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成務大王(せいむおおきみ/天皇)

日本書記」に拠ると、成務大王(せいむおおきみ/第十三代天皇)は、景行十四年に景行大王(けいこうおおきみ)と八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)との間の皇子・稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)として生まれる。

古事記」では、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと)と表記されている。


景行五十一年八月四日に稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)は立太子、成務元年正月に即位し、成務大王(せいむおおきみ)となる。

成務大王(せいむおおきみ)は成務三年に武内宿禰(たけのうちのすくね)を大臣とした。


成務三十五年九月、成務大王(せいむおおきみ)は、諸国に令して行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがた むら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命する。

山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。

ここに於いて、「人民は安住し、天下太平であった」と言う。


これらの記事は「古事記」にも大同小異で、「建内宿禰(たけのうちのすくね)を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とある。

「先代旧事本紀」の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。


成務大王(せいむおおきみ)は、成務四十八年三月一日に、甥の足仲彦尊(後の仲哀大王/天皇)を皇太子に立て、成務六十年六月に百七歳で崩御する。

「古事記」には、九十五歳となっている。


成務大王(せいむおおきみ)の在位についても、実在性には疑いが持たれている。

「記・紀」に載せる成務大王(せいむおおきみ)の旧辞部分の記事は、他の大王(おおきみ)のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すればその年代は四世紀半ばに当たると考えられている。


「日本書紀」に、成務大王(せいむおおきみ)の在位は六十年と伝わる。

しかし、これだと「日本書紀」の記述のみでも日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)の子である次代・仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)が日本武尊(やまとたける)の死後三十六年後に産まれた事になってしまう矛盾がそんざいする。


更に成務大王(せいむおおきみ)の事績は、即位六年から先は四十八年に三十一歳の仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)を皇太子に任命した記事しか無い。

これは日本武尊(やまとたける)の死が、成務大王(せいむおおきみ/天皇)の即位より二十年前にあたるため、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)の年齢が一致しなくなり、明らかに矛盾している。

こうした矛盾から、成務大王(せいむおおきみ)の捏造説が浮上している。


更に、景行大王(けいこうおおきみ)の記事と重複するが、「タラシヒコ」という称号は十二代景行・十三代代成務・十四代代仲哀の三大王(三おおきみ/天皇)が持っていた。

更に時代が下って七世紀前半に在位した事が確実な三十四代舒明三十五代皇極(三十七代斉明)の両天皇も同じ称号を持つ。

この事から、タラシヒコの称号は七世紀前半のものであるとして、十二,十三,十四代の称号は後世の造作と考える説があり、景行大王(けいこうおおきみ)の実在性そのものに疑問が出されている。

そしてこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-09-01 00:30 | Comments(0)  

景行大王(けいこうおおきみ/天皇)と日本武尊(やまとたけるのみこと)

垂仁十七年 、景行大王(けいこうおおきみ/第十二代天皇)は、垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)の第三皇子と日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の間に生を受けた。

垂仁三十七年一月一日に二十歳で立太子する。

景行元年七月に即位、翌、景行二年三月三日に播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)を皇后に立てる。


日本書紀(にほんしょき)」に拠ると、景行四年、景行大王(けいこうおおきみ)は美濃国に行幸し、泳宮(くくりのみや、岐阜県可児市)に滞在し、八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)を妃とする。

景行十二年、熊襲(くまそ)が背(そむ)いたので、これを征伐すべく、八月に景行大王(けいこうおおきみ)自ら西下し、周防国の娑麼(さば、山口県防府市)で神夏磯媛から賊の情報を得て誅殺した。

同、景行十二年、景行大王(けいこうおおきみ)は筑紫(九州)に入り、豊前国京都郡(福岡県行橋市)に行宮(かりみや)を設ける。


豊後国の碩田(おおきた、大分県大分市)で土蜘蛛(つちぐも)を誅して、景行十二年十一月にようやく日向国に入る。

熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、翌景行十三年夏に熊襲平定を遂げた。


景行大王(けいこうおおきみ)は、日向高屋宮(宮崎県西都市か)に留まる事六年に及び、景行十八年三月に都へ向け出立する。

熊県(熊本県球磨郡)や葦北(同葦北郡)・高来県(長崎県諫早市)・阿蘇国(熊本県阿蘇郡)・的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)を巡り、景行十九年九月に還御した。

