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気受け(きうけ)

「気受け(きうけ)」とは、その人物に対して持つ世間に於ける好悪の感情評判の事を指し、「この人は世間の気受けが良い」と言うような用法で用いる。

一般的に人間には「良い人と評価されたい」と言う感情が在り、この「気受け(きうけ)」で悪評が広まると恥をかく事に成る。

だからこそ庶民から為政者に至るまで、人々は「気受け(きうけ)」を気にするところである。


余談だが時の為政者は、この「気受け(きうけ)」を大きなスケールで気にする。

為政者は、自らの権力維持の為に世間からの「気受け(きうけ)」に迎合する。

例えば、本来なら隣国同士で永々と憎しみ合う事は不利益も大きいのに、為政者が国民感情の「気受け(きうけ)」に腐心するばかりにいつまでも憎しみの歴史から抜けられない。

逆に、強い為政者を演出する為には、「ナショナリズムを基本とした強硬な発言」を連発し、国民を煽(あお)る手法が幅を利かす。

つまり、この「気受け(きうけ)」を弁舌巧みに利用し、権力を握って国民をミスリードするヒトラー東条英機のごとき人物が現れる危険は、いつの時代でも存在する


江戸時代の歴代の将軍の老中・大老などの幕閣官僚も、この「気受け(きうけ)」は大いに気にしていた。

それは、当代将軍の世間の「気受け(きうけ)」は幕閣官僚の働き次第だからで、将軍に恥じをかかせられないからだ。

そして「気受け(きうけ)」の最大要件は、景気対策・経済政策の成否である。

それで、「田沼意次の政治」、「新井白石と正徳の治」、「享保の改革」、「寛政の改革と天保の改革」等々の経済政策(気受けたいさく)が数えられる。

その経済政策の一つが、貨幣改鋳(かへいかいちゅう)である。

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by mmcjiyodan | 2016-12-13 18:17 | Comments(0)  

貨幣改鋳(かへいかいちゅう)

貨幣改鋳(かへいかいちゅう)とは、市場(しじょう)に流通している貨幣を回収してそれらを鋳潰し、金や銀の含有率や形を改訂した新たな貨幣を鋳造し、それらを改めて市場に流通させる事である。

目的の一つは財政政策で、支出の増加により悪化した財政の補填、大火や地震などの災害復興の為の費用、戦費や隊の維持費などを捻出する為に行われた。

改鋳によって貴金属の含有量を減らして以前より貨幣量を増やし、増えた分を益金(シニョリッジ)として得る事を目的として行われるものが多かった。

もう一つの目的は「気受け(きうけ)」に対する施策で、金銀不融通(きんぎんふゆうずう/資金の集中滞留)状況に対する対策である。

つまり大商人の倉に通貨が滞留して市中経済の活発を阻害した場合に、新通貨の貴金属の含有量を減らし価値を落とす事で、商人の手持ち旧通貨が差損を出す方策で強引に商人の消費を促す施策を採用した。


この貨幣改鋳に依る経済政策には、正反対の二つの意見がある。

正徳年間に貨幣改鋳を行なった新井白石は、貨幣数量説に基づいて「貨幣量が増加した事が物価の上昇をもたらした」と主張した。

弘化年間に町奉行に再任した遠山景元は、文政から天保期の物価上昇は「貨幣改鋳が原因の一つ」と主張している。

改鋳によるインフレーションは、貨幣価値の下落=貨幣の購買力の低下=平価切り下げとも言われている。

その一方で、改鋳による貨幣量の増加は貨幣の流通を後押しし、市場経済の活性化や拡大を促すとも言われている。

まぁ、この通貨量を増やす政策、現代の日本銀行がマイナス金利政策まで踏み込んだが、時の総裁がほぼ太平洋戦争と同じ期間の三年八カ月経過して「もう任期中には目標を達成できない」と匙を投げたほど理屈通りには行かないものである。


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by mmcjiyodan | 2016-12-13 18:09 | Comments(0)  

敏達大王(びたつおおきみ/天皇)

敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)の第二皇子として生まれた。

父・欽明大王(きんめいおおきみ)は、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)の息子であり第十五代・応神大王(おおきみ/天皇)から分かれた傍系の出自であった。

このため、先々代の仁賢大王(にんけんおおきみ/第二十四代天皇)の皇女・手白香(たしらか)を皇后に迎え入れ、権力基盤が確保された経緯があった。

皇統のこの複雑な系流が、継体大王(けいたいおおきみ/第二十六代天皇)が「即位の為に任那(みまな)からやって来た任那の王族説」を否定できない理由に成っている。

この疑惑の詳しくは、小論・【継体大王(けいたいおおきみ・天皇)即位のある疑い。】を参照下さい。

つまり敏達大王(びたつおおきみ)は、欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)と仁賢大王(にんけんおおきみ)の間に為された皇子だった。

欽明大王(きんめいおおきみ)は継体大王(けいたいおおきみ)と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)の皇女の間の息子である。

そして、母・石姫皇女(いしひめ)は宣化大王(せんかおおきみ/天皇・継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、敏達大王(びたつおおきみ)は父方・母方の双方からそれぞれ継体大王・仁賢大王・雄略大王(ゆうらくおおきみ/第二十一代天皇)の血を引いている。


五百七十一年五月二十四日(欽明三十二年四月三十日に、父・欽明大王(きんめいおおきみ)が崩御したことを受け、敏達大王(びたつおおきみ)は五百七十二年四月三十日に即位する。

敏達大王(びたつおおきみ)は、五百七十五年二月四日(敏達四年一月九日)に息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の女、広姫(ひろひめ)を皇后としたが、同年十一月に妃・広姫(ひろひめ)は崩御する。

翌五百七十六年四月二十三日(敏達五年三月十日)、十六歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后に立てた。

ここに一つ謎が在るのだが、実は敏達大王(びたつおおきみ)即位前の五百七十一年に額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を既に妃としていた。

