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鉄砲(種子島)

「火蓋を切る」の言語由来は火縄銃から来ていて、「火蓋」とは火縄銃の火皿の蓋を指し、「切る」はその火皿の蓋を開ける事を言う。

火縄銃で弾を撃つ為には「火縄の火」を火薬に点火をする為に火蓋を開き射撃体勢に入る事で、その事から戦いを始める事を戦いの「火蓋を切る」と言うようになった。

その後、この「火蓋を切る」から意味が派生して、様々な物事の着手や行動の開始を「火蓋を切る」と表現する言い回しになった。

その火縄銃を多用し、今一歩で天下を取る所まで迫ったのが天下の大虚け者(おおうつけもの)・尾張の織田信長だった。

織田信長が九歳の千五百四十三年(天文十二年)、新兵器の鉄砲は島津領・大隅国(鹿児島県)種子島・西之浦湾に漂着した中国船に乗っていたポルトガル人によって種子島に伝えられた。

種子島々主(種子島領主)である種子島恵時・時尭親子がそのうち二挺を購入して刀鍛冶の八板金兵衛に命じて研究を重ね複製作りに成功する。

鉄砲を初めて使用したのは薩摩の戦国大名・島津貴久で、伝来から六年後の千五百四十九年(天文十八年)に「城攻めに使われた」とされている。

その頃種子島に在島していた泉州・堺の商人・橘屋又三郎(鉄炮又)と、楠木氏一族の末裔を名乗る紀州・根来寺の僧兼武将(根来衆(ねごろしゅう))・津田算長(かずなが/さんちょう)が本土へ持ち帰り、根来西坂本の刀鍛冶・芝辻清右衛門妙西に複製を命じてこれに成功している。

芝辻清右衛門妙西は泉州・堺に移住して本格的に鉄砲製造に取り掛かり、隣接する雑賀郷の雑賀衆棟梁・雑賀孫市ら傭兵集団もこれに注目、早くから「三千挺を所有していた」とされている。

火縄銃が種子島に漂着したポルトガル人に依って伝えられて六年後の千五百四十九年(天文十八年)の頃には、近江国の鍛冶師・国友も鉄砲作りに成功していて、鉄砲に目をつけた十五歳の織田信長が五百挺の鉄砲を国友に注文した記録が残っている。

千五百五十三年(天文二十二年)織田信長は正室・帰蝶(濃姫)の父・美濃国主の斎藤道三との四年越しの初対面の行列に、雇い入れた雑賀衆の鉄砲隊で水増しした大鉄砲隊を引き連れて行き、道三が掴んでいた情報の五百挺を遥かに凌ぐ隊列に「道三の度肝を抜いた」と言う逸話が残っている。

その後の千五百七十三年(天正元年)、越前・朝倉義景とのいざこざに織田信長(おだのぶなが)の妹・市(おいちの方)との婚儀により義兄弟の同盟関係と成ったにも関わらず朝倉方に組した近江・浅井長政を滅ぼした信長は、鉄砲鍛冶匠・国友の支配権を手に入れて、鉄砲の大量生産を命じている。

鉄砲を大量に手に入れた織田信長は、千五百七十五年(天正三年)の長篠の合戦で三千五百挺の鉄砲を使用し、武田軍に圧勝している。

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by mmcjiyodan | 2009-01-02 15:24  

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