なお、この景行大王(けいこうおおきみ)親征について、「古事記(こじき) 」には一切記されていない。


景行二十五年七月、武内宿禰(たけしうちのすくね)を遣わして、北陸・東方諸国を視察させる。


景行二十七年八月、熊襲(くまそ)が再度謀反を起こした為、十月に第二皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)を遣わして、熊襲を征討させる。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は熊襲首長の川上梟帥(かわかみのたける)を謀殺し、翌年に復命する。


景行四十年十月、景行大王(けいこうおおきみ)は日本武尊(やまとたけるのみこと)に蝦夷(エミシ)征討を命じる。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は途中、伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より三種の神器(みくさのかむだから)の一つ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を授かった。

日本武尊(やまとたけるのみこと)は陸奥国に入り、戦わずして蝦夷(エミシ)を平定する。


日本武尊(やまとたけるのみこと)は日高見国(北上国)から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮・信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚する。

その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。

景行四十三年年、日本武尊(やまとたけるのみこと)は身体不調のまま伊勢国に入るが、能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり崩御し白鳥陵に葬られた。


景行五十一年八月四日、景行大王(けいこうおおきみ)は八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)との間の皇子・稚足彦尊(わかたらしひこのみこと/後の成務大王(せいむおおきみ/天皇))を皇太子に立てる。

景行五十二年五月四日に、皇后・播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)が崩御したので、同、垂仁五十二年七月七日に八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)を新たな皇后とする。


景行五十三年、景行大王(けいこうおおきみ)は息子の日本武尊(やまとたける)を追慕し、東国巡幸に出る。

景行大王(けいこうおおきみ)は東国から戻って伊勢に滞在し、翌、景行五十四年九月に纒向宮に帰る。


景行五十八年、景行大王(けいこうおおきみ)は近江国に行幸、高穴穂宮に滞在すること三年、景行六十年十一月に崩御、「日本書記」では百四十三歳、「古事記」では百三十七歳とされている。


この百四十三歳、百三十七歳とされる人間としては異常に永い年齢表記が、垂仁大王(すいにんおおきみ)と同様に「古事記」・「日本書紀」が天皇神格化目的の意図を持っ歴史書と疑いを持たれる根拠にされている。


景行大王(けいこうおおきみ)の和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)で、「タラシヒコ」という称号は十二代景行・十三代代成務十四代代仲哀の三大王(三おおきみ/天皇)が持っていた。

更に時代が下って七世紀前半に在位した事が確実な三十四代舒明三十五代皇極(三十七代斉明)の両天皇も同じ称号を持つ。

この事から、タラシヒコの称号は七世紀前半のものであるとして、十二,十三,十四代の称号は後世の造作と考える説があり、景行大王(けいこうおおきみ)の実在性そのものに疑問が出されている。


景行大王(けいこうおおきみ)の御世の、記紀(古事記・日本書紀)の記事の多くが日本武尊(やまとたける)の物語で占められている。

残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いが持たれるものの、実在を仮定すれば、その年代は四世紀前半かと考えられている。

そしてこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

日本武尊(やまとたけるのみこと/倭建命)】に続く。
景行大王(けいこうおおきみ)と三峯神社(みつみねじんじゃ)】に続く。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-09-01 00:22 | Comments(0)  

垂仁大王(すいにんおおきみ/天皇)

垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)は、「古事記」には「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、「常陸国風土記」には「伊久米天皇(いくめいりてんのう)」、「令集解」所引の「古記」に「生目天皇(いくめてんのう)」、「上宮記」逸文に「伊久牟尼利比古大王(いくむにりひこおおきみ)」と見える。

もし、垂仁大王(すいにんおおきみ)が実存するのであれば、当時の呼称は大王(おおきみ)であり、天皇(てんのう)と呼称している文献は、いずれも以後期作成文献の追記である。

日本書紀」、「古事記」に見える事績は総じて起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年に於いてはその実在を認めることが多い。


「日本書紀」の編年に拠ると、垂仁大王(すいにんおおきみ/第十一代天皇)は、崇神二十九年一月一日に誕生し、崇神四十八年に崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇)の夢の前兆により皇太子に立てられる。

