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生贄(いけにえ)

贄(にえ)と言う文字は、「神に対する捧げ物」と言う意味が在る。

そして熟語に、生贄(いけにえ)と言う言葉がある。

つまり生贄(いけにえ)とは、「生きたままの、神に対する捧げ物」と言う意味である。

そして一方では、渡来部族が現住民族の蝦夷(えみし)を制圧して、統治の為に壮大な天孫降臨伝説をでっち上げて、支配階級(渡来部族)は「氏神(氏上)」と成った。

今までの日本史は、集団または特定の個人の利益の為に人身を犠牲にする事で、神の支援を願う概念で生きたままの贄(にえ)を捧げ、その命を絶つ事で捧げの完結と解釈されていた。

しかし氏神が地方行政官やその末裔の権力者・氏上であれば、生贄(いけにえ)の意味はセクシャルなものに変わって来る。

これを「人身供犠(じんしんくぎ)」または「人身御供(ひとみごくう)」と称して人間を神(氏上人)への生贄(いけにえ)とする礼式を言う。


古代、大和国の吉野川上流の山地に在ったと言う村落とその住民を、国栖(くず/国巣/国樔/Kunisuの音変化)と呼ぶ。

その人々を国栖人(くずびと)と呼び、宮中の節会(せちえ)に参り、贄(にえ)を献じ、笛を吹き、口鼓(くちつづみ)を打って風俗歌(ふぞくうた/地方伝承歌)を奏した。

つまり歌舞音曲と贄(にえ)と礼式(神式)は中央の宮廷や貴族社会に発祥して、地方行政官やその末裔が自らの支配地域の神社に、「神楽舞」や「人身御供(ひとみごくう)様式」として伝播実践された。

性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。

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by mmcjiyodan | 2017-01-15 18:05 | Comments(0)  

興福寺(こうふくじ)

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。

六百六十九年(天智天皇八年)、藤原鎌足夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が夫・鎌足の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、山背国(やましろのくに)山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が興福寺(こうふくじ)の起源である。

壬申の乱(じんしんのらん)が在った六百七十二年(天武天皇元年)、山階寺(やましなでら)は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

七百十年(和銅三年)の平城遷都に際し、鎌足の子・藤原不比等は厩坂寺(うまやさかでら)を平城京左京の現在地に移転し「興福寺(こうふくじ)」と名付け実質的な興福寺の創建となった。

つまり興福寺(こうふくじ)は、藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。

中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られその後も、大王(おおきみ/天皇)や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。

不比等が没した七百二十年(養老四年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。


興福寺(こうふくじ)は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かった為に手厚く保護された。

平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。

その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。

寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えたが、中でも八百七十年(天禄元年)に真言宗の僧・定昭(じょうしょう)の創立した一乗院と千八十七年(寛治元年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。


鎌倉時代室町時代の武士の時代になっても大和武士(大和四家と言う武士集団)と僧兵等を擁し強大な力を持っていた為、幕府は守護を置くことができなかった。

よって大和国は実質的に興福寺(こうふくじ)の支配下にあり続けた。

安土桃山時代に至って織田・豊臣政権に屈し、千五百九十四年(文禄四年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として二万千余石とされた。


興福寺(こうふくじ)は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。

中でも千百八十年(治承四年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平清盛の五男・平重衡(たいらのしげひら)の南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。

この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走、朝廷や藤原氏との交渉をする。

結果、平氏流(へいしりゅう) が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺(こうふくじ)側へ返却される。

消失建物の再建には、朝廷・氏長者(藤原氏)・興福寺の三者で費用を分担して復興事業が実施される事となった。

現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。

なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失した為、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。

興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

千七百十七年(享保二年)江戸時代の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などは再建されなかった。


千八百六十八年(慶応四年)に明治政府から出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺(こうふくじ)は大きな打撃をこうむった。

江戸時代は二万千石の朱印を与えられ保護された興福寺(こうふくじ)が、この廃仏毀釈で消滅の危機に立たされのだ。

子院はすべて廃止、寺領は千八百七十一年(明治四年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。

興福寺(こうふくじ)境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。

一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。

興福寺(こうふくじ)は、一時廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。

五重塔は値段には諸説あるが、二百五十円で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったと伝えられる。

ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。


興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗って華族に列し「奈良華族」と呼ばれた。

行き過ぎた廃仏政策が反省され出した千八百八十一年(明治十四年)、ようやく興福寺の再興が許可された。

千八百九十七年(明治三十年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。


興福寺(こうふくじ)は、南都七大寺の一つに数えられ、南円堂は西国三十三所第九番札所である。

現在は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。


参考小論【大和(やまと)のまほろば(マホロバ)】に飛ぶ。

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第一巻の二話】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-12-30 09:23 | Comments(0)  

北条泰時(ほうじょうやすとき)〔一〕

北条泰時(ほうじょうやすとき)は、鎌倉幕府執権得宗家北条氏の二代・北条義時(ほうじょうよしとき)の長男(庶長子)として、千百八十三年(寿永二年)に誕生した。

幼名は金剛と名付けられ、母は義時側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明である。

泰時(やすとき)が誕生した頃、父の義時は二十一歳で、祖父の北条時政ら北条一族と共に源氏の頭領・源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして三年目の頃の事である。

金剛(泰時)が十歳の頃、御家人・多賀重行が金剛(泰時)と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取らなかった事を征夷大将軍・源頼朝(鎌倉殿)に咎められた。

金剛(泰時)は征夷大将軍・源頼朝(鎌倉殿)の外戚であり、幕政中枢で高い地位・執権を持っていた北条氏は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。

頼朝の譴責(けんせき)に対して重行は、「自分は非礼とみなされるような行動はしていない、金剛(泰時)も非礼だとは思っていない」と弁明し、金剛(泰時)に問い質すよう頼朝に促した。

そこで頼朝が金剛(泰時)に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。

しかし頼朝は、重行は言い逃れの為に嘘をつき、金剛(泰時)は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、金剛(泰時)には褒美として剣を与えたと、「吾妻鏡」に収録されている。

この逸話は、泰時(やすとき)の高邁な人柄と、頼朝の泰時(やすとき)に対する寵愛を端的に表した話と評されている。

但し肉親の情に薄い頼朝(鎌倉殿)の真意は、頼朝の泰時(やすとき)に対する寵愛よりも「御家人・多賀重行を排除する意向が先に在った」と観るべきかも知れない。

「吾妻鏡」によれば、泰時(やすとき)は千百九十四年(建久五年)二月二日に十三歳で元服、幕府にて元服の儀が執り行われ、烏帽子親となった初代将軍・源頼朝(鎌倉殿)から「頼」の一字を賜って偏諱(へんき)として頼時(よりとき/泰時)と名乗る。

頼時(よりとき)が後に泰時(やすとき)と改名した時期については不明とされている。

改名時期に関しては、千百九十九年(正治元年)、頼時(よりとき/泰時)の烏帽子親である頼朝が亡くなった直後にあたる時期が推測できる。

「吾妻鏡」を見ると千二百年(正治二年)二月に「江間大郎頼時」、千二百一年(建仁元年)九月には「江馬太郎殿泰時」と表記され、凡その改名時期が推測できる。

また、頼時(よりとき/泰時)元服の際には、頼朝の命によって元服と同時に御家人・三浦義澄の孫娘との婚約が決められていた。

泰時(やすとき)は、改名後の千二百二年(建仁二年)八月には三浦義村(義澄の子)の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。

翌千二百三年(建仁三年)に嫡男・時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。

その年の九月、泰時(やすとき)は比企能員(ひきよしかず)の変で比企討伐軍に加わっている。


千二百十一年(建暦元年)、泰時(やすとき)は令外官・修理亮(しゅりのすけ)に補任される。

翌千二百十二年(建暦二年)五月、泰時(やすとき)異母弟で正室の子であった次郎朝時(じろうともとき)が第三代将軍・源実朝の怒りを買って父・義時に義絶され、失脚している。

千二百十三年(建暦三年)の和田合戦では、泰時(やすとき)は父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。

泰時(やすとき)は、千二百十八年(建保六年)に父・義時から侍所の別当に任じられ、翌、千二百十九年(承久元年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。