額田部皇女(ぬかたべのひめみこ/後の推古大王)が皇女にもかかわらずそうでない広姫(ひろひめ)が何故当初皇后となったのかは不明である。


この敏達大王(びたつおおきみ)が、蘇我馬子(そがのうまこ)物部守屋(もののべのもりや)が争った宗教戦争の内乱、一方で、信仰に名を借りた権力闘争ともされる丁未の乱(ていびのらん)に巻き込まれる。

敏達大王(びたつおおきみ)は廃仏派寄りであり、廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)と中臣氏が勢いづき、それに崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が対立するという構図になっていた。

崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)が寺を建て、仏を祭るとちょうど疫病が発生したため、五百八十五年(敏達十四年)に物部守屋(もののべのもりや)が敏達大王(びたつおおきみ)に働きかけ、仏教禁止令を出させ、仏像と仏殿を燃やさせた。

尼僧・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、晒し者にして連行し、群衆の目前で鞭打っ暴挙に出る。


五百八十五年九月十四日(敏達十四年八月十五日)敏達大王(びたつおおきみ)の病が重くなり崩御に到る。

敏達大王(びたつおおきみ)に皇太子はおらず、崩御の翌月の五百八十五年十月三日(敏達十四年九月五日)、日本書紀に依ると異母兄弟の大兄皇子が用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)として即位した。

この代替わりの結果、仏教を巡る争いは次世代に持ち越された。


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by mmcjiyodan | 2016-12-05 17:07 | Comments(0)  

物部守屋(もののべのもりや)と丁未の乱(ていびのらん)

物部守屋(もののべのもりや)は古墳時代の大連(おおむらじ/有力豪族)物部氏の頭領一族で、物部尾輿(もののべのおこし)の子である。

守屋(もりや)の物部氏の名乗りの物部は武器及び軍事物資の事で、物部氏は有力な軍事氏族である。


丁未の乱(ていびのらん)は、古墳時代に起きた蘇我氏と物部氏の宗教戦争の内乱と言われている。

しかしその一方で、信仰に名を借りた権力闘争の悪臭も香って来る。

物部氏は独自の物部神道を有し、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立したとされるが、「守屋(もりや)個人の意思」とも言われる。

何故なら、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もあるからだ。


五百七十二年(敏達天皇元年)、敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)の即位に伴い、守屋(もりや)は大連(おおむらじ)に任じられる。

五百八十五年(敏達天皇十四年)、病になった大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ/中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神=仏教)を信奉した為に疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。

敏達大王(びたつおおきみ)は、この求めを受け入れ仏法を止めるよう詔した。

守屋(もりや)は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子(うまこ)や司馬達等(しばたっと)ら仏法信者を面罵した。

更に守屋(もりや)は、達等(たっと)の娘・善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら三人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にし、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

しかし守屋(もりや)の行動に効果は無く、疫病は更に激しくなり、敏達大王(びたつおおきみ)も病に伏した。

馬子(うまこ)は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上し、敏達大王(びたつおおきみ)は馬子(うまこ)に限り許した。

敏達大王(びたつおおきみ)の許可を得た馬子(うまこ)は、守屋(もりや)に迫害された三尼を崇拝し、寺を営んだ。


ほどなくして、敏達大王(びたつおおきみ)は崩御し、殯宮(あがりのみや/もがり のみや)で葬儀が行われ、馬子(うまこ)は佩刀(はいとう/腰に刀を帯び)して誄言(しのびごと)を奉った。

守屋(もりや)は「猟箭(ししや/猟矢)がつきたった雀鳥のようだ」と笑い、守屋が身を震わせて誄言(しのびごと)を奉ると、馬子(うまこ)は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。


敏達大王(びたつおおきみ)の次帝には馬子(うまこ)の推す用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇・欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位する。

馬子(うまこ)に対抗する守屋(もりや)は、敏達大王(びたつおおきみ)の異母弟・穴穂部皇子(あなほべのみこ)と結んだ。


五百八十六年(用明天皇元年)穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、炊屋姫(しきやひめ/敏達大王の后妃)を犯そうと欲して殯宮(あがりのみや/もがり のみや)に押し入ろうとしたが、敏達前帝の寵臣・三輪逆(みわのさかう)に阻(はば)まれる。

その邪魔を怨んだ穴穂部皇子(あなほべのみこ)は守屋(もりや)に命じて三輪逆(みわのさかう)を殺させる。

馬子(うまこ)は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆くが、守屋(もりや)は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えたと言う。


五百八十七年(用明天皇二年四月二日)、用明大王(ようめいおおきみ)は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。

守屋(もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ)は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対する。


馬子(うまこ)は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子(あなほべのみこ)に僧の豊国をつれて来させるが守屋(もりや)は睨みつけて大いに怒る。


史(書記)の押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)が守屋(もりや)に、群臣たちが守屋(もりや)の帰路を断とうとしていると告げた。

守屋(もりや)は朝廷を去り、別業のある阿都(河内国渋川郡跡部郷=現在の大阪府八尾市跡部)へ退き、味方を募った。

排仏派の中臣勝海(なかとみのかつみ)は、馬子派の皇子・彦人皇子(ひこひとのみこ)と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作り呪詛した。


しかし、中臣勝海(なかとみのかつみ)は、やがて彦人皇子(ひこひとのみこ)の邸へ行き用明大王(ようめいおおきみ)への帰服を誓った。

自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子(ひこひとのみこ)と馬子(うまこ)の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている。

その彦人皇子邸から帰路、舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が中臣勝海(なかとみのかつみ)を斬った。


