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源頼朝(みなもとよりとも)

源氏の頭領「源頼朝(みなもとよりとも)」は源義朝の三男であったが、母が正室 (藤原季範の娘・由良御前)で在った為に「嫡男(ちゃくなん)」として育てられる。

幼名を、「鬼武者」と言った。

平治の乱の折に父義朝に従い、十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に平清盛の継母・池禅尼の助命嘆願もあり処刑を免れ、伊豆の国(いずのくに)・「蛭ヶ小島」に流される。

平治の乱の折に、源頼朝(みなもとよりとも)の父・義朝に従い共に討ち死にした長男と次男が居たが側室の腹だった。

この妾腹の子を庶子と言い、この場合庶兄が二人いた事になる。

この時代、身分違いの女性は、幾ら愛されても「妾、側女」で、正室にはしかるべき釣り合いの取れた女性(にょしょう)を娶る。

従って、正室(由良御前)の腹である頼朝が三男であるが、世継ぎ(家長)に成る。

源頼朝は平治の乱の折に父・義朝に従い十四才で初陣し、平家に敗れて捕らえられるが、幼少の為に処刑を免れ、伊豆の国(いずのくに)「蛭ヶ小島」に流刑とされる。

その流刑先の監視役が、後に源頼朝の正妻となる北条正子の父・北条時政だった。

伊豆・蛭ヶ小島は狩野川流域の砂州の一郭に在り、周囲を湿地帯に囲まれた沼地の中の島で、現在は水田に囲まれてヒッソリと在る。

多感な時期を、源氏の棟梁の血筋として生まれたばかりに囚われの身として過ごした源頼朝は、周囲を監視に囲まれ心傷付きながら孤独の中で育った筈である。

この流人時代が長かった為に、頼朝は猜疑心が強い性格になったのではないだろうか?

そして初陣の平治の乱も、再起の旗揚げをして自らが指揮した石橋山の合戦も敗退して、戦にはトンと自信がない武将だった。

この源頼朝が、関東武士の代表と成って平家の勢力を討ち、征夷大将軍に就いて所謂武士として始めての政権・鎌倉幕府を開いたのである。

源頼家(みなもとよりいえ/鎌倉幕府二代将軍)】に続く。
源実朝(みなもとさねとも/鎌倉幕府三代将軍)と鶴岡八幡宮暗殺】に飛ぶ。

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源頼朝については記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。
詳しくは皇統と鵺の影人・本編の【第二巻】をお読み下さい。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:31 | Comments(0)  

源(土御門)通親(みなもとの・つちみかど・みちちか)

源通親は土御門を名乗る公家であったが、安倍氏の血筋ではない。

通親は村上源氏嫡流の生まれであるが、この頃に成ると「土御門」の公家の名跡は安倍氏に拘らない公家の名流として帝よりの賜り名跡として通用していた。

村上源氏嫡流に生まれた土御門通親(みちちか)は、後白河上皇院政初期の千百五十八年(保元三年)に従五位下に任じられた。

通親(みちちか)の青年時代は平清盛とその一門の全盛期にあたり、通親(みちちか)も清盛の支援を受けた高倉天皇(第八十代)の側近として平家と関係を築いた。

実はこの源通親(みなもとのみちちか)、当初勘解由小路党には敵味方のどちらか判り難い存在だった。

権力を持つまでの源通親(みなもとのみちちか)の政治手法が、多分に風見鶏的であったからだが、当時の政治情勢で中枢に伸し上がるには、止むを得ない事だった。

後に伸し上がった公家政治家・源通親(みなもとのみちちか)は、その邸宅の号により、土御門(つちみかど)内大臣の称をもって世に知られる。

つまりここから暫くの間、この物語に村上源氏嫡流の土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)が絡む事と成る。

通親(みちちか)の村上源氏は頼朝の河内源氏と違い最高級公家の家柄である。

平安末期の千百八十三年(寿永二年)夏、平家木曾義仲に都を追われ安徳天皇を連れて西国に落ちた時に、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は比叡山に避難した後白河法皇に同行し、平家との訣別を表明した。

その後土御門(源)通親は、木曾義仲の入京と没落などを経て、後白河法皇が新たに立てた新帝後鳥羽天皇の乳母であった藤原(高倉)範子、続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室(正室説あるも、疑わしい)であった藤原伊子(ふじわらのいし)を側室に迎えて曹洞宗開祖・道元を為している。