千二百二十一年(承久三年)の承久の乱では、三十九歳の泰時(やすとき)は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。

承久の乱後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。

泰時(やすとき)は、以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。


千二百二十四年(貞応三年)六月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏の変が起こる。

伯母である尼御台・北条政子は泰時(やすとき)と時房を御所に呼んで執権と連署に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。

泰時(やすとき)は政子の後見の元、家督を相続して四十二歳で第三代執権となる。

伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀光宗も間もなく許されて復帰している。

父・義時の遺領配分に際して泰時(やすとき)は弟妹に多く与え、自分はごく僅かな分しか取らなかった。

政子はこれに反対して取り分を多くし、弟たちを統制させようとしたが、泰時(やすとき)は「自分は執権の身ですから」として辞退した。

伊賀事件の寛大な措置、弟妹への融和策は当時の泰時(やすとき)の立場の弱さ、家督相続人ではなかったのに突然家督を相続したことによる自身の政治基盤の脆弱さ、北条氏の幕府における権力の不安定さの現れでもあった。

泰時(やすとき)は新たに北条氏嫡流家の家政を司る「家令」を置き、信任厚い家臣の尾藤景綱を任命し、他の一族と異なる嫡流家の立場を明らかにした。

これが後の得宗・内管領の前身となる。


北条泰時(ほうじょうやすとき)〔二〕】に続く。

第二巻】に飛ぶ。
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by mmcjiyodan | 2016-12-28 15:11 | Comments(0)  

北条泰時(ほうじょうやすとき)〔二〕

北条泰時(ほうじょうやすとき)〔一〕】に戻る。

千二百二十五年(嘉禄元年)六月に有力幕臣・大江広元が没し、七月には尼将軍・政子が世を去って幕府は続けて大要人を失った。

後ろ盾となり、泰時(やすとき)を補佐してくれた政子の死は痛手であったが、同時に政子の干渉という束縛から解放され、泰時(やすとき)は独自の方針で政治家としての力を発揮できるようになる。

泰時(やすとき)は難局にあたり、頼朝から政子にいたる専制体制に代わり、集団指導制、合議政治を打ち出す。

叔父の六波羅探題・北条時房を京都から呼び戻し、泰時(やすとき)と並ぶ執権の地位に迎える。

「両執権」と呼ばれる複数執権体制をとり、次位のものは後に「連署」と呼ばれるようになる。

泰時(やすとき)は続いて三浦義村ら有力御家人代表と、中原師員ら幕府事務官僚などからなる合計十一人の評定衆を選んで政所に出仕させる。

これに執権二人を加えた十三人の「評定会議」を新設して幕府の最高機関とし、政策や人事の決定、訴訟の採決、法令の立法などを行った。


三代将軍・源実朝暗殺後に新たな鎌倉殿として京から迎えられ、八歳となっていた三寅を元服させ、藤原頼経と名乗らせる。

実朝暗殺以降六年余、幕府は征夷大将軍不在であったが、千二百二十六年(嘉禄二年)頼経が正式に征夷大将軍となる。

泰時(やすとき)は、初代将軍・頼朝以来大倉にあった幕府の御所に代わり、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の東側である宇都宮辻子に幕府を新造する。

頼経がここに移転し、その翌日に評定衆による最初の評議が行われ、以後はすべて賞罰は泰時(やすとき)自身で決定する旨を宣言した。

この幕府移転は規模こそ小さいもののいわば遷都であり、将軍独裁時代からの心機一転を図り、合議的な執権政治を発足させる象徴的な出来事だった。

また、鎌倉の海岸に宋船も入港した和賀江島の港を援助して完成させたのも泰時(やすとき)だった。


千二百二十七年(嘉禄三年)六月十八日、泰時(やすとき)次男・時実(ときざね)が家臣に十六歳で殺害された。

次男・時実(ときざね)殺害の三年後の千二百三十年(寛喜二年)六月十八日には長男の時氏(ときうじ)が病のため二十八歳で死去する。

その一か月後の七月、三浦泰村に嫁いだ娘が出産するも子は十日余りで亡くなり、娘自身も産後の肥立ちが悪く八月四日に二十五歳で死去するなど、泰時(やすとき)は立て続けに不幸に見舞われた。