守屋(もりや)は、物部八坂、大市造小坂、漆部造兄を馬子(うまこ)のもとへ遣わし「群臣が我を殺そうと謀っているので、阿都へ退いた」と伝えた。


そうした混乱の中、五百八十七年(用明天皇二年四月九日)、病を得てわずか六日で用明大王(ようめいおおきみ)は崩御した。

守屋(もりや)は穴穂部皇子(あなほべのみこ)を皇位につけようと図ったが、六月七日、馬子(うまこ)は炊屋姫(しきやひめ)の詔を得て、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の宮を包囲して誅殺し、翌日には宅部皇子(やかべのみこ)を誅した。


七月、馬子(うまこ)は群臣にはかり、守屋(もりや)を滅ぼすことを決める。

馬子(うまこ)は泊瀬部皇子(はつせべのみこ/後の崇峻大王)、竹田皇子(たけだのみこ)、厩戸皇子(うまやどのみこ)などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋(もりや)の館へ向かった。

守屋(もりや)は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。

その軍は強盛で、守屋(もりや)は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけ応戦した。

皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。

これを見た厩戸皇子(うまやどのみこ)は、仏法の加護を得ようと白膠の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。

馬子(うまこ)は、軍を立て直して進軍させた。


舍人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋(もりや)を射落として殺した。

寄せ手は攻めかかり、守屋(もりや)の子らを殺し、守屋(もりや)の軍は敗北して逃げ散った。


守屋(もりや)の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。

この戦いを「丁未の乱(ていびのらん)」と称する。


厩戸皇子(うまやどのみこ)は摂津国(現在の大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。

物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子(うまこ)のものになった。

馬子(うまこ)の妻が守屋(もりや)の妹であるので、物部氏の相続権があると主張したためである。

また、残りの半分は四天王寺へ寄進された。


戦国時代の近江の戦国大名・浅井氏は、守屋(もりや)の末裔を称している。


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by mmcjiyodan | 2016-12-03 19:30 | Comments(0)  

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

日本史に於ける廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味である。

仏教寺院・仏像・経巻を破毀(はき)し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃する事を指す。

古代日本に於いては、日本の初期信仰は神道だった。

そこに仏教が伝来し、日本書紀の欽明大王(きんめいおおきみ/第二十九代天皇)・敏達大王(びたつおおきみ/第三十代天皇)・用明大王(ようめいおおきみ/第三十一代天皇)の各天皇記を基にすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われた。

しかし日本の大和朝廷は、先進の中華文明を取り入れる為に「神仏習合」をもってこれを受け入れる方向にシフトした。

やがて、仏教が浸透していく事によってこのような動きは見られなくなった。


戦国時代及び安土桃山時代では、小西行長などキリシタン大名が支配した一部地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。

江戸時代前期に於いては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まる。

この影響を受けた池田光政や保科正之などの諸大名が、その領内に於いて仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。

なかでも、徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏は規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。

光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなった。

水戸藩主・徳川斉昭は水戸学学者である藤田東湖・会沢正志斎らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。

天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。

幕末期に新政府を形成する事になった勤皇派の志士達は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。

言うまでも無いが、皇室は日本神道の最上位である天照大御神の祭司であり、その新体制を強化しうる動きの一環と言える。

また同時期に勃興した国学に於いても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。

中でも平田派(平田篤胤/ひらたあつたね・復古神道)は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与する事になった。

この経緯を経て、大政奉還後に成立した新政府によって「神仏習合を廃して神仏分離を押し進める廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動」が明治維新後に発生した。

千八百六十八年四月十五日(慶応四年三月十三日)に発せられた太政官布告(通称「神仏分離令」「神仏判然令」)、及び千八百七十年二月三日(明治三年一月三日)に出された詔書「大教宣布」などの神仏習合の廃止政策が図られた。

「神仏分離令」や「大教宣布」は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかった。

しかし、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた破壊活動を引き起こしてしまう。

明治期の神仏分離政策後、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。


明治新政府の政策に拠り、皇統の神格化が図られて廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行うまでは、日本の宗教政策は大和朝廷以来江戸末期まで、信仰に基付く争いを避ける知恵を働かせて、基本的に永い期間「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」政策だった。

所が明治新政府は、文明開化(欧米文化の導入)で欧米列強と肩を並べるべく近代化を目指し、一方で強引な皇統の神格化を図り、天皇に拠る王政復古によって、神道による国家の統一を目指し、それまでの神仏習合から仏教の分離を画策して、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)と銘銘し、仏教の排斥運動や像、仏具類の破壊活動が行われた。

同時に国家の統治の要として儒教・儒学(朱子学)の精神思想を採用、国家と天皇への忠誠を広く庶民に啓蒙したのである。

ここで問題なのは、古来の神道に儒教・儒学(朱子学)は無かった事で、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)とは言いながら、庶民生活においては政府の意向で「神仏習合」から「神儒習合」に変わったのが現実である。

明治維新以後、保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝純潔思想が取り入れられ、この時代に成って初めて国民の統一した意識思想として奨励された。

つまり、かつての日本的儒教(朱子学)は、武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制(明治以後)の下では国民全体に強要されたのである。

従って庶民の大半には、古くからの北斗妙見(明星)信仰陰陽修験犬神信仰真言大覚寺派の教えも、明治維新まで或いは戦前までは「共生主義」の一形態として民衆の間に根強く残っていたのは確かである。


神仏分離が廃仏毀釈に至った原因は地域・事例ごとに様々である。

廃仏思想を背景とするものの他、近世までの寺檀制度下に於ける寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、地方官が寺院財産の収公を狙っての事など、社会的・政治的理由も窺える。

政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿らしむ事」と、神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではないとの注意を改めて喚起した。

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神仏習合(しんぶつしゅうごう)


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by mmcjiyodan | 2016-12-02 13:57 | Comments(0)  

和気清麻呂(わけのきよまろ)

和気清麻呂(わけのきよまろ)は備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身で、当初の氏姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)を名乗る。

のち藤野真人(ふじののまひと/輔治能)、和気宿禰(わけのすくね)、和気朝臣(わけのあそみ)に改めた。

清麻呂(きよまろ)は、磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)または平麻呂(たいらまろ)の子として生まれた奈良時代末期から平安時代初期の貴族である。