千百九十八年(建久九年)、後鳥羽天皇の退位と土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)の孫でもある第一皇子為仁(ためひと)親王の即位が実現し、土御門(つちみかど)天皇(第八十三代)となる。

新帝・土御門天皇(第八十三代)の外祖父となった土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)は権大納言と院庁別当を兼任し、人々に恐れられる事になった。

十二世紀後半は、平氏政権の盛衰、鎌倉幕府の成立が象徴するように、日本史上稀にみる激動の時代であったが、土御門(源)通親(つちみかど・みなもとの・みちちか)はこの困難な時局を皇統を補佐して泳ぎ切り、武力を持たない公家政治家として源平の武家相手に怯(ひる)むことなく立ち向った数少ない一人であり、後白河院政及び以後の朝廷中枢に立った一代の英傑である。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:31 | Comments(0)  

源義経(みなもとよしつね)

源義経(みなもとよしつね/牛若)は、母・常盤御前が源氏の棟梁・源義朝(みなもとのよしとも)の側室となり、義朝の九男として千百五十八年(保元三年)に生まれる。

正室の子、異腹の長兄が頼朝(よりとも)、次兄が範頼(のりより)で、同母兄に七男・(今若(阿野全成・あのぜんじょう)と八男・乙若(源義円・みなもとのぎえん)がいる。

千百五十九年(平治元年)に平治の乱が起き、父・源義朝が平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗死した時、牛若(義経)は数え年二歳だった。

母・常盤御前は、幼い今若、乙若、牛若の三兄弟の助命を敵将・平清盛(たいらのきよもり)に願い出て、清盛の側室に成る事で三人の助命に成功する。

その後、常盤御前は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は十一歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう/義経)と名乗った。

千百七十四年(承安四年)、十六歳の遮那王(しゃなおう/義経)は僧になる事を拒否して鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行い源義経(みなもとよしつね)を名乗る。


源義経(牛若丸・遮那王)は、腹違いの兄(源頼朝)に愛されなかった人物である。

純粋だったが故に、一途に兄(源頼朝)の権力奪取に尽くしながら、その思いは通じる事が無かったのである。

義経人気が兄(源頼朝)に危険視された事と、傍(そば)に仕える者達が、「或る組織の者」だったが為に、疑り深い兄(源頼朝)とその嫁(北条政子)の猜疑心の的に成ったのである。

源義経は、歴史に現れる義朝の息子としては一番下(第九男)の息子である。

源頼朝の腹違いの弟にあたり、若い頃は「牛若丸」と言った。

兄二人と同様に、幼かったので父の敗戦にも関わらず、死罪を免れた。

鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、僧にさせられかけたのは有名な話である。

運命の子、牛若丸(源義経)が生まれて来た時は、一連の大乱、「保元の乱」の只中だった。

本来なら、九男坊の牛若は気楽な人生が待っていたのかも知れない。

しかし父義朝は、牛若丸(義経)がまだ歩けないうちに父・義朝が起こした平治の乱で平清盛に破れ、非業の最期を迎えている。

牛若丸(義経)は、実母・常盤御前が敵将・平清盛の妾(側室)になると言う体を張った助命嘆願で兄二人今若丸、乙若丸と共に助命され、鞍馬寺(くらまでら)に預けられ、そこで「或る組織の者」達に囲まれて育てられ、五年後の義経十六歳の時に奥州藤原氏の藤原秀衛(ふじわらひでひら)の下を頼って立派な武将に成長するまで保護されている。

藤原秀衛の下で兄・頼朝の挙兵を聞き、奥州からはせ参じて富士川の戦いに勝利し凱旋して来た頼朝と伊豆国・で対面を果たし、頼朝の指揮下に入って兄・源範頼(みなもとのりより)と共に平家討伐に京へ攻め上る。

そこで範頼と義経の軍勢は、いち早く平家討伐に立ち上がって京の都から平家を追い払った従兄弟の木曽義仲(きそよしなか/源義仲)の軍勢と義仲を兄・頼朝の命で討ち取る。

木曽義仲を討ち取った義経は平家追討に取り掛かり一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」で奇襲に成功すると、屋島の戦い壇ノ浦の戦いと平家を九州の地まで追い詰めて平清盛の血(孫)を引く幼帝安徳天皇(八歳)を二位の尼(祖母で、清盛の妻)もろとも入水、崩御(ほうぎょ)させ、事実上平家を滅ぼしている。