垂仁元年一月、垂仁大王(すいにんおおきみ)は即位する。

翌、垂仁二年二月に彦坐王(ひこいますのみこ)の娘・狭穂姫(さほひめ)を立后、十月に纒向(まきむく)に遷都した。

垂仁三年三月、新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)が神宝を奉じて来朝する。


垂仁五年十月、皇后の兄・狭穂彦(さほひこのみこ)が叛乱を起こし、皇后・狭穂姫命(さほひめのみこと)は兄に従って暗殺計画に失敗し焼死する。

垂仁七年七月、野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり蹴殺す事件を起こすが、これが「相撲節会の起源説話」として伝わる。



垂仁十五年二月、垂仁大王(すいにんおおきみ)は、丹波道主王(たんばのみちぬしのみこと)の女たちを後宮に入れ、八月にその中から日葉酢媛(ひばすひめ)を皇后とした。

「元伊勢伝承」に拠れば、垂仁二十五年三月、垂仁大王(すいにんおおきみ)は天照大神(あまてらすおおみかみ)の祭祀を第四皇女の倭姫命(やまとひめ)に託す。

垂仁二十七年八月、垂仁大王(すいにんおおきみ)は諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。

この年、来目(奈良県橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。

垂仁二十八年、垂仁大王(すいにんおおきみ)は殉死の禁令を発布する。


垂仁三十二年年七月、皇后・日葉酢媛(ひばすひめ)が薨去する。

野見宿禰(のみのすくね)の進言に従い、殉死の風に替えて埴輪を埋納し、ここに「埴輪の起源説話」が誕生する。

「古事記」に「石祝(棺とみられる)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。

石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民(べみん)を定めたというのである。


垂仁三十五年、垂仁大王(すいにんおおきみ)は河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んにしたと伝える。

垂仁三十九年十月、第 一皇子・五十瓊敷命(いにしきいりひこのみこと)が剣千振を作り、石上神宮に納める。

この後、五十瓊敷命(いにしきいりひこのみこと)に命じて、同神宮の神宝を掌らせる。


垂仁九十年二月、田道間守(たじまもり)に命じて、常世国(とこよのくに)の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。

垂仁九十九年七月、「日本書紀」に拠ると百四十歳、「古事記」に拠ると百五十二歳、「大日本史」では百三十九歳にて崩御とある。

この人間としては異常に永い年齢表記が、「古事記」・「日本書紀」が天皇神格化目的の意図を持っ歴史書と疑いを持たれる根拠にされている。

「日本書紀」の垂仁九十九年計算すると庚午(こうご)年になるのだが、「住吉大社神代記」には、在位五十三年で「辛未(かのとひつじ)年に崩御した」とあり、これは「日本書紀」の編年と相違する点で注目される。

そしてこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-09-01 00:14 | Comments(0)  

神功皇后(じんぐうこうごう

神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/第十四代天皇)の皇后であり、応神大王(おうじんおおきみ/第十五代天皇)の母である。


日本書紀」などによれば、神功皇后(じんぐうこうごう)は神功元年から神功六十九年まで政事を執り行なった。

それ故に、戦前の日本では一時女帝として扱っていた時期もある。

三韓征伐を指揮した逸話で知られ、「日本書紀」では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・「古事記」では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)と伝えられている。

仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)は、神懸(かみがか)りした神功皇后(じんぐうこうごう)から神のお告げを受けるが、西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという。

しかし、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)は、これを信じず神を非難した。

託宣では熊襲(くまそ)よりも宝のある朝鮮半島の新羅(しらぎ・シルラ)を攻めよとされたが、仲哀大王(ちゅうあいおおきみ/天皇)はこれを信じず熊襲征伐を行い、敗北し儺県(ながあがた)に撤退する。

仲哀九年、夫の仲哀大王(ちゅうあいおおきみ)が香椎宮(かしいぐう)にて崩御(急死)したと伝わるが、「天書紀」に拠ると「熊襲(くまそ)の矢が当たった」とも記述がある。

その後神功皇后(じんぐうこうごう)は、熊襲(くまそ)を討伐した。


神功皇后(じんぐうこうごう)は、住吉大神の神託により、三韓征伐(さんかんせいばつ)に取り掛かる。

お腹に子供(のちの応神大王/おうじんおおきみ)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅(しらぎ・シルラ)の国を攻めた。

新羅(しらぎ・シルラ)は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗(こうくり・コグリョ)・百済(くだら・ペクチェ)も朝貢を約したと記述がある。


渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、「冷やす事によって出産を遅らせた」とされる。

月延石は三つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。


三韓征伐(朝鮮出兵)の帰路、筑紫の宇美(うみ)で応神大王(おうじんおおきみ)を出産し志免(しめ)でお紙目を代えたと伝えられている。

また、壱岐市の湯ノ本温泉で産湯(うぶゆ)をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったとの推測がある。


神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子・応神大王(おうじんおおきみ)には異母兄にあたる香坂皇子(かごさかのみこ)、忍熊皇子(おしくまのみこ)が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだ。

しかし、神功皇后軍(じんぐうこうごうぐん)は武内宿禰(たけしうちのすくね)や武振熊命(たけふるくま)の働きによりこれを平定したという。


神功皇后(じんぐうこうごう)は、武神(武家社会の神)である八幡神の母にあたる神であり、八幡太郎・源義家など数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。

また八幡神と同じく、その言い伝えは九州はもとより関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、四国と、日本中に数多く存在する。


今でも全国各地で神功皇后(じんぐうこうごう)の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。


伊勢神宮に次ぐ皇室第二の宗廟・宇佐神宮(在・大分県宇佐市)に於いて、ここに祭られる神功皇后(じんぐうこうごう)は「比売(ひめ)大神(おおみかみ)」の左右に、応神と伴に鎮座ましましている。


神功皇后(じんぐうこうごう)については、卑弥呼説やその娘・台与(壱与)説、女帝である「第三十五代皇極帝・同第三十七代斉明帝や第四十一持統帝をモデルに創作した」などの説があり、現在では実在説と非実在説が並存している。


注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


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by mmcjiyodan | 2017-08-29 06:12 | Comments(0)  

武内宿禰(たけしうちのすくね)

武内宿禰(たけしうちのすくね/たけのうちのすくね)は、勿論一人の人物としては歴史上実存しない。

古代日本(上古代)の大王(おおきみ/天皇)の多数の忠臣達の群像を、理想的に擬人化し創出した伝説上の人物である。

日本書紀」では「武内宿禰(たけしうちのすくね/たけのうちのすくね)」、「古事記」では「建内宿禰(たけしうちのすくね)」、他文献では「建内足尼」とも表記される。

「宿禰(すくね)」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。


第十二代景行第十三代成務第十四代仲哀第十五代応神第十六代仁徳の五代の各大王(おおきみ/天皇)に仕えたという伝説上の忠臣である。

また、熊襲(くまそ)の討伐や三韓征伐を為したとされる「神功皇后(じんぐうこうごう)に付き従い、戦果に貢献した。」とされている。

武内宿禰(たけしうちのすくね/たけのうちのすくね)は、紀(き)氏・巨勢(こせ)氏・平群(へぐり)氏・葛城(かずらき)氏蘇我(そが)氏など中央有力豪族の祖ともされる。


「日本書紀」では、武内宿禰(たけしうちのすくね)の生まれについて「景行天皇紀」に拠ると、大王(おおきみ/天皇)は紀伊に行幸して神祇祭祀を行おうとしたが、占いで不吉と出たため、代わりに屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)が遣わされた。

そして武雄心命(おたけおごころのみこと)が阿備柏原(あびのかしわばら:現・和歌山市相坂・松原かにて留まり住むこと九年、その間に影媛(かげひめ)との間に儲けたのが武内宿禰(たけしうちのすくね)であるという。


また成務天皇紀では、武内宿禰(たけしうちのすくね)は第十三代・成務大王(おおきみ/天皇)と同日の生まれ(景行十四年、月日不詳)としている。

その後、景行大王(けいこうおおきみ/第十二代天皇)から仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)までの五代に渡り武内宿禰(たけしうちのすくね)の事績が記されている。


「古事記」に於いても、建内宿禰(たけしうちのすくね/武内宿禰)に関して「日本書紀」と同様の説話が記されている。


なお武内宿禰(たけしうちのすくね)の系譜に関しては、武内宿禰(たけしうちのすくね)が後世(七世紀後半頃か)に創出された人物と見られる。

その事や、稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は「ヒコ → スクネ → ワケ」と変遷するべきで葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の位置が不自然である事から、原系譜では武内宿禰(たけしうちのすくね)の位置には襲津彦(そつひこ)があったとする説がある。