七百六十九年(神護景雲三年)七月頃、宇佐八幡宮神託事件が起こる。

宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、称徳天皇が寵愛を与えていた「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に就かせれば天下太平になる。」と称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)へ奏上する。

道鏡はこれを信じて、或るいは道鏡が習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自らが皇位に就く事を望む。

称徳大王(しょうとくおおきみ)は、神託の確認に側近の尼僧・和気広虫(わけのひろむし/法均尼)を召そうとする。

だが、虚弱な広虫(ひろむし/法均)では長旅は堪えられぬ為、弟の清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。

清麻呂(きよまろ)は称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の使者(勅使)として宇佐八幡宮に参宮し、宝物を奉り宣命の文を読もうとした。

その時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊く(きく/受け入れる)事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願う。

すると、身の丈三丈、およそ九mの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊(き)く事を拒む。

清麻呂(きよまろ)は与曽女(よそめ)とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」を朝廷に持ち帰り、称徳大王(しょうとくおおきみ)へ報告した。

清麻呂(きよまろ)の報告を聞いた称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は怒り、清麻呂(きよまろ)を輔治能真人(ふじののまひと)姓を与え因幡員外介(いなばいんがいのすけ)に一旦左遷する。

その上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした。


七百七十年(神護景雲四年)八月、称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)は崩御し、後ろ楯を無くした道鏡は失脚したため清麻呂(きよまろ)は光仁天皇(こうにんてんのう/第四十九代)により従五位下に復位した。

その後、和気清麻呂(わけのきよまろ)は播磨・豊前の国司(こくし/くにのつかさ)を歴任する。

この時、清麻呂(きよまろ)は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造(くにのみやつこ)に任じられている。

その後清麻呂(きよまろ)は、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の下で実務官僚として重用されて高官となる。

清麻呂(きよまろ)は、山背国葛野郡宇太村を選んで平安遷都の建設に進言し、七百九十三年(延暦十二年)自ら造営大夫として尽力した。

もし、和気清麻呂(わけのきよまろ)が称徳天皇(しょうとくてんのう/第四十八代女帝)の意向に応じて居れば、「この宇佐八幡宮神託事件で皇統が途切れていた。」として評価される人物である。


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by mmcjiyodan | 2016-11-29 16:07 | Comments(0)  

東大寺(とうだいじ)と大仏殿(だいぶつでん)

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。

東大寺(とうだいじ)は、金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(八世紀頃)聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が国力を尽くして建立した寺である。

「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当/住職)は僧正・良弁(ろうべん)である。


創建当初の奈良時代には、東大寺(とうだいじ)は中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西二つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、二度の兵火で多くの建物を焼失した。

創建当初からの大仏で、現存するのは台座(蓮華座)などの一部に創建当初の部分を残すのみである。

現在の大仏殿は江戸時代・元禄期の十八世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が三分の二に縮小されている。

「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院である。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が当時の日本の六十余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。


東大寺の記録である「東大寺要録」によれば、八世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身の寺院が建てられていた。

七百三十三年(天平五年)若草山麓に創建された金鐘寺(こんしょうじ)または金鍾寺(こんしゅじ)が東大寺の起源であるとされる。

正史「続日本紀」によれば、七百二十八年(神亀五年)、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)と光明皇后(こうみょうこうごう)が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、九人の僧を住まわせた事が知られ、これが金鐘寺(こんしょうじ)の前身と見られる。

記録によれば、八世紀半ばの金鐘寺(こんしょうじ)には、羂索堂、千手堂が存在した事がから知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。


七百四十一年(天平十三年)には国分寺建立の詔(みことのり)が発せられ、これを受けて翌七百四十二年(天平十四年)、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは七百四十七年(天平十九年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられる様になったと思われる。

また、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは七百四十八年(天平二十年)が最初である。


聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が大仏造立の詔(みことのり)を発したのはそれより前の七百四十三年(天平十五年)である。

当時、都は恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は短期間に遷都を繰り返したが、二年後の七百四十五年(天平十七年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われる事になった。

この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であった為、朝廷から弾圧されていた大乗仏教僧・行基(ぎょうき)を大僧正として迎え、協力を得た。


難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは七百五十二年(天平勝宝四年)の事であった。

大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、竣工したのは七百五十八年(天平宝字二年)の事である。

東大寺では大仏創建に力のあった華厳宗僧・良弁(ろうべん)、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。


大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は国費を浪費させ、日本の財政事情を悪化させたという、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の思惑とは程遠い事実を突き付ける。

貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調(そようちょう)の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。


七百五十六年(天平勝宝八年五月二日)、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代)に攘位して太上天皇(上皇)になっていた聖武太上天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が崩御する。

この崩御の年の七月に起こったのが、橘奈良麻呂(たちばなのならはしまろ)の乱である。

七月四日に逮捕された橘奈良麻呂(たちばなのならはしまろ)は、藤原永手(ふじわらのながて)の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。

ここで永手(ながて)は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父・橘諸兄(たちばなのもろえ)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ。」と反論した為、奈良麻呂(ならはしまろ)は返答に詰まったという。


奈良時代の東大寺(とうだいじ)の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並ぶ。

講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)がある。

南大門と中門の間の左右には高さ約七十メートル以上と推定される東西二基の七重塔が回廊に囲まれて建っていた。

東大寺(とうだいじ)は、七百四十五年(天平十七年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには四十年近い時間を要している。


奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後の事である。

その為、寺院では複数の宗派を兼学する事が普通であった。

東大寺(とうだいじ)の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。


平安時代には空海(くうかい/弘法大師)によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄(さいちょう/伝教大師)が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。