意気揚々と京の都に凱旋した義経に待っていたのは、後白河上皇や兄・頼朝の熾烈な権力闘争だった。

源義経一党・修験黒幕説】に飛ぶ。
源義経・一ノ谷(城戸の戦い)の奇策「ひよどり越えの逆落とし」】に飛ぶ。
屋島の戦い(やしまのたたかい)】に飛ぶ。
壇ノ浦の戦いと松浦(まつら)水軍】に飛ぶ。
平泉・高館(たかだち)/衣川館の襲撃】に飛ぶ。
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郎党関係記事
伊勢義盛(いせよしもり)】に飛ぶ。
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鈴木重家(しげいえ)・亀井六郎兄弟、】に飛ぶ。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:28 | Comments(0)  

源義経一党・修験黒幕説

悲劇の武将、源義経に従うのは、修験山伏組織のエリート集団だった。

源義経が平家の目を逃れて奥州・藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば「金売吉次と言う金商人の手配によった」と言うが、この人物の実在性は今日疑われていて、実際には「名も無い影の働きに拠る、または、金売吉次と名乗った影がいた」と見るべきで、少年義経(遮那王)は、何者かの将来の備えの思惑で、軍事顧問まで付けて育成されていたのかも知れないが、裏陰陽組織・勘解由小路の仕事に、確たる証拠は残らない。

実はこの修験黒幕・勘解由小路(かでのこうじ)党の影には、表ざたには出来ない或る「やんごとなきお方」の御意志が働いていた。

読み物や劇作にするには、筋書きがドラマチックな方が楽しめる。

それで物語は史実に脚色が付け加えられて時を経ると、やがてその脚色の方が世に常識として認識される誤解が生じる。

例えば、牛若丸(義経)と武蔵坊弁慶の出会いが「京・五条橋」と言うのは後の作家の創作で、高貴な方の謀略に拠る出遭いの方が遥かに信憑性が高いのである。

義経の卓越した戦闘術の謎が明らかに・・・・・源義経(牛若丸)が、いかに源氏の血統を有していても、それを担ぎ出す者達が居ないと、妾腹で九男坊の彼は、歴史の表舞台には踊り出る事は無かった筈である。

源義経の生涯は、帝の思いに翻弄された不条理なものだった。

それでも、短いが確かな愛の時間にも、源義経はめぐり合っていた。

詳しくは小論・【陰陽師=国家諜報機関説】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:23 | Comments(0)  

源範頼(みなもとのりより)

源範頼(みなもとのりより)は、源頼朝(みなもとよりとも) の同腹の兄弟で、腹違いの弟・源義経の兄である。

幼少の頃の名を、蒲冠者(かばのかんじや)と言う。

源氏の棟梁としてトップに在った源頼朝と、腹違いながら末っ子で派手な戦(いくさ)ぶりの義経の陰に隠れて、世間では存在が薄いが、実は中々の人物である。

父・源義朝平治の乱敗戦のおり、幼かった為に助命された蒲冠者は、身の置き所を求めて監視の目を盗み、遠州(今の静岡県西部)から源家の昔からの地盤、関東に脱出する。武蔵の国石戸(今の埼玉県・北本市付近)辿り着き、秘密裏に源氏に味方する人々に出会ってそこに安住する。