仁徳五十五年三月に武内宿禰(たけしうちのすくね)は三百六十余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残して行方知らずとなったという。

その他「公卿補任」では薨年未詳で二百九十五歳にて死去または一説として仁徳五十五年に年齢未詳で死去とある。

「水鏡」では、武内宿禰(たけしうちのすくね)は仁徳五十五年に二百八十歳で死去、「帝王編年記」では仁徳七十八年に年齢未詳または一説として三百十二歳)で死去したとある。


「日本書紀」・「古事記」の記す武内宿禰(たけしうちのすくね)の伝承には、歴代の大王(おおきみ/天皇)に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う人物像等が特徴として指摘される。

特に、大臣を輩出した有力豪族の葛城(かずらき)氏・平群(へぐり)氏・巨勢(こせ)氏・蘇我(そが)氏ら四氏が共通の祖とする事から、武内宿禰(たけしうちのすくね)には大臣の理想像が描かれているとされる。


ただし、「古事記」では「日本書紀」に比して武内宿禰(たけしうちのすくね)の物語が少ない事から、「旧辞」の成立より後、蘇我馬子(そがのうまこ)中臣鎌足(なかとみのかまたり/藤原鎌足)ら忠臣がモデルとなってその人物像が成立したと推測されてもいる。

また、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね/味師内宿禰)とともに「内宿禰」を称する事から、大和国宇智郡を根拠とした豪族の「有至臣(うちつおみ/内臣)」との関連も指摘される。


注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


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by mmcjiyodan | 2017-08-28 17:22 | Comments(0)  

熊襲(くまそ)=隼人(はやと)

熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話(古事記・日本書紀)に登場する、九州南部に本拠地を構えてヤマト王権(大和朝廷)に抵抗したとされる人々の記述がある。

日本史学者・津田左右吉らの説に、熊襲(くまそ)は五世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人(はやと)」として仕えたという説がある。


熊襲(くまそ)は、部族が居住した地域名を意味するとされる語で、肥後国球磨郡(くまぐん・現人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国(おおすみのくに)曽於郡(そおぐん。現霧島市周辺及び現曽於市)に居住した部族とされる。

古事記」には熊曾と表記され、「日本書紀」には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。


「古事記」には、景行大王(けいこうおうきみ/天皇)の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)による熊襲建(クマソタケル/川上梟帥)の征伐譚が記されいる。

「日本書紀」に於いては、日本武尊(やまとたけるのみこと)に先立つ景行大王(けいこうおうきみ天皇)自身の征討伝説が記されている。

特に「古事記」では、当時はまだ小碓命( おうすのみこと)と名乗った日本武尊(ヤマトタケル)が、女装し熊襲建(クマソタケル兄弟)の寝所に忍び込み、これらを討ちとる。

その征伐譚際に、小碓命( おうすのみこと)が「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である。


なお、隼人(はやと)研究家の日本史学者・中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲(くまそ)の本拠は、都城地方や贈於(そお)地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。


魏志倭人伝中の狗奴国(くなくに)をクマソの国であるとする説が、東洋学者・内藤湖南、津田左右吉、古代史(上代日本史)・井上光貞らにより唱えられている。

ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。


文献資料ではなく、土器の分布の面からは、免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲(くまそ)の文化圏によって生み出されたものではないかと考古学・森浩一は考察している。


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by mmcjiyodan | 2017-08-24 21:48 | Comments(0)  

皇統初期・欠史八代(けっしはちだい)

欠史八代(けっしはちだい)とは、第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までの八人の大王(おおきみ/天皇)の実在が疑われている事を言う。

皇統の初期段階の大王(おおきみ/天皇)について、実在を裏付ける資料がほとんど無い事から「伝説上だけの存在で、実在しないではないか?」とされ、「欠史八代」として別に扱われる大王(おおきみ/天皇)が居る。

第二代・綏靖大王(すいぜいおおきみ/天皇) = 神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)

第三代・安寧大王(あんねいおおきみ/天皇)=磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)

第四代・懿徳大王(いとくおおきみ/天皇)=大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)

第五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)=観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)

第六代・孝安大王(こうあんおおきみ/天皇)=日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)

第七代・孝霊大王(こうれいおおきみ/天皇)=大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)

第八代・孝元大王(こうげんおおきみ/天皇)=大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)