平安時代に入ると、桓武天皇(かんむてんのう/第五十代)の南都仏教抑圧策により「造東大寺所」が廃止されるなどの圧迫を受ける。

東大寺(とうだいじ)は講堂と三面僧房が失火で、七重塔・西塔が落雷で焼失したり、暴風雨で南大門、鐘楼が倒壊したりといった事件が起こる。

そうした背景から、東大寺(とうだいじ)は多数の僧兵を抱え、隣接する興福寺(こうふくじ)などと度々強訴を行っている。

興福寺(こうふくじ)は、六百六十九年創建の法相宗大本山で、藤原氏の祖・ 藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とその子息・藤原不比等(ふじわらのふひと)ゆかりの氏寺である。


東大寺(とうだいじ)は、近隣の興福寺(こうふくじ)と共に千百八十一年一月十五日(治承四年十二月二十八日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。

この時、大勧進職(浄財の寄付を集める)に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時六十一歳の僧・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)であった。

平安末期、重源(ちょうげん)の精力的な活動により、千百八十五年(文治元年)には後白河法皇(ごしらかわほうおう/第七十七代天皇)らの列席の下、大仏開眼法要が、そして千百九十年(建久元年)には上棟式が行われた。

千百九十五年(建久六年)には再建大仏殿が完成、初代鎌倉幕府将軍・源頼朝(みなもとのよりとも)らの列席の下、落慶法要が営まれた。

その後、戦国時代初期の千五百六十七年十一月十日(永禄十年十月十日)、三好・松永の東大寺(とうだいじ)大仏殿の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺(とうだいじ)の主要堂塔はまたも焼失した。


千五百七十三年(天正元年九月)東大寺(とうだいじ)を戦乱に巻き込む事と乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。

大仏殿の仮堂が建てられたが、千六百十九年(慶長十五年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。

その後の大仏の修理は千六百九十一年(元禄四年)に完成する。

大仏殿の再建は、全国行脚の勧進で修理代を集めた僧・公慶(こうけい)の尽力や、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)や母の桂昌院(けいしょういん)を初め多くの人々による寄進が行われた結果千七百九年(宝永六年)に完成した。

この三代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の十一間からおよそ三分の二の七間に縮小されている。

講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建される事はなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。


千九百九十八年、東大寺(とうだいじ)と興福寺(こうふくじ)は古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録された。


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by mmcjiyodan | 2016-10-06 18:29 | Comments(0)  

行基(ぎょうき)・大僧正

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)は奈良時代の日本の僧で、六百六十八年河内国大鳥郡、現在の大阪府堺市西区家原寺町)に生まれる。

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)の生年については六百六十八年説と、異説の六百七十七年説が在る。

六百八十二年(天武天皇十一年)に十五歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相宗(ほっそうしゅう)などの教学を学び、集団を形成して近畿地方を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活動した。


僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、行基(ぎょうき)は禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。

また、行基(ぎょうき)は道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池十五窪、溝と堀九筋、架橋六所、困窮者の為の布施屋九所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。

朝廷が僧侶を国家機関と定めたのは、仏教を統治に利用する目的が在ったからである。

行基(ぎょうき)は、民衆を煽動する人物であると朝廷から疑われた事、また寺の外での活動が僧尼令に違反するとされた事から、七百十七年(養老元年四月二十三日)詔(みことのり)をもって糾弾されて弾圧を受ける。

だが、行基(ぎょうき)の指導により墾田開発や社会事業が進展した事、豪族や民衆らを中心とした教団の拡大を抑えきれなかった事、行基(ぎょうき)の活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断した。

この事から、七百三十一年(天平三年)弾圧を緩め、翌年河内国の狭山池の築造に行基(ぎょうき)の技術力や農民動員の力量を利用した。


行基(ぎょうき)は朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。

その後、行基(ぎょうき)は日本で最初の最高位・大僧正として聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘(しょうへい/礼を尽くして招く)された。

この大仏造立の功績により、行基(ぎょうき)は東大寺(とうだいじ)の「四聖(ししょう)」の一人に数えられている。

東大寺の「四聖(ししょう)」とは、聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)、インド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)、大乗仏教僧・行基(ぎょうき)、華厳宗僧・良弁(ろうべん)、を指す。


七百四年(大宝四年)に、行基(ぎょうき)は生家を家原寺(えばらじ)としてそこに居住した。

行基(ぎょうき)の師とされる道昭(どうしょう)は、入唐して玄奘(げんじょう/三蔵法師)の教えを受けた事で有名である。


七百三十六年(天平八年)に、インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな/ボーディセーナ)がチャンパ王国(ベトナム)出身の僧・仏哲、唐の僧・道セン(どうせん)とともに来日した。

彼らは九州の大宰府に赴き、行基(ぎょうき)に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。

七百三十八年(天平十年)に、日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されて朝廷より「行基大徳」の諡号(しごう)が授けられた。


民衆の為に活躍していた行基(ぎょうき)は七百四十年(天平十二年)から大仏建立に協力する。

この為、民衆の為活動した行基(ぎょうき)が「朝廷側の僧侶になった」とする説・「行基転向論」がある。

だが、一般的には権力側が行基(ぎょうき)の民衆に対する影響力を利用したのであり、行基(ぎょうき)が権力者の側についたのではないと考えられている。

七百四十一年(天平十三年)三月に聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)が恭仁京(くにきょう)郊外の泉橋院で行基(ぎょうき)と会見し、七百四十三年(天平十五年)東大寺の大仏造造営の勧進に起用されている。

勧進の効果は大きく、続日本紀に依ると七百四十五年(天平十七年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた。

行基(ぎょうき)の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代に於いて具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみと言われている。