この時に集って来た家臣郎党の中に、義経と同様に勘解由小路党の手の者が、密かに紛れ込んでいた。

彼らの目的は、義経とほとんど変わらなかったが、義経ほど大物は派遣されなかった。

二十年の歳月が流れ、兄・頼朝が挙兵、範頼は呼応して頼朝軍に鎌倉の地で合流する。

頼朝にすれば、範頼は同父母の弟で、異母弟の義経拠り遥かに信頼が置ける。

範頼は、頼朝の代官として平家追悼軍の全軍の指揮を任され、次々に呼応してくる各武士団をよく掌握し、義経の強力な前線部隊と力を合わせて、勝ち進む。

その手腕は、義経のはなばなしい戦闘の影に隠れてはいるが、けして弟には引けは取らない。

それ処か、大軍の統率力は義経より遥かに秀でている。

当然だが、勘解由小路党の軍事顧問団が機能していたのだ。

その信頼が置ける筈の実弟すら、小心者の頼朝は信じられない。

勘解由小路党の影が、油断ならぬ相手として見え隠れしていたからで有る。

範頼を追い落とすきっかけは、ある「大事件」が引金と成った。

それは、頼朝が征夷大将軍に就任して、一年たった頃の事だ。

当時の鎌倉幕府の重臣を集めたレクレーションを兼ねた戦闘訓練「富士の巻き狩り」で勃発した仇討ち事件、曽我兄弟による日向地頭職・工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)襲撃事件である。

工藤氏は、「藤原南家」を祖とする伊豆の国辺りの小領主だった。

伊豆半島中央を流れる狩野川の由来と成った狩野氏も、同じ一族である。工藤氏は、伊豆の国三島神社(大社)で、妻方の北條氏の支援を受け挙兵した源氏の棟梁、源頼朝(みなもとよりとも)に従い、鎌倉幕府成立に助力した。

その功績により頼朝の信任を得、日向の国の地頭職など二十四ヵ所に所領を得た。

つまり、工藤左衛門尉祐経(くどうさえもんのじょうすけつね)は、鎌倉幕府の重臣(有力御家人)の一人である。

その絶頂期に、所領紛争の恨みで同じ祖をいただく伊豆の国の伊東氏の息子二人(曽我兄弟母親の再婚で姓が曽我に変わっている)に討たれてしまった。

あくまでも、私闘である。

しかしこの「あだ討ち」は、将軍の仮陣屋で起こっている。

場合によっては、警備の不手際、或いは易々と地頭職が討たれた事で、幕府の権威を失墜し兼ねない大事件であった。

この襲撃事件が、遠い鎌倉に伝えられた時情報が錯綜した。

兄・曽我十朗祐成(そがのじゅうろうすけなり)はその場ですぐに討たれた。

しかし、弟の曽我五郎時致(そがのごろうときむね)が頼朝にあだ討ちの趣旨を訴えるべく、抜刀のまま頼朝の元(幕営)に向かった事が、「頼朝が討たれた」と言う誤報となり、鎌倉の北条政子と源範頼に伝わった。

ここで範頼が政子を「万が一の事が有ってもこの範頼が付いています」と慰めた事を逆手に取って、「範頼逆心の疑いを掛けた」と言う。

酷い「難癖」である。

範頼は、弁明したが聞き入れられず、伊豆国・修禅寺に流された後、頼朝の命で北条家の刺客団に襲われ自害している。

最初から殺す気でいたのだから、弁明など聞く訳がない。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 18:16 | Comments(0)  

三方ヶ原合戦(みかたがはらかっせん)

千五百七十二年 、武田信玄は将軍・足利義昭の命を受け、大軍を率いて京都への上洛(京都への進軍)の準備に取り掛かる。

北条氏との同盟締結により背後を衝かれる心配のなくなった信玄は、手始めに、予(か)ねてよりの念願だった遠江を手中にすべく千五百七十二年(元亀三年)十月、甲府を出発した。

この時武田信玄が率いた軍勢は二万五千騎と言われる。

この大軍が信濃国の高遠から飯田、さらに青崩峠および兵越峠を越えて遠江国に侵入した。

武田信玄が、遠州(遠江国)と信州(信濃国)の国境を、二万五千騎の軍勢を率いて越境を開始した。

行く手には織田・徳川連合軍の領土と軍勢が待ち受けている。

今度は、明らかに上洛を狙っていた。

今川家亡き後、甲斐源氏・武田家は、征夷大将軍に最も近い男の筈だった。

何としても、それを掴み取らねばならない。

彼が動いたのは、患っている持病が悪化しつつあり、時間が無かったからである。

対峙する徳川家康は、武田信玄にとって見れば、上杉北条と比べ造作もない相手の筈である。

三河、遠江二ヵ国の太守に成ったとは言え、長い事今川家の人質上がりの属国の将だった男である。

今また徳川家康は、織田信長の属国の将もどきに従って、三河、遠江二ヵ国の太守に成りあがっただけで、百戦錬磨の自分に取っては、戦国を生き抜いて来たキャリアが違う。

前々年の千五百七十年(元亀元年)に漸く浜松引馬城を居城とした徳川家康の勢力は、最大動員してもせいぜいが八千騎であった。

家康は信玄の出陣を知るとすぐに同盟者の織田信長(おだのぶなが)より援兵を派遣してもらったが、その兵も三千騎ほどで、徳川・織田両軍の兵をもってしても武田方の半分にも満たない兵力であった。