泰時(やすとき)には、歴史的に賞賛すべき功績がある。

御成敗式目」である。

承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり抽象的指導理念が必要となった。

幕府評定衆は、紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していた。

泰時(やすとき)は京都の法律家に依頼して律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、毎朝熱心に勉強した。

泰時(やすとき)は「道理(武士社会の健全な常識)」を基準とし、先例を取り入れながらより統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、評定衆の意見も同様であった。

泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、千二百三十二年(貞永元年)八月、全五十一ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。

初めはただ「式条」や「式目」と呼ばれ、後に裁判の基準としての意味で「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれるようになる。

完成に当たって泰時は六波羅探題として京都にあった弟の重時に送った二通の手紙の中で、式目の目的について書き送っている。

「御成敗式目」は日本における最初の武家法典である。

数年前から天候不順によって国中が疲弊していたが、千二百三十一年(寛喜三年)には寛喜の飢饉が最悪の猛威となり、それへの対応に追われた。

「御成敗式目」制定の背景にはこの社会不安もある。

それ以前の律令が中国法、明治以降現代までの各種法律法令が欧米法の法学を基礎として制定された継承法である。

対し、式目はもっぱら日本社会の慣習や倫理観に則って独自に創設された法令という点で日本法制史上特殊な地位を占める。


千二百三十五年(嘉禎元年)、石清水宮と興福寺が争い、これに比叡山延暦寺も巻き込んだ大規模な寺社争いが起こると、泰時(やすとき)は強権を発して寺社勢力を押さえつけた。

興福寺、延暦寺をはじめとする僧兵の跳梁は、院政期以来朝廷が対策に苦しんだところであったが、幕府が全面に乗り出して僧兵の不当な要求には断固武力で鎮圧するという方針がとられた。


千二百四十二年(仁治三年)に四条天皇が崩御した為に、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていた。

泰時(やすとき)は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対する。

忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を推戴、新たな天皇として即位させた。

この強引な措置により、九条道家(くじょうみちいえ)や西園寺公経(さいおんじきんつね)ら、京都の公家衆の一部から反感を抱かれ、彼らとの関係が後々悪化した。

新天皇の外戚(叔父)である土御門定通(つちみかどさだみち)は泰時(やすとき)の妹である竹殿を妻としていた為、以後泰時(やすとき)は定通を通じて朝廷内部にも勢力を浸透させて行く事になる。


「吾妻鏡」に依れば、千二百四十一年(仁治二年)六月二十七日、泰時(やすとき)は体調を崩しており騒ぎになったが、この時は七月二十日に回復している。

「鎌倉年代記・裏書」に依ると、千二百四十二年(仁治三年)五月九日、泰時(やすとき)は出家して上聖房観阿(じょうしょうぼうかんあ)と号した。

この時、泰時(やすとき)の異母弟の朝時(ともとき)をはじめ、泰時の家来五十人ほども後を追って出家する。

出家から一ヵ月半後の六月十五日、泰時(やすとき)は六十歳で死去した。

「皇位継承問題が大きな心労になった」ともされて、公家の日記である「経光卿記抄」の六月二十日条よると、日頃の過労に加えて赤痢を併発させ高熱に苦しみ没したとされている。

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by mmcjiyodan | 2016-12-28 15:09 | Comments(0)  

気受け(きうけ)

「気受け(きうけ)」とは、その人物に対して持つ世間に於ける好悪の感情評判の事を指し、「この人は世間の気受けが良い」と言うような用法で用いる。

一般的に人間には「良い人と評価されたい」と言う感情が在り、この「気受け(きうけ)」で悪評が広まると恥をかく事に成る。

だからこそ庶民から為政者に至るまで、人々は「気受け(きうけ)」を気にするところである。


余談だが時の為政者は、この「気受け(きうけ)」を大きなスケールで気にする。

為政者は、自らの権力維持の為に世間からの「気受け(きうけ)」に迎合する。

例えば、本来なら隣国同士で永々と憎しみ合う事は不利益も大きいのに、為政者が国民感情の「気受け(きうけ)」に腐心するばかりにいつまでも憎しみの歴史から抜けられない。