その為、それぞれに対して、同時代の中国で席捲していた三階教教団の活動と唐朝の弾圧との関連や影響関係が指摘されている。


行基(ぎょうき)は日本全国を歩き回り、橋を作ったり用水路などの治水工事を行ったとされ、全国に行基(ぎょうき)が開基したとされる寺院なども多く存在する。

三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、前述の東大寺大仏造立にも関わっている。

行基(ぎょうき)はまた、朝廷より菩薩の諡号(しごう)を授けられ「行基菩薩」と言われる。

その時代から行基(ぎょうき)は「文殊菩薩の化身」とも言われている。

なお、行基(ぎょうき)が迎えたインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)は七百五十二年、聖武太上天皇(七比約四十九年に退位し上皇・太上天皇)の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。


この他、行基(ぎょうき)は古式の日本地図である「行基図」を作成したとされる。

大仏造営中の七百四十九年(天平二十一年)、行基(ぎょうき)は喜光寺(菅原寺)で八十一歳で入滅し、生駒市の往生院で火葬後竹林寺に遺骨が奉納された。

また、喜光寺(菅原寺)から往生院までの道則を行基(ぎょうき)の弟子が彼の輿(こし)をかついで運搬した事から、往生院周辺の墓地地帯は別名、輿山(こしやま)とも呼ばれている。


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by mmcjiyodan | 2016-10-05 19:41 | Comments(0)  

鑑真(がんじん/鑑真和上)と唐招提寺(とうしょうだいじ)

鑑真(がんじん)は六百八十八年、唐の国(中国)・揚州江陽県に生まれ、奈良時代の日本に渡来して帰化した僧である。

鑑真(がんじん)は七百一年、十四歳で中国仏教の僧・智満について得度し大雲寺に住む後、十八歳で僧・道岸から菩薩戒を受け、二十歳で長安に入る。

七百七年、鑑真(がんじん)は中国仏教の僧・弘景について登壇受具し律宗・天台宗を学ぶ。

律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派である。

鑑真(がんじん)は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、四万人以上の人々に授戒を行ったとされている。


一方日本では、六百年~七百四十年当時、奈良一帯には無資格で勝手に僧を宣言する私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かった。

その為、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させよう聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)は適当な僧侶を捜していた。

本来仏教では、新たに僧尼となる者は戒律を遵守する事を誓う儀式を必要とする。

戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という。

戒を誓う為に、十人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある。


日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった。

しかし、平城京(へいじょうきょう)奈良時代に入ると自誓授戒を蔑(ないがし)ろにする者たちが徐々に幅を利かる。

この無秩序を制する為に、十人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった。

聖武天皇(しょうむてんのう/第四十五代)の意向を受け授戒の制度化の為に唐(中国)へ向かう使者として、興福寺の僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう) の二人が選ばれる。

二人は、貴族・右大臣・多治比嶋(たじひのしま)の五男・多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする遣唐使に加わって渡海する。

僧・栄叡(ようえい)と普照普照(ふしょう)は、授戒できる僧十人を招請する為に中国へ渡海し、戒律の僧として高名だった鑑真(がんじん)の下を訪れた。


この先の名僧・鑑真(がんじん)渡日への経緯記述は、「唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)」及び「続日本紀」を根拠とする。

名僧・鑑真(がんじん)が中国(唐)揚州の大明寺の住職であった七百四十二年、日本から唐に渡った僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)らから戒律を日本へ伝えるよう懇請される。

僧・栄叡と普照の要請を受けた鑑真(がんじん)は、「渡日したい者はいないか」と弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった。

そこで鑑真(がんじん)自ら渡日する事を決意し、それを聞いた弟子二十一人も随行する事となった。

つまり鑑真(がんじん)が、弟子の僧を十人以上引き連れて来日すれば、授戒の制度化の要件を満たす事に成る。

その後、自ら渡日を決意した鑑真(がんじん)は、日本への渡海を五回にわたり試みたがことごとく失敗する。


最初の渡海企図は、七百四十三年夏の事である。

この時は、渡海を嫌った弟子が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をした為、日本僧・栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)らは追放された。

鑑真(がんじん)は港へ留め置かれ、大明寺に帰った。


二回目の試みは七百四十四年一月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚(よよう)へ戻らざるを得なくなってしまった。

再度、出航を企てたが、鑑真(がんじん)の渡日を惜しむ者の密告により僧・栄叡(ようえい)が逮捕・投獄をされ、三回目も失敗に終わる。


その後、栄叡(ようえい)は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真(がんじん)一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。

しかしこの時も、鑑真弟子・霊佑(れいゆう)が鑑真(がんじん)の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。

その為、官吏に出航を差し止めされ、四回目の渡日も失敗する。


七百四十八年、日本僧・栄叡(ようえい)が再び大明寺の鑑真(がんじん)を訪れた。

栄叡(ようえい)が懇願すると、鑑真(がんじん)は五回目の渡日を決意する。

鑑真(がんじん)は七百四十八年六月に出航し、舟山諸島(東シナ海海上に浮かぶ群島)で数ヶ月風待ちした後、十一月に日本へ向かい出航した。

たが、鑑真(がんじん)一行は激しい暴風に遭い、十四日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着する。

鑑真(がんじん)は当地・海南島の大雲寺に一年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。

そのため海南島には、現代でも鑑真(がんじん)を顕彰する遺跡が残されている。


七百五十一年、鑑真(がんじん)は揚州に戻るため海南島を離れるも、その途上に、端州の地で日本僧・栄叡(ようえい)が死去する。

動揺した鑑真(がんじん)は広州から天竺(てんじく/インド)へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。

この揚州までの帰上の間、鑑真(がんじん)は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。


七百五十三年、廷臣・藤原房前 (ふじわらのふささき) の四男・遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)らが鑑真(がんじん)の下に訪れ、鑑真(がんじん)は渡日を約束した。