信長の方でもあちこちに出兵しており、その状況下では三千騎を捻出するのが精一杯だったのである。

武士道の精神】へ続く。

第三巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:59 | Comments(0)  

水戸黄門の真実

水戸光圀大日本史編纂には、影の目的があった。

それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

江戸幕府において水戸藩主は御三家の内、唯一江戸定府(常駐)の将軍補佐役(注、副将軍と言う役職は正式には無い)である。

そして幕府・幕閣に於いては老中職(特設・大老職有り)などの協議を将軍が裁可するので、水戸藩主・江戸定府(常駐)の職務上の真の役割が判らない。

そして「近代兵器である鉄砲・大砲の扱いと諜報能力に優れていた」とする雑賀党を召抱えの上、更に藩主の異母弟を婿に入れて雑賀党の統領に据えている。

ヒヨットすると公には出来ないが、水戸藩主は幕府の影の部分を受け持ち、大日本史編纂の為の水戸藩・歴史調査使(役)と称する派遣要員は、日本版CIA、KGB・・「裏陰陽寮の再現」の大名領内派遣の口実なのかも知れない。

水戸藩重臣・雑賀(鈴木)家の謎】へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

関連記事
常陸国水戸藩・徳川頼房(とくがわよりふさ)】に飛ぶ。

水戸(光圀)黄門(みと(みつくに)こうもん)については第四巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第四巻をお読み下さい。

第四巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:52 | Comments(0)  

水戸藩(みとはん/水戸徳川家)

大日本史編纂には隠された真実があった。

徳川家康の十一男・徳川頼房が常陸国(茨城県)に入り水戸藩とし、御三家としての水戸家が成立したのだが、実はこの水戸藩、表向きの理由以外に徳川家康の意向に拠り当初から容易ならぬ密命を帯びて設置されていた。

水戸光圀の大日本史編纂には、影の目的があった。

それは、編纂の為の現地調査を名目とした諸国大名家監視体制だった。

活躍したのは、雑賀党当主・鈴木孫三郎重朝(しげとも)雑賀衆の一団だったのである。

この意表を突いた諸大名制御策、誰かの用意周到な知略の賜物で、段取りも時間も念が入っている。

徳川家康の十一男・徳川頼房が家康の命により常陸国(茨城県)に入り、水戸藩として御三家としての水戸家が成立する。

御三家に数えられる水戸家は、家康十一男・頼房が二代将軍・徳川秀忠の三男・徳川忠長を家祖とする駿河徳川(松平)家・(五十五万石)の断絶後、千六百三十六年(寛永十三年)に徳川を賜姓された家である。

つまり本来は別の立藩目的が在った水戸家だが、前後の事情から水戸家は補欠から御三家に繰り上げられた経緯が伺えるのである。

水戸藩は将軍の補佐を務める事を任とし、江戸定府(参勤交代なしの江戸在住)であった。

しかし、そもそも表向きを老中・大老が合議決定する幕閤に在って、水戸藩々主の江戸定府の役割は何だったのか?

その辺りに、水戸藩(みとはん)が徳川本宗家を補佐する隠された密命がなければ、ここは説明が着かないのである。

水戸黄門の真実】へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

注意)、 本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。

従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。

幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。

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江戸幕府・成立大略】に飛ぶ。
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水戸藩重臣・雑賀(鈴木)家の謎】へ飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:44 | Comments(0)  

水戸(光圀)黄門(みと(みつくに)こうもん)

水戸黄門(みとこうもん)=徳川光圀(とくがわみつくに)は、徳川家康の十一男・徳川頼房の三男である。

父・徳川頼房が常陸国(茨城県)に二十六万石を与えられて御三家の一つ水戸藩を起こした事に始まる水戸徳川家の第二代藩主を勤め、隠居後に藩校・彰考館に安積澹泊(あさかたんぱく・覚兵衛)、佐々宗淳(さっさむねあつ・介三郎)らを登用、「大日本史」の編纂に取り掛かる。