逆に、強い為政者を演出する為には、「ナショナリズムを基本とした強硬な発言」を連発し、国民を煽(あお)る手法が幅を利かす。

つまり、この「気受け(きうけ)」を弁舌巧みに利用し、権力を握って国民をミスリードするヒトラー東条英機のごとき人物が現れる危険は、いつの時代でも存在する


江戸時代の歴代の将軍の老中・大老などの幕閣官僚も、この「気受け(きうけ)」は大いに気にしていた。

それは、当代将軍の世間の「気受け(きうけ)」は幕閣官僚の働き次第だからで、将軍に恥じをかかせられないからだ。

そして「気受け(きうけ)」の最大要件は、景気対策・経済政策の成否である。

それで、「田沼意次の政治」、「新井白石と正徳の治」、「享保の改革」、「寛政の改革と天保の改革」等々の経済政策(気受けたいさく)が数えられる。

その経済政策の一つが、貨幣改鋳(かへいかいちゅう)である。

関連記事
新井白石と正徳の治】に戻る。
享保の改革(きょうほうのかいかく)】に戻る。
田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治】に戻る。
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貨幣改鋳(かへいかいちゅう)】に飛ぶ。

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by mmcjiyodan | 2016-12-13 18:17 | Comments(0)  

貨幣改鋳(かへいかいちゅう)

貨幣改鋳(かへいかいちゅう)とは、市場(しじょう)に流通している貨幣を回収してそれらを鋳潰し、金や銀の含有率や形を改訂した新たな貨幣を鋳造し、それらを改めて市場に流通させる事である。

目的の一つは財政政策で、支出の増加により悪化した財政の補填、大火や地震などの災害復興の為の費用、戦費や隊の維持費などを捻出する為に行われた。

改鋳によって貴金属の含有量を減らして以前より貨幣量を増やし、増えた分を益金(シニョリッジ)として得る事を目的として行われるものが多かった。

もう一つの目的は「気受け(きうけ)」に対する施策で、金銀不融通(きんぎんふゆうずう/資金の集中滞留)状況に対する対策である。

つまり大商人の倉に通貨が滞留して市中経済の活発を阻害した場合に、新通貨の貴金属の含有量を減らし価値を落とす事で、商人の手持ち旧通貨が差損を出す方策で強引に商人の消費を促す施策を採用した。


この貨幣改鋳に依る経済政策には、正反対の二つの意見がある。

正徳年間に貨幣改鋳を行なった新井白石は、貨幣数量説に基づいて「貨幣量が増加した事が物価の上昇をもたらした」と主張した。

弘化年間に町奉行に再任した遠山景元は、文政から天保期の物価上昇は「貨幣改鋳が原因の一つ」と主張している。

改鋳によるインフレーションは、貨幣価値の下落=貨幣の購買力の低下=平価切り下げとも言われている。

その一方で、改鋳による貨幣量の増加は貨幣の流通を後押しし、市場経済の活性化や拡大を促すとも言われている。

まぁ、この通貨量を増やす政策、現代の日本銀行がマイナス金利政策まで踏み込んだが、時の総裁がほぼ太平洋戦争と同じ期間の三年八カ月経過して「もう任期中には目標を達成できない」と匙を投げたほど理屈通りには行かないものである。


関連記事
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by mmcjiyodan | 2016-12-13 18:09 | Comments(0)  

敏達大王(びたつおおきみ/天皇)

敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の第二皇子として生まれた。

父・欽明大王(きんめいおおきみ)は、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の息子であり第十五代・応神大王(おおきみ/天皇)から分かれた傍系の出自であった。

このため、先々代の仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香(たしらか)を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった。

皇統のこの複雑な系流が、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)が「即位の為に任那(みまな)からやって来た任那の王族説」を否定できない理由に成っている。

この疑惑の詳しくは、小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。

つまり敏達大王(びたつおおきみ)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)と仁賢大王(にんけんおおきみ)の間に為された皇子だった。

欽明大王(きんめいおおきみ)は継体大王(けいたいおおきみ)と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)の皇女の間の息子である。