しかし、明州当局の知るところとなり、遣唐大使の藤原清河(ふじわらのきよかわ)は鑑真(がんじん)の同乗を拒否する。

それを聞いた遣唐副使の貴族・大伴古麻呂(おおとものこまろ)は清河に内密に第二船に鑑真(がんじん)一行を乗船させた。


七百五十三年十二月十五日(日本歴・天平勝宝五年十一月十六日)に四艘(舟)が同時にが出航する。

その帰還船団の、第一船と第二船は十二月二十一日に阿児奈波嶋(あこなはじま/沖縄)到着、第三船はすでに前日二十日に到着していた。

その内の第三船は約半月間、沖縄に滞在する。

七百五十四年一月三日に、南風を得て、第一船・第二船・第三船は同時に沖縄を発して多禰国(たねのくに/多禰嶋)、現在の種子島・屋久島に向けて就航する。

出港直後に大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)と阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)の乗った第一船は岩に乗り上げ座礁する。

それでも、第二船・第三船はそのまま日本(多禰嶋)を目指した。

後に、座礁した大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)等の第一船はベトナム北部に漂着し、その一行は唐に戻る事となる。


第二船・第三船は、七日後の七百五十四年一月九日に多禰国(たねのくに)の益救嶋(現在の屋久島)に到着する。

一行は、朝廷や大宰府の受け入れ態勢を待つ事六日後の十二月十八日に大宰府を目指し出港する。

翌十九日に遭難するも古麻呂(こまろ)と鑑真(がんじん)の乗った第二船は七百五十四年一月十七日に秋目(秋妻屋浦・鹿児島県坊津)に漂着する。

その後、七百五十四年一月二十三日(日瀝・天平勝宝五年十二月二十六日)に、大安寺の僧・延慶(えんけい)に迎えられながら大宰府に到着する。


鑑真(がんじん)一行は七百五十四年一月二十三日(日瀝・天平勝宝五年十二月二十六日)大宰府に到着、鑑真(がんじん)は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行う。

七百五十四年三月二日(天平勝宝六年二月四日)、鑑真(がんじん)一行は奈良平城京の朝廷への到着する。

鑑真(がんじん)一行は、譲位(じょうい)して上皇となった聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇(こうけんてんのう/第四十六代)の勅(みことのり)により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住する事となった。

聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真(がんじん/鑑真和上)から戒を 授かり、翌年、日本初の正式な授戒(戒名を授かる)の場として戒壇院を建立した。

七百五十四年四月、鑑真(がんじん)は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇から僧尼まで四百名に菩薩戒を授けた。

これが日本の登壇授戒の嚆矢(こうし/はじまり)である。

併せて、常設の東大寺(とうだいじ)戒壇院が建立され、その後、天平宝字五年には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺及び下野国薬師寺に戒壇が設置される。

これを機に、仏教界に於ける戒律制度が急速に整備されて行った。

ここに戒壇院制度が成立して、後の名僧・空海(くうかい/弘法大師)最澄(さいちょう/伝教大師)も東大寺・戒壇堂(かいだんどう)で、正式に僧侶として認定され資格を得た。


七百五十八年(天平宝字二年)、鑑真(がんじん)は淳仁天皇(じゅんにんてんのう/第四十七代)の勅(みことのり)により大和上(だいわじょう/大和尚)に任じられる。

勅(みことのり)により、大和上・鑑真(がんじん)を政治にとらわれる労苦から解放する為、僧官の職・僧綱(そうごう)の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。


七百五十九年(天平宝字三年)、鑑真(がんじん)は天武天皇(てんむてんのう/第四十代)の第十皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建し、戒壇を設置した。


大和上・鑑真(がんじん)は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、これらの知識も日本に伝えた。

また、鑑真(がんじん)は悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

七百六十三年(天平宝字七年)、大和上・鑑真(がんじん)は唐招提寺に於いて七十六歳で死去(遷化)した。


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by mmcjiyodan | 2016-10-05 12:31 | Comments(0)  

日蓮(にちれん)と日蓮宗(法華宗)

鎌倉時代中期、仏教の大宗派となる日蓮宗 (法華宗)が登場する。

鎌倉時代の仏教の僧日蓮(にちれん)は、鎌倉仏教の十三宗のひとつ日蓮宗 (法華宗) の宗祖である。

幼名を善日麿(ぜんにちまろ)と名付けられた日蓮(にちれん)は、千二百二十二年(貞応元年)二月十六日に安房国長狭郡東条郷片海(現・千葉県鴨川市)の小湊で誕生する。

父は現・静岡県袋井市に在する貫名一族出自・三国大夫(貫名次郎/ぬきなじろう)、母は梅菊(うめぎく)とされている。

日蓮は、その書「本尊問答抄」、「佐渡御勘気抄」、「善無畏三蔵抄」、「種種御振舞御書」等に於いて、「海人が子なり」、「海辺の施陀羅が子なり」、「片海の石中の賎民が子なり」、「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。


千二百三十三年(天福元年)十歳になった善日麿(ぜんにちまろ)は、安房国(あわのくに/現・千葉県 )清澄寺(せいちょうじ)の道善房(どうぜんぼう)に入門する。

千二百三十五年(天福三年)、十二歳の善日麿(ぜんにちまろ)は師・道善房(どうぜんぼう)より薬王丸(やくおうまる)の名をいただく。

千二百三十八年(暦仁元年)、薬王丸(やくおうまる)は出家し「是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)」の名を与えられる。

修行僧・是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は、千二百四十五年(寛元三年)遊学に旅立ち、比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学する。

翌千二百四十六年(寛元四年)三井寺をかわきりに八年間、薬師寺、仁和寺、高野山・五坊寂静院、天王寺、東寺を遊学する。


千二百五十三年(建長五年)、遊学の度を終えた修行僧・是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は、清澄寺(せいちょうじ)に帰山する。

同千二百五十三年(建長五年)四月二十八日朝、是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱え、「立教開宗」して正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。

是生房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)は「立教開宗」を期に名を日蓮(にちれん)と改める。

日蓮(にちれん)は、川越の天台宗寺院・中院(なかいん)・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂(でんぼうかんじょう/指導者の位・阿闍梨)を受け正式な僧侶となる。