第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)=稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらミコト)

この初期皇統の疑惑を、以下この文章で少し詳しくお伝えする。

これらの大王(天皇)を「後に創作された架空のもの」とする根拠は、第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の「お名前・漢風諡号(かんふうしごう)」にあり、崇神大王(すじんおおきみ)の「お名前」である御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つからである。

つまり崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇)には、現代日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての大王(おおきみ/天皇)と言う評価がある。

「記・紀神話(古事記//日本書紀)」の謎解きの中にはこうしたメッセージも巧みに隠されていて、本来の系図では第十代・崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が初代である事を物語っている。


欠史八代(けっしはちだい)とは系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞/成し遂げた仕事)が記されない為、皇室の「起源の古さと権威を示す為」の偽作とされる疑惑が在る。

これらの大王(おおきみ/天皇)は実在説もあるが、史学界で支配的なのは「実在せず後に創作された架空のもの」とする考えが上記「欠史八代」である。

欠史八代(けっしはちだい)の大王(おおきみ/天皇)は「古事記・日本書紀」に「お名前」が記載されている。

例えば二代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)は、「古事記」では「神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)」と言い、「日本書紀」では「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)」とも言うのが、そのお名前は、「和風諡号(わふうしごう)」である。

綏靖(すいぜい)と言う呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船(おうみ の みふね)が歴代天皇の和風諡号(わふうしごう)を一括撰進した時に付されたが、その「古事記・日本書紀」での「お名前=和風諡号(わふうしごう)」に秘密が隠されていると読めるのだ。

つまり初代・神武天皇(じんむおおきみ/天皇)から九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは、架空の人物もしくは倭国群の内の一国から採って「記・紀神話(古事記/日本書紀)」などの古文書に記載した疑いもある。

また、五代・孝昭大王(こうしょうおおきみ/天皇)の「お名前・和風諡号(わふうしごう)」=観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)の名の中に在る「香殖稲(かえしね)」に、後世へのメッセージが疑われている。

香殖稲(かえしね/根を反す)とは、皇統が入れ替わった事を暗示させると疑いで、「欠史」にしても「香殖稲」にしても初期皇統にまつわる疑惑である。

そしてこの欠史八代と初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)が、賀茂・葛城氏の主神・事代主神(ことしろぬしのかみ)や賀茂・葛城御門(臣王)家と婚姻関係に在る事で、初期皇統の神武朝と賀茂朝をに見事に混合した疑いがある。

謎の始まりは、「古事記・日本書紀」に見える皇統・孝昭大王(こうしょうおおきみ・第五代天皇)の存在である。

この孝昭大王(こうしょうおおきみ)、実在説もあるが、いわゆる欠史八代の一人で、実在しない大王(おおきみ/天皇)と捉える研究家の見方が一般的である。

「古事記」及び「日本書紀」に於いて、系譜(帝紀)は存在するもののその事績(旧辞)が記されていない第二代綏靖天皇から第九代開化天皇までの八人の大王(おおきみ/天皇)の事、或いはその時代を指して欠史八代(けっしはちだい/缺史八代、また別体で闕史八代)とされている。


崇神大王(すじんおおきみ/天皇)と欠史八代】に続く。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


神武王朝四代に関しては、参考小論【神武王朝四代と葛城御門(かつらぎみかど)】を参照下さい。

五代・孝昭大王に関しては、参考小論【欠史八代(けっしはちだい)と香殖稲(かえしね/根を反す)】を参照下さい。

◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-08-21 07:23 | Comments(0)  

崇神大王(すじんおおきみ/天皇)

崇神大王(すじんおおきみ/天皇)は、「古事記」及び「日本書紀」に記される第十代大王(おおきみ/天皇)である。

崇神大王(すじんおおきみ)の和風諡号(わふうしごう)は「日本書紀」では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)である。

また、崇神大王(すじんおおきみ)には御肇國天皇(はつくにしらすすめらのみこと)と称えられ、その諡号(しごう)が、「初めて天下を治めた」と言う意味を持つ事に在る。

その諡号(しごう)から、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)には、現代日本の学術上、実在の可能性が見込める初めての大王(天皇)と言う評価がある。

崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の「古事記」に於ける諡号(しごう)では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)である。