そして、母・石姫皇女(いしひめ)は宣化大王(せんかおおきみ/天皇・継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、敏達大王(びたつおおきみ)は父方・母方の双方からそれぞれ継体大王・仁賢大王・雄略大王(ゆうらくおおきみ/第二十一代天皇)の血を引いている。


五百七十一年五月二十四日(欽明三十二年四月三十日に、父・欽明大王(きんめいおおきみ)が崩御したことを受け、敏達大王(びたつおおきみ)は五百七十二年四月三十日に即位する。

敏達大王(びたつおおきみ)は、五百七十五年二月四日(敏達四年一月九日)に息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の女、広姫(ひろひめ)を皇后としたが、同年十一月に妃・広姫(ひろひめ)は崩御する。

翌五百七十六年四月二十三日(敏達五年三月十日)、十六歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后に立てた。

ここに一つ謎が在るのだが、実は敏達大王(びたつおおきみ)即位前の五百七十一年に額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を既に妃としていた。

額田部皇女(ぬかたべのひめみこ/後の推古大王)が皇女にもかかわらずそうでない広姫(ひろひめ)が何故当初皇后となったのかは不明である。


この敏達大王(びたつおおきみ)が、蘇我馬子(そがのうまこ)物部守屋(もののべのもりや)が争った宗教戦争の内乱、一方で、信仰に名を借りた権力闘争ともされる丁未の乱(ていびのらん)に巻き込まれる。

敏達大王(びたつおおきみ)は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が対立するという構図になっていた。

崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、五百八十五年(敏達十四年)に物部守屋(もののべのもりや)が敏達大王(びたつおおきみ)に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。

尼僧・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、晒し者にして連行し、群衆の目前で鞭打っ暴挙に出る。


五百八十五年九月十四日(敏達十四年八月十五日)敏達大王(びたつおおきみ)の病が重くなり崩御に到る。

敏達大王(びたつおおきみ)に皇太子はおらず、崩御の翌月の五百八十五年十月三日(敏達十四年九月五日)、日本書紀に依ると異母兄弟の大兄皇子が用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)として即位した。

この代替わりの結果、仏教を巡る争いは次世代に持ち越された。


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by mmcjiyodan | 2016-12-05 17:07 | Comments(0)  

物部守屋(もののべのもりや)と丁未の乱(ていびのらん)

物部守屋(もののべのもりや)は古墳時代の大連(おおむらじ/有力豪族)物部氏の頭領一族で、物部尾輿(もののべのおこし)の子である。

守屋(もりや)の物部氏の名乗りの物部は武器及び軍事物資の事で、物部氏は有力な軍事氏族である。


丁未の乱(ていびのらん)は、古墳時代に起きた蘇我氏と物部氏の宗教戦争の内乱と言われている。

しかしその一方で、信仰に名を借りた権力闘争の悪臭も香って来る。

物部氏は独自の物部神道を有し、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立したとされるが、「守屋(もりや)個人の意思」とも言われる。

何故なら、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もあるからだ。


五百七十二年(敏達天皇元年)、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の即位に伴い、守屋(もりや)は大連(おおむらじ)に任じられる。

五百八十五年(敏達天皇十四年)、病になった大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ/中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神=仏教)を信奉した為に疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)は、この求めを受け入れ仏法を止めるよう詔した。

守屋(もりや)は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子(うまこ)や司馬達等(しばたっと)ら仏法信者を面罵した。

更に守屋(もりや)は、達等(たっと)の娘・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

しかし守屋(もりや)の行動に効果は無く、疫病は更に激しくなり、敏達大王(びたつおおきみ)も病に伏した。

馬子(うまこ)は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、敏達大王(びたつおおきみ)は馬子(うまこ)に限り許した。

敏達大王(びたつおおきみ)の許可を得た馬子(うまこ)は、守屋(もりや)に迫害された三尼を崇拝し、寺を営んだ。


ほどなくして、敏達大王(びたつおおきみ)は崩御し、殯宮(あがりのみや/もがり のみや)で葬儀が行われ、馬子(うまこ)は佩刀(はいとう/腰に刀を帯び)して誄言(しのびごと)を奉った。