公表では、史書編纂を志した光圀は水戸藩世子時代の千六百五十七年(明暦三年)には、明暦の大火で小石川藩邸が焼失して駒込別邸へ移った事を期にここで史局を開発し編纂事業を開始する。

千六百七十二年には、光圀は編纂事業を本格化させ、駒込別邸の史館を小石川本邸へ移転して「彰考館」と改め、史館員も増員し、遠隔地へ派遣して史料収集を行い、表向き特に南朝関係の史料を広く収集している。

実は南朝関係の史料は全国に分布し、その資料編纂を目的とした調査が理由となると何処の藩も水戸藩々士の藩領入国を断れない。

尚、「大日本史」は光圀死後の千七百十五年(正徳五年)に第三代水戸藩主・徳川綱條(とくがわつなえだ/光圀養子)による命名で、光圀時代には「本朝史記」や「国史(倭史)」と呼ばれている。

光圀が第二代藩主に収まるには頼房・長男と言われる松平頼重(まつだいらよりしげ)との奇妙な経緯があり、第三代藩主には松平頼重(まつだいらよりしげ)の長男・綱條(つなえだ)を養子に迎えている。

水戸藩第二代藩主・徳川光圀は、第三代藩主・綱條(つなえだ)に家督を譲っての隠居後、藩領内からほとんど出る事が無かったのだが、漫遊記では水戸光圀公が全国を歩いて悪役人を懲らしめ、世直しをして居る事に成っている。

これは架空(フィクション)の物語で、幕末になって、「講談師(氏名は不明)が創作した」とされている。

この水戸黄門漫遊記に登場する「助さん格さんに忍者役のサポートの一団」のモデルが、驚く事に「全て雑賀衆だ」と言ったら、どうだろうか?

事実の方が、講談師の創作より意表をついている事になる。

水戸黄門の真実】 へ続く。
大日本史編纂の謎】へ続く。

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詳しくは【水戸徳川家異聞】を参照。

水戸(光圀)黄門(みと(みつくに)こうもん)については第四巻の主要登場人物です。記載項目が多過ぎてブログでは書き切れません。詳しくは皇統と鵺の影人・本編の第四巻をお読み下さい。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:41 | Comments(0)  

水揚げ・〔一〕村落の水揚げ親

戦前の日本社会では、男女共に大人として扱われる年齢が現在より若かった。

女性の場合は初潮、或いは数え年の十三歳を節目として成人と見做され、「おはぐろ(お歯黒)祝い、またはコシマキ(腰巻)祝い」が開かれ、暫くすると「水揚げ」となる。

この「水揚げ」、成人する女性に性行為を実地して習得させる事である。

親がその相手を探し、依頼する事が多かった。

「水揚げ」の相手は、村の年長者で性行為の経験が豊富な事には勿論の事、人柄が良く水揚げ後も娘の相談相手になれる後見人として、村長・村主・庄屋・名主や村役と言った資産も政治力も在る村の実力者の男性が選ばれた。

娘は、水揚げ親に女性としての性交術を実践伝授される訳で、特別な縁(えにし)が成立し、つまり「水揚げ親制度」は、娘の将来に渡る後見人を獲得する事である。

そして後見人を獲得する事は勿論の事、同時に日頃のお礼の意を示す事や一家のその後をその実力者に託す為の人身御供伝説を彷彿させる「貢(みつぎ)の正当化」ではなかったのか?

その水揚げを経る事によって、その娘に対する「夜這い」が解禁となる。

これらは、信仰深い人々にとって「神の計(はか)らい」だったので有る。

現代の感覚では、古(いにしえ)の水揚げ年齢が十三歳・十四歳では酷く早い様に感じるだろうが、当時の習俗的認識では普通の感覚で在った。

そしてその水揚げ年齢の感覚は、けして古いものでは無く、第二次世界大戦後の暫くまでは続いて居た。

水揚げ・〔二〕芸妓の水揚げ】に続く。

詳しくは、小論【私の愛した日本の性文化】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2008-04-27 17:37 | Comments(0)