「古事記・日本書紀」に伝えられる事績の史実性、先帝達と繋がる系譜記事等には疑問もあるものの、三世紀から四世紀初めにかけて実在した大王(おおきみ/天皇)と捉える見方が少なくない。

初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)とそれに次ぐ欠史八代の天皇達の実在性が希薄であることから、この崇神大王(すじんおおきみ/天皇)をヤマト王権の初の大王(おおきみ/天皇)と考える説が存在する。

加えて「古事記・日本書紀」に記された事績の類似と諡号の共通性(後述)から、神武天皇と崇神大王(すじんおおきみ/天皇)が同一人物とする説もある。

井上馨桂太郎の孫に当たる歴史学者・井上光貞は御名に後世的な作為が窺えず、欠史八代と違って旧辞も備わっている事から、崇神大王(すじんおおきみ/第十代天皇)を実在の可能性のある最初の帝としている。

ただし、井上光貞は崇神に次ぐ系譜と第十五代応神大王(おうじんおおきみ/天皇)以降の系譜との繋がりには懐疑的である。

歴史学者・直木孝次郎も同様の理由から応神以前に大和地方に存在した別王朝の首長と考えていた。

このように、後代の大王(おおきみ)・天皇達との連続性を疑う「王朝交替説」も存在する。


一方で神武大王(おおきみ)と欠史八代大王(おおきみ)の実在を支持する立場の歴史学者もいる。

その説では、「日本書紀」の記述に、畿内周辺の狭い領域の記述しか出て来なかったのは、初期のヤマト王権が「狭い領域の支配権しか有しなかったからではないか」と言う主張である。

その説では、畿内にしか力の及ばなかったヤマト王権が、崇神大王(すじんおおきみ)の代になって初めて全国規模の政権になったと考える説になる。


崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の代になって初めて「四道将軍の派遣など」など他地方にまで渡る記述が出てくる。

この事から、「初代・神武大王(じんむおおきみ/天皇)から第九代・開化大王(かいかおおきみ/天皇)までは畿内周辺の狭い範囲の王朝だった」と言うのである。


「古事記」では、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して三百十八年(または二百五十八年)没と推測する説も見られる。

二百五十八年没説を採った場合、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なる事になる。


崇神大王(すじんおおきみ/天皇)をヤマト王権の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神の関わりをどう考えるかが問題となってくる。


邪馬台国畿内説からは、邪馬台国とヤマト王権は同一であるという認識の下、考古学者・水野正好は崇神を「卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」とする説を唱えている。

また、考古学者・西川寿勝は、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)は、「魏志倭人伝に記されている卑弥呼の男弟だった」という説を提唱している。


邪馬台国九州説からは、古代史学者・田中卓や歴史学者・武光誠などが「北九州にあった邪馬台国はヤマト王権とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神大王(すじんおおきみ/天皇)である」と提唱している。


加えて、思想史学者・古代史研究家の古田武彦等の、崇神大王(すじんおおきみ/天皇)施政の同時代に「大和(日本)に卑弥呼のような女王はいない事からも邪馬台国畿内説は誤りである」とする説も存在する。


崇神大王(すじんおおきみ/天皇)は、「日本書紀」に於いて百二十歳にて崩御、「古事記」では戊寅年十二月、百六十歳にて崩御としている。

それにしても、いかに天孫の末裔とは言え「古事記」、「日本書紀」に記載の崇神大王(すじんおおきみ/天皇)崩御年齢は神格化の盛り過ぎではないのか?

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。


◆神話で無い、リアルな初期日本人の成り立ちについては、【日本人の祖先は何処から来たのか?】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2017-08-21 07:19 | Comments(0)  

反正大王(はんぜいおおきみ/天皇)

反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇)は、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の第三皇子である。

反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇)は、履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)の同母兄弟である。

つまり第十七代・履中(りちゅう)、第十八代・反正(はんぜい)、そして第十九代・允恭(いんぎょう)は、全て仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の皇子である。

そして、この三代の大王(おおきみ)は、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女子・磐之媛命(いわのひめのみこと)が同じ母である。


多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)は、淡路宮(所在地不詳、淡路島なのか?)で生まれ、容姿美麗であった。

生まれながらにして綺麗な歯並びであったので、瑞歯別(みずはわけ)の名があるという。


古事記」によれば、身長は九尺二寸半(約3.04m)、水歯別命(みずはわけ/多遅比瑞歯別尊)である。

多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)の名は、歯の長さが一寸、広さ(厚さ)は二分(4ミリ)で、上下等しく整っており、歯を褒め称えて、「水歯」と名付けられたことによる。