守屋(もりや)は「猟箭(ししや/猟矢)がつきたった雀鳥のようだ」と笑い、守屋が身を震わせて誄言(しのびごと)を奉ると、馬子(うまこ)は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。


敏達大王(びたつおおきみ)の次帝には馬子(うまこ)の推す用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇・欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位する。

馬子(うまこ)に対抗する守屋(もりや)は、敏達大王(びたつおおきみ)の異母弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と結んだ。


五百八十六年(用明天皇元年)穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、炊屋姫(しきやひめ/敏達大王の后妃)を犯そうと欲して殯宮(あがりのみや/もがり のみや)に押し入ろうとしたが、敏達前帝の寵臣・三輪逆(みわのさかう)に阻(はば)まれる。

その邪魔を怨んだ穴穂部皇子(あなほべのみこ)は守屋(もりや)に命じて三輪逆(みわのさかう)を殺させる。

馬子(うまこ)は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆くが、守屋(もりや)は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えたと言う。


五百八十七年(用明天皇二年四月二日)、用明大王(ようめいおおきみ)は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ)は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対する。


馬子(うまこ)は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子(あなほべのみこ)に僧の豊国をつれて来させるが守屋(もりや)は睨みつけて大いに怒る。


史(書記)の押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)が守屋(もりや)に、群臣たちが守屋(もりや)の帰路を断とうとしていると告げた。

守屋(もりや)は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国渋川郡跡部郷=現在の大阪府八尾市跡部)へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海(なかとみのかつみ)は、馬子派の皇子・彦人皇子(ひこひとのみこ)と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作り呪詛した。


しかし、中臣勝海(なかとみのかつみ)は、やがて彦人皇子(ひこひとのみこ)の邸へ行き用明大王(ようめいおおきみ)への帰服を誓った。

自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子(ひこひとのみこ)と馬子(うまこ)の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている。

その彦人皇子邸から帰路、舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が中臣勝海(なかとみのかつみ)を斬った。


守屋(もりや)は、物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子(うまこ)のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。


そうした混乱の中、五百八十七年(用明天皇二年四月九日)、病を得てわずか六日で用明大王(ようめいおおきみ)は崩御した。

守屋(もりや)は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようと図ったが、六月七日、馬子(うまこ)は炊屋姫(しきやひめ)の詔を得て、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を包囲して誅殺し、翌日には宅部皇子(やかべのみこ)を誅した。


七月、馬子(うまこ)は群臣にはかり、守屋(もりや)を滅ぼすことを決める。

馬子(うまこ)は泊瀬部皇子(はつせべのみこ/後の崇峻大王)、竹田皇子(たけだのみこ)、厩戸皇子(うまやどのみこ)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋(もりや)の館へ向かった。

守屋(もりや)は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。

その軍は強盛で、守屋(もりや)は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけ応戦した。

皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

これを見た厩戸皇子(うまやどのみこ)は、仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。

馬子(うまこ)は、軍を立て直して進軍させた。


舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋(もりや)を射落として殺した。

寄せ手は攻めかかり、守屋(もりや)の子らを殺し、守屋(もりや)の軍は敗北して逃げ散った。


守屋(もりや)の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」と称する。


厩戸皇子(うまやどのみこ)は摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子(うまこ)のものになった。

馬子(うまこ)の妻が守屋(もりや)の妹であるので、物部氏の相続権があると主張したためである。

また、残りの半分は四天王寺へ寄進された。


戦国時代の近江の戦国大名・浅井氏は、守屋(もりや)の末裔を称している。


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by mmcjiyodan | 2016-12-03 19:30 | Comments(0)  

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

日本史に於ける廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味である。

仏教寺院・仏像・経巻を破毀(はき)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する事を指す。

古代日本に於いては、日本の初期信仰は神道だった。

そこに仏教が伝来し、日本書紀の欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)・敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)・用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)の各天皇記を基にすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われた。

しかし日本の大和朝廷は、先進の中華文明を取り入れる為に「神仏習合」をもってこれを受け入れる方向にシフトした。

やがて、仏教が浸透していく事によってこのような動きは見られなくなった。


戦国時代及び安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した一部地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

