加賀・前田藩
これには、ひとえに藩祖夫婦の功績に拠る所が大である。
藩祖・前田利家は、若き織田信長に近習(小姓)として仕え、織田信長の男色(衆道)寵愛を受けて信長側近から腹心の一人として出世し、加賀百万石(加賀藩百十九万石)の太守に成った男である。
前田利家は尾張国海東郡荒子村(愛知県名古屋市中川区)の土豪・荒子前田家の当主である前田利昌(利春とも)の四男として生まれ、幼名を犬千代と言った。
千五百五十一年(天文二十年)に十四歳で織田信長に近習(小姓)として仕え、元服して前田又左衞門利家と名乗った。
この二年前に織田信長が十六歳で濃姫(帰蝶)を娶っているから、利家が織田家に出仕した頃の信長は利家より四歳年上の血気盛んな十八歳になる。
この頃前田利家は、信長とは衆道(同性愛)の関係にあり、「武功の宴会で信長自らにその関係を披露された」と加賀藩の資料「亜相公御夜話」に逸話として残されている。
血統第一だった当時、血統に弱い者が「能力以上の成果を上げたい」と思えば、「縁」に頼るしかない。
女性(にょしょう)には妻に成るなり妾にあがる成りの誓約(うけい)の「縁」があるが、男性には身内の女性を介しての「間接的な縁」でしかないのでは誓約(うけい)としての「縁」が弱過ぎる。
誓約(うけい)の概念に置いて、絶対服従の具体的な証明は身を任す事である。
そこで室町期から戦国期に掛けて君臣間の誓約(うけい)、衆道(同性愛)が盛んになった。
そう言う意味において、「稚児小姓」として権力者の寵愛を受ける事は、むしろ武士として「潔(いさぎよ)い行為」なのかも知れない。
信長に「男色(衆道)の寵愛を受けて居たから」と言って利家は軟弱者では無く、槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれ、信長近習として萱津の戦いに十五歳で初陣、織田家の権力闘争である稲生の戦いでも功績を上げ、加増を受けて信長・親衛隊「赤母衣衆」となる。
加増により家臣を召抱えるまでに成った前田利家は、二十一歳の時に身近から嫁(正室)を娶る。
前田利家の正室は篠原一計の娘・「まつ」である。
母が利家の母の姉である為、利家とは母方の従兄妹関係にあたり、母が尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚すると「まつ」は母の縁で利家の父・前田利昌に養育される事になる。
千五百五十八年(永禄元年)、「まつ」は養育先で同居していた荒子前田家・利昌の四男・利家に数えの十二歳で嫁ぐ。
この二十一歳の頃に十二歳のまつを娶った前田利家だったが、その翌年に同朋衆の拾阿弥と争いを起こしてこれを斬殺、罪を問われて出仕停止処分を受け、二十四歳までの二年間浪人暮らしをする。
その間に出任停止されていたにも関わらず「桶狭間の戦い(永禄三年)」で信長に断りもなく合戦に参戦して功績を上げたが、信長は帰参を許さず「利家の忠誠心を試した」と言われている。
衆道(男色)関係は戦国期の忠実な主従関係の信頼性を担保する誓約(うけい)の習俗で、支配・被支配の思慕感情を育成する事から、若い頃の前田利家(まえだとしいえ)が罪に問われ城を追われ二年間浪人暮らしをしても、主(あるじ)・信長への思慕交じりの忠誠心は揺らがなかった。
漸く帰参を許された前田利家は、永禄十二年(千五百六十九年)に信長の命により前田氏・長男である兄・利久が継いでいた家督を継ぐ事になる。
前田利家は織田信長の「天下布武」に従い、姉川の戦い、長島一向一揆、長篠の戦いなどに母呂衆や馬廻り役の本陣親衛隊として参戦しているが、攻め手の役ではなく大きな武功も立てる機会が無かった。
その後の利家は、もっぱら柴田勝家の属将として主に北陸方面を担当し、一向一揆の平定や上杉謙信の上杉勢と戦っている。
そうした経緯から柴田勝家と親しく、本能寺の変で信長が家臣の明智光秀により討たれ、清洲会議において羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が対立した時、柴田勝家に与力して従った前田利家だった。
所が、前田利家の正室・まつ(芳春院)は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の正室・おね(ねね/北政所/高台院)とは懇意の間柄であった事は有名である。
利家の方が秀吉より二歳ほど年下だったが、元々前田家の本拠地・尾張国荒子と秀吉の生家・尾張国中村は近接地で地縁者も多く、互いに出世した安土城々下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣同士に秀吉・おね(「ねね」とも言われる)夫妻が住んでおり、秀吉婦人・おねと利家婦人・まつは毎日のように「どちらかの屋敷で話し込んでいた」と言う間柄だった。
当然亭主同士も懇意になり、柴田勝家方として出陣はしても、旧交があった秀吉との関係にも苦しんだ。
この事が後の賤ヶ岳の戦いで兵五千を布陣していた前田利家の突然撤退、柴田方総崩れの羽柴軍勝利を決定づける下地になっていた。
【佐久間盛政(さくまもりまさ)と賤ヶ岳の合戦】に飛ぶ。
この利家の突然撤退の決断が、後の加賀百万石を産んだ事になる。
賤ヶ岳の合戦に勝利した羽柴秀吉は天下をほぼ手中にすると、前田利家に佐久間盛政の旧領・加賀の内から二郡を与え、二年後には嫡子・前田利長に越中が与えられ加賀、能登、越中の三ヵ国の大半を領地とした加賀・前田藩百三万石の大藩が成立、利家は豊臣政権の五大老の一人となる。
豊臣秀吉が病没して後、実力者・徳川家康の天下取りの野望の抑えに注力した前田利家も病で秀吉の後を追うと、前田家討伐の好機とばかりに家康による加賀征伐が検討される。
この時戦国の賢婦人と名高いまつは、夫・前田利家の没後芳春院を名乗って息子・利長を守り立て加賀藩を影に主導している。
前田家二代当主・前田利長は最初は家康と交戦する積りで城を増強したりなどしていたが、母の芳春院が人質になる事を条件に家康を説得、加賀征伐撤回させる事に成功して、前田家当主・前田利長は家康に恭順して生き残った。
当時前田家は大藩で、家康としても事を構えれば同調者も現れる可能性まで読めば例え勝利しても厄介だった為、芳春院(まつ)の提案を受け入れたのだろう。
豊臣家五奉行の一人石田三成と五大老の一人徳川家康が対立して関ヶ原の戦いが起こる。
関ヶ原の戦いに際して前田家は、長男・前田利長が東軍、次男・前田利政が西軍に分かれて生き残りを図り、東軍の勝利で前田利長が百万石を越える所領を得、分家所領を入れると約百二十万石の大藩・前田家を形成し、江戸期に唯一外様の百万石越えの藩を永らえた。
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注意)、本書でも便宜的に使用しているが、実は「藩(はん)」と言う呼称は江戸期を通じて公用のものではなかった。
従って江戸初期から中期に掛けての時代劇で「藩(はん)や藩主(はんしゅ)」の呼称を使うのは時代考証的には正しくは無い。
幕末近くなって初めて「藩(はん)」と言う俗称が多用され始め、歴史用語として一般に広く使用されるようになったのは維新以後の事である。
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