仁徳八十七年、父・仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子をその近習である曽婆訶理(隼人)を利用して直接手は下していないものの誅殺した。

履中二年一月四日に、多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)は、立太子(皇太弟)する。

反正六年三月十五日に履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)が崩御し、翌反正元年一月に即位する。

三代に渡る、皇位の兄弟継承はここに始まる。


反正年八月六日、共に和珥木事(わにのこごと)の娘である和珥津野媛(わにのつのひめ)を皇夫人に、和珥弟媛(わにのおとひめ)を妃に立てる。

反正大王(はんぜいおおきみ/天皇)は、同母兄弟の二大王と異なり皇族の妻を娶ることはなく、皇太子も立てず、子孫が即位することもなかった。

反正年十月、反正大王(はんぜいおおきみ)は河内丹比を都とする。

天下太平であり、何事もなく在位五年間、反正大王(はんぜいおおきみ)は、反正五年一月に崩御する。

「古事記」,「水鏡」に拠れば、反正大王(はんぜいおおきみ)六十歳での崩御である。

「古事記」に従えば、崩御した「丁丑年七月」は西暦四百三十七年に相当し、生年は逆算して、兄・履中大王(りちゅうおおきみ)より九歳年下の西暦三百七十八年に相当するが、定かではない。


反正大王(はんぜいおおきみ/天皇)の在位について、実態は明らかでない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-08-05 17:11 | Comments(0)  

履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)

履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)は、仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の第一皇子である。

履中大王(りちゅうおおきみ/第十七代天皇)は、反正大王(はんぜいおおきみ/第十八代天皇允恭大王(いんぎょうおおきみ/第十九代天皇)の同母弟である。

つまり第十七代・履中(りちゅう)、第十八代・反正(はんぜい)、そして第十九代・允恭(いんぎょう)は、全て仁徳大王(にんとくおおきみ/第十六代天皇)の皇子である。

そして、この三代の大王(おおきみ)は、葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)の女子・磐之媛命(いわのひめのみこと)が同じ母である。


仁徳八十七年一月、父である仁徳大王(にんとくおおきみ/第十七代天皇)崩御する。

仁徳大王第二皇子・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が皇位を奪おうとして叛乱を起こす。


古事記」では、即位前に婚約者の羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の娘、葦田宿禰(あしだのすくね)の娘の二説がある黒媛(くろひめ)と、大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと)本人だと偽って通じた住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の反乱を受け、兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)は難波宮から石上神宮へ逃げている。

この時反乱に加担した黒媛(くろひめ)は、履中五年に成って神の祟りで急死と伝えられるている。

それにしても、同父母の第二皇子・住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)が、兄皇子を武力で倒そうとするのは権力欲なのか、それとも身分を偽って関係を持った黒媛(くろひめ)への、辻褄合わせの結果なのか、解釈が難しい。


難波宮から石上神宮へ逃げる途中、大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと/履中大王)は穴虫峠で少女に会って、伏兵が居るので、遠回りしろと教えられる。


住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)の反乱に、仁徳大王第一皇子・大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと/履中大王)は、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、履中元年二月に即位する。

履中二年、履中大王(りちゅうおおきみ/天皇)は蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。

履中四年八月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。

履中六年正月に蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興し(「古語拾遺」には内蔵を興すとある)、三月に病気のため稚桜宮で崩御した。

日本書紀」に於いては七十歳、「古事記」に六十四歳、「神皇正統記」に六十七歳崩御とあるが、在位について、実態は明らかでない。

ただしこの頃の大王(おおきみ/天皇)の物語は、時系列からすると古事記・日本書紀の編纂からはかなり以前の事で、編纂までの間に為政者の都合による創作が紛れ込んでも違うとも正しいとも証明が出来ない。

注)初代・神武大王(じんむおおきみ/神話・伝説上の初代天皇)から第二十五代・武烈大王(ぶれつおおきみ/第二十五代天皇)までを「上古天皇」と分類している。

参考・【古事記・日本書紀の皇統神格化疑惑】を参照下さい。


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by mmcjiyodan | 2017-08-05 17:09 | Comments(0)