江戸時代前期に於いては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まる。

この影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内に於いて仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。

なかでも、徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏は規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなった。

水戸藩主・徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。

天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。

幕末期に新政府を形成する事になった勤皇派の志士達は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。

言うまでも無いが、皇室は日本神道の最上位である天照大御神の祭司であり、その新体制を強化しうる動きの一環と言える。

また同時期に勃興した国学に於いても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。

中でも平田派(平田篤胤/ひらたあつたね・復古神道)は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与する事になった。

この経緯を経て、大政奉還後に成立した新政府によって「神仏習合を廃して神仏分離を押し進める廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が明治維新後に発生した。

千八百六十八年四月十五日(慶応四年三月十三日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、及び千八百七十年二月三日(明治三年一月三日)に出された詔書「大教宣布」などの神仏習合の廃止政策が図られた。

「神仏分離令」や「大教宣布」は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかった。

しかし、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。

明治期の神仏分離政策後、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。


明治新政府の政策に拠り、皇統の神格化が図られて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行うまでは、日本の宗教政策は大和朝廷以来江戸末期まで、信仰に基付く争いを避ける知恵を働かせて、基本的に永い期間「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」政策だった。

所が明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰陰陽修験犬神信仰真言大覚寺派の教えも、明治維新まで或いは戦前までは「共生主義」の一形態として民衆の間に根強く残っていたのは確かである。


神仏分離が廃仏毀釈に至った原因は地域・事例ごとに様々である。

廃仏思想を背景とするものの他、近世までの寺檀制度下に於ける寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、地方官が寺院財産の収公を狙っての事など、社会的・政治的理由も窺える。

政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ事」と、神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではないとの注意を改めて喚起した。

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by mmcjiyodan | 2016-12-02 13:57 | Comments(0)  

和気清麻呂(わけのきよまろ)

和気清麻呂(わけのきよまろ)は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身で、当初の氏姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)を名乗る。

のち藤野真人(ふじののまひと/輔治能)、和気宿禰(わけのすくね)、和気朝臣(わけのあそみ)に改めた。

清麻呂(きよまろ)は、磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)または平麻呂(たいらまろ)の子として生まれた奈良時代末期から平安時代初期の貴族である。


七百六十九年(神護景雲三年)七月頃、宇佐八幡宮神託事件が起こる。

宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛を与えていた「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に就かせれば天下太平になる。」と称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)へ奏上する。

道鏡はこれを信じて、或るいは道鏡が習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自らが皇位に就く事を望む。

称徳大王(しょうとくおおきみ)は、神託の確認に側近の尼僧・和気広虫(わけのひろむし/法均尼)を召そうとする。

だが、虚弱な広虫(ひろむし/法均)では長旅は堪えられぬ為、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。

清麻呂(きよまろ)は称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の使者(勅使)として宇佐八幡宮に参宮し、宝物を奉り宣命の文を読もうとした。

その時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊く(きく/受け入れる)事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願う。

すると、身の丈三丈、およそ九mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊(き)く事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は与曽女(よそめ)とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳大王(しょうとくおおきみ)へ報告した。

清麻呂(きよまろ)の報告を聞いた称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は怒り、清麻呂(きよまろ)を輔治能真人(ふじののまひと)姓を与え因幡員外介(いなばいんがいのすけ)に一旦左遷する。

その上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。


七百七十年(神護景雲四年)八月、称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は崩御し、後ろ楯を無くした道鏡は失脚したため清麻呂(きよまろ)は光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)により従五位下に復位した。

その後、和気清麻呂(わけのきよまろ)は播磨・豊前の国司(こくし/くにのつかさ)を歴任する。

この時、清麻呂(きよまろ)は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造(くにのみやつこ)に任じられている。

その後清麻呂(きよまろ)は、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の下で実務官僚として重用されて高官となる。

清麻呂(きよまろ)は、山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し、七百九十三年(延暦十二年)自ら造営大夫として尽力した。

もし、和気清麻呂(わけのきよまろ)が称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の意向に応じて居れば、「この宇佐八幡宮神託事件で皇統が途切れていた。」として評価される人物である。


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by mmcjiyodan | 2016-11-29 16:07 | Comments(0)