田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治
事実を端的に言ってしまえば、「田沼意次の改革」は大商人を肥えさせただけだった。
何やらこの江戸幕府・田沼時代、現代のどこぞの政権の「IT企業だの、何とかファンド、偽装に条例違犯、儲けさえすれば手段は構わない」と言う風潮を増長させた「規制緩和」と言う名の「平成の失政によく似ている」と思うが、いかがか?
そして今、残念ながら「田沼意次の改革」と同様の大企業(大商人)を肥えさせるだけの政治家が、「なんとかミクス」と国民を騙しながら「財政出動」とかで赤字国債の残高を増やし続け、株価維持の為に年金積立金を株式市場に注ぎ込んでいる。
その彼は、田沼意次同様に歴史に悪政の名声を残す可能性が強いと思われる。
田沼意次(たぬまおきつぐ)はその父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)と親子に第二に渡っての成り上がりで、最後は老中職まで上り詰めた男である。
父・田沼意行は紀州藩の足軽だったが、第八代将軍の徳川吉宗に登用され六百石の小身旗本となる。
その継子・田沼意次は、父・田沼意行(おきゆき/もとゆき)が小身旗本だった為に徳川家重の西丸小姓として抜擢され、その主君・家重の第九代将軍就任に伴って本丸に仕え、余程寵愛されたのか千四百石を加増されて計二千石、その後三千石を加増されて計五千石の大身旗本に出世、更に美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)の裁定に関わって、御側御用取次から一万石の大名に取り立てられる。
主君・徳川家重は千七百六十一年に死去するが、世子の徳川家治が第九代将軍を継いだ後も田沼意次への信任は厚く、昇進を重ねて五千石の加増を賜って一万五千石、更に御用人から側用人へと出世し従四位下に進み二万石の相良城主、千七百六十九年には老中格の侍従に昇進する。
力を着けた意次は、老中首座である松平武元などと連携して所謂「田沼時代」と言われる幕政改革を推し進め、田沼時代と呼ばれる権勢を握るに到る。
意次はその三年後の千七百七十二年には、相良藩五万七千石の大名に取り立てられ将軍侍従と老中を兼任している。
この「田沼時代」の施策が、商工業を活発にさせて「景気浮揚をさせよう」と言う、言わば日本にとって「初期資本主義」とも言うべきもので、幕府の財政は改善に向かい、景気も良くなるのだが、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄して都市部へ流れ込んだ為に農村の荒廃が生じてバランスが崩れ、現代日本で「大問題」とされている地域格差や限界集落的な様相を呈し、なお世の中が金銭中心主義になって贈収賄が横行する結果と成って田沼政治への批判が高まって「一揆・打ちこわしの激化」と成って行ったのである。
田沼意次の施策評価も立場が違えば評価は分かれる所で、ハーバード大学のジョン・ホイットニー・ホールが、その著書「tanuma Okitsugu」に於いて「田沼意次は近代日本の先駆者」と高評価しているが、これを逆説的に読むと、田沼意次が「市場原理主義」の「米国型勝った者勝ち」の近代経済手法の「さきがけ」と言えるのかも知れない。
つまり田沼意次の施策評価は、米国の「市場原理主義」の評価と重なって来るのだが、その米国型市場原理主義を「優」と評するか「不可」と評するかの結果は、そう遠くない時期に出そうである。
まぁ、他の失敗改革と唯一成功した八代将軍・吉宗の「享保の改革」との根本的な違いは、庶民を安心させる事に心を砕いた施策で在ったかどうかで、役人や政治家は上から目線で庶民から絞り取ろうとするのは「持っての外」で、痛みを伴うのが役人や政治家からでは無いから失敗するのである。
関連記述
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【享保の改革(きょうほうのかいかく)】に戻る。
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皇統と鵺の影人
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