきみ/第四十代天皇)は、皇太子のまま亡くなった草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男である。

文武(もんむ)の母は、天智大王(てんちおおきみ/第三十八代天皇)の皇女にして持統天皇(じとうてんのう/第四十一代女帝)の異母妹で、後に元明大王(めいげんおおきみ/第四十三代天皇)となる阿陪皇女である。

文武天皇(もんむてんのう/第四十二代)の幼少期は、父・草壁が皇太子のまま亡くなり即位していない為、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられる筈だった。

しかし祖母である持統天皇の後見もあってか、文武(もんむ)は、立太子以前から皇子の扱いを受けていた。

父・草壁が六百八十五年五月七日(持統天皇三年年四月十三日)に亡くなり、六百九十六年(持統天皇十年七月十日)には伯父にあたる高市皇子も薨じた。


ために、六百九十七年三月十三日(持統天皇十一年三月十三日)に、文武(もんむ)は立太子する。

立太子から五カ月余り、六百九十七年八月一日(文武天皇元年八月一日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、六百九十七年九月七日(九月十七日)即位の詔(みことのり)を宣した。

文武帝は、当時十五歳という先例のない若さだった為、先帝・持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。

文武帝がこの若さで即位した理由を説明するには皇太子になった経緯がある。

現存日本最古の漢詩集「懐風藻(かいふうそう)」によれば、持統天皇が皇位継承者である日嗣(ひつぎ)を決めようとしたときに、群臣たちがそれぞれ自分の意見を言い立てたために決着がつかなかった。

その際に弘文天皇(大友皇子)の第一皇子・葛野王(かどののおう)が、「わが国では、天位は子や孫がついできた。もし、兄弟に皇位をゆずると、それが原因で乱がおこる。この点から考えると、皇位継承予定者はおのずから定まる」という主旨の発言をした。

ここで天武天皇の第九皇子・弓削皇子(ゆげのみこ)が何か発言をしようとしたが、葛野王(かどののおう)が叱り付けた為、そのまま口をつぐんでしまったとされる。

持統天皇は、この葛野王(かどののおう)の一言が国を決めたと大変喜んだとされる。


これには、持統天皇が軽皇子を皇太子にしようとしていた際に、王公諸臣の意見がまとまらなかった事があるとされる。

このような論争が起こった事には、天武・持統両天皇がもともと自分たちの後継者を草壁皇子と定め、皇太子に立てた。

その軽皇子(文武帝)の成長を待つ間は、時間を稼ぐ為に持統帝が自ら皇位についた。


ただ、天武大王(てんむおおきみ/第四十代天皇)には、草壁皇子以外にも母親の違う皇子が他に居た。

彼らは、草壁皇子の死後皇位につく事を期待したものの、持統天皇の即位によって阻まれたが、持統天皇の次の天皇位は新たなチャンスとなった。

この事から考えると、天武天皇の皇子である弓削皇子(ゆげのみこ)は、皇位継承権を主張しようとしたと考えられる。

これは、皇位継承が兄から弟へと行われるべきという考え方と、親から子・孫へと行われるべきという考え方の二通りがある為とされる。


大王(おおきみ/天皇)】に飛ぶ。

第一巻の二話】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)

未来狂 冗談の★公式HP(こうしきホームページ)

未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくるにほんブログ村 政治ブログ 政治評論へ<=このブログのランキング順位確認できます。
[PR]

by mmcjiyodan | 2017-04-03 03:01 | Comments(0)