千二百五十四年(建長六年)、日蓮(にちれん)は清澄寺(せいちょうじ)を退出し、当時幕府所在地である鎌倉にて辻説法を開始する。

独自の立教開宗を始めた日蓮(にちれん)は、千二百五十七年(正嘉元年)に村山修験の中心地・富士山興法寺(ふじさんこうぼうじ)大鏡坊に法華経を奉納する。

所伝によれば、千二百五十八年(正嘉二年)に日蓮(にちれん)は、日蓮宗の本山(霊蹟 寺院)となる実相寺にて一切経を閲読(調べながら読む)とある。

この頃日蓮(にちれん)は、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房(ほうきぼう)としている。


千二百六十年(文応元年)七月十六日、日蓮(にちれん)は立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る。

安国論建白の四十日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の日蓮(にちれん)の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。

千二百六十一年(弘長元年)五月十二日、日蓮(にちれん)は鎌倉幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流され、後に「伊豆法難」とされる。

その後解放されるが、千二百六十四年(文永元年)に、後に「小松原法難」とされる事件が起きる。

日蓮(にちれん)は安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で、念仏信仰者の幕府御家人地頭・東条景信(とうじょうかげのぶ)に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失った。


千二百六十八年(文永五年)蒙古から幕府へ国書が届き、日蓮(にちれん)が他国からの警鐘を鳴らしていた侵略の危機が現実となる。

日蓮は幕府第八代執権・北条時宗北条得宗家執事・平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。

千二百六十九年(文永六年)、日蓮(にちれん)は富士山に経塚を築く。

千二百七十一年(文永八年)七月、日蓮(にちれん)が真言律宗の僧・極楽寺良観(忍性/にんしょう)の祈雨対決の敗北を指摘する。

勿論この祈雨対決は、あくまでも現代科学では立証が難しい信仰上の結論である。

同千二百七十一年九月、極楽寺良観、法性寺念阿弥陀仏(空阿/くうあ)等が連名で幕府に日蓮(にちれん)を訴える。


北条氏得宗家の御内人・平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして日蓮(にちれん)は佐渡流罪の名目で捕らえられる。

日蓮(にちれん)は腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる。

このとき左衛門尉・四条金吾/頼基(しじょうきんご/よりもと)がお供をし、日蓮(にちれん)の刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。

処刑を免れた日蓮(にちれん)は十月、評定の結果佐渡へ流罪と決する。

日蓮(にちれん)は流罪中の三年間に「開目抄」「観心本尊抄」などを著述し、法華曼荼羅を完成させた。


日蓮(にちれん)の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わる。

その事から、日蓮(にちれん)の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考える事が一般的である。


千二百七十四年(文永十一年)春に、日蓮(にちれん)は赦免となり、幕府評定所へ呼び出される。

「撰時抄」に依ると、北条宗家執事・平頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮(にちれん)は「よも今年はすごし候はじ」と答える。

同時に日蓮(にちれん)は、「法華経を立てよ」という幕府に対する三度目の諌暁(かんぎょう/いさめさとす)をおこなう。

その後日蓮(にちれん)は、幕府御家人で身延一帯の地頭である南部(波木井)実長(なんぶ/はきいさねなが)の招きに応じて身延入山し、身延山を寄進され身延山久遠寺を開山する。

千二百七十四年(文永十一年)、日蓮(にちれん)が予言してから五か月後に「文永の役」と名付けられる蒙古襲来が起こる。


あくまでも信仰に有り勝ちな伝承が、ここに在る。

千二百七十七年(建治三年)九月、身延山山頂からの下山中、日蓮(にちれん)がお弟子一同に説法をしていた所、それを聞いていた七面天女が現れる。

七面天女は、その場の皆に自己紹介をし、さらに竜の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし感激させたと伝えられている。

つまり、疑惑の聖徳太子実在説と同様に、宗教的伝承に過ぎないのだ。


千二百七十九年(弘安二年)九月二十一日、日蓮宗信者内で内紛が起こる。

日弁・日秀派の駿河・熱原神四郎(あつはらのしんしろう)等二十人が、滝泉寺院主代・行智等に讒(ざん/陥れる為の告げ口)せられ鎌倉に送らる。


千二百八十一年(弘安四年)、弘安の役と呼ばれる蒙古軍の再襲来が起こる。


日蓮宗の一部では、日蓮上人が「蒙古襲来(元寇)を言い当てた」や「上人の法力で神風を吹かせ蒙古軍をせん滅させた」と言う信仰上の言い伝えも存在する。

しかし日蓮上人が、蒙古襲来(元寇)を言い当てたのだって、なにも上人の法力の為せる技では無い。

当時の東アジア情勢と鎌倉幕府執権・北条時宗(ほうじょうときむね)が、蒙古への服属を求める内容のフビライ・ハーンの国書を拒否(きょひ)していたのだから、憶測は着く。

そして勿論、蒙古襲来(元寇)時に蒙古軍がシケ(暴風)に拠って大打撃を受けた神風(かみかぜ)だって自然現象で、日蓮上人の法力ではない。


千二百八十二年(弘安五年) 九月八日、日蓮(にちれん)は病を得、庇護者である地頭・南部(波木井)実長(なんぶ/はきいさねなが)の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山する。

身延下山から十日後の九月十八日、日蓮(にちれん)は武蔵国・池上宗仲(いけがみむねなか)邸(現在の本行寺)へ到着する。

日蓮(にちれん)は池上氏の館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名する。

十月八日、日蓮(にちれん)は死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。

この後継者と定めた弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる。

十月十三日辰の刻(午前八時頃)、日蓮(にちれん)は池上宗仲邸にて六十一歳で死去する。

日蓮(にちれん)終焉の地・池上宗仲邸は現在、大本山池上本門寺となっている。


第二巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2016-10-01 14:01 | Comments(0)